ARABAKI ROCK FEST.15 菅 真良インタビュー

今や春におこなわれる、音楽フェスティバルの代表と言える「ARABAKI ROCK FEST.」。”陸奥””鰰”“津軽””荒吐””花笠””磐越”と、東北各地の地名を使用したステージ名が象徴するように、東北地方に根付いたこの音楽フェスティバルは、今年で15周年を迎える。
動員数は年々増加の一途を辿る一方で、その道のりは決して順風満帆な開催をしてきたわけではない。
開催の度に直面する問題に、主催側として幾度となく解決をし、出演するアーティストは元より、開催場所の地域の方々や参加するオーディエンスの協力があって、現在に至ったのだとARABAKI PROJECTの菅 真良は語ってくれた。
本インタビューでは、「ARABAKI ROCK FEST.」の歴史を紐解くとともに、これまで参加したあなたも、これから参加するあなたも、是非この15周年を盛大に祝って、今年の「ARABAKI ROCK FEST.」を一緒に作り上げて欲しい。

失敗から生まれた発見

—まず最初に「ARABAKI ROCK FEST.」開催のきっかけからお教えいただけますか?

そうですね、何処をきっかけにするかにもよるのですが、開催をしようと構想したのは、約20年くらい前なんです。それは同時に、僕がこの仕事をしようとしたきっかけでもあるんですけど、スポーツランドSUGOという場所で、”ロックンロールオリンピック”が開催されていたんです。学生の頃から憧れていて、コンサート・プロモーターとしての仕事に就いたんですけど、94年に終わってしまったので、自分が出来るタイミングでやりたいと思っていたのが、それにあたると思います。

—当時の仙台を代表する、ロック・フェスティバルの終焉がきっかけとなり、またその開催タイミングが2001年だったんですね。その構想を具現化して行くにあたり、第1回目の開催地は夢メッセみやぎを選ばれました。

実は開催の3年前になりますが、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTが日本初のアリーナ・クラスでオールスタンディングツアー(WORLD PSYCHO BLUES TOUR)をワッセ仙台という、今はフットサル等をする会場で開催していたんです。いざ本番が始まると、予想以上の会場内でのエネルギーで、物凄い揺れが起こって、そのまま続けられる状況ではなくなり、3曲くらいで中止にしたことがあったんです。

—安全面を考慮しての決断ではあったんですよね。

はい。ただ、地方最後の公演で、あとは横浜アリーナのみだったので、そのツアーを締めれずにいたんです。元々12月19日が開催だったんですけど、振替公演の場所を探したら、ちょうど1ヶ月後の1月19日に、夢メッセみやぎを「とうほく蘭展」が貸し切って、開催される予定だったんですが、ご好意でスペースの1/3をお貸しいただけることになったんです。だから、蘭展の隣でTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTがライブをしたんです(笑)。

—無事、振替公演が出来たという(笑)。

ただ、当時の音響設備で考えると、あの場所は天井が高いので反響音がすごいんです。残響測定をしても明らかで、夢メッセみやぎでのコンサートは、それまでも不可能だったんです。それが、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのライブをきっかけに、ヨーロッパのPAシステムを買い取った会社があって、それを使用したらちゃんとコンサートが成立したんです。

—なるほど。敬遠・不可能とされてきた施設での開催が、このタイミングで見えてきたんですね。

そうです。当時の音楽業界は、PAシステムを倉庫のような場所で活用するなんてことは皆無だったんですけど、例えば幕張メッセのような、大型の場所でも開催できることが分かって。それで、振替公演が終わってTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの当時マネージャーだった能野哲彦さんから、「ここで大きなイベント立ち上げたいんだったら、やればいいよ。」っていう一言が第1回目に繋がりましたね。

—後の屋内での音楽イベント開催へも、大きな影響をもたらした出来事とも言えますね。

中止になったコンサートにいらっしゃっていた方には、とても辛い思いをさせてしまったので、素直に喜べないですが、失敗から生まれた発見ではありましたね。

—そういった会場のクリアと共に、第1回目の開催は日本の音楽フェスティバルでは、中々見られないコンテンツが用意されていましたね。

僕がこの仕事を始めて10年で、仙台で続けられる音楽フェスティバルの開催を出来たんですけど、それまでに色んな景色を観てきたんです。1番影響を受けたのが、97年に行った「New Orleans Jazz & Heritage Festival」ですね。花田裕之(THE ROOSTERS/ ROCK’N’ROLL GYPSIES)さんのライブ打ち上げで「ニューオリンズに1度行ってみたらいいよ、俺も行ってるから。」と、突然言われて「じゃあ行ってみよう」と軽い気持ちで行ったんです。

—1人で行かれたんですか?

はい、僕が23歳の頃ですね。しかも英語が話せないので結局、花田さんとは会えず(笑)。でも、ちゃんと堪能して、刺激を持ち帰って来ました。

—具体的には、どのようなことが影響・刺激となったのでしょうか?

2つあって、1つは街全域で音楽産業を誇らしくしていることです。極端なことを言えば、音楽がなければ何も出来ないというくらい、音楽愛を街中で感じました。もう1つは、地元の音楽スターで、そのフェスティバルが成立するところです。一番大きいステージで、ネヴィル・ブラザーズの後に、フレンチクオーターで普段働いているようなおっちゃんが組んでる、ビッグ・バンドが大トリだったんですけど、凄く盛り上がってましたね。

—それがみちのくプロレスや在仙ミュージシャンの起用等に繋がったんですね。例えばSXSWのように、ある一定期間だけではなく、常にその地域の文化として根付くものを目指したと?

東北流にアレンジしたのが、第1回目の内容ですね。SXSWも2回行きましたが、New OrleansとSXSWで醸し出される雰囲気や温度は、全く違いましたね。

東北であることに重きを置きたい

—気軽さや、言葉を言い換えると音楽があることは普通であるようなイベントを目指したと。その目指した1年目をどう評価されましたか?

1年目を振り返った答えとしては、開催した自己評価や興行収益を含め、概ね良かったことはありますが、一方で夢メッセみやぎでの開催に不自然さを感じていました。たまたま、雨風を凌げる場所と併設された建物があったのを1日レンタルをするということ自体に、全てその不自然さが表れてしまいましたね。

—不自然さを解消するため期間が、2002年のイベントサーキットであった?

そうです。当初、僕や会社が想像していた手応えを得られないまま、有耶無耶に2年目を迎えるよりも、たくさんのエネルギーとアイディアを充電して、納得のいく場所でやりたかったのがその答えですね。

—その前段として、多賀城ブルース・津軽ギター・多賀城SUNSET・鰰の叫ぶ声と、東北に因んだ名称もこのタイミングでありましたが、この構想は第1回目以降に菅さんのアイディアであったものですか?

東北であることに重きを置きたいと、ずっと思っていました。僕自身も福島出身なんですけど、東北の人たちが愛着を持てるようなことをやりたいと思って、サーキット名称にしましたね。

—サーキットとはいえ、宮城のみならず、青森、秋田を含めた理由もそこにあるんですね。

それもありますが、応援してくれる人が青森と秋田に多かったんです(笑)。実は「ARABAKI ROCK FEST.」の”ARABAKI”は僕がつけたんじゃないんですよ。

—えっ?そうなんですか?

昔、秋田で音楽情報誌をやっていらっしゃった方がいまして、その方と立ち上げの際に色んなキャッチボールをしていたんです。そのときに、「こういったことを目指すのであれば、”荒吐”って言葉が合うんじゃないか?」と、その方の習字の先生が書いた”荒吐”という紙と共に持ってきてくれて、今に至っています。現在のロゴは、そのときの1枚しかない紙のものなんです。

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