T$UYO$HI(The BONEZ) インタビューvol.36

drug store cowboyとしてデビュー後、Pay money To my Pain、そしてThe BONEZと活動を続けるベーシストT$UYO$HI。数々の作品と唯一無二のライブを示し続けるT$UYO$HIの魅力をこれまでの歴史と共に迫ります。PART.2はdrug store cowboy 〜 Pay money To my Pain まで。

ーdrug store cowboyのデビューにあたり、楽曲やライブの反響、何より自分たちの音楽に自信があったわけですよね?

ありましたね。結成当初は「hideさんに気に入られるバンドにしたい」っていう俺らの裏テーマがあって。叶わなかったけど、出来ればhideさんに聴いて欲しかったですね。
ただ、デビューしたことで、最初のワンマンにJさんが観に来てくれてたり、結局は出ることはなかったけど、当時zilchとJさんでやってたイベントの話が来たり、感覚的に最初のテーマと近いとこにはいたのかなぁ、と。
あとデビューしてすぐ、PABLOとJESSEにも出会いましたね。

ーT$UYO$HIさん個人としても、ひとつの通過点・目標として、お父さんとの約束を果たせたわけですし。

ただ、世の中的にも変化が出てきた時代で、LUNA SEAやTHE YELLOW MONKEYとか、上位チャート常連バンドの活動が止まったんですよ。同時にアイドル軍団が出てきて、音楽の流れが変わっていく波の中でしたね。

ー更にBLANKEY JET CITYやHi-STANDARDなど挙げられる、ストリートカルチャーに人気のロックバンドも、次々に解散・休止となっていきましたよね。

それは海外でも起こっていて。90年代って俺が1番好きな時代なんですけど、NIRVANA、KORN、レイジ、Limp Bizkitっていう、アイコン的モンスターバンドが次々と世に出て「次に来るバンドはどんなバケモノだ!」って。けど…結局そういう存在のバンドが出てこなかった。
THE USEDもFINCHも、時代のバンドとまでは行かずにEminemの存在の方がデカかったんじゃないかな?

ー確かに。

世の中のトンガってる人は、ロックバンドからHIP HOPにシフトしていきましたよね。
その話に限らず、上の世代が100万枚とかCDが売れてたり、世の中のバブルを情報として見てるんだけど、実際に体感したことがない世代な気がします。下は下で、まるで感覚が違う世代だし。

ー「デビューしてもこんなものなのか」とか?

そうですね。インディーズをすっ飛ばしたこともあるんですけど、デビューしたら世の中がひっくり返ると思ってた(笑)。
だけど、いざタワレコ行ったら「D」とか「ト」の欄にちょっとCDが何枚かあるだけで、「え、何これ?ひっくり返るどころか、こんなの誰も俺達の存在にすら気がつかないよ…」って。

ー思い描いていたデビューとは違った現実に直面していたと。

まぁそうですね。でも、浜崎あゆみさんとかが気に入ってくれてライブに来たりとか、「最近聴いてるのはdrug store cowboyです」って宇多田ヒカルちゃんとかも言ってくれたり、一部のアーティスト受けは良かったですね。

ーデビューをしてから、活動停止するまではいかがでしたか?

まぁメジャーで4年程活動して、それぞれ色んな知り合いが出来たし、その中でみんなの方向性や目標がどんどんズレてきて…。
AXでワンマンするくらいのファンの人達もいたから、メンバー間のズレを抱えたまま、バンドを続けることもできたけど、もう辞めようということになりました。
俺がすごく悔しかったのが、ツアーで麻波25、宇頭巻、山嵐とかとやるんだけど、MIXTURE全盛期に俺らはPOP過ぎたというか…。
「イッシーとは話が合う友達だし、1人で攻めててカッコイイけど、バンド単位になるとあまり惹かれないな。」って言われたことがあって。

ーdrug store cowboy自体、そのシーンの渦中にいたバンドであるにもかかわらず、その表現していたものが認められないもどかしさ?

もどかしいっていうか、やっぱ多少の方向性は違っていても、個人としてじゃなくバンドとしてつるみたかったな。

ーそうしてdrug store cowboyが活動休止という決断になった中、P.T.P名義でのライブを1度されていますよね?

たまたま「これ、きっと好きだと思うよ」って、GUNDOGの2曲入りデモCDとフライヤーをもらって。それを聴いたら「なんじゃこりゃ?クソカッコイイぞ!」って。
だけどデビュー前だった当時の写真は、Kもアツシもカラコン入れてたり、マスクのヤツはいるし(笑)、半分ビジュアル系みたいな雰囲気もあったんですよ。
そのフライヤーを見たら2日後にサイクロンでライブがあるらしいと。
「これは自分で確かめるしかない!」って、迷わずライブを観に行ってステージのKを観たとき「俺、絶対コイツとバンドやる!」って(笑)。
話したこともないのに勝手に思ってビビビビー!っと来ましたね。

ーこれが先程の口説きの第2弾ですね(笑)。でも、GUNDOGはデビューが決まっていましたよね?

まさにこれからデビューするってときですけど、絶対にKとやりたいって思った。その日はそのまま帰ったけど、次のasiaのライブも行って、話し掛けて連絡先を聞いて。
その頃Shake Magazineって雑誌をやることになるスシさんから「群馬でワンコインナイトってイベントやるんだけど、drug store cowboyも出ろよ」って言われたんです。
そのときに、何かキッカケがないと始まらないと思って、「俺、違うバンドで出てもいいですか?」って話して、Kに「ちょっとボーカルやってくれない?」って声を掛けたんです。

ーそれがclub FLEEZでのライブ?

そうです。このときのドラムは聖地で、だいぶ前からPABLOとは一緒にバンドをやろうって話になってました。もう1人のギターは、Kが連れて来ることになってて「コードをすごい知ってるポップな人がいるから連れて行く」って、連れて来たのがJINくんだったんです。

ーおぉ!繋がりますね。

そのときのライブで、KはP.T.Pの存在がかなり衝撃だったみたい。メンバーの人間的楽しさやそれぞれの音楽的ポテンシャルに惹かれたって。
時期的にはGUNDOGが「Chair」を作ってる頃で、けっこう苦しんでたみたいだったな。
“三鷹ハウス”といって、三鷹にいつも溜まってる場所の主で、イッペイちゃんっていう天才作曲家のギタリストがいるんだけど、彼はデビュー前にGUNDOGを辞めちゃったから、その時期はKが作曲を引っ張ってたみたい。

ーT$UYO$HIさんからしてみれば、「きたきた!」って思える流れでもありますが。

まぁ、でもいきなり「バンドやろうぜ!」って言って、すぐ出来るものでもないんで。
当時の俺は、ロスと沖縄に興味があって、Kも「俺は英語を喋るけど偽物だ。英詞で歌うなら、アメリカ人が映画を見て笑うタイミングで、俺も笑えるぐらい英語が喋れてないと」って言うから、2人で一緒にロスに行くことにしたんです。

ーそれはdrug store cowboyが活動休止したタイミングですか?

そうです。まさにバンドを停めた翌月かな。Kと2人で行ったロスは、一生忘れないですね…。ロスというかカリフォルニアは、人生で2回目のカルチャーショックで、初めてミュージックステーションでBUCK-TICKを観て、バンドってものに出会ったときの次に衝撃だった。

ーそれはよっぽどの強烈だったんですね。

以前、ニューヨークに撮影に行ったときは、正直「あれ?アメリカって思ったよりブッ飛んでない
って思ったんですけど。
ロスの気候や風景、サンセット、車で音楽を聴くだけて気持ち良いっていう日常が、俺が求めてたアメリカだったんです。空港から出てすぐに「俺が想像してたアメリカってこれだー!!」ってなりましたね(笑)。

ー西海岸という場所で、2人で充実した時間を過ごせたこと自体もでしょうね。

レンタカーを借りて運転は俺が担当するんですけど、地図の見方もわからなければ、何度も逆走したし「何か車に手紙が置いてあるぞ?」って見たら、初日から駐禁だったり(笑)。
英語はKの担当だったけど、当時はモーテルを借りるにもKも緊張しながら話してた。部屋に荷物置いて、すぐに酒を買いに行ったんだけど、途中で真っ黒のフードを被った白人が目の前から歩いて来て。
まぁ、今にして思えば10代の普通の子なんだけど(笑)、もうそれだけで「ヤバイ!怖ぇ!」とか言って。モーテルに戻って「危ないから、カーテンは閉めよう」ってカーテン閉めて「よし、自分達でモーテル借りれた!乾杯!」って、でっかいビールを飲みましたよ(笑)。

ー(笑)。その話だけでも深堀れそうですが、Kとのそういう時間を過ごされた中、P.T.Pの本格活動まで時間がありましたよね?

そうですね。三鷹にバンドマンが集まって、音楽を聴いたり酒を飲んだりする日々が続いて。今でも覚えてるのが、一緒に2度目のロスに行って、帰ってすぐにGUNDOGのライブがあったんだけど、アイツはステージでグルグル回って全然前を見て歌わないし、バスドラは蹴っ飛ばすし…。

ーフラストレーションからくるものだったんでしょうか?

他のメンバーへじゃなくて、自分に満足いってないというか、心はアメリカって感じでしたね。
そして9月11日。三鷹の家にメンバーで集まるタイミングで、PABLOから「俺はもう待てない。KにGUNDOGとP.T.Pどっちにするかって聞こう」って言われてたんですよ。そしたら、そんな事を何も知らないKが、ちょっと酔っ払ってやって来て「俺、GUNDOG辞めるって言ってきたわ。俺P.T.Pやるよ。ただ俺がアメリカに住むことを許して欲しい。その中でも活動出来るんだったら俺はやる」…って。まさかのタイミングでKから言ってきたんです。

ー結成と同時に、アメリカ移住という事を受け入れる決断をした日でもありますね。

そう。それから何本かライブをして、元旦にHPを立ち上げました。物事の歯車って、無理やり回そうとしても回らないけど、ある日スイッチが入って、勝手にガシャガシャって回り始めたら、自分が全く想像しなかったことが起こるんです。
drug store cowboyがデビューしたときもそうだったし、歯車が回り出さない限りはやっぱりダメなんですよ。このバンドはちゃんと活動をしたらもの凄いことになるって思てったし、メンバーにも何度もそう言ってたけど、やっぱりタイミングってのがあって。凄い理想のバンドだったけど、まだこのときは歯車が完全には回ってないと思いました。

ーT$UYO$HIさんは経験されていたから、結果的に待つことが出来たし、P.T.Pの可能性が見えていたからこそですね。

そうですね。Kにも何度も言われたな。「T$UYO$HIくんは、よく俺を3年も待ってくれた」って。でも、これはアイツに最後に会った日にも言ったけど、「それは、そんだけお前が魅力的だったからだよ」って。でもKがアメリカに行って半年ぐらいは、敢えて一切の連絡取らず、アイツを孤独にしてやろう作戦を俺は実施しましたけどね(笑)。

ーそれも修行だと(笑)。

はい。その半年後ぐらいに、三鷹の友達とみんなで遊びに行ったらクソ喜んでた(笑)。
ある日、カリフォリニアに住んでる友達の家で、夜のプールとオレンジ色の灯りを見ながら2人で酒を飲んでるときに「T$UYO$HIくんはどう?俺は自分がステージ立ってる感じとかもう忘れちゃったなぁ…。でもP.T.Pでミュージック・ビデオとか撮ってみたかった」ってKが言い出して。

ーロスで生活している頃のKは、そんな感じだったんですね。

俺が日本に帰ってから、タナケンさん(VAP担当)に「ビデオ撮りたかったって、Kが言ってましたよ」って言ったら、「え?じゃあ撮る?でもビデオ撮るなら音源も要るな〜」とかサラっと言いだして(笑)。
「え!!マジすか?CD出せるんですか?」って聞いたら「別に出せるよ」と。ただ、Kは学生ビザの関係で、2週間くらいを年に2〜3回しか帰国できないんで、日本で長期レコーディングを出来ない。だから、レコーディングもビデオ撮影もアメリカですることになって、突然のアメリカレコーディングとメジャーデビューが決定(笑)。

ー突然すぎる(笑)。

ZAXなんてメジャーデビュー、アメリカでライブ、アメリカでレコーディングをするって夢が、いきなり全部叶っちゃいましたからね。でも、本当にタナケンさんがいなかったらP.T.Pは世に出てなかった。俺らのムチャクチャな願望を現実にしてくれる、あの人の力があったからこそです。タナケン無くしてP.T.P無しですよ。

ーしかも、T$UYO$HIさんが仰った”歯車が回る”タイミングになったんですね。

ですね。一気に動き始めました。俺はとにかくP.T.Pってバンドで痛快なことがしたかった。単純に好きでやってることが巨大なものになって、周りを巻き込んでいくイメージというか。
初期の頃は、ほぼ告知なしでゲリラで3曲だけのライブをしてて。今みたいにtwitterとかない時代だけど、噂を聞きつけたお客さんがいっぱい来たし。
Kが一時帰国したときのライブも「メディア露出一切なし!音源なし!」だけどソールドアウトみたいな。

ーしかも、自分たちよがりでなく、周りにも波及している結果としての現象ですし。

やっと胸を張って、どっからどこまで聴いてもカッコイイっていうバンドが出来たと思いましたね。Kに限らず、PABLOっていう最強のギタリストともやっとバンドを組めた。JIN君はまた違うキャッチーさを持ってるし、かんちゃんのドラムもパンチ効いてるし。
さらにはタナケンさんていう敏腕もいる。もうバンドの存在自体がカッコイイし最強だと。

ー完璧ですね。

Kと初めてアメリカ行ったときから、必ず行ってる「Huntington Beach」 って場所があって。
レコーディングが終わると、みんなはすぐ日本に帰るけど俺はしばらくKん家に残るんですよ。
で、完成した音源持ってそのビーチに行って「ついに実現したぞ!」って海に報告しました。

ー初めて自信を持てるバンドになった喜びから来る行動ですね。

そのときは、本当に「やった!」って思ったなぁ。長らくの夢が叶ったって思いました。

ー一方で、Kさんがアメリカいた頃は、時間的な制約の問題があったと思うのですが、逆に帰国されてからは、バンドに使える時間が必然的に長くなったと思います。それに伴う変化はあったのでしょうか?

普通にスタジオとか入ったことなかったし、終わって「飲みに行くって変な感じだね」ってよくPABLOと話してましたね〜(笑)。そうなることによって、実は懸念していたというか、プレミアム感が薄れて”普通のスタンダードなバンド”になったというか。
いつでもP.T.Pを観れる状況にもなったことで、今までとは違う勝負をしないといけないとも思いましたね。

ーその中、”LIVE 「40」 全曲LIVE敢行”は、ひとつのターニングポイントになったのではないでしょうか?

月一で集まってミーティングをしてたときに、そんな大それた考えではなかったと思うけど、「普通にワンマンやっても面白くないし、全曲やっちゃうのはどう?」ってPABLOから話が挙がって。慣れの話じゃないけど、3曲のライブで満足してた人が、今度は1時間観ないと満足しない。1時間のライブを観た人は、今度は違う何を観せないといけないという、消費が始まっていて。
そういった中で、作品的にも「Remember the name」で一区切りっていうのもありましたし、やって良かったと思います。

ーその年にベスト盤も出され、また歯車が回り始めたと思っていた矢先、ツアー中止というアクシデントに見舞われました。

年始のライブで「今年はいいぞ」って、めっちゃ思ったんですけどね…。みんなそうだと思うけど、結局は制作なんですよ。ライブをやる分には全然良いんですけど、アルバムの制作に入ると、曲だったり歌詞だったりで色々とナーバスになりますからね…。
で、Kがガコーンとダウナーになっちゃって。その状態からツアーをどうするかってなったら、Kは「ごめん俺、ツアーできない」ってなって。そこで俺は、JESSEに電話したんですよ。

ーその当時から、T$UYO$HIさんとJESSEの関係も深かったんですか?

JESSEとは2000年にデビュー同期で知り合ってから、俺はRIZEのライブもかなり行ってたし、それこそPTPとRIZEで2マンツアーもしたし。でもJESSEと電話したことは実は3回ぐらいしかなくて、まさにそのうちの1回ですよ。
「今日、ツアーをキャンセルするか最後のミーティングするんだけど、メンバーが言ってもきっとあれだから、JESSEからKがどう思ってるか探ってくんない?」って電話したら「そうなんだ、どこまで俺達のバンドは運命共同体なんだ…」みたいな話をして。

ーRIZEも色々と事情がある時期だったんですか?

まぁ…そうっすね。それでやっぱりKは「今回のツアーはキャンセルしたい、みんなごめん」ってなった。その夜24時にHPに告知文をアップする作業をして、そのまま渋谷で始発まで飲んで家に帰って。「ハァ…この先どうなっちゃうんだろう」って悶々としたまま寝ようとしたら、朝方JESSEから電話が掛かってきて「俺、実はソロやるんだけど、時間あるっしょ?リズム隊いなんだけど一緒にスタジオ入らない?」って。

ー青天の霹靂というか、その電話が始まりになるんですね。

はい。正直、何かしらやることが出来て、変に考える時間が減ることは嬉しかった。
「じゃあ、曲送ってよ」って電話を切って、次の日に4曲ぐら送られてきて曲を聴いてみたら「あれ?RIZEとも違うけどカッコイイぞ!」って。即効で曲をコピーして、スタジオに入ったんです。
そしたら翌年の1月11日に「シェルターでワンマンが決まってるから、そのライブをZAXとやってくれない?」っていう流れで。だから決まってたのはそこまでなんですよ。

ー続けるバンドとしてという考えは全くなく、あくまで「サポートを引き受けます」という?

そうです。

ー難しい話ですが、その後のKさん急逝の中、JESSEのサポートを断らなかったんですね。

もちろん無理って思ったし、迷いましたね。しかもオフィシャルでKのことを発表したのが、ライブの前日(10日)なんですよ。自分がステージに立つ云々より、Kのことを知ったファンがどうしていいかわからなくて、シェルターの周りとかに集まってしまうんじゃないかって心配もあったし。
ただ、ここで「ステージに立てない」って言って、JESSEサイドに迷惑をかける訳にもいかないですからね。

ーどこまでを配慮の線引きとするかは難しいところですね。

結局、当日のライブのことはあんまり覚えてないです。終わってからMVとかでも着てるブランドCHORD#8のコウちゃんと村瀬、BOOちゃん、シンジやSCHON、ライターの増田さん、仲の良い仲間がたくさんが来てくれて。下北沢で打ち上げというかみんなで飲んだんですけど「やって良かったな 」と思いました。

ー少しホッとした部分があったのかもしれないですし。

みんなそんな感じでした。友達の顔を見て、気持ちを落ち着けてたような。Kが亡くなったって聞いたのは、Kの母ちゃんからの留守電で…。で、Kの母ちゃんと電話で話して、そこからメンバーや友達に俺から電話で伝えなきゃいけなかった。
家でウチの嫁さんは号泣してたけど、俺は泣く暇もなかってたっていう感じでした。

ー考えたり、現実を受け入れる余裕もない状況だったんですね。

本当は、年末にメンバーで会う約束をしてたんだけど、それはキャンセルになっちゃったから、最後に会ったのは11月の後半だったかな?横浜にある、知り合いの小さな小料理屋を貸し切って、そこで2人で会って色々話しましたね…。
そのときに、俺は思ってることを全部伝えたし、あとはKに踏ん張って欲しかったし、それこそ「今はバンドは別に良いんじゃん?」ってことも言いました。

ーP.T.Pをやらなくてもということですか?

うん。もちろん契約の問題もあったりするし、そのとき進めてたアルバムの制作が途中で止まってたから、いつまでに歌を録らないとリリースが間に合わなくなるっていうスケジュールの話は一応して。
でも、完成しなければ契約違反になるし、待ってるファンやタナケンさんが聞いたら怒るかもしれないけど「別に絶対的に大事なことじゃなくない?」って言って。

ーというと?

「俺らは一緒にカリフォルニアでプールを見て、ぼーっとして、ステージに立つ感じとか忘れちゃったねって言うぐらい、なんでもなかったじゃん」って。
「もちろんKはすごいボーカリストだし、Kとやれたからこそ、俺は思い描いてたようなカッコいいバンドができて、いろんな夢をみんなで一緒に叶えた。でも、それ以前にKは友達だから、俺はそっちの方が大事だし。バンドはやりたくなったらまた一緒にやるでも良いんじゃない?気分転換にまたどこか外国でも行こっか?」って。

ーその会話はメンバーとしてというよりは、もう友達としての会話だったんですね。

そうですね…。もちろん契約違反になったらそれこそ収入もなくなるけど、それはそれって思ったし。なんかアメリカにいるときに、夜2人で酒を飲んで、外のオレンジのライトを見ながら話してるような感じだったかな。
バンドの話に限らず「チャキオ(T$UYO$HI嫁のことをKはこう呼ぶ)は最近体調どう?」とかいう話もしたし、K自身も「この間、カラオケに行って久しぶりに歌ったよ」とか「誕生日に気になってる子と温泉旅行へ行こうと思ってんだよね」って話もしてたし。

ー友達として話をしたときには、P.T.Pとして志半ばになるかもという予感がT$UYO$HIさんの中であったと思うし、覚悟もあったんですか?

うーん。俺の思いは伝えたし、あとはKを待つっていう感じでした。すぐに復活できたらそれは1番良いことだけど、たとえメジャーと契約がなくたって、それこそ趣味でもバンドはできますからね。でもメンバーがいなくなってしまったら、バンドは出来ないんですよ。

ー言い換えると「P.T.P.はこの4人でしか成立しないんだよ」っていうことですね。

ただそれだけですね。もちろん、残った3人で続けて欲しいとか、それこそ「新しくボーカル入れたら?」って声もあったけど、1ミリも考えたことないです。
俺が最後のZEPP TOKYOで観せたかったのは、実は”成立してない姿”なんですよ。「Kがいなかったら、4人揃わなかったらP.T.Pじゃないでしょ?」って姿なんです。
ロックバンドって、そういうものなんじゃないですかね。

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