BEAT CRUSADERSのボーカル&ギターとして多くのロックファンの支持を集め、BEAT CRUSADERSの散開後も、数々のプロジェクトに参加し、2012年12月に”THE STARBEMS”を結成。自身のバンドだけでなく、楽曲提供・プロデュースまで行い、多彩な才能を持ったロック界でも唯一無二の存在、日高 央さんのロングインタビューを全4回に渡ってお届け!!第2弾となる今回は、BEAT CRUSADERS結成から散開までを深くお伺いしていきます。
ーメロディック・パンクとの出会いから、BEAT CRUSADERSに繋がっていくんですよね?
BEAT CRUSADERSの原型になるものを高校の同級生のイワハラ(イワハラユキオ:BEAT CRUSADERSの初代メンバー)さんと始めるんですけど、最初はドラムとアコギのローファイな感じで”BECK”っぽかったんです。ただちょうどそういう音楽に出会っちゃったんで、メロディック・パンクの方が演ってて楽しいんですよね。時代がそうだったのもありますけど、それでだんだんパンク化しちゃいましたよね。今だったら、きっとビジュアル化してますかね(笑)
ーしてないです(笑)
今だったら打ち込みとかクラブっぽくなるでしょうけど(笑)
ーBEAT CRUSADERSの結成の経緯としてはそういう流れがあったと?
アメリカでやっているやり方を日本でも出来ないかと思ってて、オレら最初はノルマ制度が嫌でライブハウスに出なかったんです。だから千葉でスーパーの開店セールで演奏するとか、夏祭りやデパートの屋上の催事場で演奏させてもらうとかしてて。でも冷静に考えても、そういうところで”BECK”みたいなオリジナルやっても響くわけじゃないですか?ウケるわけないんですよ(笑)
そこで当時、”Love Tambourines”のパーカッションやっている平野さんが、下北沢でオールナイトのイベントやっていて、出ないかって言ってくれたんですよ。そしたらそれまで千葉のスーパーとか幕張本郷の駅前でやってた、全然鳴かず飛ばずだったオレたちが、急にウケたんですよ。すごい盛り上がって終演後、「デモテープないの?」とか「連絡先教えてくれ」みたいな人がいっぱい来て、「あ、東京ってやっぱすごいな」って思って。そこからは都内でしかやってないです。千葉捨てちゃいました(笑)ごめん千葉!(笑)
ー(笑)でも良いバロメーターになりますし、演ってる音楽の自信に繋がりますよね?
うん、千葉で反応良くて東京では反応悪いみたいな、その逆も良くあるんで。まぁ、目新しいことをするとやっぱり東京は反応が早いですよね。千葉や地方はどうしても、引いて観ちゃうというかね。
ー確かに、地域毎のシーンってやっぱりありますよね?
そうそう、例えば木更津でハードコアがすごい盛り上がってるとか、京都でカフェライブが盛り上がってるとかね。盛り上がり過ぎちゃって逆にこっちが引いちゃうぐらいの時がありますね(笑)
ー(笑)東京に進出をされたものの、そのときはまだ…
そうです、サラリーマンです。
ーではライブは土日に?
ライブは基本、オールナイトか土日です。その頃は「LD&K」に勤めていたので10時出社したら、そのまま19時にライブハウスの現場に会社のバンドのケアをしに行って、それから23・24時に自分のライブをしに下北に行くとか、そんなノリでした。ほとんど家帰ってなかったですよ。
ーハードワークですよね。しかもバンドでの日高さんの機材等も持って行かれるんですよね?
いや、音楽系の会社なのでギターとか会社に置いといて良かったんで。バンドも仕事さえちゃんとやってくれれば大丈夫だったし。当時まだ、”Cymbals”がデビューするとかしないとかのころですね。”ガガガSP”とか”ストレイテナー”とかもいないし、会社も5~6人でまわしてたんでほとんど会社に住んじゃってた感じですね。
ー今の感じをお聞きすると、帰れないですよね..
そうそう、そうなんですよ。でも楽しかったですよ。BEAT CRUSADERSが売れてくると、会社の給料とバンドのギャラが両方入ってくるから、その当時、多分オレ1番お金持ちでしたよ(笑)
ー(笑)
手取りで40~50万のときとかありましたもん。社長よりも貰ってたんじゃないかって言う(笑)
ー最初は就職しなければという中で両立されていたと思うんですけど、BEAT CRUSADERSがウケだしてくると…
当時、インディースのレーベルで働いてたんで、BEAT CRUSADERSに関しては他のレーベルでやってもらおうと。その代わりオレはライブとレコーディングは一生懸命やるけど、プロモーションは一切しないって言って。「LASTRUM」っていうレーベルでBEAT CRUSADERSはやって、自分は「LD&K」で”ガガガSP”を一生懸命宣伝したり、”ストレイテナー”の現場いって手伝ったりしてて。そうしてる内に、BEAT CRUSADERSも売れちゃったんですよね。それだけこっちもウケるんだったら、人生で1回くらいバンドをメインでやってみても良いんじゃないかって。ダメだったら、またサラリーマンに戻ればいいやって。バンドから逃げちゃダメだなって、今度は思うようになったんですよ。
ーこれまでと真逆ですね。
そうです。青春時代はバンドに逃げ込むことに気持ち良さを求めて、社会から逃げていましたけど、社会にどっぷり入ってみると、今度は芸術的な欲望から逃げちゃっていたんですよね。だからBEAT CRUSADERSをちゃんとやろうって。で、”ガガガSP”もドカンとBEAT CRUSADERSよりも売れてくれたので、辞めやすくなったんですよ。
ー円満に(笑)
そうそう、円満に辞めれました。
ー実際のライブ動員もそうですし、リリース後の売上げ推移を見ていたと思いますが、特に日高さんはインディーズレーベルで働いてらっしゃったので、それがどのくらいすごいかってことを肌で感じていらっしゃたんだと思うんですよね。
そうです。お金は1番ありましたからね。毎日焼き肉喰うくらい(笑)
ー(笑)
いや、そんなことはないな。牛丼は毎日喰ってました(笑)
ー仮に”安定”という言葉をひとつの軸にするならば、会社にいるというのは安定じゃないですか?
そうですね。
ーそれを蹴るほどの魅力が既にBEAT CRUSADERSにはあったと?
いや、特に音楽関係の会社員ならいつでも戻れると思ったんです。みなさんうっすらわかってらっしゃると思うんですけど、バカでも入れるじゃないですか?
ー(笑)
音楽業界で大事なのはコネクションと要領なんで(笑)ホントそうですよ、出版もそうじゃないですか?薄々わかってらっしゃると思いますが(笑)
ま、そういう意味では会社員にはいつでも戻れるし、いつでもやれることに固執する必要はないと思ったんです。
ーあぁ、なるほど。
だから逆にバンドは30代のまだ動けるときしかやれないかもと思って。そう言いながら45の今でもまだやってますけど。でも体力の限界は絶対来ると思ったんで、だったら体力勝負のとこを先にやりたいなって思って。
ー実際にBEAT CRUSADERSにはそう思わせる程のパワーがありましたよね。僕、インタビューする際に絶対言おうと思ったんですけど、2001年か2002年くらいに、代々木公園で…
蓮沼?
ーそれです!
はじめておまんコールしたときですね。
ーあのとき1番おまんコールしたのは僕じゃないかなって思うんです。
(一同爆笑)現場にいた?
ーはい(笑)僕、いつか言おうと思ってたんですよ。
うれしいです。そのへんのこと知っている人、最近あんまり会わないんで。
そう、”氣志團”はいるわ”PENPALS”も”175R”とかもいたし。その中でただお面しかないBEAT CRUSADERSがどうするかって言うことで、出番の直前に舞台袖で「みんな、おま○こって言うぞ」って。
ー(笑)
ちょうど隣がNHKだから、おま○こって言って生放送に乗せようってオレがでっち上げて言うからって(笑)umuやarakiに言って。案の定、前方の女の子たちはイヤな顔してました。そこでオレはしてやったりだなって思って。そしたら最終的に盛り上がっちゃったんですよね。おまんコールの大合唱になっちゃって。それから段々おまんコールが定着するようになったんですよ。
ー(笑)さっきお話にあった中学の謝恩会に似てますよね?
謝恩会に似てます。こっちが何に怒っているかをわかってもらう為に、まずは怒られたいなという。いろんな不満があるんだぞって気づいてもらうために。
ーお面だけでもインパクトはありましたけどね。
最初はやっぱりサラリーマンで、同じ音楽業界にいるから顔バレしちゃ悪いかなって思ったんです。”お得意様に対して”ということですよね。例えばライターさんって複数の媒体で書くことあるじゃないですか。そしたらあっちの原稿は良くて、こっちのは手を抜いてみたいなことがあるかも知れないじゃないですか?音楽業界も一緒で、「LASTRUM」の中のBEAT CRUSADERSはすごい頑張って、「LD&K」でプロモーション頑張ってないじゃないかって言われたくないし。取引会社の人に「日高さん、今度はBEAT CRUSADERSで出て」って言われちゃうなって思って、お面をしたんです。案の定、すぐバレてましたけどね。日高ってヤツがあんまいなかったっていう…SMASHの社長さんぐらいしかいなかったんですよ(笑)
SMASHの日高さんとはあきらかに違うよっていうことで。
ーたしかにSMASHの日高さんはおま○こって表立って言わないですもんね(笑)
そうですね、志しは同じだと思いたいですけどね(笑)
ー実際に幾つものイベントにも出られてましたし、売り上げも好調だった中、「LD&K」を辞められたタイミングはその後になるんですか?
そう、メジャーに行こうかっていうタイミングで辞めました。
ーそこで1度メンバーが総入れ替えになりましたが、きっぱりもう辞めようとはならなかったんですか?
あのときは単純にメンバーが就職するとか、あと実家を継がなきゃいけないっていう理由があって「どうしようか?」って。何人かはBEAT CRUSADERS辞めたいみたいな話だったんで、じゃあ辞めろと。で、umuは正直ここだけの話ですけど、「日高さんに任せます」って言ってくれたんですよね。thaiくんとarakiは辞めますって言って、umuは任せますって言うから「じゃ辞めろっ」て言ったんです(笑)
だったら総入れ替えして、気分一新したいからっていう。で、メジャーのメンバーになったんですよ。その頃はまだメジャーじゃなかったんですけど、ベースの久保田さんがインディーレーベルやってたんで、そこからシングル出してその間にメジャーのディールを決めればいいやぐらいのノリでしたね。今考えると超見切り発車ですよ、別に勝算はないというか…ま、当時のオレにはあったんでしょうけどね。でも今考えるとバカじゃないのかって思いますよ。
ーその一新したメンバーを集めるまでの期間は短かったんですか?
そうですね。辞めるって決めてからの半年間は次のメンバー探しをしながらです。最後、インディーズのメンバーは日比谷野音で終わりだったかな。
ーでは”事前に”って言ったら失礼ですけど…
そうです、仕込みしてました。今、野音のライブ映像見るとすごいエモいんですけど、良いエモさなんですよね。このメンバーでやるの最後っていうね。そのときは公にはしてないんですけど、そういうエモさもあって良いライブだったと思います。演奏はショボイんですけど、テンションは良い感じだったと思います。それから集めたメンバーは基本はみんな対バンしてた人たちで、もう本当に友達ですよね。あと、なるべく音楽的趣味がバラバラな方が広がりがあるかなと思ったんです。インディーズ時代も、arakiがすごいネオGS好きでumuは60’s好きとか、まあバラけてはいたんですけど、さらにもう1人増やしたら、さらにバラけるんじゃないかって5人にしたんですよ。
ーメンバーの一新もそうですが、インディーズとメジャーでの活動は日高さんにとってどういった差がありましたか?
まずは給料もらって生活できてることが画期的でしたよね。だってバンドマンなんて、リハかライブかレコーディングがない限り、基本的に休みですからね。
だから売れないバンドマンが一番幸せなんじゃないかと思いますけどね。もちろんいつかは給料打ち切られますけど(笑)だから最初は割りとのらりくらりとやっていたんですよ。正直な話、オレはインディーズよりちょっと多い4,5万枚くらい売れて、音楽業界にずっといるみたいな、凪のように続くのを想像していたんでですよね。例えば、”真心ブラザーズ””電気グルーヴ”とか、ああいう感じを想像していたんですよ。ただ、そうなるには1発バーンと当ててからの凪の状態は許されるのであって。まず「1発当てないと許されないよ」って言われて、そっから焦ってちゃんとやろうと思いましたけど。
ー実際に『P.O.A.~POP ON ARRIVAL~』はメチャクチャ売れた訳じゃないですか?
そう、「ガツガツやろうぜ」って言った良いタイミングで、アニメ「BECK」のオープニングテーマのお話が来たんですごいラッキーでしたよね。最初に「HIT IN THE USA」をシングルで出したときは多分2万枚くらいだったんですけど、インディーズでもそんくらいだったし、「プラスアルファのお客さんがついたね、良かった」って言って、『P.O.A.~POP ON ARRIVAL~』を出したら、オリコン3位ぐらいになってて、いきなり20万枚売れてたんですよね。そっから急に生活が本当の金持ちに…お金持つってこういうことなんだって。普段使ってる銀行から、融資の電話が掛かってきましたよ。オマエら絶対通帳見てるだろっていう(笑)
ー(爆笑)
見たことも聴いたこともない先物買いのメーカーから電話掛かってきて「日高さん、どうですか?小豆が今いいですよ」とか(笑)残高が増えたら急にそういう電話が増えてきて、本当に世の中ってクソだなって思いました。
ーリアル(笑)
特に金融関係はクソです。先物買いなんて絶対やんない方がいいですよ。やってないけど(笑)8割がた嘘ですからね、あれ。
ー(笑)そういった数字面での結果もそうですが、ライブの動員やイベントに出演したときのオーディエンスの数が増えてくると思うんですけど、それでもお面やおまんコールをやり続けるんだなって思ってました。
そうですね、メジャーもインディーズもやっている”心”は一緒なんで。そもそもパンクロックが好きなのは、自分の開放・ストレスの発散・政治的、社会的な怒りの発露としてですから。BEAT CRUSADERSやっているときもそうだし、基本的に今も一緒なんですよ。方法論変えないでそのままメジャーで生き残るには、当時はタイアップしかなかったんですよね。もちろん偶然ですし、タイアップは欲しかったですけど、「ください」って言って単純にもらえるものじゃなかったんで。たまたまアニメ「BECK」がそこにハマったんだなって、今でも思いますよね。「BECK」自体もちょっといじめられっこな少年が、ギターを手にすることでだんだん大きくなっていくっていうストーリーじゃないですか。そこにすごくリアリティーも感じたし、実際「HIT IN THE USA」って曲はオレが中学校のときに書いた曲ですから。
ーそうだったんですね!
ちょうど「BECK」のコユキくらいの年齢の頃に書いた曲なんですよね。最初はB面に入っている「SUPER COLLIDER」を持っていって、「アニメの主題歌で2ビートっての初めてなんでカッコイイじゃないですか?」って言ったら監督に「ちょっと早すぎます」って却下されて。で、コユキの気持ちになって、中学生の頃に作った曲なかったかなって思ったら、「HIT IN THE USA」があったんで。だから、英語の文法もデタラメだしコード進行とかもホント単純だし、中学生が作ったなっていう感じの曲ですよね。自分で聴いてて、よくあんなの人前で演ってたなって今でも思います(笑)
ー「MUSICRUSADERS」は日高さん節炸裂で、企画でありながらああいったカバーの仕方をBEAT CRUSADERSでやるのは、楽しかったんじゃないですか?
そうですね。XTCをカバーするヤツはいなかったんで。高野寛さんとかくらいですよね。この間も誰かに褒められて「フィルコリンズのカバー良かったよ」って(笑)
オレより年上の人なんだけど「そこなんだ!」って思って。反応するのはそういう人で若者にウケるのはゼロみたいな選曲ですよね。
ー70~80年代を伝えるには最適だと思いましたけど。
そうですね、それを若い世代に伝える1番手っ取り早い方法論かなってすごい思いました。BEAT CRUSADERS自体もそうなんですけど、カバーすることでより肉薄させちゃうし、直接的にしちゃうっていう。そういう意味では”ASIAN KUNG-FU GENERATION”とか”BRAHMAN”でもみんな頑張っているところだと思うんだけど。あのカバーはそういう気持ちでしたね。
ー「EPopMAKING 〜Popとの遭遇〜」「popdod」とファンから見たら、順風満帆にやられていたように見えたんですが。
そうですね。タイアップも引き続きありましたしね。「BLEACH」もやったし、特に海外のアニメファンの喰い付きがすごい多いんですよ。未だにインドネシアとかブラジルから「BECKで知りましたよ」って来ますもん。いつの話だよっていう(笑)
ー(笑)その中で散開を選ばれた訳ですけど、その理由を改めてお聞きしたいのですが。
最初の最初は、BEAT CRUSADERSをラウド化させたかったんですよね。ちょうどツアーに”FACT”を誘って、まだヤツらが能面を被る前くらい。地元が一緒の千葉だし音がカッコイイじゃんって言って呼んだんですよ。そしたらNEW METALのテイストだったり、SCREAM以降のハードコア感が入ってて、パンクがまた1つ進化してるんだなって。オレがちょうど「CR JAPAN」っていう卸問屋入った時に出てきた、AIR JAM系とかメロディックが盛り上がったのと同じような衝撃。自分の好きなことには拘りたいんだけど、そこに固執だけするんじゃなくて”今流行っているもの””今1番カッコイイもの”をオレもリスナーとして聴きたいんですよ。で、同じようにバンドマンとして自分でもやりたいんで、BEAT CRUSADERSをラウド化したかったんです。マシータにツインペダル投入してもらったり、もうちょっとヘビー目なこともやってみたんですけど、如何せんおじさんだったんで、巧く鳴んなかったんですよね。それで、メンバー内では「もっとエレクトロ二カに寄ろう」「ハードロック、或いはもっとオールドスクールに立ち返ろう」「怒髪天みたいなサウンドも面白い」とか、意見が分かれちゃって。で、どうせ意見がわかれるんなら、スパっと辞めましょうっていう。やっぱ「これでは”マキシマム ザ ホルモン”には敵わんぞ」みたいな(笑)あの一丸になっている感じには敵わんぞっていうね。