佐久間正英 ラストインタビュー

ー今回は佐久間さんの音楽経歴を辿りながらお話を聞かせて頂きたいのですが、音楽との最初の出会いはいつ頃でしたでしょうか?

2歳のときに聴いたベートーベンの「運命」ですね。映像としては鮮明に覚えていて。音が全て光の束のように見えて、しかもその光の束を自分で指揮すると自由に操れるっていう。

ーすごく神秘的な記憶ですね。

本当にそういう映像を見たのか、その後に何かで見た映像なのかはわからないですけど、記憶ではそうなっています。

ーご家庭ではお母様が日本舞踊・三味線の先生と音楽については恵まれた環境だったのでしょうか?

そうですね…生活環境という種類では恵まれていたわけではなかったですけど、確かに母親がやっていたのは大きいですね。兄も小学1年からギターを始めてたりしてましたし。

ー早いですね(笑)佐久間さんご自身が最初に触れられたのは?

ピアノですね。あ、家にあったオルガンかな。僕がピアノを習ったのが小学1年のときなんですけど実質1ヶ月くらいしか出来なくて。その先生が引っ越すことになっちゃって、近所にその先生しかいなかったものですから。

ー僅かな期間だったんですね。

ただ、何故か初見で譜面が読めちゃったもので習得が早かったですね。1ヶ月で確かツェルニーくらいまでやっちゃって、3冊(バイエルン上下、ツェルニー)くらい終わりました。

ーそれは早いですね!

記憶に残っているのがあって、小学1年で最初の音楽授業のときにト音記号・ヘ音記号を教わって。
それから読めるようになったんです。

ーでは、それ以降は独学だったのでしょうか?

そうですね。多分、兄貴も同様に譜面が読めていたと思います。

ーその他の楽器への興味はいかがでしたか?

小学校の頃は器楽合奏とか笛をしたりとか、ひと通りなんでも好きでやってましたね。ハーモニカだけはどうしてもイマイチ好きになれなかったですけど。自分が吐いた息を吸う≒唾を吸う感じがどうしても気持ち悪くて(笑)

ー(笑)では、ハーモニカ以外の楽器は小学生時代に触れていたと?

そうですね。中学になって真剣に音楽を始めて吹奏楽に入ったんですね。僕の兄貴が既に吹奏楽をやってたんですけど、母親譲りの才能があって何をやってもものすごく上手で中1のときには既にサックスがバカみたいに巧かったですね。で、到底敵わないと思って兄貴が唯一出来なかったのがトランペットなんですよ。で、トランペットやりました(笑)

ー(笑)お兄さんが唯一苦手としていたものを佐久間さんが?

そうそう(笑)

ー因みにお兄さんは音楽の道に?

いや、今でも趣味ではやってますけどね、色んな音楽を。バロック音楽とか。たまに何年かに1度会って弾くのを聴くとギターは一生敵わないですね…

ー佐久間さんにそこまで言わしめるとは(笑)ギターは中学生からでしょうか?

吹奏楽が4月(中学1年)に入ってそれから多分半年くらいやって。で、家にあった兄貴のギターへ急に興味があって始めたのかな。その頃、兄貴はガットギターからジャズというかアコースティックギターに変えて…なんで変えたかは知らないですけど(笑)そんな中でも吹奏楽は真面目にクラシックとかをやっていました。そんな折に同じクラスの子に「佐久間くんギターやってるんだって?家に遊びにおいでよ」って言われて。そいつは秀才でスポーツも勉強も学年で1番のヤツだったんですけど…
要するにあんまり好きではないタイプで(笑)それで遊びに行って始めて2人でベンチャーズをセッションでやったんですけど、メチャメチャ面白くて。それまでやっていた吹奏楽での音楽の合わせ方とまるで違って。それで一気にバンド音楽に入りました。

ーセッションがきっかけになったとの事ですが最初はコピーが中心でしょうか?

そうですね、ベンチャーズとかその当時流行っていた加山雄三とかですね。話は前後しますが小学生のときにアメリカン・ポップスをよく聴いていて、プレスリーとか。アイドルグループで乃木坂46の生田絵梨花ちゃんのおじいさんが僕のおじさんに当たる方でビクターの洋楽にいたんですけど。その頃の洋楽ってアメリカに買い付けに行って権利を持ってくるっていう仕事だったんで。そうすると遊びに行く度に面白い音楽を見つけては聴かせてくれてましたね。

ーではその辺りの音楽が佐久間さんご自身のルーツにもなっていると?

そうですね、あとうちの姉が好きで。電話で音楽リクエストするっていう全盛時代でやっぱりアメリカン・ポップスでしたね。シェリーフェブレーに1番影響を受けて、「うちのママは世界一」っていうテレビ番組の娘の役で出てて。で、テレビ出てたときは歌い手とは知らなくて確かパーティーで歌うシーンで「Johnny Angel」ってデビュー曲を聴いてそれがものすごい良くて。それで一気にハマって行きました。アルバムもバラードとかもあって、今にして思えば「B-52’s」のルーツみたいな感じでした。

ーでは、アメリカン・ポップスからベンチャーズのようなサウンドまで分け隔てなく好まれていたんですね。

インストゥルメンタルと歌って分けてたわけではなくて、自分が歌うことに興味がなかったので。吹奏楽もそうですし。

ー吹奏楽からギターへと興味も逆転されて行った?

逆転しちゃった。ただ吹奏楽も一応、真面目に芸大目指しちゃうタイプなので。
周りがすごい優秀な人ばかりで、芸大・音大なりヨーロッパのオーケストラに入るのが当たり前みたいな。そして僕だけが不良の音楽に(笑)ポップスにハマっていって差が出てきちゃったんですけど。

ーギタリストとして人前に立たれたのはこの頃でしょうか?

そうですね、そのセッションした彼と組んだバンドですね。ベースとドラムを見つけて…というか教えて。それが「The Specters」なんですけど。学校のクラス会みたいなところで演奏したのが初ステージですね。

ー演奏されていた楽曲はどのようなものだったのでしょうか?

オリジナルですね。僕が作曲をして。お祭りのときとかパーティーとかでやってましたね。

ー「The Specters」はいつ頃まで続いたのでしょうか?

高校までですね。ステージとして唯一ちゃんとやったのが自分達で企画した、吉祥寺の武蔵野公会堂でのコンサートですね。500人くらい呼んで。対バンには僕、杉並高校だったんですけど西高の仲良かったバンドを呼んで。そのバンドのドラムが宇都宮カズ(後に「MythTouch」)でキーボードが茂木由多加(後に「MythTouch」、「四人囃子」)で。宇都宮カズの方は前から知ってたんだけど、茂木くんはそのときに初めて会って。バンド名は思い出せないけど、そのバンドはシャドウズとかをコピーする上手なバンドで。そしたら茂木くんがオルガンでThe Doorsの「Light my fire」を演奏し始めたんですよ。今でも覚えてるんですけど13分ソロを弾いて。それがものすごくって、「何だこいつは!」と思って(笑)

ー当時の高校生とは思えないテクニックで佐久間さんも魅了された?

そうですね、彼の影響はすごく大きいですね。今でも影響を受けています。

ーその後茂木さんと一緒になるわけですが…

大学になってからですね。「ノアの箱船」っていうフォークグループを茂木くんと山下幸子と結成して。その後「万華鏡」っていうバンドに変わって。プロデビューに成りかけたトコで事務所と喧嘩して辞めて(笑)

ーこの話は割愛しますね(笑)「The Specters」ではエレキだったわけですが「ノアの方舟」ではフォークというのが意外でした。

時代がそうでしたから。「万華鏡」ではまたエレキになりましたけど。

ーそんな中、「MythTouch」では遂にベーシストの道に入るわけですがこれは必然だったのでしょうか?

それは茂木由多加とキーボード・トリオをやりたかったからですね。ベースをやるしかないっていう(笑)弾き始めは難しかったですね、中々ベースの音が鳴らなくて。

ーかなり苦労されました?

1番は音ですね。その当時、ベースは指で弾くものでピックで弾く人が殆どいなくて。で、ピックで弾いてもベースらしい音が全然出なくて。動く分にはギターをやっていたので早く弾くのもできるけど…そこですね。僕、指弾きが出来ないので。

ーその想いから逆アングル・ピッキング「佐久間式ピッキング法」が生まれたんですね。

そう、あの音(指弾き)と同じというか”負けない音”っていう風にやっていった結果ですね。それでベースの音が出せるようになりました。

ー周りのバンドでもまだピッキングをやっていなかったんですね。

当時は「安全バンド」、「ハルヲフォン」とか周りにいましたけど、やってる人はいなかったですね。「ハルヲフォン」とは仲が良くて、近田春夫に初めて会ったのが「MythTouch」時代にキーボード用のアンプを近田の所に貸しに行ったのか、貸してたのを「四人囃子」経由で取りに行ったかどっちかで銀座のハコバン(クラブやキャバレーなどで、その店舗の専属で雇われるバンド)で出会ったのが最初でしたね。二十歳とかくらいだったと思いますけど。

ー今挙がった「四人囃子」へ後に参加されるわけですが「MythTouch」は解散となります。

まぁ、あんまりうまく行かなかったんですね。ドラムだけ音楽の趣味が違うっていうのもありましたけど。後は茂木くんが「四人囃子」に入るのが決まってて。「一触即発」っていうアルバムの後ですね。僕は中村くんが辞めた後に手伝うことになるんですけど。

ー「四人囃子」への参加については?

ちょうど中村くんが辞めたときに呼ばれてヘルプで入りました。1st「一触即発」の後に作ったシングル「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ / ブエンディア」からですね。その後ソニーに移って「ゴールデン・ピクニックス」を作るんですけど、それまで僕はトラ(代役)のつもりでいたんです(笑)

ー(笑)その間ずっとですか??

うん、メンバーだとは意識していなくて。正式に誰からもそういう話が出なかったから(笑)

ー”正式”加入はいつになるのでしょうか?

「ゴールデン・ピクニックス」のレコーディングが終わった直後に僕がパリにしばらく行ってたんですね。よく覚えてるんですけど帰国して井の頭公園で取材があったんですよ。そのときに初めて「メンバーだよ。」って言われて「何それ?聞いてないよ?」って(笑)

ー取材で知るって(笑)

「何で取材にわざわざ井の頭公園に行かなきゃいけないんだろう…」って思ってて。

ーメンバーだからだと(笑)

そうそう(笑)

ー因みに佐久間さんご自身は「四人囃子」の音楽についてどう思っていらっしゃいましたか?

最初からすごかったですね。演奏力もすごいし。初めて観たのは僕が大学1年のときの学園祭でね、噂は聞いてたんだけど岡井大二が中学の後輩だったし。それから仲良くなりましたね。

ーよく、プログレッシブと定義されることがありますがそのあたりについてはいかがでしょうか?

う~ん、たまたま「面白いことをやろう!」とした結果がああいった音楽を生んだだけです。なので「四人囃子」はプログレッシブというか様式美を追求していた訳ではなかったですね。

ー佐久間さん加入後から活動休止まで何度かメンバーチェンジがありましたが音楽的変化については?

そうですね、森園が辞めて坂下が辞めてまた茂木が入って…実は僕的には1番思い入れがあるのは僕が加入する前の「一触即発」ですけどね。レコーディング技術という面では時代的に追いついていないのでそこだけは残念ですけど、自分達だけであそこまでやったっていうのはすごいと思いますね。加入してからの変化だと「包」とかは機械的要素を入れたタイミングですね。ちょうどその頃には「PLASTICS」のメンバーとは交流がありましたね。

ーではその頃に”パンク”や”ニューウェーブ”の影響があったと?

はい、その頃から色んな仕事をしてましたし。”アレンジャー”と呼ばれる仕事ですね。後に”プロデューサー”として初めて契約したのが「P-MODEL」ですね。

ー当時からレコーディングで気をつけていたことはありましたか?

多分、今とそんなに変わっていないと思うところなんですけど、メンバーが如何に”楽に”やりたいことを音にするかというところとアイディアをただヘンなものじゃなくて受け入れやすいものに具現化するというスタンスですね。

ーでは「四人囃子」在籍中に佐久間さんご自身の音楽的要素・アプローチ方法・交友の幅が広がったんですね。

そうですね。「PLASTICS」が初めて人前で演奏したパーティーがあったんですけど、僕も参加してて。観てて「いいな~」って。「PLASTICS」は3人(中西俊夫・佐藤チカ・立花ハジメ)+ベース・ドラム・キーボードがいたんですけど、それぞれ仕事の都合で辞めて。どうしようってなったときに音楽仲間で「テンプターズ」の大口広司をドラムに入れて、ベースを僕に弾いてって言われて。2回ぐらいセッションしたのかな。でも全然面白くなくて(笑)で、「ドラムなんて要らないんじゃない?」って言ってコンプリズムを使わせたのが僕です。

ーリズムボックスは佐久間さんのアイディアだったんですね!

そうですね。後は僕がベース弾いちゃうと言ってしまえばプロと素人の差になってしまうので、「PLASTICS」ではベースは辞めようと思ってキーボードになるんです。

ーあぁ、それでキーボードになったんですね。「四人囃子」とは音楽的にもそうですがテクニック云々よりもサウンド面でのアプローチが斬新という印象があります。

「PLASTICS」はすごく幸いなことがあって他の3人は楽器は下手だったけどリズム感だけはすごい良かったんですね。コンプリズムで初めてやったときはズレるとかやりにくいとか言うヤツが1人もいなくて(笑)むしろドラムがいたときよりも全然やりやすいという。

ー「PLASTICS」の音楽を表現するには重要な要素ですよね。ラフ・トレードからのデビューはすぐに決まったんですか?

う~ん、経緯はよく知らなくて。何となく当時は物事が動いていたんで誰かの紹介とかだったのか…他にも色んな話があってレコーディングしてたんですよね。1番極端な話だと「ツトム・ヤマシタ」とレコーディングしたりとか。それは結局お蔵入りになったんですけど。で、その内の音源の1つがラフ・トレード盤になったんです。

ーそれは貴重な逸話ですね。

それからビクターでデビューして。ちょうど「B-52’s」が日本に来るタイミングがあって、他のメンバーも最初から興味を持っててアメリカに観に行ったりしてたんですね。で、話をして意気投合したんです。前座も演って向こうのスタッフ含めて気に入られて、それでワールドツアーですね。「B-52’s」「Ramones」「Talking Heads」と同じ事務所だったんで「Ramones」と同じバンに乗ってました。

ー佐久間さんも運転されてたんですか?

「Ramones」のバンがボロくてタイヤがバーストして死にかけたっていうエピソードがあります(笑)確かクリープランドだったかと思うんですけど、何せ1日10時間くらい走るもんで…ホントはマネージャーが運転するんですけどそいつがすぐ怪我しちゃって(笑)

ーエピソードとしては最強ですね(笑)

チーフマネージャーのスティーブを「スケベ」って仇名つけたり(笑)、仲良くやってましたね。
あとは「DEVO」も仲が良かったですね。ゲネプロをロスに観に行ったりとかしてました。そのとき、アメリカのショウビジネスというものの差に唖然としましたね。

ーそれは日本との差でしょうか?

はい。例えばゲネプロだったら超巨大なスペースで本番通りのステージで1ヶ月前から毎日演るんですよ。ちょっとミスがあると最初からやり直しになるし。ショウの作り方・姿勢の差ですね。ホントにびっくりしました。

ーしかし「PLASTICS」は彼らと音楽的差がなかったと思いますが?

後期はそうかもしれないですね。ローランドの「TR-808」っていうリズムマシーンの初号機が出来たのが大きいですけど。「PLASTICS」の最後のアルバム「WELCOMEBACK PLASTICS」のレコーディングをしにナッソーのコンパスポイント・スタジオに持って行ったんですけど、たまたまEric Claptonが隣のスタジオで。僕が毎朝スタジオで音を作ってたら Claptonが「何やってるのかな~」と覗きに来てて。「ヤオヤ(TR-808)」の初号機を初めて見た外人は実はEric Claptonだったという(笑)僕はとても気に入ってました。ただ、アルバムが出来上がって1~2ヶ月後だったと思うんですけどロスで「B-52’s」と「PLASTICS」のライブがあって、そのときに「DEVO」が遊びに来てたんですけど「新しいリズム・ボックス手に入れたから見に来いよ」って言われて行ったらそれが「リンドラム」の最初のやつで。見せられて、音を聴いて「あ~ヤオヤ(TR-808)の時代は1ヶ月で終わった」と思った(笑)

ーテクノロジーが進化するタイミングは時代を問わずスピードが早いという象徴的なお話ですね。

サンプラーの登場は当時、ホントにびっくりしました。

ーその後「PLASTICS」は解散となります。

元々僕は期間限定でと事務所に言ってて、自分が「PLASTICS」としてやるべきことと成功は出来たので。これ以上続けても自分にとっては意味が無いと判断していたので。

ーその後はプロデューサーとしての活動になるわけですがプレイヤーとしての選択肢は無かったのでしょうか?

辞めたときは迷っていて、日本に戻るかそのままニューヨークにいるか、ヨーロッパに行くか。ちょうど時代的に日本が80年代アイドルとCM音楽の始まりだったんですけどそれがすごく面白くて。ニューヨークでは「ニューウェーブ」が一段落してるタイミングでこのまま残ったとして何が出来るか?と考えたときに「B-52’s」や「Talking Heads」に参加、或いはそういったバンドに参加とかあるけれど、向こうのバンド生活パターンというか、アルバムを制作してツアーの繰り返し…。これはニューウェーブの時代とかではなく、昔からのバンドもそうでこれは今も変わっていないと思いますけど。でこれはちょっと辛いぞと(笑)それよりはもっと新しい、わけわかんないことしたいって思ったときに東京の方が熱かった。作曲・アレンジ・演奏どれを取ってもそうでした。アメリカやヨーロッパで演奏家としてやれる自信はあったんですけど、そういう刺激を超えるものがあったので。

ー80年代半ばから忙しくなるタイミングであったと思いますが?

そうですね。アイドルで言えば筒美京平さん筆頭にプロデュースという仕事が増えたタイミングですね。アイドルに関しては最大のライバルは茂木由多加で、僕がキョンキョン(小泉今日子)の「真っ赤な女の子」をやってすぐ後に早見優の「夏色のナンシー」を茂木くんがやって。それを初めて聴かされたときはショックでしたね。曲は両方とも筒美京平さんなんですけど完成度の高さに圧倒されて。それまでのアイドル全盛時代の萩田光雄さんとか大御所の方のアプローチとまるで違っていましたね。

ーその他にもスタジオを設立されるタイミングですね。

CM曲をいっぱいやっていた頃ですね。小野誠彦と知り合ってv.f.v. studioを作ったり。元々は事務所で小さな作業場があったくらいで。その内に手狭になって引越そうかそれとも事務所なんて辞めようかとしてるときに、たまたま賃貸物件でスタジオを作れそうな物件を見つけて作っちゃえ!って。

ー「LISA」(ファーストソロ・アルバム)も同時期ですか?

「LISA」は引越す前の事務所ですね。小野くんからたまたまそういう話をもらって他の仕事のレコーディングに向かう道中で曲を作ったり(笑)

ーロックバンドのプロデュースも増えていくタイミングですね。

BOΦWYと初めて話したときに「どういうのがやりたいの?」って聞いたら布袋くんが「ロックにしたい!」って。ロックバンドからロックにしたいって言われたのは初めてで「?」と思って(笑)それってどういうことだろうと考えたら当時の日本の環境では無理だなと。で、ベルリンに行こうと東芝に言ったらすぐOKが出て、マイケル・ツィマリングと一緒にやることになったんです。

ー作品としての完成度もそうですし、商業的にも成功を収めるわけですがレコーディング時からその前兆はあったのでしょうか?

レコーディングして3日目くらいだったと思うんですけど、突然バンドとして良くなって。そのときに「これはすごいバンドになる」という確信がありましたね。それは色んな条件の重なりではあるんですけど。

ーそれは「BOΦWY」だからだったのか、それともその他のバンドでも同様のことが起きることがあったのでしょうか?

その後の「The Street Sliders」であったり「UP-BEAT」であったりもそうですけど関わって作っているときに何かの瞬間に変わるときっていうのがあるんですね。もちろん変われないバンドもいますけど(笑)それでその先の道筋が見えるっていうことが多いですね。

ーその変わる瞬間・変われるバンドには佐久間さんから見て条件があるものなのでしょうか?

大きく変われる瞬間・大きい飛躍できるチャンスを持っているバンドっていうのは特殊なパワーを持ち合わせてますよね。それは周りにも波及していって、例えば宣伝担当だったり事務所の人間だったりが「すごい!」って思える。身近な人間から如何に意識の部分で「すごい!」って思えるか。実際にレコーディング現場でみんながそう思った瞬間っていうのがその条件が揃って変わる瞬間ですね。

ー時代背景を含めるとその後の90年代に入るとCDソフトがものすごく売れるタイミングになるのですがそもそものそういった状況を佐久間さん自身、どう感じていらしゃったのでしょうか?

う~ん、痛し痒しですね(笑)勿論、良し悪しはありますが今にして思えば「BOΦWY」が引いてしまった”日本特有のドメスティックなロックな道”からどんどん逃れられなくなっていった時代ですね。

ーそんな時代と定義されながらも先日のLIVE(早川義夫+佐久間正英「The beautiful world」)内のMCでご自身が携わった楽曲の1位が「東京/くるり」、2位が「そばかす/JUDY AND MARY」、3位が「HOWEVER/GLAY」とどれも90年代に発表された楽曲でした。

中でも1位と2,3位は少し意味合いが違うんですけど、「東京/くるり」に関しては奇跡としか言いようがないというか。今聴き返しても完璧なんですね、自分のプロデューサーとしての仕事を客観的に見たときに。「そばかす/JUDY AND MARY」についてはもうちょっと広義な意味でのプロデューサーとしてですね、商業的な事も含めてになります。後はJUDY AND MARYの決定的な良い部分を引き出せたことも大きいです。YUKIちゃんの歌も大きく変わったし、そういう環境を作れたことがありますね。「HOWEVER/GLAY」に関してはあの時代に対して「GLAY」の見せ方がすごく成功したと思いますね。サウンド的にもそうですしね。

ーお話に挙がったYUKIさんと「NINA」も結成されましたが表立ってのプレイヤーとしての佐久間さんは久し振りでしたよね?

元々はケイトといつか一緒にやりたいっていうのはあって。島武実も仲良かったんでまたみんなで出来たら良いねって話してて、やるのを決まったタイミングでたまたまジュディマリが活動休止になって。TAKUYAのソロアルバムをレコーディングしてるときにYUKIちゃんが遊びに来てて暇してるって言うから(笑)こういうのあるけどやる?って聞いたら「やるやる」って(笑)

ーアメリカでの構想もあったんですよね?

はい、大人の事情で無くなっちゃいましたけど(笑)例えばYUKIちゃんはソニーでケイトはワーナーでとか…

ーその後の「The d.e.p」はすごいメンバーでしたよね。

最初はビビアン(ビビアン・スー)のソロアルバムの話が来て、ビビアンと話してせっかくだからバンドでやる?って聞いたら「やるやる!」って(笑)で、急遽メンバーは誰が良いかな~と考えて土屋昌巳、ミック・カーン、屋敷豪太に連絡取ったら全員「やる!」って言ってくれて(笑)人生で1番最高に楽しいバンドでしたね。優れたミュージシャンの集まりなので、ロンドンでレコーディングしたんですけど初めて音合せした瞬間に「バッチリ!」っていう。毎日スタジオで19時までやって後はドンチャンっていう(笑)

ー(笑)ギターに土屋昌巳さん、ベースにミック・カーン、ドラムに屋敷豪太さんと、豪華なメンバーですよね。そんな素敵なバンドだったのに続けようとはならなかったのですか?

「The d.e.p」は続けたかったですね…ただあれはあれで違う意味の大人の事情があって(笑)メンツがすごいんでどうしてもやろうとするとアマチュア・バンドのようにはいかないですし、ビビアンもビックになって女優で忙しいですし。今でも集まるとホント仲良いですね。ミック・カーンは亡くなっちゃったけど、すぐにあの頃に戻っちゃいますね。

ー「Ces Chiens」についての経緯を教えて下さい。

たまたまあの時期に何かグループ名を付けようかという事務所の意向もあって付けただけで今(早川義夫+佐久間正英)と特に変わらないですけどね。まあ僕も早川さんも犬好きなので(笑)早川さんが再デビューしたときのバックバンドが僕的にはあんまり好きではなくて、「僕にやらせて!」って売り込みました(笑)HONZIと一緒にやったのはその後ですね。

ーそういった活動の中、2000年後半には「CircularTone Records」の設立や「unsuspected monogram」での活動等、これまでとは違ったアプローチをされている印象を受けました。

それまでずっと音楽の仕事をしてきて、自分自身で「これはやっちゃいけない」「こういうことをやってないといけない」みたいな縛りを作ってしまっていて、そろそろそういったことを関係なくやっちゃっても良いんじゃないかっていうのがありましたね。例えばレコード会社を始めるにしても今までレコード会社と仕事してきた人間としてはそういうの始められないとか、新しいバンド始めるにしても縛りがあるとって考えると…好きなことやろうかなって思ったタイミングでしたね。

ー2010年に始められた「goodnight to followers」もそういった想いでのアプローチだったのでしょうか?

そうですね、たまたま「sound cloud」を知ってこれ面白いなって思ったのが最初です。で1回作って載せてみたら評判が良くて、「これは毎晩続けたら面白いな」って(笑)しかも著作権フリーで。今までだったら音楽家がJASRAC無視して音楽をアップするって出来ないじゃないですか。で、出来る時代になってそれを続けた結果に何が起きるのか見てみたいなっていうのがありましたね。

ーまさか1111夜続けるとは思ってもいなかったですよね?

そうですね、続けていくうちにそれなりにプレッシャーがあって。例えば夜待ってくれている人がいたりとかするので。それにめげずに淡々と続ける自分もいて。ただ、最後の方は別に健康でさえあればいくらでも続けられるっていうことが見えちゃったんですね。じゃあ辞めてもいいかなって。

ー1111夜で終わりを迎えた4日後に再びアップされたのが意外だったのですが続けられていたときとは違う心境だったのではないかと思うのですが?

まあ、遊びですよね(笑)作り続けている間は段々遊びじゃなくて真剣になっていって。自分のライフワークみたいな感じでしたから。

ー8月9日に公表された”goodbye world”以降、入院・手術・退院と、その軌跡は既に様々なメディアを通じて公表されていますが、ブログにありました「ただ救いの無い情報が受け手に与える”力”が怖かった。」に対しての様々な反響の中で、受け取った人々の心、また行動には、悲観的なことよりもむしろ「これからの未来」を連想することが多かったように思いますが、佐久間さんご自身はこの”反響”をどのように感じられたのでしょうか?

アップした日は夜中までずっとものすごい数のコメントがついていたのを見てて、面白かったですね。もう自分の事ではない、他人事のように。とにかく楽しんで(笑)コメントの1つ1つを見ていました。

ー印象深いメッセージはありましたか?

笑えるのがすごく多くて。笑っちゃいけないんですけど(笑)書いた人は笑い事ではないのですが本人からしてみると笑ってしまうようなコメント・メッセージがたくさんあったのが良かったです(笑)

ー受け取ったわたしたちを他所に(笑)すごく冷静にご覧になられてたんですね。

例えば「佐久間さんが癌だなんて知らなかった!」って書く方がたくさんいるわけですよ。それ「知るわけないでしょ!」っていう(笑)突っ込みどころ満載なコメントがいっぱいあって。温かい気持ちの表れではあるんですけどね。もちろん、今も頂きますけどライブするときとかもそうですけど「無理だけはしないで下さい」っていうお気遣いのメーッセージとかですね。実は無理をしないと歩くことすらキツイんです。無理をしないとライブなんて絶対出来ない。”goodbye world”は早川さんの一言で書いたんですけど、書いて良かったと思います。

ーびっくりしたのが手術も無事成功し、退院されて僅かな期間で9月9日(月)、渋谷のCLUB QUATTROで<TAKUYA Birthday Live2013 “Goddess of Discord N0.99”>にゲスト出演されましたがTAKUYAさんからのオファーだったのでしょうか?

そうです、フラフラだったんですけど。不思議なものでステージに立つと元気になって。QUATTRO階段上がるのも大変で、ステージサイドまで行ったときにはもう動けない状態だったのにステージが始まると動けちゃうっていう…

ーステージに立つということはブログにも記載されていた”やりたいこと”の1つでもあったのですね。時を経てプロデュースされた楽曲をメンバーと演奏されるのは大きな喜びだったのではないでしょうか?

そうですね、ジュディマリを一緒に演れるとは思ってもいなかったですね。この前(早川義夫+佐久間正英「The beautiful world」)のライブでもくるりが一緒に演ってくれたのもそうですね。

ー9月19日に”Hello World”と題された公演を早川義夫さんと行われましたが、「手術が済んで、いま一度演奏をすることができる身体に戻れるのなら、この人の歌でもう一度ギターを弾きたい。」が実現されました。題された”Hello World”にはどのような想いを込められたのでしょうか?

“goodbye world”って文章を書いた後である意味”再スタート”ですよね。ホントは”Hello World Again”なんですけど(笑)

ーライブでは早川さんが「いつか」という曲の中で、「♪生きてゆく姿がステキなんだ 佐久間正英 」と歌われましたが、このメッセージについては?

実はリハのときに一応ハマりがどうかだけ早川さんとチェックをしてたんですけどね。本人としては恥ずかしかったですね(笑)

ー”The beautiful world”ではコメントに
一生懸命やること。
そこに誤魔化しや妥協をしない事。
出来る事だけを出来る様にやる事。
当たり前の事を偉そうにやらない事。
ひたむきであること。
いつも新鮮である事。
自分の感覚を信じる事。
友達や仲間の助けを素直に受け入れること。
実際はカッコ悪くてもカッコよく生きようとする事。
とありました。これは正しく”美しいこと”であってそういった人々がいる世界こそ、”The beautiful world”と解釈できますし、当日のライブ会場がそうであったと思うのですが?

そうですね、温かい雰囲気の中で素晴らしい演奏が出来ましたね。ゲストのくるり含め、最初から最後まで。

ー10月7日には”Vacant World”も決まっていますが、ジャックスのデビュー曲と同題です。

高校生のときに初めてジャックスを聴いて「からっぽの世界」の映像は自分の中で持っていてそれから抜けられないですね。人間・自分の中の見てはいけない部分を見てしまった感じ。知らなくて良かったことを知ってしまった感じ。見たくない映像を見てしまった感じ。怖いものです、僕にとっては。まぁ変わらず、一生懸命やろうと思います。

ーありがとうございます。それでは最後にミュージシャン・音楽制作者に向けてメッセージを頂けますでしょうか?

僕にとっても永遠のテーマで未だに見えていないですけど、何の為に音楽をやるのか、何の為に音楽を続けるのかを探して下さい。

ー長時間お付き合い頂きありがとうございました。

いえいえ、歴史が長いんで(笑)


取材:2013.10.03
撮影:Eri Shibata
(2013.09.29 早川義夫+佐久間正英「The beautiful world」)
インタビュー:Atsushi Tsuji(辻 敦志) @classic0330