佐久間正英 ラストインタビュー

ー今回は佐久間さんの音楽経歴を辿りながらお話を聞かせて頂きたいのですが、音楽との最初の出会いはいつ頃でしたでしょうか?

2歳のときに聴いたベートーベンの「運命」ですね。映像としては鮮明に覚えていて。音が全て光の束のように見えて、しかもその光の束を自分で指揮すると自由に操れるっていう。

ーすごく神秘的な記憶ですね。

本当にそういう映像を見たのか、その後に何かで見た映像なのかはわからないですけど、記憶ではそうなっています。

ーご家庭ではお母様が日本舞踊・三味線の先生と音楽については恵まれた環境だったのでしょうか?

そうですね…生活環境という種類では恵まれていたわけではなかったですけど、確かに母親がやっていたのは大きいですね。兄も小学1年からギターを始めてたりしてましたし。

ー早いですね(笑)佐久間さんご自身が最初に触れられたのは?

ピアノですね。あ、家にあったオルガンかな。僕がピアノを習ったのが小学1年のときなんですけど実質1ヶ月くらいしか出来なくて。その先生が引っ越すことになっちゃって、近所にその先生しかいなかったものですから。

ー僅かな期間だったんですね。

ただ、何故か初見で譜面が読めちゃったもので習得が早かったですね。1ヶ月で確かツェルニーくらいまでやっちゃって、3冊(バイエルン上下、ツェルニー)くらい終わりました。

ーそれは早いですね!

記憶に残っているのがあって、小学1年で最初の音楽授業のときにト音記号・ヘ音記号を教わって。
それから読めるようになったんです。

ーでは、それ以降は独学だったのでしょうか?

そうですね。多分、兄貴も同様に譜面が読めていたと思います。

ーその他の楽器への興味はいかがでしたか?

小学校の頃は器楽合奏とか笛をしたりとか、ひと通りなんでも好きでやってましたね。ハーモニカだけはどうしてもイマイチ好きになれなかったですけど。自分が吐いた息を吸う≒唾を吸う感じがどうしても気持ち悪くて(笑)

ー(笑)では、ハーモニカ以外の楽器は小学生時代に触れていたと?

そうですね。中学になって真剣に音楽を始めて吹奏楽に入ったんですね。僕の兄貴が既に吹奏楽をやってたんですけど、母親譲りの才能があって何をやってもものすごく上手で中1のときには既にサックスがバカみたいに巧かったですね。で、到底敵わないと思って兄貴が唯一出来なかったのがトランペットなんですよ。で、トランペットやりました(笑)

ー(笑)お兄さんが唯一苦手としていたものを佐久間さんが?

そうそう(笑)

ー因みにお兄さんは音楽の道に?

いや、今でも趣味ではやってますけどね、色んな音楽を。バロック音楽とか。たまに何年かに1度会って弾くのを聴くとギターは一生敵わないですね…

ー佐久間さんにそこまで言わしめるとは(笑)ギターは中学生からでしょうか?

吹奏楽が4月(中学1年)に入ってそれから多分半年くらいやって。で、家にあった兄貴のギターへ急に興味があって始めたのかな。その頃、兄貴はガットギターからジャズというかアコースティックギターに変えて…なんで変えたかは知らないですけど(笑)そんな中でも吹奏楽は真面目にクラシックとかをやっていました。そんな折に同じクラスの子に「佐久間くんギターやってるんだって?家に遊びにおいでよ」って言われて。そいつは秀才でスポーツも勉強も学年で1番のヤツだったんですけど…
要するにあんまり好きではないタイプで(笑)それで遊びに行って始めて2人でベンチャーズをセッションでやったんですけど、メチャメチャ面白くて。それまでやっていた吹奏楽での音楽の合わせ方とまるで違って。それで一気にバンド音楽に入りました。

ーセッションがきっかけになったとの事ですが最初はコピーが中心でしょうか?

そうですね、ベンチャーズとかその当時流行っていた加山雄三とかですね。話は前後しますが小学生のときにアメリカン・ポップスをよく聴いていて、プレスリーとか。アイドルグループで乃木坂46の生田絵梨花ちゃんのおじいさんが僕のおじさんに当たる方でビクターの洋楽にいたんですけど。その頃の洋楽ってアメリカに買い付けに行って権利を持ってくるっていう仕事だったんで。そうすると遊びに行く度に面白い音楽を見つけては聴かせてくれてましたね。

ーではその辺りの音楽が佐久間さんご自身のルーツにもなっていると?

そうですね、あとうちの姉が好きで。電話で音楽リクエストするっていう全盛時代でやっぱりアメリカン・ポップスでしたね。シェリーフェブレーに1番影響を受けて、「うちのママは世界一」っていうテレビ番組の娘の役で出てて。で、テレビ出てたときは歌い手とは知らなくて確かパーティーで歌うシーンで「Johnny Angel」ってデビュー曲を聴いてそれがものすごい良くて。それで一気にハマって行きました。アルバムもバラードとかもあって、今にして思えば「B-52’s」のルーツみたいな感じでした。

ーでは、アメリカン・ポップスからベンチャーズのようなサウンドまで分け隔てなく好まれていたんですね。

インストゥルメンタルと歌って分けてたわけではなくて、自分が歌うことに興味がなかったので。吹奏楽もそうですし。

ー吹奏楽からギターへと興味も逆転されて行った?

逆転しちゃった。ただ吹奏楽も一応、真面目に芸大目指しちゃうタイプなので。
周りがすごい優秀な人ばかりで、芸大・音大なりヨーロッパのオーケストラに入るのが当たり前みたいな。そして僕だけが不良の音楽に(笑)ポップスにハマっていって差が出てきちゃったんですけど。

ーギタリストとして人前に立たれたのはこの頃でしょうか?

そうですね、そのセッションした彼と組んだバンドですね。ベースとドラムを見つけて…というか教えて。それが「The Specters」なんですけど。学校のクラス会みたいなところで演奏したのが初ステージですね。

ー演奏されていた楽曲はどのようなものだったのでしょうか?

オリジナルですね。僕が作曲をして。お祭りのときとかパーティーとかでやってましたね。

ー「The Specters」はいつ頃まで続いたのでしょうか?

高校までですね。ステージとして唯一ちゃんとやったのが自分達で企画した、吉祥寺の武蔵野公会堂でのコンサートですね。500人くらい呼んで。対バンには僕、杉並高校だったんですけど西高の仲良かったバンドを呼んで。そのバンドのドラムが宇都宮カズ(後に「MythTouch」)でキーボードが茂木由多加(後に「MythTouch」、「四人囃子」)で。宇都宮カズの方は前から知ってたんだけど、茂木くんはそのときに初めて会って。バンド名は思い出せないけど、そのバンドはシャドウズとかをコピーする上手なバンドで。そしたら茂木くんがオルガンでThe Doorsの「Light my fire」を演奏し始めたんですよ。今でも覚えてるんですけど13分ソロを弾いて。それがものすごくって、「何だこいつは!」と思って(笑)

ー当時の高校生とは思えないテクニックで佐久間さんも魅了された?

そうですね、彼の影響はすごく大きいですね。今でも影響を受けています。

ーその後茂木さんと一緒になるわけですが…

大学になってからですね。「ノアの箱船」っていうフォークグループを茂木くんと山下幸子と結成して。その後「万華鏡」っていうバンドに変わって。プロデビューに成りかけたトコで事務所と喧嘩して辞めて(笑)

ーこの話は割愛しますね(笑)「The Specters」ではエレキだったわけですが「ノアの方舟」ではフォークというのが意外でした。

時代がそうでしたから。「万華鏡」ではまたエレキになりましたけど。

ーそんな中、「MythTouch」では遂にベーシストの道に入るわけですがこれは必然だったのでしょうか?

それは茂木由多加とキーボード・トリオをやりたかったからですね。ベースをやるしかないっていう(笑)弾き始めは難しかったですね、中々ベースの音が鳴らなくて。

ーかなり苦労されました?

1番は音ですね。その当時、ベースは指で弾くものでピックで弾く人が殆どいなくて。で、ピックで弾いてもベースらしい音が全然出なくて。動く分にはギターをやっていたので早く弾くのもできるけど…そこですね。僕、指弾きが出来ないので。

ーその想いから逆アングル・ピッキング「佐久間式ピッキング法」が生まれたんですね。

そう、あの音(指弾き)と同じというか”負けない音”っていう風にやっていった結果ですね。それでベースの音が出せるようになりました。

ー周りのバンドでもまだピッキングをやっていなかったんですね。

当時は「安全バンド」、「ハルヲフォン」とか周りにいましたけど、やってる人はいなかったですね。「ハルヲフォン」とは仲が良くて、近田春夫に初めて会ったのが「MythTouch」時代にキーボード用のアンプを近田の所に貸しに行ったのか、貸してたのを「四人囃子」経由で取りに行ったかどっちかで銀座のハコバン(クラブやキャバレーなどで、その店舗の専属で雇われるバンド)で出会ったのが最初でしたね。二十歳とかくらいだったと思いますけど。

ー今挙がった「四人囃子」へ後に参加されるわけですが「MythTouch」は解散となります。

まぁ、あんまりうまく行かなかったんですね。ドラムだけ音楽の趣味が違うっていうのもありましたけど。後は茂木くんが「四人囃子」に入るのが決まってて。「一触即発」っていうアルバムの後ですね。僕は中村くんが辞めた後に手伝うことになるんですけど。

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