人時(黒夢)インタビュー

ー インディーズでの快進撃のまま、「黒夢」はメジャーデビュー。佐久間正英・そうる透という超級プレイヤーとの出会いからギタリスト「臣」の脱退…PART.2では初期「黒夢」を中心にお届けします。

ー「黒夢」の楽曲制作にあたり、”ルール”のようなものはあったのでしょうか?

その当時は何も考えていなかったんで、それぞれがやりたいことをやってまとまれば良いんじゃないっていう感覚だったから、まとめようっていう概念は僕にはなかったですね。

ー例えばバックトラックを作って歌を入れるみたいな順序もなく?

そうですね、ドラムからベース、ベースからギターみたいなことも決めてなかったから。今にして思えば後から入れる人は大変でしたね。

ー成立させられていたのは”世界観”のような共通認識のものがバンド内であったからなのでしょうか?

僕ね、それは疑問に思ってて”世界観”は一緒にしちゃダメな気がするんですよね。今の人達への善し悪しではないけど90年代前半っていう時代は必ずしも好きな音楽やジャンルが一緒な人達が集まって作られたバンドではなかったと思うんです。僕らの周りだけだったかもしれないですけど、例えばヘビメタ好き・パンク好き・歌謡曲が好きみたいな、バラバラの趣味嗜好の人達が集まっていたバンドの方が大成していた気がしてて。バンドメンバーの名前がちゃんと知られてて、それぞれの個性がはっきりしていたんですよね。今だとバンド名は知ってるけどメンバーの名前は知らないとか、アー写(アーティスト写真)をぱっと見て誰がボーカルかわからないとか。そういう人達って全てではないですけど、好きなものを1つ掲げて集まってることが多いと思うんですよね。僕が「黒夢」で体現したから言えることなのかもしれないですけど、その方がスリリングでおもしろいものが出来て受け入れられていたと思うんですよね。

ー今のお話はすごく納得感があります。バンドも然り、メンバーそれぞれに個性があるからこそ唯一無二の楽曲やステージが生み出されるんですよね。そこにはルールは無縁で個々の世界観の集合体が「黒夢」の世界観になったと。

そうですね。ミュージックファームで「GARNET」の解散ライブが確か74人くらいで、「黒夢」の初ライブが確か54人とか56人とかから始まってるんですよ。で、その年の年末には200人以上集めてワンマンをソールドアウトさせてるんですけど、受け入れられているのが目に見えてわかりましたね。名古屋の土地柄かもしれないけど、東京と大阪の中継地点みたいな感じで東西から所謂、”お化粧系”と呼ばれるような人達が載っている雑誌で特集組まれているバンド達がライブをやりに来るんですけど、地元ではワンマンやれるけど名古屋ではそこそこ入るけどソールドアウトまでいかないっていう状況があって。そういった方々とことごとくブッキングしてもらえたんですけど、それからは倍々ゲームでしたね。

ー初めてのオーディエンスに受け入れられたということですよね。

見る見るうちに増えていきましたから。”風が吹く”っていう言葉があると思うんですけど、まさしくでしたね。過信かもしれないですけど、デビューするとか売れるとかっていう事に対してメンバー全員、疑うことはなかったですね。

ー「GARNET」時代とは違う景色だった?

「GARNET」は順調ではありましたけど、「黒夢」の入り待ちや出待ち、動員の増え方は異常でしたね。天狗だった気がします(笑)今も勿論すごく楽しいんですけど、仮に99年の活動停止まででいつが楽しかったかと聞かれたらインディーズの頃だったと思います。あくまでも自分達とライブハウスの人達だけで昇り詰める勢いやスリリングさを実際に目の当たりにできたことっていうのはあの時だったから。

ー全てが自分達ですものね。フライヤー等も確かご自身で作成されてましたよね?

そう、清さんが作ってくれて。確かハートランドに「LUNASEA」さんとかのライブの前に配りに行ったりしたしね。当時はインターネットなんてないから、口コミかオーディエンスが作るミニコミしかなかったんで。

ー名古屋のライブハウス中心に周られていたんですか?例えばELL(エレクトリックレディランド)とか。

当時の名古屋は基本、ELLに出演するには化粧をしててもしてなくても、条件として上手くないとダメなんですよ。化粧してても結局ダメなんですけど(笑)だから「黒夢」では出れなかったんですよ。出れなかった人達がハートランドやミュージックファームに出てたんで。

ーそうだったんですね。ただそういった活動も奏してインディーズながら92年発売の「生きていた中絶児」は予約だけで初回プレス4000枚完売と既にデモテープでリリースしていたにも関わらずすごい数字ですよね。

そうですね、今にして思えばすごいと思います。当時、都市伝説的な話がまわってて。3,000枚いくと目をつけられる、5,000枚でメジャーから話が来る、10,000枚いくとメジャー確実みたいな(笑)枚数に関してはシビアだったと思いますね。僕自身はデビュー後の方がそういう事に興味はあるけど、当時は興味がないというよりはわからなかったですね。時代的には「X」さんがインディーで数十万枚売ったっていう、すごく夢を見れた時代でしたから、単純に枚数というよりは漠然と自分達でもっと売れたいっていう願望はありましたね。なのでどちらかというと会場をいっぱいにするとか会場自体を大きくしていくことの方がリアリティがあったと思いますね。

ーライブをメインに考えるという部分は当初から変わっていなかったんですね。

枚数って結局は人から聞いたりとか雑誌のインディーズチャートで見るくらいだから、すごいのはわかるんだけどリアリティがないというか。それよりはダイレクトにオーディエンスが増えていくのがわかる会場の方が伝わるし、必然的に楽しみにもなるし。

ー先程のお話ではライブをする度に増えていったとのことですが、それは名古屋を拠点として東京含め、地方でも同じ状況だったんですか?

1回目は当たり前のように少ないですよ。初めて新潟でやった時は1人か2人でその時のギャラが多めで5,000円でしたもん。初めての東京は確か「中絶」を出した頃で「BELLZLLEB」さんていうバンドの解散ライブのオープニングアクトだったんですけど、確か3曲くらい演らせて頂いて。その後、2カ月に1度くらいのペースで鹿鳴館に出させて頂いたり。その年の10月には新宿LOFTでワンマン切ってたんですけどソールドアウトしましたからね。

ー早いですよね。

早いと思いますね。その後、2デイズやって翌年にはパワステ(日清パワーステーション)飛ばしてチッタ(川崎クラブチッタ)やって渋公(渋谷公会堂)ですからね。

ーすごい動員数の伸び方ですよね。人時さん自身、ライブハウスとホールでの違いはありました?

当時はそこまで分かっていなかったですけど、大きいところでのやり方っていうのを覚えていっていたと思いますね。大きいところで演奏した人達っていうのは小さいところで演奏しても小さくならず、パフォーマンス云々というよりはその佇まいで自分を魅せられるというか。照明さんにデビュー当時なんかは立ち位置のことで怒鳴られた経験もありますし。そういう経験を積んでると必然的に見せ場がわかってきますよね。

ーその後、渋谷公会堂・「DEEP UNDER 1993」を経て「黒夢」はメジャーデビューとなりますが人時さんの意識で変化はあったのでしょうか?

「俺メジャーアーティストだ」っていうのはありましたよね(笑)よく、冗談半分で言うんですけど99年の活動停止までかなり天狗になってたと思います。

ー(笑)人時さんのデビュー時の年齢は21歳なんですよね。

21歳のガキにさ、メーカーの人とかがゴマ擦ってくるわけですよ(笑)それはおかしくなりますよ。ホントは事務所とかが教育していかないといけないんでしょうけど、僕は天狗になって良いと思うんですよね。どこかで鼻を折ってくれる人がいれば、若しくは自分で折るかで良いという気持ちなだけですけど。当時は「メジャーデビューしたから有名人」みたいな感覚で、外に出歩くだけでドキドキしてましたし(笑)例えば事務所に家から行くのに車も持ってないので電車で原宿経由で行かなければならなかったんですけど…

ーああ、赤坂でしたね。

そう。山手線で原宿駅まで行って千代田線に乗り換えるんですけど、当時の竹下通りってビジュアル系の洋服がたくさん売ってる時代だから「バレたらどうしよう」みたいな(笑)全然気にしなくて良かったんですけど、当時はそんな感じでした。

ーリアルですね(笑)その他の変化については如何でしょうか?例えばレコーディングに関して。

音源制作は劇的に変わりましたね。トリビア的な話で後に発覚するんですけど、インディーズ時のレコーディングエンジニアさんがそうる透さんの孫弟子にあたる人で。そのエンジニアさんがドラムの人だからリズムについてとか教わっていたんですけど、「迷える百合達」を作るにあたって佐久間さんとお仕事させて頂いて。最初は凄過ぎてわからなかったのが実感としてあったけど、音が全然違うんですね。僕の楽器・機材・セッティングにも関わらず佐久間さんが弾くと明らかに音の太さが違う。21歳のガキでもその違いがわかるくらい凄過ぎて。最上級スタジオのスピーカーで自分の音でも良いと思えるのにそれをさらに超えるとてつもない音が出るわけですよ。

ープレイヤーとしてのレヴェルが違うと?

僕がインディーズ時代にライブハウスの人達に「若い割に上手いね」とか言われ続けてて、また”若い割”って言われるのが嫌ですごく練習してたしっていうのもあり、それなりに自信があったんですよね。当時はメジャーデビュー≒プロっていう感覚でもあったし。そんな中、そのレコーディングで音の差を見せつけられて谷底に突き落とされた感じですよね。ベースを始めた時からプレイヤーとして上手くなりたいと思っていましたけど、そこでさらに強く思いましたね。

ー佐久間さんとの出会いがその変化をもたらしたと?

佐久間さんから「こういう弾き方をするとこういう音が出る、あなたはこういう弾き方をするからこういう音になる」っていうのを目の前で手解きと言うよりも音で聴かせて下さっていたので。これは音が太くないとダメだってなって猛特訓ですよね。

ーまた、リズム隊としての観点ですが、デビュー当時は一時的にHIROさんがいらっしゃいましたが、鋭葵さん以降のドラムが中々安定的ではなかったと思うのですがその辺りについてはいかがでしょうか?

すごくバンド的な考えになるんですけど、鋭葵くん脱退以降は当然探してて、上手い方、カッコイイ方もいたんですけど「黒夢」として考えた時に正式メンバーとして合う人がいなかったんですよね。なので都度、ヘルプをお願いする形を取ってました。僕自身は色んな人と合わせられるようになるという点が結果として良かった部分が大きくて。

ーなるほど。バンドとして考えると中々固定メンバー以外の方とやる機会ってないですよね。

バンドって”運命共同体”になるじゃないですか。そうなると他の人とやるってセッション以外はご法度みたいな風潮もあって。今の時代のように複数の活動って中々やれなくて。後に透さんに「あなたは合わせ上手だ」って言われたことがあって、そう考えると良い経験が出来てたなと思いますけどね。

ー「迷える百合達」から「Cruel」に掛けての短期間でビジュアル面も楽曲面も変化がありましたよね。

元々、清さんと「黒夢」の活動をするにあたって”最初はコアで、後にポップ”って話していたことが叶っていくタイミングなんですね。よく、メジャーデビューしたから変わるって言うんですけど、変わって当然なんですよね(笑)制作スタッフ面で言うとインディーズの頃はメンバー含めて7、8人で音楽を作っていく体制だったのが、メジャーでは東芝EMIだったのもあるけど末端まで含めるとヘタしたら100人近いスタッフが関わってくるんですよね。変わることに対してそれぞれが恐怖もあったとは思うんですけど、「迷える百合達」の初動が確か3万枚くらいでもっと売れる為にどうすれば良いかを特に清さんが考えてくれてたと思います。矢面に立ってくれてメーカーの人と喧嘩したりとか、事務所と言い合いになったりとか。

ー清春さんを中心に「黒夢」の方向性を他人に左右されることなく、貫いて行かれてたんですね。

そうですね。これ、載せられるかわかんないですけど大人の描いたシナリオってやっぱりあって。基本的な価値観でその話に乗るバンドも乗らないバンドもあるんですけど、「黒夢」は乗っからなかった。乗っかってミリオンセラーみたいな所に行かなかったから、毎回コンセプト、音作り、ビジュアル面を変えられたと思うんですよね。

ー「黒夢」の魅力って、やはりそういった部分だと思います。すごく正直な発言を当時からされてましたし。売れたい時に売れたいと発言されたり、当時の音楽業界のシステムにアンチテーゼを発せられたり。

そうですね、その時々のフラストレーションが原動力になっていた気がしますね。

ーそういった中で次に生み出されたのが「ICE MY LIFE」、「Cruel」ですよね。

それはね…2度と合宿はしたくないと思わされたレコーディングでしたね(笑)当時、年齢的に臣くん、清さん、ちょっと離れて僕っていう3番目だったのと、特に清さんに「SUS-4」時代から今でもそうですけど、憧れから入ってるんで僕は弟なんですよね。そういう状態もあって運営面は全然わからなくて、レコーディングでも自分のパートは頑張るけど、それ以外のパートは分からないみたいな。「迷える百合達」の時も佐久間さんにお任せ状態だったし。そんな中、取り敢えずセルフプロデュースで臣くんが指揮を執る事になって山中湖のミュージックインで合宿レコーディングすることになったんですけど、臣くんがスタジオに来ないんですよね(笑)

ー(笑)プロデューサー不在ってことですか?

初日に各楽曲のアレンジまでして、翌日から録っていきましょうっていうことになったんですけど、合宿で泊ってる部屋から出てこないんですよね。僕の中のプロデューサーってジャッジも含めてだと思ってるので、自分だけでやってても全然終わらないんですよ。結局、最後の「寡黙をくれた君と苦悩に満ちた僕(Full Acoustic Ver)」は朝の8時くらいまでレコーディングしてて。あと、制作陣も結構酷くてディレクターの人がたまたまエンジニア上がりの人で、エンジニアもやってくれるんですけどずっとやってるわけにもいかないから途中抜けられるんですよね。そうなると1人でやらなきゃいけないんですよね。

ー豪華な宅録状態ですね…

ホントそう。最終日は次の日の10時までに完全撤退だって言われて、アシスタントが6時くらいから片付けしてる中、僕はまだSSLの卓の前でレコーディングしてるっていう(笑)そういう大変だった記憶しかないですね。楽曲でいえば「sick」とかも入ってるし、好きな楽曲が多いですけど。

ー次の「feminism」では臣さんの脱退ということもありましたが、佐久間さん、そうるさんとの制作は「Cruel」のレコーディング時と違い、安心感があったのではないでしょうか?

はい、「迷える百合達」で佐久間さんにベタで付いて頂いて、「for dear」で透さんに叩いて頂いてというのを経て、「feminism」ではスペシャルなミュージシャンと共作できたっていうのは後の自分にとってプラスになりましたね。当時、臣くんと接触出来なくなってる状態でレコーディングがスタートして、脱退となってからは後任のギタリストを入れるかどうかって話をしながら、清さんと事務所の人間も交えてライブハウスに観に行ったりもしたし。でもレコーディングの時に清さんと佐久間さんが話してる中で「2人でやればいいじゃん」っていうのがあったらしくて、僕もまあ2人でいいやって思えたのも佐久間さん、透さんの存在が大きかったですね。

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