クイーンのフロントマンであるフレディ・マーキュリーは新たな伝記で隠し子の娘がいたことが指摘されている。
『ラヴ、フレディ』と題された本書はフレディ・マーキュリーの生涯を掘り下げたもので、隠し子の娘は1976年に親友の妻との情事で期せず授かることになったと述べられている。
フレディ・マーキュリーは1991年に亡くなるまでその子と親密な関係を保ち、定期的にその子を訪ね、17冊に及ぶ詳細な個人的な日記をその子に渡したが、それは秘密にされてきたという。
本書を通して「B」という名前で表記されたこの女性は現在48歳で、医療専門家として働いており、受け継いだ日記を著者のレスリー=アン・ジョーンズと共有したことが明らかになっている。
『デイリー・メール』紙によれば、本書ではBが30年を経て日記の内容を他者に公開した理由についても記されている。「30年以上に及ぶ嘘や憶測、歪曲を経て、フレディ・マーキュリーに語らせるべき時が来たのです」
「私の存在を知っている人たちはフレディ・マーキュリーへの誠実さから彼の最大の秘密を守ってきました」とBは述べている。「中年になって自分自身の存在を明かすことにした理由は私が一人で決めたことです。一切こうするように強要されたことはありません」
「彼はプライベートなノートブックを唯一の子どもで、近親者である私に託しました。私的な考え、思い出、経験したことに感じたことが記録されています」
Bの存在についてはフレディ・マーキュリーの側近だった人物だけが知っていたと考えられている。
「生まれた瞬間から彼の人生における最後の15年間を通して、私たちは親密で愛情深い関係でした」とBは手書きの文書で述べている。「彼は私を慕い、尽くしてくれました。私が生まれた経緯は、多くの人の基準からすれば、普通ではない、不埒なものなのかもしれません」
「それは驚くべきことではありません。だからといって、私を愛し、面倒をみるという彼の決意が損なわれることはありませんでした。彼は私を宝物のように扱ってくれました」
レスリー=アン・ジョーンズは3年前にBから初めて連絡を受けたとのことで、『デイリー・メール』紙に次のように語っている。「直感ではすべてを疑いましたが、彼女が間違いなく夢想家ではないことは分かりました」
「これをすべて捏造できる人などいません。なんで彼女は何も要求することなく、私と3年半も一緒に取り組んでくれたのでしょうか?」
フレディ・マーキュリーは妊娠を知った1976年6月20日から日記を書き始めたとされている。日記ではパールシー・インディア人の両親のもとファロク・ブルサラとして生まれたザンジバルでの幼少期や、インドで英国式の寄宿学校に通った経験についても書かれている。
1964年の革命で一家がザンジバルから逃れることを余儀なくされ、ロンドン北西部のミドルセックスに定住するまでの経緯も日記では綴られている。
最後の日記は健康状態が悪化する中で1991年7月31日に書かれたものとなっている。フレディ・マーキュリーはエイズを原因として気管支肺炎のために享年45歳で亡くなっている。
クイーンについては先日、ブライアン・メイが昨年の心臓発作のせいで感じた二度とギターを弾けない恐怖について語っている。「それは頭をよぎったよね。左手のコントロールが効かなくなって、本当に怖かった。どうなるか分からなかったんだ」
「医師に電話したら、彼女は『分かりました。軽い心臓発作だと思います。999に電話して、救急車に乗ってください。そこで会いましょう』と言ってくれた。最悪の時でも腕は動かせなかったけど、指は動かすことができた。それで『おそらく危険な状態ではないだろう』と思った。今はもう大丈夫。ゆっくり対処しているところなんだ」