冷牟田 竜之 インタビュー

ー今回の特集では冷牟田竜之さんの活動履歴を辿っていければと思います。まず、初めて音楽に触れられた頃から教えてください。

うちの母が組み立てるラジオを買ってくれたんですよ。それを自分で組み立ててFMラジオを聴き始めたのがきっかけで。当時のベストテン番組とか。アーティストだとCarpenters・Mott the Hoople、確かPoulMcCartneyもソロになり始めた頃でJohn Lennonもそうだし…洋楽から入った。

ー当時、小学生くらいだったんですか?

小学校6年の手前、5年の後半くらいからだった。そのうち、当時流行っていたフォークに入って。ラジオの深夜番組を聴いていて、それはAMなんだけど。オールナイトニッポンとかね、それで吉田拓郎さんを聴き始めてからギターが欲しくなって中学1年の時に初めてギターを買った。

ー吉田拓郎さんを聴いてということはアコースティックですか?

そう、アコースティック(笑)ところがね、3ヶ月くらいしたらエレキギターが欲しくなっちゃって。というのも自分が聴いていた音楽が急に変わり始めて。中学に上がると歳が3つくらい上の友人の兄貴がいて、その人がT-REX、IGGY POP、David Bowieとか、所謂グラムロックの音源を聴かせてくれたんですよ。また、ちょうどその時に深夜番組で聴いた『ファンキー・モンキー・ベイビー』がビッと来て(笑)すぐにレコードを買いに行ったんですよね。まだその時は誰がやってる曲かがわからなくて。問い合わせたらCAROLがやってるってわかって。ロックンロールの出会いってそこなんです。

ー日本のロックで初めての出会いがCAROLだったんですね。

ただ、中学1年の時に知ってからすぐに解散だったんだけど。小倉に小倉球場ってトコがあって最後のラストツアーでCAROLが実は来たんですよ。当時ね、中学校が男子は坊主頭で(笑)それで行くのは勇気がいった(笑)行ったら皮ジャンとリーゼントだらけみたいな。まあそれでも友達の兄貴と一緒に観に行って。それでバンドっていうものにものすごい衝撃を受けて、人前で演奏するっていうのがやりたくてしようがなくなって。それでエレキギターにいくことになるんだけどね。

ーエレキギターで最初はコピーからですか?

『ファンキー・モンキー・ベイビー』もコピーしたし(笑)あとは DEEP PURPLE、LED ZEPPELINとかを最初に演って。

ーフォークから本格的にロックに傾倒していった?

グラムロックやハードロック…洋楽のロック寄りになって行って。CAROL以降は邦楽のロックはテレビとかラジオで少しは聴いていたけどあまり追っかけることはなくなったなぁ。あと、THE DOORSとかも教えてもらって聴いてたな。

ーイギリス・アメリカ問わずですね。

友人の家に良いオーディオがあって、素晴らしいステレオ(笑)そこで聴くのがとにかく楽しくて。割と音響ファン・オーディオマニア的な側面も当時からあって、そこで聴いた音楽に影響を受けたのはあった。

ーその影響を受けて実際にバンドを組まれたのはいつですか?

中学3年のとき。

ーエレキギターを手にしてからすぐにバンド、とは至らなかった?

学校に同じようなことをやってる人が誰もいなくて。例えばドラムにしてもどうやって叩いて良いかもわからない状態で。で、結局オーディオのある友人…兄貴じゃなくて友人の方にドラムを買わないか?という話をして(笑)

ー冷牟田さんが口説いた(笑)

で、ドラムを買ったんですよ。最初はその友人の家で一緒に演ってた。

ーそれが最初に組んだバンドだったんですね。

ホントにガレージっぽい感じですよね、そんなトコでやってたので。

ー構成は最小限のバンドだった?

いや、最初はギターとドラムだけで演っていて。で、中学校の学園祭で演奏しようということになってまた別の同級生にベースを無理やり…(笑)

ー(笑)冷牟田さんに口説かれたメンバーでバンドが組まれたんですね。因みに学園祭で何を演奏されたんですか?

え〜っとね、DEEP PURPLEを演ったんじゃなかったかな…

ー初めてオーディエンスを目の前に演奏されたと思うのですがその当時の心境はいかがでした?

いやね、想像以上に恥ずかしくて(笑)ステージの上に立ったらみんな見るわけじゃない?自分の事を。その視線がこんなに恥ずかしいのかっていうのを体感して。まともに前を向けなかったのを覚えている。

ーしかし、その恥ずかしい経験からまたステージに立たれるわけですよね?

そう、高校に進学するとまず仲間の幅が広がって。同じ町内から同じ市内にみたいな。そうやって仲間を探していて、そこで繋がっていくとレベルの高い人達っていうのが北九州の中にはいたんだよね。そうしたらあっという間に北九州のアマチュアバンドのシーンに触れて。それでもう音楽でやっていこうと思ったし、固まった時期だったね。高校2年の時には、もうそういう気持ちだった。

ー当時、冷牟田さんが音楽と決めたきっかけに北九州のシーンというのがかなりの影響を及ぼしていたとのことですがサンハウス等がそれにあたるのでしょうか?

あの、高校1年のときに北九州に到津遊園地っていう動物園と遊園地が一緒になった施設があって、その中に森の音楽堂っていう野外音楽堂があるんですよ。で、そこでねサンハウスと人間クラブとあと山部善次郎って人が当時やってたドリルっていうバンドが演っていてそれを同時に観たんですよね。そこがターニングポイントになるのかな、音楽をやっていこうと思った…

ーものすごいバンド達を真近で観られていたんですね。

やっぱり自分にとっては音楽でいうとロンドンと北九州ってあんまり変わらないんじゃないかという錯覚があって…というか錯覚するくらい凄かったんで。 実際、後に東京に出ていろんな東京のバンドを観たんだけどやっぱりその感覚は正しかったし。そのくらい当時の北九州のシーンのレベルが高かった。

ーそのシーンの中で冷牟田さんが本格的に活動されていたのはライブハウスですか?

小倉に松田楽器店っていうトコがあってその楽器店の2Fでライブが出来る場所があったんですよ。そこに行くようになって、THE ROOSTERSの最初のライブもそこで観てるし。THE ROCKERS、THE MODSとかみんなそう。

ーこれまで様々な記事で冷牟田さんがごらんになったTHE ROOSTERSのファーストライブでの影響は計り知れないとのコメントをされているのですがどのような衝撃だったのでしょうか?

まずね、一見してルックスが他のバンドとまるで違ってた。人間クラブの時っていうのはロックンロールをやってはいたんだけど、ルックス的にはグラム寄りだったでしょ?サンハウスの影響だったと思うんだけど。ところが物凄い細身のコンポラスーツにリーゼントだった。それであのロックンロールを演奏しているのがものすごく新しい感じがしていて。当時、YMOなんかも人気で聴いてた時期が重なるんじゃないかな、新しいって意味で。8ビートなのに腰にくるというか、うねってるんだよね、ビートが。そういうのを初めて聴いて。一直線なビートだったらパンクとかでよくあったけどビートがうねるグルーヴというか、そういうのが衝撃だったな。8ビートでグルーヴするっていうのはTHE ROOSTERSが初めての経験だった。

ーTHE ROOSTERSは同じシーンの中でも稀なサウンドだった?

もちろん、サウンド的には人間クラブの時に前兆はあったけど、よりソリッドでシャープになって。当時、めんたいロックって言われた3バンドの中でTHE ROOSTERSの存在は自分の中で特別に大きくて。他のバンドも好きだったけど、やっぱり比べることができないくらい好きだったな。

ー実際にTaboo等のイベントで冷牟田さんご自身、『テキーラ』をセレクトされてますね。

インストでね、テキーラを演るっていう発想と削ぎ落としたアレンジは世界レベルだなと思ってて。そういうバンドとシーンに居れたことはラッキーだった。

ーその同じシーンの中で組んだバンドが『ハイヒール』?

それはねぇ、デビューするには当時エルモーションっていうコンテストがあってその九州大会で優勝するとメジャーと契約っていう流れになっていたので、そこでまずグランプリを取らなきゃならないとなって。当時、そのハイヒールのボーカルと知り合って2人でメンバーを集めたんですよ、他のバンドから引き抜いたりとかして。結果的に全員、違うバンドをやっていたんだけどドラムとギターを集めて。で、その時ギターからベースに変わった。

ーここでベーシストの道が始まったのですね。

メンバー集めをしている中で良いベーシストが居なかったのと、自分より良いギタリストがいたからってだけなんですけどね。

ーただ、ギタリストとしてデビューを目指していた中でパート変更に抵抗はなかったのですか?

それはね、あんまり当時はそういう事を考えていないというか執着もなくて。ベースはやってみたら単純におもしろくて自分に合ってるかな、と思った。

ー他のパートと違いギターからベースなのでそこまで違和感はないかもしれませんが練習は大変だったのでは?

う〜ん、スカパラに至るまでずっとそうで自慢できることではないけれど、あんまり必死に練習したっていう覚えがなくて。多分、楽しかったからそう思っているだけなのか、1人で根を詰めて練習したっていう記憶もなくて。ただバンドでやるっていうのが楽しくて。

ー冷牟田さんご自身が認めたメンバーの中でやっていたからこそ、そこで磨かれていった?

2日に1回は必ずスタジオに入ってたし。ヤマハの練習スタジオで。当時は朝本(浩文)なんかも居たな。UP BEATのメンバーとかも練習してた。

ーそしてエルモーションにハイヒールとして出場し、見事グランプリを勝ち取られます。

そう。で、当時CBSソニーとやりましょうということになったんだけど。当然メジャーだから準備期間があり、1年くらい九州でバンドは準備をしてレコード会社側は東京で準備というタイミングでハイヒールは解散したんです。

ー理由はなんだったのでしょうか?

それはね、今考えると本当にくだらないことでね。まぁ、喧嘩してやめたんですよ。つまらないことで。今考えるとやめるほどのことではなかったなと思いますけど。

ーデビューを目指した中での解散後、すぐに次の行動に移されます。

すぐに上京しました。ちょうどその頃、THE ROOSTERSから井上富雄が脱退するという話は聞いていて、新しいバンドを作りたいと声を掛けられたんですよね。それでタイミングよく東京に行きました。

ーハイヒールメンバーの方も一緒でしたね。

ドラムとキーボード(木原龍太郎)と。解散が決まってすぐに東京に行ったので解散ライブとかもしなかったですね。1年後に東京から地元に戻って解散ライブはやるんですけどね。

ー喧嘩別れからの解散ライブは1年という経過で円満な感じだったのでしょうか?

そうだね、1度限りだったし。そういえば当時、BOOWYが九州ツアーで来るとハイヒールが前座でついてたりして。逆に僕らが東京に行くとクロコダイルとかLOFTでBOOWYと演ってたんで。そういうこともあったな。BOOWYが急に売れた時期があったでしょう?あれは衝撃的だったな。

ー帯同していたバンドが商業的にも成功を収める中で冷牟田さんご自身はどのように感じていらしゃったんでしょうか?例えばBOOWYは早くに武道館公演を行いました。

武道館というのは当時、頂点だったから。特に東京に出てきた頃は武道館で演るまでは帰らないと決めて来てましたから。

ーそういった意気込みで参加されたBLUE TONIC & THE GARDENからメジャーデビュー時のBLUE TONICになるまでいくつかのメンバーチェンジもありました。

まず、当時のボーカルとアルトサックスをやっていた石島君が辞めて、ドラムも入れ替わったんですよ。で、結局メンバーが減って4人になったんだけど『これで大丈夫なのか(笑)』と思いながらもデビューっていうタイミングになって。

ーデビューアルバムでは井上さんならTHE ROOSTERS、冷牟田さんならハイヒールとこれまで活動されたバンドの楽曲とはかなりアプローチを変えたものという印象を受けました。

そこはね、商業的なROCKに対してのアンチテーゼだったんですよね。8ビートでROCK的な演奏をしていればROCKだ!みたいな風潮が出てきていて。自分の中のROCKってもっと違ったもので、『エッジが立ってて、匂いが強くて、毒があって』っていうものだと思ってたから。形態のみがROCKであって音楽がROCKでないものが世の中でROCKと定義されていることへのアンチでJAZZを聴くようになったんですよね。あとはATLANTICとかのR&Bだったり、ルーツミュージックに目覚めていったのかな。ブラックルーツというか。当時はPaul Wellerも同じように聴いていたんだと思う。で、ちょうどほぼ同時期に彼はThe Style Councilをやった。実はね、The Style Councilの『Café Bleu』がリリースされた時に『これはやられた(笑)』と井上富雄と2人で話をしたのを覚えていて。同じようなことをやってるって。

ーしかもほぼ同時期リリースでした。

自分たちもThe Style Councilを聴いてから真似たのではなく、多分制作時期は一緒だったと思うんですけど。ただ、今は自分としては良かったなと思っています。この時期にルーツミュージックを深堀りできたので。

ーBLUE TONIC活動中に後に加入される東京スカパラダイスオーケストラとの出会いもありました。

BULE TONICは活動期間が短かったんですけど中期くらいでスカパラのメンバーと知り合ったというかASA-CHANGと会ったんですよ。実は僕、どちらかというとスカパラではなくてスカフレイムス側だったんですよ。スカフレイムスの最初の7inch『TOKYO SHOT』は僕がディレクションしてるし。半分プロデュースに近かったですけど。そうやって自分の中でスカが盛り上がってるタイミングにASA-CHANGと会って。当時バンドとして体を成してない頃のスカパラに『プロのミュージシャンが一人もいないから練習を見に来てくれ』って頼まれて見にいったのがきっかけなんですよ。

ースカという音楽への傾倒はあったものの、最初はその前段階での出会いだったと。実際に当時の印象については覚えていらっしゃいますか?

いやぁ、ものすごいヘタクソで(笑)考えられないくらい。ただ、青木(ドラム)と沖(キーボード)はずば抜けて良かったので『これはなんとかなるな』と思ったんですよね。

ー実際にBLUE TONICのライブにも参加されたり、冷牟田さんご自身も同時進行でスカパラに参加されています。

ただ、まだスカパラはアンダーグラウンドな存在。スカフレイムスはオーセンティックスカを割りと忠実に再現するスタイルのバンドだったんでスカパラはもっと違うパンクとかのエッセンスを取り入れた方がアイディアが広がるんじゃないかと思っていて。それを実践して行ったんです。

ー一方でBULE TONICは解散という選択をします。

う~ん、多分井上富雄がリーダーとしてバンドを引っ張っていくというのが疲れていたんでしょうね。そんなにブレイクした訳でもないし。あまり広がらない感じでずっと来ていたので、次の段階に行かなければいけないという焦りもあったと思うし。

ー井上さんから提案があって冷牟田さんは賛同された?

まぁ仕方ないなと思ったんで。それで一層、スカパラの方に力が入るようになったんですよね。

ー解散されてからはスカパラ1本になるわけですが最初はパートがパーカッション?

何しろ、ASA-CHANGが最初リハーサルに来なかったんで、忙しいから(笑)で、パーカッションはいないし、ベースは川上がいたし。で、当時居たホーンのメンバーとかギターとかも全部入れ替えちゃいましたね。ギムラと2人で(笑)『すまないけど、辞めてくんないか?』っていう話をしたのを覚えてる。三宿のデニーズでね、夜中2人で会ってどうやっていくかというのを本当に良く話してた。

ーギムラさんと話されていく中で当初の目標はあったのでしょうか?

まず、このバンドで武道館でやるっていう。このバンドで実現しようという思いは強かったなぁ。

ーBLUE TONIC解散からスカパラデビューまで期間としては短い印象でした。

準備期間はあったんだけど、割と早い段階からいろんなところに点を置いていて一気に線に繋がるタイミングが早かったなぁとは思う。当時、BULE TONICで一緒に動いていたブレーンとかに色々声を掛けたりお願いをしていたのが功を奏したのはあったかな。当時はマネージャーもいなかったし、全て自分で考えて自分で動くっていう。ライブの組み立てとかも集客が拡大していくように戦略を立ててやっていたので。

ーということは加入された時点で冷牟田さんご自身がリーダー的な役割を果たされていた?

う~ん、デビュー前までそんな感じでギムラと2人でやってて。ただデビューが決まったタイミングでASA-CHANGが帰って来ちゃうっていう…(笑)まぁバンドが軌道に乗ってきたタイミングだったんだけど。で、戻ってきてくれたからASA-CHANGに任せちゃえって。面倒くさいわけですよ、自分で考えてやっていくっていうのが疲れるしね。ギムラもそうした方が良いよねって言ってて。

ーそういった中で現在も演奏されている『MONSTER ROCK』でスカパラとしてデビューされます。

嬉しかったなぁ、当時。あの曲はね、唯一アルバムの中で8ビートなんですよ。それがね、青木と結構戦った。彼がね、頑なにワンドロップでやりたいっていうのがあったんだけど、この曲に関しては絶対8ビートにして欲しいって言って。

ーそして2ndアルバム『ワールド フェイマス』発表後、武道館公演という早いタイミングで。

そう、デビューから2年も満たないタイミングで。実はその後がね…必死でやってたから当時。武道館終わった後っていうのがね、ものすごい脱力感があったのを覚えてる。これから先どうしようっていう。

ー達成感もあったと思うのですが。

もちろん達成感はあった。あのライブはものすごい良かったから。達成感も満足感もあって。だからこれからどうしようという気持ちも同時にあって。

ーそれは冷牟田さんご自身が?

いや、みんなそうだったんじゃないかな。で、結局ASA-CHANGも辞めるって言い出して。しばらくしてギムラが亡くなって…その辺りがスカパラをやるにあたって一番苦しかった時代だったかな。

ー竹内さんや林さんもその以前に脱退もされていますし。冷牟田さんへの比重も大きかったのでは?

う~ん、補っていくっていうのはギムラがいなくなってから。いなくなって『じゃあ、フロントどうするの?』ってなったときに自分でやるしかないって思ったんですよね。

ーそれは4thアルバム『FANTASIA』リリース後?

そうだね、それからThriller Uとか小沢健二とか迎えたアルバム(5thアルバム『GRAND PRIX』)があって。

ー『GRAND PRIX』や『トーキョー・ストラット』はこれまでのスカパラとは趣が異なる楽曲構成になっています。

自分の中ではスカというよりは当時、FATBOY SLIMに夢中で、あとThe Chemical Brothersも聴いていて。ちょうど台頭してきたタイミングで、そっちよりの音楽に頭が行っていて。『トーキョー・ストラット』とかは明らかにケミカルとかの影響だった。

ーそしてタイでのツアー中にバイク事故に遭い…

7ヵ月バンドから離れて…その時期が人生の中で一番苦しかったなぁ。まず、事故に遭って最初の2ヶ月は常に右足を切断するかしないかっていう話で推移していたし、切断の危機がなくなったのは3ヶ月後くらいで。どちらかというと切断した方が良いとう意見の方が強かったからそれだけはやめて欲しいという戦いもあって…どうなるかがわからないっていうこと事態がすごく辛くて…はたして普通に戻れるかどうかさえもわからないっていうことがね。トイレも行けないわけですよ、ベッドに固定されてたから。寝返りも出来ない、首も動かないし、よくそれで生きていたなと…半分、死んでいたような状態ですよ。
ただ、途中から絶対治そうという気持ちに切り替わって。

ーその想いの中、遂に武道館での復帰を果たされますが退院されてすぐだったのでしょうか?

すぐ。退院した時点ではまだちゃんと歩けなくて。これはホント大丈夫かと思いながらいて…その時ね、日光の二荒山神社っていうところに行って。そこに気になる木が境内にあって、The Chemical Brothersを大きい音で聴きながらその木にへばり付いていたら、ものすごい勢いで気が足元から頭に抜けるような感覚があって。多分20分くらい木と同期するように。それが良かったのかな…それで武道館ができたようなもので。どうしようもなくて武道館の1週間前に二荒山神社に行って歩けるようになったんです。それもターニングポイントだし、その場所に呼ばれたのかなって気もするし。

ーそこからスカパラも大きな変化を遂げることになります。レコード会社の移籍と杉村ルイさんの加入・脱退。

そのあたりはね、ぶっちゃけていうとavexに移るにあたって、ボーカルがいることが条件だったんです。なので当時は必然性っていうことも考慮するとルイしかいなくて。ギムラの弟だし。で、彼が加入することになるんだけど、これがうまく行かなかった。一緒にやってみてやれないねっていうバンドとしての判断があって。ただ、そうなったところでこれは『ギリギリのところになってきたな…』っていうのが自分の中に感覚があって。その、移籍して1発目を外してるわけでしょ?で、そこで手を挙げたんです。『俺にリーダーを任せてくれ』っていう話をみんなにして。そこから『火の玉ジャイブ』とかの流れになって行くという。

ー冷牟田さん自らのリーダーという役割、JUSTA RECORDS、Tabooの立ち上げ等、精力的な活動になっていくわけですが『火の玉ジャイブ』リリース目前で青木さんの急逝…

もう何も考えられないというか…そういう状況に追い込まれたけれども…元々自分の中で大きな存在の中村達也とチバユウスケの2人がいて。同じ匂いを感じていて、似た者同士なんじゃないかと勝手に思ってその2人に元々声を掛けていて。中村達也に青木が急逝後のツアーまで8日前っていうタイミングでドラムを叩いて欲しいと頼んでみたらやってくれたんですよ。それが大きかったです。それがなかったらスカパラ自体もどうなっていたかわからないと思う。

ーその時の中村達也さんもそうですし、バンド自体も凄まじい決意の中だったのでは?

そうですね。リハーサルも実質4日くらいしかなくて。ツアーで組んでたのが20数曲あって、特にワンドロップの曲もあって。8ビートのキックとスネアが逆になったり同時に叩いたりってなるから、やっぱりそれは苦しんでたなぁ。ただ、あれはその期間では普通じゃできないですよ。達也がやってくれなかったらツアーは無理だって自分は判断していて。達也がやってくれるんならやるっていうことをメンバーに話していて。彼がいないと乗り切れないと思っていたので。

ーそしてツアー自体は大成功を収めます。

あれはね、スカパラの歴史の中でも自分の中でも1つのピークだった。メンバーも異常なテンションでやっていて。『FULL-TENSION BEATERS』はあのツアーを越えようと思って作ったアルバムです。

ー実際、リリースされた楽曲たちを聴くと冷牟田さんの曲が多く収められていますね。

ステージを構成するにあたって自分で『こういう球(曲)が欲しいな』ってものをアルバムに入れたんです。全てライブのことを考えて作った曲で、あのアルバムはライブでやりたい曲が収めてあります。

ーリリース直後のツアーを収めた『Gunslingers -LIVE BEST-』を聴くとその想いがそのままパッケージ化されています。

こで前回の中村達也と周ったツアーは乗り越えたなっていう実感があって。超えられたからその後があるんだけど。

ーまたメンバー構成も加藤さんや茂木さんも加入されて新たなスカパラとしてのタイミングだったと思います。

そうだね、元々は前のツアーで中村達也の名前を出したのは自分なんだけど他からは欣ちゃんが良いんじゃないかて話は当時から挙がってて。その流れで決まったかな。

ー新メンバーの元、新しいアプローチとして歌モノ3部作になっていきますがメンバーからのアイデアだったのでしょうか?

あれはメーカー主導のアイデアですね。自分としては歌モノをやるというよりかはインストでやりたい・貫いていきたいという気持ちがあったので。スパイス的に歌モノをやるっていうのは全然アリなんだけども歌モノありきになっていくのがちょっと『それは違うんじゃないか?』っていう気持ちでいたんだけど。でももうその時点で自分がやりたい事っていうのは全てやりきって、いろんな事を振り切ってやったっていう満足感もあったし、新しい道をいくのも良いかなという判断を当時はしていた。

ーゲストボーカルの方々自体はメンバーのセレクトだったのでしょうか?

もちろん。最初の3部作は思い入れとしてはかなり大きいかな。特に1曲目の『めくれたオレンジ』どれもこれ以上ないっていうくらいの出来だったし。あれは誰に聴かせても胸を張れる3曲だったなと思う。

ーライブ自体も精力的になり、アジテーターとしての冷牟田さんへの負荷も大きかったのでは?

ちょうど歌モノに移行した辺りではもう自分的にはやりきっていたというか、燃え尽きた感じで。何も出来ないっていうくらい、もう力が残っていなかったと思う。体もすごいムリをしていたし、精神的にも自分で負荷を掛けてやっていたので、一旦リーダー的な役割を離れてっていう風になってからはモチベーションも維持できなくなっていった。維持できなくなってからは…欝が酷くなっていって、辞める直前までそういう状態が続いていたかな。

ーそういった状況の中でのステージパフォーマンスはかなりの葛藤があったと思うのですが?

う〜ん、なんかそういう期間がすごく長かったなぁ。結局辞めてから今の再生にに至るまで考えていくと沈み込んでいた時期っていうのが。鬱っていうのがホント厄介な病気で今考えると大変だった。

ーそして脱退という選択肢をされますが冷牟田さんご自身での決断だったのしょうか?

いや、どちらかというとメンバーが決めたようなところが大きい。

ー00年発表のDVD『SKA EVANGELISTS ON THE RUN』このDVDで冷牟田さんは、『自分にとってスカパラとは?』という質問に『自分自身…ですね』とお答えになっていますがその自分自身を辞めるという心境はいかがだったのでしょうか?

そこでね…こう、何とも言えない深みに1年くらいはまってしまったというか。再生させる為にはまず、鬱を克服しなければならないというのがあって。まず最初の1年はそこに集中しようと。で、1年で何とか克服して…そこでね、またスカパラに戻るっていう選択肢もあったんだけど…周りを見渡した時にもうそういう雰囲気ではないなと。そこでもう自分でやるしかないなと、そのちょうど1年経った時に思ったかな。

ーそこで結成されたのがDAD MOM GODですね。

さぁやるぞって思った日の午前中にバンド名を決めてそれからドラム…と名前を挙げていって5分くらいでメンバーを決めたんですよ。

ーえ?!5分でですか?

で、決めたメンバーにもちろんセカンドとか考えずにファーストセレクトで選んだメンバーに連絡してすべてOKをもらいました。

ーということは構想段階で冷牟田さんの頭にはバンドの音のイメージがあった?

はい。基本1発で録れて、常に緊張感が保てる、自分自身が盛り上がれるメンバーで、と思って。あれはもうこれ以上ないっていうメンバーを集められた。で、最初の1枚目をどうしようって思っていきなりメジャーでっていうのも…とにかく早くやりたかったから、ベンジーのトコでやらしてもらうのが良いんじゃないかと思って。で、話をしに行ってデモを聴かせたら気に入ってくれて、sexystonesからリリースすることになった。

ーサウンド面では音像が前面に出てくるような無骨なサウンドが印象的でスカパラ時代の『MONSTER ROCK』や『LUPIN THE THIRD』などのセルフカバーもありました。

特に元々『MONSTER ROCK』っていうのはライブではものすごい数をやっていたんだけど音源としてはスカパラのファーストアルバムのしかなくて。もうそのテイクとは似ても似つかない楽曲になってしまっていたのでそれをまず残したいっていうのがあったし、あの曲だけはスカパラを抜ける時に自分で続けると言っていたので、これから続けるぞ!という思いを込められる楽曲をファーストアルバム『Poems like the Gun』に入れた。

ー音源とライブでの演奏の音が変わらないことにもびっくりしました。

そのままでしょ!録った(レコーディングした)音とライブで鳴ってる音が殆ど変わらないっていう…実はそれは意図してやっているところがあって。ギャップがあまりないものにしたいという想いがあって、かといってライブアルバム的なものでもなく。割とライブアルバムとかって聴いても少し音が後ろに引いてるような音作りが多くて。そうではない、前に音が飛び出してくるような、目の前で演奏されているようなサウンドにしたかった。

ー2ndアルバム『ISN’T IT DMG?』ではメジャーに。

あれは話をもらって最初、構想とかなかったんだけど1ヵ月くらいで曲を作って。ただ、バンドを始めたのは良いけど、みんな忙しすぎてスケジュールが取れなくて(笑)これは『このバンドは自由に動くことが出来ないんだな』って。そこでやっと気づいたっていうか(笑)まあ何とかうまく調整してやりくりできるんじゃないかと思ってたんだけど、結局みんなで集まって合わせるっていうのが難しいってなって。実はTHE MANの構想はその2枚目の頃にあったんですよ。

ーそれはスケジュール的なこともあってということでしょうか?

いや、やっぱりライブの出来の良し悪しの振れ幅が大きくなっていったのがあって。毎回違うライブを演るっていう意味では良いんだけど、当然良くないライブっていうのはやりたくないわけで。みんな良いところに向かわせようとするんだけど、意図せず結果的に良くないライブが数回あって。リハーサルもせずにいきなり本番ていうのが何回もあったから、これはきちんと活動できるバンドがもう1つないと無理だなって思った。

ーではTHE MANについてはどのようにメンバーを集めていったのでしょうか?

それは元々知っていたメンバーを集めたというよりかは全く知らないメンバーを集めていったので、いろんな場所に実際に観に行って。

ーリリースされたDAD MOM GODの『ISN’T IT DMG?』はファースト『Poems like the Gun』と違い多彩な印象があります。

まぁファーストと同じことをしても面白くないなていうのがまずあって。あとは全てそうだけどアルバムを作る時はライブで演るっていうのが大前提にあってライブでどういった楽曲が欲しいかっていう部分でファーストで足りなかった所をセカンドで作ったんだよね。で、2回目のレコーディング終わったくらいからバンドっぽくなってって。特にファースト〜セカンドっていうのは自分の意見を100%反映させたものだったけど、サードを作る時になると割とみんなに相談して決めたりとか、時々の寄せ集めではなく、ちゃんと参加するっていう。バンドって意識にかなり重点を置くようになった。

ーその間に震災・原発問題が起こって。以降、現実を作品としてどう音・言葉で表現するかというのは様々なミュージシャンが苦心していると思うのですが冷牟田竜之というミュージシャンにとって、どういう影響を与えたんでしょうか?

その…震災の前から思っていたんだけれど、『必ず同じ明日が来るとは限らない』っていう気持ちで生きていかなきゃいけないなってすごく思ったし…後は原発のことかな。あれに関しては完全にNOだなって。これはないなって。サードアルバム『Broken Noses』に『kick up the dust』って曲があるけどこれは原発のことを歌ってて。原発を止めるのはみんなの気持ち次第だよっていう。原発事故は絶対繰り返しちゃいけないね。

ーライブ公演では原発事故から近しい東北方面でも積極的に演奏されていますがオーディエンスの印象というのは?

ARABAKIもそうだし、気仙沼や福島にも行ったけど、実際行くと地元の人達は元気で笑顔で逆にこっちが元気をもらえたりするんだけど。それがね、余計に痛々しいなっていうのがあるし…福島には親友が住んでいるのもあって何とかしたいっていう気持ちが強くて。そういう意識はもう色んな人が持ってると思うけど。一番問題なのはダブルスタンダードっていうか『本音と建前』って常にあって…っていうのはもういいんじゃないかって。本音でみんなが意見をいう時なんじゃないかってすごい思っていて。あとは『見て見ぬ振り』と『自分で行動しない』っていう。人に任せて文句だけ言うみたいな。そういうのはもうやめないといけないし。最後に 『物事には表と裏がある』。メディアで発信してる表だけ見るのではなく、裏も感じて欲しいなって、若い人たちにはそう思っている。

ー最近ではブログやメルマガも始められたりと冷牟田さんのメッセージが発信される場所が増えましたがこういったことも関連するのでしょうか?

よりダイレクトに伝えたい事を伝える為にもそうだし、支えてくれる人達とはちゃんと繋がっていたいというのがあって。
自分が出した音楽のフィードバックとかも欲しいし。今までスカパラやっててそれがあまりなかったから、そういった経験も踏まえて繋がれる活動をしたいと。

ーTHE MANでは路上でのゲリラライブという風に繋がっていきますね。

スカパラの最初の頃がそうだったからまた渋谷の街で始めたら良いんじゃないかなって。で、ダイレクトな反応というのが自分達のモチベーションに繋がるんだけど、やっぱりやってみてそれが足りなかったんだなって気づいて。

ー然しながら規制とか大変そうですね(笑)

警察に毎回止められます(笑)

ーそしてTHE MANとしてアルバム『THE MAN』もリリースされました。

並行してDMG(DAD MOM GOD)もTabooもやって行くけど、THE MANに比重を置いてやっていきます。今は力をいれるタイミングだなと思っているので。

ー秋にはツアーも始りますが対バンの意図については?

新しく出て来たものってちゃんとムーヴメントにしていかなければいけないと思っていて。ただ1バンドだけそのムーヴメントを作るより2バンドの方が強いと思って。カルメラは方向性は違うけどオーディエンスの気分を高揚させて楽しませるっていう意味では一緒で、新しいバンドだし良いかなぁと。アルバム出る前から知ってるけどライブを見てそう思った。

ーその他の今後の活動について教えてください。

まず、11月にTabooが来年15周年を迎えるにあたって、そのプレパーティーを渋谷AXでやって。来年はその規模を大きくしたTaboo15周年があります。またTHE MANについては次作はメジャーからリリースします。で、再来年は東南アジア、南アメリカ、イタリア、スペイン、フランス等で海外にも活動の幅を広げたいと思っています。

ーTaboo15周年にTHE MANの海外展開とこれまで以上に精力的な活動ですね。

スカパラでやっていた手法っていうのが地方のイベンターに任せて全てお膳立てされた状態で乗っかるっていう感じだったから、そうじゃなくてもっとピンポイントにその場所でこのバンドが見たいとか呼んでみたいとか思ってくれる人と直接ライブを作っていきたいと思ってます。国内外問わず、全て同じスタンスでやろうと。来年、メジャーにいくとメジャーの活動も増えるだろうけど、常にこのスタンスは失くさずに活動していきたいと思います。

ーありがとうございます。最後にファンの方へメッセージをお願いします

っきもちょっと話したけど、自分で動かないと何も変わらないし、何も生み出せないし、閉塞感があるなら動いて、動く度に色んなものを見て欲しい。あと、政治には参加して欲しい。これから先がどうなるかなんて誰もわからない状態の船に乗っているような状況だから人に任せずに自分で舵取りをしないといけないと思う。


取材:2013.09.12
テキスト:Atsushi Tsuji(辻 敦志) @classic0330
撮影:Eri Shibata