SILVA インタビュー

ーその後音楽面では、具体的なアクションは取られていくのでしょうか?

そうですね、私はレコードの収集癖がありまして(笑)家にも機材やターンテーブルがあったので、HIP HOP・SOUL・FUNK・JAZZ・HOUSE等を何でもかけていました。でも、あくまで趣味の領域でそのときはDJもしたことなかったので、スクラッチとかも出来なかったですし。

ーあくまで”リスニング”する為のもので、”プレイ”には至っていないんですね。

2002年まではないです。レコードの収集してるおかげで、B面に”サービストラック的”な、CD音源にはないトラックが収録されていることがありますよね?それをかけてはよく歌ってましたね。

ーそれはご自宅で?

自宅でそのトラックを、カラオケ変わりに別のメロディーを歌う。「あ、これって高橋よしこになる前にやっていた作業と同じで、単純に音楽が楽しい」と思っていた時期と重なったんです。「じゃあ、まわしながら歌おう」と。

ー良い意味で、発想はすごく単純に?

単純に(笑)レコードで好きな曲をかけて歌うことが楽しかったんです。それで「DJをやろう!」と思いましたし、「そういうトラックを作りたい・作る時間が欲しい」という欲求が生まれました。実際、高橋よしこ~SILVA時代まで、マニピュレーションをする時間もなかったので、技術的なことは分からなかったんですね。ProTools・Cubase・Logic、どれも使えていなかったので、勉強をすることから始めました。

ーDTMマニアですね(笑)

そうですね(笑)ボーカルトラックのエディットやミックスダウンをセルフでやれるようになるまでに、10年くらい掛かりましたけど(笑)活動を白紙にしたタイミングでしたし、スタッフさんがいたわけでもないので、自由に時間を費やせました。あとは「そんな中でも歌っていたい」という想いはあって、そのときジャズマンたちとの出会いがあったので、そこでバンドを組んで、小さなステージでカバー曲やスタンダードを歌っていましたね。

ーSILVAの楽曲は歌うことなく?

全然歌わなかったです。私のヒット曲はもちろん、「ヴァージンキラー」も歌わなかったです。DJについても「DJをしながら歌う」というスタイルにして、都内から始めて全国のクラブを周るようになりました。「SENNHEISER」のヘッドセットをしていて、「SILVAと言うんですが、今使用しているヘッドセットが壊れたから買いたい」と連絡したら「どうぞ、ご提供します」と。機材もPioneerを使用していたんですけど、人伝にメーカーの方と知り合いになったので「デモンストレーションを新機種でやりたい」と連絡したら「提供します」という風に、ご協力を頂けることになったんです。

ー思い立ってからの具現化がすごく早いですよね。しかも、音楽制作を白紙にしたからこその発想やアクションが出来ているので、その決断が良い作用をしていますし。

そうなんですけど、すごく叩かれましたよ。「歌手がDJをする」ということが、このときは誰もやっていなかったので。だからこそやっていたんですけど、来て下さるお客さんは「SILVAのライブ」だと思って観に来てるんです。カラオケでポン出ししながら歌うかと思いきや、「DJをしながらヘッドセットをして歌う」ということが理解されていない状況ですね。

ー何をしているのかがわからない?

全国どこに行っても「レコードの曲が掛かって口パクでやっている」としか思われていなかったです。しかも、技術もないからカットイン・カットアウト、ピッチの調整さえ出来てないんです。今のようにパソコンでやれていたら良いんですけど、当時はアナログでしたし。それがあって、両手が使えるようにする為のヘッドセットだったんですね。歌っていることを理解してもらうために、1度ワイヤレスマイクを胸に挟んで、手が空いたときにマイクを持つとか(笑)色々と模索をしたんですけど、ずっとマイクを手に持っていないと理解されないんですよね。

ーDJブースにマイクスタンドを立ててとか?

試行錯誤ですよね(笑)そういったDJを2年くらいやっているうちに、トラックも作れるようになってきて「海外でもやりたい」という想いが出てきました。DJをしながら歌う人はいなかったですし、歌う為にバンドを引き連れなくても良いし。それでアジアを周ろうと韓国・中国・タイ・マレーシア・シンガポール辺りの旅行パックを取って、背中に80枚のレコードと針とヘッドセットを持って…

ーDJバックパッカーみたいな(笑)

そんな感じです(笑)1人だけでバックを積んで旅をしたんです。そこで行く先々の小さいクラブ・大きいクラブ問わず、手当たり次第に「I wanna play」「I wanna play DJ and Singing」とかメチャクチャな英語で話して、門を叩いてコネクションを作ったんです。

ースタッフというか、コーディネーターもなしで?

そうです。周りの人には「頭おかしいんじゃないか?」って言われましたけど、DJをしたくて自分の名刺を作りましたし、日本ではないから「女性で何をやっているの?」というところから始まるので、wikiを見れば経歴が出ますし、YouTube見れば私の映像が出てくる。そうやってコネクションがどんどん出来て、アジアではDJとして呼ばれるようになったり、アジア以外のモスクワやヨーロッパでも、営業が取れるようになったんです。

ーシンガーとしてのSILVAをオーバーグラウンドな活動だとすれば、DJとしての活動はアンダーグラウンド寄りで、そういったシーンへの欲求があってということでしょうか?

というより、半々でやるべきだと思っていたんですけど、当時はご法度だったんですよね。アンダーグラウンドでは「最近、よくテレビに出てるよね」って言われたり、オーバーグラウンドでは「前はよくテレビに出てたのに…」ってそれぞれで嫌味を言われたり。それを払拭したかったですし、それで生活も出来るようになっていたので。全て白紙に戻したり、どこかと契約をしていなかった割には、毎年クラブツアーが出来ていましたし、周りにもそういった活動をするアーティストが増え始めて。FPMの田中(知之)さんなんて、元々私が歌手でデビューしていたときから、一緒に営業を周っていたんですけど、最初は「俺はずっとDJでやってきてるのにお前何なんだ!?」って言われていたんですけど、「まわしながら歌っているのが面白い」と言って下さるようになって、イベントに呼んで頂いたりとか。それからケツメイシのRYOJIもDJ始めたりしたし。

ー新しいフィールドでやれ始めたと同時にアンダーグラウンドというよりは、そのフィールドがメジャーになりつつありますよね?

そうですね。今、多くの人がDJをやっているのと一緒で、特別なものではなくなって来始めてましたね。もちろん、風営法の問題で怖いとか実際とは違うイメージもありましたけど、そうは言っても「クラブに行って、踊ったり歌ったりして楽しむ」ということが別の世界という扱いではなくなっていましたよね。叩かれたり、色んなことを言われたりもしましたけど、「やっていなかったことをやる意味と、その可能性が広がる面白さ」を体感していました。その可能性を誰にも止められないですし、どの方向に行くにも”自分が決める”という答えは、DJを始めたからこそ得られたことでしたね。

ー自分が決めたことでの納得感もありますしね。先程、”海外”というキーワードが出て来きたのも、その可能性を広げる選択肢なだけであって、”元々やりたかったこと”を形にする為の過程でもあったのでしょうか?

HOUSEが好きでレコードを収集していたときから、リミックスはニューヨーク・シカゴの名DJが名を連ねていましたし、「好きなアーティストに会いたい」という想いもあれば、「いずれは、自分で書いた曲を英語で歌って、リミックスしてもらいたい」という欲求もありました。

ーしかもDJとして、それを具現化していくと。

自分で作るしかないんですよ。今までの「レコード会社・事務所の予算があって叶えてきたこと」がゼロになっているから、体当たりをしていくしかない。DJと名乗る以上、フロアでリアルタイムにお客さんを楽しませることと、作品を残して評価されることを夢見ていたので。そして、その夢はニューヨークで砕け散りました。

ーアジアで評価された活動でも、ニューヨークではかなわない?

確かに、韓国や上海で「まわしながら歌うことは面白い」という評価でしたけど、ニューヨークでは「DJをしている横で歌っているならわかるけど、DJしながら歌うってどうなの?」と、お客さんからも平気で言われましたし、国が変われば意見も変わりましたね。特にニューヨークのアンダーグラウンドシーンは、歴史が深いので”DJたる者””シンガーたる者”がはっきりしているんです。無名の私がやったところで、突出したDJパフォーマンスや歌唱力がない限り、認められることがないんです。

ー厳しいですね…日本やアジアで面白く評価されたことだけでは、通用しないシーンがニューヨークにはあると。

要はSILVAを少しでも知っていたことがあっての評価だったんだと思います。でもそのときに出来ることとして、トラックの制作は続けていたので、2007年に”JAPONEBRETHREN”名義で「Wave」を作ったんです。名古屋に営業に行ったときに、HIEI君というDJをしている子を見つけたんですけど、私よりプログラミングがうまかったから、是非一緒に作らないかと。私が詞・曲を書いて、アレンジとプログラミングの過程を見せてもらって、勉強をしたいと。それで完パケしたCDと、私とHIEI君のプロフィール資料を作って、King street Soundsに送ったんです。King street Soundsを主催しているHisa IshiokaさんはSILVAという歌手を知らなかったのに、送った「Wave」を気に入って下さって「是非、うちでやりましょう」とコンタクトが来たんです。

ー楽曲の評価は嬉しいですよね!

すっごく嬉しかったです。リリースも決まって、メールで契約書やリミックスのやり取りをして。実際にお会いしたのが「Body & Soul」のツアーで日本に来られたときでしたね。私の日本での活動を知らなかったので「そんな有名だったの?全然知らないよ!」って。一方で、日本ではイヤな噂を立てられたり、意地悪なことを散々言われたんですけど、それがダイレクトで耳に入って来ていて。私がプログラミング出来ることは知られていなかったですし、King street Soundsから出したいDJはたくさんいましたから、まさか楽曲で掴んだということを誰も信用してくれないんですよ。

ーそれは悔しいですよね…

悔しいですよ。取材も殆どありませんでしたし、「コマーシャルだから、King street Soundsでリリース出来たんだよね」という部分だけがかい摘まれたり…HIEI君もいたけど、彼には技術的に頼っていても、契約から売り出し方、色んなアプローチは私しかいなかったので。でも体力があったから、夜中でも国が変わってもやることが出来ましたし、資料や契約書も自分でやることが出来たと思います。せっかく嬉しさがあるのに苦しかったですね(笑)ただ、これをきっかけにニューヨークに行こうと決めました。決定的だったのが、マイアミで毎年3月に開催されている「Winter Music Conference」に出たときに「実際に住んでいないと評価されない」とはっきり言われたんです。その土地に根付いていないと、いくら日本で売れていてもムリだと。それから2007年に1年がかりでビザを取得しました。

ーそれは長期滞在する前提で?

学生として留学しても働けないんです。仮にそれで行ったとして、公的に認められていない状態でDJをするのは後ろめたいですし、きちんと仕事をする為に行きたかったので、アーティストビザを大金掛けて(笑)

ー(笑)お金もそうだと思いますが、時間が掛かりますよね。

段ボール1個分の資料を英語で作るんですよ。しかも万が一、1度目の申請で取得できないと、2度目はほぼ取得できないらしいんですね。なので、向こうの弁護士さんを雇って、私のこれまでの経歴を全て英語で書いて、メールと電話でやり取りをして。さらに、スポンサーがないと入れないので、それも何とか見つけて…

ー3年という期間は最初から決めていたんですか?

取得する人は、大体長く住みたいから3年と申請して、1年位の取得が多いみたいなんですけど、私の場合は資料をたくさん用意したこともあって、3年が取得できたので決めました。あとはDJとして、日本でも活動してたことを形にしなきゃと思って、フォーライフさんにお願いをして「SILVA」名義ではなく、「DJ SILVA」名義でリリースをすることになりました。

ーニューヨークでの滞在が始まって、日本との差はすぐに感じられたのでしょうか?

日本で知られている有名なDJは、ニューヨークで有名ではなかったり、そもそもそんなにDJをやっていなかったり(笑)私がさっき言った「フロアを盛り上げて、名曲を残して」というDJが、ニューヨークにはたくさんいると思ったら、DJは名プロデューサーではなかったというか…DJだけやって、トラックは裏方として別のスタッフが制作してるというパターンが殆どで、それは行かなきゃわからなかったんです。日本にDJツアーで来てた有名な方たちは「自分で作ってる」と言うから信じてたのに、実際は「いや、これはウチのスタジオのマニピュレーターがやってて、俺はProToolsとかわからないし、打ち込みなんか出来ないよ」と言われるんです。

ー全然違いますね(笑)

「えー、これが現実!?」って(笑)日本の情報が全て正しいわけではないですね。日本で神様的なDJも、アメリカでは人気が落ちていたりすることも普通にあって。あとは、カテゴライズしきれないジャンルがあるということですね。HOUSEだけとっても、日本だと「CROSSOVER」みたいなジャンルがありますけど、アメリカにはないんです。「そのDJが良かったらそれで良い」くらいの勢いで、音楽の種類だって、TechnoもRockもCountryもあれば、イスラムの音楽やラテンの音楽まである。細かなコミュニティが出来ていて、それは行かないと全く知らなかった世界でした。

ー「住まないと評価されない」という言葉が繋がりますよね。

「なんて狭くて小さな世界にいたんだろう」と思いましたし、観光で行ってリリースしても、評価されないという意味がわかりましたね。直接、コミュニティに入って仲間にならない限り、コネクションが作れない。3年住んでる間に「観光客で来てDJやりたいんだけど」と日本の知り合いに言われたときは「住まなきゃダメだよ」と言っていましたね。

ーそのくらい、コミュニティに身を置かない限りは入り込めないんですね。

入り込めないですね。

ー滞在が3年という期間の中で、明確な目標はSILVAさんの中で定めていたんですか?

最初は「3年もあるし、この経歴があれば多少有名になって、トラックを制作してチヤホヤされるだろう」という風に思ってたんですけど、3ヶ月くらいで挫折しました(笑)英語が話せないし友達もいない。結局、コミュニティもわからないからどこにも行けないんです。引きこもってました。1年半くらいは苦悩の日々ですよ。それでも色んなレコード会社に売り込みに行っていましたけど、受け入れてもらえない。クラブでも、黒人のMCを見つけて自分でイベントを企画しても5人しかお客さんが来なかったり。「アメリカで成功したい」と思っているから、アメリカ人のコミュニティばかりに行って、日本のコミュニティには行かないようにしていたんです。街で日本人に会って「SILVAさんですよね?どうしてアメリカにいるんですか?」と声を掛けられても完全無視してましたし。結局、そこにしか認知がされていないというフラストレーションと、実力がないから仕事が決まらないのと、決まっても騙されてお金が払ってもらえないという連続で、ニューヨークなのに(笑)栄養失調で倒れました。食べ物で溢れている街なのに、ご飯が喉を通らなかったんです。

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