和嶋慎治(人間椅子)インタビュー

デビュー25周年・バンド生活25年を迎え、その記念すべき年にニューアルバム「無頼豊饒」をリリースする「人間椅子」。
そのギター/ボーカルの和嶋慎治より、「過去」「現在」「未来」についてのロングインタビューを全4回に渡ってお届け!!PART.2では”人間椅子結成”と”メジャーデビュー”についてお伺いしていきます。

ー”人間椅子”の母体となるバンドで、曲は和嶋さんが?

和嶋:それはね…思い出した!高校の文化祭で前回いったバンドの人たちと、”死ね死ね団”というグループ名で「死ね死ね団のテーマ」ってハードロックの曲をやったんですよ。僕が詞を書いて、曲はそのときの友達と共作で。そのときのベースは鈴木くんで。

ー文化祭の反応って覚えてますか?

和嶋:「ポカーン」ですよ(笑)オリジナル曲だから誰も知らないしね。歌詞はそのときから今の人間椅子っぽかったですね。歌詞に関してですが、曲作りの当初は日常的なことを書いてたんだけど、書いてるうちに詞の書き方のコツを覚えてきて、ちょっと抽象的な詞や非日常的な詞を書くおもしろさに気づいて来た頃ですね。

ーただ、高校の終わりでやっとやりたいことが実現し始めるわけですが、進学も差し掛かってきますよね?

和嶋:そう、本格的に出来なかったの。高校を卒業して上京するんですが、”死ね死ね団”はオリジナル曲をちょっと作っただけで自然消滅ですね。

ー上京されたあとはすぐにバンド活動となるのでしょうか?

和嶋:俺は浪人してて、鈴木くんも浪人して下宿先は違ったんだけど、気が合ったのかそのまま文通してましたね。鈴木くんから「”Black Sabbath”ってすげえ良いよ」ってカセットテープ送られて来て。そういうのもあって、どちらとも言わないまでも「いつかこんなバンドがやれたらね」って感じになったんだね。また浪人してるときの鬱屈した気持ちに合ってたんですよ(笑)

ー(笑)因みにテープには何が収録されてたんですか?

和嶋:鈴木くんが自分で選んだベストみたいな曲だったね。今でもそうだけど、鈴木君は本当にハードロックが好きな、熱心なロックファン。僕はどちらかと言えば広く浅くというか、昭和歌謡を聴いたり長唄を聴いたり、節操がない(笑)。高校の頃は、本を読むのに1番時間を使ったかも。まぁ、それは置いといて(笑)鈴木くんが送ってくれたのを聴いて確かに良いと思って、感動を返事にしたためたら、どんどん送ってくれましたね。別々の大学に行くんですけど、最初はお互いにバンド組もうってほどでもなくて、ただの音楽仲間だったんですよ。お互いにそれぞれの学校で、音楽仲間できてたしね。でも鈴木くんとはそういう交流が続いてたから、「バンドで音を出したい」ってなって、2人の共通点は”ハードロック”だったから「カバーからやろう」ってなって。その流れは自然だったと思うし、俺もそうなんだけど、きっと鈴木くんも同じ学校にハードロック仲間がそんなにいなかったんだろうね。

ー文通が続いていたのは、そういう背景があったんでしょうね。では実際に音合せをされたときは、もちろんハードロックが中心に?

和嶋:そう。”Black Sabbath””Led Zeppelin””Deep Purple””Uriah Heep”とにかくスタンダード・ナンバーをコピーしようって感じだったね。これがまた勉強会か何かのようにね、有名な曲をコピーしましたね。自分の学校では出来ない曲だったから、もちろん楽しかったですね。

ー”死ね死ね団”で志半ばで止まった欲求…東京でバンド活動を再開しよう、またオリジナル曲をやろうというのはこのタイミングですか?

和嶋:そうですね。コピーし出したときにだね。さっきも言ったように、高校の頃からバンドでやれるオリジナル曲を作り出してたんで、そのグループでもちょっとずつやりだしたんですよ。まずはお互いの文化祭で”Black Sabbath”を演りましたね。でも、カバー曲をやる楽しさよりもオリジナル曲をやる楽しさの方がまさったといいますか、いつしかオリジナル曲を増やそうってなりました。

ーここで1つ伺っておきたいのですが、前回”死ね死ね団”のときは進学という節目で終わってしまいましたけど、大学でも就職という節目がありますよね?和嶋さんの中で今回は続けようという意志があったのですか?

和嶋:それがね、多分、俺も鈴木くんもそうだったろうけど「何が何でもプロになりたい」って気持ちではやってなかったように思う。純粋に、ロックを演奏するのが楽しかったんですよ。ハードロックのカバー以降、オリジナル曲を作るでしょ。そこで「自分たちがやりたいのはオリジナルのハードロックだ」ってなって、作る曲もハードロックになっていくわけ。で、やっぱりライブハウスでやりたいねって話になった時に、”死ね死ね団”ってバンド名が東京にあることを知って。

ー全く同じバンド名っていうことですか?

和嶋:そうです。「これはダメだ」ってなったから、ここで”人間椅子”ってバンド名を選ぶんです。ちょっとずつライブハウスのブッキングに潜り込んで、演り始めたのが大学3年生くらいなんですけど、友達しか来ないし、あんまりウケなかったです(笑)それでもオリジナル曲をするってことは「表現してる」って思えたし、面白かったわけ。お互いの文化祭で、すでに「陰獣」とかも4年生のときに演奏してましたね。

ー既にこのタイミングで演奏されてたんですね!

和嶋:そうなんです。周りは”THE BLUE HEARTS””BOØWY””RED WARRIORS”とかのコピーの中で俺らが演ってまた「ポカーン」ですよ。あ、ナゴム系の人たちもちょっとポカーンだったけど(笑)、ハードロックはいなかった。「自分たちは違うことやってる」っていう、何かしら若者ならではの気概もあったね。

ーそれでも「オリジナル曲やる」ということが、和嶋さんの中で周りの反応よりも凌駕されていたんですよね。

和嶋:もちろんウケたら良いですけどね(笑)あるとき、何かのイベントで「陰獣」とか「わたしのややこ」って曲を演ったんだけど…この曲、歌詞があまりにもヤバイからCDに入ってないんですけど(笑)対バンの女の子が俺の前で口ずさんでるんだよね。”森の木陰でドンジャラホイ♪”って。「これは女の子にウケてる」って思って、何かいけるなってそのときしましたね。

ーそれ、すっごい嬉しいバロメーターですね(笑)

和嶋:で、「ここで就職活動するのは勿体無いな」って正直思った。とはいえ鈴木くんは就職活動を始めてましたね。彼は真面目だし、一応そういうルート行こうとしてて。俺は自分の入った学部が特殊なもんで、最初っから就職する気はなくて(笑)ライターとか、業界の人になれれば良いなと思ってました。

ー完全にモラトリアムですね。

和嶋:プータローする気持ちで(笑)当時はバブルが残ってたんで、それでもいけるノリでした。で、バンドは「なんとなく良い感じだぞ」って思ってるときに、御茶ノ水の中古レコード屋さんでロックのレコード探してたら、棚を挟んで向かいでリクルートスーツでレコード探してる人がいて。「うん?」って見たら鈴木くんが探してて。なんかね、そこで運命を感じたんだよね。彼は就職活動の帰りか途中で俺はただ遊んでる状態で(笑)こんな広い東京でさ、ロックなレコード探してる鈴木くんと俺が出会って、「やっぱりこれは、何かやるべきじゃないか」って空気が流れたんだよね。それもあって「バンドやろうか」ってなったんだ。

ーそれはただの偶然かもしれないけど、お互いに運命を感じてという。

和嶋:そうそう。シンクロニシティなことってあるわけですよ。要はそこに”運命を見られるか”で、俺らは運命を見た。多分、鈴木くんはね、俺が見るところの第1志望は落ちてた(笑)他の内定は受かってましたけど。そういう流れもあり、内定決まってたけどもう少しバンドやろうって、彼は内定を蹴ってくれたんだよね。

ーここで、本格的に”人間椅子”としての活動となるんですね。詳しく伺いたいのですが、先程「同一バンド名があって”人間椅子”への改名」とお話頂きました。当時、和製英語的なバンド名が多い中で、”横道坊主””筋肉少女帯””突撃ダンボール”などのバンド名もありましたが、改めてバンド名を日本語とした理由を伺いたいです。

和嶋:まずね、自分たちはハードロック好きだけど、当時流行のビートロック系のバンド名は、なんか違うなと思いました。あんまり言うとあれだけど(笑)ロックの王道からちょっと外れてるなって思ったし。

ー(笑)

和嶋:とにかく人と違うことをやりたかったし、人と同じでは残れると思えなかったんだよね。もちろん、ハードロックやヘヴィメタル的なことやりたいんだけど、英語でやってもムリがあると思ったわけですよ。

ーそれは”表現する”という部分ですか?

和嶋:例えば格好をさ、まず革ジャンっていう風に外人の真似をしても、日本人だから似合わないと思ったし、また似合ってる人が多いとも思えず…。実は歌詞も、最初英語でチャレンジしたこともあったんだけど、全然うまく出来なくて(笑)中学生レベルの英語でやってもダメだなと。そこでうまく表現するには日本語だと思ったわけ。

ー当時の日本でハードロックやメタルといえば”LOUDNESS””44MAGNUM””EARTHSHAKER”など挙げられますが、その方向とは別ですよね?

和嶋:”LOUDNESS”はカッコイイですよ!でも、自分たちはそれじゃないなと。俺が文学的なことが好きだったのもあるし、日本語でそういう詞を書いて表現したいっていうのもあったね。

ー今のコンセプトでもある”和”が定義されるタイミングでもありますね。

和嶋:そうだね。で、バンド名決めるときに、キリスト教の悪魔主義的なところからきてる”Black Sabbath”みたいなバンド名がカッコイイと思ったけど、日本はキリスト教の国ではないし、神と悪魔の争いを描いても説得力がないよね(笑)で、江戸川乱歩が良いと思った。小説のタイトルからつけることで、サブカル的にも文学的にも怖くて面白い感じがして、色んな要素を持てると思って。そこでコンセプトが出来上がったね。

ーコンセプトが決まって、活動される中で”イカ天”への出演がありますが単純な理由を伺いたかったです。

和嶋:それは動員を増やしたかったですし、もっと聴いて欲しかったからですね。鈴木くんと中古レコード屋で会って、「あと1年はバンドやろう」ってなったタイミングでちょうど「イカ天」が始まったんだよ。「これなら出れるかな」って感じがしたし、「広まらない動員が少しは増えるかも」と思ったわけ。

ー結果的に「陰獣」でベスト・コンセプト賞でしたが、そのときどう思われましたか?

和嶋:狙った感じが伝わったと思いましたね。伝わりすぎて、後に「イロモノ」って言われるんですけどね(笑)でも良かったですよ、鈴木くんが”Genesis”のPeter Gabrielを意識してねずみ男の格好でやって、うまい具合に受けたし「文芸ロック」と言われて嬉しかったですね。

ー実際に目論見であった、ライブの動員は増えたんですか?

和嶋:いきなり増えて、テレビの力ってすごいなと思いました。「イカ天」出た次の日に、当時のドラムの上館さんと道を歩いてたら、女の子に「あ、昨日イカ天でてた人間椅子」って言われて。「あぁ、一晩でこうなるんか」と思ってびっくりしましたね。

ー全然知らない人から声を掛けられるわけですもんね。

和嶋:嬉しいというよりも怖い・ヤバイと思ったね。だから急に有名になると、みんな勘違いするんだろうな(笑)危険ですよ、若いうちに有名になると(笑)結果的にデビュー出来ましたし良かったんですけど。

ー先程も少し触れられていましたけど、”イカ天の呪縛”的なことについては?

和嶋:当時、「イカ天」からデビューした人って「ぽっと出」みたいに言われたから、何年後かに「イカ天」を批判的にいう人が、出た人も含めて増えたけどね。俺はそうは言えんなって思いますよ。「知らない人が知ってる」って怖さもあったけど、でもとにかく嬉しかったね、自分のやったことが世の中に受け止めてもらえてるっていうね。

ーデビューから「羅生門」まで、アルバムリリースペースが年1で楽曲制作もハイペースな印象を受けますね。

和嶋:みんなそうだったと思うし、新人はこうじゃなきゃいかんでしょ(笑)ドカンと売れれば、それをやんなくても良いかもしれないけど。それで、俺らは「イカ天」ってことで、最初は多くの人に聴いてもらえたけど、リリースしていくうちに売れなくなっていくんですよね。今思い出したんですけど、何となく重荷のように感じたのはセカンド「桜の森の満開の下」の時ですね。

ー重荷とは”制作すること”にでしょうか?

和嶋:あの…それまではただ好きに曲を作ってれば良かったんだけど、「良くない」とか言われるわけですよ。つまり”評価をされる”と思ったわけ。表現をし続けるっていうのはキツイんだなって。頑張ってやっても「良くないですね」って言われたりするんだなって。

ー世の中に出るときに生じる”痛み”のようなものですよね。さらに「羅生門」では元ピーズの後藤さんにドラムがヘルプとなり、初のメンバー脱退となりましたね。

和嶋:それはね、ハードロックの場合は特にですけど、どうしても弦楽器で曲を作るもんで。言ってみれば”ギターミュージック”だったりするんで。となると、どうしても中心になるのが俺と鈴木くんになってしまうんですよ。

ーバンドのイニシアティブを取ることも含めて?

和嶋:その辺で「ドラムの人に悪いな」と思いながらやってたんですけど。他の人から見たらさ、またこれが中学からの仲間なもんで、相当”強烈な繋がり”に見えると思う。それもあって、最初のドラマーとうまく行かなかったのかなと。ヘルプで後藤くんが入ってくれたのは、このときの最善の選択かもしれないね。だから、その後のドラマーは僕と鈴木くんの関係を分かって入ってくれてる人だね。

ーそしてメルダックの契約終了後、再びインディーズでの活動へと。

和嶋:はい、なって行くんです。ここからがまた歴史が長いんですけど(笑)

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