SILVA インタビュー

ーデビューの経緯から伺いたいのですが、元々歌手を目指されていたんですか?

目指していませんでした(笑)裏方志望だったので、今はみなさんするようになってますけど、マニピュレーターや作詞・作曲、プロデュースぐらいまでのことですね。

ーでは、「ROLAND」や「AKAI」等の機材を買って?

そうです、最初「AKAI S2800」を買って…中途半端なんですよね、”3000″は買えなかったんです。高いし、お金なくって(笑)あとROLANDのシンセサイザーをいくつか揃えて、Macintosh SE30に確か「Performer」を入れて打ち込みしてましたね。

ー独学でシーケンスやサンプリングされていたんですか?

独学です。それ自体は高校生くらいのときにやっていて、ジャンルでいうとR&BやHIP HOP的なもので2小節・4小節のループを繋げて、サンプリングしてコードの上に違うメロディ乗せてみたいな。

ーかなり本格的ですね。

違うループに変えたり、ドラムだけ抜いたりとかトラックのデモをを作ってました。

ーその制作されたデモを実際に披露する場はあったのですか?

ないですよ、自分が歌うつもりがなかったのでライブ活動もしていないですし。デモを作ってストックしていただけですね。そのときは高校3年生だったので、親からは音大の受験を薦められていたんですけど、私はマニピュレーターの専門学校に行きたかったんです。大学受験の勉強はしたくないし、裏方の勉強はしたいという中で、息抜きに「友達と勉強しに行く」と嘘をついて、カラオケバーみたいなところで歌ってました(笑)

ー憂さ晴らしですよね(笑)

そう(笑)そしたらそのバーに、音楽系の団体の会議か何かの後だったらしく、色んなレコード会社の人がバラバラに飲みに来てたんです。そこで私が歌っているのを聴いて、お店を通して「是非ご連絡を頂けないか」と名刺を頂いたんです。で、次の日に1番上にあったエピックソニーにまず電話したんです。

ーエピックソニーを選ばれたのはたまたまですか?

だって、どのレコード会社が良いかなんてわからないじゃないですか?話していく中でトラックを作っていることを伝えたんですけど「いや、それはどうでもよくて歌手にならないか?仮でもいいから専属契約したい」って。親にお金を出してもらって専門学校に行くよりも、自立は出来るし入り口は歌手でも良いかなって、すぐに契約しました。

ーそれはアーティストとして世に出たとしても、ゆくゆくは裏方の道も作れるだろうという判断があって?

そうですね。最終的に自分の作ったトラックや楽曲を、人に使ってもらえることをしたかったですし、それは今でもやりたいことですから。

ーデビューされる際、楽曲やトラックはもちろん、歌いたいこと等の”自分からの発信”というのは反映されているのでしょうか?

今でこそ、ディレクターの色をそこまで出さずに、アーティストの意見が尊重されるようになってきましたけど、当時はレコード会社のディレクターやA&Rが制作の実権を握っていたので、自分で作ったトラックや歌詞は作り変えられていましたね。時代的にCorneliusやピチカート・ファイヴ等の渋谷系が流行っていたので、私が作ったトラックの殆どは渋谷系に近いアレンジに作り変えられて。私はループ使いたいのにベースもドラムも生音で録り直したり、結果的にR&Bトラックではなく、ロックぽいテイストに変わって(笑)

ー全然違う(笑)

しかもね、歌詞も「元気っぽい感じで」みたいな(笑)高橋よしこ時代はミニアルバムを2枚出したんですけど、製作陣は元チェッカーズの武内享さんに楽曲提供頂いたものと、私が作詞・作曲したものでも作り変えられているので、”自分発信”というより、ディレクターさん発信という感じでしたね。チャカ・カーン、メアリー・J. ブライジ、アレサ・フランクリンにようなR&Bがカッコイイって思っていたんですけど、ご法度というか…ブラック・コンテンポラリーの要素は出さないで欲しいっていうね。

ーオーバーグラウンドというよりは、アンダーグラウンドが好みだったのに、その表現が出来ないでいたと?シュガー・ベイブのカバーなんかも正しくと言うか…

そうですね…全然、ディレクターさんの意向ですね。ナイアガラレコードが大好きな方で、レコーディングしてるときもシュガー・ベイブのジャケット置いて、崇拝されてましたね(笑)

ー(笑)そういった意向にそぐわない制作の時代からPRYAIDへ移られるのは、もう1度やりたい状況を作るために?

それは移籍という形ではなく、1度エピックソニーを辞めているんです。作家として残ることもなければ、歌手として残ることもなかったのでゼロの状態ですね。当時の事務所が高橋幸宏さんのところでしたので、幸宏さんや高野寛さんのコーラスの仕事をさせてもらって。そういう繋がりでアロハ・プロダクションズという会社の社長さんが「新たにデビューし直してみないか?」というお話を頂いて。高橋よしこ時代を引きずることなく、そういった色や名前も含めて変えたいという意向も事務所にはあって。

ーそこで”SILVA”というアーティスト名になったんですね。

これ…過去何百回も言ったんですけど(笑)当時、「やっぱりSILVAって、外国の方ですか?」とか言われたんですよ(笑)キャラクターを変える為に、頭をアフロのようなウェーブヘアーにして、それこそチャカ・カーンを彷彿とさせるようなイメージで行ったので。そしたら社長さんが”デビュー会議”みたいな時に「高橋よしことか、漢字の名前は一切ないけど、どうしても案が出ない。あと5分以内に決めてもらわないと会議が終わらない」って。

ードタバタしてますね(笑)

で、芝浦GOLDってクラブがあって、出入りしてた私をよく見かけていたらしいんですね。「そこでよく歌っていた子がエピックソニーで歌ってたんだよ」って聞いてたらしく、だったら突拍子もなく「”GOLD”で良いんじゃない?」って。私はそれがあまりにもギラギラ感がストレート過ぎるから「プラチナが良い!」って言ったら「そんなタマじゃねーだろ」って(笑)かといってブロンズになるのもイヤだったから「じゃ、シルバー」と言ったら本当に5分ぐらいで決まりました。最初、”SILVER”だったんですけど、ポルトガル語やスペイン語だと”SILVA”表記で商標登録とかもなかったので、この名前になりました。

ーその5分が、これまでのアーティスト活動として世に広まる名前を決めたんですね(笑)

そうなっちゃってますよね(笑)当初はとても動揺してまして…親にも説明できないですし。「SILVAとは…白銀の◯◯のように輝くetc…」って一生懸命にプロデューサーさんが考えて下さったんですけど、インタビューとかで自分の口から言うのが恥ずかしくて「5分で決まった名前です」って事実を話して(笑)

ー(笑)「Sachi」の制作にあたっては、「エピックソニー時代でやれなかったこと」というのが実現出来たのでしょうか?エピックソニー時代は先程のお話を伺うと、かなりフラストレーションが溜まっていたんじゃないかと。

そうですよね、本当に辻さんの言う通り、フラストレーションが溜まっていたのは事実で。もしこれで「ロック系になる」って言われたら、私は多分デビューをしなかったと思うんですよ。SILVAをゼロから作って下さった、藪下晃正さんという方がプロデューサーをしてくれたんですけど、すごくセンスのある方で。

ー具体的にはどういった制作をしていったのですか?

藪下さんもブラックミュージック元々好きなのもあって、楽曲・ボーカルのディレクション、全てトータル的に出来る方だったので、託す形です。事務所の意向も、私の意向も重ねて作って下さって。事務所としては、当時UAの「悲しみジョニー」がヒットしてたので、アンダーグラウンドでコアなものをUAだとすると、私はもう少しコマーシャルで、一般のリスナーが掴みやすく分かり易いものを打ち出して、ブラックミュージックを意識させたかったんです。ミディアムテンポの曲でヒットしていた、MISIAにしても宇多田ヒカルさんにしてもR&Bの走りがある中で、「アッパーなもので打ち出していこう」となったのが「Sachi」になるんです。とても洗練されたリズム感があって、グルーヴィーな四つ打ちでしたし。

ーSILVAさんがイメージしたものを具現化していく作業が出来たんですね。

「こんなイメージで」って伝えると、そのまま上がってくる感じでしたね。「water,flower」は藪下さんに「グロリア・ゲイナーの「I Will Survive」のような躍動感のある、ディスコ調でキャッチーなもの」という相談をしたら、オーダー通りに作って下さって。紙3枚くらいに、1曲毎にコンセプトの文章を書いて下さって。そうすると、私も含め、事務所・レコード会社・宣伝担当もみんな理解できるので、そういう制作作業は本当に良かったですね。

ー高橋よしこ時代とはガラリと変わりましたね。

そうですね、私もプロデューサーに託すという意識を持っていたのと、歌詞は全て私に書かせてくれたので。「自分が書いたものを歌ってみないか?」ということで。それは素晴らしく有難いことでしたね。

ーファーストアルバム「HONEY FLASH」には、初めてイメージしたもの、歌い伝えたいことを打ち出すことを、同時進行で楽曲詰めることが出来た作品ですね。

はい、作家志望だったにも関わらず、詞も曲も託してしまうことが出来たと思うんですけど、名前が変わったことによって、高橋よしこが”SILVA”を演じる、”SILVA”に歌わせるがあって、詞を書くことも出来たんだなって思います。恋愛の曲が殆どで、それを情熱的に歌うキャラクター設定は、”SILVA”だからこそしましたし、自身の恋愛経験も比喩的に書くことが出来たと思います。”SILVA”を客観視出来たのがすごく良かったですし、それが作品に反映されていますね。

ー自身で”SILVA”をプロデュースする感覚に近いですよね。デビューのタイミングでメディアへ露出が増えたタイミングでもあると思いますし、イメージ的にも結果的に根付いていったものだと思うのですが、それもプロデュースの一部として?

それはまた違う実験性があるんですけど(笑)3枚目(morning prayer)くらいまで、実はキャラクターがもっとカッコイイ人だったんです。クールであまり話さない、国籍もわからない、そしてすごくパンチの効いたソウルフルな歌を歌う。スタイリッシュな古着を着こなして、セクシーな衣装を身に纏う、アート的でハイファッションなコンセプトを藪下さんが作って下さってたんです。

ージャケット写真やアー写もそうでしたよね。

そうなんですけど、”SILVA”というキャラクターを作って、楽曲やジャケットに対して、私自身がカッコ良くもないし、クールでもないから、中身の設定がうまく出来なくて。高橋よしこでデビューしたとき、私が対人恐怖症というか、極度のあがり症だったので、取材やラジオで受け答えが出来なくて…それで真っ赤になって、汗が止まらないし、コンプレックスを持っていたのを当時は注意されていたくらいなんです。

ーええ!

それこそラジオの試し録りで、2時間くらいフリートークをする練習の為に、スタジオを押さえてやっても、全然ボキャブラリーがないので話ができないんです。そういう中で設定に迷ってる中、HEY!HEY!HEY!やラジオが決まって。事務所の社長に「高橋よしこ時代の失敗を繰り返したら、次はないよ」って、楽屋で言われたんですけど、大変脅しになりまして(笑)そこで、今までの自分と真逆のことをしない限りは打破できないし、失敗したことがある以上、素の自分では勝負できないなって。

ーそれがセクシー路線に?

セクシーをどう捉え間違えたのか、エロに変えて(笑)普段、あまり話さないプライベートなことをあけすけに話してみたらどうだろうって。

ーご自身で決めたんですね(笑)

決めました(笑)メディアに出たときに、早口・エロ・面白可笑しく話す、全く違う自分を作っていって、問題発言がたくさん生まれ(笑)女性アーティストが彼氏とかのプライベートを話すって、あんまりなかったですしね。最初の半年くらいは「どうして出演する度に歌詞のネタバラしして、セックスの話をあけすけに言うんだ」って藪下さんは怒ってましたね。アーティストの神聖なイメージがあるって。でも、私はそういうのはムリだなって思いましたし。

ーでも、所謂パブリック・イメージに紐づくと思いますが、偶像的なアーティストが多い中で、逆にリアリティを打ち出すアーティストは、SILVAさんが先駆的でしたし、結果的にそれがハマったと思うんです。

ハマったと思いますけど、私自身はそこまで考えていないので。とにかく「後がない、後がない」と毎日思ってました。だから一生懸命”SILVA”を作り出さないと…とは言え、だんだん時間が経ってくると、それは自分の内側に秘めていたものだなって。決して嘘ではないし、人間的に高橋よしこが持っていた部分だからこそ、情熱的な歌詞が書けただろうし、”SILVA”というフィルムを通して、作品が作れたというのは最善だったなと、今でもそれは思います。もし、素の高橋よしこに戻って作品を作りたいかといえば、それはないですね。

ー言い切れるんですね。

生涯、SILVAでいたいなと思いますし、”GOLD”っていう名前に変わることもない(笑)

ーそれがあって「SILVAのLOVE&SEX」とかも出来たわけですしね。

酷かったですね、あれは(笑)当時、小中学生だった人達が今大人になって、ソーシャルが発達すると、連絡をダイレクトに貰えるんですね。「ちゃんとした学校の保健体育よりも、いい性教育を受けました」って頂いたり。全くアーティストとしては、何の役にも立ってないんですけど(笑)エンターテイナーとしては、お役に立てて良かったなと(笑)

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