T$UYO$HI(The BONEZ) インタビューvol.36

drug store cowboyとしてデビュー後、Pay money To my Pain、そしてThe BONEZと活動を続けるベーシストT$UYO$HI。数々の作品と唯一無二のライブを示し続ける彼の魅力をこれまでの歴史と共に迫ります。PART.1は幼少期〜drug store cowboyまで。

 

ーT$UYO$HIさんの中で、一番最初に記憶として残っている出来事って何ですか?

…泥棒が入った(笑)。

ーすいません、どういうことですか(笑)?

俺が出くわしたとかじゃないんですけど、入った…らしい(笑)。親父がトランペットやクラシックをやっていたからオーディオも好きで、家にすごくでっかいスピーカーがあったんです。幼少期に住んでた武蔵小金井の家に泥棒が入って、スピーカーをタンスだと思ったらしく、スピーカーのカバーが外れてたっていう。「泥棒さん、タンスだと思ったみたいだけど、残念だったね」って母親が言ってたのを覚えてる。

ー(笑)。それは幼稚園くらいですか?

幼稚園の年中ですね。あと、近所に大きな砂場があって、そこに自分の足を入れたまま、その上に砂のオブジェみたいなものを作り始めたんだけど、あまりにもすごいものが作れて。動くと壊れちゃうから、帰りたいけど帰りたくないっていうもどかしい気持ちとか、幼稚園の友達が引っ越しちゃうときに、折り紙でライオンみたいなのを作ったんだけど、それもあまりに上手くできたから、「人にあげたくない…」って思ったのを覚えてる。

ー今でもその記憶があるということは、心のどこかに引っ掛かっているんですか?

どうだろう、別に何かを引きずってるとかじゃないです(笑)。音楽で言えば、年に何度か親父の演奏会に連れて行かれたけど、クラシックだからまず歌がない。「一体、何が楽しいんだろう?」って、まだ当時はよくわかってなかったな。

ーよっぽど、幼稚園で歌う童謡の方が楽しいですからね。

そうですね。まぁクラシック関係ですけど、音楽的なものは近くにあったと思います。

ー年中さんでは早いかもしれないですが、お茶の間では多くの歌謡曲が流れていたと思うんですけど、必然的にクラシック以外の音楽もT$UYO$HIさんの耳に入ってきますよね?

町田に引っ越してきた年長さんぐらいには、やっぱりアニメの歌が好きだったな。しかもOPテーマじゃなくてEDテーマで、定番でいうとドラゴンボールとか(ハイスクール)奇面組とかもそうだし。

ー「魔訶不思議アドベンチャー!」よりは「ロマンティックあげるよ」だと。

俄然そうですね。EDテーマって、ちょっと切なさ混じりの曲が多いんだけど、そこが好きだった。

ーT$UYO$HIさんの持つ”エモさ”に通じるところがありますね。

そうですね。まだそのときは「実際に音楽やろう!」というつもりは全くなかったけど、自分の第一次音楽期というか。実際に初めて音楽をやったのは、音楽クラブに入った小学校5年生からで、自分たちで曲を作って、6年生の卒業式で演奏するという。

ーもう曲を作るんですか?それは歌モノとしての演奏で?

そう、俺が作った曲は採用されなかったけど(笑)。メロディに全く興味がなくて、そのとき俺はドラムをやることになったんだけど、リズムにしか興味がなかったからすごく楽しかったですね。

ーT$UYO$HIさんの初ステージが、まさかドラマーだったとは驚きですね。

キック、ハイハット、スネア、シンバルぐらいですけどね。そのときのことは詳しく覚えてないけど、主役は6年生なのに自分たちが主役になったような気持ちを感じたかな。

ー少なからず、ステージの醍醐味を味わった出来事ではありますよね。

そうですね。でも、まだベストテンとか観てるときだから「音楽やりたい!」とかは全然思ってないです。母ちゃんがTHE ALFEEとかチェッカーズとか好きで、俺もそれを聴いてたくらい。それこそ、「親の影響って大きいんだな」と思うのが、中学校に入ってバレーボールをやったんですけど、やっぱり母ちゃんも昔やってたんですよね。

ーそれがきっかけでバレーボール部に入ったんですか?

いや。そんなに運動が得意でもなければ、昔からスポーツに熱中してたってわけでもなかったんだけど、学校の中心人物的なメンバーが集まってたし、俺の身長が中1で170cmくらいあって有利だったから、初めてスポーツに熱中しましたね。だけど中2のときに腰を悪くして、病院に行ったら「もう運動は辞めた方がいい、このまま続けると将来は車椅子生活になる…」とか言われて、「なんで俺がこんな目に合うんだ…」ってスーパー絶望してたんだけど、何故かそのときに「よし!じゃあギターをやろう」ってなったんですよね。

ー急にギターが登場してきましたけど、今までのお話を伺う限り、THE ALFEEくらいしかギターとの接点ないですよね?

確かになんでなんだろう。学校の音楽クラブで、クラシック・ギターをやったからなのかな…?俺の中で「よし、エレキ・ギターを買うときが来た!」ってなったんだけど、もしかしたらTHE ALFEEとかをTVで観てたのはあったのかもしれない。

ー(笑)。では、そのタイミングでバレーボールは辞めることに?

いや、これがまたすごい話があって。1年くらいは立っても座っても激痛だったんですけど、後日違う病院に行ったら「いやいや。筋肉をつけて、固定すれば大丈夫ですよ」って(笑)。だからギターは買ったけど、部活も辞めずに続けて、当時流行ってたスケボーとかもやってました。

ー良い誤診じゃないですか(笑)。中学生だとグレそうな話ですけど。

それで言うと、俺の世代はまだヤンキー文化が残ってたし、俺の2つ上の先輩までは、かなりグレてたんですよ。だけど、俺らの代からスーパークリーンな学級で「花壇コンクール優勝!ワーイ!」みたいな(笑)。

ーすごい健全(笑)。

俺はヤンキーの美的センスに、なんかしっくりこなかったんですよね…。パンチ・パーマとかリーゼントがカッコイイとは思えなかった。あとは、所詮子供なくせに、大人ぶって背伸びするのが逆に子供っぽい気がして。だけど、”普通じゃない自分”にもなりたかったときに、初めて魅せられたのが、たまたまビデオに録画してたミュージックステーションに出ていたBUCK-TICKです。髪の毛が逆立ってて、メイクしている人なんて見たことがなかったから、「パンチ・パーマでもリーゼントでもない!ぶっ飛んでてカッコイイ!なんだこれ!!」って、死ぬほど繰り返し観ました。

ーT$UYO$HIさんの中で、BUCK-TICKの音楽のみならず、ビジュアルインパクトが大きかったんですか?

そうですね。ミュージックステーションでやってたのは「JUST ONE MORE KISS」だったんですけど、スケボーをやってたのもあったから、音楽的にはテンポが早くて激しいCDのカップリング曲の「TO SEACH」が好きだった。それから、激しい音楽を求めて貸しレコード屋さんに行くわけですけど、町田の外れのど田舎だったんで、ギターをやったりロックを聴いてるヤツ、兄貴もいないんで、どのバンドを聴けばいいのかまったくわからなかったです。

ーしかも、情報源がテレビでたまたま観たBUCK-TICKだけですしね。

そう。それで貸しレコード屋さんに行ったら、Iron Maidenのアルバム(SEVENTH SON OF A SEVENTH SON)があったんですよ。骸骨が内蔵持ってるやつだったかな(笑)?「骸骨!エグイ!これは悪そうだし、激しそうだ!」と思って、ジャケ借りして聴いてみたら「うわっ、なんだよ!曲のテンポは早くてカッコイイけど、ボーカルは女かよ」って思ったんですね。

ーえっ?

実はレコードの回転数を間違えてたんです(笑)。回転数を速く再生させてたから、元よりテンポが上がってるわけで、キテレツの「はじめてのチュウ〜」みたいな女性の声に聴こえたんです。で、正しい回転数で聴いたら「何これ?ボーカルは男だけどテンポ遅っ!う〜ん、求めてるのはこれじゃない!」って、回転数の早い方でテープに録音して(笑)、ちゃんとしたの録音してないんですね。

ー(笑)。Iron Maidenには申し訳ないですけど、キッズですから速いテンポの方が好きになりますよね。

きっと、今の若い子たちもそうだと思うよ。それからどんどんのめり込んで、ギターのコピーもしたし、初めてBUCK-TICKのライブを東京ドームに観に行って。そのあとも、ミュージックステーションに出てきたXを観て「テンポは速いのに歌もちゃんとあるし、これはドラマチックだ!」って、これまた俺の中で大ヒット。

ーなるほど。速いテンポの曲にメロディアスな歌を兼ね備えていてるという、当時のそういったシーンにいたバンドたちの音楽が、T$UYO$HIさんの血肉になっていったんですね。

高校に行ったらバンドが組めると思ってたし、それまではロッキンfで学んでくみたいな(笑)。

ー(笑)。それまでは自宅でひたすらコピーをしていたんですか?

そうそう。あ、1人道連れにしました(笑)。クラシック・ギターのクラブみたいなのがあって、そこにいた梅木くんにもエレキ・ギターをゲットしてもらって、卒業式のときに体育館でBUCK-TICKを2曲やったんですよ。もちろんベースなんかいなくて(笑)、俺と梅木君がギターをやって、別の友達に「ツッダン・ツツダンってやってて」と言って、ドラムはスネアとハイハットだけで(笑)。

ー(笑)。これが初ライブですよね?

ですよ(笑) !!曲は「SEXUALxxxxx!」と「SILENT NIGHT」を演奏したんですけど、あれはもう興奮しましたねぇ…。高校受験まではTVとギターを押し入れに封印して、毎日8時間ぐらい勉強してたから「やっと弾ける!」っていう開放感がまたすごかったし、高校の合格発表を観たその足で、楽器屋さんに行って買ったディレイを初めてその卒業式で使って。歪んだディレイをかましてソロ弾いたときの気持ち良さにびっくりしましたね。

ーそれまでエフェクターは使っていなかったんですか?

ギターと小さいアンプだけ。最初は歪ませることもわからなかったし、歪ませてやったら巧くなれないと思って、ペケペケとずっと練習してましたね。
それから念願の高校に入ると「ハアァァァァーーー!?」っていう衝撃が待ってたんですよ(笑)。

ー衝撃??

軽音楽同好会の説明が始まった途端「うちの学校はエレキ・ギターは禁止ですが〜」とか言い出して。どうも昔に問題を起こしたらしく、先輩もアコギをバリバリに歪ませて弾いてましたね(笑)。
で、俺らの代で「エレキよりアコギを歪ませる方がうるさい音になる」ということを先生に検証させ「ほら!これよりエレキの方がいいでしょ?」って、エレキ・ギターをOKにしてもらい、更に俺らの代で同好会を部活にさせましたね。

ーT$UYO$HIさんの熱意が半端じゃないですね(笑)。晴れて、憧れのバンド活動をやれますし。

と言っても、X、ZIGGY、COBRAとかのコピーバンドですよ。オリジナル曲なんて、どうやって作るか全然わかんなかったし、ライブハウスに出てるバンドもウチの高校にはいなかったから。

ー実際に披露する場は文化祭とかですか?

そうですね。あ、1回だけ、友達のお母さんが女子校で先生をやってた経由で、女子校の文化祭に呼ばれてやったときがあって。そうしたら次の日、ウチの高校の校門にその女の子達がいっぱい待ち伏してて「なんだこりゃー!?」みたいな。…まぁだからと言って、別に恋に発展するようなことは何もなかったんですけど(笑)。

ーいやいや、バンド冥利じゃないですか(笑)。

バンド冥利でしたね(笑)。そんな状況だから、外に目を向けてるヤツはいなかったかなぁ。そう思うと、今の若い子たちはすごいなと思う。ZAXとかPABLOは高校のときから曲も作ってるし、あいつらは高校生のときにTEENS’ MUSIC FESTIVALで渋公でライブしてますからね。

ー(笑)。そういったコンテストという方向も全然なかったんですか?

みんなで放課後に集まって「俺、Mr.BIG弾けるようになったぜ」って披露したり、学校でデカい音で合わせたあと、帰りに菓子パン食って帰るみたいなのが楽しかったって感じかな。

ー平たく言うと、学校でやる遊びの延長という位置づけというか。

そうですね。その後は、絵や写真が好きだったのもあって、大学のデザイン科に進学して、その大学の軽音サークルみたいなのが盛んだったけど、俺は所属しなかったですね。

ー音楽熱が冷めたとか?

いやいやいや、なんかここに入っちゃダメだと思ったんです。次はもう外に行きたかったから、サークルに入ったらまた「ヤッホー!」ってやって、終わるような気がしたというか。

ー高校時代を繰り返してしまうと感じたんでしょうね。

でも、どうしていいかわからなかった。その頃、ガンズ、エアロスミスとか割とベタなロックンロールが好きだったんですけど、本厚木の楽器屋さんでたまたまそういうバンドの”ギターメンバー募集”の張り紙があって。このまま同級生とやってもよくわかんないから「ここはまず、年上のところに飛び込んで学ぼう」と思って、そのバンドに入って平塚の街スタに通って、ライブハウスでやることを学びましたね。

ー外への第1歩となったそのバンドは、オリジナルだったんですか?

そうですね。結局、1〜2年ぐらいは新宿や目黒ライブステーションでライヴして、色々学ばせてはもらったんですけど、客観的に見て「このバンドでデビューとかはないなぁ」と思って、ベースの人が辞めるときに「じゃあ、俺も辞めます」と。

ー上昇していくことが見込めない活動だったと?

ん〜、そこでバンドってものを学ぶ感じでしたね。その頃、後にデビューするdrug store cowboyのギタリスト村瀬(敏之)が同じ学校だったんですけど、ヤツもロクfキッズで、2人でひたすら学校で音楽雑誌を読んだり、家に泊まりに行っては、俺の知らないバンドを聴かせてもらってたんです。

ーキッズの青春って感じですね。

その中でDEEPの音楽に惹かれて、パワステ(日清パワーステーション)でライブ観たとき、バンドの持つストリート感とファッション、更にステージの八田(敦)さんの佇まいに「なんかベースがカッコイイぞ!」ってなったんです。例えば、ビジュアル系のように、メイクやステージ衣装で普段とは違う自分に変身できる良さもわかっていたけど「普段の格好やスタイルからカッコイイってのは、もっとクールなんじゃないか?」って思わされたのがDEEPですね。

ー所謂、ビジュアル系と呼ばれるバンドやエアロスミスに傾倒していたところから、全く違うストリートの音楽でも魅了されるくらいのステージだったんですね。

そうですね。ちょうど、村瀬がやってたバンドもうまく行かなくて、仲の良かった同級生の友達をボーカルに誘って「じゃあ一緒にやろうよ!」ってなって。そこで初めて、自分のバンドを組んだんですけど、俺も村瀬もギターで、ベースが見つからなかったから「俺、ベースやるわ」って、3日後にベースを買いに行ったのが始まりでしたね。

ーこのお話を伺うと、T$UYO$HIさんの行動に全く迷いがないですよね。

普段は「割となんでもいいよ」ってタイプですけど、自分がビビーンときたものに関しては真っしぐらですね。欲しいものは手に入れるし、行動するまでがメチャ早いかな。そのときも、持ってたマーシャルのヘッドもキャビもすぐ売って、ベースまわりの費用にしましたね。

ー確かに早い(笑)。因みにギターを弾いていたとは言え、ベースと向き合うのは初めてですよね?

そうだし、それまでは興味も無かったから、ベースが何やってるかなんて聴いてなかったですね。当時のライブでも、モニターからベースの音を返してなかったんじゃないかなぁ…(笑)。
だから最近になって、当時聴いてたXやBUCK-TICKを改めて聴くと「あっ、ベースでこんなことやってたんだ!」みたいな発見がありますよ(笑)。そんな状態で直ぐに曲を作り始めたから、最初はすごくギターっぽいベースだったと思います。

ーそうやって始まったバンドが、drug store cowboyに繋がっていくんですか?

まず、それが大学の3年ぐらいの話で。4年になると就職活動があるから、会社説明会資料みたいなのが大量に家に届いて、それが玄関に平積みで置いてあって。母ちゃんが「あんた、どうせこれいらないんでしょ?」って言うから「いらない」って言って、1つも封を開けずに捨てました(笑)。

ー親御さんのご理解があったんですか?

いや、そのときに親父と約束したことがあって。親父は家計的にも裕福な環境じゃなかったから、本当は音大に行きたかったんだけど、すぐに働いて結婚をして、自分の夢を追いかけられなかった人なんです。「オマエの気持ちはわかる。ただ、ダラダラやっても意味がないから、期限を決めろ」と。で、これまたロクfを観てたら、デビュー遅い組のアーティストが割と26歳でデビューされてたんで「俺も26歳までに事務所もデビューも決まってなかったら、そこでガッツリな活動は辞める」って約束して就職しなかったんです。

ーその期限の元、アルバイトをしながらバンド活動をしていくことに?

ですね。町田のジョルナに入ってたレストランでずっと働いてて。あるとき高校生のバイト君が入ってきて、話してみるとバンドをやってると。「じゃあ、オマエのバンド観に行くよ」ってライブを観に行ったら、そのバンドのボーカルがのちにdrug store cowboyのボーカルになる有原(雅人)だったんです。

ー出会うわけですね!

ちょうど、村瀬と友達とでやってたバンドは、ドラムのヤツが北海道に帰るってことになって解散してたから「コイツは良い、コイツとやりたい!」ってすぐになって…。Kの時もそうですけど”俺のバンド一緒にやろうよ口説き”が始まるわけです(笑)。

ー勧誘というかスカウトというか(笑)。

最初は「どういう音楽聴いてんの?」とか話をして。今でも覚えてるけど、「ちょっと俺ん家で音楽を聴いたり、曲でも作ってみようよ」って家に呼んだんですよ。それで俺がギターを弾いて有原に歌ってもらったら、それがものすごく良くて。その日はすごい雪だったから、有原の家に車で送っていくのにも、スピードが出せなくてメチャクチャ時間がかかったけどそれもまた良い思い出というか。真っ白い景色の中Weezerの2ndアルバムとか聴きながら「あ、何かが始まる…」って思ったな。

ーヴィジョンというか、求めていたバンドの光景が浮かんだんですか?

漠然とだけど、「見つけた。コイツとやったら面白いことが出来る」と思いましたね。最初は「石川さんとはやってもいいけど、俺は仲間とやってるバンドも辞めることはできない…」と言われてたけど、割とすぐにdrug store cowboyに集中するようになりましたね。

ー言い換えると、有原さんもバンドに可能性を見出せたってことですよね。

だと思います。で、話を戻すとまずはドラムにヘルプを入れて、町田プレイハウスで初ライブの企画をやったんですよ。そのときに出てもらったのがSlow Clubっていう、エモのはしりみたいなすげぇカッコイイバンドがあって。中でもドラムとギターがすごく良くて。そのドラムがのちにdrug store cowboyになる(菅原)聖地で、ギターが青木(downy)さんだったんです。

ーここでまた出会いが!しかも、その頃から青木さんとも知り合っているんですね。

そうなんですよ。しかも、その日のライブでそのバンドは解散するって言いだして…。ライブ終わってから、町田プレイハウスのロビーで「何かあったら連絡してね」って聖地が言うから、次の日起きてすぐに「聖地くんドラムやってよ」って電話しました(笑)

ー早い!(笑)

聖地は最初の3ヶ月くらいサポートでしたけど、やっとメンバーが4人が揃って。聖地が正式メンバーになるってとき、「半年で出来ることを1年かけてやりたくない」って言ったのをきっかけに、きちんと目標を決めて動いて行くんですけど、インディーズ時代はもう一瞬でしたね。

ーでは、デビューまで潤風満帆だったということですか?

いや…そういえばな話があって(笑)。当時、Hair CutsというバンドとRUIDOで対バンしたとき、お客さんがパンパンの状態のライブハウスでやらせてもらえて、しかも反応がすごい良かったんですね。だから、RUIDOの人に「もう1回、10分でもいいから彼らとやりたい」って言ったら、何とかしてみると。そんなときに「聖地の会社の知り合いに音楽プロデューサーがいるから、デモテープを録ってくれる」っていう話が舞い込んで来たんです。ただし、そのレコーディングというのは、部屋に2本のステレオマイクを立ててるだけで、しかも録音してる間にその人たちは焼肉を食いに行ってて。

ー雲行き怪しいですね…。

後日、レコーディングが終わって、喫茶店でプロデューサーと話すってことで、みんなで会いに行ったら、いきなりインディーズでCDを出す話になってて。俺は「ちょっと待ってくれ、まだ何の曲を録るとかも決めてないし、そもそも一緒にやるとも決めてない」って話をしたら、プロデューサーがブチ切れ出して「こっちはお前らの下手くそなデモテープ聴いてきてやってんのに、何をゴチャゴチャ言ってんだ!」って言いだして。

ーおっと(笑)!

それに対して、俺と村瀬とがさらにブチ切れてその話は終了(笑)。 それだけならまだ別に良いんだけど、Hair Cutsともう1回やろうとしてる中、RUIDOから電話があって「○○さんと揉めたでしょ?そのライブ潰されるかもしれない…」って。
まぁ結局やれたんですけど、そんなこともありましたね。

ードラマみたいな話があるんですね…。

それで、その日のライブは観れてなかったんだけどRUIDOとインセクトノイズ(THE MAD CAPSULE MARKETSの「HUMANITY」をリリースした事務所)を経営している落合さんって人が俺達のフライヤーをチェックしてて。
「彼らはフライヤーも凝ってるし、ライブも良かったらしいじゃん」って注目してくれて「うちに所属しないか?」ってなったんです。

ーここで急展開があるんですね。

そうっす。まずは「インディーズ盤を出したいし、デモテープをちゃんと録ろう」ってことになって、初めて東芝のテラスタジオで2曲録りました。そしたら急に落合さんが「んー、やっぱ君たちはインディーズとか似合わないから、いきなりメジャーが良いんじゃない?」とか言いだして「え!メジャー!マジすか!?」みたいな(笑)。そしたら、実際にそのデモを聴いた5〜6社のメジヤー・レーベルが、渋谷のサイクロンとかのブッキングライブに来るようになっちゃって。最後、ソニーと東芝で迷って、Virginレーベルでデビューするまでが、メンバーが集まって1年という一瞬でしたね。

ー振り返ると、目標を決めて動いたことで、すごく研ぎ澄まされてましたね。

RUIDOに出ようと選択したことが別れ道だったというか…。実は最初、RUIDOと恵比寿のギルティーだったかな?「どっちでライブやる? って話がきて「う〜ん、じゃあRUIDOにしよう」って選んでこうなったんですけど。
今思うとそもそもそこの選択が違ったら、どうなってたんだろうという…。

ーたしかに。RUIDOでの事務所の方との出会いも無かったと。

もしかしたらもっと違う、さらにスゲェ人生もあったかもしれないけど、今まで選んできた道はこれで良かったなと思ってます。小さい頃、自分がミスしたときに「人生は長いから、今日の失敗なんて大したことないよ」って親には言われてきた。確かにそうかもしれない、だけど人生は結局2択の連続だと思っていて。日々、人間は選択をしていて、ほんのちょっとの枝分かれによって、人生は変わると思わされたことでしたね。

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