冷牟田 竜之 インタビュー

ー今回の特集では冷牟田竜之さんの活動履歴を辿っていければと思います。まず、初めて音楽に触れられた頃から教えてください。

うちの母が組み立てるラジオを買ってくれたんですよ。それを自分で組み立ててFMラジオを聴き始めたのがきっかけで。当時のベストテン番組とか。アーティストだとCarpenters・Mott the Hoople、確かPoulMcCartneyもソロになり始めた頃でJohn Lennonもそうだし…洋楽から入った。

ー当時、小学生くらいだったんですか?

小学校6年の手前、5年の後半くらいからだった。そのうち、当時流行っていたフォークに入って。ラジオの深夜番組を聴いていて、それはAMなんだけど。オールナイトニッポンとかね、それで吉田拓郎さんを聴き始めてからギターが欲しくなって中学1年の時に初めてギターを買った。

ー吉田拓郎さんを聴いてということはアコースティックですか?

そう、アコースティック(笑)ところがね、3ヶ月くらいしたらエレキギターが欲しくなっちゃって。というのも自分が聴いていた音楽が急に変わり始めて。中学に上がると歳が3つくらい上の友人の兄貴がいて、その人がT-REX、IGGY POP、David Bowieとか、所謂グラムロックの音源を聴かせてくれたんですよ。また、ちょうどその時に深夜番組で聴いた『ファンキー・モンキー・ベイビー』がビッと来て(笑)すぐにレコードを買いに行ったんですよね。まだその時は誰がやってる曲かがわからなくて。問い合わせたらCAROLがやってるってわかって。ロックンロールの出会いってそこなんです。

ー日本のロックで初めての出会いがCAROLだったんですね。

ただ、中学1年の時に知ってからすぐに解散だったんだけど。小倉に小倉球場ってトコがあって最後のラストツアーでCAROLが実は来たんですよ。当時ね、中学校が男子は坊主頭で(笑)それで行くのは勇気がいった(笑)行ったら皮ジャンとリーゼントだらけみたいな。まあそれでも友達の兄貴と一緒に観に行って。それでバンドっていうものにものすごい衝撃を受けて、人前で演奏するっていうのがやりたくてしようがなくなって。それでエレキギターにいくことになるんだけどね。

ーエレキギターで最初はコピーからですか?

『ファンキー・モンキー・ベイビー』もコピーしたし(笑)あとは DEEP PURPLE、LED ZEPPELINとかを最初に演って。

ーフォークから本格的にロックに傾倒していった?

グラムロックやハードロック…洋楽のロック寄りになって行って。CAROL以降は邦楽のロックはテレビとかラジオで少しは聴いていたけどあまり追っかけることはなくなったなぁ。あと、THE DOORSとかも教えてもらって聴いてたな。

ーイギリス・アメリカ問わずですね。

友人の家に良いオーディオがあって、素晴らしいステレオ(笑)そこで聴くのがとにかく楽しくて。割と音響ファン・オーディオマニア的な側面も当時からあって、そこで聴いた音楽に影響を受けたのはあった。

ーその影響を受けて実際にバンドを組まれたのはいつですか?

中学3年のとき。

ーエレキギターを手にしてからすぐにバンド、とは至らなかった?

学校に同じようなことをやってる人が誰もいなくて。例えばドラムにしてもどうやって叩いて良いかもわからない状態で。で、結局オーディオのある友人…兄貴じゃなくて友人の方にドラムを買わないか?という話をして(笑)

ー冷牟田さんが口説いた(笑)

で、ドラムを買ったんですよ。最初はその友人の家で一緒に演ってた。

ーそれが最初に組んだバンドだったんですね。

ホントにガレージっぽい感じですよね、そんなトコでやってたので。

ー構成は最小限のバンドだった?

いや、最初はギターとドラムだけで演っていて。で、中学校の学園祭で演奏しようということになってまた別の同級生にベースを無理やり…(笑)

ー(笑)冷牟田さんに口説かれたメンバーでバンドが組まれたんですね。因みに学園祭で何を演奏されたんですか?

え〜っとね、DEEP PURPLEを演ったんじゃなかったかな…

ー初めてオーディエンスを目の前に演奏されたと思うのですがその当時の心境はいかがでした?

いやね、想像以上に恥ずかしくて(笑)ステージの上に立ったらみんな見るわけじゃない?自分の事を。その視線がこんなに恥ずかしいのかっていうのを体感して。まともに前を向けなかったのを覚えている。

ーしかし、その恥ずかしい経験からまたステージに立たれるわけですよね?

そう、高校に進学するとまず仲間の幅が広がって。同じ町内から同じ市内にみたいな。そうやって仲間を探していて、そこで繋がっていくとレベルの高い人達っていうのが北九州の中にはいたんだよね。そうしたらあっという間に北九州のアマチュアバンドのシーンに触れて。それでもう音楽でやっていこうと思ったし、固まった時期だったね。高校2年の時には、もうそういう気持ちだった。

ー当時、冷牟田さんが音楽と決めたきっかけに北九州のシーンというのがかなりの影響を及ぼしていたとのことですがサンハウス等がそれにあたるのでしょうか?

あの、高校1年のときに北九州に到津遊園地っていう動物園と遊園地が一緒になった施設があって、その中に森の音楽堂っていう野外音楽堂があるんですよ。で、そこでねサンハウスと人間クラブとあと山部善次郎って人が当時やってたドリルっていうバンドが演っていてそれを同時に観たんですよね。そこがターニングポイントになるのかな、音楽をやっていこうと思った…

ーものすごいバンド達を真近で観られていたんですね。

やっぱり自分にとっては音楽でいうとロンドンと北九州ってあんまり変わらないんじゃないかという錯覚があって…というか錯覚するくらい凄かったんで。 実際、後に東京に出ていろんな東京のバンドを観たんだけどやっぱりその感覚は正しかったし。そのくらい当時の北九州のシーンのレベルが高かった。

ーそのシーンの中で冷牟田さんが本格的に活動されていたのはライブハウスですか?

小倉に松田楽器店っていうトコがあってその楽器店の2Fでライブが出来る場所があったんですよ。そこに行くようになって、THE ROOSTERSの最初のライブもそこで観てるし。THE ROCKERS、THE MODSとかみんなそう。

ーこれまで様々な記事で冷牟田さんがごらんになったTHE ROOSTERSのファーストライブでの影響は計り知れないとのコメントをされているのですがどのような衝撃だったのでしょうか?

まずね、一見してルックスが他のバンドとまるで違ってた。人間クラブの時っていうのはロックンロールをやってはいたんだけど、ルックス的にはグラム寄りだったでしょ?サンハウスの影響だったと思うんだけど。ところが物凄い細身のコンポラスーツにリーゼントだった。それであのロックンロールを演奏しているのがものすごく新しい感じがしていて。当時、YMOなんかも人気で聴いてた時期が重なるんじゃないかな、新しいって意味で。8ビートなのに腰にくるというか、うねってるんだよね、ビートが。そういうのを初めて聴いて。一直線なビートだったらパンクとかでよくあったけどビートがうねるグルーヴというか、そういうのが衝撃だったな。8ビートでグルーヴするっていうのはTHE ROOSTERSが初めての経験だった。

ーTHE ROOSTERSは同じシーンの中でも稀なサウンドだった?

もちろん、サウンド的には人間クラブの時に前兆はあったけど、よりソリッドでシャープになって。当時、めんたいロックって言われた3バンドの中でTHE ROOSTERSの存在は自分の中で特別に大きくて。他のバンドも好きだったけど、やっぱり比べることができないくらい好きだったな。

ー実際にTaboo等のイベントで冷牟田さんご自身、『テキーラ』をセレクトされてますね。

インストでね、テキーラを演るっていう発想と削ぎ落としたアレンジは世界レベルだなと思ってて。そういうバンドとシーンに居れたことはラッキーだった。

ーその同じシーンの中で組んだバンドが『ハイヒール』?

それはねぇ、デビューするには当時エルモーションっていうコンテストがあってその九州大会で優勝するとメジャーと契約っていう流れになっていたので、そこでまずグランプリを取らなきゃならないとなって。当時、そのハイヒールのボーカルと知り合って2人でメンバーを集めたんですよ、他のバンドから引き抜いたりとかして。結果的に全員、違うバンドをやっていたんだけどドラムとギターを集めて。で、その時ギターからベースに変わった。

ーここでベーシストの道が始まったのですね。

メンバー集めをしている中で良いベーシストが居なかったのと、自分より良いギタリストがいたからってだけなんですけどね。

ーただ、ギタリストとしてデビューを目指していた中でパート変更に抵抗はなかったのですか?

それはね、あんまり当時はそういう事を考えていないというか執着もなくて。ベースはやってみたら単純におもしろくて自分に合ってるかな、と思った。

ー他のパートと違いギターからベースなのでそこまで違和感はないかもしれませんが練習は大変だったのでは?

う〜ん、スカパラに至るまでずっとそうで自慢できることではないけれど、あんまり必死に練習したっていう覚えがなくて。多分、楽しかったからそう思っているだけなのか、1人で根を詰めて練習したっていう記憶もなくて。ただバンドでやるっていうのが楽しくて。

ー冷牟田さんご自身が認めたメンバーの中でやっていたからこそ、そこで磨かれていった?

2日に1回は必ずスタジオに入ってたし。ヤマハの練習スタジオで。当時は朝本(浩文)なんかも居たな。UP BEATのメンバーとかも練習してた。

ーそしてエルモーションにハイヒールとして出場し、見事グランプリを勝ち取られます。

そう。で、当時CBSソニーとやりましょうということになったんだけど。当然メジャーだから準備期間があり、1年くらい九州でバンドは準備をしてレコード会社側は東京で準備というタイミングでハイヒールは解散したんです。

ー理由はなんだったのでしょうか?

それはね、今考えると本当にくだらないことでね。まぁ、喧嘩してやめたんですよ。つまらないことで。今考えるとやめるほどのことではなかったなと思いますけど。

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