冨田ラボ インタビュー

ー冨田さんのミュージシャンとしての経歴をお伺いしたいのですが、その前提となる楽器を初められたのはいつ頃だったんですか?

母親が音楽教師だったのもあって、物心ついた頃にはピアノを弾いていましたね。ピアノの先生に習う前に、母親が教えてくれてたんです。

ーバイエルやツェルニーを?

そうです。だけど小学校に上がって、母親じゃない先生に就いてクラシックピアノを習っていたんですけど、あんまりおもしろくなくて(笑)習っていたところがヤマハの音楽教室なのもあって、別の教室ではエレクトーン(電子オルガン)のカラフルな音色や、リズムボックスの音が聴こえてくるから楽しそうで。それで母親に「あっち(電子オルガン)がやりたい」って小学校2~3年生くらいのときに言って、小学校が終わるまで電子オルガンをずっとやりましたね。

ーそのときに奏でていた音楽は覚えていらっしゃいますか?

ヘンリー・マンシーニとか、ジャズのイディオムを使ったポップスですね。旋律と和声がきれいだなって思ってました。あとは映画音楽やTHE BEATLESの曲をエレクトーン用にアレンジしたものとかですね。中でも16ビートにアレンジされたものが好きでしたね。

ーそれって今の冨田さん(笑)?

そうだね(笑)時代的に70年代の前半から中盤にあたるので、ちょうど8ビート主流から16ビートが入ってきたタイミングだったから、アレンジでもそういうのが取り入れられていたんでしょうね。今考えるとシェイクっぽい60年代の名残もありましたけど、カッコイイって思いましたね。THE BEATLESの「A Hard Day’s Night」がそれにあたるんですけど、アレンジしたのしか知らなかったので「ホンモノはどんな感じなんだろう?」ってシングルのレコードを買ったんですけど、元々は8ビートなので、すごいがっかりしたのを覚えてますね(笑)

ー「躍動感ない!」みたいな?

そう、当時は16ビートって言葉さえ知らなかったから「全然リズムが違う」って。だけど、中学生くらいで僕はTHE BEATLESファンになるので、ホンモノのカッコ良さに気づくんですけどね。その小学校4年生で味わった「A Hard Day’s Night」のがっかり感を今でも覚えてます。

ークラシックからポップスへの移り変わりと同時に、特に16ビートへの出会いが大きいですね。

本当の4ビートはまだやってないですが、8ビートやクラシックから感じるものとぜんぜん違う躍動感に、興奮していたのを今でも覚えてますからね。でも、中学に入る頃に音楽を習うのがいやになって辞めちゃうんです。バスケットボール部に入りましたし、中学1年は音楽に一切触れていないんです。

ーそれは聴くことも含めて?

ないです。で、さっき話したTHE BEATLESに興味を持つんですけど、音楽的な対象として興味を持ったのではなく、”カッコ良いもの””ヒップなもの”っていうところですね。ちょうど今年U.S.BOXがリリースされましたけど、それと内容は同じかな、US編集盤の12枚くらいセットになったものが雑誌の通販に載っていて、中学生のお小遣いでは買えない金額なんですよね。それで母親に「また音楽に興味が湧いてやりたいと思うんだけど、どうもTHE BEATLESというのが色んな基礎になるらしくて勉強したいんだよね」って(笑)

ー間違っていないですけど、中学生ってあざといですね(笑)

母親も音楽教師だから、子供が音楽をやるって嬉しいじゃないですか?で、イヤだって言って辞めちゃったのが、また興味を持ってくれたって思ってくれたら買ってくれるだろうと。で、買ってもらいました(笑)

ーこれまでの音楽との関わり方で”演奏”から”鑑賞”に変わったとも言えますね。

「Lady Madonna」とかは家に鍵盤あるから弾いたりしてましたけど、半年くらいずっと聴いてましたね。ところが特に初期のTHE BEATLESだとギターミュージックだから、ピアノで弾いていてもつまらないんですよね。そこでギターが欲しくなって、中学3年に上がる前にアコースティック・ギターを買うんですね。で、前後は曖昧なんですけど同じ頃ベースも買うんですよ。

ーバンド方向ですね!

実はアコギとベース、どっちが先だったかも曖昧なんですけど(笑)音楽好きな友達が何人か出来たから、バンドでも演ろうかって話になるじゃない?よく聞く話で「ギターいっぱいいるからベースね」ではなくて、Paul McCartneyカッコイイからベースやりたいって選んだんだと思うけど。でも、結局バンドを組むって話が頓挫しちゃって、家で1人で弾いてても、すごくおもしろくなくて(笑)今みたいにジャズ・フュージョン的なものが好きだったら家でもおもしろいんでしょうけど、THE BEATLESのベースを家で弾いていてもね(笑)数ヶ月持っていただけで友人に売っちゃっいました。ギターについては、そのままおもしろくてTHE BEATLESを演ってたんですけど、当然音楽の趣味が広がっていって。ご多分に漏れず、僕はハードロックへ進むことになります。

ーそれこそ、当時の流行でもありますよね?ギターを魅せる音楽というか。

そうですね。ギターを弾いていると目立つ音楽を聴くようになりますし、友人からの情報とかでRitchie Blackmoreは上手らしいとか、Led Zeppelinはリフがカッコイイとか(笑)

ーそうなるとエレキも必然的に欲しくなりますよね?

買うんですよ(笑)耐えられなくて。「なんで音が伸びないんだろう」とか「なんで歪まないだろう」とかね。そういう情報のない中で、試行錯誤を中学の終わりくらいにしていましたね。それからもずっとギターを一生懸命演っていて、聴くものもさらにクロスオーバー・ジャズ的なものに行くっていう。

ー頓挫したバンドもこの辺りから復活したのでしょうか?

母親が家で音楽教室していたのもあって、練習スペースがあったんですね。そこでバンドの練習とかしていましたね。

ードラムセットもですか?

そうそう。練習が終わってみんな帰ったあとにドラムを1人で叩いたりして、カセットテープレコーダーを2台用意して多重録音を始めるのがこの頃ですね。そうすると音の構造やアレンジに興味が湧いてくるじゃないですか?最初はメチャクチャで、ピアノを弾いたあとにドラムを合わせるっていう(笑)

ーある意味、神業です(笑)

Stevie Wonderがそうなんですけど(笑)興味が湧いただけで、まだバンドでギターを弾くというのが中心ですね。

ー但し、現在の冨田さんに繋がる出来事ではあると思います。

確かに、多重録音をして出来た音を聴いて「なるほどな」って思った感覚は重要だった気がしますね。自分でピアノを弾いて、ドラムやベースを合わせて描いた通りになっていくんだけど「ドラムを最初に録った方が良いな」とか「キーボードも左手使わない方がちゃんと聴こえるな」とかね。遊びではありましたけど、そのときの感覚が何かのパートを極めることよりも、合わさった音がスピーカーから聴こえてきたときのワクワク感の方が、現在までに通づることだと思いますね。

ー現在に”通づる”という部分で作曲もやはりこの頃でしょうか?

そうです。日常的にしていたわけではないですけど、バンドで最初はコピーから始めてたんですけど「まぁ作れるな」って(笑)なんでかっていうと、コンテストに幾つか出てて、最初はコピーの曲で出場していたんですけど、大して賞も取れずにいて。コンテストに出場している先輩から「バンドも良いしギターも上手なんだけど、曲がオリジナルじゃないとね」みたいなことを言われたのがきっかけですね。確か2~3曲くらいだったと思うんですけど、書いてましたね。

ー因みにどんな楽曲だったか知りたいです!

いいですよ(笑)当時、Larry Carltonが好きだったんでインストのバンドだったんですけど「Room335」みたなグルーヴに若干、Santanaとかの影響も入ったインストでしたね。77・78年くらいでしたけど、”普通に流行っていたもの”という言い方も出来ますね。

ー洋楽でいえばそうですよね。「Moonflower」とかリリースされた時代ですし。ただ、高校生が演るにしてはテクニックが必要ですね。

そうそうそう「Moonflower」大好き。当時、旭川だったんですけど、そういうジャンルを演ってる人は高校生ではいなくて、コンテストにフュージョン的なバンドが先輩にいたくらいですね。リスナーとしては同世代にいても、プレイもするっていう人がいなかったことを覚えてますね。自分のバンドも、ピアノであればクラシックを演ってる人を誘って、譜面を与えれば難しくても出来るだろうみたいな(笑)ベーシストは全然別のジャンルを演ってる人だったんですけど、こういう音楽のおもしろさを説き(笑)そんな感じの流れで演っていましたね。

ーその後、バンドは解散ですか?

進路もバラバラでしたし、「プロになろう」って始めたバンドでもなかったので。昔からそうなんですけど、「バンドで何かしよう」って1度も思ったことがないんです。あとはジャズ・フュージョンを聴いていた影響でスタジオ・ミュージシャンやプロデューサーの存在を知っていたし、好きなジャンルがバンドでどうこうなってるわけではなくて、個人的な技術や音楽性がある人達が集まって出来た音楽が好きだから。Steely Danもそうだしね。

ーそれこそ、クレジットを見てとか?

そう、クレジット買い真っ只中の世代です。東京に上京したのも…厳密には埼玉の大学ですけど(笑)僕はプロの音楽家になりたいと思っていたから、どうやったらプロになれるかわからなかったけど、シーンの渦中に近づけば様子がわかるだろうっていう。僕、法学部でしたけど、全然興味なかったです(笑)受験も英語と小論文だけで良いという、自分が入れる確率が高い選び方だったので。親にはご多分に漏れず「法律を学びたい」って嘘を言い(笑)わかっていたとは思いますけどね、一生懸命に音楽をしていたので。

ー冨田さんなりの当時の計画があったわけですね。

大学に通ってる間に、何となく道筋がわかるんじゃないか?とかそういうシーンに入れるんじゃないか?とかね。ダメだったら自分には関係のないことだったんだと諦めようっていうくらいです。

ー実際にプロになるためのどういった活動をされていたんですか?

それがですね、僕が活動的じゃないというか…音楽を作ることには妥協なくできるんですけど、人に会うとか輪を広げるとかを自分からしなかったですね。音楽サークルに入るんですけど、各サークルがどんな音楽演ってるかのデモンストレーションするじゃない?そこで1番良いと思ったバンドがいたサークルに行きました。今でも覚えてるんですけど、そのバンドは割りとAORやファンクっぽい音で日本語のオリジナルでしたね。

ーということはサークルでの活動がメインとなっていたんですか?

81年に大学へ入ったんですけど、82年いっぱいまではそうですね。しかも、別にライブハウスに出るとかでもなくて練習で教室を取って、学祭に出るくらいです。そういう発想の前に、親元を離れて1人暮らしをするっていうことだけでも”デビュー”じゃないですか(笑)当時はバブルの頃で、大学生は「女子大生ブーム」「夏はサーフィン」「冬はスキー」みたいなね。僕はそんなに遊んでなくて音楽やってましたけど、授業も受けずに学食でダラダラ音楽の話をして、バンドの練習してっていう生活だけで、高校生の頃とまるで違うわけですから。子供だったのもありますけど、”自分の実力を上げればどこかから声が掛かるだろう”くらいしか思っていなかったですね。

ーでは、バンドの組み方もその組んだバンドで大成させたいというよりも、自分の実力をつけるためという解釈の方が正しい?

そうですね。新入生歓迎演奏会みたいなのがあるんですけど、それは新入生がやりたい音楽を言って、先輩たちがその新入生のパート以外を演奏してくれて、その手腕を見るみたいなね。僕はLarry Carltonの曲とか言ったんだと思いますけど、そうやって披露すると新入生同士の実力や音楽性がわかるんですよね。そこで合う人とバンドを組んだり、先輩から声を掛けてもらって入ったりと掛け持ちしてましたね。それだけでも、嬉しかったです。あと先輩方の前でGino Vannelliの「Brother to Brother」のギター・ソロを弾かされたのを思い出しました、Carlos Riosというギタリストをコピーしたヤツ(笑)

ー先輩から声を掛けられるっていう、1つのバロメーターありますよね?

まんざらでもないなっていう(笑)その中にはプロ志向の人もいましたし、バンドでプロを目指す人、そのために学校まで辞める人までいましたが、精神性はね、違いましたね。「学校辞めなくてもやれそうだし、そんな決意しないといけないのかな?」みたいな(笑)大学2年くらいまでは、そこまで自分と合致する人がいなかったですね。

ー逆に合致する方との出会いはそこではなかったんですか?

後半になって、合う先輩とバンドを組むことなりました。今に繋がることがあって、1つは外(学外)で演奏をすることになったのと、家で多重録音を出来るようにしたことですね。

ーとうとう!

ここで(笑)当時でも高かったですけど、手に入る機材とシンセサイザーを買って。そうなるとやりたかった環境が家にあるわけなので、バンドはやるけどそのあと家に帰って多重録音をするっていう時間がどんどん増えていきましたね。自分の作曲・編曲のサウンドメイキング技術が上がっていくと、今度はそれをバンドで演奏するっていう形に変わっていきましたね。

ー譜面やコードを元に議論して形にするのではなく、冨田さんの中で鳴っているサウンドを形にしてバンドに下ろすという、冨田ワールド誕生ですね!

今のレコーディングに限りなく近いです。ただ、アマチュアだったから再現できないこともありました。弾けないって言われて「じゃあ16分音符2個抜いていいよ」みたいな感じ(笑)

ー”理想と現実のギャップを埋める”みたいな作業でもありますね?

そうです。どうやって両方の価値を高めるかというのも、ようやくわかってくるんですけど。多重録音をして構造がわかることによって、理解が進みましたしバンドに反映もしやすくなりましたね。

ー先程の外(学外)で演奏をすることについてはいかがですか?

大学4年~5年のときに、先輩がそういった繋がりを持っている方でライブハウスとかでも演奏するようになりました。そういうことを続けてるうちにサポートの仕事をやるようになったんです。

ーこれって、冨田さんのもくろみ通りじゃないですか(笑)

ね(笑)まだフルタイムでの仕事ではないけど、何となくプロの仕事にも対応出来ることがわかってね。サポートの他に黒人がボーカルのバンドもやっていて、就職活動もせずに大学を卒業しました。親にもこういうことがやりたいんだと言ってね。まずは少しずつプロとしての仕事があったことが嬉しかったですね。

ーサポートのお仕事は主にギターだったと思うのですが、作曲・編曲のお仕事をするのはそのあとになりますか?

それはね、微妙に重なっているんです。サポートしながら、家では多重録音続けてたんですけど、大学のバンドで一緒だったボーカリストに歌ってもらって、それを大学卒業する頃にコンテストへ応募したら受かっちゃったんですよ。卒業したあとはサポートもしながらバイトもしていたんですけど、それがきっかけで、その子と”KEDGE”っていうユニットを組んで1988年にアルバムをリリースするんです。

ーそういう経緯だったんですね。実は個人的な話になってしまうのですが「Rolling Like A Heaven」が大好きでして…

その受賞曲が正しく「Rolling Like A Heaven」ですよ。「Rolling Like A Heaven」を送り、コンテストとの賞品みたいな形で(笑)「COMPLETE SAMPLES」を制作したんです。それがきっかけで作曲や編曲のお仕事をするようになりました。当時の80年代後半は純然たる歌謡曲の流れがあって、一部の方々は別としても、アレンジをするにしても歌謡曲的なアプローチを求められることが多くて。サポートをやっていてもそういう曲が多かったですし。僕が好きな音楽と合わない状況がありましたけど、「COMPLETE SAMPLES」をきっかけに僕の音楽性で依頼が来ることは嬉しかったですね。

ー自宅での多重録音から、個人のスタジオを持つのはこの頃からなのでしょうか?

元から宅録的なスタイルをずっとやっていたので、スタジオを持つ前から自宅作業は多かったんですが、プライヴェート・スタジオを最初に作ったのは2002年なんです。最初はマンションの1室からスタートですね。ギターやボーカルが録れるくらいのもので、ドラムは生ではなくて自分打ち込むことが多いから、最低限といった感じです。結局、多重録音ですから家でやる作業が多いんですよね。80年代にアレンジしていたものは、ドラムの打ち込みやシンセ・パートは家で、エレキやアコースティックはスタジオで録るっていう流れだったんですけど、コンピューターの進化と共に全部が家でできちゃうようになった。そうするとスタジオの時間も短縮できるんですよね。

ー時間や制作予算とかの圧縮にも繋がりますし。

そう、あとは何よりも重要なのが”自分が納得できるまで作れる”ということなんです。スタジオって時間制約がどうしてもあるので、その中でのベストを目指すんですけど、家だと何も気にしないで突き詰めて行くことが出来ますよね?その結果がパッケージとして反映されることが、自分にとっては最も重要なので。そうなると、家を充実させることが目指す方向性を実現するのに最適だった、というのが大きいですね。

ー突き詰めていくと、もはや必然的に思えますね。

最初は、所属事務所のプリプロルームを借りて結局、僕専用みたいになっちゃったんだけど(笑)とはいえ、事務所のものなので他のアーティストが使用したいとなれば、当然譲りますし。となると、専用の場所が必要になって2002年以降はそういった場所を必ず持つようにして、このスタジオ(Tomita Lab Studio)を2011年に作りました。

ーでは、現在行われているプロデュースやソロの制作は、ほぼ賄えているんですね。

そうです。外のスタジオに行く場合はストリングスやホーン・セクション録る為にオオバコが必要になるときと、生のアコースティック・ピアノと録りたいときくらいですね。

ーこのスタジオで冨田ワールドを作り上げるにあたって、数多く揃えられている機材についても、いくつかピックアップして解説頂きたいです!

そうですね、ここでマイクで録るものの代表で言うと、アコースティック・ギターとアンプで鳴らすエレキ・ギターと歌ですけど、歌を録るときのマイク・プリはだいたい「FOCUSRITE」を使いますね。マイクは大体AKGの「C12VR」。あとは4050(AUDIO TECHNICA)ですね。ずっと4050を使ってたんですけど、最近は「C12VR」を気に入っていて、その場合のマイク・プリは必ず「FOCUSRITE」を使いますね。良いマイクに共通していると思うんですけど、情報量が豊かですよね。今でも好きですけど67は中域が安定していますが、C12の場合はもう少し上まで明るいマイクってところかな。その明るいマイクにありがちな、中域の密度が粗くないところが魅力ですね。

ー声の解像度が高いということでしょうか?

そうです。中域もきちんと録れていながら明るい。「FOCUSRITE」と「C12VR」の組み合わせが、最近多いですね。これで歌を録ったトラックのアコギはだいたいC12を使用します。その方が同じ高い域のサラサラした感じの繋がりが良い気がしています。

ーそれらのサウンドをチェックする、スピーカーがたくさんあって、こちらもお伺いしたいです。

「EVE AUDIO」を気に入って最近導入したんですけど、判断基準として「B&W」が多いかな…ボーカル録りしてるときとかは、この位置(B&Wと正三角形の位置)で聴くことが多いから。でも、1人で作業してるときはデスクがキャスター付きなので、もっと後方(EVE AUDIOと正三角形の位置)に座ることが多いんです。僕、エンジニア出身じゃないので、スタジオでもディレクターチェアの位置に何十年もいましたから。もうどちらも慣れましたけど、スピーカーの真ん中で聴くのに違和感があったんです。ミックスの最後の方だと後方で「EVE AUDIO」で聴くことが多いです。音色を決めるときは3つ(前2種+Focal)使って、頻繁に切り替えますね。

ー制作部分をお伺いさせて頂いた流れで、プロデュースについてもお伺いしたいのですが、冨田さんと言えばキリンジの作品との関わりが取り上げられることが多いと思うのですが、プロデュースという依頼はキリンジが初めてですか?

僕の初プロデュースがそうです。彼らが今も所属している所属事務所(ナチュラルファウンデーション)で、当時はレーベルもやっていて、かせきさいだぁとか居たんですよね。実はそのときに、僕もMOVESというユニットをやっていて「MOVING TRACKS」をそこからリリースしているんです。その関係もあって、代表の柴田さんはMOVESで何をやっていたか見ていたので、MOVESが終わったタイミングで「こういう男性2人組がいるんだけど、プロデュースどうですか?」って依頼を貰ったのがきっかけですね。デモテープを聴いて、「自分でも得意な感じだな」という印象を受けたのを覚えてますね。全く知らないところから来たというより、所属していたレーベルの代表から、次のアルバム制作と同じノリで受けたっていう感覚ですね。

ーこういった始まりから、プロデュースとしては1番多く関わっていらしゃいますが、作品毎にキリンジをプロデュースするにあたって変化はあったのでしょうか?

ありましたね。1番最初がインディーズ盤の「キリンジ」で、そのときは家である程度作ってからスタジオに持ち込んで、ディスカッションしながら彼らのギターや歌を入れていって制作していきました。それが終わったあとに「もっと前の段階から一緒にできないか?」という話があって、以降はまだ自分のスタジオ作る前だったので、事務所のプリプロルームで作業していましたね。デモテープを聴いて、僕がベーシックトラックを作ってその間、彼らは隣の部屋で待つっていう。で、出来たら聴いてもらってアイディアを出し合ったりして、また反映していってっていう作業をしていましたね。僕がやった最後の方はPro Toolsでしたし。今でこそ、HDD持っていけば良いですけど、当時はスタジオにシンセサイザー持って行ってましたよね。コンピュータも持っていって、その場で同期したりしてたなぁ(笑)

ー変化というよりは、扱う機材の進歩と共にという方が正しいですね。

そうですね、やり方がそこまで変わらなかったということは、そのやり方が良かったからなんでしょうね。

ーその他にもジャンルというものに括られず、様々なアーティストからのご依頼について、ご自身ではどこに魅力を感じられていると思われていますか?

バラードの依頼が来るとわかりますね(笑)キリンジをやっていたときはNONA REEVESとかSwinging Popsicleとか、その周辺のアーティストからの依頼がありましたし、MISIAの「Everything」のあとは中島美嘉やそういったアーティストからの依頼もありましたし。すごく大雑把に言えば、キリンジ周辺の音を聴いて依頼頂くのと、「Everything」をやった音を聴いて依頼頂いていたんだろうなっていう解釈をしていますね。

ーなるほど。それらはアーティストの声をイメージして制作に反映されるのか、それとも良い意味でイメージすることなく、先程のお話にあった”自分が納得するもの”を制作されるのかでいうといかがでしょうか?

完全にそのボーカリストに合う形で作りますね。例えば、全ての方がそうというわけではないですが、アレンジャーの方ですとメロディーがあってキーが分かっていたら、メロディーの形だけシンセの仮メロなどがあれば良いと思うんですけど、僕の場合はできるだけ仮歌を頂くようにしていて。それはすごく重要で、その仮歌を聴きながらアレンジをすることで、思い浮かぶこともあれば、選ばれた音色もあるという。

ー声から得られるインスピレーションと言えば正しいでしょうか?

そういう言い方もできますし、実際に声の音像と被らないように制作していくにあたって、想像でももちろん出来るんですけど、歌があることによって想像しなくても無意識で出来るという部分もありますね。

ーそれはリミックスのご依頼だと、また違ってくるものでしょうか?

リミックスも全く一緒で歌以外は聴かないです。「この素材を使って欲しい」という依頼がなければ歌以外の素材は使用しません。原曲は1回くらいは聴きますけど、原曲に対してどうテイストを加えていくかという概念はなくて、素材で頂いたボーカルに対してという考え方です。

ーお話を伺っていて、プロデュース・リミックスのどの制作でも”歌”という軸がある印象を受けたのですが、それは冨田ラボでも変わらないのでしょうか?

基本的には変わらないですね。ただ、冨田ラボで4枚制作していますけど、色んなケースが出てくるのも事実で…僕が作曲する段階では、アレンジの詳細まで作り込まないですし、その方が良いと思っているんですね。それは今言ったことに繋がっていて、ボーカリストとキーが決まってからサウンドを考える方が、絶対に良いものが出来るんです。一方で曲を考えついたときに、サウンドのことも思いついてしまうことがありますよね。思いついたときがベストっていう考え方もあるんですよ(笑)

ーアイディアが同時に出てくるってことですよね。

そこでサウンドまで作ったものに、実際にボーカリストが決まってキーが変わってしまったとしても、そのままのサウンドでやるっていうことも出てきたので。まあ先程の話とは矛盾するんだけど、ケース・バイ・ケースですね。

ー”冨田ラボ”という名前でソロプロジェクトを始められた部分についてお伺いさせて下さい。

それがね、あんまり感動的な話もなくて(笑)まず制作した楽曲で、いろんなゲストを迎えてやりたいというフォーマットを最初に思っていて。いわゆる、ソロ活動をやるにあたって、形式としてこのフォーマットが良いと。当然、レコード会社やスタッフと話してる中で「名前があった方が良いよね」ってなってたんですけど、内容を作る方に集中してるので放っておいてたんです(笑)で、告知とかもあるので半分くらいできたときに「名前どうします?」って聞いてくるわけです。「何も考えてないなぁ」って話してて、そのときのスタッフが「”冨田製作所”とかおもしろくないですか?」って言うんだけど「ン~、割りと斜めからいった感じだなぁ」とか思って(笑)製作する程、量産しないしそれだったら研究所の方が合ってるなって。”ラボ”の方があんまり斜め目線っぽくないし、漢字とカタカナの感じが気に入って冨田ラボにしたんです。

ー確かに”ファクトリー”よりは”ラボラトリー”ですね!

それはないなっていうところから始まったんですけど(笑)結果、今の活動も表している名前に落ち着いて良かったですね。

ーそして命名された冨田ラボとして制作された「Shipbuilding」についてですが、フォーマットを決められていたとはいえ、ゲストボーカルを迎え入れるにあたっての部分を教えて下さい。

先程から話していたことと、今の質問を聞いて思ったのは、僕が掲げた”理想”というのは全部「Shipbuilding」のときにやってしまったことなんだなって。何故かと言うと、ソロを作ろうと思ってゲストボーカリストを全く決めずに、曲だけ先に書いたんですよね。

ーアレンジの詳細まで作りこまないを実践されたんですね。

そうそう。リズムとハーモニーとメロディーだけの状態で、僕の仮歌・ピアノ・ドラム・ベースっていう。全収録曲の1曲を除き、毎日1曲作ろうっていう意識で1週間で作りました。そのときはここ(Tomita Lab Studio)が出来る前なので、自宅から500メートルくらいのマンションに作業場があったんですけど、朝行って出来上がるまで帰らないっていう。

ーそれから楽曲に対して、誰のボーカルが合うのかっていう作業に入るわけですね。

まぁ、どういった人が入れば良いかっていうのは漠然とはありましたけどね。当時はキリンジもやってましたし、彼らには入ってもらおうとかね。畠山美由紀さんは素敵だし当時、一緒に制作をやっていたディレクターが担当だったとかね。ただ、例えば”この楽曲はキリンジ用”っていう風には考えずにやりましたね。

ー今のお話にあった”全収録曲の1曲を除いた”の、その1曲が気になるのですが…

それは僕が唯一歌った「海を渡る橋」ですね。当時あったアイディアが「自分が1曲歌う」っていうのと、平行して「デビューしていない新人に歌ってもらう」っていうことだったんです。どちらにしても、もう1曲は必要っていう状態を引き延ばしていたんですね。新人については、男女問わずいろんな情報を集めてて、実は「海を渡る橋」を新人が歌うかもしれないっていう時期があって。男性ボーカリストで良いと思った人がいて、その人が歌うと良いかもっていう時期がしばらくあったのを覚えていますね。結局アルバムのバランス的に、それはなくなって僕が歌うことになったんですけど。

ー実際にご自身の歌が収録されて、そのバランスという部分も含めどう評価されていますか?

やっぱりね、自分のことは客観的に判断するのが難しいということがあって、だからこそやってみたのがまず大きいですね。よく、自分の声が全然好きではなくて、でも作った人が歌うって上手くなくても特別なことっていう言われ方をしますよね。Randy Newmanとかにもそう感じるし、Donald Fagenは普通に上手く歌ってるけど(笑)僕はあれを下手と思ってないので。そういうのって、僕がやっても感じられるのかなっていうね。ただ、未だにそこはわからなくて、そんなに好きではないですね(笑)

ーリスナー目線で言うと、「Prayer On The Air」(Shiplaunching:収録)もそうですが、冨田さんの声でアルバムの終わりを聴くのは、もう少し聴いていたいって思えるんですけどね。

ありがとうございます(笑)好きではないっていう感情は、歌っているときも歌を録り終わって実際に聴いても印象は変わらないんですけど、畠山美由紀さんが「やっぱり冨田さんのボーカルで歌われた冨田さんのメロディーが、1番正解だと思う」と言っていたんだけど、それもわからない(笑)

ー私達は先程のRandy Newmanのように冨田さんのボーカルを聴いているんだと思いますよ(笑)

僕の作品って自分のデモテープがあって、それを聴いてゲストボーカルの人達が歌ってくれて、その人達なりのものが足されて良くなっていると思っているんだけど、作った本人の方が、歌い回しやブレスまでが音符として正しく機能する感じがするということらしいです。

ー冨田ワールドの創造者と表現者が一緒ですからね(笑)

あとは、自分が歌う曲は他の人が歌うには難しすぎるという部分も含まれますね。自分では、歌モノとして作っている筈なのにあとで他の曲と並べてみると「お願いするには難しいな…でも楽曲としては好きで外したくないな」っていうものを歌ってる気がしますね。

ーなるほど。先程少し触れたのですが、約3年経過して発表された「Shiplaunching」も同じだったのでしょうか?

そうですね…まずは本当はもう少し早いスパンでリリースしたいんですけど、1枚1枚離籍しているのもあって。で、前作と同様にだいたい1年くらい掛けて制作しましたね。

ー「Shipahead」も含め”3部作”という、当初のフォーマットをある意味終了宣言をされたわけですが、元々3部作という構想だったのでしょうか?

全くなかったです。KEDGEで僅かでしたけどアーティスト活動をして、それから単に辞めたというよりも、いろんなお仕事があったあとに冨田ラボとして始めましたが、キャリアに対してアーティスト活動を継続的に行うという部分については、全くの素人なわけです。人のものを依頼されてということや、キリンジのように、あるアーティストを継続的にやるっていうことについての経験しかないわけですから。最初の理想のために「Shipbuilding」を作るということしか頭になかったですね。当然、続けたいという欲求もあって、何の疑問もなく同じフォーマットで「Shiplaunching」の制作に入りましたし。

ー裏を返すと同じフォーマットで続けるならば、”3部作”とわざわざ言う必要もないですよね。

そうなんです。それが「Shiplaunching」の途中で違和感を感じたんです。何故かって言うと好きなボーカリストに歌ってもらうわけですけど、その好きなボーカリストって極論、何人もいるわけではないんですよね。例えば畠山美由紀さんが良いと思ったら、また歌って欲しいって思うんですよね。そうなると、冨田ラボというより、畠山美由紀さんに提供するという形に近づいていくんです。あと、前作と重複しない人を選ぶっていう前提があって、例えばある曲が出来て「この曲はキリンジに歌ってもらおう、でも前回やってるから別の人…」ってなると、2番目の人となるわけです。そういうのを繰り返してると、やってることが自由に見えて実際は不健康だなって思ったんですね。

ーキツイ言い方をすると”ラボラトリー”というよりは”ファクトリー”になりかけた?

合っていると思います。楽曲が望むままに、何の取り決めもなく進めていきたいって始めたんだけどね。とは言っても、「Shiplaunching」までは重複しないシンガーを迎えて出来ていたんですが、いよいよ「Shipahead」を制作するときに「不健康極まりないな」と思って先行シングルの「Etoile」では「Shipbuilding」にも参加してもらってたんだけど、再度キリンジにお願いして。今回は何も気にせずやろうと思ったのと同時に、「このフォーマットでやるということは好きなアーティストと1回で、好きなアーティストがいなくなったら続けられないんだな」っていう。そして、このフォーマットを閉じる作業が必要だというところから”3部作”として打ち出したんです。

ーそれはすごく納得感があります。最新アルバム「joyous」では1曲に1人のボーカリストを迎えた“Shipシリーズ”とは形を変える、4人のボーカルというアプローチ自体が既に自由だとも捉えられます。

そうです。これまで話したこととストレートに繋がります。1曲に1人のボーカリストというフォーマットを辞めたからには、代わりに何があるだろう?というところから始まって、「Shipahead」の頃から模索していたんです。それで、ボーカリストを3人でも4人でも限定して、1人2曲歌うとか他のボーカリストと一緒に歌うとかにすると、アルバム毎にフォーマットを変えることも出来るなと思ったんです。

ー「joyous」ではそれぞれのバックグラウンドをもった4人を招き、一つの冨田恵一ポップスに落とし込むという試みが、魅力的なのではと思いました。

そうですね。横山剣さんがあるインタビューで「1日だけ他のバンドに入るとしたら?」っていう質問にいろんなお名前がある中で「冨田恵一さんのサウンドで歌ってみたい」っておっしゃってくれてるのを発見して「ありがとうございます!」って思いながら(笑)連絡をしたんです。元々剣さんは「Shiplaunching」の頃から「どういう人に歌ってもらうと良いか?」という打ち合わせで何度も名前を挙げさせてもらっていたんですね。

ーボーカリスト候補として?

そうなんですけど、今回までは合う楽曲がなくてご縁がなかったんです。今回歌って頂いた「on you surround」は2007年くらいに作っていた曲で、剣さんの発言があってすぐに、このメロディーは剣さんが歌うとカッコイイだろうなって思ったんです。こういう流れがあって最初に決めたのが剣さんでした。それからは剣さんを軸にバランスを考えるんですが、女性ではまず椎名林檎さん。バランスというのは、今回4人で歌うフォーマットでもあるから、キャリア的にも突出することなくということですね。もちろん、声が大前提ですけど「やさしい哲学」が出来たタイミングで林檎さんが良いと思いましたね。原(由子)さんも打ち合わせでお名前は挙がっていて、僕の作る曲は普段原さんが歌われている曲調とは違うから、どの方向が合うかなと探りながら「私の夢の夢」を書きました。で、この世界を原さんが歌ってくれたらカッコイイ~なと思い、お願いしました。さかい(ゆう)さんは原さんとのコントラストを意識しましたね。原さんの低めのレンジでハスキーな部分とさかいさんのハイトーンの部分がそれにあたります。あとは16(ビート)っぽい人を入れようって(笑)僕自身が持っている16ビートの感覚により近い人がもう一人入っていて欲しいなっていうのはありました。

ー横山剣さんをきっかけに、こういった広がりをみせていた部分が、結果的にこのアルバムを表すのに必然ではあるものの、今のお話を伺って偶然の重なりも垣間見れました。

「Shipbuilding」のときからそうなんですけど、系統建てて一から組み立てることはなくて、何かがきっかけになることが多いですね。

ーそのきっかけが今回、たまたま横山さんだったと。この偶然がなかったら、椎名林檎さんや原さん、さかいゆうさんじゃなかったかも知れないですね。

本当にそうです。軸になるものが偶然であるという、プロセスとしては楽しくも大変でもあるんですけど(笑)でも、その偶然を活かすことが、こういった作品に繋がるんだと思います。

ー冨田さんと言えば数少ない貴重なコンサートがありますが、冨田ラボの初ステージは渋谷AXが最初ですか?

そうです。冨田ラボを一過性のものにしたくないという想いが強くあって。プロデュース活動を続けていくのはもちろんですけど、同様に冨田ラボも継続しておこなっていくのにコンサートという流れは自然だったと思いますね。で、「Shipbuilding」のときもそういう話は出ていたんですけど、実現には至らずに「Shiplaunching」で実現しましたね。

ーそれでは1回目は満を持してだったのでしょうか?

それがですね、「Shiplaunching」制作タイミングに「今回はコンサートをやろう」という話はしていたんですけど、制作に集中してるからあんまり考えてなかったんですね(笑)「レコーディングしてるメンバーが揃うならね」って上の空なことを言ってましたね。

ーアルバムの制作の構想も出来上がってないタイミングなのに、考えられないよってことだったんでしょうね(笑)

もちろん、コンサートをやれるっていうのは嬉しいことだったんですよ。ただ、ストリングスやホーン・セクションはいつもやって頂いている方はいますけど、リズム隊は自分なので(笑)要はいつもやっているっていう、リズムセクションの方がいないんですよ。そうなると、1からどういう人がいてとかから始まるから、満を持してかというと演ることについてはそうでしたけど、実際はそういうこともあって(笑)

ーそこで、実際のコンサートの1曲目が新曲だったのが、冨田さんらしいなって思いました(笑)

2部の最初がジャズのギター・カルテットのような長い曲なんですけど、それを1曲目にしようとしていましたからね。それはないだろうって辞めましたけど(笑)

ー(笑)そういったコンサートの構成とアルバム制作での構成は、冨田さんの中で違いはありますか?

特別ないですけど、もちろん楽しんでもらえるようにということは考えました。インスト2曲はリハの最中に作った曲なんですけど、最初はインストでそのあとに歌モノっていう構成で、さらに2部にしようというのは考えていましたね。スタンディングのコンサートで2部構成はないだろうというのをあとで聞かされましたね。僕が今でもそうなんですけど、そんなに多くコンサートを観る方ではないのと、観るにしても座って観るものが多いので、せっかくだから2部構成の方がゆったり出来て良いと思ったんですが、スタンディングだと動けないですからね(笑)

ー2度目のブルーノートで、それは解消されているから大丈夫だと思います(笑)今年開催された“INSTRUMENTS & VOICES”では、コンサートに向けた事前施策として、YouTubeにデモ音源を発表するという試みがありました。

あれはスタッフのアイディアですね。今までのShipシリーズだと曲毎にアーティストが違うので、違うボーカリストが何曲か歌ってもコンサートとしての違和感はそんなに感じなかったんですけど、「Joyous」はあの4人を強固にし過ぎてしまっているというか…あれは作品としてすごく成立しているんですけど、4人に絞る構成にしてしまったので、今までと同じようにその「Joyous」収録曲を演って、それらを違った人達が普通に歌うということは”置き換え”という印象が強くなってしまうなと。そうならない為に何が出来るだろう?ということで、「VOICES」として3人が殆ど全曲にいて、3人が一緒に歌ったり、半分インストのようなボーカル曲も入るスタイルにしました。そのアイディアにしようと思って最初にできたのがYouTubeにアップした曲なので、僕の中では今回のユニット用っていう位置づけだし、1曲目に演る以外考えられなかったですね。先にYouTubeで予習してもらってからコンサートで演奏する形は楽しかったですよ。

ーもちろん、今回のコンサートでも披露された「都会の夜 わたしの街」と「この世は不思議」のアナログ(7inch)を昨年リリースされましたが、実は冨田さん初なんですよね?

そうなんですよ。僕がプロデュースしている作品の99%がCDフォーマットなので、CDのマスタリングについてはたくさんの経験があるんですけど、アナログは去年の7inchが初なのでカッティングということに対して、どういうスタンスでいれば良いかが僕の中にないわけです。で、CDのマスターをそのまま使用するか、アナログを作るためにマスタリングし直すのかを考えて、去年はマスタリングし直したんですね。当然、初めてだから「なるほど」っていう発見があるわけです。

ーでは今回の「Shipbuilding」と「Joyous」のアナログはそれを踏まえて?

CDのマスターをそのまま使用することにしました。アナログ・マルチでハーフといった時代のものと、マルチ段階でデジタルのものでは根本的に違いますしね。今回、CDマスターをそのままアナログにした理由も、そもそも最終形がCDではないという時点で別の要素が加わるということ、そしてそれは対応しなければいけないような悪いことではないとの考えからですね。元々がハーフではないし、アナログマルチでもないですけど、制作時に表現したかった質感が損なわれるということはなかったからですね。

ー質感もそうですし、アナログ特有のシチュエーションという部分で、A面からB面へ返す作業というのは、音楽を聴くためだけに使う時間を確保することにも繋がると思います。

それは重要ですね。音楽に対する集中度が全然違いますから。ラジオから流れてくるものとも違って、一面が短いから”ながら聴き”していても若干音楽を気にかけてしまう(笑)音楽と対峙して聴く姿勢が出来るという部分はありますね。レコードになることによって、そういう聴き方をしていなかった人達にまた楽しんでもらえたらと思いますね。

ー最後に、既にいくつかの新曲も披露されていますし、コンサートも待ち遠しいファンが多いと思います。冨田ラボとしての今後の活動について、お聞かせ下さい。

あまり具体的には話せることがないんですけどね(笑)ないんですけど、年内には新しい制作を始める予定です。フォーマットをどうしようかも、まだ何も決めてませんけど。今度こそは、そこまで間隔を空けずにリリースと、それに伴うコンサートを行えたらと思います。って本当に毎回言ってますけどね(笑)


取材:2014.04.24
インタビュー・テキスト:Atsushi Tsuji(辻 敦志) @classic0330
Photo by kamiiisaka hajime