佐藤タイジ インタビュー

ー インディーズでの精力的な活動の中、心が堕ちる寸前での復活。そして、エピックよりメジャーデビュー。バンド・音へのこだわりからくるアンチテーゼ。
PART.2ではインディーズ〜メジャーデビューまでをお送りします。

ータイジさんを中心に制作された最初のレコードはニューウェーブ系で、僕持ってるんですけど…

え?「シアターブルック」のアナログの?

ーはい、セルフィッシュレコードからリリースされた…

えー…!あれとかそういう感じですよね。あの時の…あのアルバム持ってんだ(笑)恥ずかしいな…
あのレコーディングっつーのが、リズムトラックの拵え方ていう…。あのね、プロデュースにジミー中山さんていう「サンディー&サンセッツ」で鍵盤弾いてた人が、アルバムをプロデュースしてくれて。88年とかに出してんスよね。そん時代にはもうスタジオに「ATARI」のコンピューターが入ってたんですよ。「ATARI」なんですよ、80年代は!「Performer」の前です。あのアルバム「ATARI」で作ってます。

ーそうだったんですね!当時の最新じゃないですか!

スタジオにあるコンピューターは「ATARI」しかなかったし、「でけえ!すげえ!」みたいな。俺がギターを弾くのでいっぱいいっぱいでやってるもんだから、レコーディングする時にドラムとベースのトラックアレンジというか”リズム”という意識にならなかったんだけど、そのレコーディングで「キックとベースというのが”ビタッ!”と揃ってないとダメなんだ」と。”ビタッ!”と揃っているというのは、どういうことかをようやくレコーディングして客観的にわかって。その辺からですよね、「Red Hot Chili Peppers」「Fishbone」とか聴くの。「やめんかったらロックスター」に少し書いてるけど、当時付き合い出した彼女がいるんですけど、その彼女の存在がでかくって。黒人音楽にすごく詳しい子で、レゲエ・スカ・ソウル・ファンク・R&Bとか聴かせてもらって。やっぱ入口「Red Hot Chili Peppers」だったッスよね。「Red Hot Chili Peppers」「Fishbone」は、当時ズバ抜けてカッコ良かったから。

ーまだ、「MIXTURE」という言葉もなかったですよね。

「MIXTURE」という言葉が出てくる以前ですよね。「Red Hot Chili Peppers」も、まだ「MIXTURE」とは言ってなかったし。「Living Colour」とか出て来たんスよ。そうだ、当時レコード屋でバイトを始めるんですけど、それも大きかったですね。

ー店内で聴けますもんね、店で流せますし。

そう、安く買えるじゃん。若干ちょっと○○てみたりとかしながら(笑)

ー(笑)

大学には全然行ってなかったけど、レコード屋のバイトが大学だったッスね。池袋のね「オンステージ山野」っていう、山野楽器が出してる輸入版のセクションで、良いレコード屋だったんスよ。スゲェマニアな店長で、全ジャンル網羅してアナログもCDも両方やっていて。勉強になったよね、名盤っていわれる再発とかくるじゃん、店長から「おめぇ、これ客に土下座させてから売れ!」って。

ー分かります。僕も昔レコード屋でバイトしてましたけど、勉強になりますよね。

勉強になるんスよね!レコード屋のバイト楽しいんですよね。バイト代安いけどね(笑)

ー(笑)「シアターブルック」が「Red Hot Chili Peppers」の前座した時って…

あれ91年ですよ。

ー「NIRVANA」が流行る前後の時ですもんね。

そう、「NIRVANA」に関しては、みんながワーワー騒いでるから、ちょっと避けて通ってたトコがあるんですよね。んで、さっさと死んじゃって…当時はあんまり感情移入出来なかったんスけどね。まぁ俺が「カート・コヴァーン」世代だとして、確かに90年代前半ってメンタル的にやられるところがあって、ちょっとした伝染病みたいなやつだったと思うんですよ。「カート・コヴァーン」が死ぬ辺りに「ジョン・フルシアンテ」もドラッグで大変なことになってて。ハードドラッグとは言わないけど、メンタル的にカートもジョンも同じようなやつで落ちてくわけじゃん?俺もやっぱね、そういう時あったんですよ。メジャーのレコード会社がガーッと何社か来て、元々やってたセルフィッシュと、別のUKプロジェクトと、いろんな登場人物が出てきて。しかもその人たち”数字”なんですよね。ちょっと人を信じられなくなったり、今で言うと”鬱”って判断されるような。そういう時期に「カート・コヴァーン死んだ」ってニュース聞いて、「あぁ、これは堕ちきるとそういうことになるんだなぁ」と思ったりはしましたね。またジョンが酷い状況って、もう有名な話だったじゃん?そうなってはいけないという意識はありましたね。そこから抜け出せた経験が、その後のメンタル的なところを補強することになったッスね。

ーそれは自ら立ち直られたのか、誰かの助けがあったのか…

結構状況は酷かったんですよ。スタジオ入っても、全然ギターも弾けない精神状態で。良く覚えてるんですけど、当時のメンバーが見るに見兼ねて、「スタジオとかじゃなくって景色の良いトコにみんなで行こう!」って。奥多摩に連れてってもらったんですよ。綺麗じゃん、奥多摩のほう。当時は完全にやられてるから、川の流れが「ザーッ」てあるでしょ?その川の流れってさ、全然終われへんやん。いつまで経っても「ザワザワザワザワ…」ってずっと言ってるのが怖いわけよ。「怖い…」ってなって「川の音、こいつ、あー、全然終わんねぇ」ってなって。「あー、負けた…俺は負けたのだ、俺は勝てない」って。そしたら、森みたいになってる場所に苔がビッシリ張詰まってる岩があるんですけど、その苔に夕日が照らされて、黄金色に光るのがすんごい綺麗なの。「あーこれ綺麗だな…」と思って、その気持ちが自分のやられてる心を”バンドエイド”するじゃないけど、何かそういう感じ。

ー癒し、包まれるというか…

うん、「そうか!」という気持ちになれたわけ。綺麗だとか気持ち良いとか、そこにフォーカスすることによって、その苦痛から逃れることが出来るのかというのを覚えるんですよ。

ー嫌なことを心で感じたけど、それを感じた上で包み、補える要素を心で感じられるようになったってことですもんね。

感じることが心の”お薬”になるのなっていうことを体験として覚えて。その後も…割とアップダウン激しいタイプなんで、落ちるときストンと落ちるんですけど、そういう時の抜け方というのを覚えていきましたね。今から考えると大事な経験で、あの時ちゃんと抜けられたから今があると思って…マトモ!

ーいやいやいや…その時の経験で心をエイドする仕方を覚えているから、仮に落ちたとしても上がり方も分かっているという…

そうだね。ずっと音楽ばっかやってたらさ、”ビジネス”って意識的に難しいんだよね。自分がやってきた「シアターブルック」が金になるならないの話だったから「そんなんじゃないのに!」みたいな(笑)トコと、もちろん成功したいっていうのもあるから…その辺でこう…

ー心のギャップや揺れがありますよね。

それで落ちるんですよね…大体みんなも、そういうのでやられるんじゃないかな?多分ね、L.A.とかはドラッグもあったろうから、カートとかはああいう風になったんだと思うッスね…

ードラッグではなく、心への薬を手にされたのはタイジさんらしいと思います。因みにその時代、インディーズではセルフィッシュレコードで出されてましたけど、「S.O.B」等のハードコア系だったじゃないですか。何故そこに辿り着いたのかなというのが疑問というか。セルフィッシュじゃなくても良かったと思うんですよ。

このセルフィッシュって元々徳島の方がやっていて。で、「シアターブルック」を辞めていったバンマスというのが、そのセルフィッシュのボスと仲良かったんですよ。その流れがあって「S.O.B」「Lip Cream」「GAUZE」とかやってるレーベルだけど、ハードコアばっかじゃないんだというところで、「シアターブルック」がやる。今から考えるとスゲェおもしろいレーベルですよ。

ー過去の資料読んだんですけど、渋谷のLIVE INで「シアターブルック」と「ボアダムズ」「オフマウス」「どろえびす」っていう感じでやってましたよね。

すごいッスよ。今から考えると、やっぱり刺激的だったッス。レコード屋のバイトとセルフィッシュ時代というのは、完全に自分を形成する大きな時代だったッスね。

ー当然、同じレーベルですからハードコアの方と交流もあるわけですよね?

もちろんもちろん。「Lip Cream」の兄さんとかよく遊んでくれましたよ。仲良かったですよ。ちょーーー悪いッスけどね。

ー(笑)

悪いこととか、全部あの辺の兄さんから教わってますよ。「極悪兄さん」て呼んでたけどね。楽しそうに飲んでるなーと思ったら、次の瞬間ビール瓶割って○○連中やから。「アカンアカンアカン!アカンアカンアカン!死ぬ死ぬ死ぬ!」って(笑)

ーハチャメチャですよね(笑)

ハチャメチャでしたね。もう活字にできないことばかり。

ー(笑)そこは控えます

むちゃくちゃやってましたよ、面白かったッスよ。女の子に酷いこともしてるよ。ひっどいことしてますよ。

ー聞きたいですけど控えます(笑)それから、UKプロジェクトからリリース、エピックからデビューされるわけですけど、さっきのお話で複数のレコード会社からお話もあってという中で、たまたまエピックを選ばれたんですか?

あのね、当時経済状況も良かっただろうし、93〜94年辺りからいろんなレーベルが結構来るんですよね。「ウチでやりませんか?」とか4〜5社あったんですよ。一番話してたところは、俺としか契約しないって。バンドでやってるんだけど「契約するのはタイジ君、他のメンバーは契約しない!」って。「え、え?なんで?いやいや、バンドでやってんのに。ギャラも等分なんやからみんなで契約したらええんちゃうん?」って。「いや、ウチはそういう形態じゃないんですよ」と。「じゃあ契約出来ないよね」って。

ーそういう話、たくさんありますよね。

うん、「そんなんわかんないッス」って。それで良いですって言ってデビューしてるバンドもいたんだけど「ごめんなさい、そんなんやってないんで」って。意外とそういう契約形態だったの、他のレーベルも。それで「じゃあいいよ、UKで頭割りで出すよ」って。本当は、あのアルバムにメジャーも来てたんだけど、敢えてUKで出したんだよね。

ーそうだったんですね。

あのアルバム聴いたエピックのディレクターが、「やりてぇ」ってなってて。またメジャーかよって思ってたから、「メンバー全員じゃないと契約しない」って言ったら「全然いいッスよ、メンバーで契約しましょうよ」と。「あ、じゃあ良いッスね!」っていう流れなんですよね。

ー今のお話聞くと、バンドを始めるからには分かりやすい言葉で言うと「売れたい」「デビューしたい」「○○でやりたい」とかあるじゃないですか。それがある中で、タイジさんがバンドでのフィロソフィーを持っていて、別に”俺が”じゃなくて”バンド”っていうところが強かったのでは?

うん、そこに関してはどうやら「バンド元素」みたいなのがあって、一番持ってる方かも知れないですね。1人でやってるヤツより、バンドでやっててバンドの名前で出してるヤツの方がカッコ良いんですよね。

ータイジさんがそれを求めていたから個に興味はないと?

そうですね。あんま個人名とか興味がないんですよね。ブレずにバンドで認知されたいっていうのがあったし、必ずこのバンドには価値があるんだっていう自信もあったから。ハードコアの兄さんたちと遊んでる中で、そういう「バンドマン根性」はシェアするやんか。サウンドとかは「よくわかんねぇ」とか思いながらも(笑)そのバンドをキープしていく姿勢とか、社会に対する物言いの在り方とかをハードコアの連中はあからさまに言ってるから。そういうの聞くとスゲェって思ったし、自分の哲学みたいなのを形成していく中で、やっぱデカかったですよね。

ー今の活動にそのまま現われてますよね。

うん、そうだよね。

ー「非国民」以降、エピックから出すまでにメンバーの方の入れ替わりがありましたが、音楽性という観点からだったのでしょうか?

いろんな家庭の事情というのもあったし、個人の体調というのもあってメンバーが変わっていったんですけどね。7、8人でやってる頃は鍵盤が2人いて、女子コーラスが2人いて、DJもいて、みたいな時もありましたよね。

ーそのメンバーとデビューをされる時のレコーディングには、メジャーとインディーズの差はありました?

まぁ、予算がある…「おぉ、金あんなー」っていう感じですよね。「スゲェ、こんなスタジオでやっていいんスか?」みたいな。ただ、メジャーだから”良い音で録れた”みたいな意見は残したくはないかな。当時のメジャーはお金があったから、良いエンジニアも雇えたし、良いスタジオもブッキングできたということだと思うんですよ。でも、自分とウマがあって良い音作れるエンジニアは限られてる。結局、その人と出来るかどうかに掛かってると思うけどね。但し、音に関しては拘りがあるッスね…90年代の日本は、大体デジタルも48でやってたじゃん。もしかしたら、インディーズではまだアナログの時もあったけど、それはそれで、むしろおもしろかったッスよね。今から考えても、日本の48は音が良かったッスよね。アメリカは殆ど相手になってない。それから音の悪さを1番喰らったのがスタジオにProToolsが入りだす2000年あたりッスよ。

ーそうですよね。

あの辺、みんな音悪いでしょ!?映像にしても全部酷くなるじゃん。

ーCCCDは酷かったですよね。

コピーコントロール、ありましたよね。多分、あれのせいで業界って失速してるッスよね。スタジオにコンピューターが入るのは良いにしても、それによって、業界自体に地殻変動が起きて、失速することになったよね。「シアターブルック」もあの時に酷い音のCD出してんスよね。

ー楽曲の良さを伝えるのがソフトだとしたら悔しいですよね。感じるのは当然ライブですけど、当時のそういう風潮が辛かったですよね。

その後、音に関してどうすれば良いか、こっちの耳がそれに慣れたのも、みんなが分かってきたから。今、すごいのが売れてますもんね。

ー(笑)びっくりしますよね。

もう、びっくりしますよね。別にね、みんな好きにやってんだから「お好きにどうぞ」だけど、なんだろう…

ー音楽は”楽しい”っていうのが大前提だから良いと思うんですけど、作り手側もそうだし伝える側もそうだし、できれば”より良いものを”ってなるにも関わらず、「いや、別に無料のDLでいいよ」っていう人もいる、このもどかしさ。

だよね、音楽の価値を感じてる人たちにとっては、無用の音楽っていっぱい流通してるよね。

ーただのBGMになってるのがイヤですよね。

但し、BGMとしても不快なものがいっぱいあるし、びっくりするようなものがあるんスよね。

ージャンルがどうのとか全く関係なく…

結構酷い…のがあるッスよね。

ーロックでもありますよね。

すごいですよね。「え、この子たちって…結構チャラいんだね」って思ってる。社会がインターネットのカルチャーで覆いつくされていっているわけじゃないですか。それに対して90年代後半から、レコード会社はコピーガードとかで音質悪くしてみたり、コンピューターを使って、全然歌えてないボーカリストの曲とかをこう○○ってやるわけじゃないですか。結果、コピーすんなって言いながら、嘘ついてタダで聴いてるわけでしょ。そんなことやってっから、ロクなものが流通しなくなっちゃったわけだし。嘘まみれんトコでやってる連中…送り側が嘘ついてんだから、客も嘘つくよ。

ー完全に負のスパイラルですよね。

あんなトコに落ちたくないし、土俵も違うし、全然別だと思うから。

ーよく、デジタルがどうって話になりがちですが、本当は全然違ってて。例えば「佐久間正英」さんはDSDでやればCDより、もっと良い音で普通にデジタルで流せるって言う手法もあると伝えていますし、海外では「Neil Young」も提唱してるじゃないですか。

なんだっけ!なんだっけ、やってるよね。

ー本で読んだんですけど「ピュアトーン」です。

俺も本で読んだ!あったよね、もうあの人一生懸命やってんだよ。でも、当然だと思うの。
そもそも、2000年代に一瞬で音が悪くなって、完全に失速してるじゃん。我々みたいな音楽に関わる人間にしてみたら、インターネットの出現って、「良くなったのかな?本当にそれ良くなってる?進化してる?」って未だに思うし。実はメディアとしてインターネットを信用してないッスね。すごい広がりがあるし、即効性もあると思う。実際、”中東の春”とかではTwitter・Facebookが有効だったと思うし。でも音楽に限って言うと、役に立っている気がしないし使う気になれない。それに頼りたくないっていうのがあるんですよね。

ー音楽でいうとソフトの音質を話しましたけど、それだけじゃなくてブックレットやパッケージも重要ですよね。

パッケージって大事ですよ。

ーiTunes等のダウンロード音源がありますけど、クレジットすら載ってない。作詞/作曲、誰でとか。音悪いし、安いけど…みたいな。

だから、ダウンロード、あんまり俺好きになんないですよね。未だに俺、CD・CDJ・CDウォークマンですし。ああいうポータブル持ってないんですよね。

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