シュリスペイロフ インタビューvol.28

札幌で結成されたシュリスペイロフ。山中さわお(the pillows)が主宰するDELICIOUS LABELへの移籍を機に、活動拠点を東京に移し約2年が経過した。前作「turtle」を経て、リリースされるフル・アルバム「その周辺」は、見事に今の彼らが余すことなく表現されている。本インタビューでは、そんな彼らの経歴を紐解くとともに、「その周辺」に至るまでをお届けする。PART.1は結成〜「ダイバー」リリースまで。

―前作の「turtle」から約1年での新作「その周辺」、作品のリリース・ペースとして早い印象がありますが、自然と創作意欲のようなものがバンド内で生まれたのでしょうか?

宮本英一(Vo/Gt:以下、宮本):「turtle」を作ってるときに、リリースはミニ・アルバムとしてでしたけど、元々はフル・アルバムとして作ってたので、そのときの曲があったのと、僕の制作のスピードが上がったところですね。前よりも曲を捏ねくり回す作業がシンプルになったというか、楽曲本来の役割みたいなものを自分なりに掴んで早くなりました。シンプルな感じのものって、苦労をしていない気がして、良くないと思ってたんです。そうじゃなくて、今回は自分たちから出ているものを大事にしたかったんで、割と早く作れた感じですね。

—これまで制作してきた楽曲も、寄り添ってはいらっしゃったわけですよね?

宮本:そうですけど、今回はもうちょっと個人個人で煮詰めなくても出来ました。

ブチョー(Dr:以下、ブチョー):以前だと、パッと出たものを当てて、その後さらに何段階かアレンジを変えていっていたんですけど、そういう作業をし過ぎないようにして、最初に浮かんだフレーズを逆に活かしたりとかが多いですね。

宮本:僕ら、そんなに演奏が上手じゃないんですけど、それも別に気に入ってるところで、「めっちゃ巧い」みたいなところを出さなくても良いというか。譜面通りに整える作業をするより、間違ったところも良かったら採用するし、一つ一つの楽器の表情が見えるようなものにしたかったですね。

―バンドとしても自然に臨めた制作だったんですね。結成されて16年目となりますが、当初の5年間は曲作りのみの活動だったことを考えると、バンド内でのペース配分然り、制作過程が変化していますよね?

宮本:今はちゃんと発表する場があるけど、その頃はただモジモジしてただけの5年間だったんで。ただ遊んでただけです(笑)。

野口寛喜(Ba:以下、野口):一緒に温泉行ったり(笑)。

「ダイバー」が出来て「これだな!」って

―(笑)。少しその頃から時系列を辿っていきたいのですが、札幌で結成されたのが1999年、結成時の目的というか、こう表現したい・こういう活動をしていきたいという経緯があったと思うのですが?

宮本:あぁ…僕はバンドで表現したいというよりも、中学生のときにギターを買ってから、ずっとバンドをやりたいというのが憧れだったので、それをやろうという感じですね。ブチョーと一緒にメンバー募集して集まって、何となく始まって、そん中で方向性が自然と出てきたって感じですね。最初は特に…というか、今もないかもしれないですね。自然と出来た楽曲に寄り添って、アレンジを施すのが僕らの感じになっています。

—結成時から楽曲の制作については、良い意味で現在に於いても変わってはいない?

宮本:変わってないよね?

野口・ブチョー:変わってないね。

宮本:一時期、サイバー化というか、パソコンを導入してやってたんですけど、さっき言った通り、一人一人が煮詰めてしまい、だんだん表情が消えていったんです。「turtle」くらいから、楽曲が出来たらスタジオで合わせて、ざっくりと作り演奏しながら、それぞれ作っていきます。

―5年間という曲作りの期間で、相当な数の楽曲が出来上がったんじゃないですか?

宮本:いや、作ってやめて作ってやめてを繰り返していましたね。

—曲を完成させなかったということですか?

ブチョー:仕上がっても次第に忘れていってました。

宮本:そうだね。

ブチョー:新しい曲が出来ると、そっちの方に興味を持って。

宮本:「ライブをやろう」ってなって、「ダイバー」が出来たんですけど、その曲が初めて「これだな!」って感じがしましたね。

—では、曲をストックしてという考えで制作していなくて、バンド内で吟味した楽曲を練り込んでいく作業をその5年間で繰り返していたんですね。

野口:良く言えばそうですね(笑)。

―そうやって作った楽曲を披露できて、更に直接届けられる手っ取り早い方法ってライブだと思うんですけど、そういった行動に結びつかなかった理由は何だったんですか?

宮本:あのときは行動力が誰一人なかったというか…リーダーもいなかったし。僕は発表した気持ちはあったんですけど、メンバーに曲を発表してるようなつもりでしたね。
誰かに曲を聴かせるって行為自体が、すごい恥ずかしい行為だと思ってたんです。「オリジナルやりたいけど、みんなに聴かせるのは恥ずかしい」っていう繰り返しだったんで。そこから、何で「もっとみんなに聴かせよう」って思えたのか…

野口:単純に「年齢的にやばいんじゃない?」っていうのがあったよ。やるならやろうって。

宮本:そうだね。

—そのタイミングで幾つだったんですか?

野口:24ですね。

宮本:それで、ライブハウスで観たことなかったので、知り合いの人のライブを観に行って。5バンドくらい出たやつだったんですけど、なんか全然たいしたことなくって(笑)。自分たちの方が全然良いって思えたから出たんです。

自分たちのバンドが良いバンドなんだって気づいた日

—(笑)。ちょっと意外だったのが、演奏側としてはともかく、観客としてもライブハウスへは行かれてなかったんですね。

宮本:そうですね。多分、怖かったんだと思います。自分たちがやってるものを他のもので観ることによって、「自分たちには才能がない」って思うことがね。

―あぁ、比較対象が出来てしまうことでの恐怖ですね。

宮本:その日も結構覚悟して行ってました。かっこいい人がやってるんだろうなって。でも、全然かっこよくなかったから、出来るねって。

―その初ライブって覚えていらっしゃいますか?

宮本:覚えてますね。リハーサルでど緊張してて、本番始まったあとは何も聴こえなかったですね。音がバカでかくて、自分の声も聴こえない。だけど、すごい反応が良かったんですよ。お客さんは少なかったけど、ライブハウスのスタッフさんからすごい良いと言われて。閉じこもっていたところから、急にポッと出てチヤホヤされたみたいな。びっくりしましたね。

ブチョー:僕はあんま覚えてないですね。多分、緊張してたんだと思うんですけど、ライブ中のことは覚えてないです。

野口:照明さんやPAさんや店長が「今までどこでやってたの?」って言ってたのを覚えてる。

宮本:その日に次のライブも決まって。

ブチョー:自分たちのバンドが良いバンドなんだって気づいた日でしたね。

―それから2005年には「ダイバー」のリリース、タワーレコード限定とはいえ、作品が店頭に並ぶということは、バンドとしても活動の幅を広げるというきっかけにはなったのでしょうか?

宮本:札幌でタワレコのイベントとかに出させてもらったり。あとはその当時のプロの人とやるようになって、お客さんがたくさんいるところでもやれましたし。誘われるままにでしたけど、本当に少しずつ進んでいってる感じはしましたね。

―NORTHERN EDGE への参加や、2008年にリリースされた「シュリスペイロフ」で全国流通となり、道内以外での活動が増えたのはこの時期でしょうか?

宮本:そのくらいから、頻繁に東京へもライブに行くようになって。誘われるがままにと言いましたけど、悪い話でもなかったし。

野口・ブチョー: (笑)。

宮本:あと、自分たちでやった企画とかも、ライブハウスの店長から「そろそろやりなさい」と言われて「はーい」みたいな。そういうこともあって、お客さんを増やさないといけないとか、どう盛り上げていくかを考えたりし始めましたね。

—それこそ照明さんやPAさんの協力と、観に来られるお客さんとで作り上げる世界で、どう魅せるかの意識や工夫をし始めたんですね。

宮本:いや、工夫し出したのは最近かな(笑)。自分たちがライブで何をすべきかということが見えない時期が長く続いてましたから。必ずミュージシャンがやりがちなことってあるじゃないですか?そういうことをやってみて違ったなあとか、自分たちに合ってることを自然にやるのが一番良いなって最近気づきましたね。

—コールアンドレスポンスを煽るとか?

宮本:違いましたね(笑)。僕らのライブで「ギャー」ってなることはないので…なると思ってたんですけど(笑)。

野口・ブチョー: (笑)。

宮本:テンポが速かったりとかもそうですけど、他のバンドのノリが羨ましく思えることもありますね。以前、下北沢CLUB Queのイベントで僕らがバンドでさわおさんが弾き語りで出る対バンがあったんですけど。

野口:そのとき、自分たちが終わった後のアンコールで、さわおさんがピロウズの曲を歌ってくれて、俺らがバックで演奏するのがあって。

宮本:僕らの演奏も良かったとは思うんですけど、さわおさんが立って一緒にやったとたんにお客さんが「ギャー」って…なんだろうな、「さわおさん、カリスマかな」とか思ったり(笑)。そうなりたいなって、未だに思ってます。

「大変なことが始まるな」って思った

―(笑)。シュリスペイロフでしかない世界のノリと良さがありますから。そして、結成10年目でメジャーとなった「もぐる。」、初のツアーを東名阪京の4カ所で開催されて。それまでにイベントなどは除いて、バンドとしてツアーをされてなかったんですね。

宮本:ツアーってイメージをしてなかったですね。楽しそうだなとは思ってましたけど。

ブチョー:「シュリスペイロフ」はビクターのインディーズから出してたんで、推したいバンドと一緒に周るというのはあったんですけど、僕らの冠がついたのは初でしたね。

宮本:のあのわとかね。「もぐる。」のツアーのときも、一緒にセカイイチとthe courtとかと周って。冠で思い出したけど、「大変なことが始まるな」って思った気がしますね。「シュリスペイロフのツアーか」って(笑)。

—他人事じゃないですよ(笑)。冠ということは、「シュリスペイロフ」を目的に様々な地域の人たちが集まって来るわけですから。

宮本:それが不思議でしたね。CDをメジャーで出すということをそういうところで感じていましたね。

―なるほど。見えない場所への波及ですよね。その延長と捉えて良いか、2010年にはライブ修行の年とされていますが、“修行”とは何を指していたのですか?

野口:覚えてない(笑)。

宮本:すごい練習してた気がするな。スタジオ入って作業して寝てっていう繰り返し。

ブチョー:そのときも月1で東京にも行ってて。それもやりつつ札幌でもライブやって、スタジオも週5くらいで入って。

宮本:そんなことばっかりするからさ、夜24時くらいに帰るじゃん?やきそば弁当(北海道限定のカップ焼きそば)とビールを毎日繰り返してたら、ストレスもあってぶんぶくりになったよ。

—(笑)。その練習は、ライブでの表現をより高めていく為だったんですよね?

宮本:良いライブってなんなんだろうっていう答えもわかんないまま、闇雲にやってた気がしますね。今だとこうなったら良いってイメージが湧くんですけど、当時は失敗しないとか、リズムがちゃんとしてるかにいちいちイライラしてた気がしますね。あれは辛かったな。

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