沼澤 尚 インタビュー

ー今回は沼澤さんの音楽との歴史について伺わせて下さい。

それはもう、確実に”The Jackson 5″からですね。自分には5つ上の兄がいるんですけど、自分が小学生のときに兄は既に高校生だから、”Led Zeppelin””Elton John”が初来日したら必ず観に行ってるみたいな人で、となりの彼の部屋では常に洋楽が流れてました。その頃、湯川れい子さんがラジオ関東(現:ラジオ日本)で、全米TOP40という番組を毎週土曜日やってて、やたらカッコイイと感じた曲が流れて、多分ものすごく自分に引っ掛かったらしく、すぐに誰か知りたくて、聞いたら「”The Jackson 5″っていうんだ」って。「モータウンで、ダイアナロスが見つけて云々…」っていうのを教えてもらって、生まれて初めてお小遣いで買ったレコードが”The Jackson 5″の「ABC」。初めて観に行ったライブが、小学校を卒業する1973年の3月の彼らの初来日。小学生のときから自分のヒーローが”The Jackson 5″に”Michael Jackson”でしたから。

ー当時の”アメリカンポップス”の象徴の一つですが、その音楽自体に惹かれたのか、それとも”The Jackson 5″という兄弟達のエンターテイメント性に惹かれたのか?

気がついたら黒人への憧れが小学生の頃にあったらしくて、単純に歌声から姿形から動きから何から何までやたらカッコイイと思ってました。もちろん小学生だからよくわかってるはずもなく、子供ならではの感覚でしかないんですけど。あと、覚えてるのは”Elvis Presley”です。自分の父が南海ホークスのコーチで、大阪に単身赴任してたから、小学生のときは毎年夏に家族で大阪に行ってました。当時、選手達がよく洋画の試写会とか観に行ってて、彼らに連れられて「エルビス・オン・ステージ」「エルヴィス・オン・ツアー」が日本に来て一緒に観に行ったり。単純に外国人の感じみたいなことが好きだったんでしょうね(笑)

ーしかも、どちらもアメリカの音楽だったと。

“The Jackson 5″はアナログ盤をはじめその頃から集めまくってたいろんなものを持っていて、もちろんその時の武道館のパンフレットも大事に保存してあります。それにチケットをきちんとホッチキスで留めてあって。

ー沼澤さん、マメですね(笑)

自分の席が前から2番目で、パイプ椅子の座席の番号札も取ってきて、それもホッチキスでちゃんと留めてあって。生まれて初めて観に行ったライブですから。

ー因みに夏休みは大阪に遊びに行かれたり、お父さんがコーチをやってらっしゃった影響で、野球への興味はなかったのですか?

野球を本格的に始めたのは高校からですけど、子供の頃から元々は音楽なんかとはまるで無縁でとにかくスポーツ三昧でしたね。両親が超スーパーアスリートカップルなので。父は人生そのものが野球だった偉大な人で、高校~大学~プロ~コーチ~解説者~執筆活動でものすごく有名な人でしたし、母は学生時代にバスケットで国体優勝して、最優秀選手になっていて。2人共函館出身で同い年なんですけど、高校時代からの知り合いで、一緒に東京に出て来て、 母は東京女子大に行って、父が早大に行って六大学野球で大スターになって、卒業と同時にオリオンズにドラフトされて、で、結婚して、っていうスーパーアスリートカップル。

ー沼澤さんの育った環境は、完全にスポーツですね。

だから、親がスゴ過ぎて息子はスポーツで大成しなかった。野球も最後の夏はベスト16までで甲子園も行けなかったですし。

ーそれでも”プロ野球”に行こうとはならなかったのでしょうか?

全然、行くつもりでしたよ。慶応大学でも始めは当たり前のように野球部にいたんですけど、監督や下手くそな上に平気で正座させた下級生を蹴り飛ばすダサい先輩とかが嫌で。大学野球をバカにしちゃってましたね(笑)ほら、親にプロ野球のことを教わり過ぎて、完全に頭でっかちになってたから。六大学だから、まぁ東大が常に最下位ではあるんですけど、そのときの慶応は5位。新入生で入ったときに練習の様子を見てて「こんなんで勝てるわけないじゃん」とか生意気にも思ってて(笑)

ーさっきの小学生のときの話もですけど、沼澤さんは実際の試合を見てますもんね。

だからダメなんですよね。考える前にとにかくやらなきゃいけないのが、日本の学生野球だったり学生スポーツだったりするんですけど、やる前に色々考え過ぎるまるでダメなタイプで(笑)

ーその部分は難しいところですよね。”考える前に”とは言っても、プロの方をずっと見てしまってますものね。

だから二世は大成しづらいんじゃないかと。そう考えると貴乃花と若乃花は凄かったですよね。あの偉大な父を抜いて2人共横綱になったんですから。

ー確かに。それでも大学卒業までは日本にいらっしゃったんですか?

大したことしないまま慶応は一応卒業して…卒業式出なかったんですけど(笑)LAの音楽学校のスタートに間に合わなかったので。

ー月並みですけど就職等は考えられなかったんですか?

それはですね…大学生って将来やることをしっかり見つけられる優秀な学生もいるけど、その多くはなんか回りの感じに合わせてなんとなく流れで社会人になっちゃったり…で、もちろん自分も就職しなきゃなぁ、なんて軽く思ってはいたとはいえ、でも大学の体育会とか辞めちゃったりすると、友達とか一気にいなくなっちゃうじゃないですか(笑)なので大学の友達とかもちろん1人もいない(笑)予定ではまあ、普通に高校野球・六大学野球やって、プロ野球の選手になるしか考えてなかったんですけど、なんか違ってきちゃって、どうしようっかなってなって(笑)で…いきなりアメリカに住もうかな、みたいな。 デタラメもいいとこ(笑)

ーそれは先程の”The Jackson 5″の影響ですか?

いや、その頃1980年前後って、BEAMSが原宿に出来たりとか、あらゆる意味でアメリカのカルチャーが若者に影響を与えてる時期で。

ーPOPEYEとか流行ってましたしね。

そう。その頃は今と違って、音楽だったらスイングジャーナルから「ADLIB」っていう雑誌が創刊されて”Stevie Wonder”が表紙になって黒人の踊り方とかまでレクチャーされたり、アメリカのカルチャーが洋服や音楽やスポーツも含めて全部がものすごい時代で。今はもう、全世界からあまりに色んなものが入り過ぎてて、逆にあらゆる面で東京が1番進んでるみたいなところもありますけど、あの頃はやっぱり「憧れのカリフォルニアの青い空」みたいな頃で(笑)それでアメリカに、それも絶対にLAに行きたいな、って(笑)

ー(笑)良い意味で漠然と。

で、英語を喋れるようになりたいという以外には何をやりたいかなんて全然分かってないですし、そういう酷い…「やりたいことを見つけに行こう」とか、そういうカッコイイものでも全くなくて。でも、TBSと電通の面接は受けに行ってました。なんか皆やってるし、みたいな最悪な感じで。

ーえぇ?

でもアメリカに住みたいと思ってて、親には内緒で音楽学校を調べてたんです。

ーそこで音楽が出てくる。

だから行けたのかなぁ(笑)別にミュージシャンになる為なんかじゃなくて、音楽が大好きだったからっていうだけ。レコード買い漁ってはコンサートに行ってましたし、大学のときは毎週末朝まで必ず六本木で遊んでて。全然楽器をちゃんと演奏したいと思ったこともないし、聴くのが大好きなだけでレコード集めてたんです。たまたま自分の知り合いの知り合いが行ってた学校のパンフレットが手に入ったんですけど、そこで音楽好きが高じて大好きになったドラマー2人が教えてるのを発見しちゃって。それが”Jeff Porcaro”のお父さん(Joe Porcaro)と、”Ralph Humphrey”です。

ー”ハーフタイムシャッフル”とか、リスナーとして聴いていたと。

そうそうそう。もうとにかくジェフが大好きだったし”Steve Gadd”,”John Robinson”,”Yogi Horton”,”Steve Ferrone”,”Steve Jordan”,”James Gadson”,”Rick Marotta”,”Harvey Mason”,”Ed Green”,”David Garibaldi”とかが好きで。子供の頃からの趣味はそのまま相当エスカレートしていって、黒人音楽フリークで毎週ディスコで踊り明かしてるのと同時にいろんなレコードのクレジットをめっちゃ見て楽しむタイプの音楽ファンだったんです。

ーバンドではないんですね。

全然全然!”Beatles”,”Rolling Stones”が好きでとか、それで「ミュージシャンになりたい」とか思ったことは1度もないんです。その頃のスタジオミュージシャンやセッションミュージシャン達のクレジットを見ては、レコード買っていたので。 だから裏ジャケのJohn Tropeaのクレジットを見てCurtis Blowを平気で買ってたり。

ーあぁ、ライナーノーツも見まくってるみたいな。では、”TOTO”なんてそれこそ…

“TOTO”、もちろん!”Bob James”,”George Benson”,”Brecker Brothers”,”Lee Ritenour”,”Mike Mainieri”,”Weather Report”,”Crusaders”,”David Sanborn””Richard Tee”とかCTIレーベルってそういう…

ージャズ・フュージョン系の?

そういうのが好きな人が周りに多かったですし。スポーツはやっていたけど、そういう音楽好きな人達と話してるのが好きだったんです。その頃は”Deep Purple””Led Zeppelin”とかジミヘンとかいわゆるロックバンド的なジャンルがそんなに好きじゃなかったみたい。”TOTO”も「”Boz Scaggs”のアルバムに参加してた連中がバンド作ったんだ」程度でしたから。一般的にロックとされているものにドバっと入り込んでいくのは全然リアルタイムではなくて、後にアメリカに行って遡っていくようになってからですね。

ーでは、音楽はもちろん好きですがプレイヤーの方を当時は注視してたし、その目線で聴いていたんですね。

そうそう、内容がどうというよりは、 ジェフのクレジット見たらまずそれだけでレコード買いまくってました。

ー特に日本だと、”ニューミュージック”と呼ばれ始めた頃、向こうのプレイヤーやアレンジャーが結構参加してますよね。

アメリカで「”Jay Graydon”が流行りました」となると、いきなり松田聖子さんの曲が「これ”Airplay”?」っていう時代ですよね。

ー(笑)

「アメリカで流行るものがすぐ日本でこういう風になるんだ」と大学生のときに思っていましたね。そういうものを目の当たりにしていたから、「アメリカに行きたい・住みたい」と思いましたし、英語が喋れるようになってくれば、就職なんていつでも出来るかなと。そして、その言い訳が「音楽学校に行く」だったんです。しかも、学生ビザ申請書のrequirementの項目で「English speaking」に「NO」と記載してあって、その理由が「MUSIC IS UNIVERSAL LANGUAGE」って書いてある(笑)

ー流石、音楽学校ですね。因みに受験や審査はなかったのですか?

カセットテープのオーディションです。審査要項があったんですけど、分からないから紀伊國屋に行って、音楽理論の本を見たりして、で、貸しスタジオに入ってラジカセでチョロっと録音したのを送ったら「合格」って来ちゃったんです。

ーえ?そのときが初めてのドラムですか?

殆どそうですね。ど素人もいいとこ。当時は友達がバンドやってるとドラムセットが置いてあるでしょ?音楽が大好きだしドラマーが好きだから、なんとなく触らせてもらったりしたんですけど。「お前、野球部のくせに結構やるじゃん」みたいな(笑)その程度の感じです。

ーすごい!あれ、でも親御さん、知らないわけですよね?

そう、知らないんです。超内緒(笑)「行くって言ったとき・行きたいって言ったとき」のことを、実は全く覚えていなくて…それがなぜか自分の記憶に全くないんです。「何でそんなに覚えてないんだろう?」と思って、父は25年前に亡くなってしまっているんですけど、母はすごく元気で今もライブをたくさん観に来てくれますから、最近聞いたんです。「そう言えばさ、アメリカに行かせてくれって、何て言ってた?」って。そしたら、母が言ってたのは「あんたもう行くって決めてたわよ」って。だから行かせてくれたのか分からないですけど、もう行くって決めてたんだと。「すいませんでした」って言って(笑) 。

ーご相談された感じではなさそうですね。

行かせてくれたんですね。父も学費と生活費を出してくれてましたし。父は、アメリカの”Miller”ビールのTVコマーシャルに実は数回出演してるんです。”Miller”は必ず元プロスポーツ選手をコマーシャルに起用するんですけど、父はすっごく明るくてキャラクターが面白い人だったから抜擢されてたみたいで。

ー起用もすごいですけど、シリーズ化されてるのもすごい。

それが現地でスポーツ番組を見る人で知らない人はいないくらい異常な人気になってました。あれがお前の父親なのか、って、それで自分が有名だったぐらいだし。うちの父は「日本語しか喋らない」っていう面白いコマーシャルでウケていたので、何回もアメリカに行っていましたね。そのギャラをドルで貰ってたんですけど、アメリカに口座を開いてくれて置いていってくれたんです。

ーお父さん、相当愛されてたんですね。

もう31年前ですね。父の葬式に集まった人の数でも凄く分かりましたけど。

ーいずれにしても、晴れてアメリカの生活を手に入れたというか…

そうなんですけど…今考えるとあり得ないレベルで酷かったですね(笑)よくあんなんで行っちゃってた。

ー実際の生活では、まずコミュニケーションについては英語がメインになりますけど。

英語は初めはもちろん全然です。でも自分しかいないから「話せない」ってことが全然恥ずかしくなくなるんです。例えば、回りにアメリカ人しかいなくて「ヤバイ、こう言ったら笑われるかな…」とか言ってる暇がないんですよ。「えっと…これは英語で何て言うんだろう?」って。「トイレ行きたいんだけど、トイレ行きたいって何て言うの?」って一つ一つなんとか頑張って聞いて。最初住んでたアパートには電話が怖くて入れられなかったですし。

ーあぁ、話せないから?

電話がかかって来てもどうせ喋れない。あと、ガスとか電気ですね。アメリカって、自分で部屋から連絡してインフラを引くんですけど、怖くて出来ないから学校のクラスメイトに頼んだり、そういうコミュニケーションの取り方でしたね。

ー授業はどうされてたんですか?

全部カセットに録音して、家でもう一度全部聴き直して、の連続でした。しかも、初めに上級者と初心者のクラス別けのテストがあるんですけど、まだ大して出来ないのになぜか上のクラスに入っちゃって。

ーすごい!

何故か…で、プロミュージシャン養成学校ですから、みんな「俺はここからプロのミュージシャンになって、有名になるんだ」って思ってる外人しか集まってないわけです。自分は別に「ミュージシャンになりたい」とか思ってるわけではないし(笑)アメリカ来て「わーい!アメリカだー!」って遊んで英語喋れるようになって、ササっと日本に帰ろうって思ってましたから、もうみんなとの温度差がね(笑)

ー(笑)

それが面白くて。そのときは「ドラマーになろう」なんてもちろんまるで思ってないんですよ。でも、下手で上級者クラスに入れられちゃったのに、なんとかやってはいけたんですよね。そこも何故かはよく覚えてないんですけど、順序立てて何かをしていくという理解度は、大学出てから行ったというのはあるかもしれないです。

ー先生のスキルが盗みやすい下地が他の人より出来てるということ?

まぁ、それをやりに全世界から皆が来てはいるんですけど、「”Stewart Copeland”みたいになるんだ」って本気で思ってる連中ばかりですから、「そんなの知ってるよ」みたいな感じなんですよね。でも自分からしたら「すごいなぁ…自分はまるで分かんないから一からお願いします!」っていうね。あとは日本だと宿題忘れると立たされるってありますけど、アメリカはないですからね。「お金払ってるんだから、やる・やらないは自分で決めろ」っていう。先生と生徒の関係って、生徒が作るものですから。

ー日本だと、入学までが大変で卒業は簡単だけど、アメリカは真逆ですよね。

アメリカは入るより出るのが大変ですよね。

ー沼澤さんからすれば、日本でリスナーとして触れていた人たちが、実際に先生としているというのは、普段の生活の中でアメリカのすごさを体現出来ていますよね。

学校に”TOTO”は平気でクリニックしに来ちゃうし。そういう毎日だから、英語が云々とかプロミュージシャンが云々とか、毎日がすご過ぎてそんなこと言ってる場合じゃない、そういう学校でした。日本にいたら「コンサートを客席で観れるだけでラッキー」な感じですけど、ここでは彼らは普通にそこにいるし、質問すれば応えてくれるし。学校は24時間開いてるからいつ行ってもいいし。授業そのものは18・19時とかまでに終わるんですけど、それからずっと朝まで学校の施設を誰でも自由に使っていい。
身近にここまで入ってくることは、日本では考えられないですよね。
そうそう。そういう連中が突然、毎晩のようにローカルでライブ観れるし、テレビつければ毎晩”David Letterman Show”が観れたし。”Steve Jordan”,”Will Lee”,”Hiram Bullock”がハウスバンドやってて、そんなもんが普通に観れちゃうから、毎日もう楽しくて仕方ないわけです。新聞を見れば、「今日”Jim Keltner”演ってる、行こう!」って。いきなりアメリカのすごさを実感してましたよね。

ーえ!?スタジオも使って良いんですか?

全部ですね。だからライブや映画を観に行ってる以外は、ずっと学校に入り浸りでしたね。

ーアパートには寝に帰るくらい?

そう。とにかく毎日学校にいるのが楽しかったので。それで授業は1年間で終了なんですけど、もう少し学校に残りたいと思ったんです。色んな情報や知識をすごい先生達から、大量に教えてはもらったことはもらったけど「まるで練習は出来てないな」と思って。1年後に卒業式があって、そこでは生徒たちが、演奏できる機会をもらえるオーディションが事前にあって、皆がそれぞれにバンドを作ってたんですけど、自分がいくつもに誘ってもらって、結果的にそのオーディションに通ったバンドが複数あって、自分仕切りのバンドでは”Steely Dan”やって。そこで全校生徒が選ぶ、人気投票のドラム・ベース・ギターが表彰されるんですけど、そのドラマーに自分が選ばれちゃったんです。

ーすごい!

「えー!?」って(笑)自分がそこでスピーチしてる映像とかVHSで撮ってありますよ(笑)

ー見たいですね!

そんなこともあって、先生達ともすごく仲が良かったんです。日本人だし、全然下手くそだったのに、学校ではやたら皆と仲良しで。

ー卒業式で表彰もされて、それでも「居させて欲しい」という直談判に行かれるわけですよね?

本当ならもう出なきゃいけないから、その為にビザが必要なんです。オフィスに相談しに行ったら「学費は半分だけでいいので、それで学生ビザ出してあげるから、 学校に好きなだけ居て好きなことしててOK!」って。おまけに「夏期講習で先生やらないか」って言われたんです。

ーえ!?その年のですか?

そう。夏の間、12週間くらいの夜間の「サマースクール」があって。それは入学試験もなくて、例えば今日ベースを初めて触れる人でも入れる。そういう子達にプライベートレッスンとして譜面の読み方教えたり、練習したものをチェックするというカウンセラーを頼まれたんです。「やるやるやる」って言って、学校に居させてくれて給料ももらい始めたんです。そうこうしてる内に「そのまま、この学校でレギュラーの先生にならないか?」って言われて、そのまま学校に残ることになっちゃって。このおかげでちゃんとアメリカ本土で就職先があって、きちんと住めることになったんです。

ーえー!?だって、元々…

そうですよね、そもそもドラムやってきたわけでもないし、ドラマーになろうなんて思ってないし、すぐ帰ろうと思ってましたし。

ーそれを超えるものが、最初の2年間であったという…沼澤さんのお話聞くと、よく”ドラム歴何年で”とかありますが、関係ないって思えますね。

あ、それは本当に全く関係ないと思います。自分がいい例ですよね。何年やったからその分上手くなるとか、まるで関係ないですね。子供の頃からやったからといって、必ず上手くなるってわけでもないですから。

ーまさかドラムで仕事になるなんて思ってもいなかったわけじゃないですか?

そんなもんそんな簡単になれるわけがない。それぐらいのことは分かりきってたし、別にドラマーとして夢とか希望とか野心とか持ってなかったですしね。
逆にそれが良かった様な気がしますね。

ー良かったんですかね?

「自分はドラマーになるんだ!」なんて考え方がまるでなかったですし。「んじゃあ、とりあえず帰って電通でイイか。」みたいなね(笑)

ー(笑)

普通にそれぐらいの考えでした。電通?TBS?慶応だから周りの連中は有名な大手の大企業とか、メジャーな銀行とか広告代理店とか。そういう名札をつけてると、軽くステータスだったりっていう。その感じがものすごく違うと感じていて、そんな感じだから大学でめちゃ仲間外れですよ。「何言ってんだアイツ、アメリカ行くとか言って。ほっとけあんなヤツ」みたいな感じですよね。

ー安心のステータスが沼澤さんにとってはつまらなかった?守られているというか…

おそらくそうだったんだと思います。はっきりと意識はしてないけど、居心地は良くなさそうで。自分にとって悪いことあるはずはないですし、彼らがそれぞれに良い人生を送ってると思うんですけど…何かが自分には違うなと思ってましたね。ただ、今考えると「親にとんでもない迷惑をかけ続けてきたな」っていうことしかないんですけど。

ー良い意味で自分にワガママであったというか…

いや、そこはもうはっきり言って最悪ですよね。父はとっくに亡くなっていますし。

ー学校の先生から、どういった発展をして行くことになるんですか?

自分のクラスメイトで、すごく仲良かった”Sheldon Gomberg”というギタリスト/ベーシストの友達がいて、卒業した後にルームメイトになって、ハリウッドヒルズに二人で住んでたりしていて。その後しばらく彼と会っていなかったんですけど、最近、シンガーソングライターの臼井ミトンさんから彼の話を久々に聞いて。で、実は神経の病気で、車椅子生活になってしまって、演奏も出来なくなっちゃって…なんですけど、そこはさすがポジティブなアメリカ人というか(笑)自分の楽器やコレクションしていたビンテージ・カー等を全部売って、ビンテージ機材にこだわったすごいスタジオをロサンゼルスに作って、オーナー兼エンジニアになって。 “Jim Keltner”がお気に入りだったりして、今そのスタジオがすごく有名になってしまって、今年なんと “Ben Harper”と”Charlie Musselwhite”のアルバム「Get Up!」をプロデュースしてグラミーを受賞してました。

ーすごい!

ミトンさんに聞くまで知らなかったんですけど。で、現在はそんなプロデューサーになったその友達と、自分が渡米した1983年にその音楽学校で知り合ってすぐ仲良くなって、彼らのホームパーティーに誘ってもらったんです。アメリカでは週末にバーベキューやったり、やたら集まることが多かったですから。その彼の家は当時”Pointer Sisters”のドラムだった”Michael White”や”Al Jarreau”のサックスの”Michael Paulo”や若手ミュージシャンがみんなでルームシェアしてる大家族が住むタイプの大きな家で、リビングルームが皆の練習スタジオみたいになってて。で、そのパーティーに行ってみたら、それがとんでもないミュージシャンだらけの集いで。「あの人”ABBA”のパーカッションの人だ」とか、「あ”Teena Marie”も”Pointer Sisters”も皆遊びに来てる」みたいな。ミュージシャン繋がりの誰かがツアーでロスに来たら、皆そこに寄って練習したり遊んだりする家だったんです。今やストーンズですけど、”Marcus Miller”の後釜で”Miles Davis Band”に入ったばかりの”Darryl Jones”もそこで会ったし。そんなすごい人達の集まりで、皆代わる代わるずっと演奏してるような状況で「一緒に学校行ってる日本人なんだよ。お前も演れよ」「あ、どうも…」っていうことにやっぱりなっちゃって、ドラムの席に座ったらもう1台のドラムには、なんと”Earth, Wind & Fire”のFred Whiteが座ったんです。

「わわわ…長年聴きまくって、この人のドラムで六本木で踊りまくってた」なんていう自分の憧れだった人が、隣に座ってる異様なシチュエーションで。もちろん何にも覚えてないですけど、とにかく舞い上がって演奏したことだけは確かでした(笑)それからいろんな人と演奏することにはなっちゃってたんですけど、その中にベースやキーボードを演奏してる白人がいたんですよね。で、後にその人と中古レコード屋で本当に偶然に再会することがあったんです。ものすごく安かったし、レコード屋に通うのが大好きで。その時にメルローズのレコード屋で、何枚も抱えてる内の一番外側に見えていたのが、たまたま”Bobby Caldwell”の「Cat in the Hat」だったらしく、突然「俺の欲しいレコード、何でお前が持ってるんだ」って誰かに脅されて、慌てて振り返って目があったら「あっ、あのパーティーの時の白人の人」って。

それが後にLAで大活躍する”Tony Patler”というパームスプリング出身の優秀なミュージシャン。

ー音楽好きならではの再会(笑)

そのときは「お前”Bobby Caldwell”好きなの?」「大好きです!」という会話ぐらいでもちろん終わって。その後がまた信じられない偶然で、”Cameo”の”She’s Strange Tour”のコンサートをビバリーシアターに1人で観に行ってたら、なんとそこでまた再会して。この時にステージでキーボードを弾いていたのが、後に久保田利伸や荻野目洋子やSing Like Talkingのプロデュースでバカ売れする、ニューオーリンズ出身の”Rod Antoon”。で、客席で「俺の好きなバンドのコンサートに何で来てんだよ」ってまた背後から脅されて、振り返ったらまたその人だったっていう(笑)こんな偶然が続いたんで、それから仲良くなって電話番号を交換して。なぜかその人は、そのパーティーの時の自分のドラムを気に入ってくれてたみたいで、そうこうしている内に、彼が”Chaka Khan”のツアーバンドに入ったんです。

ーここに繋がっていくんですね。

“I Feel for You”がドカーンて売れてる時代で、そのツアーは “Vinnie Colaiuta”がドラムだったんですけど、彼が抜けることになって「お前、オーディションに来ない?」って誘ってくれたんです。オーディション会場がノース・ハリウッドで有名だった”Leeds”っていう老舗のリハーサル・スタジオで、そこに到着したら、なんといきなり廊下で”Jeff Porcaro”に会って、学校でお父さんのJoeに紹介されてから、何度も会ってたので覚えててくれて「おぅ、お前何やってんだ?」みたいな感じで声を掛けてくれて。「これから”Chaka Khan”のオーディションなんです」って言ったら、まだ誰も来てないからって、その時に”TOTO”が”Isolation Tour”のリハーサルをやっていた、隣のスタジオに連れて行かれて、機材とか見せてくれたんです。

ー沼澤さんとジェフだけ?

そうです。YAMAHAの「RX-11」ってドラムマシンが出たばかりで、「これと一緒に演奏しなきゃいけないんだよね」って愚痴りながらドラムセット回りを見せてくれたり。そしたらいきなり”Donald Fagen”の「The Nightfly」をかけて、それに合わせて自分の目の前で1曲目の”James Gadson”の”I.G.Y.”からA面最後の”Rick Marotta”の”Maxine”まで一気に演奏しちゃって。もちろん自分がレコーディングしてる2曲目の”Green Flower Street”と”Ruby Baby”もエンディングまで完璧に。こっちは息もできない感じで、正に”夢見てるみたい”でしたから。で、ドラムセットから離れて、自分のところに来て、ガッと肩をつかまれて、”Don’t be nervous.Don’t be nervous.”って言われて。 それでオーディション受かっちゃったんです(笑)「緊張すんなよ。行ってこい。」っていう感じで言われて。

ー気遣いが出来る人だったんですね。

その後もレコーディングやリハを見せてくれたり、ベイクドポテトに呼んでくれたり、ピザ奢ってもらったり、家に行ったり、奥さまも知り合いだったし、いろんな場面ですごくよくしてくれたんですけど。それで”Chaka Khan”のツアーに参加することになって、その直後に今度は”Bobby Womack”をツアーに繋がるんですけど、そこはもう周りの人々が知り合いでしたから。

ー沼澤さんのドラムが認められている証拠でもありますよね。

周りには自分なんかよりスゴい人達だらけだから、本当に「たまたまラッキーなタイミングで、ラッキーな出会いがあった」っていうだけなんですけど。”Rufus&Chaka Khan”の「Stop on By」は”Bobby Womack”が書いていて、もちろん二人はものすごく知り合いでしたし。”Bobby Womack”のツアーの方は、バンドのドラマーがクビになるって話があって、そのバンドのバンマスからリハーサルに呼びだされて。それが1986、7年ですから、卒業した音楽学校で先生もやっていた頃です。この当時は「生活する為だけの仕事になっちゃう演奏」だけは、絶対にやらないようにしようと思っていて、学校の先生をメインにしながら、「自分のためになると判断した演奏機会が巡ってきただけにしよう」ってこだわってました。

ー例えばパブで演奏するとかは演らない?

やり始めるとドラムで生活っていうより…生活する為のドラムみたいになってしまうし、それではアメリカにいるのに自分のために良くないと思いましたし、そうなって来たら、とっとと日本に帰ろうと思ってました。学校の先生で家賃も払えるし食べられるし、それだけで出来る限り頑張ろうと思って。でもとうとうお金に困って、ずっと同級生から誘われてた「ロシアレストランで演奏するバイト」っていうのがあったんです。 ビバリーセンター内の映画館に隣にあった”St.Petersburg”っていうロシア料理屋さん。

ー箱バンみたいなものですか?

そうです。そういう仕事のことを「カジュアル」って言うんですけど、そのロシアレストランで、同級生が週末演奏していたので前から誘われてて。で、やっぱりお金の為に1度だけ行ったんです。それがロシアマフィアの結婚パーティーで(笑)頑張って、金土だけそれやったんですけど…なんと次の週に”Chaka Khan”のツアーがあって、みたいな。

ー後にも先にもこれっきり?

そうです、あのロシアマフィアのパーティーはかなり怖かったですね(笑)

ー”Chaka Khan”への参加によって、何が得られたと思いますか?

今思うと、”とにかく運が良かった”としか思えないですね。まだ26,7歳で、卒業した学校の新米先生をしながら、ドラムに対して相当やる気満々になっていましたし。色んな意味でかぶれてるというか…自信過剰で何も様子が解ってない頃だったし、大して巧くもないのに「よくあんなんでやれちゃってたなぁ」とつくづく思います。それに日本人というのが大きかったと思いますね。

ーアメリカにおいての”日本人という希少性”が、ある意味武器というか?

80年代のアメリカでは、やっぱり日本人は華奢ですし、さらに自分は髪を長くして派手な眼鏡を掛けて、見た目が面白かったのは間違いないですし、まぁまぁ印象も良かったんだと思います。実際の所、そんなにやる気なんてなかったのに、なんだかやれてる感じだから、勢いだけで何も解ってなかったですね。

ーその後が”Bobby Womack”でしょうか?

27歳の時ですね。日本ツアーもあったので、生まれて初めて自分の国で演奏するチャンスが来た時です。

ー凱旋帰国!

初めて家族が観に来てくれて、両親が自分の息子がドラムをプレイするのを観たのは、その”Bobby Womack”のツアーだったんです。

ーそれまで生のプレイをご覧になられたことはなかったんですね。

ないです。自分がテレビ番組の”Soul Train”に出たりしたら、それを録画して「テレビ出たよ!」って映像を送ってたくらいです。当時は先生をやりながら、とにかく色んなライブをやっていましたし。

ー具体的にはどういったものがありますか?

市内には、大量のジャズクラブやライブハウスがあったので、ローカルのジャズクラブに出演したり、学校の仲間で先生や自分の同級生とかが、色んなことをそれぞれにやってましたから。後に”Chic Corea Elektric Band”に入る、天才ギタリストの”Frank Gambale”は学校の同級生で、彼の”After Burner”っていうバンドを一緒にやってたり、”Mo’ Jazz”からデビューした”Norman Brown”も同級生で、彼のバンドもやってたし。あとはゴスペルの現場も多かったです。

ー教会でですか?

“O.C. Smith”とか”MC Hammer”って牧師になってますけど、アメリカってそこら中に教会がありますよね?あれって自分で自由にやって大丈夫だからなんです。

ーそうなんですか?知らなかったです…

自分でその都度部屋を借りたりとか、教えを説いたりすることはいくらでも出来ますし。 “Martin Luther King”のような、歴史的な人物等もそうですけど、歌手だった”O.C. Smith”は、毎週日曜日に牧師として教会をやっていて、その教会にはロサンジェルス在住の色々なミュージシャン達もたくさん集まって、必ずバックバンドがつくんですけど、そこに参加してました。”Stevie Wonder”のコーラス隊や”Graham Central Station”の”Patryce “Choc’let ” Banks”やストーンズの”Gimme Shelter”で一躍世界的に有名になって、映画 「バックコーラスの歌姫たち」でもフィーチャーされていた”Merry Clayton”も歌いに来ましたし。そのバンドで演奏しながら、彼らのゴスペルのミュージカルのバンドやったり、そういう繋がりから”Smokey Robinson”のツアーバンドに誘われ出したりとか。”Tony Boyd”という、後に”Eric Benet”のバンマスもやってた超絶ベーシスト/ボーカリストが、リーダーでやっていたディスコバンドを黒人しか来ないクラブで毎週末演奏してたり。

沼澤さんの場合、”自分のバンドがあって”というミュージシャンの道ではないですよね。ー自分でその都度部屋を借りたりとか、教えを説いたりすることはいくらでも出来ますし。

全然!自分がそういう…バンドがやりたくてミュージシャンになってないですし、音楽が大好きなだけで、それこそ「ミュージシャンになりたい」と思って、ミュージシャンになったわけではなかったですから。周りの人達を見ていて、周りの人達に誘われるがままに色々やっていただけで。若かったし、相当下手くそだったにも関わらず、なぜか声が掛かってやらせてもらってたから。もちろんその都度、その現場ごとにめっちゃ怒られたり、途中で帰らされたりとか(笑)普通に大変な修行の連続でしたけど、それが当たり前だと思っていたし、それ自体がスリル満点でものすごく楽しかったからやってたし。それで”Chaka Khan”のツアーバンドをやっている時に知り合ったのが、その頃”Sheila E”のバンドメンバーで、今でも一番仲が良い長年の仲間達です。

ーこのタイミングだったんですね!

彼らと仲良くなって、「バンドやろうよ」という中で生まれたのが、自分が始めて組んだバンド”13CATS”です。自分は「バンドかぁ…やってみようかな」くらいでしたけど、みんなすごいミュージシャンだし、「自分とやりたい」って言ってくれている。”Cat Gray”,”Karl Perrazo”,”Eddie M.”,”Raymond McKinley”,”Bobby G.”,”Stef Barns”,”Steve Baxter”,”Wayne Braxton”みんな巧いっていうのは当たり前で、強力な個性を持ってるスペシャルなミュージシャン達です。

ー今、色んなバンドやツアーの参加、”13CATS”のお話を頂いたんですけど、学校の先生との両立は、いつまで出来ていたんですか?

正確には覚えてないけど、「行ける時に行けば良い」という感じになっていたので、2000年に日本に帰国する寸前までですね。学校の中で古株になっていましたから、たまに学校行けば良かったですし、自分の作ったクラスだけやっていたり。

ーそれはびっくりですね。そこまで続けていらしたと思っていなかったです。

今のように、毎日演奏していたわけではないですし、月の半分も演奏してなかったと思います。ライブやレコーディングも確かにやっていましたけど、学校の先生をメインでやってました。それは何より楽しかったし、世界中からやってくる多種多様な生徒にも会えるし、自分の先生達も常にいて、ドラムの色々な情報にいつも触れているっていう。まるで仕事だと思っていなかった感じで(笑)だから、90年代に”チキンシャック”,”Sing Like Talking”、井上陽水さん、高中正義さん、吉田美奈子さん等のツアーで、日本からドラマーとして呼んでもらえた時だけ、学校から休みをもらって年に1〜2度くらいの頻度で日本に行ってました。

ーそうだったんですね。失礼なお話かも知れないですけど、井上陽水さん、高中正義さんは沼澤さんが日本にいらっしゃる時から、アーティストとして活躍されていましたが、”Sing Like Talking”の存在はご存知だったんですか?

知らなかったです。たまたま何かで日本に…おそらく”チキンシャック”の時です。山岸潤史、土岐英史、続木徹、Bobby Watsonがやってた、スムース・フュージョン的なバンドに呼んでもらって日本にいた時です。そもそもは自分が”13CATS”をロスでやってる時に、山岸さんに会ったのが始まりですね。”Mama,I want to sing”というオフ・ブロードウェイで人気があった、ゴスペル・ミュージカルのサントラのレコーディングをLAの”Image”というスタジオでやっていて、”James Gadson””Les McCann””Bobby Watson””David T. Walker”っていうリズムセクションだったんです。

ーすっごい名前が出てきました(笑)知らなかったです。

“James Gadson”は当時の”Bobby Womack”のプロデューサーだったので、自分がスタジオに会いに行った時のことです。日本人がそこに何人かいて、山岸さんもギターで参加してたんですね。「あ、山岸潤史だ」って判ったんですけど、日本のミュージシャンの知り合いはもちろんいないですし、「”James Gadson”の知り合いで遊びに来ました。」という感じで。そこで”James Gadson”と話してたら山岸さんが来て、「君か、ひょっとしてこの前”Bobby Womack”で日本に行ってたのは?」って話しかけてくれて。「そうです」ってなって、山岸さんが「”Bobby Womack”と来日してたドラムを見つけたぞ。」って日本のソウルファンの友人達に即行で連絡したっていう(笑)

ー山岸さん、観に行かれてたんですね。

(山下)達郎さん・(吉田)美奈子さん・永井ホトケ隆さん・近藤房之助さん・上田正樹さん、みんな来てたことを後に本人達に会えた時にそれぞれに言ってもらって。何といっても、ラスト・ソウルマン”Bobby Womack”の25年目にして初の来日でしたからね。山岸さんとの出会いがあったそのスタジオで、メルダックの制作の人と話してて、”13CATS”を聴かせたら「これ、うちのレーベルから出したい」って言ってもらって。それで一気にアルバムをリリースするチャンスが生まれて、通算で3枚発表できたんです。

ー山岸さんとの出会いから、日本との接点が生まれたんですね。

そうですね。山岸さんと会っていなかったら、その後日本に帰ってきてないと思います。山岸さんがソロ・アルバムと”チキンシャック”の制作をしに、またLAに来たんですけど、当時はかなりのバブルですから(笑)やりたいことをやれる時代でしたし、良いスタジオですごいメンバーを集めて、最終的には”Bobby Womack”本人が山岸さんのソロアルバムで2曲、それも”Sam Cook”のカバーをやっちゃう、なんていうことにもなって。そういう日本との交流が軽く始まった流れで「”チキンシャック”のドラマーが抜けて、日本でレコーディングするから来ないか?」という話をもらって、89年に日本に行ったのが最初の日本での仕事です。で、その時に「ADLIB」の編集部の人から「”Sing Like Talking”というバンドが”13CATS”のドラムの人に、自分達のアルバムレコーディングに参加して欲しいとのこと」って連絡が来て、それが彼らの3枚目のアルバムでした。

 

ー日本での活動が少しづつ増えていくタイミングなんですね。

そうですね。”チキンシャック”のライブをキティのスタッフが観に来ていて、すぐ井上陽水さんのライブと高中正義さんのツアーに呼んでもらったり、達郎さんのコーラスをやっていたCINDYのツアーをBobby Watsonがやっていて、そこに呼んでもらったり。そのCINDYのライブを林田健司くんが観に来ていて「ライブ演るときに、あの人にドラムお願いしたい」って言ってくれたそうで、その彼のツアーに何度も呼んでもらったり。

ーその当時、日本での活動は”チキンシャック””Sing Like Talking”、井上陽水さん、高中正義さんがメインですか?

日本に1週間滞在するかしないかくらいですけど、ライブやレコーディングの度に呼んでもらって、日本とLAの行き来を続けてました。それ以外はアメリカに帰って先生をやりながら”13CATS”の制作。父が89年に亡くなって、母が1人になっちゃったって思ったら、不思議と呼ばれるように、少しづつ日本に帰るチャンスが増えてきたんです。

ー「日本に帰国する」とまでは、まだ考えていなかったんでしょうか?

それは絶対に無かったですね。良くない言い方をすると、当時は日本のことを完全に馬鹿にしてたし、「自分が生活しているアメリカが本場だから」なんて思ってたし。若かったとはいえ、ものすごくヤな感じですよね(笑)

ー(笑) 実際、沼澤さんの周りには本場のプレイヤーが多かったのも事実ですしね。

何故か自分は、運良く偶然な出会いが続いたお陰でたまたまやれていましたけど、今でもそうですが、アメリカには本当に本当にすごい人達ばかりがごまんといましたから。自分は知り合う人達との巡り合わせがとにかくラッキーでしたし、”13CATS”も彼らと友達だったったいう理由からですし。巡り合わせで言うと、さっき話した”Norman Brown”はカンザス州出身なんですけど、同郷でパーカッションしながらボーカルやる人がいて、一緒にバンドやったり。その人は三段跳びのオリンピック選手でマジ・アスリートなんですけど、歌が好きでやっていただけだったのが、その後STINGのバンドに参加しちゃうんです。

ー何ていうアーティストですか?

VINXというアーティストです。STINGが気に入ってプロデュースをし、ソロアルバムもリリースしてます。彼はスポーツ選手だったけど、アスリートをやれる期間が短いのをわかっていて、スポーツトレーナーをしながら好きな音楽を始めたのがきっかけなんです。自分は友達の友達だから、彼のデモテープを作るのにドラムで手伝っていて、そのデモテープが”Earth, Wind & Fire”のAl McKAYの事務所に届いていたらしくて。突然家の留守電に「Al McKAYだけど、君がドラムを叩いたデモテープを聴いたよ。このドラムが良くて、やって欲しいことがあるからうちのオフィスに来て欲しい」って。

ー沼澤さんからすれば、神様からの電話ですよね?

正にそうですよね。”13CATS”の連中にその留守電を聴かせて「これ、Al McKAYって言ってるよね?」って確認しちゃって(笑)そのオフィスに電話して「あぁお前か、ドラム良いね。ちょっとやって欲しいプロジェクトがあるからミーティングしたい」とか言われて。でも、もちろんまだ半信半疑なんですよね、「ホントかよ」って(笑)

ー実際行くまでは(笑)

で、オフィス入った瞬間に大量のプラチナレコードが、廊下に「バーン」って(笑)

ー(笑)

映画っぽいでしょ?(笑)それでAl McKAYと知り合いになっちゃって。彼に「僕で良かったら、あなたのプロジェクトはもちろん喜んでやるけど、自分達がやってるバンドでギターを弾いてもらえたりできますか?」って言ったら「OK」って言ってくれて。それで”13CATS”のファーストアルバムに、Al McKAYが参加してるんです。その流れで高中正義さんがツアーのサポートで”13CATS”を雇ってくれた時に、なんと”Al McKAY”も一緒に参加しちゃって、皆でロングツアーをやったりしました。その時のライブがCDとDVDで発売になったのが「ONE NIGHT GIG」ですね。

ー「知り合う人との巡り合わせ」という表現をされましたが、そこには沼澤さんに魅力がないと成立しないと思うんですよね。

本当に運とタイミングだと思います。そういう巡り合わせのタイミングで、”たまたまそこにいた”っていう。あとは、”逆輸入っぽい”というか、今までにない登場の仕方をしたのもあると思います。日本では、一切ミュージシャンとしてのキャリアがなくて、全く知られていないけど、アメリカでやっていて”13CATS”というLAのバンドが、日本のレーベルからデビューしていて。その連中が”Sing Like Talking”や高中正義に呼ばれて、彼らのアルバムが国内で好セールスになって。

ー所謂、”旬なアーティスト”だったと?

その時代・時代に、”皆が話題にする人を起用すればとりあえずは安心出来る”という、一番典型的なパターンがこの日本にはありますし。その頃ラッキーなことに、「そういう流れで、自分も起用してもらえてたんだろうなぁ」って思います。年齢もまだ30歳くらだったし、ポンタさんや立夫さんの一回り下の世代で、LA在住の…みたいな軽くオイシ目なネタにはなってたのかなと。

ー日本ではちょうどイイ感じのネタですよね(笑)

自分でも判ってましたから。ただそのお陰もあって、自分がまだ日本で音楽好きなだけでライブを観に行っていて大ファンだったポンタさん・ノブさん・モツさん・大村憲司さん・鈴木茂さん・岡沢章さんをはじめ、(山下)達郎さんや(吉田)美奈子さんともドラマーとして知り合うことが出来たし。そのすごい連続があの頃・あのタイミングで起こっていたというか…

ーそのお話を聞くと、すごい沼澤さんらしい気がします。音楽に野望を持って臨まれていなかったわけですし。

そういった日本での状況がそのまま続くなんてもちろん思っていなかったし、「もてはやされるのは今だけだろうなぁ」と。日本の方が、あらゆることで流行り廃りって遥かに早いですから。特にその頃は呼んでもらえる仕事よりも、とにかく自分達の”13CATS”を頑張りたかったですし、間違いなく成功すると思っちゃってましたから。96年に日本で初めてライブをやったんですけど、ON AIR EAST(現:O-EAST)で超満員の1,100人も来てくれて。ああいう音楽でモッシュが起こったりした時は「やった!」って思って。もちろん自分達のワンマンで「”PRINCE”のように普通にアリーナをいっぱいにする」って思ってましたし。

ー但し、結果的にそこに辿りつけなかった。

“13CATS”をずっとやりたかったんですけど、”うまくいかなくなった理由”がいくつかありました。リーダーが結婚して、それまで音楽が第一だったのがやはり奥さん優先になったりで。もちろん大切なことだし、間違ってもいないし、バンド活動に支障がなければ良いことなんですけど、やっぱり当時のムードとしては「何やってんだよ」っていう雰囲気になっちゃって。今、再会したら「そんなことあったね」って感じだとは思いますけど、残念ながら2000年には”13CATS”としては事実上終わっちゃいました。どうしてもやりたかったこと・続けたかったことでしたけど…無理でしたね。

ー沼澤さんの音楽人生の中では、初めての挫折に近い?

うーん…挫折って感じではなかったし、それほど落ち込んではいなかったですけど、「やっぱりそんなに甘くなかったなぁ」と。日本からCDをリリースして、逆輸入で世界に出ようとしていたし、Virginとかもすごくやってくれたんですけど、結局はリリース出来なかったし。そういう壁を目の当たりにしているうちに、それぞれに私生活でもなんとなくうまく行かなくなったりとかしました。そんなタイミングで、突然目の前に現れたのがシアターブルックなんです。

ー「TALISMAN」辺りですか?

リリースされた直後ですね。自分はオリジナル作品では「TROPOPAUSE」から参加しているんですけど、まだその頃は”13CATS”を何とか続けようとしていたので、バンドメンバーとしは参加してないんです。

ーあくまでサポートミュージシャンの立ち位置?

まだ全然アメリカに住んでたし、当時はエピックソニーがレコーディングやツアーの度にアメリカから呼んでくれていて、自分とエマーソン(北村)はサポートという形になってました。”13CATS”の他のメンバーは「TALISMAN」を聴いて「日本ってこんなカッコイイ音楽をやって、ちゃんと売れるんだ」って羨ましがってたし、ベースのレイモンドは「俺もベースで入れてくれ」って(笑)

ー(笑)沼澤さん自身、シアターブルックの最初の印象はどうでしたか?

初めて見たのは早稲田大学の学祭だったんです。当時のシアターブルックのマネージャーに「ドラマーを探しているから観に来て欲しい」って連絡が来たので、観に行ったんですけど「日本にこんなカッコいいバンドがあるんだ!」ってビックリしましたね。それから事務所のスタッフに会ったりしてから、赤坂ブリッツでのスタンディングで超満員になっていたライブをまた観に行って、そこでメンバー全員に初めて会って。

ー音出しも直後ですか?

セオリっていう代々木八幡のスタジオですね。(佐藤)タイジくんが「捨てちまえ」という曲を書いて持ってきて。で、参加することになってから、すぐレコーディングが始まって「アートフル・ドジャース」のサントラが一番初めでした。 その後に早稲田のAvacoスタジオで「捨てちまえ」を録って、そこで初めてエンジニアの渡辺省二郎さんに会って。

ーアメリカと日本の行来を続けながら?

まだ全然アメリカでしたね。シアターに参加してからの3年間だから、2000年まではアメリカでの生活がまだメインでした。「TROPOPAUSE」「Typhoon Shelter」「VIRACOCHA」はまだ日本にいない頃です。シアターに参加すると同時に、FUJI ROCKとかありとあらゆるイベントやフェスに出始めるんですけど、そこで面白いミュージシャン達にたくさん出会って。当時だと”SUPERCAR”や”ナンバーガール”とか、日本ならではのカッコイイ音楽をやっていた国産のバンドですよね。どんどんフェスも盛んになってきてましたし、「日本のエネルギーって本当にスゴいなぁ」と。アメリカに戻る度に、よりそれを感じるようになっていて、当時90年代後半の日本のシーンが、遥かに刺激的で面白いと感じてました。東京にいると、LAでは観れない世界中のアーティストがいっぱい観れたし、色々な音楽を知るチャンスが圧倒的に多かったですね。

ー日本だからこそ、新しい音楽やバンドに出会うことが出来た?


例えばシアターで日本に行き始めた頃は、アシッド・ジャズやレア・グルーヴ、グランドビート、ダブ、”Chemical Brothers””Skint”とかのビッグビートや、ジャズ・テイストのHip-hopがものすごく流行っていましたけど、なぜかLAでは全然見当たらないんです。”The Brand New Heavies”とかは辛うじてあっても、Talkin’ Loudものやブリストル系なんて、あんなにカッコイイのにLAでは結構必死に探さないと見つからない。やっと”Tricky”を見つけてダウンタウンに観に行っても、全然盛り上がってなかったし。日本でそういう知識を得て「LAに帰って観れないか」って頑張ってやっと探し当てたら、50人くらいしか入れないカフェで”OMAR”が演っていたり、”Jamiroquai”なんて、カフェ飲み屋みたいなところで演ってたけど、誰も観ていないで素通りしちゃってたし。そういった大きな差を知ることになるのが97、8年ですね。あとは、東京にいた方がブラジル音楽に触れるチャンスも全然多くて、”Caetano Veloso”と”Lenine&Suzano”が同時に東京にいて、お互いの公演を観に来てたりとか。「東京ってすごい所だなぁ」みたいな。”FFF(フランスのバンド)”を渋谷クアトロに観に行ったら”VIBRASTONE”がオープニングアクトで、めっちゃカッコイイパフォーマンスをやってたりとか、日本の面白さがどんどん見えて来ましたね。

その時は”13CATS”の活動はまだ続けていたんですか?

さっき話した状況を引きずりながら、毎年ブルーノートでは演奏させてもらってました。2000年に佐藤竹善さんがソロをやるんですけど、そのバックバンドで”13CATS”が雇われて。LAでそのリハーサルをやっている時に「このツアーで日本に行ったら、アメリカにはもう戻らずに、そのまま日本に帰ろう」って決めたんです。日本へ機材を送る時に、自分が所有していた全てのドラム機材もまとめて一気に船で送って。「シアターブルックをメインでやっていこう」と。

それが2000年?

2000年の1月です。アメリカでの色々な繋がりはちゃんと残しつつ、でも”13CATS”が難しくなっていたので、住むところまでアメリカである必要がないと思えてきてましたし、日本にいるシアターブルックに、全面的に惹かれてましたから。

“13CATS”の経験から考えて、普通だったら「バンドはもういいや」ってなってもおかしくないですよね?

シアターでしたね…シアターブルックがなかったら、日本には帰ってこなかったです。佐藤タイジ・中條卓・エマーソン北村と知り合ったおかげで、いきなり世界が広がったというか…知らなかった色んなことを学習させてもらえる状況になって。アメリカに居たら全く知らないまま過ぎてしまってたことだらけで、良くも悪くも極端に視野が狭くなっていることの気がついたので。

アメリカに行った当初とは真逆の状況になってしまった?

もちろんアメリカに来たことで、人生そのものが変革する程の広がりでしたけど、多分アメリカの音楽自体が、住み始めた頃ほど刺激的ではなくなっていて、その頃はそんなに盛り上がっていなかったんだと思います。

言い方悪いですけど、”井の中の蛙”というか?

そうですね。そうじゃなかったら、あんなにシアターブルックに魅力を感じてなかったと思いますし。参加したからには、自分もエマーソンもバンドメンバーの気持ちでやっていましたし、その姿勢にちゃんフォーカスすることを第一にしてましたね。

お話が前後するかもしれないのですが、学校はこのタイミングで辞められたんですか?

「そのまま行ける時だけ行く」という状況を2000年まで続けていました。

では帰国と同時に?そうであれば今でもやれる状況があるのでは?

いや、それはないです。というのは、経営が変わってしまったので。自分はその時に居合わせなかったので知らなかったんですけど、日本の企業に買収されたんです。大変だった話を”Ralph Humphrey”が来日した時に、詳しく聞いてビックリしましたけど。その学校の1番の魅力はオーナーが夫婦だったことで、そのファミリー的な部分が特別素晴らしかったんですよね。ある日、そのオーナー夫婦にミーティングで集められて、「そういうことになったから」って告知をされて終わっちゃったそうで。自分が習っていた先生達は今みんなLAMA(LA ミュージック・アカデミー)に移っています。自分の学校は確かにその名称で間違いはないんですけど、自分がいたその学校はそこにはもうないというか…だから学校には戻れないですね。

なるほど…そしてメインはシアターブルックとして、色んな場所でドラムをすること自体は変えずに活動をされていくと?

もちろん、シアター以外では「もし声を掛けてもらえたなら」ですけどね。メンバーとして活動はしていましたが、ビジネス的な面で言えばシアターブルックの事務所にきっちり入っていたわけではなかったんです。その頃の自分はスガシカオくん・安藤裕子さん・奥田民生くん・井上陽水さん・大貫妙子さん・清春さん・槇原敬之さん・角松敏生さん・後に今や毎年アルバムを出して、年間100本近く全国でライブをやってる”blues.the-butcher-590213″にそのまま繋がることになる、亡くなってしまったギターの浅野祥之さんとの色々なライブを、シアターの活動の狭間で同時にやりつつですね。エマーソンもキセルや”EGO-WRAPPIN'”や自分のソロ活動をやりながらという状況でしたし。その色々をシアターブルックとしてのバンド活動と、バランスを取れずにシアターの皆に迷惑を掛けてしまった時期もあって、「I AM THE SPACE,YOU ARE THE SUN」の時は、先行していた他の仕事が忙しくなっちゃって、出来ない時に椎野(恭一)さんが参加してくれりとか。

では銘打ってバンドメンバーとなってからは解消されていくのでしょうか?

フォーライフに移籍して「Reincarnation」をリリースするタイミングの時ですね。アーティスト写真・インタビュー・アルバム・ジャケット等が4人で揃って出るようになって。でも、最初からメンバーだと思ってやってましたから、ドラマーとしてシアターブルックで演奏する姿勢や気持ちが、そこで何かが切り替わった感じは一切なかったです。ただその直後に諸事情で2007年から2009年までシアターの活動を休止して、それぞれが個々にそれぞれのことをやった後に2009年3月11日…それ以降のシアターブルックはライフワークとして「再生エネルギー=ソーラー」の普及活動という、タイジくんが描くものがはっきり目の前にやって来てから、バンドと側近のスタッフの一体感がガラっと変わりましたね。起こったことは、それはとんでもない悲劇だったし、そこから国が背負っている問題の大きさも計り知れないんですけど、それをタイジくんが使命感を持って悲劇で終わらせない行動や姿勢で示していることが、バンドやスタッフに明確に同じ方向を向きやすくしてくれた。実際に今までとは比べ物にならないくらい仲も良いですし。

沼澤さんも現地に行かれていましたし、その思想は一致しやすいですよね。

実際に現地で、あの大震災で被災して、命からがら生き延びることが出来た本人達の話をそれぞれ聞いただけに過ぎないですけど…彼らが体験したそれぞれの話は、もし自分もその1人で「そこで生き残ってやる」っていう強さが、自分には果たしてあったかっていうとね…決して諦めないで、何とかあの津波から助かった人達の話なんて、本当に信じられない強さで。
「たまたま居た場所に、何も流れてこなかった」
「あの濁流の中を泳ぎ切った」
「流されて溺れそうになりながらも、たまたま車などにぶつからなかった」
「木にしがみついたまま失神してしまって、気がついたらそこで助かっていた」
「遥か沖まで引き潮に引っ張り流されて、そのまま津波に乗って押し流されたのに、岸に辿り着いて助かった」
想像を遥かに超えたことだらけ。2度と起きて欲しくないと願いつつも、明日や次の瞬間に「何が起こるかなんて、誰も解らないんだ」ということを誰もが感じたわけで。かと言って音楽に携わっている自分達が「今、自分達に出来ること」なんて軽々しく発言出来ないですし。”John Lennon”や”Bob Marley”でさえも、音楽で簡単に世の中を変えることは出来なかったのにね。ただ「太陽の力だけで、こんなことが出来るよ」ということをタイジくんが皆に証明してくれて、実際に自分は目の当たりにしていますから。

「THE SOLAR BUDOKAN」はその回答でしたよね。

あれは感動的でした。「太陽光発電だけで、本当に武道館公演をやり遂げた」という事実によって、ミュージシャン・スタッフ・関係者・観に来てくれる音楽ファンが、自分達でも具体的にやれることを考えられるようになったのは事実です。タートルアイランドが毎年豊田でやっている「橋の下世界音楽祭」、静岡の「頂」山梨の「NATURAL HIGH」、山形の「龍岩祭」、「RISING SUN ROCK FESTIVALでのBOHEMIAN GARDEN STAGE」、「FUJI ROCKでのGYPSY AVALON FIELD」等はもちろん、「ARABAKI ROCK FESTIVAL」「ROCK IN JAPAN」などではRA(ラー)チームが、シアターブルックのステージの時にソーラー電源に切り替えたり。

その連続が今であって、続けられていることでもありますよね。

可能なことがあるのであれば、やらない手はないですよね。不可能なのであればやれないわけですけど、太陽光発電システムでのサウンド・クオリティに、命を掛けて大活躍中のRAチーム・中津川の中央物産って、本当に可能性を見出だして本気で頑張っている。そういう人達が集まって、やれていることが今ですよね。

それは少し角度を変えると、”沼澤さん個人”にも当てはまるのかなと。アメリカ時代〜今もそうですし、ドラムをここまで続けていられるのは「沼澤さん自身がやりたい」ということ、「沼澤さんのドラムが必要」としてくれる人がいてだと思うんです。

自分なんかより、もっとやっている人はいると思いますよ(笑)簡単に言うと、当初はここまでやるつもりなんて全くなかったドラムを、気がついたらもう30年もやっている。それまで、”ドラムセットに座って1曲プレイする”ことが大変じゃないことは1度もなかったです。今でも30秒間だけだとしても精一杯だったりします。ステージに出て行って最初の1小節が、もう本当に大変なんです。「楽勝でしょ?寝てても出来るでしょ?余裕でしょ?」って言われそうですけど、はっきり言って全然逆ですね。演奏を終えて拍手をもらえるまで、生きた心地がしないですし。

それは始めた頃からずっとでしょうか?

以前はそういう意識はなかったです。まだ大して経験がないせいで、あまり気がついてないから、勢いと雰囲気でやれちゃってたというか。もちろん、体力や年齢とかっていうことではなくて…月日が経てば、自然に経験を積めるので、色んなことが理解出来るようになりますよね?つまり、そういう「勢いや雰囲気でやれていた若い頃」と違って、少しずつ出てくる余裕や理解力を駆使して、「より演奏に集中しながら細部に神経を費やしている」ことになります。だからライブが終わって「飲みに行こう」なんていう気持ちはまるで残ってなかったりしますね。打ち上げや飲みに行くのが嫌いなのではないんですが(笑)チャンスがあったら、少しでも脳と体を休めたいと思うので。

そういった発想すらない?

ないですね。もちろん、楽しいから続けてますし、自分がやりたいことがあってそれを求めてくれる人が1人でもいるということが今の結果ですから。ただ、経験と学習によってドラムをプレイするということ自体が簡単なことではなく、ものすごく大変なことなのが解っているので、集中力を持続させて1日を終えるので精一杯です。先日のFUJI ROCKで勝井(祐二)くんと山本(精一)さんと内田(直之)くんと演奏して、あれだけの人が観に来てくれたり、”blues.the-butcher-590213″でもあの時間帯であんなに盛り上がって、ものすごく嬉しかったんですが、瞬間・瞬間では”実はそれどころではない”というのが正直なところです。演奏するのは楽しいけど、と同時に色んなことが大変ですね。

感想になってしまうのですが、それは沼澤さんがドラムを始められてた…それこそジョーに教わっていた頃と変わらずに探究心があるからなのでは?

どうなんでしょう?自分には身についていないことがあまりに大量にありますから…世界中から日本にやってくる、憧れのドラマー達を観に行っては「どうやってるんだろう?何でああなるんだろう?」というのの繰り返しで、いちいち頭がパンパンになりますから。知らないことや解らないことがたくさんありすぎて、単純にそれは知りたいなぁと。

そこが音楽やドラムに限らず、沼澤さんを動かす根っこの部分なんですね。

経験上で「こうすればシンバルのスタンドは倒れない」っていうのは流石に知ってますけど(笑)時間を見つけては、まず映画館に行くのは間違いなくそのひとつですね。

今度は沼澤さんに映画批評をお願いしたいですね。

いえいえ…ただIMAX2Dと3Dは映画館でしっかり観ないと意味がないので音質と映像の最新技術をチェックしたいがために、気になったSF物やヒーロー物はその時間だけ入り込みたいのでほとんど行くんですけど、予想外に面白かったのが実は「キャプテンアメリカ」だったり。

沼澤さんからまさかアメコミのタイトルが出るとは思いませんでした。

そんなに期待せずに、でも「やっぱり一応、観ておこう」くらいで行ったんですけど。全く隙がなく作られていて楽しめました。アベンジャーズシリーズは決して侮れないのと、映像とサウンドが年々ものすごいスピードで進化しているので全部観に行ってます。今のところ今年断トツに面白かったのは、ずっと余韻を引きずる感覚が強烈な印象のままの「ルーシー」。何から何までいろんなものが今の自分の好みの感じというか、いちいちひっかかってくるポイントやテイストなど全てにおいて自分のその辺に合いすぎるくらい完璧で。「トランセンデンス」も内容とサントラが素晴らしかったし。

映画館自体の音響も、すごく発達してますよね。

エンターテイメントとして最高ですよね。IMAXなどの音響効果の良い場所で出来るだけ観たいですし。お金がかかってるので技術やテクノロジーの進み方が本当に早い。 逆に2Dだったおかげでそのテクノロジーがさらに際立ったのが「ルーシー」だったりもして、リュック・ベッソンって本当にスゴいんだなぁって思ったし。

家に余程良いAV機器があればいいんですけどね(笑)

家では絶対ダメなんです。映画を観ている時間だけは、完全に他のことから遮断出来る環境が良くて。だから色んなことを忘れる時間が映画館だったりします。あとは世界水泳・テニス・オリンピック・世界レベルのスポーツ全般にも共通しますけど、人間の可能性を超越する次元での「エクストリームなもの」を観賞して、無条件に感情を動かされるのが好きです。

その世界の中でスペシャリストの行動や、見えている景色って知りたくなりますよね。

そう、そして彼らのドキュメンタリーを観るのも特に好きですね。 「どんなトレーニングしてるんだろう?」とか「どんな気持ちで普段どんなことをしてるんだろう?」とか。

今回のインタビューは正しくドキュメンタリーに近いお話を頂いています。最後に沼澤さんといえば、”グルーヴ”というワードが出てくる読者が殆どなのですが、改めてそのグルーヴについてをお伺い出来ればと思います。

自分の経験上での話でしかないですけど、グルーヴについて感じていることを話せるとすると…まずは「自然にそういった感覚を生まれながらにして既に持っている人」が確実にいるということ。練習や意識をしなくても、これが正確・正確ではないという判断が、あくまでも自然に出来てしまっているという。例えば子供でも、歌を歌ったら理由なんて解らないけど妙に巧い子っていますけど、それに近いような。そしてその真逆で「何らかの理由でそれ自体を理解することが出来て、きちんと意識してそれを練習をしてその感覚を得られる人」です。どちらも「リズム感」に対する興味や、ある程度の感覚は必要だと思います。ただその感覚の一番の難しさや複雑さというのは、例えば同じ曲を聴いて自分が「これ、すごいグルーヴしてるし、ノリも最高だね」って感じたとしても、他の人は「これ、別に気持ち良くもなんともないし、全然ノレない」って感じることなんて、ごく普通にあるということです。

それぞれの感覚で成り立っていると。

自分が気持ち悪くても、他の人が聴いたら気持ち良いものもある。結局は相互作用によるものなので、自然に出来る人・練習して出来る人という、ドラマー自身のタイプはありますけど、演奏して産み出された何かが、どのように伝わるかどうかは、一緒にプレイしている人・聴いている人にもよるということです。自分の演奏を何とも思わない人ももちろんたくさんいるし、気持ちいいと感じてくれる人もいる。

相手があって生まれる・感じるものであるということですか?

誰かがいる…共演しているミュージシャンなのか、お客さんが2万人なのか、5人なのか、どんな状況でも、共通の感覚として伝わっているか・伝わっていないかですよね。言葉で説明するのではなくて、今それを生み出している人と、それを受け取る立場にいる人との交わりや繋がりが、感覚的にあるかないか。今の時代に我々が楽器として演奏しているドラムセットは、そもそもは太鼓同士の会話が始まりなんです。向こうの村に「ご飯できたぞ!」って知らせたりする”通信手段”だったわけですから。でも実は現代の音楽としても、それは何も変わっていなくて、村同士の会話と全く一緒ですよね。その交信の始まりが、まず自分からなのか・それとも誰かが始めたものに対してなのか・人ではなくて自然の何かからなのか、そのすべての多種多様な音・ビート・リズム・グルーヴから始まって、それが自分自身と聴いている人、そして一緒に演奏する人、さらには自然界も含めて交信しようとして、そこに共通点が見出だせればその交信が成立してくれる、ということだと思います。

すごく分かり易いです。

その場に100人の人がいて、99人がある人の演奏にグルーヴがあると感じたなら、より多くの人にそれが伝わったっていうことですが、もしかしてたった1人が違うと感じていたら、その人にはグルーヴがないのかというと、そうではないですから。たまたまその1人とは共通して感じることが、そこでは無かったというだけで。もちろん自分も共演者やより多くの人に、自分の意志が伝わったらと常に願って演奏してますけどね。自分自身のことを言えば、仲間やスタッフやミュージシャン達とはもちろんですが、ミュージシャン以外の様々な分野のアーティスト達や人々やそれ以外の可能性のある全ての物事も当然含めて、色々な状況で交信し続けることが出来たらこんな嬉しいことはないですし、そう出来るように今日もこれから先も、自分がやれることを精一杯頑張っていきたいです。


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