柳原陽一郎 インタビューvol.25

デビュー25周年にして、初のベストセレクション・アルバムの発表となった柳原陽一郎。公式発表された楽曲だけでも約150曲、作品化されていないものを含めると、実に250曲以上にのぼるという作品からのセレクトである。
往年のファンは勿論のこと、はじめての方にとっても”もっけの幸い”の時間が訪れるこの作品を是非手に取って、”柳原ワールド”を体感して欲しい。

—1990年にたまでデビュー、1995年に柳原幼一郎として作品をリリースし、双方の始まりのキリが良い分、どちらの各周年に合わせても周年になれますよね。柳原さんの中で、そういった”周年”という節目に対して、都度何かを感じていらっしゃったのでしょうか?

まず1990年が、自分の中でたまのデビューもあり、色んなことが変わった年でしたね。それまで、プロとして音楽をやっていこうという意識がなかったですから。

—プロになる為に音楽を始めたわけでもないと。

毎日が楽しければ良くて、その為には毎月ライブが出来ればいいやっていう中で、プロダクションと契約したり、メジャー・デビューがあったので。これまでと全く違う世界に行った1990年が”1”となって、25年経ちましたね。

—これまでの各周年で、記念的なことは行われてきたのでしょうか?

最初は、2000年に自分のレーベル(SWEETS DELI RECORDS)を作ろうと思ったのがそれに当たると思います。ちょうどたまを辞めて5年経って、自分で責任を持って音楽制作・音楽活動をする方が、気持ちが楽になるというのはありましたね。例えば「何枚プレスしていくら儲かる」という話から始めるんじゃなくて、「取り敢えず曲が出来たからリリースしよう」っていう、身軽な動きをするためには、自分のレーベルを持つのが1番でしたね。細かい話で言えば、その為の機材なども増えてきましたし。

—柳原さんの想いと、そういった音楽制作の環境が整ったタイミングが、一致したんですね。

ちょうどパソコンも普及してきていましたし、CDジャケットも簡単なデザインでしたら、作りやすい状況になってきましたよね。マスタリングも誰かに頼める環境になって、レコード会社と契約をしなくても、音源制作が出来たんです。

—今の活動原点とも言える環境が、このタイミングだったのは、確かに記念的ですね。

はい。そのあとは、デビュー15周年の2005年に、たま時代の楽曲をセルフカバーした「ふたたび」のリリース。デビュー20周年の2010年には、自分の生い立ちとこれまでの活動記録や、それまでにリリースした作品のセルフ・ライナーをまとめた本(Yanathology)を出して、5ヶ月間で全曲を演奏するライブを行いましたね。

—各節目での記念的な事柄があって、25周年にして初のベストセレクションとなります。今回収められた楽曲を聴くと、改めて多彩な楽曲群であることがわかります。少しルーツを辿らせていただきたいのですが、今回「さよなら人類」「あの娘は雨女」「満月小唄」が収録されましたが、柳原さんから見て、当時のたまはどうでしたか?

そうですね…1984年から11年間やったわけですけど、元々はシンガー・ソングライターの集まりだったんです。それまでは、それぞれギターを持って歌ってたんですけど、ひょんなことから「バンドごっこをやろう」ということになって。でも、3人でギターを弾くのもヘンな話だから、「君は太鼓の真似事をやってください。僕はカシオトーンを弾きます。あなたはギターが上手だからギターを弾いてください。」っていう役割分担をしたんです。そして、ビートルズのようにお互いの曲にコーラスを入れて…コーラスって言う程でもない”合いの手”ですけど(笑)。

—「ついたー」とかですね(笑)。

そうね。それからケラさんのナゴムレコードから、レコードを出させていただくことになりました。宝島やシティーロード(情報誌)のライブ欄に「面白いバンドがいる」って取り上げられたり、加藤賢崇さんとかのコラムにも取り上げていただいたりして、だんだんお客さんが入るようになったんです。そしたら、当時のスタッフが「TBSにライブのVHS送ったよ。ヤナちゃん出るよね。」って。「なんでそんなことするの?」ってなったんですけど、チラシを何枚も刷って撒くよりも、テレビに出ればライブにお客さんがいっぱい入るだろうということで出たのがイカ天で、それがデビューに繋がるんです。

—冒頭でも伺いましたが”楽しくやろう”の延長線上がここに繋がったんですね。

そういう意味では、メンバーによっては思惑は違うかもしれないので、必ずしもそうだとは言い切れないのですが、僕は気軽な感じでいたかったですね。とは言うものの、明るい歌を1つも歌っていないのに、目の前に女の子のお客さんがだんだん増えてきて、すごいなぁとは思いました(笑)。所謂シンガー・ソングライター的な曲は避けて、楽しいけど奇妙で面白い曲をやろうという、バンド内の共通認識もありましたね。

—近年の資料を拝見させていただくと、セットリストには組み込まれていますが、脱退されてからもたまの曲をずっと歌い続けてこられたんですか?

1995年から2000年くらいまでは、あまり歌わなかったですね。自分の中のキャリアでたまの時代が終わって、初めて”シンガー・ソングライター 柳原陽一郎”と、どう向き合ってどんな歌を歌えばいいんだろうと思ったときに、たまの曲がちょっと邪魔だったときもありましたね。たまの曲を歌ったら「じゃあ何で辞めたの?」っていう話にもなっちゃうのかなって。

—なるほど。「ドライブ・スルー・アメリカ」をたまでの活動最後の年にリリースされましたが、シンガー・ソングライターとして、柳原さんなりのコンセプトのようなものはあったのでしょうか?

ソロ・アルバムを出したいとは思っていたんですけど、たまの方がまだ忙しかったんです。それでも自分が面白がれることをやろうとしたときに、自分で曲や詞を書いてというよりは、自分の中の音楽的な喜びを体の中にもう一度蘇らせたいという想いと、所謂手練れのミュージシャンの方達と、自分の歌を戦わせてみたいというのがあって。じゃあ、昔から好きだったアメリカの歌をカバーしようと。ちょうど、たまのファンクラブの会報誌で「訳詞の小部屋」という自分のコーナーをやっていたのもあって、英語ではなく、日本語で歌ったんです。音楽の現場って、たましか知らなかったので、プロのミュージシャン、プロのレコーディングの現場をそこで勉強させてもらった感じですね。

—実際の現場では、これまでとどういった違いがあったのですか?

まず、ドラムの江川ゲンタさん、ギターの稲葉政裕さん、ベースが澤田浩史さんの仕事が早いんですよ(笑)。1度歌ったら、プロデューサーの萩原健太さんも譜面を書いてくれるから、すぐ曲の骨格ができあがるんです。僕は正直、そういうプロ・ミュージシャンって上手すぎて好きじゃなかったんですよ。どちらかというと、パンク・ロッカーみたいにへたくそだけど気合だけは負けないタイプのミュージシャンの方が好きで。で、実際に現場で見て「自分の好きな音楽の骨格は、こうなってたんだなぁ」って気づいて。そこでカーペンターズとかポップスを聴き始めた頃の喜びが蘇ってきて、宝の山にぶち当たった感じがありましたね。ただ、自分の中ではあれを作っておいて良かったんですけど、作り方・歌詞・僕の音楽への姿勢が、たまと180度違ったので、リスナーの方はすごく戸惑われたと思います。

—その180度の違いが、言葉を変えれば新しい音楽の表現方法として広がったとも言えますね。

いや、そのときはそんなことを考える余裕がなかったですね。音楽制作ではベーシックな手法なんでしょうけど、歌詞を作る以前にオケやリズムが決まってくるんです。たまでは、歌いながら一緒にジャンジャカやって作っていたので、その違いにかなりテンパってましたね。つまり、実力がないからなんですけど、歌がどんどん置いてけぼりになっちゃう感じなんです。よく、「あのときは苦しかったけど、今となっては良い経験」みたいな話ってありますよね?そういう話に落とし込みたくはないけど、今、音楽制作をしていく上で、良い経験と学びがありました。

—現在の基礎にもなったということですよね?

はい、やっぱり譜面はきれいに書かなきゃダメだなとかね(笑)。

—「ドライブ・スルー・アメリカ」での経験が、ソロでの制作に活かされていったのは大きいですね。

バンドだったら、その日にレコーディングが終わらなくてもスケジュール調整がし易いですけど、みんな売れっ子ミュージシャンでしたから、そうなると次のセッションが1ヶ月後とかになっちゃう。だから、“今日決めなきゃいけない”っていう緊張感と、その為の準備の重要さを学びました。

—「長いお別れ」で、その学びが活かされた?

正直に言えば暗中模索の状態で、歌った楽曲が自分に合っているかもわからないままソロ活動に踏み出したんです。ただ、「ドライブ・スルー〜」のときがあまりにもそつのない制作だったので、もうちょっと、弾き語りの上に演奏がのるフォーク・ロック的なユルい感じでと、プロデューサーの菅原弘明さんにお願いしました。

—漢字も幼一郎から陽一郎に変更されましたが、柳原さんとしてはこの作品からがソロとしての第1弾という気持ちの現れだったのでしょうか?

そうですね。“幼一郎”はたまのときの名前でしたし、そういう意味もあって「長いお別れ」というタイトルでもあったんです。振り返っても仕方ないし、世間に妙な感じで出たことさえも忘れて、自分の中で長く続いていく音楽をやりたいと思いました。

—例えるなら、“柳原陽一郎”であれば、脱退も解散もないわけですし。

そうですよね。地味な存在になっちゃいましたね(笑)。でも、自分の好きなシンガー・ソングライターのBob DylanにしろNeil Youngにしろ、1人で歌う人に憧れていたんでしょうね。自分のギターの弦は自分で張るように、自分で始末をつけるような生き方をしたかったんだと思います。

—今回、ライブトラック集の「RE-CORD’00」からは「まごころのうた」が収録されましたが、今回収録された中で一番古い音源ですね。

元々は、たまを辞めてすぐくらいに、CM音楽制作会社から、糸井さんが歌詞、曲が僕でやってくれないか?というお話があって。それはちゃんとレコーディングもしたんですけど、権利関係の問題でライブテイクを収録しました。

—ファンの間では幻のライブ盤トラック集だそうですが、最近のセットリストにも組み込まれているんでしょうか?

殆どやっていないですね。歌うのがイヤな歌ってわけではないですけど、CMの為に作ったというのが頭の中にあって(笑)。記念的なライブの時は歌おうとは思いますけど、普段から歌う曲ではないですね。

—敢えてアルバムの最後を締めくくる曲として選ばれたのも、その記念的な位置づけからだと?

折角、糸井さんが素敵な歌詞を書いてくれたし、収録しないと可哀想かなと思ったんですかね。糸井さんの歌詞がすごく好きなのもありますね。僭越ですけど、糸井さんの歌詞はいいですよね(笑)。

—25周年として、ファンの方へのプレゼント要素もあるでしょうし。

「RE-CORD’00」は廃盤になっているので、埋もれさせておくのは惜しいなという部分はありますね。

—「ウタノワ」からは「航海日誌」、今回のアルバムのダイジェスト映像にも使用された「ホーベン」。初セルフ・プロデュース作品でしたが、前作から変わってセルフでという意向は、どういった理由があったのでしょうか?

ぶっちゃけて言うと、それまで一緒にやったミュージシャンが巧すぎるんですよ(笑)。良い音なんですけど、もう少し“手触り感”が欲しいと思っていて。その頃から弾き語りライブも始めたりして、ライブのサポートをお願いする付き合いの延長でレコーディングもやりたいと思いました。まず、曲を作って弾き語りライブで歌い、次にバンドで演奏してみる。アレンジを試行錯誤してリハーサルを重ねて、またライブをする。そうやって出来た曲を収録したかったんです。そうすると、僕がプロデュースすることが必然になってきますし、今のやり方の基礎になったアルバムでもありますね。

—ソロではあるんですけど、組み立て方がバンドっぽいですよね。

そうですね。まずバンドの人と仲良くなって、同じ釜の飯は食わないですけど(笑)。その中で「ギター足りないんだけど、良いギタリスト知ってる?」というような、お仕事チックではない繋がり方をして。「ウタノワ」ってタイトルが表すように、ぼくの歌を中心にしてみんなで輪になって作りました。

—初のセルフ・プロデュースでもあり、これまでとは違う苦労もあったのでは?

自分の実力のせいで、レコーディングに時間が掛かりました。1ヶ月くらいスタジオに入ってたんじゃないかな。しかも、この時は6〜7畳くらいのスタジオだったので、メンバーが全員一緒に録音が出来ないんです。

—そこで出たアイディアを盛り込んでいったり?

そうです。今ではライブとスタジオでやっていることは、そんなに変わらないんですけど、この時は気張って作りこみました。でも、逆に凝りすぎちゃって“勢いを殺しすぎたなぁ”なんて部分も、今となってはあったり(笑)。もう少し大きいスタジオを使って、不完全でもいいから勢いのまま録音しても良かったと言える曲がありますね。

—それでも、冒頭でお話いただいた「ウタノワ」という表現を考えれば”完成”だとも思えるのですが?

まぁ、嬉しかったですよね。たまを辞めて5年目にして、ソロのフルオリジナル・アルバムを作れましたし。「ウタノワ」を作る前の2000年だったと思いますが、自分のキャリアで初めて、ライブ活動を半年弱くらいお休みしたんです。当時はリズム・トラックをサンプラーで作る人が増えてきて、自分もシーケンサーで音楽を作ることを勉強していました。ただ、目に見える実りがないというか、自分には合っていなかったんです。確かに曲は出来たし、完成度の高いデモは作ったんだけど「これは本業じゃないな」と思って、「ウタノワ」を人力で作り上げることになるんです。

—「ホーベン」がダイジェスト映像に使用されたのは、柳原さん自身、このアルバムが柳原さんの“今”を表しているからでしょうか?

「ホーベン」に“山暮らしもそろそろおしまい”という歌詞があるんですけど、自分がシーケンサーに向かって閉じこもっていた頃を茶化したんです。不完全な自分のままでいいから、人に会いに行こうっていう前向きな諦めもありましたし、今の自分の在り方にも繋がっているんですよね。

—そして、「ウタノワ」と対比するかのような「ONE TAKE OK !」がリリースされます。

そうなんですよ。ちょうど当時の事務所とも一緒に何かを作っていく関係ではなくなって、いよいよ1人になったんです。それから、色んな方とお話をすることになるんですが「やりましょう」って言って音沙汰なしとか、話がすごくショボかったりが何度か続いて、プロジェクトが先へ進まないことに腹が立って。だったら、自分のレーベルでアルバムを作ろうということで、ロックバンドのマチルダ ロドリゲスに「曲を作ったから一発録りのライブに協力して欲しい。」とお願いしました。

ー今回は、1曲目の「フリーダム・ライダー」が収録され、サウンドも然りですが、歌詞の描写がロックだと感じました。

本来は、ベスト・アルバムに入れるような曲ではないのかもしれないですけど、その頃に「私の魂を汚さないでください。」っていう人に、たくさん会ったので。だからこそ、そんな人たちの力を借りずとも、自分で作るという気持ちになったんです。そういう怒りの力って、音楽を作る上で原動力にはなりますよね。それを忘れないように初っ端に入れておきました(笑)。

ーライブ録音も手伝って、すごく伝わってきます(笑)。

誰も信じないとかじゃないですよ(笑)。最終的には、音楽で生きて行くと決めたからには、ステージで歌うのも自分しかいないわけなので、全部自分で責任を持つということです。

—制作までのストーリーとは裏腹に、ライブ録音で新曲をリリースというアイディアが面白いですよね。

究極の低予算でしたけど(笑)。その為に準備もしたし、一発録音に向いてる曲を作りましたし、良い修行だったと思います。

—冒頭でもお話いただきましたが、今回収録された「さよなら人類」「あの娘は雨女」「満月小唄」を含む「ふたたび」は、初のセルフ・カバーアルバムでしたが、たま時代の曲をカバーすることとなった経緯を教えていただけますか。

「ONE TAKE OK !」の録音を終えて、色んなジャズ系のミュージシャンと知り合うようになったんです。元々、ベースの水谷浩章とは高校の同級生だったり、たま時代から、梅津和時さんとかにお誘いいただいて、西荻窪のアケタの店などで歌わせてもらったりもしていて。その延長で付き合いが多くなって、次のアルバムはジャズの方と演ったらどうだろうと。ジャズ・ミュージシャンの方だと話が早いんですよ。例えば通常だと、楽曲の構成を変えることはNGですけど、毎回違いのある演奏をしても柔軟に受け入れてくれますからね。

—インプロの自由さがそこにあると。

そうですね。そして、想像を超えるアレンジが出てくるだろうなと。実は、ベスト盤の話もあったんですけど、最近の曲を集めても面白くないのと、ちょうどたまも解散をした時期だったので、僕なりのたまへのレクイエムということで「ふたたび」を制作しました。

—ロック全開のアルバム制作後、ジャズに惹かれた理由はどこにあったのでしょうか?

力を込めて歌うことに、何か違和感を感じていましたね。日本語って、もっとふくよかだし、ロックだけじゃなくて多様なリズムにも合うということを、そのときは説明出来なかったですけど、ジャズ・ミュージシャンとセッションすることで確認していたんでしょうね。やっぱり自分が生まれる前のジャズやシャッフルの曲は、自然と体に入ってくるんです。つまり、THE BEATLESの人たちが子供の頃に聴いていたような古い音楽ですね。そう考えると、ある意味必然だったし、それが分かって随分楽になりましたね。

—実際のアレンジ面では、オリジナルとの差異を意識されたのでしょうか?

いえ、「僕は歌うだけにしてくれ」って、水谷浩章に全てお任せしました。自分がやってしまうと、どうしてもたまを意識して真逆のアレンジにし過ぎたり、もしくは逆にしようとするんだけど、意識し過ぎて元のアレンジに似てしまうだろうから、殆ど口出しをしませんでした。

—なるほど。柳原さんがそのアレンジを初めて聴かれたときは、その“想像を超えるアレンジ”でした?

「豪勢にしやがるなぁ」と思いましたね(笑)。特に「さよなら人類」は相当、水谷も意識してたみたいです。後日談で「これをアレンジすることで、色んな意見が出てくるだろう」と、プレッシャーだったみたいですから。最近も歌っていて思うんですけど、この曲はやっぱりウケるし、たまたま僕が歌っていますけど、たまやお客さんのものでもあり、あまりにもみんなの歌になっちゃったから。

—まさしくポピュラー・ソングになったということですよね。

これは自分の中では、極端と極端の真ん中くらいの曲なんです。「フリーダム・ライダー」みたいに極端な歌の方が簡単で、真ん中の曲って実は難しいんです。そういう曲が自分の中から出てきて、売れてしまったことは予想外でしたし、そう思うと不思議なことだなぁとも思いますね。

—次のWarehouseとの共作である「LADIES AND GENTLEMEN!」は、それまでと全く違うアプローチでしたね。

「ふたたび」に参加してもらった高良久美子さんから「Warehouseというバンドをやっているので、歌い手として参加して欲しい」というお誘いを受けて、ライブにゲスト出演したんです。そこで、僕も欲深い人間なので(笑)、「せっかく演奏が巧くて、曲も書ける大人が集まっているんだから、オリジナル曲を作りましょう」と言いまして。じゃあどうしようかということになったときに、みなさん言いにくそうに「歌詞を書いていただけないでしょうか?」って話になり(笑)。実は歌詞が先というのが、初めての経験だったんですよ。それで確か6〜7曲書いてライブを演ったときに、リーダーの鬼怒さんが「これはCDにしましょう」と。

—“歌詞が先”というのが初とのことですが、これまでは曲が先だったんですか?

同時ですね。最初に家の近所のイトーヨーカドーのイートインで雑文を書いて、その中からフレーズを抜き出していくと、共通したテーマが見つかって、タイトルや曲が出来上がっていくんです。でもWarehouseの場合は、曲を想定せずに、歌詞として最初から作りましたね。イトーヨーカドーで雑文を書いて始めるところは変わらないですけど(笑)。

—(笑)。しかも、柳原さん自身が楽器を持たないで歌うことも初めてですよね?

歌い手に徹しました。レコーディングしていて思ったんですけど、やっぱり演奏が巧い人がいいなと久しぶりに思いましたね(笑)。

—「ドライブ・スルー・アメリカ」以来の(笑)。

そうだね。僕もそれに対抗するように、歌を1テイクで決めて。僕が参加した曲は3日間くらいで出来上がりましたね。

—それは早い!

ただ、リハーサルは1日10時間を3日間と、入念にしたからだと思いますし、鬼怒さんも基本的には1テイクで進めたいという思いがありましたしね。巧さと早さに、改めて「これからはジャズ・ミュージシャンだな」って思いました(笑)。

—それは「ウシはなんでも知っている」に繋がっていくお話ですね。

初めて自分のオリジナルアルバムでジャズ・ミュージシャンの方と演ってみようと思い、大きな希望を胸にレコーディングしました。

—アコースティックやカントリー等、ジャンルレスな広がりも見れます。

自分のアルバムで、たくさん好きなアルバムがありますが、自分の中では一番誇らしいアルバムですね。完成させるまで集中力を持続させるのが大変だったんですけど、ベーシックトラックも歌も殆ど1テイクで、それを自分で出来たことが誇らしくて、大好きなアルバムです。

—歌われている歌詞も、すごくストレートに胸を打つものが多いですよね。

特に「ブルースを捧ぐ」が出来たときは、自分が救われましたね。たまを辞めて、“路頭に迷う”と言っていいと思うんですけど、何から手をつけていいのかわからなくて。とは言うもののバンドは懲り懲りだという気持ちもあって。そういうところから始めて、やっと納得のいくものが出来たと思いましたし、自分の力で自分以上の力が出せた実感がありましたね。

—バンドであれば所謂“バンドマジック”が起こるように、柳原さん自身でそれを起こせたとも言えますよね。

2005年あたりから付き合ったミュージシャンと、バンドではないんだけどマジックは生まれたんだなぁと思いました。ソロのミュージシャンでも、丁寧にライブをし、やりたいことをお伝えし、苦労を厭わず話し合いをすれば、こういうところからマジックが生まれる。それが再確認できたし、自分のやっていることが間違っていなかったと証明できました。

—その「ブルースを捧ぐ」と「おろかな日々」が今回収録されましたが、外せない楽曲ですね。

「ブルースを捧ぐ」だけでも良いくらい、自分の想いは詰まっていますね。

—「DREAMER’S HIGH」からは、「BAD LOVE」「真珠採りの詩」「徘徊ロック#5」の収録ですが、前作からの心境の変化が見えるアルバムとも思えたのですが?

それは多分、「ウシはなんでも知っている」によって、ソロでドタバタしながらも素晴らしいミュージシャンと知り合えて、自分の得意技も再確認したことによって、1回やり終わった感じがしたんです。そういうところから、もう一度地味に続けるしかないとまた始めていったんですけど、今思うとかなり余裕がありましたね。

—それは柳原さんの心の余裕ということでしょうか?

そうですね。ちゃんとエネルギーを注入して、良いミュージシャンと演奏すれば良い物が作れることがわかったので、もうちょっと楽な気持ちでしたね。ただ前回の一発録りがすごく楽しかったので、大きめのスタジオで全員で録音しました。殆どスタジオライブですね。

—ダビング作業も殆どされなかったということですか?

はい。ベーシックは3テイクくらいやりましたけど、だいたい1テイク目が良くて、それを採用しています。「BAD LOVE」は自分の中で新機軸というか、アメリカのシンガー・ソングライターっぽい曲を敢えて書いてみたんです。それを一発録りですから、実は震えながら歌ってるんですよ(笑)。だから、これができたときは嬉しかった。さっき“誇らしい”という表現をしましたけど、この曲をピアノを弾きながら歌い切れたときは、録音した今までの経験の中で、一番嬉しかったですね。

—また、実体験の様であり、ストーリーの様でもある歌詞だという印象を受けたのですが、意識的にされていたのでしょうか?

うーん…全部が実際のことを歌っていませんけど、「DREAMER’S HIGH」の仮タイトルが「小さなお話」だったんです。3分半の曲をたくさん書こうと思っていまして。1970年代前半のシンガー・ソングライターの曲って、大体そのくらいの長さでしょ?「愛や恋や、寂しいってこういうことだよね」ってことを歌おうと思っていました。

—それは、柳原さんの心の中でのリアルでもありますよね?

それもあるけど、あまりにも個人的なことじゃなくて、「それもあるでしょ?」っていうね。「Goin’ Home」は当時、日比谷公園でホームレスの人が炊き出しに並んでいたり、家のない人がネットカフェで暮らす問題があったりして。「なんでこんなに寂しい人たちがたくさんいるんだろう」っていう気持ちから作った曲なんです。世の中を見渡したときに、そういう現実に対して、“何が歌えるか?”ということを思って作った記憶があります。昔のアメリカのフォークシンガーが歌うようなテーマですけど。

—確かにノスタルジーな印象を受けました。

そればっかりになるとマズイと思って、バカバカしい歌として今回も収録した「真珠採りの詩」を作ったのも良い思い出ですね(笑)。

—「うたのかたち」ではオルケスタ・リブレと柳原陽一郎とおおはた雄一として、妖しさ満点なアルバムですが、この制作の経緯は?

「DREAMER’S HIGH」リリース後にツアーをまわって、ツアーメンバー達と本当に良いバンドの形になってきたなぁと思ったとき、地震が起こったんです。七転八倒、恐怖に怯え、明日はどうなるかわからない中で、歌を書いていた日々でした。自分の人生で一番あたふたした出来事でしたね。そんななか、被災地への支援企画コンピレーションで「ほんとうにスキな人」を弾き語りで録音もしました。そういう時に「バカラックとブレヒトの曲をカバーするので、歌ってくれ」っていう話がきたんです。僕は地震があってナーヴァスな時期だったから、昔の素晴らしい作詞家、作曲家たちの作品を僕の歌でやりたいという依頼が、本当に気晴らしにもなって助かったんですよ。最初は「女性ヴォーカルの方がいいんじゃないの?」って話したんですけど、僕の歌で、できることなら訳詞もして欲しいと。それで「うたのかたち」ができたんです。そして2012年に「三文オペラ」を上演することになったから参加してくれってお話が来まして。「うたのかたち」に収録した「第二の三文フィナーレ」以外にも10数曲、「三文オペラ」には楽曲があるんですけど、「もしかして、全部訳すんですか?」って(笑)。しかも、女性を含めた3〜4人のヴォーカリストが必要なはずなのに、「やなちゃん、女性が歌う歌も全部歌って」となり、深川で上演して2012年が暮れました。

—そのナーヴァスな状態を忘れるように、「三文オペラ」を通して、音楽に没頭出来ていたんですね。

すごく救われましたね。

—元々、戯曲は聴いていたんですか?

全然、逆に避ける方でしたね。けれどもいわゆるスタンダードジャズやポピュラーソングではなくて、クラシックやラテンの要素さえあるクルト・ワイルの曲がすごく良くて。その曲を歌わせていただける喜びが、ものすごくありました。また、原曲を訳して歌うことが当時の僕には大きな救いになったんですけど、それは自分を掘り下げる作業ではなく、「どうしたら震災後の日本で、ブレヒト=ワイルの曲に説得力を持たせられるか」という作業だったからだと思うんです。それが本当に楽しかったんですよね。

—三文オペラ自体の言葉はネガティヴでも、柳原さん自身の心持ちは、逆にポジティヴだったんですね。

「金持ちは嘘つきだ」とか歌う気持ち良さね(笑)。そういった階級批判を飛び越えるくらい、素晴らしい楽曲でしたから。

—そして2013年8月「『ほんとうの話』」がリリースされ、そのアルバムから「もっけの幸い」には「再生ジンタ」「ほんとうにスキな人」が収録されました。震災・原発問題以降、現実を作品としてどう音・言葉で表現するかというのは、様々なミュージシャンが苦心されていたと思うのですが、柳原陽一郎というミュージシャンにとっては、どういう影響を与えたんでしょうか?

うーん・・・怒る人がいるかもしれませんが、“原発反対”や“放射能怖い”って、すぐ歌にはできますよね?僕がやりたいことはそうじゃないんです。「もっけの幸い」には収録しませんでしたが、「ホントのバラッド」という曲で歌っている通り、何が本当で真実かわからなくなってしまった。よく考えてみれば、「僕たちが探していた本当って人を幸福にするものなんだろうか?」っていう地点までとうとう来てしまったんです。例えば、「心の優しい人は傷つき死んでいく、そうじゃない人はノウノウと生き続けてる」というようなことを歌わなきゃいけないのかなって。原発や放射能の問題以上に、自分が歌うということに関して言えばそっちの方が問題でしたね。

—時代は違いますけど、ボブ・ディランがプロテストソングを歌えば済むような問題ではないところに来てしまったと。

「フリーダム・ライダー」じゃないけど、怒りの根本にある魂を汚す連中についてはわかった。ただ、この原発問題に関しての怒りはそういうことじゃないし、そこで怒っていても違うなと思ったんです。怒りを通り越して、今の日本人が持っているダメさ、愚かさへの絶望感や亡くなった方たちへの憐れみの気持ちがありました。その結果、人を喜ばせるアルバムじゃなくて、自分が今こう感じてるということを伝えるアルバムになりました。

ーサウンドメイク1つをとっても、自由なクリエイティビティですよね。楽曲が求めるままにシタールやタブラ、バラフォンでのアレンジがあったり。

そうですね。シタールの方はサラリーマンだし、タブラの方は今インドにいるんですけど、「三文オペラ」の時に知り合った人たちなんです。まさに曲が人を呼んでくれましたね。

—これまで作品を通してお話いただいたのですが、「もっけの幸い」と題したベストセレクションを出されてみて、改めて25周年をどのように振り返られましたか?

冒頭で「音楽性の幅が広い」とおっしゃっていただきましたけど、最終的にはどんな音楽にするかは、その時々に出あった人に任せてるだけですし、「こういう音楽をやりたいんだ」って今も全く思っていないんです。その都度、歌いたいことや言葉があって、それをずっと歌にして、いろんな人とセッションした結果、音楽性の幅が広がったんだと思います。

—その内容こそが「もっけの幸い」でもあるのでしょうか?

そうだね。夢は叶うとか、想えば叶うって確かにあるとは思うんですけど、変な話、桃太郎じゃないですけど、旅の途中でキジや猿と出会って、鬼が島に行って、鬼にボコボコにされて、また一人になって、というのが25年の真相だと思いますね。良い意味で適当だし、行き当たりばったりを必然に見せかけてるだけで(笑)、本当の意味で自由ですし。特に「もっけの幸い」を出してから、「実は昔から聴いていて、すごく好きなんです」ってことを言ってくれる若い人が現れてきてくれて。「そんならもっと早く言ってよ」って思いますけど(笑)。やっぱり時間も見方をしてくれているんだなと思いますね。

—きっと、もっけの幸いに終わりはないなと改めて思いました。

「良い音楽をやろう」とか、本当は思っているんです。でも、それを言っちゃダサいなと (笑)。出来るだけ間口を広げて、何も決めつけずに、上手な演奏家や楽しい演奏家と知り合いたいですし。どんな人とやっても、自分さえ軸がぶれなければ、大丈夫だなと。

—そうやって、これまで音楽を辞めずに続けてきた理由はなんだと思いますか?

正直言うと、ヒット曲とか音楽業界とかに、ある意味、背中を向けたから続けてこられたんだと思います。何より1回1回のライブを立派なものでなくても、100%の自分でなくても、かけがえのないものにしたいという思いがありますから。ダメな時はダメなものをやる自由も、やっぱり欲しいんです。金運や恋愛運には恵まれなかったけど(笑)、逆にミュージシャン運には恵まれました。バンドや家族のような共同体ではないけど、周りの人たちと音楽を通してやわらかくつながる関係でいられれば、この先も続けていけるでしょうね。それこそ、もっけの幸いです。


取材:2015.02.13
インタビュー・テキスト:Atsushi Tsuji(辻 敦志) @classic0330
photo:TAKAYUKI OKADA

アーティスト情報

WEB http://yananet.com/

Twitter https://twitter.com/SweetsDeli

Facebook https://www.facebook.com/yanagiharayoichiro

Youtube https://www.youtube.com/user/SWEETSDELIRECORDS