SILVA インタビュー

ー”SILVA”というキャラクターを確立し、メディア露出も増えたことによって、様々な人々に認知をされたと思うのですが、それによって、ストレスが生まれたり、イヤになったりすることはなかったのですか?

なりました、なりました。もう2年やった辺りでしんどかったです。そのときのイメージは、「何でも言ってくれて、ヘタしたら何でもしてくれるんじゃないか?」というね。バラエティー番組に出る度、どんどん過剰になっていきましたし、街を歩けば知らない人に触られたり、そういったトークを求められたりするのが日常的になってしまって。”SILVA”のキャラクターを作ったけど、元々は対人恐怖症だから、高橋よしこでは出来ないことなんです。そういうことが続いて、外でご飯も食べなくなりましたし、なるべく家にいて彼氏とこもってましたね。

ー”高橋よしこ”でいるときも、”SILVA”として見られるそのギャップは辛いですよね。

辛いですよ。テレビの露出によって、SILVAと認識して頂けるのは有難いんですけど、例えばクラブ遊びなんて若い頃に終わっているのに、黙っててもシャンパンが出てきたり、煙草も吸って男性も従えてみたいなイメージね。キャラクターのおかげで、色んな人が私の心の中に垣根なく、弾丸のように飛び込んでくるんです(笑)さすがに、耐えられないですし、しんどかったんです。SILVAはあけすけキャラなので、色んな男性が寄って来ますけど、誰でも受け入れるわけではないし(笑)かといって、いちいちそんな説明は出来ないじゃないですか?

ー説明しなくてはいけないものでもないですしね…

(笑)歌手なのに、芸人さんが街を歩いてると、頭どつかれたりとか、面白いことを求められるのと同じような現象にはなってました。

ー先程、”2年”という期間が出ましたが「HONEY FLASH」「Coming Out」「ザ・キラーベスト」まで、リリースもハイペースでしたよね。

早かったです。最後の音楽バブルじゃないですけど、CD自体がまだ売れていた時代ですから2ヶ月に1回シングル切ったり、リミックスして、アナログ盤も作るし。メディア露出のキャラクターとは別に、音楽についてはカッコイイものを打ち出していかないと歌謡曲路線になってしまう。特にアナログ盤をリリースするという、アンダーグラウンドな部分を抽出していたかったですし、毎回7,000・10,000枚イニシャルでプレスして、一瞬でソールドアウトしていたのは嬉しかったですね。

ーピクチャー盤なんて、すぐにソールドアウトしていましたよね。

ありましたね…私にとって宝物ですね。キャラクター先行であったとしても、SILVAを認知してもらえて、楽曲を聴いてもらえるところに繋がったと思いますし、すごく良い経験をしたという実感がありますね。

ーアーティストSILVAとして、音楽の制作活動とメディアの露出を両立するのは大変だったのでは?

レコーディングにどんどん立ち会えなくなってしまって。2ヶ月に1度のリリースペースによって、プロモーション露出に時間を取られてしまうのが続いて、時間がなかったのが正直なところです。私が作った楽曲が、アルバムに半分以上収められているんですけど、殆どが宅録したものとイメージを伝えて、丸投げ状態でしたし。コーラスも、私が入れたかったんですけど、時間がなくて色んな方にお願いをしていたんですけど、その立会いさえ出来なくて。結果的には、レコーディングの制作現場に一緒に居られたかというと、単なる歌い手さんくらいの関わりしか出来なくなっていました。

ー仕上がった作品には、満足をされているとは思うのですけど、”アーティストとして”や”楽曲の制作”に重きを置いていたSILVAさんですから、その時間が削られるというのは…

フラストレーションがありましたね。「ザ・キラーベスト」をデビューしてから僅か2年でリリースしたのは、時間が欲しかったからなんです。ドラマや映画のお話を頂いたりして、それ自体は嬉しいことではあるんですけど、拘束時間が長いということが、私にとってすごく辛い状況でしたので。映画のお話はお断りして、ドラマも少しだけにして頂きながら、レコーディングもそうですし、打ち合わせの時間をどう確保するかで、すごく悩んでいました。その解決・仕切り直しの策として、ベストをリリースしたんです。

ーそうまでしないと、SILVAとして満足のいく、音楽表現が出来ない状況だったんですよね。

ただ、PRYAIDはアロハ・プロダクションズが作ったレーベルなので、レコード会社・事務所が同じ意見ですから、第三者の意見がない状況が欠点だったと思います。

ー結果的には、レコード会社・事務所とSILVAの意見が別れてしまった?

だからベストを出した後は、まとまらない状況が続いて、レコード会社を移籍をする形になり、事務所も異動することになりました。

ーレコード会社・事務所の移籍というのは、これまでの制作チームと変わることになると思いますし、”時間の確保”という観点では合うことなのかも知れないですが、”仕切り直し”という部分では良い作用があったのでしょうか?

難しいところがあるんですけど…アロハ時代がうまく行っていたとしたら、ワーナー時代は厳しいことが重なったというか。既にCDが売れない時代に入っていたのでレコード会社のスタッフも減り始めていたんです。

ー制作の現場についても同じでしょうか?

ついていたスタッフが新人さんだったので、A&Rやレコーディングを急遽ポルノグラフィティをやっている、田村さんという方に制作も含めたプロデュースをお願いしようと。お休みをしていた2年弱の間も、デモを作っていたんですが、私自身が落とし所をまだ見つけられていない状態で、スタッフとも方向性がまとまっていなかったんです。そんな中で「これまでの楽曲の制作において、男性を起用することが多かったから、新しく女性を起用してはどうか?さらに歌謡テイストと、これまでSILVAが持っていたコマーシャルな部分を、新しく組み合わせてみませんか?」というご提案を頂いたんです。

ーそれでリリースされたのが「メトロのように」ですね。

「是非、トライしてみましょう」と取り組んだものの、ファンの人達が困惑しているのが私にもわかりました。決して作品を否定しているわけではないんですけど、”ブラックミュージック”のテイストがすごく強かったところから、急に歌謡テイストへの変更に対して、「どう捉えて良いかわからない」というファンレターが多かったのも事実です。私自身も迷っていましたけど、”SILVAが挑戦的なことを始めている”という評価を受けていた気もしますね。

ー新しく挑戦をするに至ったのは、2年のお休みも関係しているのでしょうか?

仕切り直しのタイミングでもありますし、お休みと言っても”ブランク”でもありますから、必要だったと思いますし、だからこその迷いでもあったと思うんです。あとは高橋よしこ時代もそれまでのSILVAでも、自分の曲でシングルをリリースして、勝負が出来たことがなかったんです。「心と体」がそうなんですけど、結果的に良くなかった。元を辿れば、自分の曲で評価を頂くことが、作家・アレンジ・マニピュレーターという最初の目標とリンクしていたし、結果に対して自信はなくしていたと思います。

ーとなると、前向きな挑戦だったということでしょうか?

若い頃は全て一緒だと思っていたんですけど、ブラック・ミュージックが”好きなこと・似合っていること・やれること”はそれぞれ違うかもしれないと。もう1度、客観的にSILVAを見たときに、これまでと違うことを取り入れたり、トライして何かを開かないと、自分の作品で勝負するのに、必要な要素だと思ったんです。

ー「Arcadia」がまさにその勝負?

ドラマのタイアップも決まっていたし、詩と曲をその為に書き下ろしたバラードだったんですけど、爆発的ヒットの中には入らなかった。レコード会社やプロデューサーに申し訳ない気持ちがすごくありましたし、自分では勝負できない・結果が残せないということを、痛烈に感じたタイミングですね。

ーセールス的なバロメーターは1つの評価であると思いますが、「このままではいけない」という、前向きな危機感の元でトライをした分、得られることもあったのではないでしょうか?

そうですね。自分的にはそうでしたけど、世の中的には違ったのも事実です。当時、取材を受けていても「何故バラードの楽曲をシングルに?」だったり、シャンプーのCMをやらせて頂いていたんですけど、長かった髪をショートヘアにしても話題にもならない。楽曲とSILVAのイメージが合っていなくて、それまでのアップテンポの楽曲ではなく、歌謡曲路線では繋がらないということだったんだと思うんです。自分的には挑戦的だと思っていても、”新しい試みの結果の挫折感”というものをとても感じていましたね。

ー先程のお話にあった”厳しいことが重なった”のがこういった部分ということですね。

そうですね。さらに「愛のトリマー」リリースの1ヶ月前に、スタッフさんに不幸がありまして。スタッフのモチベーションも下がりますし、プロモーションどころではない状況というか…普通、アルバムをリリースしたらリリースツアーも組むんですけど、それも組めなくなってしまって。リリースをしてもノンプロモーション・ノンツアーという結果になったりと、色んなことが重なったときに「自分の意思を持たないと、SILVAが終わってしまう」と思って、2年契約であと1年残っていたんですけど、2003年の2月に両方辞めたんです。

ーその決断をせざるを得ない状況だったと。

はい、「愛のトリマー」をリリースした3ヶ月後くらいに辞めてます。

ー決断のための理由は、今お話頂いた通りだと思いますが、肯定的な辞め方ではあった?

私にはそんな判断できないですよ。「よし、これからやる為に計算して…」って出来る人間ではないですし。当時、DIVAアーティストたちが横並びにデビューしていて、プロモーションが同じことがあって。取材を受けていると、とても情熱的に作品の話をしていて「歌を歌わなかったら死んじゃう」ってキーワードが飛び交っていたんです。でも私は歌を歌わなくても生きていける。「歌わないと体がウズウズする」「想っていることを歌に込めて」「歌っていると涙が出てくる」とみんなが話していても、私は1歩下がってSILVAをやっていたし、歌手SILVAを客観的に見ていたから”歌い手”ではなかったんですよね。SILVAとして”やりたかったこと・やれなかったこと・やって似合わなかったこと”があったから、この先の人生を考えないといけないタイミングだったと思います。

ー単純に怖いですよね?移籍をされたわけではなかったですし。

すごい怖かったですけど、移籍とか次の事務所は考えなかったです。とにかく、SILVAとして歌手としてなのか、クリエイターとしてなのか、残るべき道を模索したかっただけでした。今考えると、その判断はとても無謀だったと思います。ある日、突然お給料がないわけですし。

ーそれでは音楽の制作については白紙のままでしょうか?

そうですね。

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