人時(黒夢)インタビュー

ー「他人を信用しない」 釣り好きの少年が遊びで始めた楽器から地元のバンドに憧れ、プレイヤー・ベーシストとしてのキャリアをスタートさせる。PART.1では少年時代~「黒夢」結成に至るまでをお届けします。

ー人時さんの少年時代から聞かせて頂ければと思います。

引越しがやたらと多くて、あちこち転々としていましたね。僕、出身が岐阜県ってことになっていますが元々は小学校2年生くらいまで愛知県で、それから岐阜県に行ったんです。今にして思えばトラウマとまで言わないですけど、その引越しが僕の人格への影響というか…性格と言えば良いかわからないですけど、良くも悪くも捻じ曲がるきっかけだったと思いますね。

ーそれは他人との関わり方という点でしょうか?

友達も出来てたんですけど多少の影みたいなものがあったし、引っ込み思案になりました。当時、小学校の夏休み前とかに転校して「転校生です」って紹介されるのが嫌で仕方なかったんですよね。あと、遊びは釣りばっかりしてましたね。

ー既にその頃からだったんですね。

うん、引越したところが山の中で所謂”渓流”と呼ばれるところがあるんですけど、初めて兄に連れられて行った時に運良く魚が釣れたんですね。それでハマっちゃったんです。今だと1人になりたいが為にがメインなんですけど、当時は誰かと一緒に行って釣るっていうのが楽しかったんでしょうね。ただ、活発なんですけどあんまり他人を信用しないみたいな。

ーああ、影の部分…

小学校4年生の先生からだったと思うんですけど、通知表に「他人をあまり信用しないところがあります」って書かれてた(笑)

ー引越しがトリガーになっているんですね。

人見知りをするようになったし、それが未だに弊害になっていますね。当時は”はじめまして”の所に飛び込んでいく勇気が他の人よりも必要だったと思います。さすがに今は得意ではないですが、入れるようにはなりましたけど。

ー小学生くらいがパーソナルな部分を形成していく時期ですしね。その頃は友達と遊ぶのがメインですよね?

山の頂上まで行ってそこにあるゴルフ場のボールをパクってきたりとか(笑)田舎だったら今もそうでしょうけど、アウトドアな遊びでしたね。あと、引越す前までは実はピアノを習ってたんですよ。もう全然覚えてないですよ、今やれるかっていうと「やれません!」なんですけど。

ーただ、音楽自体の経験はされていたんですね。

それから中1の時にできた友達の家が溜まり場になってて、ギター・ベース・鍵盤と色んな楽器があったんですよね。中3の頃にはスタジオ作ってドラムセットまであるっていう(笑)その中に1人だけ真面目に音楽が好きな人がいて、ベースなりギターなりを教えてもらってました。

ー最初は特定の楽器というわけではなかったんですね。

単純に遊び道具でしたね。中学校に入ってみんな部活始めて縦社会に馴染んでいくタイミングだと思うんですけど、その溜まり場にいた人たちはそれに馴染めない…ヤンチャと言えばそうですけど。そういう場所にたまたま楽器があって遊べたっていう感じですね。その時の衝動やフラストレーションとかも含めて、みんなで何かやりたいっていうやり場が楽器だっただけで。

ーバンドを組んで云々というよりは、楽器を触っていたくらい?

うん。各々ワンフレーズ弾いていたくらいでちゃんとした演奏には行き着いていないです。教えてくれた人が唯一すごかったんですけど、「カシオペア」が大好きで当時の神保(神保彰)さんや櫻井(櫻井哲夫)さんのプレイをテープが擦り切れるくらい観て、耳コピもしてる人で。その時に何かの曲のスラップベースを教えてもらったんです。

ー最初がピック弾きでないという(笑)

でも、そんな弾けてたわけではないですよ。音楽自体もそんなに知らなかったし。当時、「BOØWY」が大全盛で確か解散間際くらいの頃だったんですけど「BOØWY」自体知らなかったですからね。僕より4つ上くらいの先輩達はバンド始めてて、どこ行っても「DREAMIN’」か「NO. NEW YORK」しか演ってないみたいな(笑)そういう時代でしたね。

ー(笑)ロック云々ではなく、音楽自体の入り口には特にジャンルという括りもなくという…

特別好きなジャンルやアーティストが出来るのは高校に入ってからですね。中学校の時はそういった溜まり場に行ってるくせして土日は自転車こいで釣りしに行ってますから(笑)悪く言えば”八方美人”というか。興味多感も手伝って色んな所に顔出してましたしね。音楽やるより釣りしたいっていう。

ー先程お話にあった通り、釣りと並列で遊びの手段にしかすぎなかったんですよね。

当時、楽器は釣りよりも下ですよ(笑)あとは中3の頃に「聖飢魔II」の「蝋人形の館」がやたら流行ってて、溜まり場でリフをみんなで弾いたりしてましたね。友達のお兄さんがバンドをやってたのもあって、スティックはあったんで、枕をドラムに見立ててやってましたね。アンプを通して爆音でっていうところには行き着かず、その溜まり場だけですね。

ー人時さん自身にも特に決まったパートがあったわけではなく?

うん、出来るものがあればっていうだけで。ドラムとかも興味あったしね。当時は音楽聴くことは好きではないけど、弾くことは好きでしたね。

ーではバンドを組まれたのは高校に入ってからですか?

高1の夏以降ですね。高校に入って友達になった子が「LAUGHIN’NOSE」っていう当時の邦楽のパンクが好きでバンドやりたいっていう話をしてて。で、弦も4本しかないし簡単そうだからって誰もが思う理由ですけど(笑)「ベースを弾いたことがあるからやりたい」って言ったらベースはもう居るっていう話になり「ドラム叩いたことある」って言ったら「じゃあドラムやって」っていうところから始まりましたね。

ーあ、初バンドはドラムだったんですね。

そう、しかも誰からか覚えてないですけど、もう捨てるようなドラムセットを貰ったんですよね。家までリアカーで2時間くらい歩いて運んでいって。家で叩いてたらえっらい怒られましたけど(笑)周りが工場ばっかりで民家もそんなにない社宅だったんですけど、1部屋は僕で占拠して。まあ一緒に住んでる人からしたらシャレになんないですよね(笑)

ー(笑)じゃあ、初めて人前で演奏されたのもドラムですか?

って言ってもヤマハの「ティーンズミュージックフェスティバル」とか学祭とかですよ。

ー因みに何の演奏されてたんですか?

「LAUGHIN’NOSE」「ZIGGY」「RED WARRIORS」「Guns N’ Roses」のコピーかな。そのドラムを叩いてました(笑)

ーそれはそれで観てみたかったです(笑)その時点ではまだベースへの転向はしていないんですよね?

そう。僕、高2で中退してるんですけどその時点で高校生バンドは辞めてるんですね。中退して働かなきゃってことで働き始めるんですけど、その中退したことで多少沈んでたんです。で、たまたま高校の友達と気晴らしに「黒夢」の前々身バンド「SUS-4」を観に行ったのがきっかけになりましたね。そのライブを観た時に「本気で関わりたい」と思って。何かをやりたいというよりはまずは関わりたいというところから入って。

ープレイヤーとしてではなく、今で言う”ローディー”に近いことですか?

そうですね。当時、「SUS-4」を手伝ってた人と偶然知り合うことが出来て、その人に紹介してもらうみたいな。地元でヒーローでしたからね、「SUS-4」をトップにバンドをやってる人達が20人くらいでグループになってて、その1人と知り合えてからどんどん近づいていってましたね。リハーサルスタジオに遊びに行かせてもらったりとか。あと、ギターの間宮(exOf-J)さんに憧れて。

ーこの時点ではギタリストを目指されていた?

うん、途中交通事故とかもあったりして…働きたいけど働けない状態みたいな、うまく理由にしてたと思うんですけど。音楽やりたいって思ってギター一式買いましたね。「SUS-4」の方ともどんどん仲良くなって手伝うようになり。まぁ、ツアーだって言って何10本もやるとかではなかったから月に1・2回くらい。免許もないし、荷物運びとかしたり。後に清さんが入るんですよね。

ー清春さんとの出会いはこの頃ですか?

そうですね、僕が交通事故した時に前後に初めて会って。「SUS-4」にボーカルで入るんだってことを聞いて。それで増々好きになりましたね。なのでギターもやりたいけど「SUS-4」にずっと関わっていたいと思ってました。

ーただ「SUS-4」は解散してしまうんですよね。

そう、高2で中退してから関わって春先には解散してしまうんですけど、間宮さんと清さんで次のバンドを作ろうとしてて。それが「黒夢」の前身バンド「GARNET」になります。

ーここから人時さんもメンバーとして加入されるんですね。

メンバーどうしよう?ってなってる時に「黒夢」のオリジナルメンバーの鋭葵くん、僕は「ウッシー」としか呼んでないけど(笑)が入ることは決まってて。まだ僕はローディーで他のベースの方が決まって始まる時に鋭葵くんとそのベースの人が喧嘩するんです。鋭葵くんの実家がプールバーみたいな所だったんですけど、そこに10人くらいの仲間で集まって「この先どうする?」っていう会議をしてベースの方は辞めてしまうんです。そんな時に僕が先輩のやってる山下久美子さんのコピーバンドでベースを頼まれて弾いたんですけど、たまたま間宮さんが見てくれていたらしく「弾けるじゃん」って言ってくれてメンバーに引き上げてくれたんですよね。それが「GARNET」の一員としてベーシストの始めです。

ーここ、詳しくお伺いしたいのですが元々人時さんは間宮さんに憧れ、ギタリストを目指されていた。でもギタリストではないベーシストとして、但し憧れの人達とバンドを組むことになった。この辺りの心境は?

うん、ベースは始めたばかりだったんですけど「憧れの人達とやれるこんな喜びがあって良いのか!」って感じですよね。楽器なんて何でも良かったですね(笑)あと、当時から「ギタリストとして成功しない」と思ってた気がします。

ーその理由は?

今でも思うんですけど、初めて楽器を弾く人達の中で「凄い・伸びる」って思える人と「よっぽど努力しないと…」って思える人がわかるんですよね。勿論、その後の努力次第ですけど始まりの段階で差がつくってことがあって。で、僕はギターを弾いた時に「リードは無理だな、バッキングだな」って。そういう感覚もあってそこまで執着はなかったですね。

ーパートの拘りよりも一緒にやる人達の方が大きかった?

そうですね。それが18になる年ですね。公表上は17歳って言ってたかも知れないけど(笑)

ー「GARNET」としての初ステージは?

11月です。地元の文化会館でのイベントだったと思います。「動け」って言われてて動けなくて(笑)仁王立ちでしたね。

ー(笑)楽曲はオリジナルですよね?

ベースをやれって言われてからも、スケールとかも分からない状態で始まってますから。そもそもベースを持っていなかったんで無理やりローンを組んで10万円くらいのGrecoの Phoenix bass、BOSSのハーフラックのグライコ(グラフィックイコライザー)、コンプ(コンプレッサー)を買って。「とにかく指を動かせ」って言われてて、楽器屋さんにメジャー・スケールとマイナー・スケールだけ教わりました。

ーあ、ホントの初歩からだったんですね。当時の楽曲にベースフレーズをつけられたのは人時さんですよね?

はい、まぁコード進行ではなかったですよね。例えばAならAのスケールで弾いていけば良いんだけどAのメジャー・スケールだけみたいな。キーとか関係ないですよね。

ーとするとほぼ独学ですか?

そこからは独学ですね、未だにそうですけど。「GARNET」がホントの意味でのベーシスト人生の始まりだったと思います。

ーなるほど。先程、初ステージが地元だったとのことですが名古屋にも進出されますよね?

その年の年末にあったミュージックファームのオールナイトイベントですね。当時のブッキングマネージャーさんが「SUS-4」の頃から気に入ってくれてて、良い場所(時間帯)に出させてもらって。40本だったか400本だった忘れましたけどデモテープを作ってばら撒こうって事で無料配布したんですよね。その後から「GARNET」として人が入るようになりましたね。

ー活動も順調に?

いや、「GARNET」自体は半年くらいで解散するんです。清さんとの距離がすごく縮まったタイミングでもあるんですけど、僕がラブホテルで住み込みでバイトしてて、清さんも同じバイトだったのもあって間宮さんと話すよりも清さんと話す機会が断然増えたんですよね。で、当時の僕は音楽に対しても無知で清さんから「Siouxsie & the Banshees」「ASYLUM」とか僕が知らなかった音楽を教わって。清さんがやりたい音楽にすごく共感をしていたんです。

ー「GARNET」の音楽とズレが出始めた?

清さんと僕の中でそれがあって、水面下で動いてましたね。「黒夢」のオリジナルメンバーの臣(鈴木新)くんに目星をつけたりとか。いつでも動けるっていう状態になって「GARNET」は解散という選択になったんです。

ー今のお話を聞くと「GARNET」の終わり~「黒夢」の始まりが人時さんにとって音楽の幅が広がったタイミングと位置づけられますよね?

そうですね。プレイでいうと何が出来るかってメジャー・スケール、マイナー・スケールで、歌いにくいって言われても…みたいな(笑)今は分かるけど当時は分かんなくて、リハーサルのテープを持って帰ってヘッドフォンで散々聞いて試行錯誤しながら苦悩してましたね。あとは自分が好きな音楽の基本となった部分を清さんに教えてもらったのは大きいですね。これまで所謂ジャパニーズ・ロック、パンクだけだったところから日本の中でも暗い音楽や狂った音楽、海外でも「バウハウス」や「キュアー」とかお化粧系の人達が後追いで聴いていた音楽たちに触れられて。

ー楽曲面でもそれは反映されている?

う~ん、そこは少しニュアンスが違うというか。例えば大体の人が有名なアーティストに憧れてその楽曲をコピーして上手くなるっていうのがあると思うんですけど、僕の場合は田舎でマイナーなバンドに憧れてその人達に近づきたくてお手伝いをしたいと思っただけで、コピーしたいとかその人達になりたいとか思わなかったから。なので音楽の幅が広がっても例えばフレーズをパクるとかって概念もないし、単純に自分が納得するムチャクチャのコード進行だったりとか、気に入ったフレーズやコードを曲にしていっていたので。作曲も独学だからモチーフを作るっていう感じですね。当時からメロディに関しては清さんにお任せだったので。

ーなるほど。だからこそ、「黒夢」の初期段階から人時さんの楽曲は唯一無二というか、オリジナリティに溢れているんですね。

よく清さんと話してたのはゆくゆくポップになっても良いからとくにかく初期段階はハードで恐怖を感じるような楽曲だったりステージをしようと。当時はCDよりもライブでの表現が圧倒的に多かったから、ステージでは笑わないとかMCはしないとかある程度のコンセプトを決めてて。必然的に楽曲も不協和音だったりあり得ないコード進行だったり。さっき話した通り僕に下地がない分、自由に曲は作れましたね。出来れば使いたくないコード進行ってあって。それ以外だったら良いというか、ハードなものでもポップなものでもそれぞれにそういうのはあります。

ー楽曲面において、人時さんのPhilosophyが形成されたとも受け取れますね。

あぁ、そうかも知れないですね。そこには「黒夢」の快進撃が大きいと今となっては思いますね。始まった途端、インディーズから99年の活動休止までずっと続くんですよ。清さんの手腕、プロデュース能力、どう魅せるかという部分をすごく考えてくれてたからこそ、その快進撃があったと思ってて。そこに一緒になって乗っかれたことが自由に作った楽曲についても自信に繋がってるんでしょうね。

ー インディーズでの快進撃のまま、「黒夢」はメジャーデビュー。佐久間正英・そうる透という超級プレイヤーとの出会いからギタリスト「臣」の脱退…PART.2では初期「黒夢」を中心にお届けします。

ー「黒夢」の楽曲制作にあたり、”ルール”のようなものはあったのでしょうか?

その当時は何も考えていなかったんで、それぞれがやりたいことをやってまとまれば良いんじゃないっていう感覚だったから、まとめようっていう概念は僕にはなかったですね。

ー例えばバックトラックを作って歌を入れるみたいな順序もなく?

そうですね、ドラムからベース、ベースからギターみたいなことも決めてなかったから。今にして思えば後から入れる人は大変でしたね。

ー成立させられていたのは”世界観”のような共通認識のものがバンド内であったからなのでしょうか?

僕ね、それは疑問に思ってて”世界観”は一緒にしちゃダメな気がするんですよね。今の人達への善し悪しではないけど90年代前半っていう時代は必ずしも好きな音楽やジャンルが一緒な人達が集まって作られたバンドではなかったと思うんです。僕らの周りだけだったかもしれないですけど、例えばヘビメタ好き・パンク好き・歌謡曲が好きみたいな、バラバラの趣味嗜好の人達が集まっていたバンドの方が大成していた気がしてて。バンドメンバーの名前がちゃんと知られてて、それぞれの個性がはっきりしていたんですよね。今だとバンド名は知ってるけどメンバーの名前は知らないとか、アー写(アーティスト写真)をぱっと見て誰がボーカルかわからないとか。そういう人達って全てではないですけど、好きなものを1つ掲げて集まってることが多いと思うんですよね。僕が「黒夢」で体現したから言えることなのかもしれないですけど、その方がスリリングでおもしろいものが出来て受け入れられていたと思うんですよね。

ー今のお話はすごく納得感があります。バンドも然り、メンバーそれぞれに個性があるからこそ唯一無二の楽曲やステージが生み出されるんですよね。そこにはルールは無縁で個々の世界観の集合体が「黒夢」の世界観になったと。

そうですね。ミュージックファームで「GARNET」の解散ライブが確か74人くらいで、「黒夢」の初ライブが確か54人とか56人とかから始まってるんですよ。で、その年の年末には200人以上集めてワンマンをソールドアウトさせてるんですけど、受け入れられているのが目に見えてわかりましたね。名古屋の土地柄かもしれないけど、東京と大阪の中継地点みたいな感じで東西から所謂、”お化粧系”と呼ばれるような人達が載っている雑誌で特集組まれているバンド達がライブをやりに来るんですけど、地元ではワンマンやれるけど名古屋ではそこそこ入るけどソールドアウトまでいかないっていう状況があって。そういった方々とことごとくブッキングしてもらえたんですけど、それからは倍々ゲームでしたね。

ー初めてのオーディエンスに受け入れられたということですよね。

見る見るうちに増えていきましたから。”風が吹く”っていう言葉があると思うんですけど、まさしくでしたね。過信かもしれないですけど、デビューするとか売れるとかっていう事に対してメンバー全員、疑うことはなかったですね。

ー「GARNET」時代とは違う景色だった?

「GARNET」は順調ではありましたけど、「黒夢」の入り待ちや出待ち、動員の増え方は異常でしたね。天狗だった気がします(笑)今も勿論すごく楽しいんですけど、仮に99年の活動停止まででいつが楽しかったかと聞かれたらインディーズの頃だったと思います。あくまでも自分達とライブハウスの人達だけで昇り詰める勢いやスリリングさを実際に目の当たりにできたことっていうのはあの時だったから。

ー全てが自分達ですものね。フライヤー等も確かご自身で作成されてましたよね?

そう、清さんが作ってくれて。確かハートランドに「LUNASEA」さんとかのライブの前に配りに行ったりしたしね。当時はインターネットなんてないから、口コミかオーディエンスが作るミニコミしかなかったんで。

ー名古屋のライブハウス中心に周られていたんですか?例えばELL(エレクトリックレディランド)とか。

当時の名古屋は基本、ELLに出演するには化粧をしててもしてなくても、条件として上手くないとダメなんですよ。化粧してても結局ダメなんですけど(笑)だから「黒夢」では出れなかったんですよ。出れなかった人達がハートランドやミュージックファームに出てたんで。

ーそうだったんですね。ただそういった活動も奏してインディーズながら92年発売の「生きていた中絶児」は予約だけで初回プレス4000枚完売と既にデモテープでリリースしていたにも関わらずすごい数字ですよね。

そうですね、今にして思えばすごいと思います。当時、都市伝説的な話がまわってて。3,000枚いくと目をつけられる、5,000枚でメジャーから話が来る、10,000枚いくとメジャー確実みたいな(笑)枚数に関してはシビアだったと思いますね。僕自身はデビュー後の方がそういう事に興味はあるけど、当時は興味がないというよりはわからなかったですね。時代的には「X」さんがインディーで数十万枚売ったっていう、すごく夢を見れた時代でしたから、単純に枚数というよりは漠然と自分達でもっと売れたいっていう願望はありましたね。なのでどちらかというと会場をいっぱいにするとか会場自体を大きくしていくことの方がリアリティがあったと思いますね。

ーライブをメインに考えるという部分は当初から変わっていなかったんですね。

枚数って結局は人から聞いたりとか雑誌のインディーズチャートで見るくらいだから、すごいのはわかるんだけどリアリティがないというか。それよりはダイレクトにオーディエンスが増えていくのがわかる会場の方が伝わるし、必然的に楽しみにもなるし。

ー先程のお話ではライブをする度に増えていったとのことですが、それは名古屋を拠点として東京含め、地方でも同じ状況だったんですか?

1回目は当たり前のように少ないですよ。初めて新潟でやった時は1人か2人でその時のギャラが多めで5,000円でしたもん。初めての東京は確か「中絶」を出した頃で「BELLZLLEB」さんていうバンドの解散ライブのオープニングアクトだったんですけど、確か3曲くらい演らせて頂いて。その後、2カ月に1度くらいのペースで鹿鳴館に出させて頂いたり。その年の10月には新宿LOFTでワンマン切ってたんですけどソールドアウトしましたからね。

ー早いですよね。

早いと思いますね。その後、2デイズやって翌年にはパワステ(日清パワーステーション)飛ばしてチッタ(川崎クラブチッタ)やって渋公(渋谷公会堂)ですからね。

ーすごい動員数の伸び方ですよね。人時さん自身、ライブハウスとホールでの違いはありました?

当時はそこまで分かっていなかったですけど、大きいところでのやり方っていうのを覚えていっていたと思いますね。大きいところで演奏した人達っていうのは小さいところで演奏しても小さくならず、パフォーマンス云々というよりはその佇まいで自分を魅せられるというか。照明さんにデビュー当時なんかは立ち位置のことで怒鳴られた経験もありますし。そういう経験を積んでると必然的に見せ場がわかってきますよね。

ーその後、渋谷公会堂・「DEEP UNDER 1993」を経て「黒夢」はメジャーデビューとなりますが人時さんの意識で変化はあったのでしょうか?

「俺メジャーアーティストだ」っていうのはありましたよね(笑)よく、冗談半分で言うんですけど99年の活動停止までかなり天狗になってたと思います。

ー(笑)人時さんのデビュー時の年齢は21歳なんですよね。

21歳のガキにさ、メーカーの人とかがゴマ擦ってくるわけですよ(笑)それはおかしくなりますよ。ホントは事務所とかが教育していかないといけないんでしょうけど、僕は天狗になって良いと思うんですよね。どこかで鼻を折ってくれる人がいれば、若しくは自分で折るかで良いという気持ちなだけですけど。当時は「メジャーデビューしたから有名人」みたいな感覚で、外に出歩くだけでドキドキしてましたし(笑)例えば事務所に家から行くのに車も持ってないので電車で原宿経由で行かなければならなかったんですけど…

ーああ、赤坂でしたね。

そう。山手線で原宿駅まで行って千代田線に乗り換えるんですけど、当時の竹下通りってビジュアル系の洋服がたくさん売ってる時代だから「バレたらどうしよう」みたいな(笑)全然気にしなくて良かったんですけど、当時はそんな感じでした。

ーリアルですね(笑)その他の変化については如何でしょうか?例えばレコーディングに関して。

音源制作は劇的に変わりましたね。トリビア的な話で後に発覚するんですけど、インディーズ時のレコーディングエンジニアさんがそうる透さんの孫弟子にあたる人で。そのエンジニアさんがドラムの人だからリズムについてとか教わっていたんですけど、「迷える百合達」を作るにあたって佐久間さんとお仕事させて頂いて。最初は凄過ぎてわからなかったのが実感としてあったけど、音が全然違うんですね。僕の楽器・機材・セッティングにも関わらず佐久間さんが弾くと明らかに音の太さが違う。21歳のガキでもその違いがわかるくらい凄過ぎて。最上級スタジオのスピーカーで自分の音でも良いと思えるのにそれをさらに超えるとてつもない音が出るわけですよ。

ープレイヤーとしてのレヴェルが違うと?

僕がインディーズ時代にライブハウスの人達に「若い割に上手いね」とか言われ続けてて、また”若い割”って言われるのが嫌ですごく練習してたしっていうのもあり、それなりに自信があったんですよね。当時はメジャーデビュー≒プロっていう感覚でもあったし。そんな中、そのレコーディングで音の差を見せつけられて谷底に突き落とされた感じですよね。ベースを始めた時からプレイヤーとして上手くなりたいと思っていましたけど、そこでさらに強く思いましたね。

ー佐久間さんとの出会いがその変化をもたらしたと?

佐久間さんから「こういう弾き方をするとこういう音が出る、あなたはこういう弾き方をするからこういう音になる」っていうのを目の前で手解きと言うよりも音で聴かせて下さっていたので。これは音が太くないとダメだってなって猛特訓ですよね。

ーまた、リズム隊としての観点ですが、デビュー当時は一時的にHIROさんがいらっしゃいましたが、鋭葵さん以降のドラムが中々安定的ではなかったと思うのですがその辺りについてはいかがでしょうか?

すごくバンド的な考えになるんですけど、鋭葵くん脱退以降は当然探してて、上手い方、カッコイイ方もいたんですけど「黒夢」として考えた時に正式メンバーとして合う人がいなかったんですよね。なので都度、ヘルプをお願いする形を取ってました。僕自身は色んな人と合わせられるようになるという点が結果として良かった部分が大きくて。

ーなるほど。バンドとして考えると中々固定メンバー以外の方とやる機会ってないですよね。

バンドって”運命共同体”になるじゃないですか。そうなると他の人とやるってセッション以外はご法度みたいな風潮もあって。今の時代のように複数の活動って中々やれなくて。後に透さんに「あなたは合わせ上手だ」って言われたことがあって、そう考えると良い経験が出来てたなと思いますけどね。

ー「迷える百合達」から「Cruel」に掛けての短期間でビジュアル面も楽曲面も変化がありましたよね。

元々、清さんと「黒夢」の活動をするにあたって”最初はコアで、後にポップ”って話していたことが叶っていくタイミングなんですね。よく、メジャーデビューしたから変わるって言うんですけど、変わって当然なんですよね(笑)制作スタッフ面で言うとインディーズの頃はメンバー含めて7、8人で音楽を作っていく体制だったのが、メジャーでは東芝EMIだったのもあるけど末端まで含めるとヘタしたら100人近いスタッフが関わってくるんですよね。変わることに対してそれぞれが恐怖もあったとは思うんですけど、「迷える百合達」の初動が確か3万枚くらいでもっと売れる為にどうすれば良いかを特に清さんが考えてくれてたと思います。矢面に立ってくれてメーカーの人と喧嘩したりとか、事務所と言い合いになったりとか。

ー清春さんを中心に「黒夢」の方向性を他人に左右されることなく、貫いて行かれてたんですね。

そうですね。これ、載せられるかわかんないですけど大人の描いたシナリオってやっぱりあって。基本的な価値観でその話に乗るバンドも乗らないバンドもあるんですけど、「黒夢」は乗っからなかった。乗っかってミリオンセラーみたいな所に行かなかったから、毎回コンセプト、音作り、ビジュアル面を変えられたと思うんですよね。

ー「黒夢」の魅力って、やはりそういった部分だと思います。すごく正直な発言を当時からされてましたし。売れたい時に売れたいと発言されたり、当時の音楽業界のシステムにアンチテーゼを発せられたり。

そうですね、その時々のフラストレーションが原動力になっていた気がしますね。

ーそういった中で次に生み出されたのが「ICE MY LIFE」、「Cruel」ですよね。

それはね…2度と合宿はしたくないと思わされたレコーディングでしたね(笑)当時、年齢的に臣くん、清さん、ちょっと離れて僕っていう3番目だったのと、特に清さんに「SUS-4」時代から今でもそうですけど、憧れから入ってるんで僕は弟なんですよね。そういう状態もあって運営面は全然わからなくて、レコーディングでも自分のパートは頑張るけど、それ以外のパートは分からないみたいな。「迷える百合達」の時も佐久間さんにお任せ状態だったし。そんな中、取り敢えずセルフプロデュースで臣くんが指揮を執る事になって山中湖のミュージックインで合宿レコーディングすることになったんですけど、臣くんがスタジオに来ないんですよね(笑)

ー(笑)プロデューサー不在ってことですか?

初日に各楽曲のアレンジまでして、翌日から録っていきましょうっていうことになったんですけど、合宿で泊ってる部屋から出てこないんですよね。僕の中のプロデューサーってジャッジも含めてだと思ってるので、自分だけでやってても全然終わらないんですよ。結局、最後の「寡黙をくれた君と苦悩に満ちた僕(Full Acoustic Ver)」は朝の8時くらいまでレコーディングしてて。あと、制作陣も結構酷くてディレクターの人がたまたまエンジニア上がりの人で、エンジニアもやってくれるんですけどずっとやってるわけにもいかないから途中抜けられるんですよね。そうなると1人でやらなきゃいけないんですよね。

ー豪華な宅録状態ですね…

ホントそう。最終日は次の日の10時までに完全撤退だって言われて、アシスタントが6時くらいから片付けしてる中、僕はまだSSLの卓の前でレコーディングしてるっていう(笑)そういう大変だった記憶しかないですね。楽曲でいえば「sick」とかも入ってるし、好きな楽曲が多いですけど。

ー次の「feminism」では臣さんの脱退ということもありましたが、佐久間さん、そうるさんとの制作は「Cruel」のレコーディング時と違い、安心感があったのではないでしょうか?

はい、「迷える百合達」で佐久間さんにベタで付いて頂いて、「for dear」で透さんに叩いて頂いてというのを経て、「feminism」ではスペシャルなミュージシャンと共作できたっていうのは後の自分にとってプラスになりましたね。当時、臣くんと接触出来なくなってる状態でレコーディングがスタートして、脱退となってからは後任のギタリストを入れるかどうかって話をしながら、清さんと事務所の人間も交えてライブハウスに観に行ったりもしたし。でもレコーディングの時に清さんと佐久間さんが話してる中で「2人でやればいいじゃん」っていうのがあったらしくて、僕もまあ2人でいいやって思えたのも佐久間さん、透さんの存在が大きかったですね。

ー 2人の「黒夢」となっても止まらない快進撃から無期限の活動停止…ソロアーティスト人時としての確立。PART.3では後期「黒夢」~ソロ活動を中心にお届けします。

ー2人の「黒夢」として初のアルバム「feminism」では初登場1位とメンバーが減った不安もあったと思うのですが払拭できた結果だったと思います。

そうですね、単純に嬉しかったですね。

ーまたTOUR「feminism PART Ⅰ」以降、レコーディングに続き、そうる透さんもドラマーとして参加されました。

はい、それから3年間くらい?参加頂いたんですけど僕には大き過ぎるくらいでした。かと言って細かく教わったとかはないんですけど、「feminism PART Ⅰ」からギターとキーボートもサポートを迎えて、サポート陣で固めるからあとは自由にやれって言って頂いてて。自分が疑問に思ってることだけ質問して教えて頂いてっていうのが続きましたね。あとは打ち上げで他愛もない音楽の話をさせて頂いてたんですけど、それが僕にとっての1番の財産ですね。”グルーヴとは”っていう部分を透さんが酔っ払った勢いで言って頂いた言葉が僕の中ですごくヒントになったんです。言ってわかることとわからないことがあるけど、それを後輩のベーシストに話したりもするんですがここは体現していないからかもしれないけど、中々理解されないですね。

ー作曲面においては2人になったことで必然的に人時さんの作曲数も多くなったと思いますし、当時のシングルのカップリングは後にライブで演奏される楽曲も多く占めていて、この殆どが人時さんの作曲でしたね。

「黒夢」に関しては自分が作曲っていう概念がないんですよね。今もそうですけど曲のモチーフを持っていく感覚で清さんとの合作なんですよね。僕の曲の場合、バックトラックを作って清さんがメロディーを付けてくれるっていうのが殆どで、唯一違うのが「眠れない日に見る時計」なんです。

ー唯一っていうのが驚きですね。

うん、あれだけ僕がメロディーを作って清さんに少し直してもらって。他は「SEE YOU」もそうだし、基本のバックトラックと構成を作って清さんが歌っていくのが僕の曲の成り立ちなので。

ーなるほど。対外的なクレジット要素だけで、人時さんの中では作曲/黒夢という感覚だと。

そうですね。あと、カップリングについては特に自由だったんです。今だとね、「両A面」ってわけわかんない言い方するけど(笑)昔、色んなミュージシャンの方にカップリングについて「制約がない・メイン曲ではないから自由にできる・ミュージシャンとして好きにやれる場所」って聞いていて、僕もそういう概念があったから。結果的にライブで演奏する曲達が多かっただけです。当時、B面をセルフカバーにしようかって話があった時は「曲がない」って思われるのが嫌で、絶対作ってましたね。シングルってタイアップとかで急に決まる時が多いから、曲のストックがあるバンドではなかったけど、その都度楽しんで作ってましたね。

ーミュージシャンの方でここの辺りが分かれると思うんですけど、人時さんは曲をストックするタイプではない?

「黒夢」の場合、作ったらすぐライブとかでやってましたから。歌詞がなくても。

ーそれだけ楽曲に自信があったんだと思うんですよね。当時、新しい試みとして楽曲提供もされていました。

捨て曲はないって勝手な言い方をしてましたね(笑)楽曲提供に関しては「Be-B」さんでしょ?あれはやらされたんですよね(笑)やらされたというか、やらないかと言われて興味はあったけど、右も左もわかんないみたいな。

ー事前に打ち合わせとかなかったんですか?

うーん、当時のディレクターさんが頑張って直してくれてたと思います。今みたいにデジタルとかじゃなくてカセットのMTRに合ってるかも分からないメロディーを付けて、モチーフだけ作って持って行ったんです。トラックは透さんが叩いてくれたり、僕もベースは弾きましたけど、これで作曲って言うのは今だと許されない感じでしたね。

ー「Drug Treatment」のツアー中には「franchise music」「franchise」と初のソロ作品をリリースされましたがこういった経験を経て、満を持してという感じだったのでしょうか?

そうでもないんですよね(笑)あの当時、今の時代のようなショット契約(シングルやアルバムを1枚のみ制作して発表する場合に交わされる契約のこと)ではなく、契約金幾らでリリース枚数何枚っていう時代で事務所が受けたんですけど、その時に「何がやりたい?」って聞かれたんですよね。で、僕はインストが大嫌いだったので。勿論、ライブ中のソロコーナーはありましたけど、透さんとやっていたのはインプロ(即興)だったのであれを形にするっていう頭もなかったですし。だから毎回のライブで少々変えてやったりして、透さんとのやりとりを楽しんでいたくらいなので。そういう中で「インストやる?」「歌やる?」って聞かれて、だったら歌がやりたいと思ったんです。やってダメでもいいやくらいに思ってたし、透さんに相談とかもして後のプラスになったり、経験することの重要性も踏まえて佐久間さんにプロデュース、透さんにドラムをお願いして始めましたね。

ー実際に人時さんがソロをやることによって、表現のフィールドが「黒夢」以外にできたというところと、歌うという部分においては清春さんがやられていたところを人時さんが経験するというところについてを伺いたいのですが。

ベースを始めて5年、デビューして3年目くらいの人が歌を始めてっていうギャップはダメだと思いました。タラレバになっちゃうけど、勢いだけではなく、もっと自分を分析した上で臨むべきでしたね。例えば歌うにしても自分のキーは何か、音域、安定キーとかも知らずにやってたし。結果として得るものがあったし、気づきもあったのでやって良かったと思いますね。普通、バンドのベーシストがソロデビューなんて出来ないですもん。

ー確かに。当時の売れてるバンドの人達でさえ、ソロデビューされている方って限られてましたよね。

そうですね、成功したかは分からないけどやったことによって、その後の自分が思うソロ像であったり、道筋を決めるきっかけにもなりましたね。

ーそして「CORKSCREW」の発表、翌年1月29日を以って「黒夢」は無期限の活動停止となります。

うん、とにかくそれまでの1年から1年半は清さんとすごく仲が悪かったから。もうとっくに自分のキャパシティがオーバーしてて。活動停止してから音楽を聴くのが嫌だったんで、音楽のない環境を作っていました。テレビをつけて音楽番組だったら変える、ラジオもFMなんて聴かずにAMみたいな。

ー当時としてはそういった心境はあったと思うのですが、今冷静に振り返って「ベーシスト人時」として得られたことも大きかったと思うのですが。

うーん、何をどう表現すれば正解かっていうのはあって。勿論、すごく重要な経験として透さんとのリズム隊の組み合わせも然り、満園英二とのバトルに近い演奏だったりは後の自分にプラスにはなったんですけど、特に「CORKSCREW」に関して言えば僕の1つの武器をさらに研ぎ澄ませた時代ですね。例えば、ベーシストとしてのピッキングのフォームの定着であったり、バキバキのピッキングの音であったりっていう部分をより特出させたというか。

ー確かに。ライブでの演奏を観ても人時さんのイメージですね。

逆に言えばプレイヤーとして、それが仇になったんですよ。「おまえ、そこしかないでしょ」みたいな。元々プレイヤーとして、スタジオミュージシャンとしてやっていきたいっていう明確な目標や立ち位置が定まっていた中で、武器にはなるけど弊害となる場合もある。例えば「嵐」のレコーディングに呼んでもらってロック色の強い曲が多いとか、他のアーティストさんでもバラードの曲は呼んでもらえないけど、ヘビーな曲は呼んでもらえるとか。自分の武器を90年代後半に磨いた結果なので、良い部分もあるけど…

ー諸刃の剣というか…

ホントそうだと思います。これを払拭する努力をするべきかっていうのをすごく悩みましたね。「僕、バラードもけっこう弾けるんだけど」って思ったり(笑)悪いことではないんですけど周りの人が思う程、僕はそこに拘ってないから今も多少のギャップを感じてますね。

ー今のお話の通り、活動停止後のプレイヤー復帰として「Zillion SONIC」へのサポートがありましたね。

実はね、その時ファンの人から「なんでソロからやらないの?」って怒られた記憶がありますね(笑)はっきり言うとソロアーティストとして考えた時に自分のビジョンがないんですよ。結果、そうなっただけで。過去の「franchise」を作った時のダメージが大きくて何をして良いかわかんないし。そんな時にサポートの話があって、プレイヤーとして現場で弾くのは好きだし、人の現場でやりたいとも思っていたので。何かを発信したい人の為に、自分がどこまでサポートできるかっていうのが自分の立ち位置として向いている事がわかってたから。

ーそれは「黒夢」であっても?

うん。90年代後半は嫌だったこともあったけど、今は清さんがやりたい事に対してやれるのが嬉しいし。どんなアーティストさんであっても何かを発信したいっていう人をサポートするっていうのが自分の場所だと思いますね。今は「黒夢」が1番の比重ですごく幸せですしね。他のアーティストの方のサポートもしつつですけど、そこで自分が目立つとか、お客さんを取ろうとか、人気を得ようとかは皆無なんで(笑)

ー「人を信用しない」少年だった人時さんがその立ち位置に幸せを感じられているのは清春さんともそうですし、サポートするアーティストの方との信頼があるからだと思うんです。

あぁ、そうかもしれないですね。

ーその後、「ROBOTS」のサポートもされながら翌年に「FILL IN THE BLANKS」をリリースされますが、今のお話と良い意味で相反すると思ってまして…

確かに。「PIRANHA HEADS」の「FILL IN THE BLANKS」って空白を埋めようって意味なんですけど、実は「黒夢」活動停止後、音楽自体を辞めようって思ったんです。だけど、寝てても指が動くらしいんですよね。

ー無意識の欲求ですね。

うん。やっぱりやりたいんだなと、その事を教えてもらった時に思いましたね。で、何が出来るかを考えた時にまだワーナーの契約が残ってたんだけど切れちゃって。その時に僕が歌うのはNGで誰かボーカルを立ててっていうメーカーの条件があり、「babamania」のmariちゃんも名前が挙がってて。一緒に音源作ったんですけど事務所の人に「これ出したい?」って聞かれて、mariちゃんがどうとかではなく全然自信もなくて流れたんですけど、「人に歌わせて気に入らないんだったら、自分で歌った方がマシ」って判断になりました。やっぱり僕の中で「清春」というボーカリストが頂点なので比べてしまうんですよ。自分でバンドを組んだとしてもそんなボーカリスト何処にいるのかって「?」になる。半端な個性の人ではギャップを感じてしまう自分がいて。なので実力はどうあれ、自分が好きなことをした方がいいなと。その時感じていたフラストレーションや嫌だと思えることを全部吐き出して、次に進みたいって思って作りました。

ーもしかしたら「ソロ」というよりは「人時」としてのスタートラインだったのかもしれないですね。

その時、一緒に作詞をしてくれた「KAORU」さんと色々やり取りして、あくまで自分の伝えたい事とやりたい事をまとめてくれて。終わりはしないけど”負の要素”を詰め込みましたね。オーディエンスの方がどう思われてもこれしか歌いたくなくて、自分の為にという部分が強かったですね。自分による自分の為の音楽(笑)

ーそのタイミングでないとやれなかったりもしますよね。

あれは今出来ないですね(笑)正直、「PIRANHA HEADS」の時が一番怖かったです。ツアーをまわってお客さんが多い・少ないではなくて、ステージに上がってセンターに立つ怖さがやっとわかったというか。

ー「黒夢」ではソロコーナーがあったにせよ、ずっとセンターの定位置は初めてですよね。

そう。バンドっぽく始めたけど、来てくれるお客さんの8割は僕を観に来てくれているっていうのが視線を見ても分かるからヘタな事できない。やっぱりね、センターに立つ人は立つべくしてなんですよね。そこで初めてライブに対しての恐怖を覚えて、フロントマン・ボーカリストとそうではない人の差を痛感しましたね。

ー「diz-beads」や「Hysteric Blue」への参加等、活動を広げている半面、”迷い”のようなものもあった?

必死に悩んでましたね、ソロ活動に対しての考えを修正しないといけないかもと思ってました。「diz-beads」に関してはボーカルの子がおもしろくてちょっとやってみたいと思ったのが第1。ただ、僕の悪いところで「なんとかなる」って楽観的な部分があって、そこで可能性を1つ1つ潰していくんです。勝手な持論だけど「やりたいこと」と「やれること」って違う気がしてて。両方合えば良いんだけど、大多数の人がミュージシャンも含めそうではない。僕もそれはあって、その時期に色んな活動をしていたんです。後に「SSS(スリーエス)」や「ピラニアヘッズ」をやるタイミングがあってやったりもしたけど。

ーソロ活動をしながら模索されていた感じですね。

プレイヤー・ベーシストとして目標を見定めてきたけど、どこかでソロでもやっていければなと思っていて。そこでさっき話した活動をして両方メインというよりは、改めてプレイヤー・ベーシストとしてをメインに置いて、「SSS(スリーエス)」や「ピラニアヘッズ」をメインというよりは自分を解放する場所という風に解釈するようになりましたね。

ー先程お話された”発信したい人をサポートするのが自分の場所”と通じますね。

やっと自分のポジションを見つけた気がしていましたね。バンドモノについては誰かの為に作詞・作曲してなんてするくらいなら自分でやれば良いしと思えたし。それに共感できるメンバーがいるのであればいて欲しいけど、ムリに集めてとまで思わないですし。どんなに歌を必死に練習しても同じくらいベースも練習するから、技術的なベースのキャリアを歌が超えることはないんですよね。だったら今までやり続けられたベースをもっと磨こうと思いましたね。

ーすごく納得できますね。「SUPER DROP BABIES」もそのスタンスだからこそ、あの時の人時さんはやれたんでしょうね。

「SUPER DROP BABIES」は売れようなんて全く思ってなかったですもん。新くんから連絡があって、昔のように運命共同体になってお金を持ち寄ってみたいな感じではなく、プラスマイナスゼロでも仲間と楽しく周れるんだったら良いって始めたので。多い時は半月くらいは名古屋にいてリハやレコーディングやってたんだけど、そこにはムリとかはなくて。

ー「やりたいこと」と「やれること」が一致し始めてますよね。

1番最初にソロ出した時に透さんに言われた「やることによって経験を得る」ということについてを体現してきて、自分が何かやりたい時にやれる状況を作れた気がしますね。バンドもそうだし、後のアコースティックやインストもそうだし。弾き語りでメガヒットを出そうとか(笑)一切なくて、例えばコーラス部分のお手伝いが出来るようになりたいとかがあるだけで。自分のプラスになることを選んでやっている感じですね。

ー 「CREATURE CREATURE」への参加、「黒夢」の正式解散~再スタート。ソロ・サポートを通じて築き上げた「信頼関係」…PART.4では「黒夢」・「CREATURE CREATURE」・ソロ・サポートを中心にお届けします。

ー「CREATURE CREATURE」についてもお伺いしたいのですが。

MORRIEさんが選んだMORRIEさんをリスペクトしている人達が集まった気がしてます。実は「CREATURE CREATURE」についてはMORRIEさんが言ってることが僕はチンプンカンプンなんですよ(笑)やっぱり詩人でもあるし、音もロックの世界をとっくに超越して、現代音楽だったりクラシックだったり自身でスケールを作ったり。最近は「エニグマ」っていうスケールが気に入ってるとか言われても(笑)みたいな。でも、分かんないから嫌だじゃなくて、謎だけどその世界観に高揚していて。こんな事言ったら怒られるけど、正直「DEAD END」「MORRIE」フリークの方からしたら「お前ファンじゃないだろ」って言われるくらいだと思います。それは反論出来ないと思ってて、何故なら「DEAD END」を知ったのは清さんの影響だから。勿論、全部聴いてるし好きだけど、MORRIEさんとお話させて頂いて演奏を一緒に出来るのは「恐れ多い」って感じではなく、やられたい事に対して自分がどこまでその世界観に添っていけるかっていうのは刺激になりますよね。

ー観ていても、確実に引き込まれますけどね。

1ライブで大して暴れてもいないのにホント疲れますから。曲が難しい云々っていう前に、あの世界観の重さみたいなものが演奏しててズシっと来ますね。軽くやっているように見えて、実際はそんなことなくて。終わった後はそんなに曲数やってないのにいっぱいやったあとみたいな。

ー人時さん以外のメンバーの方もですか?

みんなそうですよ(笑)「黒夢」の時のソリッドな演奏やパフォーマンスによる、体力的な疲労感とは真逆ですね。

ープレイヤー・ベーシストとして充実した活動をされている中、2009年1月29日に「黒夢」の正式な解散ライブがありました。

なんでしょう、同じ音楽の世界にいるからか東京にいるからかは分からないけど、年を重ねる毎に距離が近くなってくるんですね。現実的な話で言うと、スタジオとか行くと「さっきまで居たよ」みたいなニアミスがあったり。清さんのサポートしてるyoshitsugu(Eins:Vier)さんと別のサポートで一緒になったりもして、yoshitsuguさんを介して「清さんに宜しく伝えておいて」っていう風になったりね。清さんはどうだったか分からないけど、会わなくなって10年近く経つのに徐々に自分にとって存在を感じるようになって。そうなると、必然的に気になってきますよね。あんなに嫌だったのに「今やったらどうなるんだろう?」っていう気持ちがあってコンタクトしましたね。

ーキャパシティオーバーだった頃からソロ活動を通じて「黒夢」が自分のプラスになると再認識されたと?

うん、おもしろかったら良いなって思ってたくらいです。結局「終わりにしましょう」ってなりましたけど、2人だから話が早いんですよね。それで踏ん切りがつくのかなとも思ったし、また次に進めるとも思ったし。

ー実際やってみていかがでした?

僕が思ってるようなライブにはなっていなかったので、勿論悔いは残ったけど後に清さんから東条さんのことが発端で再始動する申し入れがあったのは、嬉しかったし時間が解決してくれるなと思いましたね。

ー高円寺で定期的に開催されているアコースティックライブについては、先程の「CREATURE CREATURE」とは違い、”ホーム”的な世界というか…

弾き語りでやってる世界観ってよく”等身大”って言葉を使うけど、それ以上の事は踵1・2センチ伸ばすくらいまでしかやらないので。自分がその時々思った事を言葉で綴ったり、曲にしたりしてるから。それは弱い自分も、嫌な事も、世の中に対しても全部リアルな事だけでそれ以外いらないと思って、今高円寺ONEはホームグラウンドとしてやってますね。突き放すわけではないけど、来たい人だけいればいいなって。自分のその時の精神状態で曲を決めるから、楽しみたかったらそういうセレクトだけど暗かったら全部暗くするし(笑)

ーリアルですね(笑)

うん、精神状態と相当リンクさせてやってるので。これは辞める気もないですね。好き勝手なのでテンポもキーも変えちゃうし、間違えたりもするし(笑)

ー作品という観点ですと「ちっぽけな僕の世界」から「I Never Kill The Groove」まで今お話にあったアコースティックから昔好きではなかったとのお話を頂いたインストまで、相反するアプローチを取られていますが、これは今後も続いていくのでしょうか?

両方ともなんですけど、時間があればですね。ライブに関してはその日に会場が抑えられれば出来るけど、音源となるとある程度の制作期間が必要ですし、金銭的な部分もあるし1人で気軽に出来るわけでないので、スケジュールの問題ですね。弾き語りに関してはライフワークなので空き時間に歌詞を先からやったり、浮かんだフレーズをiPhoneに入れたりとかしてて。インストは嫌いだったけどベース始めて20年経った時に何が出来るかって考えた時に「そういえばベース好きなのに作ってないな」って。インストも環境さえあれば1人でもやれるから、弾き語り同様にライフワークとしてですね。ベーシストとしてのインスト、等身大としての弾き語りという両極端をやれる環境があるうちはやっていたいですね。

ーさらに今は「黒夢」が中心となっていますよね。

来年「黒夢」のデビュー20周年と銘打って、僕にとっても清さんにとっても印象的な年になると思うので、僕はなるべくそのスケジュールを優先したくて。冗談抜きで今の関係性が1番良いので、その状態で20周年を迎えられる事がすごく大きいから大事にしたいんですよね。

ー今日のインタビューを振り返ってもその想いはすごく伝わってきました。あと、人時さんは純粋に音楽が好きなんでしょうね。

全ての事に言えるんですけど、音楽に携わっていたいだけなんですよね。自分の立ち位置を維持しながら、色んな人と関わってベースを弾いていきたいっていう1番の根底があるので。

ー様々なプロジェクトに携わっていらっしゃいますがバランスもすごく良いですよね。

うん、最近そのバランス感覚が分かるようになってきたかな。一時期、「黒夢」・「CREATURE CREATURE」・ソロ・サポートってやってるのがしんどい時があったんですけど、乗り越えたので。そういう経験が今は活かせているのがあるからだと思いますね。

ー人時さんが思い描いていた事が本当に実現していってますね。

いや、まだまだですよ。ロック寄りの方だったり、元V系の人とかが大半ですけど、ポップスのお仕事もしたいですし、極論から言うと演歌もやってみたいですし。将来的にはオールジャンルで弾けるとか、初見で譜面を読めるとかが目標なので。何年か前に泉谷しげるさんとお仕事させて頂いた時、ものすごく勉強になったんですよね。僕と通ずるものがないけどいざやってみて、知らない世界で得るものってたくさんあるし、わくわくするっていうのがあって。

ーそうる透さんがそうですよね、天童よしみさんともやられてますし。

僕の中でミュージシャンの指標は透さんでもあるしね。透さんの名前ばっかり出しやがってって言われそうだけど(笑)僕の中にそれだけ強烈なインパクトを残された方だから。過去にご自身で「24時間営業のコンビニです」って言ってるくらいの人ですから。いつでも呼んで下さいって意味ですけど、そのくらいの感覚でプライドを持ってやられているので。

ー信頼も厚いでしょうし。

うん。インターネットが普及して10年以上経って、人との接触も少しずつ希薄になって、電話もしなくなりメールで済ましたりとかね。それで伝わる事って実はすごく少ないと思ってて。結局、音楽をやっていく中で人と演奏をするから”人との繋がり・人との付き合い”なんですよね。色んな進化や発達によって、コンタクトを取らなくても仕事が出来るようになったとしても、そういった繋がりや付き合いが大事だっていう事をソロになってからより強く思うようになったし、より人間臭くなった気がしますね。「他人を信用しない」っていう部分が減ってきたし、信頼関係を大事にしていきたいですね。


取材:2013.11.14
撮影:Eri Shibata
インタビュー・テキスト:Atsushi Tsuji(辻 敦志) @classic0330