冨田ラボ インタビュー

ー冨田さんのミュージシャンとしての経歴をお伺いしたいのですが、その前提となる楽器を初められたのはいつ頃だったんですか?

母親が音楽教師だったのもあって、物心ついた頃にはピアノを弾いていましたね。ピアノの先生に習う前に、母親が教えてくれてたんです。

ーバイエルやツェルニーを?

そうです。だけど小学校に上がって、母親じゃない先生に就いてクラシックピアノを習っていたんですけど、あんまりおもしろくなくて(笑)習っていたところがヤマハの音楽教室なのもあって、別の教室ではエレクトーン(電子オルガン)のカラフルな音色や、リズムボックスの音が聴こえてくるから楽しそうで。それで母親に「あっち(電子オルガン)がやりたい」って小学校2~3年生くらいのときに言って、小学校が終わるまで電子オルガンをずっとやりましたね。

ーそのときに奏でていた音楽は覚えていらっしゃいますか?

ヘンリー・マンシーニとか、ジャズのイディオムを使ったポップスですね。旋律と和声がきれいだなって思ってました。あとは映画音楽やTHE BEATLESの曲をエレクトーン用にアレンジしたものとかですね。中でも16ビートにアレンジされたものが好きでしたね。

ーそれって今の冨田さん(笑)?

そうだね(笑)時代的に70年代の前半から中盤にあたるので、ちょうど8ビート主流から16ビートが入ってきたタイミングだったから、アレンジでもそういうのが取り入れられていたんでしょうね。今考えるとシェイクっぽい60年代の名残もありましたけど、カッコイイって思いましたね。THE BEATLESの「A Hard Day’s Night」がそれにあたるんですけど、アレンジしたのしか知らなかったので「ホンモノはどんな感じなんだろう?」ってシングルのレコードを買ったんですけど、元々は8ビートなので、すごいがっかりしたのを覚えてますね(笑)

ー「躍動感ない!」みたいな?

そう、当時は16ビートって言葉さえ知らなかったから「全然リズムが違う」って。だけど、中学生くらいで僕はTHE BEATLESファンになるので、ホンモノのカッコ良さに気づくんですけどね。その小学校4年生で味わった「A Hard Day’s Night」のがっかり感を今でも覚えてます。

ークラシックからポップスへの移り変わりと同時に、特に16ビートへの出会いが大きいですね。

本当の4ビートはまだやってないですが、8ビートやクラシックから感じるものとぜんぜん違う躍動感に、興奮していたのを今でも覚えてますからね。でも、中学に入る頃に音楽を習うのがいやになって辞めちゃうんです。バスケットボール部に入りましたし、中学1年は音楽に一切触れていないんです。

ーそれは聴くことも含めて?

ないです。で、さっき話したTHE BEATLESに興味を持つんですけど、音楽的な対象として興味を持ったのではなく、”カッコ良いもの””ヒップなもの”っていうところですね。ちょうど今年U.S.BOXがリリースされましたけど、それと内容は同じかな、US編集盤の12枚くらいセットになったものが雑誌の通販に載っていて、中学生のお小遣いでは買えない金額なんですよね。それで母親に「また音楽に興味が湧いてやりたいと思うんだけど、どうもTHE BEATLESというのが色んな基礎になるらしくて勉強したいんだよね」って(笑)

ー間違っていないですけど、中学生ってあざといですね(笑)

母親も音楽教師だから、子供が音楽をやるって嬉しいじゃないですか?で、イヤだって言って辞めちゃったのが、また興味を持ってくれたって思ってくれたら買ってくれるだろうと。で、買ってもらいました(笑)

ーこれまでの音楽との関わり方で”演奏”から”鑑賞”に変わったとも言えますね。

「Lady Madonna」とかは家に鍵盤あるから弾いたりしてましたけど、半年くらいずっと聴いてましたね。ところが特に初期のTHE BEATLESだとギターミュージックだから、ピアノで弾いていてもつまらないんですよね。そこでギターが欲しくなって、中学3年に上がる前にアコースティック・ギターを買うんですね。で、前後は曖昧なんですけど同じ頃ベースも買うんですよ。

ーバンド方向ですね!

実はアコギとベース、どっちが先だったかも曖昧なんですけど(笑)音楽好きな友達が何人か出来たから、バンドでも演ろうかって話になるじゃない?よく聞く話で「ギターいっぱいいるからベースね」ではなくて、Paul McCartneyカッコイイからベースやりたいって選んだんだと思うけど。でも、結局バンドを組むって話が頓挫しちゃって、家で1人で弾いてても、すごくおもしろくなくて(笑)今みたいにジャズ・フュージョン的なものが好きだったら家でもおもしろいんでしょうけど、THE BEATLESのベースを家で弾いていてもね(笑)数ヶ月持っていただけで友人に売っちゃっいました。ギターについては、そのままおもしろくてTHE BEATLESを演ってたんですけど、当然音楽の趣味が広がっていって。ご多分に漏れず、僕はハードロックへ進むことになります。

ーそれこそ、当時の流行でもありますよね?ギターを魅せる音楽というか。

そうですね。ギターを弾いていると目立つ音楽を聴くようになりますし、友人からの情報とかでRitchie Blackmoreは上手らしいとか、Led Zeppelinはリフがカッコイイとか(笑)

ーそうなるとエレキも必然的に欲しくなりますよね?

買うんですよ(笑)耐えられなくて。「なんで音が伸びないんだろう」とか「なんで歪まないだろう」とかね。そういう情報のない中で、試行錯誤を中学の終わりくらいにしていましたね。それからもずっとギターを一生懸命演っていて、聴くものもさらにクロスオーバー・ジャズ的なものに行くっていう。

ー頓挫したバンドもこの辺りから復活したのでしょうか?

母親が家で音楽教室していたのもあって、練習スペースがあったんですね。そこでバンドの練習とかしていましたね。

ードラムセットもですか?

そうそう。練習が終わってみんな帰ったあとにドラムを1人で叩いたりして、カセットテープレコーダーを2台用意して多重録音を始めるのがこの頃ですね。そうすると音の構造やアレンジに興味が湧いてくるじゃないですか?最初はメチャクチャで、ピアノを弾いたあとにドラムを合わせるっていう(笑)

ーある意味、神業です(笑)

Stevie Wonderがそうなんですけど(笑)興味が湧いただけで、まだバンドでギターを弾くというのが中心ですね。

ー但し、現在の冨田さんに繋がる出来事ではあると思います。

確かに、多重録音をして出来た音を聴いて「なるほどな」って思った感覚は重要だった気がしますね。自分でピアノを弾いて、ドラムやベースを合わせて描いた通りになっていくんだけど「ドラムを最初に録った方が良いな」とか「キーボードも左手使わない方がちゃんと聴こえるな」とかね。遊びではありましたけど、そのときの感覚が何かのパートを極めることよりも、合わさった音がスピーカーから聴こえてきたときのワクワク感の方が、現在までに通づることだと思いますね。

ー現在に”通づる”という部分で作曲もやはりこの頃でしょうか?

そうです。日常的にしていたわけではないですけど、バンドで最初はコピーから始めてたんですけど「まぁ作れるな」って(笑)なんでかっていうと、コンテストに幾つか出てて、最初はコピーの曲で出場していたんですけど、大して賞も取れずにいて。コンテストに出場している先輩から「バンドも良いしギターも上手なんだけど、曲がオリジナルじゃないとね」みたいなことを言われたのがきっかけですね。確か2~3曲くらいだったと思うんですけど、書いてましたね。

ー因みにどんな楽曲だったか知りたいです!

いいですよ(笑)当時、Larry Carltonが好きだったんでインストのバンドだったんですけど「Room335」みたなグルーヴに若干、Santanaとかの影響も入ったインストでしたね。77・78年くらいでしたけど、”普通に流行っていたもの”という言い方も出来ますね。

ー洋楽でいえばそうですよね。「Moonflower」とかリリースされた時代ですし。ただ、高校生が演るにしてはテクニックが必要ですね。

そうそうそう「Moonflower」大好き。当時、旭川だったんですけど、そういうジャンルを演ってる人は高校生ではいなくて、コンテストにフュージョン的なバンドが先輩にいたくらいですね。リスナーとしては同世代にいても、プレイもするっていう人がいなかったことを覚えてますね。自分のバンドも、ピアノであればクラシックを演ってる人を誘って、譜面を与えれば難しくても出来るだろうみたいな(笑)ベーシストは全然別のジャンルを演ってる人だったんですけど、こういう音楽のおもしろさを説き(笑)そんな感じの流れで演っていましたね。

ーその後、バンドは解散ですか?

進路もバラバラでしたし、「プロになろう」って始めたバンドでもなかったので。昔からそうなんですけど、「バンドで何かしよう」って1度も思ったことがないんです。あとはジャズ・フュージョンを聴いていた影響でスタジオ・ミュージシャンやプロデューサーの存在を知っていたし、好きなジャンルがバンドでどうこうなってるわけではなくて、個人的な技術や音楽性がある人達が集まって出来た音楽が好きだから。Steely Danもそうだしね。

ーそれこそ、クレジットを見てとか?

そう、クレジット買い真っ只中の世代です。東京に上京したのも…厳密には埼玉の大学ですけど(笑)僕はプロの音楽家になりたいと思っていたから、どうやったらプロになれるかわからなかったけど、シーンの渦中に近づけば様子がわかるだろうっていう。僕、法学部でしたけど、全然興味なかったです(笑)受験も英語と小論文だけで良いという、自分が入れる確率が高い選び方だったので。親にはご多分に漏れず「法律を学びたい」って嘘を言い(笑)わかっていたとは思いますけどね、一生懸命に音楽をしていたので。

ー冨田さんなりの当時の計画があったわけですね。

大学に通ってる間に、何となく道筋がわかるんじゃないか?とかそういうシーンに入れるんじゃないか?とかね。ダメだったら自分には関係のないことだったんだと諦めようっていうくらいです。

ー実際にプロになるためのどういった活動をされていたんですか?

それがですね、僕が活動的じゃないというか…音楽を作ることには妥協なくできるんですけど、人に会うとか輪を広げるとかを自分からしなかったですね。音楽サークルに入るんですけど、各サークルがどんな音楽演ってるかのデモンストレーションするじゃない?そこで1番良いと思ったバンドがいたサークルに行きました。今でも覚えてるんですけど、そのバンドは割りとAORやファンクっぽい音で日本語のオリジナルでしたね。

ーということはサークルでの活動がメインとなっていたんですか?

81年に大学へ入ったんですけど、82年いっぱいまではそうですね。しかも、別にライブハウスに出るとかでもなくて練習で教室を取って、学祭に出るくらいです。そういう発想の前に、親元を離れて1人暮らしをするっていうことだけでも”デビュー”じゃないですか(笑)当時はバブルの頃で、大学生は「女子大生ブーム」「夏はサーフィン」「冬はスキー」みたいなね。僕はそんなに遊んでなくて音楽やってましたけど、授業も受けずに学食でダラダラ音楽の話をして、バンドの練習してっていう生活だけで、高校生の頃とまるで違うわけですから。子供だったのもありますけど、”自分の実力を上げればどこかから声が掛かるだろう”くらいしか思っていなかったですね。

ーでは、バンドの組み方もその組んだバンドで大成させたいというよりも、自分の実力をつけるためという解釈の方が正しい?

そうですね。新入生歓迎演奏会みたいなのがあるんですけど、それは新入生がやりたい音楽を言って、先輩たちがその新入生のパート以外を演奏してくれて、その手腕を見るみたいなね。僕はLarry Carltonの曲とか言ったんだと思いますけど、そうやって披露すると新入生同士の実力や音楽性がわかるんですよね。そこで合う人とバンドを組んだり、先輩から声を掛けてもらって入ったりと掛け持ちしてましたね。それだけでも、嬉しかったです。あと先輩方の前でGino Vannelliの「Brother to Brother」のギター・ソロを弾かされたのを思い出しました、Carlos Riosというギタリストをコピーしたヤツ(笑)

ー先輩から声を掛けられるっていう、1つのバロメーターありますよね?

まんざらでもないなっていう(笑)その中にはプロ志向の人もいましたし、バンドでプロを目指す人、そのために学校まで辞める人までいましたが、精神性はね、違いましたね。「学校辞めなくてもやれそうだし、そんな決意しないといけないのかな?」みたいな(笑)大学2年くらいまでは、そこまで自分と合致する人がいなかったですね。

ー逆に合致する方との出会いはそこではなかったんですか?

後半になって、合う先輩とバンドを組むことなりました。今に繋がることがあって、1つは外(学外)で演奏をすることになったのと、家で多重録音を出来るようにしたことですね。

ーとうとう!

ここで(笑)当時でも高かったですけど、手に入る機材とシンセサイザーを買って。そうなるとやりたかった環境が家にあるわけなので、バンドはやるけどそのあと家に帰って多重録音をするっていう時間がどんどん増えていきましたね。自分の作曲・編曲のサウンドメイキング技術が上がっていくと、今度はそれをバンドで演奏するっていう形に変わっていきましたね。

ー譜面やコードを元に議論して形にするのではなく、冨田さんの中で鳴っているサウンドを形にしてバンドに下ろすという、冨田ワールド誕生ですね!

今のレコーディングに限りなく近いです。ただ、アマチュアだったから再現できないこともありました。弾けないって言われて「じゃあ16分音符2個抜いていいよ」みたいな感じ(笑)

ー”理想と現実のギャップを埋める”みたいな作業でもありますね?

そうです。どうやって両方の価値を高めるかというのも、ようやくわかってくるんですけど。多重録音をして構造がわかることによって、理解が進みましたしバンドに反映もしやすくなりましたね。

ー先程の外(学外)で演奏をすることについてはいかがですか?

大学4年~5年のときに、先輩がそういった繋がりを持っている方でライブハウスとかでも演奏するようになりました。そういうことを続けてるうちにサポートの仕事をやるようになったんです。

ーこれって、冨田さんのもくろみ通りじゃないですか(笑)

ね(笑)まだフルタイムでの仕事ではないけど、何となくプロの仕事にも対応出来ることがわかってね。サポートの他に黒人がボーカルのバンドもやっていて、就職活動もせずに大学を卒業しました。親にもこういうことがやりたいんだと言ってね。まずは少しずつプロとしての仕事があったことが嬉しかったですね。

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