TOKIE インタビューvol.24

—ベースを辞めるという選択肢がなかった

そういったバンド活動をされる中で、例えばプロになる!や◯◯でライブしたい!みたいな目標を持たれることになるのでしょうか?

TOKIE:あまり考えてなかったですね。ただ、がむしゃらに貫いてきたことで、辞めるという選択肢がなかったことですね。人生の節目に当たるとき、例えば就職で音楽が趣味になったり、バンド自体をやらなくなったりって、私の周りにもありました。だけど、「ベースを続ける為にどうしていこう?」っていう選択の連続で今があると思うんです。ベースを弾き続けるという軸の中で、人生の選択をしてきましたね。

もう、好きっていう次元を超えてますよね。

TOKIE:そうだと思います。ベースを弾いていないと、私じゃないっていうくらいな感覚です。ただ、ベースで生きて行く≒お金を稼ぐっていう考えにならなかったのは何でだろうって今考えると思いますけどね(笑)。

ベースに純粋だったということだと思います(笑)。

TOKIE:(笑)。高校を卒業してからは、バイトをしながらバンドをしたり、少しずつサポートのお仕事をいただける様になりました。J-POPのお仕事が多かったですけど、色んな場所で弾かせていただけるのがすごく嬉しかったですね。

このタイミングから、少しずつ音楽のお仕事に携わるようになっていくんですね。

TOKIE:そのあとニューヨークに行ったことが、1つのポイントになったと思います。DEAD ENDのMORRIEさんが、ソロを出すタイミングでニューヨークでレコーディングをしていたんです。そこで、ニューヨークのライブハウスでライブをするというお話をもらって、サポートのお仕事としてベース担いで、1人で行きましたね。

フットワーク軽いですよね(笑)。

TOKIE:若かったですから、気軽に行けましたね(笑)。

ニューヨークでの活動もあったんですか?

TOKIE:ライブが終わって帰国するんですけど、時間が経ってから、そのときに会ったミュージシャンから「バンドを組むので、ベースはTOKIEとやりたい」って連絡をもらったんです。当時の私は何も考えない人だったので(笑)、「やるやる!」って受けてから、観光ビザを使って3ヶ月行っての繰り返しを2年くらいしていましたね。

当時ならではですね(笑)。ライブ活動が中心だったんですか?

TOKIE:そうです。CBGB’SやKnitting Factoryで月に1〜2回の頻度でしたね。

TOKIEさん自身、英語でのコミュニケーションも出来ていたんですか?

TOKIE:英語は全然話せなかったんですけど、バンドは出来るんですよ(笑)。最初、メンバーの中にE・Z・OのSHOYOがいたので、なんとかなりましたけど、挨拶も出来ないくらいだったんです。それでも、音を出すとみんな仲良くしてくれるから(笑)。

これぞ音楽の醍醐味ですよね。音楽に国境はないというのを体現されてる感じがします。もしかしたら、そのままニューヨークに居続けていたかもしれないですし。

TOKIE:ね。でもそういう、ニューヨークでやって行くんだって考えもなかったですし、全てが流れのままに動いていましたね。

軸がベースを弾くことだからなんでしょうね。

TOKIE:そう思います。今ね、振り返るとバカだなって思いますけど(笑)、そうやってベースを通して色んな人と繋がれたのは大きかったですね。あとは、ロックが好きになったあとに、ファンクが好きになったんですけど、そうやって初めて自分が聴いて良いと思った音楽たちに、出会っていくことが出来ましたね。

—観たり聴いたりして感銘を受けたものが、引き出しとして増えていく

ファンクのどの部分に魅了されたんですか?

TOKIE:グルーヴですね。Princeとかブラックものが流行っていた時代なんですけど、高校卒業したくらいの頃もファンクをやりたかったけど、私の周りにはハード・ロックとヘビー・メタルが好きな人ばかりで、バンドをしたいんだけど、入れないっていうこともあったくらいなんですよね(笑)。

それは辛いですね(笑)。

TOKIE:そうやって、自分で好きな音楽を聴くようになって、ニューヨークではパンク・ノイズに出会って、「カッコイイ」っていう発見をして。それまでは、まるで聴いてこなかったし、興味もなかったんですけど、BOREDOMSがニューヨークに来てて人気があったし、Jim Foetusも観に行きましたし、少しノイズとは違いますけどARTO LINDSAYも好きになったり。私がやっていたバンドが、元SWANSのメンバーのROLI MOSIMANNと仲が良かった繫がりで、THE THEのMATT JOHNSONも何度かライブを観に来てくれたりして、それまで聴いてなかったジャンルにニューヨークで出会いました。

TOKIEさん自身が音楽に対して食わず嫌いがないんですね。

TOKIE:そうですね、観たり聴いたりして感銘を受けたものが、どんどん引き出しとして増えていく気がしましたね。

そういったニューヨークでの生活に終わりを迎えることは、必然的だったんですか?

TOKIE:続けたかったですけど、貯金がなくなったので仕方なくですね。未だにニューヨークで演奏したいなって思っていますしね。帰国してからは、サポートのお仕事をしたり、ジャム・バンドで演奏したりしながら、RIZEの結成になりますね。

このタイミングなんですね!

TOKIE:そうですね、帰国してすぐではないですけど、たまたま共通の知り合いがいて出会ったんです。2人はまだ高校生でJASONSが彼らは好きだったんですけど、そのバンドはウッド・ベースなんですね。それで、「縦のベースとやってみたい」っていう話があって、声を掛けてもらったのがきっかけですね。

—ロックでアップライトが弾ける

TOKIEさんを初めて知ったときは、アップライトのイメージが強烈にあったんですけど、これなんですね。

TOKIE:そうだと思います。私が何故アップライトをやったかと言うと、ニューヨークでやってたバンドのドラムが、Soul CoughingのYuval Gabayで、私も大好きでいつもライブを観に行ってたんですね。そのバンドのベースがウッド・ベースで、それを観たときに「ロックでアップライトを弾きたい」って考えがずっとあったんですよ。JESSEとあっくんと会ったときに、「ここでなら、ロックでアップライトが弾ける」って、自分の考えを初めて音に出来たんです。

アップライト自体は弾かれていたと思うんですけど、RIZEがロックとして初めてだったんですね。

TOKIE:はい、それから3年目にデビューになりましたけど、メジャー・デビューをしたのはRIZEが初めてですね。ちょうどその時期にAJICOもやっていましたし。

AJICOもこの時期だと、2000年は忙しかったんじゃないですか?

TOKIE:あのタイミングは殆ど記憶がないんですよ(笑)。メジャー・デビューが初めてだったり、いきなりメディア露出が始まったりして、演奏する時間よりもそれ以外の時間が増えていったんですね。すごく嬉しい反面、葛藤もしていましたね。

今でこそ、時間配分も含めてバランスを取られていると思うのですが、初めてだとなかなか難しいですよね。

TOKIE:そうですね、当時は上手にこなすことが出来なくて、煮詰まったときもありましたね。もちろん、演奏している間は何のストレスもなく打ちこめていましたけど。

レコーディング時はいかがでした?例えばリリースタイミングに準じて締め切りもありますし。

TOKIE:それについてはバンドでしたし、良い作品を作ることに集中していたので、特にストレスなく出来ていましたね。逆に、突き詰めたものを作るということは、アマチュアのときには出来なかったことなので、そこはすごく嬉しかったですね。

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