沼澤 尚 インタビュー

ー今回は沼澤さんの音楽との歴史について伺わせて下さい。

それはもう、確実に”The Jackson 5″からですね。自分には5つ上の兄がいるんですけど、自分が小学生のときに兄は既に高校生だから、”Led Zeppelin””Elton John”が初来日したら必ず観に行ってるみたいな人で、となりの彼の部屋では常に洋楽が流れてました。その頃、湯川れい子さんがラジオ関東(現:ラジオ日本)で、全米TOP40という番組を毎週土曜日やってて、やたらカッコイイと感じた曲が流れて、多分ものすごく自分に引っ掛かったらしく、すぐに誰か知りたくて、聞いたら「”The Jackson 5″っていうんだ」って。「モータウンで、ダイアナロスが見つけて云々…」っていうのを教えてもらって、生まれて初めてお小遣いで買ったレコードが”The Jackson 5″の「ABC」。初めて観に行ったライブが、小学校を卒業する1973年の3月の彼らの初来日。小学生のときから自分のヒーローが”The Jackson 5″に”Michael Jackson”でしたから。

ー当時の”アメリカンポップス”の象徴の一つですが、その音楽自体に惹かれたのか、それとも”The Jackson 5″という兄弟達のエンターテイメント性に惹かれたのか?

気がついたら黒人への憧れが小学生の頃にあったらしくて、単純に歌声から姿形から動きから何から何までやたらカッコイイと思ってました。もちろん小学生だからよくわかってるはずもなく、子供ならではの感覚でしかないんですけど。あと、覚えてるのは”Elvis Presley”です。自分の父が南海ホークスのコーチで、大阪に単身赴任してたから、小学生のときは毎年夏に家族で大阪に行ってました。当時、選手達がよく洋画の試写会とか観に行ってて、彼らに連れられて「エルビス・オン・ステージ」「エルヴィス・オン・ツアー」が日本に来て一緒に観に行ったり。単純に外国人の感じみたいなことが好きだったんでしょうね(笑)

ーしかも、どちらもアメリカの音楽だったと。

“The Jackson 5″はアナログ盤をはじめその頃から集めまくってたいろんなものを持っていて、もちろんその時の武道館のパンフレットも大事に保存してあります。それにチケットをきちんとホッチキスで留めてあって。

ー沼澤さん、マメですね(笑)

自分の席が前から2番目で、パイプ椅子の座席の番号札も取ってきて、それもホッチキスでちゃんと留めてあって。生まれて初めて観に行ったライブですから。

ー因みに夏休みは大阪に遊びに行かれたり、お父さんがコーチをやってらっしゃった影響で、野球への興味はなかったのですか?

野球を本格的に始めたのは高校からですけど、子供の頃から元々は音楽なんかとはまるで無縁でとにかくスポーツ三昧でしたね。両親が超スーパーアスリートカップルなので。父は人生そのものが野球だった偉大な人で、高校~大学~プロ~コーチ~解説者~執筆活動でものすごく有名な人でしたし、母は学生時代にバスケットで国体優勝して、最優秀選手になっていて。2人共函館出身で同い年なんですけど、高校時代からの知り合いで、一緒に東京に出て来て、 母は東京女子大に行って、父が早大に行って六大学野球で大スターになって、卒業と同時にオリオンズにドラフトされて、で、結婚して、っていうスーパーアスリートカップル。

ー沼澤さんの育った環境は、完全にスポーツですね。

だから、親がスゴ過ぎて息子はスポーツで大成しなかった。野球も最後の夏はベスト16までで甲子園も行けなかったですし。

ーそれでも”プロ野球”に行こうとはならなかったのでしょうか?

全然、行くつもりでしたよ。慶応大学でも始めは当たり前のように野球部にいたんですけど、監督や下手くそな上に平気で正座させた下級生を蹴り飛ばすダサい先輩とかが嫌で。大学野球をバカにしちゃってましたね(笑)ほら、親にプロ野球のことを教わり過ぎて、完全に頭でっかちになってたから。六大学だから、まぁ東大が常に最下位ではあるんですけど、そのときの慶応は5位。新入生で入ったときに練習の様子を見てて「こんなんで勝てるわけないじゃん」とか生意気にも思ってて(笑)

ーさっきの小学生のときの話もですけど、沼澤さんは実際の試合を見てますもんね。

だからダメなんですよね。考える前にとにかくやらなきゃいけないのが、日本の学生野球だったり学生スポーツだったりするんですけど、やる前に色々考え過ぎるまるでダメなタイプで(笑)

ーその部分は難しいところですよね。”考える前に”とは言っても、プロの方をずっと見てしまってますものね。

だから二世は大成しづらいんじゃないかと。そう考えると貴乃花と若乃花は凄かったですよね。あの偉大な父を抜いて2人共横綱になったんですから。

ー確かに。それでも大学卒業までは日本にいらっしゃったんですか?

大したことしないまま慶応は一応卒業して…卒業式出なかったんですけど(笑)LAの音楽学校のスタートに間に合わなかったので。

ー月並みですけど就職等は考えられなかったんですか?

それはですね…大学生って将来やることをしっかり見つけられる優秀な学生もいるけど、その多くはなんか回りの感じに合わせてなんとなく流れで社会人になっちゃったり…で、もちろん自分も就職しなきゃなぁ、なんて軽く思ってはいたとはいえ、でも大学の体育会とか辞めちゃったりすると、友達とか一気にいなくなっちゃうじゃないですか(笑)なので大学の友達とかもちろん1人もいない(笑)予定ではまあ、普通に高校野球・六大学野球やって、プロ野球の選手になるしか考えてなかったんですけど、なんか違ってきちゃって、どうしようっかなってなって(笑)で…いきなりアメリカに住もうかな、みたいな。 デタラメもいいとこ(笑)

ーそれは先程の”The Jackson 5″の影響ですか?

いや、その頃1980年前後って、BEAMSが原宿に出来たりとか、あらゆる意味でアメリカのカルチャーが若者に影響を与えてる時期で。

ーPOPEYEとか流行ってましたしね。

そう。その頃は今と違って、音楽だったらスイングジャーナルから「ADLIB」っていう雑誌が創刊されて”Stevie Wonder”が表紙になって黒人の踊り方とかまでレクチャーされたり、アメリカのカルチャーが洋服や音楽やスポーツも含めて全部がものすごい時代で。今はもう、全世界からあまりに色んなものが入り過ぎてて、逆にあらゆる面で東京が1番進んでるみたいなところもありますけど、あの頃はやっぱり「憧れのカリフォルニアの青い空」みたいな頃で(笑)それでアメリカに、それも絶対にLAに行きたいな、って(笑)

ー(笑)良い意味で漠然と。

で、英語を喋れるようになりたいという以外には何をやりたいかなんて全然分かってないですし、そういう酷い…「やりたいことを見つけに行こう」とか、そういうカッコイイものでも全くなくて。でも、TBSと電通の面接は受けに行ってました。なんか皆やってるし、みたいな最悪な感じで。

ーえぇ?

でもアメリカに住みたいと思ってて、親には内緒で音楽学校を調べてたんです。

ーそこで音楽が出てくる。

だから行けたのかなぁ(笑)別にミュージシャンになる為なんかじゃなくて、音楽が大好きだったからっていうだけ。レコード買い漁ってはコンサートに行ってましたし、大学のときは毎週末朝まで必ず六本木で遊んでて。全然楽器をちゃんと演奏したいと思ったこともないし、聴くのが大好きなだけでレコード集めてたんです。たまたま自分の知り合いの知り合いが行ってた学校のパンフレットが手に入ったんですけど、そこで音楽好きが高じて大好きになったドラマー2人が教えてるのを発見しちゃって。それが”Jeff Porcaro”のお父さん(Joe Porcaro)と、”Ralph Humphrey”です。

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