T$UYO$HI(The BONEZ) インタビューvol.36

drug store cowboyとしてデビュー後、Pay money To my Pain、そしてThe BONEZと活動を続けるベーシストT$UYO$HI。数々の作品と唯一無二のライブを示し続ける彼の魅力をこれまでの歴史と共に迫ります。PART.1は幼少期〜drug store cowboyまで。

 

ーT$UYO$HIさんの中で、一番最初に記憶として残っている出来事って何ですか?

…泥棒が入った(笑)。

ーすいません、どういうことですか(笑)?

俺が出くわしたとかじゃないんですけど、入った…らしい(笑)。親父がトランペットやクラシックをやっていたからオーディオも好きで、家にすごくでっかいスピーカーがあったんです。幼少期に住んでた武蔵小金井の家に泥棒が入って、スピーカーをタンスだと思ったらしく、スピーカーのカバーが外れてたっていう。「泥棒さん、タンスだと思ったみたいだけど、残念だったね」って母親が言ってたのを覚えてる。

ー(笑)。それは幼稚園くらいですか?

幼稚園の年中ですね。あと、近所に大きな砂場があって、そこに自分の足を入れたまま、その上に砂のオブジェみたいなものを作り始めたんだけど、あまりにもすごいものが作れて。動くと壊れちゃうから、帰りたいけど帰りたくないっていうもどかしい気持ちとか、幼稚園の友達が引っ越しちゃうときに、折り紙でライオンみたいなのを作ったんだけど、それもあまりに上手くできたから、「人にあげたくない…」って思ったのを覚えてる。

ー今でもその記憶があるということは、心のどこかに引っ掛かっているんですか?

どうだろう、別に何かを引きずってるとかじゃないです(笑)。音楽で言えば、年に何度か親父の演奏会に連れて行かれたけど、クラシックだからまず歌がない。「一体、何が楽しいんだろう?」って、まだ当時はよくわかってなかったな。

ーよっぽど、幼稚園で歌う童謡の方が楽しいですからね。

そうですね。まぁクラシック関係ですけど、音楽的なものは近くにあったと思います。

ー年中さんでは早いかもしれないですが、お茶の間では多くの歌謡曲が流れていたと思うんですけど、必然的にクラシック以外の音楽もT$UYO$HIさんの耳に入ってきますよね?

町田に引っ越してきた年長さんぐらいには、やっぱりアニメの歌が好きだったな。しかもOPテーマじゃなくてEDテーマで、定番でいうとドラゴンボールとか(ハイスクール)奇面組とかもそうだし。

ー「魔訶不思議アドベンチャー!」よりは「ロマンティックあげるよ」だと。

俄然そうですね。EDテーマって、ちょっと切なさ混じりの曲が多いんだけど、そこが好きだった。

ーT$UYO$HIさんの持つ”エモさ”に通じるところがありますね。

そうですね。まだそのときは「実際に音楽やろう!」というつもりは全くなかったけど、自分の第一次音楽期というか。実際に初めて音楽をやったのは、音楽クラブに入った小学校5年生からで、自分たちで曲を作って、6年生の卒業式で演奏するという。

ーもう曲を作るんですか?それは歌モノとしての演奏で?

そう、俺が作った曲は採用されなかったけど(笑)。メロディに全く興味がなくて、そのとき俺はドラムをやることになったんだけど、リズムにしか興味がなかったからすごく楽しかったですね。

ーT$UYO$HIさんの初ステージが、まさかドラマーだったとは驚きですね。

キック、ハイハット、スネア、シンバルぐらいですけどね。そのときのことは詳しく覚えてないけど、主役は6年生なのに自分たちが主役になったような気持ちを感じたかな。

ー少なからず、ステージの醍醐味を味わった出来事ではありますよね。

そうですね。でも、まだベストテンとか観てるときだから「音楽やりたい!」とかは全然思ってないです。母ちゃんがTHE ALFEEとかチェッカーズとか好きで、俺もそれを聴いてたくらい。それこそ、「親の影響って大きいんだな」と思うのが、中学校に入ってバレーボールをやったんですけど、やっぱり母ちゃんも昔やってたんですよね。

ーそれがきっかけでバレーボール部に入ったんですか?

いや。そんなに運動が得意でもなければ、昔からスポーツに熱中してたってわけでもなかったんだけど、学校の中心人物的なメンバーが集まってたし、俺の身長が中1で170cmくらいあって有利だったから、初めてスポーツに熱中しましたね。だけど中2のときに腰を悪くして、病院に行ったら「もう運動は辞めた方がいい、このまま続けると将来は車椅子生活になる…」とか言われて、「なんで俺がこんな目に合うんだ…」ってスーパー絶望してたんだけど、何故かそのときに「よし!じゃあギターをやろう」ってなったんですよね。

ー急にギターが登場してきましたけど、今までのお話を伺う限り、THE ALFEEくらいしかギターとの接点ないですよね?

確かになんでなんだろう。学校の音楽クラブで、クラシック・ギターをやったからなのかな…?俺の中で「よし、エレキ・ギターを買うときが来た!」ってなったんだけど、もしかしたらTHE ALFEEとかをTVで観てたのはあったのかもしれない。

ー(笑)。では、そのタイミングでバレーボールは辞めることに?

いや、これがまたすごい話があって。1年くらいは立っても座っても激痛だったんですけど、後日違う病院に行ったら「いやいや。筋肉をつけて、固定すれば大丈夫ですよ」って(笑)。だからギターは買ったけど、部活も辞めずに続けて、当時流行ってたスケボーとかもやってました。

ー良い誤診じゃないですか(笑)。中学生だとグレそうな話ですけど。

それで言うと、俺の世代はまだヤンキー文化が残ってたし、俺の2つ上の先輩までは、かなりグレてたんですよ。だけど、俺らの代からスーパークリーンな学級で「花壇コンクール優勝!ワーイ!」みたいな(笑)。

ーすごい健全(笑)。

俺はヤンキーの美的センスに、なんかしっくりこなかったんですよね…。パンチ・パーマとかリーゼントがカッコイイとは思えなかった。あとは、所詮子供なくせに、大人ぶって背伸びするのが逆に子供っぽい気がして。だけど、”普通じゃない自分”にもなりたかったときに、初めて魅せられたのが、たまたまビデオに録画してたミュージックステーションに出ていたBUCK-TICKです。髪の毛が逆立ってて、メイクしている人なんて見たことがなかったから、「パンチ・パーマでもリーゼントでもない!ぶっ飛んでてカッコイイ!なんだこれ!!」って、死ぬほど繰り返し観ました。

ーT$UYO$HIさんの中で、BUCK-TICKの音楽のみならず、ビジュアルインパクトが大きかったんですか?

そうですね。ミュージックステーションでやってたのは「JUST ONE MORE KISS」だったんですけど、スケボーをやってたのもあったから、音楽的にはテンポが早くて激しいCDのカップリング曲の「TO SEACH」が好きだった。それから、激しい音楽を求めて貸しレコード屋さんに行くわけですけど、町田の外れのど田舎だったんで、ギターをやったりロックを聴いてるヤツ、兄貴もいないんで、どのバンドを聴けばいいのかまったくわからなかったです。

ーしかも、情報源がテレビでたまたま観たBUCK-TICKだけですしね。

そう。それで貸しレコード屋さんに行ったら、Iron Maidenのアルバム(SEVENTH SON OF A SEVENTH SON)があったんですよ。骸骨が内蔵持ってるやつだったかな(笑)?「骸骨!エグイ!これは悪そうだし、激しそうだ!」と思って、ジャケ借りして聴いてみたら「うわっ、なんだよ!曲のテンポは早くてカッコイイけど、ボーカルは女かよ」って思ったんですね。

ーえっ?

実はレコードの回転数を間違えてたんです(笑)。回転数を速く再生させてたから、元よりテンポが上がってるわけで、キテレツの「はじめてのチュウ〜」みたいな女性の声に聴こえたんです。で、正しい回転数で聴いたら「何これ?ボーカルは男だけどテンポ遅っ!う〜ん、求めてるのはこれじゃない!」って、回転数の早い方でテープに録音して(笑)、ちゃんとしたの録音してないんですね。

ー(笑)。Iron Maidenには申し訳ないですけど、キッズですから速いテンポの方が好きになりますよね。

きっと、今の若い子たちもそうだと思うよ。それからどんどんのめり込んで、ギターのコピーもしたし、初めてBUCK-TICKのライブを東京ドームに観に行って。そのあとも、ミュージックステーションに出てきたXを観て「テンポは速いのに歌もちゃんとあるし、これはドラマチックだ!」って、これまた俺の中で大ヒット。

ーなるほど。速いテンポの曲にメロディアスな歌を兼ね備えていてるという、当時のそういったシーンにいたバンドたちの音楽が、T$UYO$HIさんの血肉になっていったんですね。

高校に行ったらバンドが組めると思ってたし、それまではロッキンfで学んでくみたいな(笑)。

ー(笑)。それまでは自宅でひたすらコピーをしていたんですか?

そうそう。あ、1人道連れにしました(笑)。クラシック・ギターのクラブみたいなのがあって、そこにいた梅木くんにもエレキ・ギターをゲットしてもらって、卒業式のときに体育館でBUCK-TICKを2曲やったんですよ。もちろんベースなんかいなくて(笑)、俺と梅木君がギターをやって、別の友達に「ツッダン・ツツダンってやってて」と言って、ドラムはスネアとハイハットだけで(笑)。

ー(笑)。これが初ライブですよね?

ですよ(笑) !!曲は「SEXUALxxxxx!」と「SILENT NIGHT」を演奏したんですけど、あれはもう興奮しましたねぇ…。高校受験まではTVとギターを押し入れに封印して、毎日8時間ぐらい勉強してたから「やっと弾ける!」っていう開放感がまたすごかったし、高校の合格発表を観たその足で、楽器屋さんに行って買ったディレイを初めてその卒業式で使って。歪んだディレイをかましてソロ弾いたときの気持ち良さにびっくりしましたね。

ーそれまでエフェクターは使っていなかったんですか?

ギターと小さいアンプだけ。最初は歪ませることもわからなかったし、歪ませてやったら巧くなれないと思って、ペケペケとずっと練習してましたね。
それから念願の高校に入ると「ハアァァァァーーー!?」っていう衝撃が待ってたんですよ(笑)。

ー衝撃??

軽音楽同好会の説明が始まった途端「うちの学校はエレキ・ギターは禁止ですが〜」とか言い出して。どうも昔に問題を起こしたらしく、先輩もアコギをバリバリに歪ませて弾いてましたね(笑)。
で、俺らの代で「エレキよりアコギを歪ませる方がうるさい音になる」ということを先生に検証させ「ほら!これよりエレキの方がいいでしょ?」って、エレキ・ギターをOKにしてもらい、更に俺らの代で同好会を部活にさせましたね。

ーT$UYO$HIさんの熱意が半端じゃないですね(笑)。晴れて、憧れのバンド活動をやれますし。

と言っても、X、ZIGGY、COBRAとかのコピーバンドですよ。オリジナル曲なんて、どうやって作るか全然わかんなかったし、ライブハウスに出てるバンドもウチの高校にはいなかったから。

ー実際に披露する場は文化祭とかですか?

そうですね。あ、1回だけ、友達のお母さんが女子校で先生をやってた経由で、女子校の文化祭に呼ばれてやったときがあって。そうしたら次の日、ウチの高校の校門にその女の子達がいっぱい待ち伏してて「なんだこりゃー!?」みたいな。…まぁだからと言って、別に恋に発展するようなことは何もなかったんですけど(笑)。

ーいやいや、バンド冥利じゃないですか(笑)。

バンド冥利でしたね(笑)。そんな状況だから、外に目を向けてるヤツはいなかったかなぁ。そう思うと、今の若い子たちはすごいなと思う。ZAXとかPABLOは高校のときから曲も作ってるし、あいつらは高校生のときにTEENS’ MUSIC FESTIVALで渋公でライブしてますからね。

ー(笑)。そういったコンテストという方向も全然なかったんですか?

みんなで放課後に集まって「俺、Mr.BIG弾けるようになったぜ」って披露したり、学校でデカい音で合わせたあと、帰りに菓子パン食って帰るみたいなのが楽しかったって感じかな。

ー平たく言うと、学校でやる遊びの延長という位置づけというか。

そうですね。その後は、絵や写真が好きだったのもあって、大学のデザイン科に進学して、その大学の軽音サークルみたいなのが盛んだったけど、俺は所属しなかったですね。

ー音楽熱が冷めたとか?

いやいやいや、なんかここに入っちゃダメだと思ったんです。次はもう外に行きたかったから、サークルに入ったらまた「ヤッホー!」ってやって、終わるような気がしたというか。

ー高校時代を繰り返してしまうと感じたんでしょうね。

でも、どうしていいかわからなかった。その頃、ガンズ、エアロスミスとか割とベタなロックンロールが好きだったんですけど、本厚木の楽器屋さんでたまたまそういうバンドの”ギターメンバー募集”の張り紙があって。このまま同級生とやってもよくわかんないから「ここはまず、年上のところに飛び込んで学ぼう」と思って、そのバンドに入って平塚の街スタに通って、ライブハウスでやることを学びましたね。

ー外への第1歩となったそのバンドは、オリジナルだったんですか?

そうですね。結局、1〜2年ぐらいは新宿や目黒ライブステーションでライヴして、色々学ばせてはもらったんですけど、客観的に見て「このバンドでデビューとかはないなぁ」と思って、ベースの人が辞めるときに「じゃあ、俺も辞めます」と。

ー上昇していくことが見込めない活動だったと?

ん〜、そこでバンドってものを学ぶ感じでしたね。その頃、後にデビューするdrug store cowboyのギタリスト村瀬(敏之)が同じ学校だったんですけど、ヤツもロクfキッズで、2人でひたすら学校で音楽雑誌を読んだり、家に泊まりに行っては、俺の知らないバンドを聴かせてもらってたんです。

ーキッズの青春って感じですね。

その中でDEEPの音楽に惹かれて、パワステ(日清パワーステーション)でライブ観たとき、バンドの持つストリート感とファッション、更にステージの八田(敦)さんの佇まいに「なんかベースがカッコイイぞ!」ってなったんです。例えば、ビジュアル系のように、メイクやステージ衣装で普段とは違う自分に変身できる良さもわかっていたけど「普段の格好やスタイルからカッコイイってのは、もっとクールなんじゃないか?」って思わされたのがDEEPですね。

ー所謂、ビジュアル系と呼ばれるバンドやエアロスミスに傾倒していたところから、全く違うストリートの音楽でも魅了されるくらいのステージだったんですね。

そうですね。ちょうど、村瀬がやってたバンドもうまく行かなくて、仲の良かった同級生の友達をボーカルに誘って「じゃあ一緒にやろうよ!」ってなって。そこで初めて、自分のバンドを組んだんですけど、俺も村瀬もギターで、ベースが見つからなかったから「俺、ベースやるわ」って、3日後にベースを買いに行ったのが始まりでしたね。

ーこのお話を伺うと、T$UYO$HIさんの行動に全く迷いがないですよね。

普段は「割となんでもいいよ」ってタイプですけど、自分がビビーンときたものに関しては真っしぐらですね。欲しいものは手に入れるし、行動するまでがメチャ早いかな。そのときも、持ってたマーシャルのヘッドもキャビもすぐ売って、ベースまわりの費用にしましたね。

ー確かに早い(笑)。因みにギターを弾いていたとは言え、ベースと向き合うのは初めてですよね?

そうだし、それまでは興味も無かったから、ベースが何やってるかなんて聴いてなかったですね。当時のライブでも、モニターからベースの音を返してなかったんじゃないかなぁ…(笑)。
だから最近になって、当時聴いてたXやBUCK-TICKを改めて聴くと「あっ、ベースでこんなことやってたんだ!」みたいな発見がありますよ(笑)。そんな状態で直ぐに曲を作り始めたから、最初はすごくギターっぽいベースだったと思います。

ーそうやって始まったバンドが、drug store cowboyに繋がっていくんですか?

まず、それが大学の3年ぐらいの話で。4年になると就職活動があるから、会社説明会資料みたいなのが大量に家に届いて、それが玄関に平積みで置いてあって。母ちゃんが「あんた、どうせこれいらないんでしょ?」って言うから「いらない」って言って、1つも封を開けずに捨てました(笑)。

ー親御さんのご理解があったんですか?

いや、そのときに親父と約束したことがあって。親父は家計的にも裕福な環境じゃなかったから、本当は音大に行きたかったんだけど、すぐに働いて結婚をして、自分の夢を追いかけられなかった人なんです。「オマエの気持ちはわかる。ただ、ダラダラやっても意味がないから、期限を決めろ」と。で、これまたロクfを観てたら、デビュー遅い組のアーティストが割と26歳でデビューされてたんで「俺も26歳までに事務所もデビューも決まってなかったら、そこでガッツリな活動は辞める」って約束して就職しなかったんです。

ーその期限の元、アルバイトをしながらバンド活動をしていくことに?

ですね。町田のジョルナに入ってたレストランでずっと働いてて。あるとき高校生のバイト君が入ってきて、話してみるとバンドをやってると。「じゃあ、オマエのバンド観に行くよ」ってライブを観に行ったら、そのバンドのボーカルがのちにdrug store cowboyのボーカルになる有原(雅人)だったんです。

ー出会うわけですね!

ちょうど、村瀬と友達とでやってたバンドは、ドラムのヤツが北海道に帰るってことになって解散してたから「コイツは良い、コイツとやりたい!」ってすぐになって…。Kの時もそうですけど”俺のバンド一緒にやろうよ口説き”が始まるわけです(笑)。

ー勧誘というかスカウトというか(笑)。

最初は「どういう音楽聴いてんの?」とか話をして。今でも覚えてるけど、「ちょっと俺ん家で音楽を聴いたり、曲でも作ってみようよ」って家に呼んだんですよ。それで俺がギターを弾いて有原に歌ってもらったら、それがものすごく良くて。その日はすごい雪だったから、有原の家に車で送っていくのにも、スピードが出せなくてメチャクチャ時間がかかったけどそれもまた良い思い出というか。真っ白い景色の中Weezerの2ndアルバムとか聴きながら「あ、何かが始まる…」って思ったな。

ーヴィジョンというか、求めていたバンドの光景が浮かんだんですか?

漠然とだけど、「見つけた。コイツとやったら面白いことが出来る」と思いましたね。最初は「石川さんとはやってもいいけど、俺は仲間とやってるバンドも辞めることはできない…」と言われてたけど、割とすぐにdrug store cowboyに集中するようになりましたね。

ー言い換えると、有原さんもバンドに可能性を見出せたってことですよね。

だと思います。で、話を戻すとまずはドラムにヘルプを入れて、町田プレイハウスで初ライブの企画をやったんですよ。そのときに出てもらったのがSlow Clubっていう、エモのはしりみたいなすげぇカッコイイバンドがあって。中でもドラムとギターがすごく良くて。そのドラムがのちにdrug store cowboyになる(菅原)聖地で、ギターが青木(downy)さんだったんです。

ーここでまた出会いが!しかも、その頃から青木さんとも知り合っているんですね。

そうなんですよ。しかも、その日のライブでそのバンドは解散するって言いだして…。ライブ終わってから、町田プレイハウスのロビーで「何かあったら連絡してね」って聖地が言うから、次の日起きてすぐに「聖地くんドラムやってよ」って電話しました(笑)

ー早い!(笑)

聖地は最初の3ヶ月くらいサポートでしたけど、やっとメンバーが4人が揃って。聖地が正式メンバーになるってとき、「半年で出来ることを1年かけてやりたくない」って言ったのをきっかけに、きちんと目標を決めて動いて行くんですけど、インディーズ時代はもう一瞬でしたね。

ーでは、デビューまで潤風満帆だったということですか?

いや…そういえばな話があって(笑)。当時、Hair CutsというバンドとRUIDOで対バンしたとき、お客さんがパンパンの状態のライブハウスでやらせてもらえて、しかも反応がすごい良かったんですね。だから、RUIDOの人に「もう1回、10分でもいいから彼らとやりたい」って言ったら、何とかしてみると。そんなときに「聖地の会社の知り合いに音楽プロデューサーがいるから、デモテープを録ってくれる」っていう話が舞い込んで来たんです。ただし、そのレコーディングというのは、部屋に2本のステレオマイクを立ててるだけで、しかも録音してる間にその人たちは焼肉を食いに行ってて。

ー雲行き怪しいですね…。

後日、レコーディングが終わって、喫茶店でプロデューサーと話すってことで、みんなで会いに行ったら、いきなりインディーズでCDを出す話になってて。俺は「ちょっと待ってくれ、まだ何の曲を録るとかも決めてないし、そもそも一緒にやるとも決めてない」って話をしたら、プロデューサーがブチ切れ出して「こっちはお前らの下手くそなデモテープ聴いてきてやってんのに、何をゴチャゴチャ言ってんだ!」って言いだして。

ーおっと(笑)!

それに対して、俺と村瀬とがさらにブチ切れてその話は終了(笑)。 それだけならまだ別に良いんだけど、Hair Cutsともう1回やろうとしてる中、RUIDOから電話があって「○○さんと揉めたでしょ?そのライブ潰されるかもしれない…」って。
まぁ結局やれたんですけど、そんなこともありましたね。

ードラマみたいな話があるんですね…。

それで、その日のライブは観れてなかったんだけどRUIDOとインセクトノイズ(THE MAD CAPSULE MARKETSの「HUMANITY」をリリースした事務所)を経営している落合さんって人が俺達のフライヤーをチェックしてて。
「彼らはフライヤーも凝ってるし、ライブも良かったらしいじゃん」って注目してくれて「うちに所属しないか?」ってなったんです。

ーここで急展開があるんですね。

そうっす。まずは「インディーズ盤を出したいし、デモテープをちゃんと録ろう」ってことになって、初めて東芝のテラスタジオで2曲録りました。そしたら急に落合さんが「んー、やっぱ君たちはインディーズとか似合わないから、いきなりメジャーが良いんじゃない?」とか言いだして「え!メジャー!マジすか!?」みたいな(笑)。そしたら、実際にそのデモを聴いた5〜6社のメジヤー・レーベルが、渋谷のサイクロンとかのブッキングライブに来るようになっちゃって。最後、ソニーと東芝で迷って、Virginレーベルでデビューするまでが、メンバーが集まって1年という一瞬でしたね。

ー振り返ると、目標を決めて動いたことで、すごく研ぎ澄まされてましたね。

RUIDOに出ようと選択したことが別れ道だったというか…。実は最初、RUIDOと恵比寿のギルティーだったかな?「どっちでライブやる? って話がきて「う〜ん、じゃあRUIDOにしよう」って選んでこうなったんですけど。
今思うとそもそもそこの選択が違ったら、どうなってたんだろうという…。

ーたしかに。RUIDOでの事務所の方との出会いも無かったと。

もしかしたらもっと違う、さらにスゲェ人生もあったかもしれないけど、今まで選んできた道はこれで良かったなと思ってます。小さい頃、自分がミスしたときに「人生は長いから、今日の失敗なんて大したことないよ」って親には言われてきた。確かにそうかもしれない、だけど人生は結局2択の連続だと思っていて。日々、人間は選択をしていて、ほんのちょっとの枝分かれによって、人生は変わると思わされたことでしたね。


drug store cowboyとしてデビュー後、Pay money To my Pain、そしてThe BONEZと活動を続けるベーシストT$UYO$HI。数々の作品と唯一無二のライブを示し続けるT$UYO$HIの魅力をこれまでの歴史と共に迫ります。PART.2はdrug store cowboy 〜 Pay money To my Pain まで。

ーdrug store cowboyのデビューにあたり、楽曲やライブの反響、何より自分たちの音楽に自信があったわけですよね?

ありましたね。結成当初は「hideさんに気に入られるバンドにしたい」っていう俺らの裏テーマがあって。叶わなかったけど、出来ればhideさんに聴いて欲しかったですね。
ただ、デビューしたことで、最初のワンマンにJさんが観に来てくれてたり、結局は出ることはなかったけど、当時zilchとJさんでやってたイベントの話が来たり、感覚的に最初のテーマと近いとこにはいたのかなぁ、と。
あとデビューしてすぐ、PABLOとJESSEにも出会いましたね。

ーT$UYO$HIさん個人としても、ひとつの通過点・目標として、お父さんとの約束を果たせたわけですし。

ただ、世の中的にも変化が出てきた時代で、LUNA SEAやTHE YELLOW MONKEYとか、上位チャート常連バンドの活動が止まったんですよ。同時にアイドル軍団が出てきて、音楽の流れが変わっていく波の中でしたね。

ー更にBLANKEY JET CITYやHi-STANDARDなど挙げられる、ストリートカルチャーに人気のロックバンドも、次々に解散・休止となっていきましたよね。

それは海外でも起こっていて。90年代って俺が1番好きな時代なんですけど、NIRVANA、KORN、レイジ、Limp Bizkitっていう、アイコン的モンスターバンドが次々と世に出て「次に来るバンドはどんなバケモノだ!」って。けど…結局そういう存在のバンドが出てこなかった。
THE USEDもFINCHも、時代のバンドとまでは行かずにEminemの存在の方がデカかったんじゃないかな?

ー確かに。

世の中のトンガってる人は、ロックバンドからHIP HOPにシフトしていきましたよね。
その話に限らず、上の世代が100万枚とかCDが売れてたり、世の中のバブルを情報として見てるんだけど、実際に体感したことがない世代な気がします。下は下で、まるで感覚が違う世代だし。

ー「デビューしてもこんなものなのか」とか?

そうですね。インディーズをすっ飛ばしたこともあるんですけど、デビューしたら世の中がひっくり返ると思ってた(笑)。
だけど、いざタワレコ行ったら「D」とか「ト」の欄にちょっとCDが何枚かあるだけで、「え、何これ?ひっくり返るどころか、こんなの誰も俺達の存在にすら気がつかないよ…」って。

ー思い描いていたデビューとは違った現実に直面していたと。

まぁそうですね。でも、浜崎あゆみさんとかが気に入ってくれてライブに来たりとか、「最近聴いてるのはdrug store cowboyです」って宇多田ヒカルちゃんとかも言ってくれたり、一部のアーティスト受けは良かったですね。

ーデビューをしてから、活動停止するまではいかがでしたか?

まぁメジャーで4年程活動して、それぞれ色んな知り合いが出来たし、その中でみんなの方向性や目標がどんどんズレてきて…。
AXでワンマンするくらいのファンの人達もいたから、メンバー間のズレを抱えたまま、バンドを続けることもできたけど、もう辞めようということになりました。
俺がすごく悔しかったのが、ツアーで麻波25、宇頭巻、山嵐とかとやるんだけど、MIXTURE全盛期に俺らはPOP過ぎたというか…。
「イッシーとは話が合う友達だし、1人で攻めててカッコイイけど、バンド単位になるとあまり惹かれないな。」って言われたことがあって。

ーdrug store cowboy自体、そのシーンの渦中にいたバンドであるにもかかわらず、その表現していたものが認められないもどかしさ?

もどかしいっていうか、やっぱ多少の方向性は違っていても、個人としてじゃなくバンドとしてつるみたかったな。

ーそうしてdrug store cowboyが活動休止という決断になった中、P.T.P名義でのライブを1度されていますよね?

たまたま「これ、きっと好きだと思うよ」って、GUNDOGの2曲入りデモCDとフライヤーをもらって。それを聴いたら「なんじゃこりゃ?クソカッコイイぞ!」って。
だけどデビュー前だった当時の写真は、Kもアツシもカラコン入れてたり、マスクのヤツはいるし(笑)、半分ビジュアル系みたいな雰囲気もあったんですよ。
そのフライヤーを見たら2日後にサイクロンでライブがあるらしいと。
「これは自分で確かめるしかない!」って、迷わずライブを観に行ってステージのKを観たとき「俺、絶対コイツとバンドやる!」って(笑)。
話したこともないのに勝手に思ってビビビビー!っと来ましたね。

ーこれが先程の口説きの第2弾ですね(笑)。でも、GUNDOGはデビューが決まっていましたよね?

まさにこれからデビューするってときですけど、絶対にKとやりたいって思った。その日はそのまま帰ったけど、次のasiaのライブも行って、話し掛けて連絡先を聞いて。
その頃Shake Magazineって雑誌をやることになるスシさんから「群馬でワンコインナイトってイベントやるんだけど、drug store cowboyも出ろよ」って言われたんです。
そのときに、何かキッカケがないと始まらないと思って、「俺、違うバンドで出てもいいですか?」って話して、Kに「ちょっとボーカルやってくれない?」って声を掛けたんです。

ーそれがclub FLEEZでのライブ?

そうです。このときのドラムは聖地で、だいぶ前からPABLOとは一緒にバンドをやろうって話になってました。もう1人のギターは、Kが連れて来ることになってて「コードをすごい知ってるポップな人がいるから連れて行く」って、連れて来たのがJINくんだったんです。

ーおぉ!繋がりますね。

そのときのライブで、KはP.T.Pの存在がかなり衝撃だったみたい。メンバーの人間的楽しさやそれぞれの音楽的ポテンシャルに惹かれたって。
時期的にはGUNDOGが「Chair」を作ってる頃で、けっこう苦しんでたみたいだったな。
“三鷹ハウス”といって、三鷹にいつも溜まってる場所の主で、イッペイちゃんっていう天才作曲家のギタリストがいるんだけど、彼はデビュー前にGUNDOGを辞めちゃったから、その時期はKが作曲を引っ張ってたみたい。

ーT$UYO$HIさんからしてみれば、「きたきた!」って思える流れでもありますが。

まぁ、でもいきなり「バンドやろうぜ!」って言って、すぐ出来るものでもないんで。
当時の俺は、ロスと沖縄に興味があって、Kも「俺は英語を喋るけど偽物だ。英詞で歌うなら、アメリカ人が映画を見て笑うタイミングで、俺も笑えるぐらい英語が喋れてないと」って言うから、2人で一緒にロスに行くことにしたんです。

ーそれはdrug store cowboyが活動休止したタイミングですか?

そうです。まさにバンドを停めた翌月かな。Kと2人で行ったロスは、一生忘れないですね…。ロスというかカリフォルニアは、人生で2回目のカルチャーショックで、初めてミュージックステーションでBUCK-TICKを観て、バンドってものに出会ったときの次に衝撃だった。

ーそれはよっぽどの強烈だったんですね。

以前、ニューヨークに撮影に行ったときは、正直「あれ?アメリカって思ったよりブッ飛んでない
って思ったんですけど。
ロスの気候や風景、サンセット、車で音楽を聴くだけて気持ち良いっていう日常が、俺が求めてたアメリカだったんです。空港から出てすぐに「俺が想像してたアメリカってこれだー!!」ってなりましたね(笑)。

ー西海岸という場所で、2人で充実した時間を過ごせたこと自体もでしょうね。

レンタカーを借りて運転は俺が担当するんですけど、地図の見方もわからなければ、何度も逆走したし「何か車に手紙が置いてあるぞ?」って見たら、初日から駐禁だったり(笑)。
英語はKの担当だったけど、当時はモーテルを借りるにもKも緊張しながら話してた。部屋に荷物置いて、すぐに酒を買いに行ったんだけど、途中で真っ黒のフードを被った白人が目の前から歩いて来て。
まぁ、今にして思えば10代の普通の子なんだけど(笑)、もうそれだけで「ヤバイ!怖ぇ!」とか言って。モーテルに戻って「危ないから、カーテンは閉めよう」ってカーテン閉めて「よし、自分達でモーテル借りれた!乾杯!」って、でっかいビールを飲みましたよ(笑)。

ー(笑)。その話だけでも深堀れそうですが、Kとのそういう時間を過ごされた中、P.T.Pの本格活動まで時間がありましたよね?

そうですね。三鷹にバンドマンが集まって、音楽を聴いたり酒を飲んだりする日々が続いて。今でも覚えてるのが、一緒に2度目のロスに行って、帰ってすぐにGUNDOGのライブがあったんだけど、アイツはステージでグルグル回って全然前を見て歌わないし、バスドラは蹴っ飛ばすし…。

ーフラストレーションからくるものだったんでしょうか?

他のメンバーへじゃなくて、自分に満足いってないというか、心はアメリカって感じでしたね。
そして9月11日。三鷹の家にメンバーで集まるタイミングで、PABLOから「俺はもう待てない。KにGUNDOGとP.T.Pどっちにするかって聞こう」って言われてたんですよ。そしたら、そんな事を何も知らないKが、ちょっと酔っ払ってやって来て「俺、GUNDOG辞めるって言ってきたわ。俺P.T.Pやるよ。ただ俺がアメリカに住むことを許して欲しい。その中でも活動出来るんだったら俺はやる」…って。まさかのタイミングでKから言ってきたんです。

ー結成と同時に、アメリカ移住という事を受け入れる決断をした日でもありますね。

そう。それから何本かライブをして、元旦にHPを立ち上げました。物事の歯車って、無理やり回そうとしても回らないけど、ある日スイッチが入って、勝手にガシャガシャって回り始めたら、自分が全く想像しなかったことが起こるんです。
drug store cowboyがデビューしたときもそうだったし、歯車が回り出さない限りはやっぱりダメなんですよ。このバンドはちゃんと活動をしたらもの凄いことになるって思てったし、メンバーにも何度もそう言ってたけど、やっぱりタイミングってのがあって。凄い理想のバンドだったけど、まだこのときは歯車が完全には回ってないと思いました。

ーT$UYO$HIさんは経験されていたから、結果的に待つことが出来たし、P.T.Pの可能性が見えていたからこそですね。

そうですね。Kにも何度も言われたな。「T$UYO$HIくんは、よく俺を3年も待ってくれた」って。でも、これはアイツに最後に会った日にも言ったけど、「それは、そんだけお前が魅力的だったからだよ」って。でもKがアメリカに行って半年ぐらいは、敢えて一切の連絡取らず、アイツを孤独にしてやろう作戦を俺は実施しましたけどね(笑)。

ーそれも修行だと(笑)。

はい。その半年後ぐらいに、三鷹の友達とみんなで遊びに行ったらクソ喜んでた(笑)。
ある日、カリフォリニアに住んでる友達の家で、夜のプールとオレンジ色の灯りを見ながら2人で酒を飲んでるときに「T$UYO$HIくんはどう?俺は自分がステージ立ってる感じとかもう忘れちゃったなぁ…。でもP.T.Pでミュージック・ビデオとか撮ってみたかった」ってKが言い出して。

ーロスで生活している頃のKは、そんな感じだったんですね。

俺が日本に帰ってから、タナケンさん(VAP担当)に「ビデオ撮りたかったって、Kが言ってましたよ」って言ったら、「え?じゃあ撮る?でもビデオ撮るなら音源も要るな〜」とかサラっと言いだして(笑)。
「え!!マジすか?CD出せるんですか?」って聞いたら「別に出せるよ」と。ただ、Kは学生ビザの関係で、2週間くらいを年に2〜3回しか帰国できないんで、日本で長期レコーディングを出来ない。だから、レコーディングもビデオ撮影もアメリカですることになって、突然のアメリカレコーディングとメジャーデビューが決定(笑)。

ー突然すぎる(笑)。

ZAXなんてメジャーデビュー、アメリカでライブ、アメリカでレコーディングをするって夢が、いきなり全部叶っちゃいましたからね。でも、本当にタナケンさんがいなかったらP.T.Pは世に出てなかった。俺らのムチャクチャな願望を現実にしてくれる、あの人の力があったからこそです。タナケン無くしてP.T.P無しですよ。

ーしかも、T$UYO$HIさんが仰った”歯車が回る”タイミングになったんですね。

ですね。一気に動き始めました。俺はとにかくP.T.Pってバンドで痛快なことがしたかった。単純に好きでやってることが巨大なものになって、周りを巻き込んでいくイメージというか。
初期の頃は、ほぼ告知なしでゲリラで3曲だけのライブをしてて。今みたいにtwitterとかない時代だけど、噂を聞きつけたお客さんがいっぱい来たし。
Kが一時帰国したときのライブも「メディア露出一切なし!音源なし!」だけどソールドアウトみたいな。

ーしかも、自分たちよがりでなく、周りにも波及している結果としての現象ですし。

やっと胸を張って、どっからどこまで聴いてもカッコイイっていうバンドが出来たと思いましたね。Kに限らず、PABLOっていう最強のギタリストともやっとバンドを組めた。JIN君はまた違うキャッチーさを持ってるし、かんちゃんのドラムもパンチ効いてるし。
さらにはタナケンさんていう敏腕もいる。もうバンドの存在自体がカッコイイし最強だと。

ー完璧ですね。

Kと初めてアメリカ行ったときから、必ず行ってる「Huntington Beach」 って場所があって。
レコーディングが終わると、みんなはすぐ日本に帰るけど俺はしばらくKん家に残るんですよ。
で、完成した音源持ってそのビーチに行って「ついに実現したぞ!」って海に報告しました。

ー初めて自信を持てるバンドになった喜びから来る行動ですね。

そのときは、本当に「やった!」って思ったなぁ。長らくの夢が叶ったって思いました。

ー一方で、Kさんがアメリカいた頃は、時間的な制約の問題があったと思うのですが、逆に帰国されてからは、バンドに使える時間が必然的に長くなったと思います。それに伴う変化はあったのでしょうか?

普通にスタジオとか入ったことなかったし、終わって「飲みに行くって変な感じだね」ってよくPABLOと話してましたね〜(笑)。そうなることによって、実は懸念していたというか、プレミアム感が薄れて”普通のスタンダードなバンド”になったというか。
いつでもP.T.Pを観れる状況にもなったことで、今までとは違う勝負をしないといけないとも思いましたね。

ーその中、”LIVE 「40」 全曲LIVE敢行”は、ひとつのターニングポイントになったのではないでしょうか?

月一で集まってミーティングをしてたときに、そんな大それた考えではなかったと思うけど、「普通にワンマンやっても面白くないし、全曲やっちゃうのはどう?」ってPABLOから話が挙がって。慣れの話じゃないけど、3曲のライブで満足してた人が、今度は1時間観ないと満足しない。1時間のライブを観た人は、今度は違う何を観せないといけないという、消費が始まっていて。
そういった中で、作品的にも「Remember the name」で一区切りっていうのもありましたし、やって良かったと思います。

ーその年にベスト盤も出され、また歯車が回り始めたと思っていた矢先、ツアー中止というアクシデントに見舞われました。

年始のライブで「今年はいいぞ」って、めっちゃ思ったんですけどね…。みんなそうだと思うけど、結局は制作なんですよ。ライブをやる分には全然良いんですけど、アルバムの制作に入ると、曲だったり歌詞だったりで色々とナーバスになりますからね…。
で、Kがガコーンとダウナーになっちゃって。その状態からツアーをどうするかってなったら、Kは「ごめん俺、ツアーできない」ってなって。そこで俺は、JESSEに電話したんですよ。

ーその当時から、T$UYO$HIさんとJESSEの関係も深かったんですか?

JESSEとは2000年にデビュー同期で知り合ってから、俺はRIZEのライブもかなり行ってたし、それこそPTPとRIZEで2マンツアーもしたし。でもJESSEと電話したことは実は3回ぐらいしかなくて、まさにそのうちの1回ですよ。
「今日、ツアーをキャンセルするか最後のミーティングするんだけど、メンバーが言ってもきっとあれだから、JESSEからKがどう思ってるか探ってくんない?」って電話したら「そうなんだ、どこまで俺達のバンドは運命共同体なんだ…」みたいな話をして。

ーRIZEも色々と事情がある時期だったんですか?

まぁ…そうっすね。それでやっぱりKは「今回のツアーはキャンセルしたい、みんなごめん」ってなった。その夜24時にHPに告知文をアップする作業をして、そのまま渋谷で始発まで飲んで家に帰って。「ハァ…この先どうなっちゃうんだろう」って悶々としたまま寝ようとしたら、朝方JESSEから電話が掛かってきて「俺、実はソロやるんだけど、時間あるっしょ?リズム隊いなんだけど一緒にスタジオ入らない?」って。

ー青天の霹靂というか、その電話が始まりになるんですね。

はい。正直、何かしらやることが出来て、変に考える時間が減ることは嬉しかった。
「じゃあ、曲送ってよ」って電話を切って、次の日に4曲ぐら送られてきて曲を聴いてみたら「あれ?RIZEとも違うけどカッコイイぞ!」って。即効で曲をコピーして、スタジオに入ったんです。
そしたら翌年の1月11日に「シェルターでワンマンが決まってるから、そのライブをZAXとやってくれない?」っていう流れで。だから決まってたのはそこまでなんですよ。

ー続けるバンドとしてという考えは全くなく、あくまで「サポートを引き受けます」という?

そうです。

ー難しい話ですが、その後のKさん急逝の中、JESSEのサポートを断らなかったんですね。

もちろん無理って思ったし、迷いましたね。しかもオフィシャルでKのことを発表したのが、ライブの前日(10日)なんですよ。自分がステージに立つ云々より、Kのことを知ったファンがどうしていいかわからなくて、シェルターの周りとかに集まってしまうんじゃないかって心配もあったし。
ただ、ここで「ステージに立てない」って言って、JESSEサイドに迷惑をかける訳にもいかないですからね。

ーどこまでを配慮の線引きとするかは難しいところですね。

結局、当日のライブのことはあんまり覚えてないです。終わってからMVとかでも着てるブランドCHORD#8のコウちゃんと村瀬、BOOちゃん、シンジやSCHON、ライターの増田さん、仲の良い仲間がたくさんが来てくれて。下北沢で打ち上げというかみんなで飲んだんですけど「やって良かったな 」と思いました。

ー少しホッとした部分があったのかもしれないですし。

みんなそんな感じでした。友達の顔を見て、気持ちを落ち着けてたような。Kが亡くなったって聞いたのは、Kの母ちゃんからの留守電で…。で、Kの母ちゃんと電話で話して、そこからメンバーや友達に俺から電話で伝えなきゃいけなかった。
家でウチの嫁さんは号泣してたけど、俺は泣く暇もなかってたっていう感じでした。

ー考えたり、現実を受け入れる余裕もない状況だったんですね。

本当は、年末にメンバーで会う約束をしてたんだけど、それはキャンセルになっちゃったから、最後に会ったのは11月の後半だったかな?横浜にある、知り合いの小さな小料理屋を貸し切って、そこで2人で会って色々話しましたね…。
そのときに、俺は思ってることを全部伝えたし、あとはKに踏ん張って欲しかったし、それこそ「今はバンドは別に良いんじゃん?」ってことも言いました。

ーP.T.Pをやらなくてもということですか?

うん。もちろん契約の問題もあったりするし、そのとき進めてたアルバムの制作が途中で止まってたから、いつまでに歌を録らないとリリースが間に合わなくなるっていうスケジュールの話は一応して。
でも、完成しなければ契約違反になるし、待ってるファンやタナケンさんが聞いたら怒るかもしれないけど「別に絶対的に大事なことじゃなくない?」って言って。

ーというと?

「俺らは一緒にカリフォルニアでプールを見て、ぼーっとして、ステージに立つ感じとか忘れちゃったねって言うぐらい、なんでもなかったじゃん」って。
「もちろんKはすごいボーカリストだし、Kとやれたからこそ、俺は思い描いてたようなカッコいいバンドができて、いろんな夢をみんなで一緒に叶えた。でも、それ以前にKは友達だから、俺はそっちの方が大事だし。バンドはやりたくなったらまた一緒にやるでも良いんじゃない?気分転換にまたどこか外国でも行こっか?」って。

ーその会話はメンバーとしてというよりは、もう友達としての会話だったんですね。

そうですね…。もちろん契約違反になったらそれこそ収入もなくなるけど、それはそれって思ったし。なんかアメリカにいるときに、夜2人で酒を飲んで、外のオレンジのライトを見ながら話してるような感じだったかな。
バンドの話に限らず「チャキオ(T$UYO$HI嫁のことをKはこう呼ぶ)は最近体調どう?」とかいう話もしたし、K自身も「この間、カラオケに行って久しぶりに歌ったよ」とか「誕生日に気になってる子と温泉旅行へ行こうと思ってんだよね」って話もしてたし。

ー友達として話をしたときには、P.T.Pとして志半ばになるかもという予感がT$UYO$HIさんの中であったと思うし、覚悟もあったんですか?

うーん。俺の思いは伝えたし、あとはKを待つっていう感じでした。すぐに復活できたらそれは1番良いことだけど、たとえメジャーと契約がなくたって、それこそ趣味でもバンドはできますからね。でもメンバーがいなくなってしまったら、バンドは出来ないんですよ。

ー言い換えると「P.T.P.はこの4人でしか成立しないんだよ」っていうことですね。

ただそれだけですね。もちろん、残った3人で続けて欲しいとか、それこそ「新しくボーカル入れたら?」って声もあったけど、1ミリも考えたことないです。
俺が最後のZEPP TOKYOで観せたかったのは、実は”成立してない姿”なんですよ。「Kがいなかったら、4人揃わなかったらP.T.Pじゃないでしょ?」って姿なんです。
ロックバンドって、そういうものなんじゃないですかね。


drug store cowboyとしてデビュー後、Pay money To my Pain、そしてThe BONEZと活動を続けるベーシストT$UYO$HI。数々の作品と唯一無二のライブを示し続けるT$UYO$HIの魅力をこれまでの歴史と共に迫ります。PART.3はPay money To my Pain 〜 The BONEZ まで。

ーシェルターでのJESSEソロ・ライブをきっかけに、JESSE AND THE BONEZとなっていくんですよね?

その日の打ち上げで「これからどうする?」ってなったときに、ZAXはJESSEに「P.T.Pが失くなっちゃったからって、一緒にやろうぜっていう気を俺達に遣わなくていいから」って言ったんだけど、JESSEから「もっと一緒にやりたい」みたいな話が出て「じゃあ、やろうか」って。

ーそれにT$UYO$HIさんも賛同されて?

もちろん、P.T.Pは自分にとって最後のバンドと思ってずっとやってきたし、まさかもう1回バンドをやるとは思ってはなかったけれども、やっぱり活動できる場所があるっていうのは、後ろ向きに考える時間も減るし、何か予定があるっていうのは俺にとってはすごい助かった。でも、その時点で「やろうよ」って言ったときは、JESSE AND THE BONEZを結成したという感じではないです。

ーサポートという定義の方が近い?

そうですね。JESSEのソロ活動の延長っていうノリでしかなかったですね。

ーそれはまだ”メインのバンド”と捉えてなかったからですか?

ですね。Kの葬式が終わって、少し経ってから曲を作ったんですよ。別にBONEZでやるとかそういう意図でもなく、ただただKへの気持ちを音楽にしたくて。そうしたらまず「Sun forever」の1番最後に出てくる、アコギのフレーズが出てきたんです。
それからギターとベースも弾いて、ドラムも全部打ち込んで、気持ちをまるまる形にしたんです。それこそ歌以外はアルバムに入ってるバージョンとほぼ同じです。
ある日、それをJESSEに聴かせたら「いいじゃん!」ってことになって、じゃあ俺も曲を作ろうかなって。それが「JESSEのソロ・プロジェクトでベースを弾く」って意識から、少し変わっていったことかな。

ー発表する云々とは関係なく、作った曲を何故JESSEに聴かせてみることになったんですか?

まぁ、アルバムを作るってなったときに「イッシーは曲とか作んないの?」みたいな話になったのかな。さらにJESSEが「こういう感じの曲やりたい」ってYouTubeで聴かせてもらったあとに、俺が家で「Color of Grey」をツルっと作って聴かせたら、これまた気に入ったみたいで。そこから”曲を作ろう”モードにスイッチが入った気がします。

ー音楽への欲求が、作曲という行為で解放されていくイメージですね。

P.T.Pのときは、あくまでメインコンポーザーはPABLOだったから、俺は2、3曲ぐらいしか曲を書いてないけども、P.T.Pの後半でBUCK-TICKのトリビュートの話があったときに「ラブレター」をカバーしたんですけど、1番ファンだった俺が選曲とアレンジをやったんです。
メンバーも「ツヨポン、ちょっとやってみてよ」って感じで。で、実際やってみたら「あれ?宅録楽しいなぁ」みたいな。割とそれが、今のBONEZで曲を作ることのきっかけにもなってますね。

ーそして「Sun forever」があったからこそ、「Astronaut」に繋がっていくんですね。

「JESSE AND THE BONEZ」はJESSEとZUZUで作ったものなんですけど、「Astronaut」の曲は半分ぐらい俺が作ったのかな?例えばRIZEはグルーヴのバンドだと思うんですけど、それに対して”もうちょっと歌を歌うJESSE”を表現したいっていうのが漠然とありましたね。
原点に立ち返るって言いますけど、俺が好きだった90年代〜00年代のオルタナ感を表現したくなったんですよね。

ーあくまでサポートとして入ってから、今のT$UYO$HIさんの話を伺っていると、もう前向きになっているというか。サポートに徹するのではなく”The BONEZというバンドをどうするか?”という思考に切り替わってると思えたのは、P.T.PではKだったように、JESSEというボーカリストに見出せたことがあったからですか?

新しいJESSEを見てみたくなったのはありますね。俺は幸いなことに、drug store cowboyでも「コイツ、面白いな」ってボーカルとやれたし、P.T.PでもKっていう最高のヤツとやれた。そこでタイプは違えど、カリスマ性・素晴らしい魅力を感じるボーカリストのJESSEと一緒に音が出せることになったのは、とても恵まれたことだし。Kからのギフトのような気もしました。

ー「JESSE AND THE BONEZ」から「The BONEZ」になることが、T$UYO$HIさんも含め必要なことだったんでしょうね。

ファンの子の中には、P.T.Pの活動がなくなって、すぐに新しい活動することを快く思わない人がいることもわかってたけど、そこでヘコむのは簡単っていうか。もちろんP.T.Pとは全く違うものなんだけど、また違う遊び場を提供したいって気持ちもあったし。まぁ単純に、最初は自分たちの為にやってたに過ぎないです。

ーそれをただの”遊ぶ場所”から、「The BONEZ」になることで”本気で遊ぶ場所”にしたという。

そうですね。そして「Astronaut」のレコーディングやライブをする過程で、ZUZUと活動のスピード感がズレてきちゃったというか。「このままじゃまずいぞ」って話をミーティングでしたときに、ZUZUの方から話があって。で、ギターをどうするかってときに、JESSEは言えなかった部分もあったと思うんだけど「NAKAはどうなのかな」って話を俺とZAXから出して。

ー元メンバーですからね。

そうそう。だけど、JESSEはもう何年も会ってないって言うんですよ。

ーT$UYO$HIさんも同じくですか?

何年だろう…。でもNAKAとは、俺がdrug store cowboyの活動を停止したあとに「dog day afternoon」っていうコピーバンドをやってて。そのギターがNAKAで、音を出したことがあったし、気心は知れてたんですよ。
ドラムは、当時ELLEGARDENの高橋宏貴、ギターがSCREAMING SOUL HILLの加藤昭彦とNAKA、ベースが俺で、ボーカルがなぜかPABLOっていう(笑)。2回目の活動がELLEGARDEN活動停止あとで、3回目が結局去年やったんですけど、P.T.P活動停止後というタイミングです(笑)。

ー(笑)。では、その3回目のときにも連絡は取られてたんですよね?

その時はNAKAも忙しくてコピバンはすぐに実現しなかったんだけど、コンタクトはしたんですよ。だからJESSEに「この前、たまたま別件で連絡取ったから、俺が連絡するよ」って言ったら「いや、そこは俺から」ってJESSEが電話したんだけど、全然出なくて(笑)。
それから「どうしてもNAKAじゃないと言えない話があるから、電話が欲しい」って留守電にも残したんだけど、一向に着信はなく…。でも、実はJESSEが掛けてた番号が違ってたというオチです(笑)。

ー危ない(笑)。

結局、正しい番号に掛けたら出て、戸越でご飯を食べることになったんです。最初ヴェローチェの前で待ち合わせしたんですけど、会うなりJESSEの娘のリリカがいきなりNAKAに「魔法の杖だ、えーい!」って木の棒をぶっ刺して(笑)。
それでNAKAは緊張がほぐれたらしいです。で、近くの百番っていう中華屋さんに行って、普通に他愛もない話をしてたんですけど、我慢のできないZAXは「実は一緒にやりたいねん」って突然言いだしちゃって(笑)。

ー(笑)。

「おい、待てよお前!」みたいな(笑)。そしたらNAKAは音楽性がどうじゃなくて「みんなと久々にご飯食べて楽しいなぁ。もう何年もエレキ・ギター弾いてなくて、家でアコギしか弾いてないから、ちゃんと弾けるかわかんないけど、こうやってみんなと居たいな。だから、俺やる」って、この4人でやりたいという感じでしたね。

ー人としての繋がりを感じる一方で、NAKAからエレキ・ギターを弾いていないという話を聞いたとき、不安はなかったんですか?

冗談で、「NAKA、エレキ弾いてないとか言ってたけど、シールドってどこに挿すんだっけ?とか言ったら笑っちゃうよね」って話はしましたね(笑)。それからNAKAが反応しそうな曲から送って(笑)。
後日、スタジオに入って違うタイプの3曲をNAKAと合わせたら、バッチリ弾けて「え?できるじゃん!」ってなって。それから、ZUZUが抜けてNAKAが入るタイミングで、JESSEのソロ・プロジェクトじゃなく、4人でThe BONEZとしてバンドになろうっていうことになったんです。

ーこれまでのT$UYO$HIさんでいえば、drug store cowboy、Pay money To my Painと自らが見つけてバンドが始まっていきましたけど、The BONEZは”メンバー全員が求めたバンド”という部分が大きいと思うんですよね。

確かに。それはデカイですね。結局、みんな心に穴ぼこが空いてたんですよ。色んな経験をして、失敗も苦い味も知った状態で集まったから。NAKAも何年振りかに会って、ものすごく大人になってたしね。
NAKAと初めて立ったリキッドルームでのライブで、ステージに出てびっくりしたのが、P.T.Pのときのような感覚をもう1回味わったんですよ。

ーそれはバンドとしてですか?

バンドのエネルギーが、客席に向かってドーンと出てる感じって言うのかな。ステージからそれが出てるのをライブ中に感じて。そういう感覚を持てるメンバーと、またバンドがやれるって本当に思わなかったから。

ーNAKAからすれば、久し振りのライブじゃないですか。それでもそのパワーが出せるということは、本当にThe BONEZに必要なピースだったということですよね。

ですね。「NAKAってこんなにカッコイイんだ!」って思った。RIZEのときはわりとクールな印象のギタリストというイメージがあったんだけど、すごい攻めるし、立ち姿もカッコ良くて。きっと色んなことを経験してきたんだろうなっていうのが滲み出てて、すごく驚いたことを覚えてるなぁ。

ーメンバー自身の感触も良かったんですね。

すごく良かった。ただ「The BONEZとしてバンドとなります」ってその日に発表したとき、まだP.T.Pの「gene」も発売されてなかったし、Zepp Tokyoも終わっていなかったから、ものすごく複雑でしたね。

ーファンからしてみれば、P.T.Pはただ止まったままの状態ですしね。

実は「Astronaut」って、最初は発売予定日が違って、「gene」と同じ日に発売する予定だったんですよ。それはThe BONEZメンバーの意向というよりは、レーベルの宣伝的に考えればなんだけど。
それに俺はすごくモヤモヤしていて。確かに店頭に一緒にCDが並んでれば、そこでThe BONEZの存在を知って、CDを買う人もいるかもしれないけど「なんだかなぁ…」っていう。

ーまた、ファンにも拒絶反応を起こされちゃうというか。

そうそう。自分がファン目線に立ったときに、俺はイヤだなって思ったんですよ。それで「やっぱり一緒に発売するのをやめたいです」って土壇場でドーン!ってそれまでのプランを白紙にしてもらって、年明けすぐに「Thread & Needle」のMVを出して、アルバムはその後にリリースってスケジュールにしてもらいました。

ー混乱させない順序を示しすことで、救われたファンも多かったと思いますね。

順番をちゃんとしたかったし、hideさんはX JAPANが解散した次の日に、「hide with Spread Beaver」の発表を新聞で告知したでしょ。そういう落ち込む隙を与えずに、進めたかったのもある。
バンドの発表が先になって困惑させちゃったけれども、「gene」のリリース、Zepp Tokyoで真っ白になって。それからThe BONEZとして「Thread & Needle」の流れは良かったと思う。驚いたんだけど、あのビデオって、お台場近辺にあるビルの屋上で撮影したんです。よく見ると、P.T.Pとして最後にライブした辺りが後ろに映ってるんです。
「もう1度、スタートして上に登っていこう」っていう表現が、偶然ですけど出来たなって思いましたね。

ー今のお話からも、T$UYO$HIさんは常にファンのことを考えていらっしゃいましたが、「gene」の発表、Zepp Tokyoでの「From here to somewhere」は、自分たちの踏ん切りではなく、あくまでファンの為に行ったと言えますね。

メンバーとスタッフで集まったときに、アルバムについて、残りの曲への議論はあったけど、Kが既に歌ってある曲もあったから、世に出すことはすぐに決まって。
ただライブについては、メンバーで意見が分かれて、とても揉めました。例えば東京1本だと来れない人もいるから、キャンセルしたツアーの場所に行くべきなんじゃないかとか、演奏をしなくても映像を流して、せめて挨拶だけでも行くべきなのかとかね。

ー結果、Zepp Tokyoでの1本をライブ配信することで、可能な限り観せることが出来た。

Zepp Tokyoはいつかやってみたい場所だったし、たまたまイベンターの人がKが命日の空きを持ってたんですよ。「それ、その日にやれってことじゃない?」って。結果としてライブはやって良かったし、必要だったなって思う。
例えば、俺はアイツのお通夜やお葬式に行ったり、そういう現実を実感をする場所をちゃんと経てる。だけど、ファンの人はtwitterとかHPでKが亡くなったことを知らされただけで。まぁ、献花式はあったにしても、時が止まったままで夢か現実かわからない状態じゃないかなぁって思ったんですね。「Kはいないから、もう新曲は聴けない、P.T.Pのライブはもう観れない」ってことをみんなで実感する場所だったし、心に穴が空いている人が集まれる場所が必要だった。

ーそして、その直後にAstro Tour 2014へ突入したのが、まだ去年という…。

もう、時間のスピードがめちゃくちゃ速くてよくわからない…(笑)。NAKAが入ってからのThe BONEZもそうだし、「Place of Fire」がそのツアーのあとですからね。「Place of Fire」が完成したときは「あらゆる要素が入っていて、絶対フェスとかで盛り上がるべ!」って思ってたけど、配信でしか出してなかったからか、お客さんの反応は「あれっ?」て感じだったんですよ。ワンマンをやったり、アルバムに収録されてから、ようやく盛り上がるようになったって感じがする。

ーうまく浸透してなかった?

タイムラグがすごくありましたね。それが去年の夏フェスシーズン。P.T.Pの活動もないし、もうフェスに出れないと思ってたけど、The BONEZとして出れることが嬉しかったと同時に、すごく悔しかった。

ー先ほどの”浸透”ですか?

それもあるし、P.T.P時代から一緒にやってきた他のバンドたちが、良い時間帯や大きいステージでやってるのが悔しくて。そこで俺がThe BONEZで出来ることを考えたら”カッコイイ曲を作る”ってことに行き着いて。「曲を作って、すごいライブをやって、ギャフンと言わせるしかないぞ!」ってなった。個人的にすごく思い入れがあるサマソニも、初めて誰も観ずにすぐに帰って、曲を作ってましたね。

ーもうT$UYO$HIさんの中でやれることが明確になっているから、悔しいという表現をされましたけど、The BONEZをもっと動かしていきたいという気持ちの表れですよね。その作曲にあたり、他のメンバーの得意とする部分や、映える部分は考えられるんですか?

もちろん。それは経験談でもあるし、例えばdrug store cowboyの後半は、俺がもっとヘヴィな曲をやりたいと思ってたんだけど、有原がボーカルとしてやるバンドだったら、やっぱりポップな曲の方が映えるわけですよ。結局は、やりたいことを無理矢理やるより、そのメンバーでやれることをしないと意味がないと学んだから。
で、その頃に最初に出来たのが「Ray」。ZAXが叩いて、NAKAが弾いて、JESSEが歌ってる姿をイメージして作ったっていうのがすごくある。「こういうフレーズのドラムの曲を作りたい」っていうんじゃなくて「こういうドラムを叩かせたら、ZAXの良さが出るはずだ!!」っていう曲を作るみたいなね。

ーステージで演奏しているシーンを想像しながら、作っていくことで生まれていったんですね。

特に「Ray」は、みんながイキイキしてる姿を想像しました。あとは、The BONEZでJESSEが歌ってるのを俺自身も見てみたくて「どうだ!JESSEはこういうことも出来るんだぜ!」っていうのを世に見せたいって想いがあった。

ーきっと他のメンバーも、その新しい一面を見たいと思っているでしょうし、この4人なら具現化出来きて、何よりも楽しんでいるんだろうなと伝わってきます。それこそ、The BONEZが日常化しているからというか。

そうですね。そういう意味ではバンドのTシャツとかも力を入れてて。P.T.Pのときも、グッズとかは自分たちでやってたんですけど、バンドを表現するものとしてすごく重要視しています。The BONEZという1つのブランド・カルチャーとしてありたいから、デザインとかも日頃から色々チェックしたり考えてるかな。

ーアイデンティティーとして、捉えてもらえるものでもありますよね。例えばライブ以外でもバンドTシャツを着てるとか。

そう。ライブの記念に買ったけど、家に帰って冷静に見てみたら「なんか微妙だなこれ?」っていうのが俺はイヤで(笑)。普段から着れるTシャツを作りたい。
「カッコイイね、それどこのなの?」「あ、The BONEZっていうバンドのTシャツなんだ。」みたいにしたい。

ーそれこそ、T$UYO$HIさん自身が、ストリートで体現したことですし。

そうですね。The BONEZのことを信じてついて来てくれてるBONER(The BONEZのファンのこと)が、バンドとか興味ない友達に「何そのTシャツ…ダサいね」なんて言われるようなことをしたくないですからね。
「音もカッコイイけど、そのバンドのTシャツもカッコイイ」ってのがやっぱ良いし、そうありたいですね。


drug store cowboyとしてデビュー後、Pay money To my Pain、そしてThe BONEZと活動を続けるベーシストT$UYO$HI。数々の作品と唯一無二のライブを示し続けるT$UYO$HIの魅力をこれまでの歴史と共に迫ります。PART.4はThe BONEZと今後について。

ー現時点での最新音源「Beginning」に込めた想い、そしてここから4人で始めるとした経緯を伺えたらと思います。

まぁ「Place of Fire」は、NAKA込みでの初レコーディング作品ではあるんだけど、俺の中では「Astronaut」と全く違っていて、”本気モードの作曲スイッチ”が入った後ってのもある。それは何かというと「Astronaut」のとき、まだP.T.Pがある状態で作っていたもので、「Beginning」はZepp Tokyoのライブを終えた後に作ってるのが大きな違いですね。

ー全てをThe BONEZに注げる状態であることは、確かに大きな差ですね。

そうです。あとは結婚してすぐ震災があったから、新婚旅行に行ってなかったのもあって、去年の秋に嫁とカリフォリニアに行ってきたんですよ。

ー奥さんと行かれるのは初めてですか?

はい。いつか自分の大好きな人と、Kと過ごした場所に行ったり「Huntington Beach」を歩きたいって思っていたんです。初めてカリフォルニアに行ったときからちょうど10年だし、行くなら今なのかなって。
行ってきて感じたのが「なんか、アイツはまだそこにいるんじゃないか…」って。俺が日本にいて、Kがアメリカにいるときに会えない感覚に、なんだか近い感じがしました。

ー当時の会えない時間の感覚と似ていたんですね。

あとは “好きな人と「Huntington Beach」を歩く”っていう俺の願望の一つを嫁さんと手を繋いで歩いて実現させたんですけど、“そこを歩くことが目的じゃない”ってことに気づいちゃいました。

ーというのは?

”「Huntington Beach」を歩く”って行為よりも、嫁さんや子供達と毎日を暮らせている、その日常こそが幸せというか…。要は、そう思える人と出会えて暮らしていることが、何よりも幸せなんだってことをあの場所に行くことによって、より実感しましたね。

ー特別な場所だった故に、気づきとなっていった部分もあるでしょうね。

ですね。それとやっと泣きました。Kが死んで、みんなに連絡をしたとき、受話器越しのヤツは泣いてたりしてたんですけど、俺は全然泣けなかったんですよ。葬儀でも、Kはいるけど蝋人形みたいで、全然アイツらしくないから実感がなかった…。でもその旅行の最終日にColdplayの曲を聴きながら、泊まっていたビーチ沿いのホテルで涙しましたね。

ーKさんと過ごしたロスやHuntington Beach。その街並みがT$UYO$HIさんにとってリアルだから?

そうですね。10年前、初めてKと行ったロスの旅行。あそこから第二期の人生が始まってると思っていて。もう1回、あのときの旅行をKとした気がしたし、この10年を一緒に振り返った気がしたというか…、第二期人生の終幕というか。

ーT$UYO$HIさんが、日本でのお葬式のときも含めて、実はちゃんとKに会えてなくて、この旅行で会いに行ったとも受け取れますね。

友達を含めて、近い人で人が死ぬってじいちゃんとばあちゃんしかいなかったから、すごい怖いなって思うくらいで、死に対してまだ理解をあまりしていなくて…。だから「K、よりによってオマエかよ」って本当に思いました。
やっぱりP.T.P、特にKと嫁の存在が、俺の心の2大柱だったんです。まだそこに嫁と子供達がいてくれたから、俺はKを失ってもなんとか立ってられた…。

ーT$UYO$HIさんにとって、身近で大きな存在だったからですね。

もちろん友達っていう、また別の大きな存在もありますけど、それも結局その2人によっての部分が大きいので。だからKとの思い出の場所に、もう1つの柱である嫁さんと行けたのはすごく大きい。
本当にKと嫁さんに出会った以降の人生と、それ以前の人生は俺の中では大きく違っていて…。まったく違う人生と言っていいぐらい、大きくて重要な人物がKと俺の嫁さんなんですよ。

ーその気づきと共に放たれた「Beginning」は、先ほど”日常の幸せ”と話されましたが、The BONEZのメンバー同士も、家族のような繋がりがあって、RIZEでもP.T.Pでもない、唯一の場所であり、ここから始める” 第三期人生”の始まりを示せたと映りました。

The BONEZは、バンドのメンバー以前に、友達ありきなところで始まってる、ノリみたいなものがあると思います。

ー今までのバンドを経て、尚そういう関係のバンドが組めるっていうのは、なかなかないことだと思います。

ですねー。ただ結局人間はないものねだりで、例えば仲良しバンドで集まったら、もっと音楽性やテクが云々という話になったり、スキルがあるメンバーと組んでも人間性が云々って言うこともあるからね。

ーなるほど。「Beginning」から未来の話に進めていくと、「Beginning」は次のステップ・アップのものでもあると思いますが、The BONEZで目指すものをT$UYO$HIさんのひとつの意見として伺ってみたいです。

うーんとね、オーバーグラウンドでいたいかな。

ーアンダーグラウンドではなく?

P.T.Pって、アンダーグラウンドの中のオーバーグラウンドみたいなイメージがあったかもしれないけど、The BONEZはオーバーグラウンドの中の1番尖ってる部分でありたい。

ーマイノリティな音楽をやってるわけでもないですし、お茶の間に見せても通用するくらいの棘のような?

そうですね。そういうキャッチーな要素をJESSEは持ってると思うんですよ。ラジオで話してるJESSEもスゲエいいし、もっとやったらいいのに(笑)。それこそ健(Ken Yokoyama)さんがMステ出たじゃないですか。そうやって、ロックバンドがカッコイイってことを伝えたいかな。

ーそれをThe BONEZとしてやることに意味がある一方、ロックバンドが置かれてる状況はT$UYO$HIさんがそうお話される程、市民権を得ていないと考えられますか?それこそ、ミュージックステーションで観たBUCK-TICKやX JAPANも、当時は決してオーバーグラウンドではなかったですよね?

そう、最初は一部少数派ですよね。学校のみんなは知らないけど、私は知ってるっていうアンテナ敏感キッズにキャッチされるバンドでもいたいっていうのもあって。やっぱ、そういうカルチャー感っていうのは大事だから。良い意味で、音楽は誰でも作れる時代になったけど「この人みたいになりたい」って思える、華のあるバンドは海外も含めて減ってる気がするし、尖ってる人はあまりロックを選ばなくなってますよね。

ーカルチャーとして根付かせるのは、The BONEZだけが頑張ってもなかなか難しいと思うんですね。ただそうやることによって、後に続くバンドやアーティストが出てくるっていうのもありますよね。

もちろん。だから俺自身は、すごく狭間の世代というのを感じてて。90年代のバンドバブルな先輩たちを見てきて育ったけど、あの時代の恩恵をあんま受けていなかったり、P.T.Pを始めたときはラウド系のバンドはまだまだ少なかったし。でも、今やWarped TourにCrossfaithやONE OK ROCKが出たり、coldrainもガンガンワールド・ワイドに活躍してて、P.T.Pってその橋渡しの役目だったのかなってことも思ったし。

ーその悔しさもあり?

「すげーな!」と思う反面、やっぱ「P.T.Pでこういうこと出来てたらなぁ」とか、「当時こういうことが出来てたらなぁ」ってのは正直思います。例えば今の音楽性になったBMTHと対バンしたかったなぁとか。でも、The BONEZがそれを目指してるバンドなのかと言われると、そこはそうでもないんですよ。

ー海外に目を向けていないというよりは、それが目的ではないという?

「やれるならやりたいです!」って感じだし、洋楽はもちろん好きだけど、今は海外への憧れは昔ほどないかな。その辺はCrossfaithやcoldrainに期待してます。

ー海外でのロングツアーなど、彼らは頑張ってますよね。

ですね。やっぱり家族も大事だし、日本に残して2年間ツアーをやるとか今の俺らには厳しいし、俺が欲してるものは日本にはなくて、海外にしかないともあまり思わないから。活動の場所が色んなところにあって、求められているのは良いことだし、それは出来るならばやりたいけれども、あまりそこに重きを置いてないかもしれないです。というか、日本と海外をあんまり区切って考えていないのかも…。まぁ、家族みんなで行けるなら行きますけどね(笑)。

ーエアロスミスみたいに(笑)?

そうそうそうそう(笑)。やっぱりバンドと家族は、切っても切り離せない部分になっちゃってる。そこのサジ加減は難しいんですけど、それぞれ家庭やら事情がある。そういう状況でやってるのがThe BONEZなわけで。
俺は今年で41歳になるし、その上で自分たちが何をしたくてどうするか?20歳の子みたいに「バンドが全て!」ってアグレッシブに活動しようと思っても、そこには無理が出てきちゃう。

ー他のバンドがやることだろうし、また目指すものでもあるだろうけど、The BONEZがやれることはまた別のことだろうっていう。

う〜ん。まだ模索中だけどそんな感じかな。もちろん海外のライブもやりたいけれども、そこを目標に集まったバンドでもないから。

ー今回のインタビューを通して、それはすごく納得感があります。こうしてT$UYO$HIさんのバンドにまつわるお話を中心に伺ってきたんですけど、ミュージシャンとして、他の領域への興味はないんですか?

非常にあります。映画のサウンドトラックとかドラマやCMの音楽とか制作したい。

ー「赤々煉恋」で携わったような?

そうですね。アニメ・ドラマ・映画・CMとか、映像と音楽が合わさって表現されるものですね。それこそ、大学のデザイン科の面接で言ったことを覚えていて「映像と音楽が組み合わさったときの感動を作りたい」って言ったの。トレント・レズナーの映画音楽とかスゲエ好きです。あとは、昔からプロデュースもしてみたくて。それも、出来たらスタイリングも俺がしたい。

ービジュアル面も含めてということですか?

全部です(笑)。まぁそれは結局、素敵な素材ありきですけどね。俺、興味がないことには全然反応しないし、「ライブどうだった?」とか言われても「うん、正直ピンとこなかったなぁ」とか言っちゃうんですよね…。
もちろん逆にカッコイイバンドとか観ると、「悔しくないの?」みたいに言われるけど「うおー!めっちゃカッコイイ!!」とかすぐ言っちゃう(笑)。

ーそこがT$UYO$HIさんの、ウソがつけない良いところですよね(笑)。

でも、いざ仕事となると、良いと思ったものだけやるってのはなかなか難しいですからね。単純にゼロから何かを生み出すことより、既にあるものをもっと良くすることが、俺は得意な気がするんですよ。
例えばの話ですけど、ZAXに「かんちゃん、シャツは水色よりも白の方が似合うんじゃない?」とか?今あるものに対して「これはここをこうした方がもっとカッコよくない?」っていうのが割と好きです。

ーきっと、付加価値を見出すのが得意なんでしょうね。

まぁ、具体的にビジョンがあって、そういう人を探してきて何かしたいとかじゃなくて、何かを持ってる人を見たときに「こうした方がもっと良くなると思うな」っていう事から始められたらいいですね。

ーT$UYO$HIさんの興味アンテナの感度は、かなり高いですよね。その始めが音楽やバンドだったんだと。タイミングが合えば、先ほど仰って頂いたように、歯車は回るとも思えますよね?

まぁ興味があることは多いですね。ずっと「洋服、何でやんないの?」とか色んな人に言われてきたけど、それもタイミングというか。当時、「Kがやるのに、俺までやっても…」って思ったのもあるし。
最近はファッションに関して「やっぱ、すごいな」と思ったのは、清春さんかな。別に面識があるとかじゃないんですけど、インスタとか見てても、自身のブランドもそうだし、洋服のサイズ感だったり含め、あの人のアンテナはすごく敏感だなと思いますね。

ーThe BONEZのグッズでも、そんなアンテナは活かされていると思いますよ。

今年の夏にThe BONEZでフラワー柄のTシャツを出して、結構評判が良かったんですけど、あれは元々、単純に自分が欲しくて作っただけだったりします(笑)。

ーそういう、自分が欲しいものを作るという動機は大事ですよね。大きく言えば、生きて行く中で、バンド・自分自身への拘りを持ち続けているから、今のT$UYO$HIさんがあるんでしょうね。

大事。”自分をアッパーにしてくれる”という要素は大事ですね。洋服は音楽と同じくらい好きだし、お金もだいぶ費やしました。

ーストリートカルチャーに感化されている分、普段から上がるものを周りに置いておくようになったんでしょうね。

要は飽きっぽいんだと思うんですけど(笑)。色んな自分を楽しみたいんです。色んな音楽を聴きたいし、”これだけ”っていうよりかは、間口を広く持って、良いものは良いっていう。変な拘りはなくしたい。

ーThe BONEZの新しい楽曲たちも然り。

それは収拾がつかなくなってきてる(笑)。NAKAはもっとダウナーな感じの曲、UKっぽいものやアコースティックなものが好きだし。ZAXはああいうドラムを叩きつつも、ポストロックとかもっとナイーブな音楽が本当は好きだし。JESSEは、性格の通りというか明るいものが好きだしってなると、みんな好きなものが幅広いから、やりだしたらキリがなくて。どの感じを出すかによって、結構変わっちゃうし変えられるから「なんか、東京っぽいバンドだなぁ」と思ったりします。

ー”東京”ですか?元々、The BONEZ自体が何かに定義されているバンドではないですよね。それが、何をやってもThe BONEZの曲になる分、幅の広げ方が難しくなってしまうというのは理解できます。

でもやっぱり、しっくりくるのは”オルタナティブ”っていうワードかな。

ーグランジではなく?

そうですね。言葉に縛られるわけではないですけど。そういう中で、次のアルバムは俺もいっぱい曲作ったけど「どれをチョイスしよう?」っていう最近です(笑)。

ー(笑)。今、こうやって未来について悩めていること自体が健全ですし、バンドの状態も良い証拠だと思います。

でも人間だから、その状態を続けていくことは本当に難しいです。今回のインタビューもそうなんですけど、俺は何事も直球すぎちゃって。言い方や伝え方をもっと学習しないとなって思ってます。そもそもが人見知りで伝えられないこともあるし、思ってることは同じでも、その言い方や伝え方で違うじゃないですか。人を傷つけちゃったりもするし、そこの部分を成長したいなと思ってます。

ー初対面の人に対しては、T$UYO$HIさんの話は正しいと思うんですけれども、ある程度の仲になっていたりとか面識があると、逆にそこでT$UYO$HIさんの良さやキャラクターが消えるっていうのはあんまりよくないなというか。

キャラクターを消すわけではないんだけど、例えば「これやってよ」っていうのと「よかったらやらない?」っていうのとは違うじゃないですか。バンドの仲がいいメンツだからこそ、それがもっとうまくいく方法っていうか。何事も直球で言うことが、必ずしも正解じゃないなって思いますね。

ー親しき仲にも礼儀ありじゃないですけど、気遣いが出来るかどうかですね。

そうなんですよね。昔も言われたことあるんですけど「幸せなウソだってある。バカ正直に言うことが、必ずしもその人を幸せにするとは限らない」っていう…。それを出来るか言われると、まだなかなか難しい。

ーT$UYO$HIさんはウソがつけないですからね(笑)。

そうなんですよねぇ…だから成長するって大変なんだろうね(笑)。まぁ、これからも日々頑張りますので宜しくっす!って感じで。


取材:2015.07.19
インタビュー・テキスト:Atsushi Tsuji(辻 敦志) @classic0330
photo:Hiromi Morimoto、VIOLA、DAISUKE ISHIZAKA、YOSHIFUMI SHIMIZU、YOKO UMEMOTO