花田裕之 インタビューvol.27

—ストーンズの初期のアルバムを買って「ここに気持ちを合わせよう」って

—ただ、今のお話と相反するのですが、後のザ・ルースターズでは南さん以外の人間クラブのメンバーとなりましたが?

結果的にね(笑)。大江から電話があって、やろうっちゅう話になって。他のメンバーは色々あって、ベース井上、ドラム池畑にしようということで、家に行って話したりしてルースターズになった。そこに南はいなかったけど、よく電話掛かってきて飲みに行ってたし(笑)、同級生やしね。

—大江さんも年齢的には先輩になりますしね。

やっぱ、気安さで言ったらね。南の方が付き合いやすいよね。

—人間クラブを経てザ・ルースターズとなったとき、バンドの中で方向性だったり、バンドの基盤となるようなことは決められていたのでしょうか?

最初はみんな、ストーンズの初期のアルバムを買って「ここに気持ちを合わせよう」って毎日練習してたね。オレ、学校終わってスタジオ行ってたし、池畑くんは仕事してたから、仕事終わって夕方からね。

—毎日って、口でいうのは簡単ですけど中々入れないですよね。

そうやね。ブルース進行で、年齢的にパンクがリアルタイムやったからそれもありつつ、最初はそうやって固めていった。そうこうする内に、大江が「ミュージック・ステディ」っていう雑誌のオーディションにテープを送るってなって。みんなで録って送ったら、本選みたいなのが東京であるから来いって言われて行ったのが、原宿ラフォーレの1番上のホールで。選ばれた10バンドくらいいて、それにルースターズも出たのが東京の最初やね。

—結成してからここまで、かなり早い活動展開ですね。

うん、事務所とかレコード会社の関係者が「スター誕生!」みたいに最後に手を挙げるやつで(笑)。それで何人か手が挙がって、北九州に帰ってやり取りしながら、コロンビアからデビューが決まったんやけど、それがなかったら多分上京してないね。他のメンバーはわかんないけど、敢えて東京に出ようとは思わなかったね。

—花田さん自身としては、ギターを弾けることが何よりもプライオリティが高かったということですか?

音楽で金稼ごうとか、そういうのはなかったね。未だにギターを弾けることの方が大きいし、それが1番だから。

—デビューするということに、そこまで喜びはなかった?

もちろん、当時はデビューが決まったことは嬉しかったけどね。でも、当然やろうっていう気持ちもあったし、そもそも苦節があってデビューしたわけじゃないしね。

—下積みを経てっていうような。

そういう意味じゃ、最初の東京での生活が下積みかもしれんけど。客も来なかったしね。

—ルースターズの場合は、結成時の毎日のスタジオが下積みに価するかもしれませんね。

そうやね。デビューしてからはライブもたくさん演っとったし、リリースも年に2枚とかやしね。

—加えてプロモーション活動や、レコーディング等、毎日が目まぐるしかったのでは?

毎日あるから、辛いとかきつかったっていう思い出はないけどね。例えば、ツアー中に作曲したりとか真面目なことはしてなくて、ライブ終わったら飲んで暴れてみたいな(笑)。当時は、オレは作曲してなくて、全部大江やったからね。そういう意味じゃ大江も辛かったと思うよ。バカで子供やったから、オレはそういうのに気づかなかったし。今から考えると「大江、苦しかったやろうな」って思うけど。

—若さもだと思いますが、そもそも活動自体が忙しいことで、日々に忙殺されていたのは、花田さん以外のメンバーも含めてだったのではないでしょうか?

もうね、自分の発散に気持ちがいってたし、そっちで精一杯やったね。でも、今思い出したらたまに荒れたり、文句言い合ったりもしてたけどね。

—名前を守っていくことに虚しさを感じて

—そういった中で、バンドとしては早いタイミングで、メンバー・チェンジなどの変化がありました。

来たね。池畑くんが辞めたり、井上が辞めたのは気持ちの中でも大きかったけど、まぁ、オレはルースターズやりたいしなっていうのがまずあったから。安藤が入って来たり、下山が入って来たりでオレなりの楽しみがあったしね。

—その楽しみをルースターズとして続ける中で、フロントマンである大江さんに変わり、花田さんがヴォーカルを兼務するという変化もありました。気持ちの面では、池畑さん・井上さんのときのように、大きな出来事ではあったと思いますが、それに加え花田さんのパートが増えるということについては、どういった心境だったのでしょうか?

ある意味、破れかぶれやね(笑)。それでもルースターズを辞めたくなかったんやね。大江でやるライブも入ってたのをキャンセルしたくなかったし。当時のプロデューサーと話したときは「大江が帰ってくるかもしれん」ということでやってたんだけど、それがなさそうという感じになって。それで、「NEON BOY」からレコード会社はそのままで、事務所を今FUJI ROCKをやってるスマッシュに変えて。そっからは、自分が思うロックをやろうと思ったね。

—これまでのルースターズに拘らず、これからのルースターズを見て舵を切ったタイミングですね。

でも後半はキツかったね(笑)。やっぱ歌うって簡単やないなっていうのもあったし、危機を何度も乗り越えて来たけど、それが終わるとポッカリしたというか…..もう名前を守っていくことに虚しさを感じて解散したんやけどね。取り敢えず、「オレはオレでやったよ」っていうのを周りに対して見せれたのが大きかったから、もう続きはしないっていうね。

—ルースターズを守り切ってきたと同時に、その危機を乗り越えてきたからこその解散という選択肢だったわけですね。その解散後の活動にあたり、もう1度新たにバンドとはならず、ソロとしての活動を選ばれたのは、この経験が影響しているのでしょうか?

もうね、バンドに疲れたのはあったよね。自分が好きなことをやろうっていうのがあって。それで「Riff Rough」は布袋(寅泰)くんとこでやって。当時、BOØWYは知ってたけど、布袋くんを特別知らなかったんだよね。だけど、ルースターズ関連のところについては「もう、いいっか」っていうのはあって、そうじゃないところに1人で行きたかったから。それが第1条件みたいなところが、自分の中にあったよね。

—面白い方向にいかないと解散した意味がない

—それが布袋さんの存在であって、「Riff Rough」のプロデューサーとして迎えられたんですね。

その時の自分に合ったしね。布袋くんは「やらしてよ」って感じだったから、「やって、やって」って(笑)。それで面白かったら、オレも願ったり叶ったりだったしね。バンドってどうしてもブレーンが固まってくるから、そうじゃない方向に行かないと、解散した意味もない。最初がそういう風にやれたのが良かったよね。

—ソロ活動として、作品においてはプロデューサーを立て、そのライブでは布袋さんや松井常松さん、そして池畑さんと驚くようなラインナップでのメンバー構成でしたね。

そう?バンドの人選とかについてはお任せで、オレは何も言わなかったからね。そのとき、オレと池畑くんの関係も、ルースターズのときの関係というより、池畑くんもZERO SPECTERとかやった後だし、いちドラマーとしてだったし。

—なるほど。基本的には、花田さんがイニシアチブを取らないことで、逆に新しい取り組みから生まれる面白さを見出されていたんですね。続く「MY LIFE」では、ピーター・グリーンのバンド・メンバーとの制作で、ロンドンで録音されていましたが、やはりそういったことを求めてだったのでしょうか?

あれは、ロンドン在住のベーシストで、クマ(原田)さんにプロデューサーを頼んでやったね。クマさんブレーンでやってみるのも、やっぱり面白いと思ったのがあるよね。時代はバブルでさ(笑)、アルバム制作費もけっこうあったしね。海外(ロンドン)でやれたし、逆にその方が安いって感じだったよ。

—そうだったんですね(笑)。その2作の経て「ALL OR NOTHIN’」では、初のセルフ・プロデュースとなりましたが、この作品は後のソロの方向性を決めるかのような作品であったと思うのですが?

そうやね、これで初めてアメリカに行ったから。サンフランシスコのスタジオでミックスダウンとかしたんだけど、周りのスタッフにアメリカ志向の人が少なくてさ(笑)。ロンドンとかの人が多いけど、逆にオレは惹かれてたからね。ロスで撮影もしたし、確かに自分の中でハマった感じはあったよ。

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