『ランディ・ローズ』監督アンドレ・レリス インタビュー

25歳の若さで天国に旅立った、あの悲劇から40年。オジー・オズボーンに最も愛された天才ギタリスト、栄光と哀しみの物語『ランディ・ローズ』公開初日に合わせてアンドレ・レリス監督が来日し、インタビュー取材を行った。彼が描くドキュメンタリーとRandy Rhoadsへの想いを語ってもらった。

ーアンドレ・レリス監督は過去に日本へ訪れていたそうですね。

家族旅行で訪れたのが最初だ。父が政府関係者だったのもあって、中国・台湾・フィリピン・タイ・日本とアジアを旅行したんだけど、その中でも日本に縁を感じて「もう1度日本へ連れて行ってくれ」と親にねだったんだ。けれども、簡単なことではなかったからTaco Bellでアルバイトをすることにしたよ。実は今夜も会うんだけど、ちょうど父の友人が日本に住んでいて「もし、息子さんが日本に来たいのなら住まわせてあげるよ」って言ってくれたんだ。それで14歳の夏に、そのバイト代で日本へ行くことができたんだ。ただ、程なくしてその家から追い出されてしまって、新宿のホテルに1週間、その後は知り合った人の家に寝泊まりして、最後は群馬県の前橋にいたよ(笑)。日本で14歳の少年にはとてもクレイジーな体験をしてきたから、L.Aの空港に母親が迎えにきてくれたとき、あまりのフリーダムさに「どうしたんだ、この子は」って顔をされたよ(笑)。

ー(笑)。日本はアメリカから来た14歳のあなたにとって、そんなに自由を感じられたのですか?

例えば、アメリカでは飲酒は21歳からだけど「日本では自動販売機でお酒が買えるんだぜ」って、当時は友達に自慢していたよ。

ーそんな少年時代から、如何にして映像に携わるようになったのですか?

バンド活動をしていたことから始まっているんだ。そのバンドはインディーレーベルと契約をしていたんだけど、1998-2000年にかけて各地にツアーでまわっていたから、定職に就くことができなかったんだ。そんなとき、レーベルのオーナーがFOXスポーツで仕事をしていた関係で「仕事がしたいならテレビの仕事をやってみないか?」と誘ってくれたのがきっかけで映像の仕事に入るんだ。最初はもちろん、様々なテレビ制作のアシスタントからやっていたんだけど、新たに音楽を中心とした番組が始まることになって「音楽を知っている君ならプロデューサーをやれるはずだ」と白羽の矢が立って、プロデューサー業に転じるんだ。その後はディストリュビーション業や様々な映像会社を渡り歩いて、13年前にVMI Worldwideを立ち上げることになったんだ。

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