冷牟田 竜之 インタビュー

ーデビューを目指した中での解散後、すぐに次の行動に移されます。

すぐに上京しました。ちょうどその頃、THE ROOSTERSから井上富雄が脱退するという話は聞いていて、新しいバンドを作りたいと声を掛けられたんですよね。それでタイミングよく東京に行きました。

ーハイヒールメンバーの方も一緒でしたね。

ドラムとキーボード(木原龍太郎)と。解散が決まってすぐに東京に行ったので解散ライブとかもしなかったですね。1年後に東京から地元に戻って解散ライブはやるんですけどね。

ー喧嘩別れからの解散ライブは1年という経過で円満な感じだったのでしょうか?

そうだね、1度限りだったし。そういえば当時、BOOWYが九州ツアーで来るとハイヒールが前座でついてたりして。逆に僕らが東京に行くとクロコダイルとかLOFTでBOOWYと演ってたんで。そういうこともあったな。BOOWYが急に売れた時期があったでしょう?あれは衝撃的だったな。

ー帯同していたバンドが商業的にも成功を収める中で冷牟田さんご自身はどのように感じていらしゃったんでしょうか?例えばBOOWYは早くに武道館公演を行いました。

武道館というのは当時、頂点だったから。特に東京に出てきた頃は武道館で演るまでは帰らないと決めて来てましたから。

ーそういった意気込みで参加されたBLUE TONIC & THE GARDENからメジャーデビュー時のBLUE TONICになるまでいくつかのメンバーチェンジもありました。

まず、当時のボーカルとアルトサックスをやっていた石島君が辞めて、ドラムも入れ替わったんですよ。で、結局メンバーが減って4人になったんだけど『これで大丈夫なのか(笑)』と思いながらもデビューっていうタイミングになって。

ーデビューアルバムでは井上さんならTHE ROOSTERS、冷牟田さんならハイヒールとこれまで活動されたバンドの楽曲とはかなりアプローチを変えたものという印象を受けました。

そこはね、商業的なROCKに対してのアンチテーゼだったんですよね。8ビートでROCK的な演奏をしていればROCKだ!みたいな風潮が出てきていて。自分の中のROCKってもっと違ったもので、『エッジが立ってて、匂いが強くて、毒があって』っていうものだと思ってたから。形態のみがROCKであって音楽がROCKでないものが世の中でROCKと定義されていることへのアンチでJAZZを聴くようになったんですよね。あとはATLANTICとかのR&Bだったり、ルーツミュージックに目覚めていったのかな。ブラックルーツというか。当時はPaul Wellerも同じように聴いていたんだと思う。で、ちょうどほぼ同時期に彼はThe Style Councilをやった。実はね、The Style Councilの『Café Bleu』がリリースされた時に『これはやられた(笑)』と井上富雄と2人で話をしたのを覚えていて。同じようなことをやってるって。

ーしかもほぼ同時期リリースでした。

自分たちもThe Style Councilを聴いてから真似たのではなく、多分制作時期は一緒だったと思うんですけど。ただ、今は自分としては良かったなと思っています。この時期にルーツミュージックを深堀りできたので。

ーBLUE TONIC活動中に後に加入される東京スカパラダイスオーケストラとの出会いもありました。

BULE TONICは活動期間が短かったんですけど中期くらいでスカパラのメンバーと知り合ったというかASA-CHANGと会ったんですよ。実は僕、どちらかというとスカパラではなくてスカフレイムス側だったんですよ。スカフレイムスの最初の7inch『TOKYO SHOT』は僕がディレクションしてるし。半分プロデュースに近かったですけど。そうやって自分の中でスカが盛り上がってるタイミングにASA-CHANGと会って。当時バンドとして体を成してない頃のスカパラに『プロのミュージシャンが一人もいないから練習を見に来てくれ』って頼まれて見にいったのがきっかけなんですよ。

ースカという音楽への傾倒はあったものの、最初はその前段階での出会いだったと。実際に当時の印象については覚えていらっしゃいますか?

いやぁ、ものすごいヘタクソで(笑)考えられないくらい。ただ、青木(ドラム)と沖(キーボード)はずば抜けて良かったので『これはなんとかなるな』と思ったんですよね。

ー実際にBLUE TONICのライブにも参加されたり、冷牟田さんご自身も同時進行でスカパラに参加されています。

ただ、まだスカパラはアンダーグラウンドな存在。スカフレイムスはオーセンティックスカを割りと忠実に再現するスタイルのバンドだったんでスカパラはもっと違うパンクとかのエッセンスを取り入れた方がアイディアが広がるんじゃないかと思っていて。それを実践して行ったんです。

ー一方でBULE TONICは解散という選択をします。

う~ん、多分井上富雄がリーダーとしてバンドを引っ張っていくというのが疲れていたんでしょうね。そんなにブレイクした訳でもないし。あまり広がらない感じでずっと来ていたので、次の段階に行かなければいけないという焦りもあったと思うし。

ー井上さんから提案があって冷牟田さんは賛同された?

まぁ仕方ないなと思ったんで。それで一層、スカパラの方に力が入るようになったんですよね。

ー解散されてからはスカパラ1本になるわけですが最初はパートがパーカッション?

何しろ、ASA-CHANGが最初リハーサルに来なかったんで、忙しいから(笑)で、パーカッションはいないし、ベースは川上がいたし。で、当時居たホーンのメンバーとかギターとかも全部入れ替えちゃいましたね。ギムラと2人で(笑)『すまないけど、辞めてくんないか?』っていう話をしたのを覚えてる。三宿のデニーズでね、夜中2人で会ってどうやっていくかというのを本当に良く話してた。

ーギムラさんと話されていく中で当初の目標はあったのでしょうか?

まず、このバンドで武道館でやるっていう。このバンドで実現しようという思いは強かったなぁ。

ーBLUE TONIC解散からスカパラデビューまで期間としては短い印象でした。

準備期間はあったんだけど、割と早い段階からいろんなところに点を置いていて一気に線に繋がるタイミングが早かったなぁとは思う。当時、BULE TONICで一緒に動いていたブレーンとかに色々声を掛けたりお願いをしていたのが功を奏したのはあったかな。当時はマネージャーもいなかったし、全て自分で考えて自分で動くっていう。ライブの組み立てとかも集客が拡大していくように戦略を立ててやっていたので。

ーということは加入された時点で冷牟田さんご自身がリーダー的な役割を果たされていた?

う~ん、デビュー前までそんな感じでギムラと2人でやってて。ただデビューが決まったタイミングでASA-CHANGが帰って来ちゃうっていう…(笑)まぁバンドが軌道に乗ってきたタイミングだったんだけど。で、戻ってきてくれたからASA-CHANGに任せちゃえって。面倒くさいわけですよ、自分で考えてやっていくっていうのが疲れるしね。ギムラもそうした方が良いよねって言ってて。

ーそういった中で現在も演奏されている『MONSTER ROCK』でスカパラとしてデビューされます。

嬉しかったなぁ、当時。あの曲はね、唯一アルバムの中で8ビートなんですよ。それがね、青木と結構戦った。彼がね、頑なにワンドロップでやりたいっていうのがあったんだけど、この曲に関しては絶対8ビートにして欲しいって言って。

ーそして2ndアルバム『ワールド フェイマス』発表後、武道館公演という早いタイミングで。

そう、デビューから2年も満たないタイミングで。実はその後がね…必死でやってたから当時。武道館終わった後っていうのがね、ものすごい脱力感があったのを覚えてる。これから先どうしようっていう。

ー達成感もあったと思うのですが。

もちろん達成感はあった。あのライブはものすごい良かったから。達成感も満足感もあって。だからこれからどうしようという気持ちも同時にあって。

ーそれは冷牟田さんご自身が?

いや、みんなそうだったんじゃないかな。で、結局ASA-CHANGも辞めるって言い出して。しばらくしてギムラが亡くなって…その辺りがスカパラをやるにあたって一番苦しかった時代だったかな。

ー竹内さんや林さんもその以前に脱退もされていますし。冷牟田さんへの比重も大きかったのでは?

う~ん、補っていくっていうのはギムラがいなくなってから。いなくなって『じゃあ、フロントどうするの?』ってなったときに自分でやるしかないって思ったんですよね。

ーそれは4thアルバム『FANTASIA』リリース後?

そうだね、それからThriller Uとか小沢健二とか迎えたアルバム(5thアルバム『GRAND PRIX』)があって。

ー『GRAND PRIX』や『トーキョー・ストラット』はこれまでのスカパラとは趣が異なる楽曲構成になっています。

自分の中ではスカというよりは当時、FATBOY SLIMに夢中で、あとThe Chemical Brothersも聴いていて。ちょうど台頭してきたタイミングで、そっちよりの音楽に頭が行っていて。『トーキョー・ストラット』とかは明らかにケミカルとかの影響だった。

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