ROCK’N’ROLL GYPSIES、band HANADA、そして弾き語りの流れと、3つの場所でそれぞれの音楽を奏でる花田裕之。THE ROOSTERSでデビュー後、常に自由奔放なロックを求めて、数々の作品と唯一無二のライブを示してきた。本インタビューでは、そのヒストリーを振り返りながら、花田裕之の魅力に迫ります。
—子供ながら音楽に癒されてた
—花田さんが最初に音楽に触れた頃のお話から伺えればと思いますが、記憶として残っているものはありますか?
最初に聴いてたのは、テレビに親戚のおばちゃんとかがキャーキャー言ってるのと、一緒に観てたのが始めだと思うから、そのときのGSやね。
—ザ・スパイダースとかですか?
そうそう。ジュリー(沢田研二)のザ・タイガース、ショーケン(萩原健一)のザ・テンプターズとかね。けっこうテレビに出てるバンドが最初で、絵(演奏)と一緒に聴いてた。まだ小さ過ぎてレコード買ったりしてないけどね。
—花田さん自身が「これを聴きたい」となっていくのは、小学校の後半くらいですか?
オレ、3つ上の姉貴がいて、小学校の終わり頃は姉貴が中学生で、ビートルズのレコードとか聴き始めとって。それでオレも一緒に聴いてたのが、ちょうどビートルズが解散した時期で、ポール(マッカートニー)のシングル(Another Day)とかジョージ(ハリスン)のシングル(My Sweet Lord)を買ったのがその時期。
—今の花田さんを想像すると、どちらかと言えばアメリカの音楽というイメージでしたが、当時はまだそういった、国毎で分けて聴くというより、身近な人からの影響で聴いていたんですね。
そう、まだ全然そういう聴き方じゃない。姉貴がビートルズ好きで、オレも気に入ったっていう。あとは、同級生の友だちの兄貴がバンドしよって。その兄貴は高校生やったんだけど、その友だちの家にはドラムもギターも練習できるようなところやったから、ストーンズとかのロックがかかってて。その人の影響もあるね。
—海外のロックに触れていくのがこの時期なんですね。そこはある種、溜まり場のような環境ですか?
そこはそうやったね。その兄貴がギター弾きながら歌ってたりしてたから、行くのが楽しかった。小学校4年の頃に親父が死んだりして、けっこう揺れてた時期でもあったから、音楽とその当時の自分が未だに思い出深いよね。
—なるほど。音楽やロックに、当時の花田さんが傾倒していく背景には、そういった心の描写がしやすかったとも言えますね。
うん。子供ながら音楽に癒されてたところはあるよね。ストーンズに限らず、ニール・ヤングも知ったのがその時期だったし。ロックファンの人だったから、グランド・ファンク(レイルロード)があれば聴いたりとか、何かに偏ってはいなかったね。
—そこでロックに対する下地が、花田さんの中に形成されていったんですね。
そうやね。その出会いで、ロックの人たちの思考に影響されたよね。ロックが好きなヤツは同級生に2人くらいしかいなかったし、ラジオの海外ベスト10みたいなのを聴いて話するくらいやったからね。
—傾倒していく中で、楽器に触れるのもやはりその溜まり場ですか?
そう、最初に触らせてもらったね。中学に入ってから、親と約束してアコギを買ってもらって。ロックって言いながら、当時流行っていた日本の音楽も聴いてたから。
—井上陽水さんとか?
フォークやね。泉谷(しげる)とか(吉田)拓郎とか同じように聴いてたよ。フォークの方が当時はやり易かったのもあるよね。
—それこそ、自分の部屋でコピーするみたいな?
中学3年までは、ずっと家で弾いてたよ。部活のバスケットボールをけっこう真面目にやってたんで(笑)、家帰ってからとにかく弾いてたね。
—“バンドを組む”とかよりも、まずは自分で弾いていくことが楽しかったんですか?
1人で弾きながら歌ったりする方が楽しかった。高校に入ってから、アコギを弾いててもエレキの音が出したくなって、エレキを買うんだけど、それまでは”バンド組みたい”っていう強い欲求はなかったよ。
—それこそ、人前に出て演奏することは、それまでなかったんですね。
高校入ってからやね。エレキとアンプ買って近所のヤツと弾いてたら、そいつが南(浩二)と同じ高校で、紹介してもらったね。
—南とバンドを演ったというよりも、一緒に遊んだっていう思い出の方が強い
—当時の北九州のロックシーンでは、楽器屋さんでの交流が多かったと伺っておりますが、花田さんもそういった繋がりがあったのでしょうか?
松田とか北九楽器ね。ルースターズ関係は、最初は北九楽器からだったしね。人間クラブもそうだったし。大江(慎也)がそこでバイトしてたから。でも、最初に組んだのは高校の同級生同士のバンドで、「LA59」か「LA56」っていうバンド名(笑)。アメリカン・ロックがその当時好きやったから。
—直球のバンド名ですね(笑)。当時だと文化祭で演奏されたり?
高校の最初はそんな感じ。外でライブするとかじゃなくて、文化祭でね。4人バンドでビートルズと同じ編成で。そのあとが南とかルースターズ方向に繫がっていくんやけど、それまでは自分たちでやってるだけだったから、広がっていくのはそれからやね。
—そう考えると、南さんとの出会いは大きいですね。
そうやね。そういう意味じゃ、音楽やるヤツで知り合った中では大きいよね。
—実際にバンドをTHE CRAMPとして組むにあたり、何に突き動かされたのでしょうか?
南は目立つとか、”人に魅せる”ということを自分から考えて、服装やルックスに気を配ってるのが、アイツが初めてだった。それまでは、ただ音楽が好きでどんな服装でもいいから、文化祭で演ってただけやからね。で、オレ高校を留年して(笑)。THE CRAMPは南とバンドを演ったというよりも、一緒に遊んだっていう思い出の方が強いね。そのバンドで東川(元則)とか井上(富雄)と知り合って。井上はその前の自慰獣から南と演ってたし。そういう変わった連中と知り合ったのが面白かったし、その連中は真剣に音楽のことを考えてたから、当時のオレには大人に見えとったと思うよ。
—人間クラブになっても、そのバンドを組むにあたっての想いは変わらなかったんですか?
やり方が面白いっていうのがまずあって。人間クラブから、徐々に音楽が自分の中でリアルになっていくタイミングというか…..それまではレコードの中だったり、自分にとっては遠い世界に思えていたのが、実際に自分がその渦中にいるような感覚やったね。
—人間クラブとして出場したL-Motinでは、グランプリを獲得されましたし、当時として”グランプリを獲ったらメジャー”という流れもあったと思いますが?
人間クラブは排他的というか、上昇志向がなかったバンドだから行かなかったね。夏にL-Motinに出てグランプリ獲ったけど、そのあとのライブのブッキングとか入れなかったし。それよりも解散したけど、一緒に飲みに行ったり(笑)、遊んどる方が楽しかったしね。
—解散というよりは、自然消滅の方が近い気がしますね。
そうやね。当時のメンバー間も、あんまりいい感じじゃなかったしね。それでも、南とは連絡取ってたし、会えばやっぱり楽しいから同じバンドじゃなくてもというのはあったよね。
—ストーンズの初期のアルバムを買って「ここに気持ちを合わせよう」って
—ただ、今のお話と相反するのですが、後のザ・ルースターズでは南さん以外の人間クラブのメンバーとなりましたが?
結果的にね(笑)。大江から電話があって、やろうっちゅう話になって。他のメンバーは色々あって、ベース井上、ドラム池畑にしようということで、家に行って話したりしてルースターズになった。そこに南はいなかったけど、よく電話掛かってきて飲みに行ってたし(笑)、同級生やしね。
—大江さんも年齢的には先輩になりますしね。
やっぱ、気安さで言ったらね。南の方が付き合いやすいよね。
—人間クラブを経てザ・ルースターズとなったとき、バンドの中で方向性だったり、バンドの基盤となるようなことは決められていたのでしょうか?
最初はみんな、ストーンズの初期のアルバムを買って「ここに気持ちを合わせよう」って毎日練習してたね。オレ、学校終わってスタジオ行ってたし、池畑くんは仕事してたから、仕事終わって夕方からね。
—毎日って、口でいうのは簡単ですけど中々入れないですよね。
そうやね。ブルース進行で、年齢的にパンクがリアルタイムやったからそれもありつつ、最初はそうやって固めていった。そうこうする内に、大江が「ミュージック・ステディ」っていう雑誌のオーディションにテープを送るってなって。みんなで録って送ったら、本選みたいなのが東京であるから来いって言われて行ったのが、原宿ラフォーレの1番上のホールで。選ばれた10バンドくらいいて、それにルースターズも出たのが東京の最初やね。
—結成してからここまで、かなり早い活動展開ですね。
うん、事務所とかレコード会社の関係者が「スター誕生!」みたいに最後に手を挙げるやつで(笑)。それで何人か手が挙がって、北九州に帰ってやり取りしながら、コロンビアからデビューが決まったんやけど、それがなかったら多分上京してないね。他のメンバーはわかんないけど、敢えて東京に出ようとは思わなかったね。
—花田さん自身としては、ギターを弾けることが何よりもプライオリティが高かったということですか?
音楽で金稼ごうとか、そういうのはなかったね。未だにギターを弾けることの方が大きいし、それが1番だから。
—デビューするということに、そこまで喜びはなかった?
もちろん、当時はデビューが決まったことは嬉しかったけどね。でも、当然やろうっていう気持ちもあったし、そもそも苦節があってデビューしたわけじゃないしね。
—下積みを経てっていうような。
そういう意味じゃ、最初の東京での生活が下積みかもしれんけど。客も来なかったしね。
—ルースターズの場合は、結成時の毎日のスタジオが下積みに価するかもしれませんね。
そうやね。デビューしてからはライブもたくさん演っとったし、リリースも年に2枚とかやしね。
—加えてプロモーション活動や、レコーディング等、毎日が目まぐるしかったのでは?
毎日あるから、辛いとかきつかったっていう思い出はないけどね。例えば、ツアー中に作曲したりとか真面目なことはしてなくて、ライブ終わったら飲んで暴れてみたいな(笑)。当時は、オレは作曲してなくて、全部大江やったからね。そういう意味じゃ大江も辛かったと思うよ。バカで子供やったから、オレはそういうのに気づかなかったし。今から考えると「大江、苦しかったやろうな」って思うけど。
—若さもだと思いますが、そもそも活動自体が忙しいことで、日々に忙殺されていたのは、花田さん以外のメンバーも含めてだったのではないでしょうか?
もうね、自分の発散に気持ちがいってたし、そっちで精一杯やったね。でも、今思い出したらたまに荒れたり、文句言い合ったりもしてたけどね。
—名前を守っていくことに虚しさを感じて
—そういった中で、バンドとしては早いタイミングで、メンバー・チェンジなどの変化がありました。
来たね。池畑くんが辞めたり、井上が辞めたのは気持ちの中でも大きかったけど、まぁ、オレはルースターズやりたいしなっていうのがまずあったから。安藤が入って来たり、下山が入って来たりでオレなりの楽しみがあったしね。
—その楽しみをルースターズとして続ける中で、フロントマンである大江さんに変わり、花田さんがヴォーカルを兼務するという変化もありました。気持ちの面では、池畑さん・井上さんのときのように、大きな出来事ではあったと思いますが、それに加え花田さんのパートが増えるということについては、どういった心境だったのでしょうか?
ある意味、破れかぶれやね(笑)。それでもルースターズを辞めたくなかったんやね。大江でやるライブも入ってたのをキャンセルしたくなかったし。当時のプロデューサーと話したときは「大江が帰ってくるかもしれん」ということでやってたんだけど、それがなさそうという感じになって。それで、「NEON BOY」からレコード会社はそのままで、事務所を今FUJI ROCKをやってるスマッシュに変えて。そっからは、自分が思うロックをやろうと思ったね。
—これまでのルースターズに拘らず、これからのルースターズを見て舵を切ったタイミングですね。
でも後半はキツかったね(笑)。やっぱ歌うって簡単やないなっていうのもあったし、危機を何度も乗り越えて来たけど、それが終わるとポッカリしたというか…..もう名前を守っていくことに虚しさを感じて解散したんやけどね。取り敢えず、「オレはオレでやったよ」っていうのを周りに対して見せれたのが大きかったから、もう続きはしないっていうね。
—ルースターズを守り切ってきたと同時に、その危機を乗り越えてきたからこその解散という選択肢だったわけですね。その解散後の活動にあたり、もう1度新たにバンドとはならず、ソロとしての活動を選ばれたのは、この経験が影響しているのでしょうか?
もうね、バンドに疲れたのはあったよね。自分が好きなことをやろうっていうのがあって。それで「Riff Rough」は布袋(寅泰)くんとこでやって。当時、BOØWYは知ってたけど、布袋くんを特別知らなかったんだよね。だけど、ルースターズ関連のところについては「もう、いいっか」っていうのはあって、そうじゃないところに1人で行きたかったから。それが第1条件みたいなところが、自分の中にあったよね。
—面白い方向にいかないと解散した意味がない
—それが布袋さんの存在であって、「Riff Rough」のプロデューサーとして迎えられたんですね。
その時の自分に合ったしね。布袋くんは「やらしてよ」って感じだったから、「やって、やって」って(笑)。それで面白かったら、オレも願ったり叶ったりだったしね。バンドってどうしてもブレーンが固まってくるから、そうじゃない方向に行かないと、解散した意味もない。最初がそういう風にやれたのが良かったよね。
—ソロ活動として、作品においてはプロデューサーを立て、そのライブでは布袋さんや松井常松さん、そして池畑さんと驚くようなラインナップでのメンバー構成でしたね。
そう?バンドの人選とかについてはお任せで、オレは何も言わなかったからね。そのとき、オレと池畑くんの関係も、ルースターズのときの関係というより、池畑くんもZERO SPECTERとかやった後だし、いちドラマーとしてだったし。
—なるほど。基本的には、花田さんがイニシアチブを取らないことで、逆に新しい取り組みから生まれる面白さを見出されていたんですね。続く「MY LIFE」では、ピーター・グリーンのバンド・メンバーとの制作で、ロンドンで録音されていましたが、やはりそういったことを求めてだったのでしょうか?
あれは、ロンドン在住のベーシストで、クマ(原田)さんにプロデューサーを頼んでやったね。クマさんブレーンでやってみるのも、やっぱり面白いと思ったのがあるよね。時代はバブルでさ(笑)、アルバム制作費もけっこうあったしね。海外(ロンドン)でやれたし、逆にその方が安いって感じだったよ。
—そうだったんですね(笑)。その2作の経て「ALL OR NOTHIN’」では、初のセルフ・プロデュースとなりましたが、この作品は後のソロの方向性を決めるかのような作品であったと思うのですが?
そうやね、これで初めてアメリカに行ったから。サンフランシスコのスタジオでミックスダウンとかしたんだけど、周りのスタッフにアメリカ志向の人が少なくてさ(笑)。ロンドンとかの人が多いけど、逆にオレは惹かれてたからね。ロスで撮影もしたし、確かに自分の中でハマった感じはあったよ。
—実際に作品を聴くと、前2作からよりシンプルな方向性をみせていて、花田さんの匂いみたいなものが、前面に出ているような感じがしますね。
そのあと「OPEN YOUR EYES」だけど(笑)。やっぱ、その辺まで作る曲自体は、そんなに変わらなかったけど、作る度に面白いことをやらなきゃいけんと考えてたから。
—そうやって作品を制作していく毎に、楽曲自体やアプローチ方法、全ての要素が血肉となっていかれると思いますが、「Rock’n Roll Gypsies」で見せた世界では、”花田裕之”としての確立が成されたアルバムと位置づけられますね。
KYONとかと作った「SONG FOR YOU」もそういう感じがあったよ。マイアミのスタジオに行ったりして。さっき言った、自分が作る曲はそんなに変わってないけど、曲なんてアレンジやと思ってるから、毎回好きなことしかやってないなと。
—自由であることが、花田さんの音楽を構成する上で重要なんでしょうね。言い方を変えると飽きやすかったりもするのかもしれませんが。
自分でも怖いくらい、急に興味がなくなったりすることあるよね(笑)。流石にギターに飽きることはないけど。
—そのギターとハーモニカ、椎野さんのドラムというシンプルな構成で制作された「NOTHIN’ON」は、花田さんのキャリアの中でも、ある意味すごくパーソナルな作品でしたし、現在の花田さんを決定付けた位置にあるものと感じました。
あれは、たまに1人でスタジオ入って録ってたやつをまとめて出しただけなんやけど、自分の中の思考はシンプルやった。ああいう何もない世界は、ある意味憧れやし。
—それこそ、フラットな花田さんの世界ということですか?
そうやね。それまで、自分なりに考えてやってきたからいいんだけど、外のことを考えず、フラットな自分で録っていったから、すっきりした感じはあったよ。
—本能的に自分でバランス取ってる
—その後にROCK’N’ROLL GYPSIESの結成となりますが、これまでの流れでいうと、ある意味突発的な出来事でしたね。
最初、九州のイベントに出てくれって話があって。地元だからさ、ルースターズのメンバーがいると嬉しいだろしっていう雰囲気と、そういうオファーで。
—それまで、ある意味敬遠してきたバンド、ルースターズ関連という部分をROCK’N’ROLL GYPSIESで覆すことにもなりましたね。
まぁ、ルースターズについてはそのときも変わってないけど、自分が出す音に関しては、元ルースターズのメンツとのやり方がわかってきたというか。こうやれば、一緒に楽しめるっていうのが、そのイベントに出たときに感じて。元々、そういう予感はあったけど、やっぱ良かったね。
—再結成なわけでもないですし、良くある懐かしさを求めてということでもなく、飽くまで花田さんが拘る、面白さがあったんですね。
あぁ、そうやね。これじゃなくてもよく会ってるから、懐かしいはないね(笑)。バンドでやりたいって言ったら、みんないいよって感じだったし。元々バンドに敬遠してソロになって、またバンドを組むのは意外だけど、心の底では分かってたところもあるよね。まぁ嬉しかったから。
—さらに並行して、柴山さんとの菊花賞、ソロ、そしてルースターズの解散ライブと一気に重なって行きました。
うん、まぁ自分がやってきたことなんで、別に辛いとかはないけどバランスはあるよ。量的に(笑)。偏ったりする方が辛いね。だから、本能的に自分でバランス取ってるし、キツイことはしない。無理するのはちょっとくらいで、ずっとやれる範囲をしてきとるね。
—その中でも、FUJI ROCKで行われたルースターズの解散ライブは、花田さんの気持ちがやはり大きく変わった出来事だったのでしょうか?
ああいうのは、やっぱくるものがあったね(笑)。オレもそうだし、他のメンバーもそうだと思うけど、やったことでけっこうさっぱりして。
—それこそ、突発的に現在もルースターズのライブがありますが、当時は再結成ではなく解散の為にやれたということが、その気持ちになれたんでしょうね。
そうやね。ただ、ルースターズに関してはオレがいつでもOKって感じじゃないから。
—先ほどのバランスがそれを指しているのでしょうし、現在の花田さんのメインはルースターズではないですしね。
そう。自分の状態もあるし、オレに取ってはROCK’N’ROLL GYPSIESとか流れが、日々でやっているメインやからね。
—「NOWADAYS」では、「NOTHIN’ON」からの流れもあり、現在のband HANADAとして提示することができたアルバムですね。
あのタイミングでも、3人でかなりやってたからね。今の感じに落ち着き始めたし、やりやすいからね。
—「NASTY WIND」もそうですけど、飾ることもなければフラットなままの花田さんで、スタジオアルバムではあるものの、普段のライブに近い世界ですよね。
それが楽なんよ。あちこちライブで周って、曲が出来たら録ってるから。今もそういう流れだし、これからも続いていくだろうね。
—自分の世界での楽しみ
—各地でのライブに加え、流れでは場所を問わず街の飲み屋さんでも演奏されていますが、これは敢えて選んでいらっしゃるのですか?
敢えて場所に拘りたくないちゅうか。弾き語りで飲み屋みたいなとこでやる方がね。逆に照明があってステージがあるような、ライブハウスで弾き語りをやりたくないから。やっぱ、好きな曲とか自分が影響を受けた曲を歌いたくなるから。そういうときに、ちゃんとした場所でやるのは気分的に違う気がする。
—敷居が高いような感覚ですか?むしろ、昔でいうBLUE NOTEのような、飲み食いしながら聴いてくれればそれでいい?
あんまりガヤガヤしてるのは大変やけど(笑)、バンドだけのときは出来なかったし、1人でやってるから気楽やしね。
—当日の選曲もその場所によって変えられたりされますか?
微妙に違う(笑)。場所もそうだし、そのときの気分もね。バンドでやるときは、セットリスト書いてPAの人に出すけど、そういうのいらないからね。
—通常のライブでは、オーディエンス側の熱気だったり声援が、演奏面でのパワーになったりして、同じ空間にいる全ての人と作り上げることがあると思うのですが、流れの場合はそういた要素や世界はあるのでしょうか?
いやぁ、自分の世界での楽しみやね。自分の歌いたい曲をカバーも含めて演奏してるから、外向きじゃない。
—逆に我々お客さん側が、花田さんの世界を覗かせてもらっている感じですね。
カラオケちゅうか(笑)、そういう世界やから、聴いてるお客さんで「多分、この曲知らないだろうな」っていうのをやるわけだから、すいませんって感じ。
—だとしても、この流れの等身大での花田さんがあるからこそ、ROCK’N’ROLL GYPSIES もbnad HANADAも続けられるのではないでしょうか?
そうやね、カミングアウト出来てるからね(笑)。その分、エレキでやるバンドの楽しさも大きいけどね。だからどっちかには決められないし、どっちともないとやっていけない。
—今後もこのそれぞれのスタイルを続けていくことになりそうですか?
基本的には、この感じでいくと思うよね。
—これだけの活動場所がある中で、新曲への声も多いと思います。加えて、サポートやセッションなどもされていますし、そこでの触発や日々のライブ活動の中で、楽曲が溜まっていらっしゃるのでは?
そうだといいんだけど、曲作るときは篭ってないと作れないタイプで。旅が多いし、そういう生活だから逆になかなか出来ない。篭ったら作れるっていうのが気持ちとしてあるけど、旅の楽しさがあるから出来んな(笑)。
—(笑)。それは昔から変わっていらっしゃらないんですか?
そう。昔は、ライブの回数なんて少なかったからさ。ある意味暇で(笑)、その期間で篭れてたから作れてたけど、今は出っ放しだから。どっかで曲作りのときに割り切らないといけない。
—曲を作ると言っても、自分自身が認められる曲を作るということは、旅先で出来るミュージシャンの方もいれば、花田さんのようにそのことだけに集中して出来る方もいて、全ては良い作品を作り出したいが故にですしね。
カッコつけるじゃないけど、変に”良いもの作りたい”っていう邪念みたいなものもあって。今の生活を認めた上で、曲を作る気分になってないのはイヤだけどね。そう考えると、レコード会社と契約してた頃みたいに、期限があるというのは、あれはあれで良かったのかもしれんしね。
—続けていくこと
—ただ、急にそのプレッシャーを自分に掛けられないですしね。その分、私たちはライブを通して今の花田さんに触れることが出来ますし、花田さん自身も好きなことを続けてこられた中で、今年55歳を迎えられるのはすごいことだと思います。
55ね(笑)。よく生きてきたなって。40代になるときもそう思ったけど、信じられないね。
ー昨日も出演された鮎川誠 Presents 『シーナの日』#1 ~シーナに捧げるロックンロールの夜~では、花田さんの更に一回り上の鮎川さんを間近で見られて、まだまだって思われたりしないですか?
いやぁ、昨日会って逆に若返ってないかって思うくらい、やっぱすごいなと思うよ。まあ、オレなりに色々やってきて、今の環境が今後も続けていきたい感じになってるから、それから大きく外れることはないと思う。だから、今を続けていくことが出来たらいい。