ARABAKI ROCK FEST.15 菅 真良インタビュー

春に開催すればいい

—2003年には多賀城での開催となりました。ここは第1回目にあった”不自然さ”への答えとして、納得のいく場所となったのでしょうか?

実は、その年に偶然出会った方のコミュニティーから話が生まれたんですが、第2回目は多賀城市との共催だったんです。多賀城市の人口では珍しいことだったと思いますが、当時はまだ実績のないイベントにもかかわらず、共催を買って出ていただいて。また、ARABAKIの原型となった荒吐族を祀った神社が多賀城にあるので、場所として選んだ理由の1つではありますね。

—特に、屋内から屋外へという部分については、第1回目との大きな違いでもありますね。

そうですね。レイアウト上、線路を跨いでの移動等、安全管理上の問題もあったと思いますが、生活に根付いた音楽フェスティバルを開催したかったのと、小学校の裏庭で有料コンサートを開きたかったので、不自然さは前回に比べ解消されたと思います。

—菅さんが1番影響を受けられた、「New Orleans Jazz & Heritage Festival」の景色に近づくことができたんですね。

しかし、興行収益面等で課題が残ったのも事実ですので、結局は1度きりの開催地となってしまいましたね。

—翌年、「荒吐宵祭」というイベント形式になった理由も、そこにあるのでしょうか?

正直、2002年・2003年と蓄積された失敗が、大きく影響をしていたんです。さらに、きちんと他にはないコンセプト決めもする必要がありましたし。それをずっと考えていたときに、札幌のマウントアライブの山本さん(初代RISING SUN ROCK FESTIVAL:プロデューサー)が、ACIDMANの仙台公演をたまたま観に来られていたときがあったんです。その夜に、コンセプトも含めた僕の悩みを話していたら、「春に開催すればいいんじゃない?」って言われたんです(笑)。

—唐突ですね(笑)。

そうです(笑)。僕はそれを聞いて良いと思ったし、その理由があって「New Orleans Jazz & Heritage Festival」は4月の最終末と5月の初週末開催だったのと、何より春に誰も開催していなかったんです。

—なるほど。根本的な思想や問題点を含め、開催時期を変えることが解決の糸口に?

何故、うまく行かなかったかというと、既にいくつもの音楽フェスティバルがあった中で、同じように東北で夏の開催をしても、アーティストが集まらなかったのが理由ですね。それから、春に向けた開催をするにあたり、調整すべきことや懸念点の洗い出し等で、翌年の開催が間に合わないという判断をして、2004年の荒吐宵祭は秋の開催にもかかわらず、アイコンも桜にして、その発表の場にしたんです。

—それは感謝祭的な意味合いを持っていたでしょうし、アイコンも含め、荒吐SUPER SESSIONを大トリで行ったことも、春の開催に繋がるようにされていたんですね。

そうですね。荒吐SUPER SESSIONはシアターブルックにお願いしたんですけど、僕は根っからの東北人なので、ステージ上に登壇して何かを話すのはあまり好きではないので、佐藤タイジさんに「アンコールの1番最後にこれを話してください」と、紙をお渡しして代弁してもらったんです。おっしゃるように、感謝祭的な意味合いといしては、シアターブルックを始め、人気がある音楽フェスティバルではなくても、理解を示してくれたアーティストに対して「この先も一緒に盛り上げて行きたい」という、恩義も込めた意味合いもありましたし、2004年はどうしてもやりたかったんです。

—今もそうですがが、the pillows、斉藤和義、GRAPEVINE…挙げれば数多くのアーティストが賛同されていて、この関係性が続いていますよね。

これまでご出演いただいたアーティストの方々には、本当に助けられましたし、 こうやって続けてこれたのは、その理解があってこそでしたね。

理想の入り口がやっと見えた

—そして、満を持して2005年には前夜・後夜を含め、3日間の開催となりました。

実は3日間なんて予定になかったんです(笑)。最初は1日で準備をしていたんですけど、その時点で応援してくれる人(アーティスト)が、びっくりするぐらい増えたんです。1日の野外4ステージでは、とても収まりきれなくなっていて、歩いて5分の場所にaccel HALLがあったので、そこも使用することで解消をしました。

—それで一気にステージ数が増えたんですね。

結局それでも収まらなくて(笑)、前夜と後夜を開催することに決めたんです。春に開催することが、アーティストの皆さんにとって、新しいものが生まれる予感をさせたんだと思えたことでしたね。

—と同時に、これまでの懸念や問題点が大幅に解消された事柄とも言えますよね。また、とうとうステージ名に”多賀城””鰰”“津軽””荒吐”が名付けられました。

それは最初の年に目指した、理想の入り口がやっと見えたからですね。そのタイミングになるまでは、東北の地名にちなんだ名称は、使用しないでおこうと思っていましたから。

—逆に理想に必要な要素でもあったからですね。そして、忌野清志郎さんも初登場となりました。

今の話に通じますが、元々は「New Orleans Jazz & Heritage Festival」で影響を受けたように、アイコン的アーティストが必ず出演して、継続していく音楽フェスティバルを目指していましたから、2003年の時点で清志郎さんに「その(アイコン的)位置になって欲しい」と相談していたんです。もし、2004年の夏に悶々としたままの開催をしていたら、大トリは清志郎さんの予定だったんですけど、開催をやめたので2005年にそのまま引き継いでいただきましたね。

—先程、”理想の入り口”という表現をされましたが、開催地や数多くの出演アーティスト、来場者数を鑑みると、1つの”理想の成功”とも言い換えられると思うのです。その成功があった上で、現在の開催地となるみちのく公園とエコキャンプみちのくに移動となったのは、どういった理由があったのでしょうか?

実は2005年の開催時には、仙台港が翌年の使用が出来ないことをわかっていたんです。なので、開催と同時に次の開催場所を探していたのですが、山形や福島での候補があったくらいで、当時の選択肢にはなかった場所でした。それで、やはりたまたまなんですけど、みちのく公園は昔からやってる南側のエリアと、今は全面オープンしている北側のエリアとあるんですが、その北側のエリアオープンが2006年ということを聞いたんです。

—開催時から続いていますが、偶然の出会いが多いですね。

下見の段階ではただの荒地でしたけど(笑)。それで飛び込みで伺ったら、そのとき応対してくださった方が、広島とひたちなかでフェスティバルの経験をされていて、施設管理の良し悪しのアドバイスを細かくされていたんです。しかもその方は、多賀城で開催したときに、お客さんとして観に来てくださっていたので、僕がやりたいことが大体理解されていて、2006年の開催という流れになりましたね。

—ただ、既にこの時点で何度も開催場所の変更がなされていましたから、腰を据えると言いますか、みちのく公園で続けて行かれることを前提とされていたのですか?

もちろんです。2006年から2009年まで、みちのく公園だけでなく、エコキャンプみちのくエリアの経営されることと、2010年にはその面積が倍になることを聞いていたのは大きいですね。そうすると、ちょうど「ARABAKI ROCK FEST.」10周年のタイミングで、ステージを増やせるプランと、それに伴って東北6県にちなんだステージ名称がつけられることが見えたので。

—そこまで見据えられた上での選択だったんですね。2日間の開催についてはいかがですか?

仙台港の際は、同じ規模でやることに違和感があって、複数日開催のイメージがなかったですね。多分、来場される方は観て仙台市内に行って、街中で飲み食いしてまた来るという想像をすると、明らかに距離感が生まれるだろうと。だったら、数は限られるけど、1000人くらいの規模でも泊まれるような環境じゃないと、2デイズは無理だろうなと思っていました。

—そうして、前年の”理想の入り口”から、開催地域に根付く場所を見つけ、いざ2日間の開催を終えられたとき、菅さんはどのような心境だったのですか?最終日でのシアターブルックのステージへは、菅さんも立たれていましたが、先程「ステージ上に登壇して何かを話すのはあまり好きではない」というお話をいただきました。それでも感謝の気持ちを述べられていたのがすごく印象に残っていたので、敢えてこのご質問させていただいたのですが?

自分自身も楽しかったんですけど、色んなことの確認をしていましたね。この時期はどの時間帯が寒いんだとか、開催してる街との良い距離感を保つために、夜中に音が鳴ったときにどのくらいの音圧なら、生活に支障がないかとか。あのときは、袖で観ていたら呼ばれたんで出て行ったというのが正直なところなんです。本当は客席で観たいと思っていたんですけど、やけにみんなから「袖にいろよ」って言われていて(笑)。それは、みちのくのでのトリの企画に対して、ちゃんと言葉を述べた方が良いと思っていただいたらしくて。振り返ると、2006年って入場運営が不十分で、観たかったライブが観れなかった人もいたでしょうし、来ていただいた方々に謝罪をすべきだったのが、感謝の言葉しか言えなかったんですね。なので、反省という言葉が正しいかわかりませんが、逆に翌年からは責任が僕にあるのを明確にして、きちんと出て述べようと思いましたね。

—2006年での“責任の明確化”に緋も付くように、「STAFF VOICE」を設置されました。その中で、2007年には「手応えを感じた」とスタッフボイスで綴っておらえましたが、具体的にどのような内容だったのですか?

ありましたね(笑)。“ブレイク”という言葉が適切かは分かりませんが、全国的に認知度が上がる前段階で、「この音楽はカッコイイから是非、聴いて欲しい」という答えとして、the pillowsを初日の大トリでやって、満員に出来たことが挙げられます。もう1つは、2006年から参加していただいている、開催地である川崎町の方々で構成された和太鼓や、イワナの塩焼き・玉こん等のメニューに、お客さんが喜んでいる光景を見れたのもそうです。それに対して街の人々も、すごく喜んでくれましたし。

—開催地の方々と参加された方々との1つの交流が、音楽フェスティバルを通して生まれた光景ですよね。

バラバラとまで言わないですけど、気持ちが1つになったと思いましたね。あと、2日目の大トリがウルフルズだったんですけど、実は清志郎さんのトリュビュートに、当時休業中だった清志郎さん本人が、シークレットで出演するという企画をしていたんです。結局、容態が芳しくなく流れてしまいましたが、出演者陣の中でそういった状況に対しても、すごく受け止めてくれた年だったんです。

—気持ちが1つになったと仰られたのは、関わった全ての方であり、それこそが綴られていた”手応え”になったんですね。そして、2008年のステージから花笠が加わり、また新たな試みとしてラジオ公開録音もおこなわれました。

まぁ、単純にステージをただ観てるだけの楽しみ方ではない部分が必要でした。トーク・ショウや映像もそれにあたりますし、映像のアイディアについてはBLANKEY JET CITYのマネージャーだった藤井さんからだったんです。「ハイクオリティな光量で、映像を映し出すステージがあったら、文化として探している人がそれを目的に来てくれるかもしれない」というお話をいただいて。「じゃあやってみようかな」っていう感じでした(笑)。

—それが「HANAGASA SESSION 映像と音の祭」だったんですね。実際にキャンプファイヤーライブのプレミアム感も、すごく増した内容ともなりましたし。

藤井さんが仰られたように、これを楽しみにしていただける方も増えまし、すごく成功した1つとなりました。

—そして残念ながら「ARABAKI ROCK FEST.」での最後のステージとなった、忌野清志郎さんのステージをどう振り返られますか?

そうですね…アイコン的アーティストを「ARABAKI ROCK FEST.」で清志郎さんにお願いしてから、「New Orleans Jazz & Heritage Festival」で観た景色のように、それを続けてこれたことを今は感謝していますね。ご容態もありましたが、清志郎さんと「ARABAKI ROCK FEST.」作ってこれたことは、僕にとってもお客さんにとっても、最高の宝物だと思います。

—2009年からは風の草原もキャンプ地として加わり、キャンプ地を活用される方々が増える中で、1つの解消にもなりました。

あの年は2日間通して雨だったので、広くなったもののキャンプをしていた人たちは大変だったと思いますね。それでも2日間開催において、あの場所はすごく重要でしたから、やっと提供することが出来たというのが本音です。

—また、ARABAKIを代表するステージとなったMICHINOKU PEACE SESSIONがこのタイミングで確立されましたね。

はい。原型は、2004年にシアターブルックがやった「荒吐SUPER SESSION」ですね。あの年のセッションは、ステージでおこなうにあたっての進行等含め、勉強になったんです。それで、2006年にもう1度やれたり、2008年には斉藤和義さんでやれたことで得た手応えが、「MICHINOKU PEACE SESSION」となって、大トリでおこなうことになりました。こう言ってしまうと、お金を払って観に来ていただける方に失礼になってしまいますが、独自のステージ構成を考えることは、すごく勉強になったんです。出演者もお客さんも楽しんでもらえるステージをこうやって大トリでやれるようになったことは、嬉しかったですね。

—翌年の曽我部恵一さんでは、本当にここでしか観られない、アーティストの方々とのセッションがあり、それを物語っていたと思います。

そうですね。曽我部さんとは付き合いも長いですし、こういったことを依頼するにも、さすがに初めての方に頼めるわけではないですから(笑)。そうなると、ある程度付き合いを経過した人が多いですし、その中で理想を伺ったり、密にキャッチボールをしながら進めていくことは、大変ではありますけど、楽しんでいただけるステージを作る上で、重要なプロセスだと思っています。

自分の中でも希望になった

—また、2010年のトピックスとして、構想されていた6ステージ目のBAN-ETSUが加わりました。これで現在のレイアウトとなったと同時に、ステージについては、1つの完成形と見て良いのでしょうか?

そうですね。東北6県にちなんだ名称を作ることが、当初の目標でもありましたし、みちのく公園を選んだタイミングで見えていた計画が実現できましたので、完成と言って良いと思います。

—その中で迎えた2011年、「ARABAKI ROCK FEST.11」アーティスト出演発表を3月10日におこない、その翌日である3月11日に地震が起こりました。そのときの菅さんの状況を教えていただけますか?

まず、4月以降どうなるかと言うよりも、既に明日がどうなるかわからない状況でしたから。社員やお付き合いのある方々、またその家族の方々の安否が何より第1優先でした。結果的に、中止とせずに8月の延期開催をしましたが、話し合いでの選択でしたから。

—それは、プロジェクトの方・地域の方・出演アーティストの方とですか?

もちろんです。加えて、うち (株式会社ジー・アイ・ピー) の代表から、僕からではなく「延期開催をしよう」という決断をもらえたことですね。僕もそれを軸に、どこでどう動くのかに頭を切り替えられましたね。色んなことが飽和状態な中、ジー・アイ・ピーとしておこなっている普段のコンサートもそうですし、その中の1つとして「ARABAKI ROCK FEST.」も延期として動けることは、自分の中でも希望になりましたね。もしかしたらそれは、来てくれるお客さんも、同じように考えてくれるだろうと。

—それは数字で語ることではないですが、前年度より来場者数が増えたことも、その想いが紡いだ結果なのかもしれませんね。

そうですね。多分、最後の夏開催が出来たことで、来年は「ARABAKI ROCK FEST.」として、きちんと春に開催しようと、改めて思えた開催だったと思います。

1

2

3