ビースティ・ボーイズのマイクDとアドロックは新たなロング・インタヴューの中でアダム・“MCA”・ヤウクの死や破産との闘いについて語っている。
新刊の『ビースティ・ボーイズ・ブック』のプロモーションのために『オブザーヴァー』紙の取材に応えた2人は2012年にガンで亡くなったアダム・ヤウクの死について「ものすごくつらかった」と語っている。
アダム・ヤウクの死について書くということについてマイクDは次のように語っている。「大変だったね。ものすごくつらかったことだからね。友人であり、パートナーである人間を失うこと、しかも、ああいった形で失うことを経験することになるなんて予想していなかった。今も悲しいよ」
「あれを乗り越えて、何が書けるんだっていうね。ああした時期について何を書けるんだってさ。おかしな経緯でさ。みんな、自分を見失ったりすることもあった。言えることは、そう、あの人が惜しいということだけだったね」
ロング・インタヴューの中で2人はビースティ・ボーイズの歩みについて振り返り、1986年にデビュー・アルバム『ライセンス・トゥ・イル』をリリースした後、無一文で、ほとんど喋らなかったことについても触れている。
ビースティ・ボーイズはスタジオに強制的に戻らせようとしたデフ・ジャムのラッセル・シモンズと衝突したという。「ラッセルはスタジオに行かないなら、支払をしないという感じでさ」とマイクDは語っている。「彼の読みとしては俺たちが『分かった。大金はほしいからね。よし、ラッセル、やることにするよ』って言うと思ったんだろうけど、俺たちはすぐに『クソくらえ』ってなったんだよね」
「うまくいってなかったら、87年に解散してたよ。俺たちはリック・ルービンやラッセル、デフ・ジャムからは金をもらわなかったんだ。そんなの、まともじゃないよね」とアドロックは語っている。
現在では名作とされている1989年発表のセカンド・アルバム『ポールズ・ブティック』が最初はセールス的に失敗してから復活するまでについては次のように語っている。
「あれはうまくいかなかったわけだけどさ。長く立ち止まることも、セラピーに行くこともなかった。でも、おかしな状況だったんだ。というのも、アルバムがうまくいかなかったら、ツアーに行くこともなくてね。それで、自宅で『チェック・ユア・ヘッド』を作り始めたんだ」とマイクDは語っている。
インタヴューの他の部分でアドロックは自分たちの音楽について「変で、ポップじゃないのに、なんで多くの人が俺たちのアルバムを買ってくれたのか分からないよ」と語っている。
マイクDは従来型の音楽伝記ものとは一線を画すものにしようとしたことについて次のように語っている。「この本はどこもすごくシリアスなものなんだけどさ。でも、バンドにいると、大抵は正直なところ、不条理なコメディみたいなもんなんだよ」