T$UYO$HI(The BONEZ) インタビューvol.36

drug store cowboyとしてデビュー後、Pay money To my Pain、そしてThe BONEZと活動を続けるベーシストT$UYO$HI。数々の作品と唯一無二のライブを示し続ける彼の魅力をこれまでの歴史と共に迫ります。PART.1は幼少期〜drug store cowboyまで。

 

ーT$UYO$HIさんの中で、一番最初に記憶として残っている出来事って何ですか?

…泥棒が入った(笑)。

ーすいません、どういうことですか(笑)?

俺が出くわしたとかじゃないんですけど、入った…らしい(笑)。親父がトランペットやクラシックをやっていたからオーディオも好きで、家にすごくでっかいスピーカーがあったんです。幼少期に住んでた武蔵小金井の家に泥棒が入って、スピーカーをタンスだと思ったらしく、スピーカーのカバーが外れてたっていう。「泥棒さん、タンスだと思ったみたいだけど、残念だったね」って母親が言ってたのを覚えてる。

ー(笑)。それは幼稚園くらいですか?

幼稚園の年中ですね。あと、近所に大きな砂場があって、そこに自分の足を入れたまま、その上に砂のオブジェみたいなものを作り始めたんだけど、あまりにもすごいものが作れて。動くと壊れちゃうから、帰りたいけど帰りたくないっていうもどかしい気持ちとか、幼稚園の友達が引っ越しちゃうときに、折り紙でライオンみたいなのを作ったんだけど、それもあまりに上手くできたから、「人にあげたくない…」って思ったのを覚えてる。

ー今でもその記憶があるということは、心のどこかに引っ掛かっているんですか?

どうだろう、別に何かを引きずってるとかじゃないです(笑)。音楽で言えば、年に何度か親父の演奏会に連れて行かれたけど、クラシックだからまず歌がない。「一体、何が楽しいんだろう?」って、まだ当時はよくわかってなかったな。

ーよっぽど、幼稚園で歌う童謡の方が楽しいですからね。

そうですね。まぁクラシック関係ですけど、音楽的なものは近くにあったと思います。

ー年中さんでは早いかもしれないですが、お茶の間では多くの歌謡曲が流れていたと思うんですけど、必然的にクラシック以外の音楽もT$UYO$HIさんの耳に入ってきますよね?

町田に引っ越してきた年長さんぐらいには、やっぱりアニメの歌が好きだったな。しかもOPテーマじゃなくてEDテーマで、定番でいうとドラゴンボールとか(ハイスクール)奇面組とかもそうだし。

ー「魔訶不思議アドベンチャー!」よりは「ロマンティックあげるよ」だと。

俄然そうですね。EDテーマって、ちょっと切なさ混じりの曲が多いんだけど、そこが好きだった。

ーT$UYO$HIさんの持つ”エモさ”に通じるところがありますね。

そうですね。まだそのときは「実際に音楽やろう!」というつもりは全くなかったけど、自分の第一次音楽期というか。実際に初めて音楽をやったのは、音楽クラブに入った小学校5年生からで、自分たちで曲を作って、6年生の卒業式で演奏するという。

ーもう曲を作るんですか?それは歌モノとしての演奏で?

そう、俺が作った曲は採用されなかったけど(笑)。メロディに全く興味がなくて、そのとき俺はドラムをやることになったんだけど、リズムにしか興味がなかったからすごく楽しかったですね。

ーT$UYO$HIさんの初ステージが、まさかドラマーだったとは驚きですね。

キック、ハイハット、スネア、シンバルぐらいですけどね。そのときのことは詳しく覚えてないけど、主役は6年生なのに自分たちが主役になったような気持ちを感じたかな。

ー少なからず、ステージの醍醐味を味わった出来事ではありますよね。

そうですね。でも、まだベストテンとか観てるときだから「音楽やりたい!」とかは全然思ってないです。母ちゃんがTHE ALFEEとかチェッカーズとか好きで、俺もそれを聴いてたくらい。それこそ、「親の影響って大きいんだな」と思うのが、中学校に入ってバレーボールをやったんですけど、やっぱり母ちゃんも昔やってたんですよね。

ーそれがきっかけでバレーボール部に入ったんですか?

いや。そんなに運動が得意でもなければ、昔からスポーツに熱中してたってわけでもなかったんだけど、学校の中心人物的なメンバーが集まってたし、俺の身長が中1で170cmくらいあって有利だったから、初めてスポーツに熱中しましたね。だけど中2のときに腰を悪くして、病院に行ったら「もう運動は辞めた方がいい、このまま続けると将来は車椅子生活になる…」とか言われて、「なんで俺がこんな目に合うんだ…」ってスーパー絶望してたんだけど、何故かそのときに「よし!じゃあギターをやろう」ってなったんですよね。

ー急にギターが登場してきましたけど、今までのお話を伺う限り、THE ALFEEくらいしかギターとの接点ないですよね?

確かになんでなんだろう。学校の音楽クラブで、クラシック・ギターをやったからなのかな…?俺の中で「よし、エレキ・ギターを買うときが来た!」ってなったんだけど、もしかしたらTHE ALFEEとかをTVで観てたのはあったのかもしれない。

ー(笑)。では、そのタイミングでバレーボールは辞めることに?

いや、これがまたすごい話があって。1年くらいは立っても座っても激痛だったんですけど、後日違う病院に行ったら「いやいや。筋肉をつけて、固定すれば大丈夫ですよ」って(笑)。だからギターは買ったけど、部活も辞めずに続けて、当時流行ってたスケボーとかもやってました。

ー良い誤診じゃないですか(笑)。中学生だとグレそうな話ですけど。

それで言うと、俺の世代はまだヤンキー文化が残ってたし、俺の2つ上の先輩までは、かなりグレてたんですよ。だけど、俺らの代からスーパークリーンな学級で「花壇コンクール優勝!ワーイ!」みたいな(笑)。

ーすごい健全(笑)。

俺はヤンキーの美的センスに、なんかしっくりこなかったんですよね…。パンチ・パーマとかリーゼントがカッコイイとは思えなかった。あとは、所詮子供なくせに、大人ぶって背伸びするのが逆に子供っぽい気がして。だけど、”普通じゃない自分”にもなりたかったときに、初めて魅せられたのが、たまたまビデオに録画してたミュージックステーションに出ていたBUCK-TICKです。髪の毛が逆立ってて、メイクしている人なんて見たことがなかったから、「パンチ・パーマでもリーゼントでもない!ぶっ飛んでてカッコイイ!なんだこれ!!」って、死ぬほど繰り返し観ました。

ーT$UYO$HIさんの中で、BUCK-TICKの音楽のみならず、ビジュアルインパクトが大きかったんですか?

そうですね。ミュージックステーションでやってたのは「JUST ONE MORE KISS」だったんですけど、スケボーをやってたのもあったから、音楽的にはテンポが早くて激しいCDのカップリング曲の「TO SEACH」が好きだった。それから、激しい音楽を求めて貸しレコード屋さんに行くわけですけど、町田の外れのど田舎だったんで、ギターをやったりロックを聴いてるヤツ、兄貴もいないんで、どのバンドを聴けばいいのかまったくわからなかったです。

ーしかも、情報源がテレビでたまたま観たBUCK-TICKだけですしね。

そう。それで貸しレコード屋さんに行ったら、Iron Maidenのアルバム(SEVENTH SON OF A SEVENTH SON)があったんですよ。骸骨が内蔵持ってるやつだったかな(笑)?「骸骨!エグイ!これは悪そうだし、激しそうだ!」と思って、ジャケ借りして聴いてみたら「うわっ、なんだよ!曲のテンポは早くてカッコイイけど、ボーカルは女かよ」って思ったんですね。

ーえっ?

実はレコードの回転数を間違えてたんです(笑)。回転数を速く再生させてたから、元よりテンポが上がってるわけで、キテレツの「はじめてのチュウ〜」みたいな女性の声に聴こえたんです。で、正しい回転数で聴いたら「何これ?ボーカルは男だけどテンポ遅っ!う〜ん、求めてるのはこれじゃない!」って、回転数の早い方でテープに録音して(笑)、ちゃんとしたの録音してないんですね。

ー(笑)。Iron Maidenには申し訳ないですけど、キッズですから速いテンポの方が好きになりますよね。

きっと、今の若い子たちもそうだと思うよ。それからどんどんのめり込んで、ギターのコピーもしたし、初めてBUCK-TICKのライブを東京ドームに観に行って。そのあとも、ミュージックステーションに出てきたXを観て「テンポは速いのに歌もちゃんとあるし、これはドラマチックだ!」って、これまた俺の中で大ヒット。

ーなるほど。速いテンポの曲にメロディアスな歌を兼ね備えていてるという、当時のそういったシーンにいたバンドたちの音楽が、T$UYO$HIさんの血肉になっていったんですね。

高校に行ったらバンドが組めると思ってたし、それまではロッキンfで学んでくみたいな(笑)。

ー(笑)。それまでは自宅でひたすらコピーをしていたんですか?

そうそう。あ、1人道連れにしました(笑)。クラシック・ギターのクラブみたいなのがあって、そこにいた梅木くんにもエレキ・ギターをゲットしてもらって、卒業式のときに体育館でBUCK-TICKを2曲やったんですよ。もちろんベースなんかいなくて(笑)、俺と梅木君がギターをやって、別の友達に「ツッダン・ツツダンってやってて」と言って、ドラムはスネアとハイハットだけで(笑)。

ー(笑)。これが初ライブですよね?

ですよ(笑) !!曲は「SEXUALxxxxx!」と「SILENT NIGHT」を演奏したんですけど、あれはもう興奮しましたねぇ…。高校受験まではTVとギターを押し入れに封印して、毎日8時間ぐらい勉強してたから「やっと弾ける!」っていう開放感がまたすごかったし、高校の合格発表を観たその足で、楽器屋さんに行って買ったディレイを初めてその卒業式で使って。歪んだディレイをかましてソロ弾いたときの気持ち良さにびっくりしましたね。

ーそれまでエフェクターは使っていなかったんですか?

ギターと小さいアンプだけ。最初は歪ませることもわからなかったし、歪ませてやったら巧くなれないと思って、ペケペケとずっと練習してましたね。
それから念願の高校に入ると「ハアァァァァーーー!?」っていう衝撃が待ってたんですよ(笑)。

ー衝撃??

軽音楽同好会の説明が始まった途端「うちの学校はエレキ・ギターは禁止ですが〜」とか言い出して。どうも昔に問題を起こしたらしく、先輩もアコギをバリバリに歪ませて弾いてましたね(笑)。
で、俺らの代で「エレキよりアコギを歪ませる方がうるさい音になる」ということを先生に検証させ「ほら!これよりエレキの方がいいでしょ?」って、エレキ・ギターをOKにしてもらい、更に俺らの代で同好会を部活にさせましたね。

ーT$UYO$HIさんの熱意が半端じゃないですね(笑)。晴れて、憧れのバンド活動をやれますし。

と言っても、X、ZIGGY、COBRAとかのコピーバンドですよ。オリジナル曲なんて、どうやって作るか全然わかんなかったし、ライブハウスに出てるバンドもウチの高校にはいなかったから。

ー実際に披露する場は文化祭とかですか?

そうですね。あ、1回だけ、友達のお母さんが女子校で先生をやってた経由で、女子校の文化祭に呼ばれてやったときがあって。そうしたら次の日、ウチの高校の校門にその女の子達がいっぱい待ち伏してて「なんだこりゃー!?」みたいな。…まぁだからと言って、別に恋に発展するようなことは何もなかったんですけど(笑)。

ーいやいや、バンド冥利じゃないですか(笑)。

バンド冥利でしたね(笑)。そんな状況だから、外に目を向けてるヤツはいなかったかなぁ。そう思うと、今の若い子たちはすごいなと思う。ZAXとかPABLOは高校のときから曲も作ってるし、あいつらは高校生のときにTEENS’ MUSIC FESTIVALで渋公でライブしてますからね。

ー(笑)。そういったコンテストという方向も全然なかったんですか?

みんなで放課後に集まって「俺、Mr.BIG弾けるようになったぜ」って披露したり、学校でデカい音で合わせたあと、帰りに菓子パン食って帰るみたいなのが楽しかったって感じかな。

ー平たく言うと、学校でやる遊びの延長という位置づけというか。

そうですね。その後は、絵や写真が好きだったのもあって、大学のデザイン科に進学して、その大学の軽音サークルみたいなのが盛んだったけど、俺は所属しなかったですね。

ー音楽熱が冷めたとか?

いやいやいや、なんかここに入っちゃダメだと思ったんです。次はもう外に行きたかったから、サークルに入ったらまた「ヤッホー!」ってやって、終わるような気がしたというか。

ー高校時代を繰り返してしまうと感じたんでしょうね。

でも、どうしていいかわからなかった。その頃、ガンズ、エアロスミスとか割とベタなロックンロールが好きだったんですけど、本厚木の楽器屋さんでたまたまそういうバンドの”ギターメンバー募集”の張り紙があって。このまま同級生とやってもよくわかんないから「ここはまず、年上のところに飛び込んで学ぼう」と思って、そのバンドに入って平塚の街スタに通って、ライブハウスでやることを学びましたね。

ー外への第1歩となったそのバンドは、オリジナルだったんですか?

そうですね。結局、1〜2年ぐらいは新宿や目黒ライブステーションでライヴして、色々学ばせてはもらったんですけど、客観的に見て「このバンドでデビューとかはないなぁ」と思って、ベースの人が辞めるときに「じゃあ、俺も辞めます」と。

ー上昇していくことが見込めない活動だったと?

ん〜、そこでバンドってものを学ぶ感じでしたね。その頃、後にデビューするdrug store cowboyのギタリスト村瀬(敏之)が同じ学校だったんですけど、ヤツもロクfキッズで、2人でひたすら学校で音楽雑誌を読んだり、家に泊まりに行っては、俺の知らないバンドを聴かせてもらってたんです。

ーキッズの青春って感じですね。

その中でDEEPの音楽に惹かれて、パワステ(日清パワーステーション)でライブ観たとき、バンドの持つストリート感とファッション、更にステージの八田(敦)さんの佇まいに「なんかベースがカッコイイぞ!」ってなったんです。例えば、ビジュアル系のように、メイクやステージ衣装で普段とは違う自分に変身できる良さもわかっていたけど「普段の格好やスタイルからカッコイイってのは、もっとクールなんじゃないか?」って思わされたのがDEEPですね。

ー所謂、ビジュアル系と呼ばれるバンドやエアロスミスに傾倒していたところから、全く違うストリートの音楽でも魅了されるくらいのステージだったんですね。

そうですね。ちょうど、村瀬がやってたバンドもうまく行かなくて、仲の良かった同級生の友達をボーカルに誘って「じゃあ一緒にやろうよ!」ってなって。そこで初めて、自分のバンドを組んだんですけど、俺も村瀬もギターで、ベースが見つからなかったから「俺、ベースやるわ」って、3日後にベースを買いに行ったのが始まりでしたね。

ーこのお話を伺うと、T$UYO$HIさんの行動に全く迷いがないですよね。

普段は「割となんでもいいよ」ってタイプですけど、自分がビビーンときたものに関しては真っしぐらですね。欲しいものは手に入れるし、行動するまでがメチャ早いかな。そのときも、持ってたマーシャルのヘッドもキャビもすぐ売って、ベースまわりの費用にしましたね。

ー確かに早い(笑)。因みにギターを弾いていたとは言え、ベースと向き合うのは初めてですよね?

そうだし、それまでは興味も無かったから、ベースが何やってるかなんて聴いてなかったですね。当時のライブでも、モニターからベースの音を返してなかったんじゃないかなぁ…(笑)。
だから最近になって、当時聴いてたXやBUCK-TICKを改めて聴くと「あっ、ベースでこんなことやってたんだ!」みたいな発見がありますよ(笑)。そんな状態で直ぐに曲を作り始めたから、最初はすごくギターっぽいベースだったと思います。

ーそうやって始まったバンドが、drug store cowboyに繋がっていくんですか?

まず、それが大学の3年ぐらいの話で。4年になると就職活動があるから、会社説明会資料みたいなのが大量に家に届いて、それが玄関に平積みで置いてあって。母ちゃんが「あんた、どうせこれいらないんでしょ?」って言うから「いらない」って言って、1つも封を開けずに捨てました(笑)。

ー親御さんのご理解があったんですか?

いや、そのときに親父と約束したことがあって。親父は家計的にも裕福な環境じゃなかったから、本当は音大に行きたかったんだけど、すぐに働いて結婚をして、自分の夢を追いかけられなかった人なんです。「オマエの気持ちはわかる。ただ、ダラダラやっても意味がないから、期限を決めろ」と。で、これまたロクfを観てたら、デビュー遅い組のアーティストが割と26歳でデビューされてたんで「俺も26歳までに事務所もデビューも決まってなかったら、そこでガッツリな活動は辞める」って約束して就職しなかったんです。

ーその期限の元、アルバイトをしながらバンド活動をしていくことに?

ですね。町田のジョルナに入ってたレストランでずっと働いてて。あるとき高校生のバイト君が入ってきて、話してみるとバンドをやってると。「じゃあ、オマエのバンド観に行くよ」ってライブを観に行ったら、そのバンドのボーカルがのちにdrug store cowboyのボーカルになる有原(雅人)だったんです。

ー出会うわけですね!

ちょうど、村瀬と友達とでやってたバンドは、ドラムのヤツが北海道に帰るってことになって解散してたから「コイツは良い、コイツとやりたい!」ってすぐになって…。Kの時もそうですけど”俺のバンド一緒にやろうよ口説き”が始まるわけです(笑)。

ー勧誘というかスカウトというか(笑)。

最初は「どういう音楽聴いてんの?」とか話をして。今でも覚えてるけど、「ちょっと俺ん家で音楽を聴いたり、曲でも作ってみようよ」って家に呼んだんですよ。それで俺がギターを弾いて有原に歌ってもらったら、それがものすごく良くて。その日はすごい雪だったから、有原の家に車で送っていくのにも、スピードが出せなくてメチャクチャ時間がかかったけどそれもまた良い思い出というか。真っ白い景色の中Weezerの2ndアルバムとか聴きながら「あ、何かが始まる…」って思ったな。

ーヴィジョンというか、求めていたバンドの光景が浮かんだんですか?

漠然とだけど、「見つけた。コイツとやったら面白いことが出来る」と思いましたね。最初は「石川さんとはやってもいいけど、俺は仲間とやってるバンドも辞めることはできない…」と言われてたけど、割とすぐにdrug store cowboyに集中するようになりましたね。

ー言い換えると、有原さんもバンドに可能性を見出せたってことですよね。

だと思います。で、話を戻すとまずはドラムにヘルプを入れて、町田プレイハウスで初ライブの企画をやったんですよ。そのときに出てもらったのがSlow Clubっていう、エモのはしりみたいなすげぇカッコイイバンドがあって。中でもドラムとギターがすごく良くて。そのドラムがのちにdrug store cowboyになる(菅原)聖地で、ギターが青木(downy)さんだったんです。

ーここでまた出会いが!しかも、その頃から青木さんとも知り合っているんですね。

そうなんですよ。しかも、その日のライブでそのバンドは解散するって言いだして…。ライブ終わってから、町田プレイハウスのロビーで「何かあったら連絡してね」って聖地が言うから、次の日起きてすぐに「聖地くんドラムやってよ」って電話しました(笑)

ー早い!(笑)

聖地は最初の3ヶ月くらいサポートでしたけど、やっとメンバーが4人が揃って。聖地が正式メンバーになるってとき、「半年で出来ることを1年かけてやりたくない」って言ったのをきっかけに、きちんと目標を決めて動いて行くんですけど、インディーズ時代はもう一瞬でしたね。

ーでは、デビューまで潤風満帆だったということですか?

いや…そういえばな話があって(笑)。当時、Hair CutsというバンドとRUIDOで対バンしたとき、お客さんがパンパンの状態のライブハウスでやらせてもらえて、しかも反応がすごい良かったんですね。だから、RUIDOの人に「もう1回、10分でもいいから彼らとやりたい」って言ったら、何とかしてみると。そんなときに「聖地の会社の知り合いに音楽プロデューサーがいるから、デモテープを録ってくれる」っていう話が舞い込んで来たんです。ただし、そのレコーディングというのは、部屋に2本のステレオマイクを立ててるだけで、しかも録音してる間にその人たちは焼肉を食いに行ってて。

ー雲行き怪しいですね…。

後日、レコーディングが終わって、喫茶店でプロデューサーと話すってことで、みんなで会いに行ったら、いきなりインディーズでCDを出す話になってて。俺は「ちょっと待ってくれ、まだ何の曲を録るとかも決めてないし、そもそも一緒にやるとも決めてない」って話をしたら、プロデューサーがブチ切れ出して「こっちはお前らの下手くそなデモテープ聴いてきてやってんのに、何をゴチャゴチャ言ってんだ!」って言いだして。

ーおっと(笑)!

それに対して、俺と村瀬とがさらにブチ切れてその話は終了(笑)。 それだけならまだ別に良いんだけど、Hair Cutsともう1回やろうとしてる中、RUIDOから電話があって「○○さんと揉めたでしょ?そのライブ潰されるかもしれない…」って。
まぁ結局やれたんですけど、そんなこともありましたね。

ードラマみたいな話があるんですね…。

それで、その日のライブは観れてなかったんだけどRUIDOとインセクトノイズ(THE MAD CAPSULE MARKETSの「HUMANITY」をリリースした事務所)を経営している落合さんって人が俺達のフライヤーをチェックしてて。
「彼らはフライヤーも凝ってるし、ライブも良かったらしいじゃん」って注目してくれて「うちに所属しないか?」ってなったんです。

ーここで急展開があるんですね。

そうっす。まずは「インディーズ盤を出したいし、デモテープをちゃんと録ろう」ってことになって、初めて東芝のテラスタジオで2曲録りました。そしたら急に落合さんが「んー、やっぱ君たちはインディーズとか似合わないから、いきなりメジャーが良いんじゃない?」とか言いだして「え!メジャー!マジすか!?」みたいな(笑)。そしたら、実際にそのデモを聴いた5〜6社のメジヤー・レーベルが、渋谷のサイクロンとかのブッキングライブに来るようになっちゃって。最後、ソニーと東芝で迷って、Virginレーベルでデビューするまでが、メンバーが集まって1年という一瞬でしたね。

ー振り返ると、目標を決めて動いたことで、すごく研ぎ澄まされてましたね。

RUIDOに出ようと選択したことが別れ道だったというか…。実は最初、RUIDOと恵比寿のギルティーだったかな?「どっちでライブやる? って話がきて「う〜ん、じゃあRUIDOにしよう」って選んでこうなったんですけど。
今思うとそもそもそこの選択が違ったら、どうなってたんだろうという…。

ーたしかに。RUIDOでの事務所の方との出会いも無かったと。

もしかしたらもっと違う、さらにスゲェ人生もあったかもしれないけど、今まで選んできた道はこれで良かったなと思ってます。小さい頃、自分がミスしたときに「人生は長いから、今日の失敗なんて大したことないよ」って親には言われてきた。確かにそうかもしれない、だけど人生は結局2択の連続だと思っていて。日々、人間は選択をしていて、ほんのちょっとの枝分かれによって、人生は変わると思わされたことでしたね。


drug store cowboyとしてデビュー後、Pay money To my Pain、そしてThe BONEZと活動を続けるベーシストT$UYO$HI。数々の作品と唯一無二のライブを示し続けるT$UYO$HIの魅力をこれまでの歴史と共に迫ります。PART.2はdrug store cowboy 〜 Pay money To my Pain まで。

ーdrug store cowboyのデビューにあたり、楽曲やライブの反響、何より自分たちの音楽に自信があったわけですよね?

ありましたね。結成当初は「hideさんに気に入られるバンドにしたい」っていう俺らの裏テーマがあって。叶わなかったけど、出来ればhideさんに聴いて欲しかったですね。
ただ、デビューしたことで、最初のワンマンにJさんが観に来てくれてたり、結局は出ることはなかったけど、当時zilchとJさんでやってたイベントの話が来たり、感覚的に最初のテーマと近いとこにはいたのかなぁ、と。
あとデビューしてすぐ、PABLOとJESSEにも出会いましたね。

ーT$UYO$HIさん個人としても、ひとつの通過点・目標として、お父さんとの約束を果たせたわけですし。

ただ、世の中的にも変化が出てきた時代で、LUNA SEAやTHE YELLOW MONKEYとか、上位チャート常連バンドの活動が止まったんですよ。同時にアイドル軍団が出てきて、音楽の流れが変わっていく波の中でしたね。

ー更にBLANKEY JET CITYやHi-STANDARDなど挙げられる、ストリートカルチャーに人気のロックバンドも、次々に解散・休止となっていきましたよね。

それは海外でも起こっていて。90年代って俺が1番好きな時代なんですけど、NIRVANA、KORN、レイジ、Limp Bizkitっていう、アイコン的モンスターバンドが次々と世に出て「次に来るバンドはどんなバケモノだ!」って。けど…結局そういう存在のバンドが出てこなかった。
THE USEDもFINCHも、時代のバンドとまでは行かずにEminemの存在の方がデカかったんじゃないかな?

ー確かに。

世の中のトンガってる人は、ロックバンドからHIP HOPにシフトしていきましたよね。
その話に限らず、上の世代が100万枚とかCDが売れてたり、世の中のバブルを情報として見てるんだけど、実際に体感したことがない世代な気がします。下は下で、まるで感覚が違う世代だし。

ー「デビューしてもこんなものなのか」とか?

そうですね。インディーズをすっ飛ばしたこともあるんですけど、デビューしたら世の中がひっくり返ると思ってた(笑)。
だけど、いざタワレコ行ったら「D」とか「ト」の欄にちょっとCDが何枚かあるだけで、「え、何これ?ひっくり返るどころか、こんなの誰も俺達の存在にすら気がつかないよ…」って。

ー思い描いていたデビューとは違った現実に直面していたと。

まぁそうですね。でも、浜崎あゆみさんとかが気に入ってくれてライブに来たりとか、「最近聴いてるのはdrug store cowboyです」って宇多田ヒカルちゃんとかも言ってくれたり、一部のアーティスト受けは良かったですね。

ーデビューをしてから、活動停止するまではいかがでしたか?

まぁメジャーで4年程活動して、それぞれ色んな知り合いが出来たし、その中でみんなの方向性や目標がどんどんズレてきて…。
AXでワンマンするくらいのファンの人達もいたから、メンバー間のズレを抱えたまま、バンドを続けることもできたけど、もう辞めようということになりました。
俺がすごく悔しかったのが、ツアーで麻波25、宇頭巻、山嵐とかとやるんだけど、MIXTURE全盛期に俺らはPOP過ぎたというか…。
「イッシーとは話が合う友達だし、1人で攻めててカッコイイけど、バンド単位になるとあまり惹かれないな。」って言われたことがあって。

ーdrug store cowboy自体、そのシーンの渦中にいたバンドであるにもかかわらず、その表現していたものが認められないもどかしさ?

もどかしいっていうか、やっぱ多少の方向性は違っていても、個人としてじゃなくバンドとしてつるみたかったな。

ーそうしてdrug store cowboyが活動休止という決断になった中、P.T.P名義でのライブを1度されていますよね?

たまたま「これ、きっと好きだと思うよ」って、GUNDOGの2曲入りデモCDとフライヤーをもらって。それを聴いたら「なんじゃこりゃ?クソカッコイイぞ!」って。
だけどデビュー前だった当時の写真は、Kもアツシもカラコン入れてたり、マスクのヤツはいるし(笑)、半分ビジュアル系みたいな雰囲気もあったんですよ。
そのフライヤーを見たら2日後にサイクロンでライブがあるらしいと。
「これは自分で確かめるしかない!」って、迷わずライブを観に行ってステージのKを観たとき「俺、絶対コイツとバンドやる!」って(笑)。
話したこともないのに勝手に思ってビビビビー!っと来ましたね。

ーこれが先程の口説きの第2弾ですね(笑)。でも、GUNDOGはデビューが決まっていましたよね?

まさにこれからデビューするってときですけど、絶対にKとやりたいって思った。その日はそのまま帰ったけど、次のasiaのライブも行って、話し掛けて連絡先を聞いて。
その頃Shake Magazineって雑誌をやることになるスシさんから「群馬でワンコインナイトってイベントやるんだけど、drug store cowboyも出ろよ」って言われたんです。
そのときに、何かキッカケがないと始まらないと思って、「俺、違うバンドで出てもいいですか?」って話して、Kに「ちょっとボーカルやってくれない?」って声を掛けたんです。

ーそれがclub FLEEZでのライブ?

そうです。このときのドラムは聖地で、だいぶ前からPABLOとは一緒にバンドをやろうって話になってました。もう1人のギターは、Kが連れて来ることになってて「コードをすごい知ってるポップな人がいるから連れて行く」って、連れて来たのがJINくんだったんです。

ーおぉ!繋がりますね。

そのときのライブで、KはP.T.Pの存在がかなり衝撃だったみたい。メンバーの人間的楽しさやそれぞれの音楽的ポテンシャルに惹かれたって。
時期的にはGUNDOGが「Chair」を作ってる頃で、けっこう苦しんでたみたいだったな。
“三鷹ハウス”といって、三鷹にいつも溜まってる場所の主で、イッペイちゃんっていう天才作曲家のギタリストがいるんだけど、彼はデビュー前にGUNDOGを辞めちゃったから、その時期はKが作曲を引っ張ってたみたい。

ーT$UYO$HIさんからしてみれば、「きたきた!」って思える流れでもありますが。

まぁ、でもいきなり「バンドやろうぜ!」って言って、すぐ出来るものでもないんで。
当時の俺は、ロスと沖縄に興味があって、Kも「俺は英語を喋るけど偽物だ。英詞で歌うなら、アメリカ人が映画を見て笑うタイミングで、俺も笑えるぐらい英語が喋れてないと」って言うから、2人で一緒にロスに行くことにしたんです。

ーそれはdrug store cowboyが活動休止したタイミングですか?

そうです。まさにバンドを停めた翌月かな。Kと2人で行ったロスは、一生忘れないですね…。ロスというかカリフォルニアは、人生で2回目のカルチャーショックで、初めてミュージックステーションでBUCK-TICKを観て、バンドってものに出会ったときの次に衝撃だった。

ーそれはよっぽどの強烈だったんですね。

以前、ニューヨークに撮影に行ったときは、正直「あれ?アメリカって思ったよりブッ飛んでない
って思ったんですけど。
ロスの気候や風景、サンセット、車で音楽を聴くだけて気持ち良いっていう日常が、俺が求めてたアメリカだったんです。空港から出てすぐに「俺が想像してたアメリカってこれだー!!」ってなりましたね(笑)。

ー西海岸という場所で、2人で充実した時間を過ごせたこと自体もでしょうね。

レンタカーを借りて運転は俺が担当するんですけど、地図の見方もわからなければ、何度も逆走したし「何か車に手紙が置いてあるぞ?」って見たら、初日から駐禁だったり(笑)。
英語はKの担当だったけど、当時はモーテルを借りるにもKも緊張しながら話してた。部屋に荷物置いて、すぐに酒を買いに行ったんだけど、途中で真っ黒のフードを被った白人が目の前から歩いて来て。
まぁ、今にして思えば10代の普通の子なんだけど(笑)、もうそれだけで「ヤバイ!怖ぇ!」とか言って。モーテルに戻って「危ないから、カーテンは閉めよう」ってカーテン閉めて「よし、自分達でモーテル借りれた!乾杯!」って、でっかいビールを飲みましたよ(笑)。

ー(笑)。その話だけでも深堀れそうですが、Kとのそういう時間を過ごされた中、P.T.Pの本格活動まで時間がありましたよね?

そうですね。三鷹にバンドマンが集まって、音楽を聴いたり酒を飲んだりする日々が続いて。今でも覚えてるのが、一緒に2度目のロスに行って、帰ってすぐにGUNDOGのライブがあったんだけど、アイツはステージでグルグル回って全然前を見て歌わないし、バスドラは蹴っ飛ばすし…。

ーフラストレーションからくるものだったんでしょうか?

他のメンバーへじゃなくて、自分に満足いってないというか、心はアメリカって感じでしたね。
そして9月11日。三鷹の家にメンバーで集まるタイミングで、PABLOから「俺はもう待てない。KにGUNDOGとP.T.Pどっちにするかって聞こう」って言われてたんですよ。そしたら、そんな事を何も知らないKが、ちょっと酔っ払ってやって来て「俺、GUNDOG辞めるって言ってきたわ。俺P.T.Pやるよ。ただ俺がアメリカに住むことを許して欲しい。その中でも活動出来るんだったら俺はやる」…って。まさかのタイミングでKから言ってきたんです。

ー結成と同時に、アメリカ移住という事を受け入れる決断をした日でもありますね。

そう。それから何本かライブをして、元旦にHPを立ち上げました。物事の歯車って、無理やり回そうとしても回らないけど、ある日スイッチが入って、勝手にガシャガシャって回り始めたら、自分が全く想像しなかったことが起こるんです。
drug store cowboyがデビューしたときもそうだったし、歯車が回り出さない限りはやっぱりダメなんですよ。このバンドはちゃんと活動をしたらもの凄いことになるって思てったし、メンバーにも何度もそう言ってたけど、やっぱりタイミングってのがあって。凄い理想のバンドだったけど、まだこのときは歯車が完全には回ってないと思いました。

ーT$UYO$HIさんは経験されていたから、結果的に待つことが出来たし、P.T.Pの可能性が見えていたからこそですね。

そうですね。Kにも何度も言われたな。「T$UYO$HIくんは、よく俺を3年も待ってくれた」って。でも、これはアイツに最後に会った日にも言ったけど、「それは、そんだけお前が魅力的だったからだよ」って。でもKがアメリカに行って半年ぐらいは、敢えて一切の連絡取らず、アイツを孤独にしてやろう作戦を俺は実施しましたけどね(笑)。

ーそれも修行だと(笑)。

はい。その半年後ぐらいに、三鷹の友達とみんなで遊びに行ったらクソ喜んでた(笑)。
ある日、カリフォリニアに住んでる友達の家で、夜のプールとオレンジ色の灯りを見ながら2人で酒を飲んでるときに「T$UYO$HIくんはどう?俺は自分がステージ立ってる感じとかもう忘れちゃったなぁ…。でもP.T.Pでミュージック・ビデオとか撮ってみたかった」ってKが言い出して。

ーロスで生活している頃のKは、そんな感じだったんですね。

俺が日本に帰ってから、タナケンさん(VAP担当)に「ビデオ撮りたかったって、Kが言ってましたよ」って言ったら、「え?じゃあ撮る?でもビデオ撮るなら音源も要るな〜」とかサラっと言いだして(笑)。
「え!!マジすか?CD出せるんですか?」って聞いたら「別に出せるよ」と。ただ、Kは学生ビザの関係で、2週間くらいを年に2〜3回しか帰国できないんで、日本で長期レコーディングを出来ない。だから、レコーディングもビデオ撮影もアメリカですることになって、突然のアメリカレコーディングとメジャーデビューが決定(笑)。

ー突然すぎる(笑)。

ZAXなんてメジャーデビュー、アメリカでライブ、アメリカでレコーディングをするって夢が、いきなり全部叶っちゃいましたからね。でも、本当にタナケンさんがいなかったらP.T.Pは世に出てなかった。俺らのムチャクチャな願望を現実にしてくれる、あの人の力があったからこそです。タナケン無くしてP.T.P無しですよ。

ーしかも、T$UYO$HIさんが仰った”歯車が回る”タイミングになったんですね。

ですね。一気に動き始めました。俺はとにかくP.T.Pってバンドで痛快なことがしたかった。単純に好きでやってることが巨大なものになって、周りを巻き込んでいくイメージというか。
初期の頃は、ほぼ告知なしでゲリラで3曲だけのライブをしてて。今みたいにtwitterとかない時代だけど、噂を聞きつけたお客さんがいっぱい来たし。
Kが一時帰国したときのライブも「メディア露出一切なし!音源なし!」だけどソールドアウトみたいな。

ーしかも、自分たちよがりでなく、周りにも波及している結果としての現象ですし。

やっと胸を張って、どっからどこまで聴いてもカッコイイっていうバンドが出来たと思いましたね。Kに限らず、PABLOっていう最強のギタリストともやっとバンドを組めた。JIN君はまた違うキャッチーさを持ってるし、かんちゃんのドラムもパンチ効いてるし。
さらにはタナケンさんていう敏腕もいる。もうバンドの存在自体がカッコイイし最強だと。

ー完璧ですね。

Kと初めてアメリカ行ったときから、必ず行ってる「Huntington Beach」 って場所があって。
レコーディングが終わると、みんなはすぐ日本に帰るけど俺はしばらくKん家に残るんですよ。
で、完成した音源持ってそのビーチに行って「ついに実現したぞ!」って海に報告しました。

ー初めて自信を持てるバンドになった喜びから来る行動ですね。

そのときは、本当に「やった!」って思ったなぁ。長らくの夢が叶ったって思いました。

ー一方で、Kさんがアメリカいた頃は、時間的な制約の問題があったと思うのですが、逆に帰国されてからは、バンドに使える時間が必然的に長くなったと思います。それに伴う変化はあったのでしょうか?

普通にスタジオとか入ったことなかったし、終わって「飲みに行くって変な感じだね」ってよくPABLOと話してましたね〜(笑)。そうなることによって、実は懸念していたというか、プレミアム感が薄れて”普通のスタンダードなバンド”になったというか。
いつでもP.T.Pを観れる状況にもなったことで、今までとは違う勝負をしないといけないとも思いましたね。

ーその中、”LIVE 「40」 全曲LIVE敢行”は、ひとつのターニングポイントになったのではないでしょうか?

月一で集まってミーティングをしてたときに、そんな大それた考えではなかったと思うけど、「普通にワンマンやっても面白くないし、全曲やっちゃうのはどう?」ってPABLOから話が挙がって。慣れの話じゃないけど、3曲のライブで満足してた人が、今度は1時間観ないと満足しない。1時間のライブを観た人は、今度は違う何を観せないといけないという、消費が始まっていて。
そういった中で、作品的にも「Remember the name」で一区切りっていうのもありましたし、やって良かったと思います。

ーその年にベスト盤も出され、また歯車が回り始めたと思っていた矢先、ツアー中止というアクシデントに見舞われました。

年始のライブで「今年はいいぞ」って、めっちゃ思ったんですけどね…。みんなそうだと思うけど、結局は制作なんですよ。ライブをやる分には全然良いんですけど、アルバムの制作に入ると、曲だったり歌詞だったりで色々とナーバスになりますからね…。
で、Kがガコーンとダウナーになっちゃって。その状態からツアーをどうするかってなったら、Kは「ごめん俺、ツアーできない」ってなって。そこで俺は、JESSEに電話したんですよ。

ーその当時から、T$UYO$HIさんとJESSEの関係も深かったんですか?

JESSEとは2000年にデビュー同期で知り合ってから、俺はRIZEのライブもかなり行ってたし、それこそPTPとRIZEで2マンツアーもしたし。でもJESSEと電話したことは実は3回ぐらいしかなくて、まさにそのうちの1回ですよ。
「今日、ツアーをキャンセルするか最後のミーティングするんだけど、メンバーが言ってもきっとあれだから、JESSEからKがどう思ってるか探ってくんない?」って電話したら「そうなんだ、どこまで俺達のバンドは運命共同体なんだ…」みたいな話をして。

ーRIZEも色々と事情がある時期だったんですか?

まぁ…そうっすね。それでやっぱりKは「今回のツアーはキャンセルしたい、みんなごめん」ってなった。その夜24時にHPに告知文をアップする作業をして、そのまま渋谷で始発まで飲んで家に帰って。「ハァ…この先どうなっちゃうんだろう」って悶々としたまま寝ようとしたら、朝方JESSEから電話が掛かってきて「俺、実はソロやるんだけど、時間あるっしょ?リズム隊いなんだけど一緒にスタジオ入らない?」って。

ー青天の霹靂というか、その電話が始まりになるんですね。

はい。正直、何かしらやることが出来て、変に考える時間が減ることは嬉しかった。
「じゃあ、曲送ってよ」って電話を切って、次の日に4曲ぐら送られてきて曲を聴いてみたら「あれ?RIZEとも違うけどカッコイイぞ!」って。即効で曲をコピーして、スタジオに入ったんです。
そしたら翌年の1月11日に「シェルターでワンマンが決まってるから、そのライブをZAXとやってくれない?」っていう流れで。だから決まってたのはそこまでなんですよ。

ー続けるバンドとしてという考えは全くなく、あくまで「サポートを引き受けます」という?

そうです。

ー難しい話ですが、その後のKさん急逝の中、JESSEのサポートを断らなかったんですね。

もちろん無理って思ったし、迷いましたね。しかもオフィシャルでKのことを発表したのが、ライブの前日(10日)なんですよ。自分がステージに立つ云々より、Kのことを知ったファンがどうしていいかわからなくて、シェルターの周りとかに集まってしまうんじゃないかって心配もあったし。
ただ、ここで「ステージに立てない」って言って、JESSEサイドに迷惑をかける訳にもいかないですからね。

ーどこまでを配慮の線引きとするかは難しいところですね。

結局、当日のライブのことはあんまり覚えてないです。終わってからMVとかでも着てるブランドCHORD#8のコウちゃんと村瀬、BOOちゃん、シンジやSCHON、ライターの増田さん、仲の良い仲間がたくさんが来てくれて。下北沢で打ち上げというかみんなで飲んだんですけど「やって良かったな 」と思いました。

ー少しホッとした部分があったのかもしれないですし。

みんなそんな感じでした。友達の顔を見て、気持ちを落ち着けてたような。Kが亡くなったって聞いたのは、Kの母ちゃんからの留守電で…。で、Kの母ちゃんと電話で話して、そこからメンバーや友達に俺から電話で伝えなきゃいけなかった。
家でウチの嫁さんは号泣してたけど、俺は泣く暇もなかってたっていう感じでした。

ー考えたり、現実を受け入れる余裕もない状況だったんですね。

本当は、年末にメンバーで会う約束をしてたんだけど、それはキャンセルになっちゃったから、最後に会ったのは11月の後半だったかな?横浜にある、知り合いの小さな小料理屋を貸し切って、そこで2人で会って色々話しましたね…。
そのときに、俺は思ってることを全部伝えたし、あとはKに踏ん張って欲しかったし、それこそ「今はバンドは別に良いんじゃん?」ってことも言いました。

ーP.T.Pをやらなくてもということですか?

うん。もちろん契約の問題もあったりするし、そのとき進めてたアルバムの制作が途中で止まってたから、いつまでに歌を録らないとリリースが間に合わなくなるっていうスケジュールの話は一応して。
でも、完成しなければ契約違反になるし、待ってるファンやタナケンさんが聞いたら怒るかもしれないけど「別に絶対的に大事なことじゃなくない?」って言って。

ーというと?

「俺らは一緒にカリフォルニアでプールを見て、ぼーっとして、ステージに立つ感じとか忘れちゃったねって言うぐらい、なんでもなかったじゃん」って。
「もちろんKはすごいボーカリストだし、Kとやれたからこそ、俺は思い描いてたようなカッコいいバンドができて、いろんな夢をみんなで一緒に叶えた。でも、それ以前にKは友達だから、俺はそっちの方が大事だし。バンドはやりたくなったらまた一緒にやるでも良いんじゃない?気分転換にまたどこか外国でも行こっか?」って。

ーその会話はメンバーとしてというよりは、もう友達としての会話だったんですね。

そうですね…。もちろん契約違反になったらそれこそ収入もなくなるけど、それはそれって思ったし。なんかアメリカにいるときに、夜2人で酒を飲んで、外のオレンジのライトを見ながら話してるような感じだったかな。
バンドの話に限らず「チャキオ(T$UYO$HI嫁のことをKはこう呼ぶ)は最近体調どう?」とかいう話もしたし、K自身も「この間、カラオケに行って久しぶりに歌ったよ」とか「誕生日に気になってる子と温泉旅行へ行こうと思ってんだよね」って話もしてたし。

ー友達として話をしたときには、P.T.Pとして志半ばになるかもという予感がT$UYO$HIさんの中であったと思うし、覚悟もあったんですか?

うーん。俺の思いは伝えたし、あとはKを待つっていう感じでした。すぐに復活できたらそれは1番良いことだけど、たとえメジャーと契約がなくたって、それこそ趣味でもバンドはできますからね。でもメンバーがいなくなってしまったら、バンドは出来ないんですよ。

ー言い換えると「P.T.P.はこの4人でしか成立しないんだよ」っていうことですね。

ただそれだけですね。もちろん、残った3人で続けて欲しいとか、それこそ「新しくボーカル入れたら?」って声もあったけど、1ミリも考えたことないです。
俺が最後のZEPP TOKYOで観せたかったのは、実は”成立してない姿”なんですよ。「Kがいなかったら、4人揃わなかったらP.T.Pじゃないでしょ?」って姿なんです。
ロックバンドって、そういうものなんじゃないですかね。


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