冷牟田 竜之 インタビュー

ーそしてタイでのツアー中にバイク事故に遭い…

7ヵ月バンドから離れて…その時期が人生の中で一番苦しかったなぁ。まず、事故に遭って最初の2ヶ月は常に右足を切断するかしないかっていう話で推移していたし、切断の危機がなくなったのは3ヶ月後くらいで。どちらかというと切断した方が良いとう意見の方が強かったからそれだけはやめて欲しいという戦いもあって…どうなるかがわからないっていうこと事態がすごく辛くて…はたして普通に戻れるかどうかさえもわからないっていうことがね。トイレも行けないわけですよ、ベッドに固定されてたから。寝返りも出来ない、首も動かないし、よくそれで生きていたなと…半分、死んでいたような状態ですよ。
ただ、途中から絶対治そうという気持ちに切り替わって。

ーその想いの中、遂に武道館での復帰を果たされますが退院されてすぐだったのでしょうか?

すぐ。退院した時点ではまだちゃんと歩けなくて。これはホント大丈夫かと思いながらいて…その時ね、日光の二荒山神社っていうところに行って。そこに気になる木が境内にあって、The Chemical Brothersを大きい音で聴きながらその木にへばり付いていたら、ものすごい勢いで気が足元から頭に抜けるような感覚があって。多分20分くらい木と同期するように。それが良かったのかな…それで武道館ができたようなもので。どうしようもなくて武道館の1週間前に二荒山神社に行って歩けるようになったんです。それもターニングポイントだし、その場所に呼ばれたのかなって気もするし。

ーそこからスカパラも大きな変化を遂げることになります。レコード会社の移籍と杉村ルイさんの加入・脱退。

そのあたりはね、ぶっちゃけていうとavexに移るにあたって、ボーカルがいることが条件だったんです。なので当時は必然性っていうことも考慮するとルイしかいなくて。ギムラの弟だし。で、彼が加入することになるんだけど、これがうまく行かなかった。一緒にやってみてやれないねっていうバンドとしての判断があって。ただ、そうなったところでこれは『ギリギリのところになってきたな…』っていうのが自分の中に感覚があって。その、移籍して1発目を外してるわけでしょ?で、そこで手を挙げたんです。『俺にリーダーを任せてくれ』っていう話をみんなにして。そこから『火の玉ジャイブ』とかの流れになって行くという。

ー冷牟田さん自らのリーダーという役割、JUSTA RECORDS、Tabooの立ち上げ等、精力的な活動になっていくわけですが『火の玉ジャイブ』リリース目前で青木さんの急逝…

もう何も考えられないというか…そういう状況に追い込まれたけれども…元々自分の中で大きな存在の中村達也とチバユウスケの2人がいて。同じ匂いを感じていて、似た者同士なんじゃないかと勝手に思ってその2人に元々声を掛けていて。中村達也に青木が急逝後のツアーまで8日前っていうタイミングでドラムを叩いて欲しいと頼んでみたらやってくれたんですよ。それが大きかったです。それがなかったらスカパラ自体もどうなっていたかわからないと思う。

ーその時の中村達也さんもそうですし、バンド自体も凄まじい決意の中だったのでは?

そうですね。リハーサルも実質4日くらいしかなくて。ツアーで組んでたのが20数曲あって、特にワンドロップの曲もあって。8ビートのキックとスネアが逆になったり同時に叩いたりってなるから、やっぱりそれは苦しんでたなぁ。ただ、あれはその期間では普通じゃできないですよ。達也がやってくれなかったらツアーは無理だって自分は判断していて。達也がやってくれるんならやるっていうことをメンバーに話していて。彼がいないと乗り切れないと思っていたので。

ーそしてツアー自体は大成功を収めます。

あれはね、スカパラの歴史の中でも自分の中でも1つのピークだった。メンバーも異常なテンションでやっていて。『FULL-TENSION BEATERS』はあのツアーを越えようと思って作ったアルバムです。

ー実際、リリースされた楽曲たちを聴くと冷牟田さんの曲が多く収められていますね。

ステージを構成するにあたって自分で『こういう球(曲)が欲しいな』ってものをアルバムに入れたんです。全てライブのことを考えて作った曲で、あのアルバムはライブでやりたい曲が収めてあります。

ーリリース直後のツアーを収めた『Gunslingers -LIVE BEST-』を聴くとその想いがそのままパッケージ化されています。

こで前回の中村達也と周ったツアーは乗り越えたなっていう実感があって。超えられたからその後があるんだけど。

ーまたメンバー構成も加藤さんや茂木さんも加入されて新たなスカパラとしてのタイミングだったと思います。

そうだね、元々は前のツアーで中村達也の名前を出したのは自分なんだけど他からは欣ちゃんが良いんじゃないかて話は当時から挙がってて。その流れで決まったかな。

ー新メンバーの元、新しいアプローチとして歌モノ3部作になっていきますがメンバーからのアイデアだったのでしょうか?

あれはメーカー主導のアイデアですね。自分としては歌モノをやるというよりかはインストでやりたい・貫いていきたいという気持ちがあったので。スパイス的に歌モノをやるっていうのは全然アリなんだけども歌モノありきになっていくのがちょっと『それは違うんじゃないか?』っていう気持ちでいたんだけど。でももうその時点で自分がやりたい事っていうのは全てやりきって、いろんな事を振り切ってやったっていう満足感もあったし、新しい道をいくのも良いかなという判断を当時はしていた。

ーゲストボーカルの方々自体はメンバーのセレクトだったのでしょうか?

もちろん。最初の3部作は思い入れとしてはかなり大きいかな。特に1曲目の『めくれたオレンジ』どれもこれ以上ないっていうくらいの出来だったし。あれは誰に聴かせても胸を張れる3曲だったなと思う。

ーライブ自体も精力的になり、アジテーターとしての冷牟田さんへの負荷も大きかったのでは?

ちょうど歌モノに移行した辺りではもう自分的にはやりきっていたというか、燃え尽きた感じで。何も出来ないっていうくらい、もう力が残っていなかったと思う。体もすごいムリをしていたし、精神的にも自分で負荷を掛けてやっていたので、一旦リーダー的な役割を離れてっていう風になってからはモチベーションも維持できなくなっていった。維持できなくなってからは…欝が酷くなっていって、辞める直前までそういう状態が続いていたかな。

ーそういった状況の中でのステージパフォーマンスはかなりの葛藤があったと思うのですが?

う〜ん、なんかそういう期間がすごく長かったなぁ。結局辞めてから今の再生にに至るまで考えていくと沈み込んでいた時期っていうのが。鬱っていうのがホント厄介な病気で今考えると大変だった。

ーそして脱退という選択肢をされますが冷牟田さんご自身での決断だったのしょうか?

いや、どちらかというとメンバーが決めたようなところが大きい。

ー00年発表のDVD『SKA EVANGELISTS ON THE RUN』このDVDで冷牟田さんは、『自分にとってスカパラとは?』という質問に『自分自身…ですね』とお答えになっていますがその自分自身を辞めるという心境はいかがだったのでしょうか?

そこでね…こう、何とも言えない深みに1年くらいはまってしまったというか。再生させる為にはまず、鬱を克服しなければならないというのがあって。まず最初の1年はそこに集中しようと。で、1年で何とか克服して…そこでね、またスカパラに戻るっていう選択肢もあったんだけど…周りを見渡した時にもうそういう雰囲気ではないなと。そこでもう自分でやるしかないなと、そのちょうど1年経った時に思ったかな。

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