人時(黒夢)インタビュー

ー「他人を信用しない」 釣り好きの少年が遊びで始めた楽器から地元のバンドに憧れ、プレイヤー・ベーシストとしてのキャリアをスタートさせる。PART.1では少年時代~「黒夢」結成に至るまでをお届けします。

ー人時さんの少年時代から聞かせて頂ければと思います。

引越しがやたらと多くて、あちこち転々としていましたね。僕、出身が岐阜県ってことになっていますが元々は小学校2年生くらいまで愛知県で、それから岐阜県に行ったんです。今にして思えばトラウマとまで言わないですけど、その引越しが僕の人格への影響というか…性格と言えば良いかわからないですけど、良くも悪くも捻じ曲がるきっかけだったと思いますね。

ーそれは他人との関わり方という点でしょうか?

友達も出来てたんですけど多少の影みたいなものがあったし、引っ込み思案になりました。当時、小学校の夏休み前とかに転校して「転校生です」って紹介されるのが嫌で仕方なかったんですよね。あと、遊びは釣りばっかりしてましたね。

ー既にその頃からだったんですね。

うん、引越したところが山の中で所謂”渓流”と呼ばれるところがあるんですけど、初めて兄に連れられて行った時に運良く魚が釣れたんですね。それでハマっちゃったんです。今だと1人になりたいが為にがメインなんですけど、当時は誰かと一緒に行って釣るっていうのが楽しかったんでしょうね。ただ、活発なんですけどあんまり他人を信用しないみたいな。

ーああ、影の部分…

小学校4年生の先生からだったと思うんですけど、通知表に「他人をあまり信用しないところがあります」って書かれてた(笑)

ー引越しがトリガーになっているんですね。

人見知りをするようになったし、それが未だに弊害になっていますね。当時は”はじめまして”の所に飛び込んでいく勇気が他の人よりも必要だったと思います。さすがに今は得意ではないですが、入れるようにはなりましたけど。

ー小学生くらいがパーソナルな部分を形成していく時期ですしね。その頃は友達と遊ぶのがメインですよね?

山の頂上まで行ってそこにあるゴルフ場のボールをパクってきたりとか(笑)田舎だったら今もそうでしょうけど、アウトドアな遊びでしたね。あと、引越す前までは実はピアノを習ってたんですよ。もう全然覚えてないですよ、今やれるかっていうと「やれません!」なんですけど。

ーただ、音楽自体の経験はされていたんですね。

それから中1の時にできた友達の家が溜まり場になってて、ギター・ベース・鍵盤と色んな楽器があったんですよね。中3の頃にはスタジオ作ってドラムセットまであるっていう(笑)その中に1人だけ真面目に音楽が好きな人がいて、ベースなりギターなりを教えてもらってました。

ー最初は特定の楽器というわけではなかったんですね。

単純に遊び道具でしたね。中学校に入ってみんな部活始めて縦社会に馴染んでいくタイミングだと思うんですけど、その溜まり場にいた人たちはそれに馴染めない…ヤンチャと言えばそうですけど。そういう場所にたまたま楽器があって遊べたっていう感じですね。その時の衝動やフラストレーションとかも含めて、みんなで何かやりたいっていうやり場が楽器だっただけで。

ーバンドを組んで云々というよりは、楽器を触っていたくらい?

うん。各々ワンフレーズ弾いていたくらいでちゃんとした演奏には行き着いていないです。教えてくれた人が唯一すごかったんですけど、「カシオペア」が大好きで当時の神保(神保彰)さんや櫻井(櫻井哲夫)さんのプレイをテープが擦り切れるくらい観て、耳コピもしてる人で。その時に何かの曲のスラップベースを教えてもらったんです。

ー最初がピック弾きでないという(笑)

でも、そんな弾けてたわけではないですよ。音楽自体もそんなに知らなかったし。当時、「BOØWY」が大全盛で確か解散間際くらいの頃だったんですけど「BOØWY」自体知らなかったですからね。僕より4つ上くらいの先輩達はバンド始めてて、どこ行っても「DREAMIN’」か「NO. NEW YORK」しか演ってないみたいな(笑)そういう時代でしたね。

ー(笑)ロック云々ではなく、音楽自体の入り口には特にジャンルという括りもなくという…

特別好きなジャンルやアーティストが出来るのは高校に入ってからですね。中学校の時はそういった溜まり場に行ってるくせして土日は自転車こいで釣りしに行ってますから(笑)悪く言えば”八方美人”というか。興味多感も手伝って色んな所に顔出してましたしね。音楽やるより釣りしたいっていう。

ー先程お話にあった通り、釣りと並列で遊びの手段にしかすぎなかったんですよね。

当時、楽器は釣りよりも下ですよ(笑)あとは中3の頃に「聖飢魔II」の「蝋人形の館」がやたら流行ってて、溜まり場でリフをみんなで弾いたりしてましたね。友達のお兄さんがバンドをやってたのもあって、スティックはあったんで、枕をドラムに見立ててやってましたね。アンプを通して爆音でっていうところには行き着かず、その溜まり場だけですね。

ー人時さん自身にも特に決まったパートがあったわけではなく?

うん、出来るものがあればっていうだけで。ドラムとかも興味あったしね。当時は音楽聴くことは好きではないけど、弾くことは好きでしたね。

ーではバンドを組まれたのは高校に入ってからですか?

高1の夏以降ですね。高校に入って友達になった子が「LAUGHIN’NOSE」っていう当時の邦楽のパンクが好きでバンドやりたいっていう話をしてて。で、弦も4本しかないし簡単そうだからって誰もが思う理由ですけど(笑)「ベースを弾いたことがあるからやりたい」って言ったらベースはもう居るっていう話になり「ドラム叩いたことある」って言ったら「じゃあドラムやって」っていうところから始まりましたね。

ーあ、初バンドはドラムだったんですね。

そう、しかも誰からか覚えてないですけど、もう捨てるようなドラムセットを貰ったんですよね。家までリアカーで2時間くらい歩いて運んでいって。家で叩いてたらえっらい怒られましたけど(笑)周りが工場ばっかりで民家もそんなにない社宅だったんですけど、1部屋は僕で占拠して。まあ一緒に住んでる人からしたらシャレになんないですよね(笑)

ー(笑)じゃあ、初めて人前で演奏されたのもドラムですか?

って言ってもヤマハの「ティーンズミュージックフェスティバル」とか学祭とかですよ。

ー因みに何の演奏されてたんですか?

「LAUGHIN’NOSE」「ZIGGY」「RED WARRIORS」「Guns N’ Roses」のコピーかな。そのドラムを叩いてました(笑)

ーそれはそれで観てみたかったです(笑)その時点ではまだベースへの転向はしていないんですよね?

そう。僕、高2で中退してるんですけどその時点で高校生バンドは辞めてるんですね。中退して働かなきゃってことで働き始めるんですけど、その中退したことで多少沈んでたんです。で、たまたま高校の友達と気晴らしに「黒夢」の前々身バンド「SUS-4」を観に行ったのがきっかけになりましたね。そのライブを観た時に「本気で関わりたい」と思って。何かをやりたいというよりはまずは関わりたいというところから入って。

ープレイヤーとしてではなく、今で言う”ローディー”に近いことですか?

そうですね。当時、「SUS-4」を手伝ってた人と偶然知り合うことが出来て、その人に紹介してもらうみたいな。地元でヒーローでしたからね、「SUS-4」をトップにバンドをやってる人達が20人くらいでグループになってて、その1人と知り合えてからどんどん近づいていってましたね。リハーサルスタジオに遊びに行かせてもらったりとか。あと、ギターの間宮(exOf-J)さんに憧れて。

ーこの時点ではギタリストを目指されていた?

うん、途中交通事故とかもあったりして…働きたいけど働けない状態みたいな、うまく理由にしてたと思うんですけど。音楽やりたいって思ってギター一式買いましたね。「SUS-4」の方ともどんどん仲良くなって手伝うようになり。まぁ、ツアーだって言って何10本もやるとかではなかったから月に1・2回くらい。免許もないし、荷物運びとかしたり。後に清さんが入るんですよね。

ー清春さんとの出会いはこの頃ですか?

そうですね、僕が交通事故した時に前後に初めて会って。「SUS-4」にボーカルで入るんだってことを聞いて。それで増々好きになりましたね。なのでギターもやりたいけど「SUS-4」にずっと関わっていたいと思ってました。

ーただ「SUS-4」は解散してしまうんですよね。

そう、高2で中退してから関わって春先には解散してしまうんですけど、間宮さんと清さんで次のバンドを作ろうとしてて。それが「黒夢」の前身バンド「GARNET」になります。

ーここから人時さんもメンバーとして加入されるんですね。

メンバーどうしよう?ってなってる時に「黒夢」のオリジナルメンバーの鋭葵くん、僕は「ウッシー」としか呼んでないけど(笑)が入ることは決まってて。まだ僕はローディーで他のベースの方が決まって始まる時に鋭葵くんとそのベースの人が喧嘩するんです。鋭葵くんの実家がプールバーみたいな所だったんですけど、そこに10人くらいの仲間で集まって「この先どうする?」っていう会議をしてベースの方は辞めてしまうんです。そんな時に僕が先輩のやってる山下久美子さんのコピーバンドでベースを頼まれて弾いたんですけど、たまたま間宮さんが見てくれていたらしく「弾けるじゃん」って言ってくれてメンバーに引き上げてくれたんですよね。それが「GARNET」の一員としてベーシストの始めです。

ーここ、詳しくお伺いしたいのですが元々人時さんは間宮さんに憧れ、ギタリストを目指されていた。でもギタリストではないベーシストとして、但し憧れの人達とバンドを組むことになった。この辺りの心境は?

うん、ベースは始めたばかりだったんですけど「憧れの人達とやれるこんな喜びがあって良いのか!」って感じですよね。楽器なんて何でも良かったですね(笑)あと、当時から「ギタリストとして成功しない」と思ってた気がします。

ーその理由は?

今でも思うんですけど、初めて楽器を弾く人達の中で「凄い・伸びる」って思える人と「よっぽど努力しないと…」って思える人がわかるんですよね。勿論、その後の努力次第ですけど始まりの段階で差がつくってことがあって。で、僕はギターを弾いた時に「リードは無理だな、バッキングだな」って。そういう感覚もあってそこまで執着はなかったですね。

ーパートの拘りよりも一緒にやる人達の方が大きかった?

そうですね。それが18になる年ですね。公表上は17歳って言ってたかも知れないけど(笑)

ー「GARNET」としての初ステージは?

11月です。地元の文化会館でのイベントだったと思います。「動け」って言われてて動けなくて(笑)仁王立ちでしたね。

ー(笑)楽曲はオリジナルですよね?

ベースをやれって言われてからも、スケールとかも分からない状態で始まってますから。そもそもベースを持っていなかったんで無理やりローンを組んで10万円くらいのGrecoの Phoenix bass、BOSSのハーフラックのグライコ(グラフィックイコライザー)、コンプ(コンプレッサー)を買って。「とにかく指を動かせ」って言われてて、楽器屋さんにメジャー・スケールとマイナー・スケールだけ教わりました。

ーあ、ホントの初歩からだったんですね。当時の楽曲にベースフレーズをつけられたのは人時さんですよね?

はい、まぁコード進行ではなかったですよね。例えばAならAのスケールで弾いていけば良いんだけどAのメジャー・スケールだけみたいな。キーとか関係ないですよね。

ーとするとほぼ独学ですか?

そこからは独学ですね、未だにそうですけど。「GARNET」がホントの意味でのベーシスト人生の始まりだったと思います。

ーなるほど。先程、初ステージが地元だったとのことですが名古屋にも進出されますよね?

その年の年末にあったミュージックファームのオールナイトイベントですね。当時のブッキングマネージャーさんが「SUS-4」の頃から気に入ってくれてて、良い場所(時間帯)に出させてもらって。40本だったか400本だった忘れましたけどデモテープを作ってばら撒こうって事で無料配布したんですよね。その後から「GARNET」として人が入るようになりましたね。

ー活動も順調に?

いや、「GARNET」自体は半年くらいで解散するんです。清さんとの距離がすごく縮まったタイミングでもあるんですけど、僕がラブホテルで住み込みでバイトしてて、清さんも同じバイトだったのもあって間宮さんと話すよりも清さんと話す機会が断然増えたんですよね。で、当時の僕は音楽に対しても無知で清さんから「Siouxsie & the Banshees」「ASYLUM」とか僕が知らなかった音楽を教わって。清さんがやりたい音楽にすごく共感をしていたんです。

ー「GARNET」の音楽とズレが出始めた?

清さんと僕の中でそれがあって、水面下で動いてましたね。「黒夢」のオリジナルメンバーの臣(鈴木新)くんに目星をつけたりとか。いつでも動けるっていう状態になって「GARNET」は解散という選択になったんです。

ー今のお話を聞くと「GARNET」の終わり~「黒夢」の始まりが人時さんにとって音楽の幅が広がったタイミングと位置づけられますよね?

そうですね。プレイでいうと何が出来るかってメジャー・スケール、マイナー・スケールで、歌いにくいって言われても…みたいな(笑)今は分かるけど当時は分かんなくて、リハーサルのテープを持って帰ってヘッドフォンで散々聞いて試行錯誤しながら苦悩してましたね。あとは自分が好きな音楽の基本となった部分を清さんに教えてもらったのは大きいですね。これまで所謂ジャパニーズ・ロック、パンクだけだったところから日本の中でも暗い音楽や狂った音楽、海外でも「バウハウス」や「キュアー」とかお化粧系の人達が後追いで聴いていた音楽たちに触れられて。

ー楽曲面でもそれは反映されている?

う~ん、そこは少しニュアンスが違うというか。例えば大体の人が有名なアーティストに憧れてその楽曲をコピーして上手くなるっていうのがあると思うんですけど、僕の場合は田舎でマイナーなバンドに憧れてその人達に近づきたくてお手伝いをしたいと思っただけで、コピーしたいとかその人達になりたいとか思わなかったから。なので音楽の幅が広がっても例えばフレーズをパクるとかって概念もないし、単純に自分が納得するムチャクチャのコード進行だったりとか、気に入ったフレーズやコードを曲にしていっていたので。作曲も独学だからモチーフを作るっていう感じですね。当時からメロディに関しては清さんにお任せだったので。

ーなるほど。だからこそ、「黒夢」の初期段階から人時さんの楽曲は唯一無二というか、オリジナリティに溢れているんですね。

よく清さんと話してたのはゆくゆくポップになっても良いからとくにかく初期段階はハードで恐怖を感じるような楽曲だったりステージをしようと。当時はCDよりもライブでの表現が圧倒的に多かったから、ステージでは笑わないとかMCはしないとかある程度のコンセプトを決めてて。必然的に楽曲も不協和音だったりあり得ないコード進行だったり。さっき話した通り僕に下地がない分、自由に曲は作れましたね。出来れば使いたくないコード進行ってあって。それ以外だったら良いというか、ハードなものでもポップなものでもそれぞれにそういうのはあります。

ー楽曲面において、人時さんのPhilosophyが形成されたとも受け取れますね。

あぁ、そうかも知れないですね。そこには「黒夢」の快進撃が大きいと今となっては思いますね。始まった途端、インディーズから99年の活動休止までずっと続くんですよ。清さんの手腕、プロデュース能力、どう魅せるかという部分をすごく考えてくれてたからこそ、その快進撃があったと思ってて。そこに一緒になって乗っかれたことが自由に作った楽曲についても自信に繋がってるんでしょうね。

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