SILVA インタビュー

ーデビューの経緯から伺いたいのですが、元々歌手を目指されていたんですか?

目指していませんでした(笑)裏方志望だったので、今はみなさんするようになってますけど、マニピュレーターや作詞・作曲、プロデュースぐらいまでのことですね。

ーでは、「ROLAND」や「AKAI」等の機材を買って?

そうです、最初「AKAI S2800」を買って…中途半端なんですよね、”3000″は買えなかったんです。高いし、お金なくって(笑)あとROLANDのシンセサイザーをいくつか揃えて、Macintosh SE30に確か「Performer」を入れて打ち込みしてましたね。

ー独学でシーケンスやサンプリングされていたんですか?

独学です。それ自体は高校生くらいのときにやっていて、ジャンルでいうとR&BやHIP HOP的なもので2小節・4小節のループを繋げて、サンプリングしてコードの上に違うメロディ乗せてみたいな。

ーかなり本格的ですね。

違うループに変えたり、ドラムだけ抜いたりとかトラックのデモをを作ってました。

ーその制作されたデモを実際に披露する場はあったのですか?

ないですよ、自分が歌うつもりがなかったのでライブ活動もしていないですし。デモを作ってストックしていただけですね。そのときは高校3年生だったので、親からは音大の受験を薦められていたんですけど、私はマニピュレーターの専門学校に行きたかったんです。大学受験の勉強はしたくないし、裏方の勉強はしたいという中で、息抜きに「友達と勉強しに行く」と嘘をついて、カラオケバーみたいなところで歌ってました(笑)

ー憂さ晴らしですよね(笑)

そう(笑)そしたらそのバーに、音楽系の団体の会議か何かの後だったらしく、色んなレコード会社の人がバラバラに飲みに来てたんです。そこで私が歌っているのを聴いて、お店を通して「是非ご連絡を頂けないか」と名刺を頂いたんです。で、次の日に1番上にあったエピックソニーにまず電話したんです。

ーエピックソニーを選ばれたのはたまたまですか?

だって、どのレコード会社が良いかなんてわからないじゃないですか?話していく中でトラックを作っていることを伝えたんですけど「いや、それはどうでもよくて歌手にならないか?仮でもいいから専属契約したい」って。親にお金を出してもらって専門学校に行くよりも、自立は出来るし入り口は歌手でも良いかなって、すぐに契約しました。

ーそれはアーティストとして世に出たとしても、ゆくゆくは裏方の道も作れるだろうという判断があって?

そうですね。最終的に自分の作ったトラックや楽曲を、人に使ってもらえることをしたかったですし、それは今でもやりたいことですから。

ーデビューされる際、楽曲やトラックはもちろん、歌いたいこと等の”自分からの発信”というのは反映されているのでしょうか?

今でこそ、ディレクターの色をそこまで出さずに、アーティストの意見が尊重されるようになってきましたけど、当時はレコード会社のディレクターやA&Rが制作の実権を握っていたので、自分で作ったトラックや歌詞は作り変えられていましたね。時代的にCorneliusやピチカート・ファイヴ等の渋谷系が流行っていたので、私が作ったトラックの殆どは渋谷系に近いアレンジに作り変えられて。私はループ使いたいのにベースもドラムも生音で録り直したり、結果的にR&Bトラックではなく、ロックぽいテイストに変わって(笑)

ー全然違う(笑)

しかもね、歌詞も「元気っぽい感じで」みたいな(笑)高橋よしこ時代はミニアルバムを2枚出したんですけど、製作陣は元チェッカーズの武内享さんに楽曲提供頂いたものと、私が作詞・作曲したものでも作り変えられているので、”自分発信”というより、ディレクターさん発信という感じでしたね。チャカ・カーン、メアリー・J. ブライジ、アレサ・フランクリンにようなR&Bがカッコイイって思っていたんですけど、ご法度というか…ブラック・コンテンポラリーの要素は出さないで欲しいっていうね。

ーオーバーグラウンドというよりは、アンダーグラウンドが好みだったのに、その表現が出来ないでいたと?シュガー・ベイブのカバーなんかも正しくと言うか…

そうですね…全然、ディレクターさんの意向ですね。ナイアガラレコードが大好きな方で、レコーディングしてるときもシュガー・ベイブのジャケット置いて、崇拝されてましたね(笑)

ー(笑)そういった意向にそぐわない制作の時代からPRYAIDへ移られるのは、もう1度やりたい状況を作るために?

それは移籍という形ではなく、1度エピックソニーを辞めているんです。作家として残ることもなければ、歌手として残ることもなかったのでゼロの状態ですね。当時の事務所が高橋幸宏さんのところでしたので、幸宏さんや高野寛さんのコーラスの仕事をさせてもらって。そういう繋がりでアロハ・プロダクションズという会社の社長さんが「新たにデビューし直してみないか?」というお話を頂いて。高橋よしこ時代を引きずることなく、そういった色や名前も含めて変えたいという意向も事務所にはあって。

ーそこで”SILVA”というアーティスト名になったんですね。

これ…過去何百回も言ったんですけど(笑)当時、「やっぱりSILVAって、外国の方ですか?」とか言われたんですよ(笑)キャラクターを変える為に、頭をアフロのようなウェーブヘアーにして、それこそチャカ・カーンを彷彿とさせるようなイメージで行ったので。そしたら社長さんが”デビュー会議”みたいな時に「高橋よしことか、漢字の名前は一切ないけど、どうしても案が出ない。あと5分以内に決めてもらわないと会議が終わらない」って。

ードタバタしてますね(笑)

で、芝浦GOLDってクラブがあって、出入りしてた私をよく見かけていたらしいんですね。「そこでよく歌っていた子がエピックソニーで歌ってたんだよ」って聞いてたらしく、だったら突拍子もなく「”GOLD”で良いんじゃない?」って。私はそれがあまりにもギラギラ感がストレート過ぎるから「プラチナが良い!」って言ったら「そんなタマじゃねーだろ」って(笑)かといってブロンズになるのもイヤだったから「じゃ、シルバー」と言ったら本当に5分ぐらいで決まりました。最初、”SILVER”だったんですけど、ポルトガル語やスペイン語だと”SILVA”表記で商標登録とかもなかったので、この名前になりました。

ーその5分が、これまでのアーティスト活動として世に広まる名前を決めたんですね(笑)

そうなっちゃってますよね(笑)当初はとても動揺してまして…親にも説明できないですし。「SILVAとは…白銀の◯◯のように輝くetc…」って一生懸命にプロデューサーさんが考えて下さったんですけど、インタビューとかで自分の口から言うのが恥ずかしくて「5分で決まった名前です」って事実を話して(笑)

ー(笑)「Sachi」の制作にあたっては、「エピックソニー時代でやれなかったこと」というのが実現出来たのでしょうか?エピックソニー時代は先程のお話を伺うと、かなりフラストレーションが溜まっていたんじゃないかと。

そうですよね、本当に辻さんの言う通り、フラストレーションが溜まっていたのは事実で。もしこれで「ロック系になる」って言われたら、私は多分デビューをしなかったと思うんですよ。SILVAをゼロから作って下さった、藪下晃正さんという方がプロデューサーをしてくれたんですけど、すごくセンスのある方で。

ー具体的にはどういった制作をしていったのですか?

藪下さんもブラックミュージック元々好きなのもあって、楽曲・ボーカルのディレクション、全てトータル的に出来る方だったので、託す形です。事務所の意向も、私の意向も重ねて作って下さって。事務所としては、当時UAの「悲しみジョニー」がヒットしてたので、アンダーグラウンドでコアなものをUAだとすると、私はもう少しコマーシャルで、一般のリスナーが掴みやすく分かり易いものを打ち出して、ブラックミュージックを意識させたかったんです。ミディアムテンポの曲でヒットしていた、MISIAにしても宇多田ヒカルさんにしてもR&Bの走りがある中で、「アッパーなもので打ち出していこう」となったのが「Sachi」になるんです。とても洗練されたリズム感があって、グルーヴィーな四つ打ちでしたし。

ーSILVAさんがイメージしたものを具現化していく作業が出来たんですね。

「こんなイメージで」って伝えると、そのまま上がってくる感じでしたね。「water,flower」は藪下さんに「グロリア・ゲイナーの「I Will Survive」のような躍動感のある、ディスコ調でキャッチーなもの」という相談をしたら、オーダー通りに作って下さって。紙3枚くらいに、1曲毎にコンセプトの文章を書いて下さって。そうすると、私も含め、事務所・レコード会社・宣伝担当もみんな理解できるので、そういう制作作業は本当に良かったですね。

ー高橋よしこ時代とはガラリと変わりましたね。

そうですね、私もプロデューサーに託すという意識を持っていたのと、歌詞は全て私に書かせてくれたので。「自分が書いたものを歌ってみないか?」ということで。それは素晴らしく有難いことでしたね。

ーファーストアルバム「HONEY FLASH」には、初めてイメージしたもの、歌い伝えたいことを打ち出すことを、同時進行で楽曲詰めることが出来た作品ですね。

はい、作家志望だったにも関わらず、詞も曲も託してしまうことが出来たと思うんですけど、名前が変わったことによって、高橋よしこが”SILVA”を演じる、”SILVA”に歌わせるがあって、詞を書くことも出来たんだなって思います。恋愛の曲が殆どで、それを情熱的に歌うキャラクター設定は、”SILVA”だからこそしましたし、自身の恋愛経験も比喩的に書くことが出来たと思います。”SILVA”を客観視出来たのがすごく良かったですし、それが作品に反映されていますね。

ー自身で”SILVA”をプロデュースする感覚に近いですよね。デビューのタイミングでメディアへ露出が増えたタイミングでもあると思いますし、イメージ的にも結果的に根付いていったものだと思うのですが、それもプロデュースの一部として?

それはまた違う実験性があるんですけど(笑)3枚目(morning prayer)くらいまで、実はキャラクターがもっとカッコイイ人だったんです。クールであまり話さない、国籍もわからない、そしてすごくパンチの効いたソウルフルな歌を歌う。スタイリッシュな古着を着こなして、セクシーな衣装を身に纏う、アート的でハイファッションなコンセプトを藪下さんが作って下さってたんです。

ージャケット写真やアー写もそうでしたよね。

そうなんですけど、”SILVA”というキャラクターを作って、楽曲やジャケットに対して、私自身がカッコ良くもないし、クールでもないから、中身の設定がうまく出来なくて。高橋よしこでデビューしたとき、私が対人恐怖症というか、極度のあがり症だったので、取材やラジオで受け答えが出来なくて…それで真っ赤になって、汗が止まらないし、コンプレックスを持っていたのを当時は注意されていたくらいなんです。

ーええ!

それこそラジオの試し録りで、2時間くらいフリートークをする練習の為に、スタジオを押さえてやっても、全然ボキャブラリーがないので話ができないんです。そういう中で設定に迷ってる中、HEY!HEY!HEY!やラジオが決まって。事務所の社長に「高橋よしこ時代の失敗を繰り返したら、次はないよ」って、楽屋で言われたんですけど、大変脅しになりまして(笑)そこで、今までの自分と真逆のことをしない限りは打破できないし、失敗したことがある以上、素の自分では勝負できないなって。

ーそれがセクシー路線に?

セクシーをどう捉え間違えたのか、エロに変えて(笑)普段、あまり話さないプライベートなことをあけすけに話してみたらどうだろうって。

ーご自身で決めたんですね(笑)

決めました(笑)メディアに出たときに、早口・エロ・面白可笑しく話す、全く違う自分を作っていって、問題発言がたくさん生まれ(笑)女性アーティストが彼氏とかのプライベートを話すって、あんまりなかったですしね。最初の半年くらいは「どうして出演する度に歌詞のネタバラしして、セックスの話をあけすけに言うんだ」って藪下さんは怒ってましたね。アーティストの神聖なイメージがあるって。でも、私はそういうのはムリだなって思いましたし。

ーでも、所謂パブリック・イメージに紐づくと思いますが、偶像的なアーティストが多い中で、逆にリアリティを打ち出すアーティストは、SILVAさんが先駆的でしたし、結果的にそれがハマったと思うんです。

ハマったと思いますけど、私自身はそこまで考えていないので。とにかく「後がない、後がない」と毎日思ってました。だから一生懸命”SILVA”を作り出さないと…とは言え、だんだん時間が経ってくると、それは自分の内側に秘めていたものだなって。決して嘘ではないし、人間的に高橋よしこが持っていた部分だからこそ、情熱的な歌詞が書けただろうし、”SILVA”というフィルムを通して、作品が作れたというのは最善だったなと、今でもそれは思います。もし、素の高橋よしこに戻って作品を作りたいかといえば、それはないですね。

ー言い切れるんですね。

生涯、SILVAでいたいなと思いますし、”GOLD”っていう名前に変わることもない(笑)

ーそれがあって「SILVAのLOVE&SEX」とかも出来たわけですしね。

酷かったですね、あれは(笑)当時、小中学生だった人達が今大人になって、ソーシャルが発達すると、連絡をダイレクトに貰えるんですね。「ちゃんとした学校の保健体育よりも、いい性教育を受けました」って頂いたり。全くアーティストとしては、何の役にも立ってないんですけど(笑)エンターテイナーとしては、お役に立てて良かったなと(笑)

ー”SILVA”というキャラクターを確立し、メディア露出も増えたことによって、様々な人々に認知をされたと思うのですが、それによって、ストレスが生まれたり、イヤになったりすることはなかったのですか?

なりました、なりました。もう2年やった辺りでしんどかったです。そのときのイメージは、「何でも言ってくれて、ヘタしたら何でもしてくれるんじゃないか?」というね。バラエティー番組に出る度、どんどん過剰になっていきましたし、街を歩けば知らない人に触られたり、そういったトークを求められたりするのが日常的になってしまって。”SILVA”のキャラクターを作ったけど、元々は対人恐怖症だから、高橋よしこでは出来ないことなんです。そういうことが続いて、外でご飯も食べなくなりましたし、なるべく家にいて彼氏とこもってましたね。

ー”高橋よしこ”でいるときも、”SILVA”として見られるそのギャップは辛いですよね。

辛いですよ。テレビの露出によって、SILVAと認識して頂けるのは有難いんですけど、例えばクラブ遊びなんて若い頃に終わっているのに、黙っててもシャンパンが出てきたり、煙草も吸って男性も従えてみたいなイメージね。キャラクターのおかげで、色んな人が私の心の中に垣根なく、弾丸のように飛び込んでくるんです(笑)さすがに、耐えられないですし、しんどかったんです。SILVAはあけすけキャラなので、色んな男性が寄って来ますけど、誰でも受け入れるわけではないし(笑)かといって、いちいちそんな説明は出来ないじゃないですか?

ー説明しなくてはいけないものでもないですしね…

(笑)歌手なのに、芸人さんが街を歩いてると、頭どつかれたりとか、面白いことを求められるのと同じような現象にはなってました。

ー先程、”2年”という期間が出ましたが「HONEY FLASH」「Coming Out」「ザ・キラーベスト」まで、リリースもハイペースでしたよね。

早かったです。最後の音楽バブルじゃないですけど、CD自体がまだ売れていた時代ですから2ヶ月に1回シングル切ったり、リミックスして、アナログ盤も作るし。メディア露出のキャラクターとは別に、音楽についてはカッコイイものを打ち出していかないと歌謡曲路線になってしまう。特にアナログ盤をリリースするという、アンダーグラウンドな部分を抽出していたかったですし、毎回7,000・10,000枚イニシャルでプレスして、一瞬でソールドアウトしていたのは嬉しかったですね。

ーピクチャー盤なんて、すぐにソールドアウトしていましたよね。

ありましたね…私にとって宝物ですね。キャラクター先行であったとしても、SILVAを認知してもらえて、楽曲を聴いてもらえるところに繋がったと思いますし、すごく良い経験をしたという実感がありますね。

ーアーティストSILVAとして、音楽の制作活動とメディアの露出を両立するのは大変だったのでは?

レコーディングにどんどん立ち会えなくなってしまって。2ヶ月に1度のリリースペースによって、プロモーション露出に時間を取られてしまうのが続いて、時間がなかったのが正直なところです。私が作った楽曲が、アルバムに半分以上収められているんですけど、殆どが宅録したものとイメージを伝えて、丸投げ状態でしたし。コーラスも、私が入れたかったんですけど、時間がなくて色んな方にお願いをしていたんですけど、その立会いさえ出来なくて。結果的には、レコーディングの制作現場に一緒に居られたかというと、単なる歌い手さんくらいの関わりしか出来なくなっていました。

ー仕上がった作品には、満足をされているとは思うのですけど、”アーティストとして”や”楽曲の制作”に重きを置いていたSILVAさんですから、その時間が削られるというのは…

フラストレーションがありましたね。「ザ・キラーベスト」をデビューしてから僅か2年でリリースしたのは、時間が欲しかったからなんです。ドラマや映画のお話を頂いたりして、それ自体は嬉しいことではあるんですけど、拘束時間が長いということが、私にとってすごく辛い状況でしたので。映画のお話はお断りして、ドラマも少しだけにして頂きながら、レコーディングもそうですし、打ち合わせの時間をどう確保するかで、すごく悩んでいました。その解決・仕切り直しの策として、ベストをリリースしたんです。

ーそうまでしないと、SILVAとして満足のいく、音楽表現が出来ない状況だったんですよね。

ただ、PRYAIDはアロハ・プロダクションズが作ったレーベルなので、レコード会社・事務所が同じ意見ですから、第三者の意見がない状況が欠点だったと思います。

ー結果的には、レコード会社・事務所とSILVAの意見が別れてしまった?

だからベストを出した後は、まとまらない状況が続いて、レコード会社を移籍をする形になり、事務所も異動することになりました。

ーレコード会社・事務所の移籍というのは、これまでの制作チームと変わることになると思いますし、”時間の確保”という観点では合うことなのかも知れないですが、”仕切り直し”という部分では良い作用があったのでしょうか?

難しいところがあるんですけど…アロハ時代がうまく行っていたとしたら、ワーナー時代は厳しいことが重なったというか。既にCDが売れない時代に入っていたのでレコード会社のスタッフも減り始めていたんです。

ー制作の現場についても同じでしょうか?

ついていたスタッフが新人さんだったので、A&Rやレコーディングを急遽ポルノグラフィティをやっている、田村さんという方に制作も含めたプロデュースをお願いしようと。お休みをしていた2年弱の間も、デモを作っていたんですが、私自身が落とし所をまだ見つけられていない状態で、スタッフとも方向性がまとまっていなかったんです。そんな中で「これまでの楽曲の制作において、男性を起用することが多かったから、新しく女性を起用してはどうか?さらに歌謡テイストと、これまでSILVAが持っていたコマーシャルな部分を、新しく組み合わせてみませんか?」というご提案を頂いたんです。

ーそれでリリースされたのが「メトロのように」ですね。

「是非、トライしてみましょう」と取り組んだものの、ファンの人達が困惑しているのが私にもわかりました。決して作品を否定しているわけではないんですけど、”ブラックミュージック”のテイストがすごく強かったところから、急に歌謡テイストへの変更に対して、「どう捉えて良いかわからない」というファンレターが多かったのも事実です。私自身も迷っていましたけど、”SILVAが挑戦的なことを始めている”という評価を受けていた気もしますね。

ー新しく挑戦をするに至ったのは、2年のお休みも関係しているのでしょうか?

仕切り直しのタイミングでもありますし、お休みと言っても”ブランク”でもありますから、必要だったと思いますし、だからこその迷いでもあったと思うんです。あとは高橋よしこ時代もそれまでのSILVAでも、自分の曲でシングルをリリースして、勝負が出来たことがなかったんです。「心と体」がそうなんですけど、結果的に良くなかった。元を辿れば、自分の曲で評価を頂くことが、作家・アレンジ・マニピュレーターという最初の目標とリンクしていたし、結果に対して自信はなくしていたと思います。

ーとなると、前向きな挑戦だったということでしょうか?

若い頃は全て一緒だと思っていたんですけど、ブラック・ミュージックが”好きなこと・似合っていること・やれること”はそれぞれ違うかもしれないと。もう1度、客観的にSILVAを見たときに、これまでと違うことを取り入れたり、トライして何かを開かないと、自分の作品で勝負するのに、必要な要素だと思ったんです。

ー「Arcadia」がまさにその勝負?

ドラマのタイアップも決まっていたし、詩と曲をその為に書き下ろしたバラードだったんですけど、爆発的ヒットの中には入らなかった。レコード会社やプロデューサーに申し訳ない気持ちがすごくありましたし、自分では勝負できない・結果が残せないということを、痛烈に感じたタイミングですね。

ーセールス的なバロメーターは1つの評価であると思いますが、「このままではいけない」という、前向きな危機感の元でトライをした分、得られることもあったのではないでしょうか?

そうですね。自分的にはそうでしたけど、世の中的には違ったのも事実です。当時、取材を受けていても「何故バラードの楽曲をシングルに?」だったり、シャンプーのCMをやらせて頂いていたんですけど、長かった髪をショートヘアにしても話題にもならない。楽曲とSILVAのイメージが合っていなくて、それまでのアップテンポの楽曲ではなく、歌謡曲路線では繋がらないということだったんだと思うんです。自分的には挑戦的だと思っていても、”新しい試みの結果の挫折感”というものをとても感じていましたね。

ー先程のお話にあった”厳しいことが重なった”のがこういった部分ということですね。

そうですね。さらに「愛のトリマー」リリースの1ヶ月前に、スタッフさんに不幸がありまして。スタッフのモチベーションも下がりますし、プロモーションどころではない状況というか…普通、アルバムをリリースしたらリリースツアーも組むんですけど、それも組めなくなってしまって。リリースをしてもノンプロモーション・ノンツアーという結果になったりと、色んなことが重なったときに「自分の意思を持たないと、SILVAが終わってしまう」と思って、2年契約であと1年残っていたんですけど、2003年の2月に両方辞めたんです。

ーその決断をせざるを得ない状況だったと。

はい、「愛のトリマー」をリリースした3ヶ月後くらいに辞めてます。

ー決断のための理由は、今お話頂いた通りだと思いますが、肯定的な辞め方ではあった?

私にはそんな判断できないですよ。「よし、これからやる為に計算して…」って出来る人間ではないですし。当時、DIVAアーティストたちが横並びにデビューしていて、プロモーションが同じことがあって。取材を受けていると、とても情熱的に作品の話をしていて「歌を歌わなかったら死んじゃう」ってキーワードが飛び交っていたんです。でも私は歌を歌わなくても生きていける。「歌わないと体がウズウズする」「想っていることを歌に込めて」「歌っていると涙が出てくる」とみんなが話していても、私は1歩下がってSILVAをやっていたし、歌手SILVAを客観的に見ていたから”歌い手”ではなかったんですよね。SILVAとして”やりたかったこと・やれなかったこと・やって似合わなかったこと”があったから、この先の人生を考えないといけないタイミングだったと思います。

ー単純に怖いですよね?移籍をされたわけではなかったですし。

すごい怖かったですけど、移籍とか次の事務所は考えなかったです。とにかく、SILVAとして歌手としてなのか、クリエイターとしてなのか、残るべき道を模索したかっただけでした。今考えると、その判断はとても無謀だったと思います。ある日、突然お給料がないわけですし。

ーそれでは音楽の制作については白紙のままでしょうか?

そうですね。

ーその後音楽面では、具体的なアクションは取られていくのでしょうか?

そうですね、私はレコードの収集癖がありまして(笑)家にも機材やターンテーブルがあったので、HIP HOP・SOUL・FUNK・JAZZ・HOUSE等を何でもかけていました。でも、あくまで趣味の領域でそのときはDJもしたことなかったので、スクラッチとかも出来なかったですし。

ーあくまで”リスニング”する為のもので、”プレイ”には至っていないんですね。

2002年まではないです。レコードの収集してるおかげで、B面に”サービストラック的”な、CD音源にはないトラックが収録されていることがありますよね?それをかけてはよく歌ってましたね。

ーそれはご自宅で?

自宅でそのトラックを、カラオケ変わりに別のメロディーを歌う。「あ、これって高橋よしこになる前にやっていた作業と同じで、単純に音楽が楽しい」と思っていた時期と重なったんです。「じゃあ、まわしながら歌おう」と。

ー良い意味で、発想はすごく単純に?

単純に(笑)レコードで好きな曲をかけて歌うことが楽しかったんです。それで「DJをやろう!」と思いましたし、「そういうトラックを作りたい・作る時間が欲しい」という欲求が生まれました。実際、高橋よしこ~SILVA時代まで、マニピュレーションをする時間もなかったので、技術的なことは分からなかったんですね。ProTools・Cubase・Logic、どれも使えていなかったので、勉強をすることから始めました。

ーDTMマニアですね(笑)

そうですね(笑)ボーカルトラックのエディットやミックスダウンをセルフでやれるようになるまでに、10年くらい掛かりましたけど(笑)活動を白紙にしたタイミングでしたし、スタッフさんがいたわけでもないので、自由に時間を費やせました。あとは「そんな中でも歌っていたい」という想いはあって、そのときジャズマンたちとの出会いがあったので、そこでバンドを組んで、小さなステージでカバー曲やスタンダードを歌っていましたね。

ーSILVAの楽曲は歌うことなく?

全然歌わなかったです。私のヒット曲はもちろん、「ヴァージンキラー」も歌わなかったです。DJについても「DJをしながら歌う」というスタイルにして、都内から始めて全国のクラブを周るようになりました。「SENNHEISER」のヘッドセットをしていて、「SILVAと言うんですが、今使用しているヘッドセットが壊れたから買いたい」と連絡したら「どうぞ、ご提供します」と。機材もPioneerを使用していたんですけど、人伝にメーカーの方と知り合いになったので「デモンストレーションを新機種でやりたい」と連絡したら「提供します」という風に、ご協力を頂けることになったんです。

ー思い立ってからの具現化がすごく早いですよね。しかも、音楽制作を白紙にしたからこその発想やアクションが出来ているので、その決断が良い作用をしていますし。

そうなんですけど、すごく叩かれましたよ。「歌手がDJをする」ということが、このときは誰もやっていなかったので。だからこそやっていたんですけど、来て下さるお客さんは「SILVAのライブ」だと思って観に来てるんです。カラオケでポン出ししながら歌うかと思いきや、「DJをしながらヘッドセットをして歌う」ということが理解されていない状況ですね。

ー何をしているのかがわからない?

全国どこに行っても「レコードの曲が掛かって口パクでやっている」としか思われていなかったです。しかも、技術もないからカットイン・カットアウト、ピッチの調整さえ出来てないんです。今のようにパソコンでやれていたら良いんですけど、当時はアナログでしたし。それがあって、両手が使えるようにする為のヘッドセットだったんですね。歌っていることを理解してもらうために、1度ワイヤレスマイクを胸に挟んで、手が空いたときにマイクを持つとか(笑)色々と模索をしたんですけど、ずっとマイクを手に持っていないと理解されないんですよね。

ーDJブースにマイクスタンドを立ててとか?

試行錯誤ですよね(笑)そういったDJを2年くらいやっているうちに、トラックも作れるようになってきて「海外でもやりたい」という想いが出てきました。DJをしながら歌う人はいなかったですし、歌う為にバンドを引き連れなくても良いし。それでアジアを周ろうと韓国・中国・タイ・マレーシア・シンガポール辺りの旅行パックを取って、背中に80枚のレコードと針とヘッドセットを持って…

ーDJバックパッカーみたいな(笑)

そんな感じです(笑)1人だけでバックを積んで旅をしたんです。そこで行く先々の小さいクラブ・大きいクラブ問わず、手当たり次第に「I wanna play」「I wanna play DJ and Singing」とかメチャクチャな英語で話して、門を叩いてコネクションを作ったんです。

ースタッフというか、コーディネーターもなしで?

そうです。周りの人には「頭おかしいんじゃないか?」って言われましたけど、DJをしたくて自分の名刺を作りましたし、日本ではないから「女性で何をやっているの?」というところから始まるので、wikiを見れば経歴が出ますし、YouTube見れば私の映像が出てくる。そうやってコネクションがどんどん出来て、アジアではDJとして呼ばれるようになったり、アジア以外のモスクワやヨーロッパでも、営業が取れるようになったんです。

ーシンガーとしてのSILVAをオーバーグラウンドな活動だとすれば、DJとしての活動はアンダーグラウンド寄りで、そういったシーンへの欲求があってということでしょうか?

というより、半々でやるべきだと思っていたんですけど、当時はご法度だったんですよね。アンダーグラウンドでは「最近、よくテレビに出てるよね」って言われたり、オーバーグラウンドでは「前はよくテレビに出てたのに…」ってそれぞれで嫌味を言われたり。それを払拭したかったですし、それで生活も出来るようになっていたので。全て白紙に戻したり、どこかと契約をしていなかった割には、毎年クラブツアーが出来ていましたし、周りにもそういった活動をするアーティストが増え始めて。FPMの田中(知之)さんなんて、元々私が歌手でデビューしていたときから、一緒に営業を周っていたんですけど、最初は「俺はずっとDJでやってきてるのにお前何なんだ!?」って言われていたんですけど、「まわしながら歌っているのが面白い」と言って下さるようになって、イベントに呼んで頂いたりとか。それからケツメイシのRYOJIもDJ始めたりしたし。

ー新しいフィールドでやれ始めたと同時にアンダーグラウンドというよりは、そのフィールドがメジャーになりつつありますよね?

そうですね。今、多くの人がDJをやっているのと一緒で、特別なものではなくなって来始めてましたね。もちろん、風営法の問題で怖いとか実際とは違うイメージもありましたけど、そうは言っても「クラブに行って、踊ったり歌ったりして楽しむ」ということが別の世界という扱いではなくなっていましたよね。叩かれたり、色んなことを言われたりもしましたけど、「やっていなかったことをやる意味と、その可能性が広がる面白さ」を体感していました。その可能性を誰にも止められないですし、どの方向に行くにも”自分が決める”という答えは、DJを始めたからこそ得られたことでしたね。

ー自分が決めたことでの納得感もありますしね。先程、”海外”というキーワードが出て来きたのも、その可能性を広げる選択肢なだけであって、”元々やりたかったこと”を形にする為の過程でもあったのでしょうか?

HOUSEが好きでレコードを収集していたときから、リミックスはニューヨーク・シカゴの名DJが名を連ねていましたし、「好きなアーティストに会いたい」という想いもあれば、「いずれは、自分で書いた曲を英語で歌って、リミックスしてもらいたい」という欲求もありました。

ーしかもDJとして、それを具現化していくと。

自分で作るしかないんですよ。今までの「レコード会社・事務所の予算があって叶えてきたこと」がゼロになっているから、体当たりをしていくしかない。DJと名乗る以上、フロアでリアルタイムにお客さんを楽しませることと、作品を残して評価されることを夢見ていたので。そして、その夢はニューヨークで砕け散りました。

ーアジアで評価された活動でも、ニューヨークではかなわない?

確かに、韓国や上海で「まわしながら歌うことは面白い」という評価でしたけど、ニューヨークでは「DJをしている横で歌っているならわかるけど、DJしながら歌うってどうなの?」と、お客さんからも平気で言われましたし、国が変われば意見も変わりましたね。特にニューヨークのアンダーグラウンドシーンは、歴史が深いので”DJたる者””シンガーたる者”がはっきりしているんです。無名の私がやったところで、突出したDJパフォーマンスや歌唱力がない限り、認められることがないんです。

ー厳しいですね…日本やアジアで面白く評価されたことだけでは、通用しないシーンがニューヨークにはあると。

要はSILVAを少しでも知っていたことがあっての評価だったんだと思います。でもそのときに出来ることとして、トラックの制作は続けていたので、2007年に”JAPONEBRETHREN”名義で「Wave」を作ったんです。名古屋に営業に行ったときに、HIEI君というDJをしている子を見つけたんですけど、私よりプログラミングがうまかったから、是非一緒に作らないかと。私が詞・曲を書いて、アレンジとプログラミングの過程を見せてもらって、勉強をしたいと。それで完パケしたCDと、私とHIEI君のプロフィール資料を作って、King street Soundsに送ったんです。King street Soundsを主催しているHisa IshiokaさんはSILVAという歌手を知らなかったのに、送った「Wave」を気に入って下さって「是非、うちでやりましょう」とコンタクトが来たんです。

ー楽曲の評価は嬉しいですよね!

すっごく嬉しかったです。リリースも決まって、メールで契約書やリミックスのやり取りをして。実際にお会いしたのが「Body & Soul」のツアーで日本に来られたときでしたね。私の日本での活動を知らなかったので「そんな有名だったの?全然知らないよ!」って。一方で、日本ではイヤな噂を立てられたり、意地悪なことを散々言われたんですけど、それがダイレクトで耳に入って来ていて。私がプログラミング出来ることは知られていなかったですし、King street Soundsから出したいDJはたくさんいましたから、まさか楽曲で掴んだということを誰も信用してくれないんですよ。

ーそれは悔しいですよね…

悔しいですよ。取材も殆どありませんでしたし、「コマーシャルだから、King street Soundsでリリース出来たんだよね」という部分だけがかい摘まれたり…HIEI君もいたけど、彼には技術的に頼っていても、契約から売り出し方、色んなアプローチは私しかいなかったので。でも体力があったから、夜中でも国が変わってもやることが出来ましたし、資料や契約書も自分でやることが出来たと思います。せっかく嬉しさがあるのに苦しかったですね(笑)ただ、これをきっかけにニューヨークに行こうと決めました。決定的だったのが、マイアミで毎年3月に開催されている「Winter Music Conference」に出たときに「実際に住んでいないと評価されない」とはっきり言われたんです。その土地に根付いていないと、いくら日本で売れていてもムリだと。それから2007年に1年がかりでビザを取得しました。

ーそれは長期滞在する前提で?

学生として留学しても働けないんです。仮にそれで行ったとして、公的に認められていない状態でDJをするのは後ろめたいですし、きちんと仕事をする為に行きたかったので、アーティストビザを大金掛けて(笑)

ー(笑)お金もそうだと思いますが、時間が掛かりますよね。

段ボール1個分の資料を英語で作るんですよ。しかも万が一、1度目の申請で取得できないと、2度目はほぼ取得できないらしいんですね。なので、向こうの弁護士さんを雇って、私のこれまでの経歴を全て英語で書いて、メールと電話でやり取りをして。さらに、スポンサーがないと入れないので、それも何とか見つけて…

ー3年という期間は最初から決めていたんですか?

取得する人は、大体長く住みたいから3年と申請して、1年位の取得が多いみたいなんですけど、私の場合は資料をたくさん用意したこともあって、3年が取得できたので決めました。あとはDJとして、日本でも活動してたことを形にしなきゃと思って、フォーライフさんにお願いをして「SILVA」名義ではなく、「DJ SILVA」名義でリリースをすることになりました。

ーニューヨークでの滞在が始まって、日本との差はすぐに感じられたのでしょうか?

日本で知られている有名なDJは、ニューヨークで有名ではなかったり、そもそもそんなにDJをやっていなかったり(笑)私がさっき言った「フロアを盛り上げて、名曲を残して」というDJが、ニューヨークにはたくさんいると思ったら、DJは名プロデューサーではなかったというか…DJだけやって、トラックは裏方として別のスタッフが制作してるというパターンが殆どで、それは行かなきゃわからなかったんです。日本にDJツアーで来てた有名な方たちは「自分で作ってる」と言うから信じてたのに、実際は「いや、これはウチのスタジオのマニピュレーターがやってて、俺はProToolsとかわからないし、打ち込みなんか出来ないよ」と言われるんです。

ー全然違いますね(笑)

「えー、これが現実!?」って(笑)日本の情報が全て正しいわけではないですね。日本で神様的なDJも、アメリカでは人気が落ちていたりすることも普通にあって。あとは、カテゴライズしきれないジャンルがあるということですね。HOUSEだけとっても、日本だと「CROSSOVER」みたいなジャンルがありますけど、アメリカにはないんです。「そのDJが良かったらそれで良い」くらいの勢いで、音楽の種類だって、TechnoもRockもCountryもあれば、イスラムの音楽やラテンの音楽まである。細かなコミュニティが出来ていて、それは行かないと全く知らなかった世界でした。

ー「住まないと評価されない」という言葉が繋がりますよね。

「なんて狭くて小さな世界にいたんだろう」と思いましたし、観光で行ってリリースしても、評価されないという意味がわかりましたね。直接、コミュニティに入って仲間にならない限り、コネクションが作れない。3年住んでる間に「観光客で来てDJやりたいんだけど」と日本の知り合いに言われたときは「住まなきゃダメだよ」と言っていましたね。

ーそのくらい、コミュニティに身を置かない限りは入り込めないんですね。

入り込めないですね。

ー滞在が3年という期間の中で、明確な目標はSILVAさんの中で定めていたんですか?

最初は「3年もあるし、この経歴があれば多少有名になって、トラックを制作してチヤホヤされるだろう」という風に思ってたんですけど、3ヶ月くらいで挫折しました(笑)英語が話せないし友達もいない。結局、コミュニティもわからないからどこにも行けないんです。引きこもってました。1年半くらいは苦悩の日々ですよ。それでも色んなレコード会社に売り込みに行っていましたけど、受け入れてもらえない。クラブでも、黒人のMCを見つけて自分でイベントを企画しても5人しかお客さんが来なかったり。「アメリカで成功したい」と思っているから、アメリカ人のコミュニティばかりに行って、日本のコミュニティには行かないようにしていたんです。街で日本人に会って「SILVAさんですよね?どうしてアメリカにいるんですか?」と声を掛けられても完全無視してましたし。結局、そこにしか認知がされていないというフラストレーションと、実力がないから仕事が決まらないのと、決まっても騙されてお金が払ってもらえないという連続で、ニューヨークなのに(笑)栄養失調で倒れました。食べ物で溢れている街なのに、ご飯が喉を通らなかったんです。

ー思い詰めた状態から、残り1年半の過ごし方はどうなっていったのでしょうか?

吹っ切れて、日本人のコミュニティにも行くようになりました。そうしたら「イベント演りましょう」「ライブ演りましょう」と声を掛けてもらって、向こうでバンドを組んだりDJしたりと活発になりましたね。そこで「日本のファンに届くものを自分は作って来たんだな」ということに、日本から離れて気づいたんです。異国の地に行って、日本人のファンがいるということは、とても嬉しいですよね?そこでやったからこそ、歌を評価されたりもしましたし。今までの自分をダメだと思い込んでいたのが、日本人として1の土台があって、その1である日本のファンを大事にしようと思うようになってから、楽しめるようになって10キロ太りました(笑)。

ー(笑)栄養失調から考えれば良かったと思います。

もう2年目のときにはただのデブですよ(笑)友達といても、食べていても楽しくて。それから向こうで、1番最初に出来た仲間はゲイで(笑)私が好きだったDJは、ゲイの方が多かったからなんですけど、そっち寄りのレコード会社の方から声が掛かるようになって、2社でHARD HOUSEの打ち込みやリミックスの仕事をするようになりました。

ー最初の1年半とはガラリと状況が変わっていますよね。

アメリカで稼いだお金だけでは、全然生活は出来ていなかったですけどね。向こうのアーティストの仕事をして、税金も納めていましたけど、日本での貯金を使い切りましたから。

ー3年のタイミングで、「そのまま更新する」という選択はなかったのでしょうか?

3年の間で、半分を楽しく過ごせて、やりたいことを少しずつ前に進められたのは、日本人の応援だったんです。それを感じたときに「まだまだ日本でやり残したことがある」と気づいたんです。最初、向こうのDJや友達に「アーティストビザ更新しないの?グリーンカード取っちゃえば?」と言われたんですけど、「歌手としてもクリエイターとしても、日本でやることがある」と話したら、「そう思うなら帰った方が良い、何故ならニューヨークで成功したかったら、最低10年はいないと芽が出ないよ」と、ヒットしたアーティストの方に言われてしまい…

ー厳しい現実ですよね。

「ですよね(笑)」3年の区切りで帰ることにしました。結局ヒット作を出せなかったし大きなクラブでDJも出来なかったけど、ノウハウも知れて、いつでも戻ったりビザを取り直すことも出来ると思いましたし、日本で出来ることはあると。

ーそこで2011年に帰国され、引き続き”DJ SILVA”としての活動をメインに?

そうなんですけど、如実に仕事が減りました。それはニューヨークに移住して、2年目くらいから分かっていました。せっかくアジアで作ったコネクションの人たちからのオファーもなくなっていったんです。理由はアメリカから帰ってくる渡航費が、ギャラよりもさらに倍以上乗るわけだから、オファーをしてもらえないんですよ。目標だった「名トラックメイカー」になれば世界から呼ばれると思っていたのが、叶わなくて。日本に戻ってきたけど、すぐに活動的出来ているかと言うと、3年のブランクがあるのでレギュラーパーティーもなかったですしね。

ー「DJ SILVA」名義での活動がそういった状況でありながらも、後に「Re:SILVA」「999」を「SILVA」名義でリリースされます。歌手SILVAとしてのきっかけがあったからなのでしょうか?

2010年の末に日本に帰って来ても、DJやテレビの仕事もないですし、事務所に入っていなかったのでマネージャーもいない現実があって。爆発的ヒットもないですし、偉業を成し遂げているわけではないですけど、1人でも自分の作品が好きだと言ってくれる人がいたことで、「SILVA」という名前に敬意を持っていましたし、財産であり宝だということをアメリカに行って気づいたのが大きくて。それまでライブなどでも自分の楽曲を歌わずにいましたが、アメリカから帰ってきてからは、歌う方に戻ろうと思いましたね。

ー「SILVA」を再生させるような?

そうですね。お休みしてから時間も経っていたので、「また歌の活動を始めました」という自己紹介的作品が「Re:SILVA」ですね。

ーもう1度、「自分の作品を再構築して世に出す」というのは、SILVAさんに取っても新しいアプローチでしたよね。

ただ、原曲を聴いていると完成度がすご過ぎて、敵わないと思いました。しかも、当時のマスターテープが行方不明で、ボーカルトラックを抜けなかったんです。唯一、私の持っていたADATにボーカルが残っていたんですけど、家のADATが壊れて(笑)フォーライフに電話したら2台あったので、貸して頂いてデータを抜き取れたんですけど、「ここまで大変な作業だったら、ボーカルも歌い直した方が良い」という判断で歌い直したんです。

ー全トラックを自分で再構築となれば、当時の音源作成にあたっての制作費も違うと思いますし、中々難しいですよね。

元の曲のクオリティの高さと、オリジナルは生楽器の演奏も多かったので、今回は差別化する為にも打ち込みでの制作が、その時点で最高に出来ることでしたし、バジェット感が違いますよね。あと、歌ってみてびっくりしたのが、ブランクも会ったので、当時のようにスキャットできないし、やっぱり若い頃より声は低くなっていましたね。

ー過去の作品を理解して、今のSILVAを表現するという部分ではすごく良かったのではと思うのですが?

そうですね、「ヴァージンキラー」で違う歌い方をしようと思っても、同じようにしか歌えなかったんです。もう、体に染み付いているから、フェイクから言葉尻までアレンジが出来なかったということは、過去の自分に納得していたんだと思いました。それで改めて過去の作品が大好きになりましたし。

ーそれもあって、現在開催中の「DIVA FES」でも聴くことが出来ますしね。

「ヴァージンキラー」も「Water Flower」も歌います。DJの方も、風営法の問題があるのでまわすだけのブッキングは減らすようにしていますけど、まわしながら歌えばライブになるんです。過去の楽曲を復活させながら、まわしながら歌うパフォーマンスは今後も続けて行きたいですね。

ー今のお話から繋がるのですが、今回の「GO!GO! SILVA」は、楽曲のラインナップが60年代後半~70年代前半の作品で、”昭和歌謡”という過去の楽曲をSILVAとしてアレンジ・復活させるというコンセプトだと思いますが、それに至った経緯を教えて下さい。

私が好きな世代の人達に取って、「青春時代に聴いた名曲」「愛してやまない思い出の曲」をカバーするということは、とてもステキなことですよね。テレビの露出が徐々に増えて、相変わらずあけすけな恋愛遍歴の話をするんですけど、私の男性ストライクゾーンが、広くて70歳くらいまであって(笑)どちらかというとおじさま好きで、年下ブームもありましたけど若い人はあんまり(笑)

ー(笑)しかも洋楽のカバーは今までありましたけど、日本語のカバーはほぼ初ですよね?

そうです。DJ SILVAでは色々やっていましたけど、作品として残したことがなかったですし、おじさま方が大好きだった曲であれば公私混同ではないですけど是非やりたいと(笑)私が生まれる前の楽曲なのに、メロディーが記憶にあったり、歌詞まで出てくる曲もあるんです。私の父や母の世代が青春ソングとして聴いていたものを、私自身も体感している楽曲なんです。

ー歌詞も、現在のSILVAさんだからこそ、マッチしている部分がありますよね。

今までSILVAとして書いてきた歌詞は、すごく重くてリアリティのあるものだったんですけど、それさえ及ばないくらい詩の世界が深いんです(笑)阿久悠さん、なかにし礼さん等の奥深い歌詞をカバーするというのは、とても意義のあることだったので作品を作ることになりました。

ーまず、バックトラックがカッコイイですよね。原曲の管楽器やヴァイオリンを、ギターで奏でていたりファズを効かせていたり。それこそ、高橋よしこ時代だったら敬遠していたような音なのに、今のSILVAさんにはすごくフィットしていて。

ロックテイストだったり、エレキがあれだけ重なっているものは初ですね。これまでのジャンルと全然違うし(笑)でも拒絶どころか、アレンジャーが私と同世代なんですけど、私と同じジェネレーションの感覚で良い所は残しつつ、新しい解釈を入れられたことがすごく良かったと思いますね。

ー昭和歌謡をただカバーしたというよりも、新しい解釈として今回のSILVA流アレンジが、逆にロックテイストやGSテイストであったということですね。

そうです。もし、40~50代のアレンジャーの方と作るとすごく古くなってしまうか、ただのロックになってしまったと思うんです。ピチカート・ファイヴっぽいテイストがあるのも、私達の世代の解釈ですよね。楽曲のセレクトはプロデューサーの方なんですけど、「この選曲が青春でノスタルジーを感じる」という力説があったんですよ(笑)その情熱が素晴らしくて(笑)他にも候補曲があったんですけど、私達の世代では優劣がつけられない部分を、色んな世代の方の意見が集約されましたし、実際に良いセレクトが出来たのは面白かったですね。

ー先程、「キーが変わった」というお話を頂きましたが、中低域がこんなにもマッチしていて、説得力のある歌というのは、今のSILVAさんだからこそ歌えるんでしょうね。

確かに歌っていて、温度差を感じることはなかったです。ただ、原曲の方々の歌が上手過ぎるんです。当時はマルチで1発~2発録りで、ProToolsでお直しする時代ではないんです。歌手として真っ直ぐ歌われているから、自分のオリジナルのように好き勝手に歌うことは敬意に欠けますし、真っ直ぐに歌うべき楽曲だったので、歌手としては初めてのチャレンジでしたね。

ー歌に説得力があるのは、そういった取り組みがあったからなんですね。

そうですね。20代の私では出来なかったでしょうし、歌詞が飲み込めなかったと思います。30代後半になって、こういった作品に取り組めたことは、歌手としてもすごく良かったです。

ーこれだけクオリティが高い作品に仕上がりましたし、音源を聴くとライブを期待してしまいますね。

是非したいですね。「DIVA FES」も生バンドで演っているので、これだけでツアーという企画があっても楽しいですね。これまでカバーの企画が何度もあったんですけど、安易にやってしまうと、そのカバー色がついてしまうので怖かったんですよね。でも今回のカバーは、名曲たちを蘇らせる企画に歌手として携われたことを、この先も活かして行きたいですね。

ー「SILVA」「DJ SILVA」そして「DIVA FES」と今年の活動も目白押しですね。

「DIVA FES」を企画したのは「自分が立ちたいステージを作る」「一緒にいるDIVAを自分でセレクトする」、要は歌手SILVAとして、好きなDIVAと歌いたかったんです。今回「GO!GO! SILVA」を作れたのはすごく良いタイミングで、歌手SILVAを中心とした活動をして行きたいというのが明確になりました。テレビも歌手SILVAとして出たいですし、「DJ SILVA」は裏方としてリミックス等を、歌手SILVAの為にやっていきたいですね。

ー「GO!GO! SILVA」がきっかけで歌手としての活動が広がる、その為に”歌手として”の主軸が明確になったことは、SILVAさんに取って、大きな財産になりそうですね。

この作品でね、幅広く70代までの方々に聴いて頂いて、歌手SILVAを知って欲しいですし、あわよくばファンの中からステキな出会いもあれば(笑)女性としてもね、2度美味しい気持ちでいます(笑)

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