人時(黒夢)インタビュー

ー 2人の「黒夢」となっても止まらない快進撃から無期限の活動停止…ソロアーティスト人時としての確立。PART.3では後期「黒夢」~ソロ活動を中心にお届けします。

ー2人の「黒夢」として初のアルバム「feminism」では初登場1位とメンバーが減った不安もあったと思うのですが払拭できた結果だったと思います。

そうですね、単純に嬉しかったですね。

ーまたTOUR「feminism PART Ⅰ」以降、レコーディングに続き、そうる透さんもドラマーとして参加されました。

はい、それから3年間くらい?参加頂いたんですけど僕には大き過ぎるくらいでした。かと言って細かく教わったとかはないんですけど、「feminism PART Ⅰ」からギターとキーボートもサポートを迎えて、サポート陣で固めるからあとは自由にやれって言って頂いてて。自分が疑問に思ってることだけ質問して教えて頂いてっていうのが続きましたね。あとは打ち上げで他愛もない音楽の話をさせて頂いてたんですけど、それが僕にとっての1番の財産ですね。”グルーヴとは”っていう部分を透さんが酔っ払った勢いで言って頂いた言葉が僕の中ですごくヒントになったんです。言ってわかることとわからないことがあるけど、それを後輩のベーシストに話したりもするんですがここは体現していないからかもしれないけど、中々理解されないですね。

ー作曲面においては2人になったことで必然的に人時さんの作曲数も多くなったと思いますし、当時のシングルのカップリングは後にライブで演奏される楽曲も多く占めていて、この殆どが人時さんの作曲でしたね。

「黒夢」に関しては自分が作曲っていう概念がないんですよね。今もそうですけど曲のモチーフを持っていく感覚で清さんとの合作なんですよね。僕の曲の場合、バックトラックを作って清さんがメロディーを付けてくれるっていうのが殆どで、唯一違うのが「眠れない日に見る時計」なんです。

ー唯一っていうのが驚きですね。

うん、あれだけ僕がメロディーを作って清さんに少し直してもらって。他は「SEE YOU」もそうだし、基本のバックトラックと構成を作って清さんが歌っていくのが僕の曲の成り立ちなので。

ーなるほど。対外的なクレジット要素だけで、人時さんの中では作曲/黒夢という感覚だと。

そうですね。あと、カップリングについては特に自由だったんです。今だとね、「両A面」ってわけわかんない言い方するけど(笑)昔、色んなミュージシャンの方にカップリングについて「制約がない・メイン曲ではないから自由にできる・ミュージシャンとして好きにやれる場所」って聞いていて、僕もそういう概念があったから。結果的にライブで演奏する曲達が多かっただけです。当時、B面をセルフカバーにしようかって話があった時は「曲がない」って思われるのが嫌で、絶対作ってましたね。シングルってタイアップとかで急に決まる時が多いから、曲のストックがあるバンドではなかったけど、その都度楽しんで作ってましたね。

ーミュージシャンの方でここの辺りが分かれると思うんですけど、人時さんは曲をストックするタイプではない?

「黒夢」の場合、作ったらすぐライブとかでやってましたから。歌詞がなくても。

ーそれだけ楽曲に自信があったんだと思うんですよね。当時、新しい試みとして楽曲提供もされていました。

捨て曲はないって勝手な言い方をしてましたね(笑)楽曲提供に関しては「Be-B」さんでしょ?あれはやらされたんですよね(笑)やらされたというか、やらないかと言われて興味はあったけど、右も左もわかんないみたいな。

ー事前に打ち合わせとかなかったんですか?

うーん、当時のディレクターさんが頑張って直してくれてたと思います。今みたいにデジタルとかじゃなくてカセットのMTRに合ってるかも分からないメロディーを付けて、モチーフだけ作って持って行ったんです。トラックは透さんが叩いてくれたり、僕もベースは弾きましたけど、これで作曲って言うのは今だと許されない感じでしたね。

ー「Drug Treatment」のツアー中には「franchise music」「franchise」と初のソロ作品をリリースされましたがこういった経験を経て、満を持してという感じだったのでしょうか?

そうでもないんですよね(笑)あの当時、今の時代のようなショット契約(シングルやアルバムを1枚のみ制作して発表する場合に交わされる契約のこと)ではなく、契約金幾らでリリース枚数何枚っていう時代で事務所が受けたんですけど、その時に「何がやりたい?」って聞かれたんですよね。で、僕はインストが大嫌いだったので。勿論、ライブ中のソロコーナーはありましたけど、透さんとやっていたのはインプロ(即興)だったのであれを形にするっていう頭もなかったですし。だから毎回のライブで少々変えてやったりして、透さんとのやりとりを楽しんでいたくらいなので。そういう中で「インストやる?」「歌やる?」って聞かれて、だったら歌がやりたいと思ったんです。やってダメでもいいやくらいに思ってたし、透さんに相談とかもして後のプラスになったり、経験することの重要性も踏まえて佐久間さんにプロデュース、透さんにドラムをお願いして始めましたね。

ー実際に人時さんがソロをやることによって、表現のフィールドが「黒夢」以外にできたというところと、歌うという部分においては清春さんがやられていたところを人時さんが経験するというところについてを伺いたいのですが。

ベースを始めて5年、デビューして3年目くらいの人が歌を始めてっていうギャップはダメだと思いました。タラレバになっちゃうけど、勢いだけではなく、もっと自分を分析した上で臨むべきでしたね。例えば歌うにしても自分のキーは何か、音域、安定キーとかも知らずにやってたし。結果として得るものがあったし、気づきもあったのでやって良かったと思いますね。普通、バンドのベーシストがソロデビューなんて出来ないですもん。

ー確かに。当時の売れてるバンドの人達でさえ、ソロデビューされている方って限られてましたよね。

そうですね、成功したかは分からないけどやったことによって、その後の自分が思うソロ像であったり、道筋を決めるきっかけにもなりましたね。

ーそして「CORKSCREW」の発表、翌年1月29日を以って「黒夢」は無期限の活動停止となります。

うん、とにかくそれまでの1年から1年半は清さんとすごく仲が悪かったから。もうとっくに自分のキャパシティがオーバーしてて。活動停止してから音楽を聴くのが嫌だったんで、音楽のない環境を作っていました。テレビをつけて音楽番組だったら変える、ラジオもFMなんて聴かずにAMみたいな。

ー当時としてはそういった心境はあったと思うのですが、今冷静に振り返って「ベーシスト人時」として得られたことも大きかったと思うのですが。

うーん、何をどう表現すれば正解かっていうのはあって。勿論、すごく重要な経験として透さんとのリズム隊の組み合わせも然り、満園英二とのバトルに近い演奏だったりは後の自分にプラスにはなったんですけど、特に「CORKSCREW」に関して言えば僕の1つの武器をさらに研ぎ澄ませた時代ですね。例えば、ベーシストとしてのピッキングのフォームの定着であったり、バキバキのピッキングの音であったりっていう部分をより特出させたというか。

ー確かに。ライブでの演奏を観ても人時さんのイメージですね。

逆に言えばプレイヤーとして、それが仇になったんですよ。「おまえ、そこしかないでしょ」みたいな。元々プレイヤーとして、スタジオミュージシャンとしてやっていきたいっていう明確な目標や立ち位置が定まっていた中で、武器にはなるけど弊害となる場合もある。例えば「嵐」のレコーディングに呼んでもらってロック色の強い曲が多いとか、他のアーティストさんでもバラードの曲は呼んでもらえないけど、ヘビーな曲は呼んでもらえるとか。自分の武器を90年代後半に磨いた結果なので、良い部分もあるけど…

ー諸刃の剣というか…

ホントそうだと思います。これを払拭する努力をするべきかっていうのをすごく悩みましたね。「僕、バラードもけっこう弾けるんだけど」って思ったり(笑)悪いことではないんですけど周りの人が思う程、僕はそこに拘ってないから今も多少のギャップを感じてますね。

ー今のお話の通り、活動停止後のプレイヤー復帰として「Zillion SONIC」へのサポートがありましたね。

実はね、その時ファンの人から「なんでソロからやらないの?」って怒られた記憶がありますね(笑)はっきり言うとソロアーティストとして考えた時に自分のビジョンがないんですよ。結果、そうなっただけで。過去の「franchise」を作った時のダメージが大きくて何をして良いかわかんないし。そんな時にサポートの話があって、プレイヤーとして現場で弾くのは好きだし、人の現場でやりたいとも思っていたので。何かを発信したい人の為に、自分がどこまでサポートできるかっていうのが自分の立ち位置として向いている事がわかってたから。

ーそれは「黒夢」であっても?

うん。90年代後半は嫌だったこともあったけど、今は清さんがやりたい事に対してやれるのが嬉しいし。どんなアーティストさんであっても何かを発信したいっていう人をサポートするっていうのが自分の場所だと思いますね。今は「黒夢」が1番の比重ですごく幸せですしね。他のアーティストの方のサポートもしつつですけど、そこで自分が目立つとか、お客さんを取ろうとか、人気を得ようとかは皆無なんで(笑)

ー「人を信用しない」少年だった人時さんがその立ち位置に幸せを感じられているのは清春さんともそうですし、サポートするアーティストの方との信頼があるからだと思うんです。

あぁ、そうかもしれないですね。

ーその後、「ROBOTS」のサポートもされながら翌年に「FILL IN THE BLANKS」をリリースされますが、今のお話と良い意味で相反すると思ってまして…

確かに。「PIRANHA HEADS」の「FILL IN THE BLANKS」って空白を埋めようって意味なんですけど、実は「黒夢」活動停止後、音楽自体を辞めようって思ったんです。だけど、寝てても指が動くらしいんですよね。

ー無意識の欲求ですね。

うん。やっぱりやりたいんだなと、その事を教えてもらった時に思いましたね。で、何が出来るかを考えた時にまだワーナーの契約が残ってたんだけど切れちゃって。その時に僕が歌うのはNGで誰かボーカルを立ててっていうメーカーの条件があり、「babamania」のmariちゃんも名前が挙がってて。一緒に音源作ったんですけど事務所の人に「これ出したい?」って聞かれて、mariちゃんがどうとかではなく全然自信もなくて流れたんですけど、「人に歌わせて気に入らないんだったら、自分で歌った方がマシ」って判断になりました。やっぱり僕の中で「清春」というボーカリストが頂点なので比べてしまうんですよ。自分でバンドを組んだとしてもそんなボーカリスト何処にいるのかって「?」になる。半端な個性の人ではギャップを感じてしまう自分がいて。なので実力はどうあれ、自分が好きなことをした方がいいなと。その時感じていたフラストレーションや嫌だと思えることを全部吐き出して、次に進みたいって思って作りました。

ーもしかしたら「ソロ」というよりは「人時」としてのスタートラインだったのかもしれないですね。

その時、一緒に作詞をしてくれた「KAORU」さんと色々やり取りして、あくまで自分の伝えたい事とやりたい事をまとめてくれて。終わりはしないけど”負の要素”を詰め込みましたね。オーディエンスの方がどう思われてもこれしか歌いたくなくて、自分の為にという部分が強かったですね。自分による自分の為の音楽(笑)

ーそのタイミングでないとやれなかったりもしますよね。

あれは今出来ないですね(笑)正直、「PIRANHA HEADS」の時が一番怖かったです。ツアーをまわってお客さんが多い・少ないではなくて、ステージに上がってセンターに立つ怖さがやっとわかったというか。

ー「黒夢」ではソロコーナーがあったにせよ、ずっとセンターの定位置は初めてですよね。

そう。バンドっぽく始めたけど、来てくれるお客さんの8割は僕を観に来てくれているっていうのが視線を見ても分かるからヘタな事できない。やっぱりね、センターに立つ人は立つべくしてなんですよね。そこで初めてライブに対しての恐怖を覚えて、フロントマン・ボーカリストとそうではない人の差を痛感しましたね。

ー「diz-beads」や「Hysteric Blue」への参加等、活動を広げている半面、”迷い”のようなものもあった?

必死に悩んでましたね、ソロ活動に対しての考えを修正しないといけないかもと思ってました。「diz-beads」に関してはボーカルの子がおもしろくてちょっとやってみたいと思ったのが第1。ただ、僕の悪いところで「なんとかなる」って楽観的な部分があって、そこで可能性を1つ1つ潰していくんです。勝手な持論だけど「やりたいこと」と「やれること」って違う気がしてて。両方合えば良いんだけど、大多数の人がミュージシャンも含めそうではない。僕もそれはあって、その時期に色んな活動をしていたんです。後に「SSS(スリーエス)」や「ピラニアヘッズ」をやるタイミングがあってやったりもしたけど。

ーソロ活動をしながら模索されていた感じですね。

プレイヤー・ベーシストとして目標を見定めてきたけど、どこかでソロでもやっていければなと思っていて。そこでさっき話した活動をして両方メインというよりは、改めてプレイヤー・ベーシストとしてをメインに置いて、「SSS(スリーエス)」や「ピラニアヘッズ」をメインというよりは自分を解放する場所という風に解釈するようになりましたね。

ー先程お話された”発信したい人をサポートするのが自分の場所”と通じますね。

やっと自分のポジションを見つけた気がしていましたね。バンドモノについては誰かの為に作詞・作曲してなんてするくらいなら自分でやれば良いしと思えたし。それに共感できるメンバーがいるのであればいて欲しいけど、ムリに集めてとまで思わないですし。どんなに歌を必死に練習しても同じくらいベースも練習するから、技術的なベースのキャリアを歌が超えることはないんですよね。だったら今までやり続けられたベースをもっと磨こうと思いましたね。

ーすごく納得できますね。「SUPER DROP BABIES」もそのスタンスだからこそ、あの時の人時さんはやれたんでしょうね。

「SUPER DROP BABIES」は売れようなんて全く思ってなかったですもん。新くんから連絡があって、昔のように運命共同体になってお金を持ち寄ってみたいな感じではなく、プラスマイナスゼロでも仲間と楽しく周れるんだったら良いって始めたので。多い時は半月くらいは名古屋にいてリハやレコーディングやってたんだけど、そこにはムリとかはなくて。

ー「やりたいこと」と「やれること」が一致し始めてますよね。

1番最初にソロ出した時に透さんに言われた「やることによって経験を得る」ということについてを体現してきて、自分が何かやりたい時にやれる状況を作れた気がしますね。バンドもそうだし、後のアコースティックやインストもそうだし。弾き語りでメガヒットを出そうとか(笑)一切なくて、例えばコーラス部分のお手伝いが出来るようになりたいとかがあるだけで。自分のプラスになることを選んでやっている感じですね。

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