日高 央(THE STARBEMS)インタビュー

BEAT CRUSADERSのボーカル&ギターとして多くのロックファンの支持を集め、BEAT CRUSADERSの散開後も、数々のプロジェクトに参加し、2012年12月に”THE STARBEMS”を結成。自身のバンドだけでなく、楽曲提供・プロデュースまで行い、多彩な才能を持ったロック界でも唯一無二の存在、日高 央さんのロングインタビューを全4回に渡ってお届け!!第1弾となる今回は、日高 央さんの大好きな”The Monkees”や、パンク・ミュージックとの出会い、バンドを結成するまでを深くお伺いしていきます。

ーまず最初に日高さんと言えば…

“MAN WITH A MISSION”?

ー違います(笑)”The Monkees”が好きだということをどこかでお伺いしたんですが。

いきなりその質問から入ってくる人は初めてですよ。ありがたいです。

ーありがとうございます(笑)元々”The Monkees”にハマったきっかけからお伺いしたいです。

小学校2年生のときにテレビで再放送してたんですよ。

ーでは”音楽”というより”テレビ番組”から?

そう。当時のオレは”アリス”が好きで。ベストテン番組で「ジョニーの子守唄」を見て、幼心にEMOくてカッコイイと思ったんです。それで”アリス”のレコードを何枚か買って、友達と一緒にホウキでギターのモノマネとかしてたんですよ。そしたら翌年にTVの再放送で”The Monkees Show”が始まって、明らかに”アリス”より楽しそうなんですよ(笑)”アリス”はカッコイイけど、谷村さんに申し訳ないんですがしかめっ面だし小汚い(笑)お兄さんというよりおじさんに近くて。それに比べたらシュッとしていて何より楽しそうに音楽をやっていた”The Monkees”を見て「バンドってこれだろ!」みたいな(笑)

ー(笑)それが小学2年生って早いですね。

そう、オレは部活をやってなかったんで放課後の楽しみでしたね。学校が終わって野球やりに行く前のブレイクタイムみたいな。TVから流れている曲を、ラジカセで録音してましたね。

ーちなみに”The Monkees”のメンバーでは誰が好きなんですか?

曲も作れるギターリストのマイク・ネスミスです。”The Monkees”は、イギリスの”THE BEATLES”に対抗して、アメリカのオーディション番組で作られたバンドだったから、当時の音楽雑誌を見るとケチョンケチョンに書かれてるんですよ。”THE BEATLES”の亜流だとか、真似だとか。確かにモロパクってるっぽいのもあるし(笑)しょうがないなと思いながらもオレは”The Monkees”から先に聴いていたので、”THE BEATLES”より好きだったんです。もちろん”THE BEATLES”も後からちゃんと聴くんですけど、例えばサージェント・ペパーズ(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)とかは子供には難しかったけど、”The Monkees”はわかり易かったし。で、アルバムのクレジットを見てるとマイク・ネスミスが1番作曲してるから、勝手にリーダーだと思っちゃったんですよね。実はそうじゃなかったんですけど(笑)マイク・ネスミスは、バンドの中で音楽を1番知っているような雰囲気だったし、何よりギタリストだったから好きになっちゃったんですよね。マイク・ネスミスの手元しか見てなかったし。

ーホウキでマネを始めて、実際のギターを弾くまではそのあと?

1年掛かってないんですよ。新宿に住んでいる親戚のおばちゃんに「エレキ買ってくれ」って頼んで新宿の楽器屋に連れてってもらったんだけど、フォークギター買いやがって(笑)おばちゃんの「央、お前にはエレキはまだ早い」という一言と共に、2万円ぐらいの安いフォークギターを買ってもらいました(笑)

ー(笑)最初は”The Monkees”をコピーしたんですか?

コードが分かんなかったから、集中して1番聴き易いベースの音を拾って6弦で弾いてましたね。それじゃしょうがないからコードを勉強しようと思ってギターの教則本を買ったんですけど、1曲目が「荒城の月」だったんで叩き付けました(笑)何度か練習して弾けるようになりましたけど(笑)

ー(笑)ちなみに当時”The Monkees”と平行して聴いていた音楽はありましたか?

“The Monkees”を聴いていると、必ずライナーノーツに”THE BEATLES”が出てくるから、”THE BEATLES”を聴いて、そうするとライナーノーツには必ず”The Rolling Stones”が出てくるから”The Rolling Stones”という流れで聴きましたね。要は、ライナーで関連しているバンドを聴き漁りました。レコード買ってもらえないときは、3つ上の兄貴に無理矢理お願いして買わせて(笑)勝手に借りて聴いてましたね。他にも、ちょうど”The Monkees””THE BEATLES””The Rolling Stones”が好きなヤツがクラスに1人ずつぐらいいたから、そいつらとテープを交換したり、誰かが親戚から”THE BEATLES”の赤盤・青盤を借りて、みんなで回してたりしていました。「Day Tripper」のイントロをみんなで練習していたような小学生でしたね。

ー早熟な小学生ですね。

オレは凄くラッキーなことに、アイドルっぽい”BON JOVI”(笑)のようなバンドからロックに入ったとか音楽恥部みたいなものはないんですよ。

ーみんなでギターの練習をしたりしながら、実際にバンドとしての形式になったのはいつですか?

本格的にバンドを始めたのは高校生ぐらいですね。中学生の頃に演った最初のバンドは、近所の公民館に集まってエレキを2、3台持ち寄って練習したりしてたんだけど、ドラムがないっていう。で、卒業生を送り出す謝恩会で、大太鼓をバスドラに見立てて、スネアを叩いてもらって、”Sex Pistols”の「Anarchy In The UK」をやりましたね。卒業生を謝恩する気持ちは一切ないです(笑)

ーその話は、今に通じる所がありますね(笑)

「Anarchy In The UK」だけじゃカッコ付かないので、卒業式には全く関係ありませんが、”John Foxx”の「Europe After The Rain」も合わせてやりましたね(笑)

ー(笑)実際の反応はどうだったんですか?

オレらは先生に怒られようと思って、尖った選曲で”Sex Pistols”や”John Foxx”を選んでたので、卒業生も先生もカンカンだろうと思ったら、「お前達良かったぞ」って先生に褒められました(笑)

ー狙った所じゃなかったんですね(笑)

怒られるつもりと思ってやったのに、逆に褒められちゃいました(笑)

ー中学生のときは既にパンクに惹かれてたんですね。

そうです。”LAUGHIN’NOSE”とか出てきて、インディーバンドブームがあったんですよね。オレは60年代の音楽を聴いて、急にニューウエーブ、パンクに移ってしまったので、ハードロック、メタルが抜けてちゃったんですよね。

ーパンクロックは何がきっかけだったんですか?

中学の頃、NHKで”LAUGHIN’NOSE””ウィラード””有頂天”の3バンドをメインとした「インディーズの襲来」っていう特番がO.A.されて、中学校で凄く流行ったんですよ。他にもNHKの教育では、糸井重里さんの「YOU」とか尖った番組をやっていて、その流れでインディーズを特集した番組だったと思うけど。当時のオレ達は、日曜のNHK深夜番組をチェックしていて、「インディーズの襲来」を見て1発で「これしかない!これは絶対カッコ良いだろ!」って思いましたね。野球部とかどうでも良いし、他のヤツらはピンクレディーでも聴いてろみたいな(笑)ベストテンを見て、マチャアキさんとか榊原郁恵さんとかで盛り上がってろよっていう、少し卑屈な中学生だったかもしれません。そもそもメインストリームが嫌いだし、学校も嫌いだしね。

ーパンクは、何かに対する怒りや反逆精神を投影する音楽だと思いますが、学校や社会に対してそういう考えを持っていたんですね。

そうですね。学校でのストレスを発散するのにバッチリの音楽でしたね。ジュリー(沢田研二)とかも好きでしたけど、歌謡曲の8割くらいは発散できない音楽じゃないですか?ただ観て聴いて、キレイだなとか楽しいっていう感覚で終わっちゃう。でもパンクロックは「オマエもやれるぞ、こっち来いよ」って言ってくれてる感じがしたんですよね。「インディーズの襲来」で、チャーミーさんが「何もやらない奴がガタガタ言うな」的なことを言っていて、確かに学校でもそういうヤツが多いなと思って、中学生特有の思春期でのストレスがパンクに合致しちゃったんですよね。今でもそれは凄いラッキーな経験だったと思います。多分、「AIR JAM」でも思考の仕組みは全く同じことだと思います。

ー謝恩会のときに”Sex Pistols”の「Anarchy In The UK」や、”John Foxx”の「Europe After The Rain」を演奏したバンドもやっていた後、パンクバンドとして、楽曲を作ったり、ライブハウスへ行かれるのはそのあとですか?

高校からですね。”有頂天”のコピーバンドやったり、友達がやっていた”BOØWY”のコピーやらされたり。実際はギター弾ければ何でも良かったので”アリス”もやりました(笑)そういう所がオレは逆にラッキーだったんですよ。”有頂天”のコピーバンドを組んでるヤツは普通”アリス”のコピーを断るじゃないですか?でもオレは”The Monkees”にしろ”アリス”にしろ好きだったので、何でも良かったんですよね。その代わりライブハウスのノルマは払わないっていう(笑)

ー(笑)ギターを弾くことが大事だったということですね。

そうです。人前で歌ったりギター弾いたりすることがとにかく楽しかったですね。

ー日高さんが高校~大学の時代は、イカ天(「三宅裕司のいかすバンド天国」)がO.A.されたり、原宿のホコ天などの空前のバンドブームが訪れていましたが、どう映っていたのでしょうか?

パンクロックのときみたいに「オマエもやれるぞ!」という思いは良かったんですが、誰でも出来ちゃう時代がオレにはダメで。みんなが同じになってしまうのがイヤになって1度バンドをやめました。申し訳ないですけどベタなビートパンクとか辛かったですね(笑)80年代後半から一時期流行ったビートパンクというものに、パンクを何も感じませんでしたね。そこにはメッセージが無くて、楽しくみんなで集まってっていうのは傷を舐め合ってるようにしか見えなかったんで。もし10人が集まったとしても、同じ傷じゃないから舐め合える訳が無いと思ってましたしね。例えば、”LAUGHIN’NOSE”のライブで1メートルくらいのモヒカンで青い髪をした美容師のお兄ちゃんは、誰かの髪をブリーチして自分の思い通りの髪型にしたいという悩みがあったり、現場の赤い髪をしたスタッフは客をどうやって盛り上げようという悩みで、全然違うものだったから。それはイカ天やホコ天を見たり聴いたりしてても、全く解消されなかったんです。別にハッピーな人生を送ろうなんて思ってもないし(笑)そこに矛盾を感じてしまい、イヤになったんですよね。

ー反逆精神が感じられなかったと。

優しい窓口としてのパンクロックじゃ全く意味がなくて、むしろちょっと怖いぐらいの敷居があった方が潜り抜けるスリルや興奮があったし、その敷居を潜り抜けて「いつステージに上がれるんだろう?」という感覚が楽しかったんですよね。だから高校時代やっていたバンドも、イカ天やホコ天で白けてしまい、大学ではほぼ演らなかったです。大学の後半になって、”The Flipper’s Guitar”が出てきたことでパンクの精神を感じて、ギターポップを始めました。ギターポップの方が逆に尖ってたし、”The Flipper’s Guitar”のインタビューを見ると実際に、当時流行っていたバンドや大物バンドの実名をあげてメチャクチャなこと言ってるし。オレが言ったんじゃないですよ、オレは”ARB”好きなんですけど”ARB”のことを「魂、真っ黒焦げ」っていう言い方したりして語呂などセンスが凄く良くて、同じ世代ということもあり自分らっぽくてカッコイイと思いました。

ートゲという感覚では、まさしくそういう感じですよね。

口当たりよい音楽はやってるけど、歌詞が刺々しかったりしてましたよね。1stアルバム「海へ行くつもりじゃなかった」は、ネオアコへのオマージュだったと聞いて、ネオアコについてよくよく調べたらスコットランドではそういうムーブメントが起こってて。周りのパンクの先輩達も聴いていて、もう一度バンドをやってみようという気になりましたね。いわゆる「渋谷系」のやつですね。

ー日高さんは留学をされていて、その際にアメリカのロックを肌で感じたと思います。アメリカのロックについてはそういった感覚はありましたか?

アメリカ人全員が、”Sonic Youth”知ってるんだろうって期待してましたが(笑)誰も知りませんでした…ロックのロの字も無かったですね。当時は、”WEEZER”や”BECK”が盛り上がっているときで、日本では大学生より上のスノップな層が好きそうなイメージだったけど、アメリカでは割と本当のKIDSが多くて、中学生が親の車でライブに行くような感じで。ライブの値段設定が$5ぐらいで安かったのもそうだけど、日本ではお子様向けの音楽を輸入して聴いているんだという衝撃がありましたよね。申し訳ないけど”BON JOVI”とかもそう(笑)だからメタル、ヘアメタルも8〜9割は子供騙しじゃないですか。向こうでは、小中学生がアイドルのような扱いをして騒いでいるものを、日本ではヘタすりゃ御年配の方まで追っかけしちゃったりしていて、本国と日本での取り上げられ方が全く違ったんですよね。「日本人はロックを聴けてないんだ、聴く耳が違うし、聴くというより観てるんだ」って思いました。MTV世代ということもあり、アメリカの4〜50代の女性もMTV世代なんで”Duran Duran”や”Boy George”などのイギリスのニューウエーブ・ムーブメントの美男子を未だにうっとりして追っかけていたりするんだよね。

ーそういったアメリカと日本の差を目の当たりにし、帰国された後は就職されるんですか?

アメリカに行って、就職したくなりました。アメリカに行く前は、就職するのがイヤで半分逃げの気持ちで留学したんですけど、3日目でホームシックにかかってしまい大号泣しましたね。ラジオから”John Lennon”の「Imagine」が流れてきちゃって…(笑)

ー(笑)

オセンチになっちゃって、翌日から頑張ろうと思って1人でライブ行ったり他所の大学に行って日本語を教えてみたりしながら友達を作ったんだけど、アメリカ人ってインディビジュアルされていないと全く信用されないんですよね。例えば、IDが無いと銃を出されるかもしれないし、己が何者かを上手く説明出来ないと、治安の悪さもあって、いつ撃ち殺されてしまうかも判らないような状況があるわけです。

ーちなみにアメリカのどこに行っていたんですか?

カンザス州ですね。アメリカのど真ん中で割と保守的な地域です。だから人は優しいし温かいけど、基本的には「自分で何も出来ない人は知りません」というスタンスなんですね。コンビニに行っても、IDを見せないとお酒もタバコも買えないし、日本みたいに老けた高校生がタバコを買えちゃうって訳じゃないし。良くも悪くも合理的で、己で生計を立てて生きていかなきゃいけないということをアメリカで学びましたね。日本だとそういうことを授業で教えられた記憶なんて無かったですからね。板垣退助がどうしたっていうこととか(笑)もちろんそれも大事なんですけど。だからシンプルに学校の先生が「将来は自分で働いて生きていくんだよ」ってことを教えた方が良いと思いました。アメリカが最高だなんて思ってないですけど、教える順番が全然違うんだなぁと思いましたね。
それで結果、逃げ場所は無いってことを学び帰国し、就職しなきゃいけないと思いCDの卸問屋に就職しました。輸入盤の仕入れだったから、音楽関係で英語も使うし、こんな適職は無いだろうと思い千葉で就職したんだけど、そこに”NICOTINE”のYASUが働いていて、都内の会社に移るタイミングで誘われて、いわゆるヘッドハンティングですよ(笑)それで都内の卸問屋で働き始めて。そこでちょうど”Hi-STANDARD”、AIR JAMムーブメントに出会うんですよね。

ーここでパンクに再会するんですね!

そう、久しぶりにパンクを聴こうという気持ちになったんですよ。当時はメロコアという言葉も無くて、メロディック・パンクと呼ばれていて正直、悪口じゃなくてニューロティカみたいな可愛らしい曲なんじゃないかと少し斜に構えてたんだけど、聴いてメチャメチャカッコイイなと思いました。それが”SNUFF”で「8ビートの曲を2ビートにしただけじゃないんだ!」って目から鱗が落ちましたね。

ー”LAUGHIN’NOSE”との出会いに近い衝撃ですよね?バンドをしたくなりませんでした?

バンドは、アメリカ行って就職しなきゃって思ってたし、やってなかったです。生活費稼がなきゃって思ってたんで(笑)

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