花田裕之 インタビューvol.27

ROCK’N’ROLL GYPSIES、band HANADA、そして弾き語りの流れと、3つの場所でそれぞれの音楽を奏でる花田裕之。THE ROOSTERSでデビュー後、常に自由奔放なロックを求めて、数々の作品と唯一無二のライブを示してきた。本インタビューでは、そのヒストリーを振り返りながら、花田裕之の魅力に迫ります。

—子供ながら音楽に癒されてた

—花田さんが最初に音楽に触れた頃のお話から伺えればと思いますが、記憶として残っているものはありますか?

最初に聴いてたのは、テレビに親戚のおばちゃんとかがキャーキャー言ってるのと、一緒に観てたのが始めだと思うから、そのときのGSやね。

—ザ・スパイダースとかですか?

そうそう。ジュリー(沢田研二)のザ・タイガース、ショーケン(萩原健一)のザ・テンプターズとかね。けっこうテレビに出てるバンドが最初で、絵(演奏)と一緒に聴いてた。まだ小さ過ぎてレコード買ったりしてないけどね。

—花田さん自身が「これを聴きたい」となっていくのは、小学校の後半くらいですか?

オレ、3つ上の姉貴がいて、小学校の終わり頃は姉貴が中学生で、ビートルズのレコードとか聴き始めとって。それでオレも一緒に聴いてたのが、ちょうどビートルズが解散した時期で、ポール(マッカートニー)のシングル(Another Day)とかジョージ(ハリスン)のシングル(My Sweet Lord)を買ったのがその時期。

—今の花田さんを想像すると、どちらかと言えばアメリカの音楽というイメージでしたが、当時はまだそういった、国毎で分けて聴くというより、身近な人からの影響で聴いていたんですね。

そう、まだ全然そういう聴き方じゃない。姉貴がビートルズ好きで、オレも気に入ったっていう。あとは、同級生の友だちの兄貴がバンドしよって。その兄貴は高校生やったんだけど、その友だちの家にはドラムもギターも練習できるようなところやったから、ストーンズとかのロックがかかってて。その人の影響もあるね。

—海外のロックに触れていくのがこの時期なんですね。そこはある種、溜まり場のような環境ですか?

そこはそうやったね。その兄貴がギター弾きながら歌ってたりしてたから、行くのが楽しかった。小学校4年の頃に親父が死んだりして、けっこう揺れてた時期でもあったから、音楽とその当時の自分が未だに思い出深いよね。

—なるほど。音楽やロックに、当時の花田さんが傾倒していく背景には、そういった心の描写がしやすかったとも言えますね。

うん。子供ながら音楽に癒されてたところはあるよね。ストーンズに限らず、ニール・ヤングも知ったのがその時期だったし。ロックファンの人だったから、グランド・ファンク(レイルロード)があれば聴いたりとか、何かに偏ってはいなかったね。

—そこでロックに対する下地が、花田さんの中に形成されていったんですね。

そうやね。その出会いで、ロックの人たちの思考に影響されたよね。ロックが好きなヤツは同級生に2人くらいしかいなかったし、ラジオの海外ベスト10みたいなのを聴いて話するくらいやったからね。

—傾倒していく中で、楽器に触れるのもやはりその溜まり場ですか?

そう、最初に触らせてもらったね。中学に入ってから、親と約束してアコギを買ってもらって。ロックって言いながら、当時流行っていた日本の音楽も聴いてたから。

—井上陽水さんとか?

フォークやね。泉谷(しげる)とか(吉田)拓郎とか同じように聴いてたよ。フォークの方が当時はやり易かったのもあるよね。

—それこそ、自分の部屋でコピーするみたいな?

中学3年までは、ずっと家で弾いてたよ。部活のバスケットボールをけっこう真面目にやってたんで(笑)、家帰ってからとにかく弾いてたね。

—“バンドを組む”とかよりも、まずは自分で弾いていくことが楽しかったんですか?

1人で弾きながら歌ったりする方が楽しかった。高校に入ってから、アコギを弾いててもエレキの音が出したくなって、エレキを買うんだけど、それまでは”バンド組みたい”っていう強い欲求はなかったよ。

—それこそ、人前に出て演奏することは、それまでなかったんですね。

高校入ってからやね。エレキとアンプ買って近所のヤツと弾いてたら、そいつが南(浩二)と同じ高校で、紹介してもらったね。

—南とバンドを演ったというよりも、一緒に遊んだっていう思い出の方が強い

—当時の北九州のロックシーンでは、楽器屋さんでの交流が多かったと伺っておりますが、花田さんもそういった繋がりがあったのでしょうか?

松田とか北九楽器ね。ルースターズ関係は、最初は北九楽器からだったしね。人間クラブもそうだったし。大江(慎也)がそこでバイトしてたから。でも、最初に組んだのは高校の同級生同士のバンドで、「LA59」か「LA56」っていうバンド名(笑)。アメリカン・ロックがその当時好きやったから。

—直球のバンド名ですね(笑)。当時だと文化祭で演奏されたり?

高校の最初はそんな感じ。外でライブするとかじゃなくて、文化祭でね。4人バンドでビートルズと同じ編成で。そのあとが南とかルースターズ方向に繫がっていくんやけど、それまでは自分たちでやってるだけだったから、広がっていくのはそれからやね。

—そう考えると、南さんとの出会いは大きいですね。

そうやね。そういう意味じゃ、音楽やるヤツで知り合った中では大きいよね。

—実際にバンドをTHE CRAMPとして組むにあたり、何に突き動かされたのでしょうか?

南は目立つとか、”人に魅せる”ということを自分から考えて、服装やルックスに気を配ってるのが、アイツが初めてだった。それまでは、ただ音楽が好きでどんな服装でもいいから、文化祭で演ってただけやからね。で、オレ高校を留年して(笑)。THE CRAMPは南とバンドを演ったというよりも、一緒に遊んだっていう思い出の方が強いね。そのバンドで東川(元則)とか井上(富雄)と知り合って。井上はその前の自慰獣から南と演ってたし。そういう変わった連中と知り合ったのが面白かったし、その連中は真剣に音楽のことを考えてたから、当時のオレには大人に見えとったと思うよ。

—人間クラブになっても、そのバンドを組むにあたっての想いは変わらなかったんですか?

やり方が面白いっていうのがまずあって。人間クラブから、徐々に音楽が自分の中でリアルになっていくタイミングというか…..それまではレコードの中だったり、自分にとっては遠い世界に思えていたのが、実際に自分がその渦中にいるような感覚やったね。

—人間クラブとして出場したL-Motinでは、グランプリを獲得されましたし、当時として”グランプリを獲ったらメジャー”という流れもあったと思いますが?

人間クラブは排他的というか、上昇志向がなかったバンドだから行かなかったね。夏にL-Motinに出てグランプリ獲ったけど、そのあとのライブのブッキングとか入れなかったし。それよりも解散したけど、一緒に飲みに行ったり(笑)、遊んどる方が楽しかったしね。

—解散というよりは、自然消滅の方が近い気がしますね。

そうやね。当時のメンバー間も、あんまりいい感じじゃなかったしね。それでも、南とは連絡取ってたし、会えばやっぱり楽しいから同じバンドじゃなくてもというのはあったよね。

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