佐藤タイジ インタビュー

ー 勉強もスポーツも出来る優等生からその全てに挫折した時に出会ったギター。そして上京と同時に「シアターブルック」の結成。
PART.1では少年時代〜「シアターブルック」の結成までをお送りします。

ー少年時代の「佐藤タイジ」からひも解かせて下さい。

そうですね、活発・悪戯っ子で頭が良いとされてましたよ。

ー勉強が好きだったということですか?

好きだったか…というと微妙なんスけど、好きな科目はあったッスよ。歴史や国語とかで、算数と理科は苦手でしたね。

ー文学少年ですね。

感想文とか書くのが好きでしたね。何枚書いても良いってことで教壇の上に原稿用紙が置いてあって、争うようにたくさん書いたりとかね。あと、覚えてるのが縄跳びの2重跳びってあるでしょ、あれが妙に上手かったんですよ。冬になったら全校生徒で2重跳び大会をやって、引っかかった子はしゃがむってやつ。俺、最後の1人までになった事あるッスよ。

ー2重跳びのプロ(笑)

(笑)あとね、小学校の時は児童会の副会長とかやってましたね。学級委員とかやる子なんスよ。

ー頭の良い子がやる風習だったと思うんですけど、タイジさん頭良かったんですね。

そうですよね。頭良かったし、自らそういう所に顔面から行くタイプだったので。

ー目立ちたかったみたいな?

目立ちたがりなトコはあったと思うんスけど、自分の中では目立ちたいからやるっていうのは違うんスよね(笑)”俺以外に誰がやる”っていう責任感からですよね。「目立ちたい?そんなん最初っから目立っとるわアホ!目立ちたいからやってんちゃうわボケ!」みたいな。

ー(笑)文学少年で活発というお話でしたがスポーツとかは?

バスケットを小学校4年くらいから始めて、それから中学校3年までずっとやってましたね。中学校の時はキャプテンやってたし。

ー頭が良くてスポーツも出来てって、めっちゃモテるじゃないですか!

“モテる方”だったと思います。今でも”モテる方”だと思います。それは、ものすごいモテてるヤツを知ってるから。「斉藤和義」とかいるし(笑)”モテてる”というのとは違うと思うんですけど、一般的に言うとそうですよね。

ー今も十分、モテてらっしゃると思います(笑)

それから、中学校が徳島大学の付属中学っていう、受験するトコだったんですよ。教育学部があったから。倍率が結構高かったッスよ、6倍くらい。

ー進学校に入学されたんですね。

入れちゃったんですよ。ただ、頭良いヤツと一緒に授業受けると「あ、勉強では敵わないんだな」っていうのが早めにわかるんですよね。

ーそれは中学1年でですか?

そう。「俺はすごい頭が良い」と思って中学も合格し、「俺、頭ええやん、全然大丈夫や」と。最初の中間テストで頭が良い体で臨んで180人中、120番とかだったの。「ゲッ、俺より頭が良いヤツが100人以上いる、アカン」って次頑張るじゃん…で、50番。「まだ上に50人もいるのか、クソ!」ってやったんだけど、1番頑張って10番くらいだったんですよ。

ーすごい!

いや、圧倒的にその上の10人はムリなんスよ。絶対、勉強では1番にはなれないってわかるわけですよ。それから中学2年くらいで、友達に誘われてバンドを始めて、周りを見渡してみるとギターで俺より上手いヤツは1人もいなくって「これか!」と。で、勉強は中学1年までで撤退してるの。

ー10番でも相当すごいですけど、タイジさんの場合は1番が目的ですもんね(笑)勉強は早めの見切りでギターになったとのことですが、バスケットでは目指さなかったんですか?

勉強は脱退です(笑)バスケットにはならなかったですね。進学校のチームだったから、たいして大きいヤツもいなかったし、強くなかったんですよ。どれだけ頑張っても3回戦止まり。「勉強もダメか…バスケもダメか…」ってなって、バンドやってみたら「これや!」って。

ー最初からギターだったんですか?

そう。最初ね、ベース弾きたかったんですけど、俺バスケットボール部のキャプテンじゃないですか。うちは野球部なくって、ソフトボール部のキャプテンが、バンドやるって誘ってくれるわけ。で、どうせやるんだったら…うちの姉ちゃん「THE BEATLES」好きで、ポールのポスターが部屋に”バーン!”って貼ってあるの。「あ、ベースは弦4本だし簡単そうだな。ベースが良いな。」と思って言ったら、もうソフトボール部のキャプテンがベース買ってしまって。

ー(笑)

「あ、そうなんや…じゃあギターかな、ドラムとかないし。ボーカル…ボーカルってのもなぁ」みたいな。で、ソフト部のキャプテンがベース、俺がギター、バスケット部の友達がドラム、テニス部のキャプテンがボーカル。

ーおぉ、キャプテンバンド!

そうそうそう。でバスケ部の友達がもう一人ギターで入って。

ーそれでは1番最初から、ツインギターだったんですか?

そう、2本。

ー因みにタイジさんのパートはリード・リズムのどっちですか?

当然リードギター!(笑)

ー(笑)その当時って多分コピーだったと思うんですが…

♪(タイジさん、「Deep Purple」の「Smoke On The Water」のリフを弾き始める)

ーおお〜!

♪(タイジさん、「Deep Purple」の「Highway Star」のリフを弾き始める)これですよ!

ー(笑)「Deep Purple」の他に何かコピーされました?

このあとコピーしたのはね、「Iron Maiden」!

ー来ましたね(笑)

「Iron Maiden」ですよ!

ーまだ中学生ですよね?難しくないですか?

「Iron Maiden」…難しい?難しかったかな?

ー普通の中学生スキルで、「Iron Maiden」は難しいはず…

まあそうですよね、何かツインギターで”キュッキュキュッキュ”やってますもんね…シンコペーション入ったりするじゃないですか。やれちゃったんですね。やってましたけど「Iron Maiden」で、もうこれでメタルは完璧やなと。

ー(笑)

まぁ、そのあともメタルといえば言うても、結局「Iron Maiden」じゃないですか?「これで良し!」ってなって…その次のバンドから、俺は「WHITE ALBUM」とかが好きだったんで、「WHITE ALBUMをやろう」という方向性で「Dear Prudence」とかやってましたよ。

ー渋い高校生ですね…(笑)

あれカッコ良いッスよ…

ー当時の中学・高校と、メインで披露する場っていうか…

文化祭とかね、ありますよね。

ーコンテストに出たりされてました?

あったッスよ、あったッスよ。当時はYAMAHAがやってるポプコンみたいなのとか。お世話になってるスタジオがYAMAHA系で、そういうイベントとか出たりしてましたね。

ー徳島県内が中心ですか?

あんまよく覚えてないですけど…何かの四国大会とか行ったことありましたね。ああいうトコでウケるバンドってさ、あるじゃん。

ー(笑)分かります。

何か、あるんスよ。そのまま専門学校系に流れていく様なさ、人当たり・人受けが良くって…みたいな、そういうヤツをどっかで小馬鹿にしてましたね(笑)

ー(笑)

「アホか!」って。その辺りから小馬鹿にする姿勢っていうのがありましたね。東京出て来てからも「ホコ天」「イカ天」とかいうのあったでしょ?完全に馬鹿にしてましたね(笑)「アホか、バカじゃねぇの!」って。

ー「ベストテン」とかに出てる人じゃなくて”アマチュア”がですよね?

「ベストテン」になってくると、ちょっとクラスが違うじゃない?「イカ天」は割とイヤでしたね。ライブハウスでやってる連中にしてみたら、「イカ天」に出て、それだけで何か人気になって天狗になるヤツいたんですよ。すごい初期段階の「イカ天」に誘われたんスけど、「やんねーよそんなもん!何でだよ!」って。ふてぶてしい態度は早熟でしたね。10代で相当ふてぶてしい少年でした。

ー(笑)最初に結成された5人組のバンドは、人気ありました?

坊主頭の中学生がやってたんで。先輩のミュージシャン達からはウケは良かったですね。

ーあれ?でもタイジさんバスケ部でしたよね、決まりですか?

そうなんですよ、うちの中学って全員坊主頭なんですよ。

ー坊主頭で弾きまくる…

でも中学生ですからね、多分かわいかったと思いますよ。

ーその中学生で組まれたバンドは高校でも続けられるんですか?

ううん、高校行って解散。高校でみんな別のバンド始めて、俺は自分でもうオリジナルを作ってましたね。

ー早いですね…じゃあ高校で知り合った同い年の人で組まれた?

うん、そういうこと。

ー高校生だから坊主頭も卒業じゃないですか?で楽曲も「THE BEATLES」よりになり、オリジナルも作られるわけですが、人前でやる景色が変わったと思うんですよね。

そうでしょうね、あまり意識はしてなかったですけど。高校入った時に、音楽界隈の仲間で「すっごいギターがうまいヤツが入ってきたらしい」みたいな。「いや俺、全然1番上手いんで、すいません!」みたいなふてぶてしいヤツでしたね。

ー(笑)そういう集まりの中って、先輩で上手い人いるじゃないですか?普通にタイジさんから見て、誰よりも上手かったんですか?

いや、先輩で上手い人いました。そりゃいますよ、「この人は上手い!」みたいな人が。そういう人は今でも上手いですし、続けられてますし。

ー振り返ると、中学時代に勉強とバスケで挫折じゃないですけど、「1番を目指すのはやめよう」ってなって、ギターに出会いますが、高校でギターが上手い人がいて、「抜いてやろう」みたいな気持ちはありました?

うん。ギター、もっと上手くなりたいっていうのは、あったッスよね。やっぱ「負けたくない!」みたいなの、あったッスよね。

ー一番練習したタイミングはいつ頃ですか?

高校生の時かな。ラジオでちょっと耳に入るフレーズ、カッコ良いのとかあったらコピーしてましたね。

ー耳コピですか?

全部耳コピですよ、高校でピアノとか受けてないから。大学進学の時に「やっぱ音楽って良いな」ってなったんだけど、音楽の大学ってピアノ必修じゃないッスか。ピアノ全然やってなかったから、「うわー何だよもう。そんなんもっと最初に調べとけば、ピアノやってたのに」って。あんまり計画性みたいなのってないんですよ。大体、行き当たりばったり(笑)

ー(笑)大学に進学ついて、地元や四国の大学でも良かったと思うんですけど、東京に行きたくて大学選びをされたのか…

そう。やっぱりバンドやりたかったし、徳島ではバンドやって食えるわけがないし。大阪行くんだったら、東京行った方が音楽好きな人はたくさんいるんじゃないかなっていうのがあって。高校の終わりくらいに、先輩バンドに誘われてやりだすんですよ。それが結局、「シアターブルック」の母体になるんです。その先輩が東京にも部屋借りてて、そこに転がり込むっていう感じだったんですよね。

ー大学では音楽サークル等に入られたりは?

入ったッスよ、入ったッスよ!でも「シアターブルック」をやるっていうのがあったから、あんまり大学行ってなかったですね。

ー(笑)上京の口実って言うと失礼ですけど、そんな感じだった?

もう、完全にそうだった。で、親父にすごい怒られたッスよ。「あぁ、俺は今殺される」って思いましたね。20歳くらいの時ッスかね(笑)

ー(笑)大学2年くらいですね?

そう、2年くらい行って単位が足りなくって。4つくらいしか取れてないッスよ(笑)

ー(笑)

酷い、惨憺たる状況で。でもこっちはそれで良いって思ってるんですよ。でも親父はそんなわけないッスよね、「お前何をやっとん、俺の金で!」ってブチキレて。あれはヤバかったッスね。

ー(笑)親父さんに怒られて、真面目に行き始めるんですか?

いや、行かないッス(笑)結局辞めちゃう。別に全然面白くなかったし。

ーそもそも行かれてないですもんね(笑)その母体のバンドをやりながら、後の「シアターブルック」へ?

うん。先輩に誘われた「Mother Nose」っていうバンドだったんだけど、名前を変えて「シアターブルック」になってくんだよ。俺と「Mother Nose」っていうバンド、地元で人気があって、割とパンク・ニューウェーブに影響受けてるサウンドがカッコ良かったんスよね。で、そこのギターボーカルの人が辞めて、俺がギターで入って。そのあと、元々中学の時に一緒にやってたドラムのヤツが、別の高校行って歌いながらドラムしてたんですけど、そいつがその先輩のバンドにまた合流して。そしたら地元で結構ウケ出すんですよ。俺の音楽の聴いてきた変遷って、お姉ちゃんの好きな「THE BEATLES」「Earth, Wind & Fire」とかの、所謂な洋楽好きのやつだったんスけど、その先輩のバンドはパンク・ニューウェーブの影響まっしぐらだったから。

ー日本で言うと「P-MODEL」とか…

ああ、そういう時代ですよね。「TOKYO ROCKERS」とかも大好きな人たちで、パンク・ニューウェーブ以降の音楽をいっぱい聴かせてもらうんですよね。この前、家を整理してたらその先輩が作ってくれたカセットが出てきて。

ーまだ残ってたんですね!

そう、すごい良いですよね。「Bow Wow Wow」「Virgin Prunes」「Bauhaus」「Echo & the Bunnymen」…

ー「The Cure」「Siouxsie & the Banshees」とかも…

そうそう。ニューウェーブ系を聴いたことなかったんで、先輩ん家行っていっぱい貸してもらったり、テープ作ってもらったり。それまで「THE BEATLES」とかでギター弾いてて、メタルとかも弾いてみたりしてだったけど、演奏法とかちょっと違ったじゃないですか。

ーテクニックというよりは、表現方法というか…

うんうん。「ゲッ!何これ…ギターの弾き方がこの人違う…」「何でこの人はこんな弾き方をしてるんだろう?」とか。ロックの変遷があったとしても、パンク・ニューウェーブってさ、1回ぶっ壊してるじゃん?それが多分、我々世代にすごい心地良かった。「やっちまえ!」みたいな感じ?すごい新鮮やったし、「なんでこうなるんやろ!?」っていうのが刺激的だったという。

ー食わず嫌いだったわけじゃないんですよね。たまたま聴いてこなかっただけで、その時に聴いたという。

そう。「BEST HIT USA」でたまに流れるニューウェーブ系のバンドってあるじゃないですか。そういうのからも入っていって、「Bauhaus」好きだったッスよね。今でもやっぱカッコ良いのあるなぁって思うし。あと「The Cure」より「Siouxsie & the Banshees」の方が好きだったな。

ー「Robert Smith」、太っちゃいましたしね(笑)

(笑)良い曲いっぱいありますけどね。「The Cure」ってやっぱ俺ら世代には絶大な人気。

ー皆さん好きですね。

だよね?良いバンドなんスよね。

ーそれが母体となったバンドで、そういう音楽の系統をやっていたと思うんですけど、先輩のバンドという形だったじゃないですか。タイジさんがイニシアチブを取っていくのは、どの辺りからになるんでしょうか?

その先輩のバンド誘われて、東京に出てきてやりだすんだが…結局言い出しっぺの先輩がバンマスだったのに、東京で2回くらいライブやった時点で辞めるとか言い出して(笑)

ーおぉ(笑)

で、「なんで?」ってなるじゃないスか。スゲェ覚えてるんスよ。自分でバンドやろうって言って、「シアターブルック」ってバンド名も彼が作って。

ーバンド名はタイジさんじゃないんですか?

俺じゃないんスよ。で、年上ですけど「いやいやいや…何言ってんねん、お前何言ってんの?辞めんなよ、アホか」って電話越しにスゲェ怒っちゃって。「2度と顔なんか見たくない、田舎帰れよボケ!」って(笑)まあその人辞めてって新しいドラム入れてから、俺がイニシアチブ取ることになるんスよね。その時にバンド名変えるって選択肢もあったんだけど、バンド名を変えるのが悔しかったんスよね。

ーそれは「シアターブルック」というバンドへの拘りですか?

このまま、「シアターブルック」を有名にしてやろう!という気になったんスよね。

ーなるほど、タイジさんは当時からバンドへの「責任感」があったと思うし、「シアターブルック」が全てだったんですよね。だからこそ変えるというより、これで進んで突き抜けていこうと…

うん、なったッスね。

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