シアターブルック インタビュー

1986年に佐藤タイジ(Vo,Gt)が結成、95年メジャーデビュー。95年に中條卓(Ba)、96年にエマーソン北村(Key)、97年に沼澤尚(Dr)が参加し、様々な遍歴を経て、日本屈指の上記メンバーを擁したバンドとなる。
独占インタビューPART.1では現メンバーの成り立ちについてお送りします。

ーシアターブルックの現メンバーで成り立ちからお伺いしたいのですが、結成28年、来年でデビュー20週年とロックバンドの歴史として、すごく深いですよね。

タイジ:そうなんよ、来年の年越しに何かやるべきじゃないかって話してて。

エマーソン北村:東京ドーム?

一同:(笑)

タイジ:辺りでね(笑)

エマーソン北村:水道橋の歩道橋辺り…歩道橋の橋の下音楽祭みたいな(笑)

タイジ:ウチは長いよ。結成は”THE COLLECTORS”と一緒だよ(笑)

ーその結成からのメンバーであるタイジさんは、今のシアターブルックを想像できてました?

タイジ:出来るわけないっスよ(笑)今のメンバーで1番長いのは中條さんで94年くらい?

中條:95年だね。94年はお手伝い的な感じだったよ。

ータイジさんと中條さんは当時から顔見知りではあったんですか?

タイジ:対バンでね、”KING BEES”の人だったね。

中條:直接の友達ではなかったけど、昔の新宿ロフトで対バン演ってたのが最初。当時のキーボーティストの若林くんがシアターブルックやりながら、ボクのバンドも手伝ってくれてた繋がりがあって。

タイジ:そうそう。対バンで「やっぱあの人上手いよね」って言ってたし。

エマーソン北村:当時のライブハウスってそういうの多いよね。

タイジ:そうっスね。で、オレから声を掛けてね。

ー中條さんはタイジさんから言われたとき、どう思いました?

中條:びっくりしましたよ。対バンになることはあっても、さっき言ったように”友達”って感じではないし、そこまで接点はなかったので。「目立つアフロの人のバンド」っていう印象だったし、ちょっと近寄りがたいなって。

タイジ:中條さんもそうでしたけどね(笑)長髪で髭生やしてハット被ってて。

ーお互いに存在感は強いっていうことですよね(笑)

タイジ:そうやな(笑)で、”KING BEES”がちょうど休止になったんだよ。その噂を聞いて「よし、あのベースの人は空いてるに違いない」って。

一同:(笑)

ータイミングとしてはばっちりだったんですね。

中條:そうですね。休みのタイミングで連絡があって、それから今に至る感じです。

タイジ:で、ソニーと契約するときにヘルプからメンバーになってもらって。バンドでやってるのにソニー以外のレーベルは「佐藤タイジとしか契約しない」っていうケースが多くてさ。

エマーソン北村:そういうの多いよね…

沼澤:「周りいらないから君だけ」っていうのね。

タイジ:多いでしょ?今でもそういうのあるだろうけど「バンドでやってるんだから、そんな不公平な話はないだろう」って。ソニーだけがメンバーと契約って言ってくれたからね。

ーそこでデビュー時のメンバーに中條さんと。その後にエマーソン北村さん?

タイジ:当時のキーボーティストが調子悪くなって、割りと唐突に離脱したんだよね。こっちは「ヤベェ、ライブのスケジュールあるのに」って、結構テンパって…エマーソン北村を候補に挙げたのは中村(当時のエピックA&R)くんだったよね?

中條:そうそう。

タイジ:エマーソン北村って、当時から「オルガンですごい人」って代チョコ(代々木チョコレートシティ)界隈で有名だったんですよ。「エマーソン北村がやってくれるかな?」って。

エマーソン北村:中村さんだっけ?中條くんって思ってたけど…

中條:候補に挙げたのは中村さんですよ。「エマーソン北村って人がいるんだけど」って言われて「えっ、昔一緒に演ったことある」って話になって繋げたんですよ。

エマーソン北村:僕と中條くんは古いんですよ。

中條:87,88年くらいに僕がやってた”KING BEES”に北村さんがキーボードで入ってくれてて。

ー”JAGATARA”や”MUTE BEAT”の時期ですか?

エマーソン北村:より、もっと前ですね。”パラフレーズ”ってバンドをやってるときですね。

中條:そのとき、やっぱり対バンしてたっていう繋がりですね。

タイジ:オレらからしたら「エマーソン北村やってくれるんだ」って感じでしたよ。

エマーソン北村:いやいやいや。当時の僕は”JAGATARA”や”MUTE BEAT”が90年代の初めに終わったあと、代チョコの店員だったんですね。そこで運営していたナツメグレーベルにも関わってたんですけど、それも94年くらいに終わるんです。それから”忌野清志郎&the 2・3’s”のツアーサポートに入ってて、それも終わるタイミングで、どういう人か全く知らないままに「急に必要」ってことだったので入ったんです。

ー先程の中條さんのお話でもそうでしたがタイミング的に…

エマーソン北村:そうですね。変な言い方だけど、当時のキーボードの人が戻ってくるまでのつもりでしたし、戻ってきたらそれまでというのが始まりでしたね。

ー中條さんのときはメジャーデビューのタイミングでしたが、エマーソン北村さんが正式にメンバーとなったのは?

タイジ:公に打ったのは2000年くらいだったね。元々のキーボードが状態的に戻ってこれないってわかったのはもうちょっと前だけど。

エマーソン北村:エピック時代はサポートとして表記をしていて、それが終わったあとからですね。

ー明示的に”メンバー”と示したのがあとだったにせよ、実際のレコーディングやライブにおいては、バンドとして”サポート”という括りではなかったんですよね?

タイジ:そうそう。全然メンバーとしてフィックスしてたね。

ー沼澤さんついては、タイジさんが直接お電話したと以前に伺いました。

タイジ:そう、直電ですよ(笑)ギターマガジンに電話して「ドラムマガジンのヤツ居るか?」って聞いて、ドラムマガジンのヤツに「沼澤尚の電話番号知ってるか?」って聞いて「知ってますよ」と。

沼澤:実家のね(笑)母親と話してるんじゃないかな?

タイジ:「もしもし、佐藤と申します。尚さんにお願いしたい件がありまして…」みたいな(笑)

沼澤:オレ、そのときいないからね(笑)最初はタイジくんとじゃなく、ラッコちゃん(三嶋光博)と話したんだよね。

タイジ:それって、バンドじゃない話でしょ?沼澤さんに「シアターブルックっていうバンドやりませんか?」って話したのを覚えてますよ。

沼澤:カヨちゃん(当時のマネージャー)からすごい手紙が来たのを覚えてるよ、「メンバーには内緒でドラムを探してます」って書いてあって。

中條:「沼澤さんが良いんじゃないか」って話をし出したときに、カヨちゃんが先に手紙を出してお伺いを立ててたんだよね。

タイジ:時系列で言うとカヨちゃんが先でオレが後か…

沼澤:「TALISMAN」のプロモーションキットもすごかったよ。当時、外人バンドとブルーノートに来てて、オレのクルマで送られてきたCDを聴いたら、バンドのベースのヤツが「日本ってこんなカッコイイ音楽やって売れるんだ!」って言ってて。そのときのCDが「TALISMAN」だったね。

ー当時、沼澤さんはアメリカでの活動がメインで、日本の音楽情報って入って来なかったんですか?

沼澤:全然知らない。でもシアターブルックっていうバンド名は知ってたんですよ。「ありったけの愛」のパーカッションをやった田中倫明さんが知り合いで、「シアターブルックってバンドの(当時の)ドラマーが、尚にレッスンして欲しいって言うから電話番号教えても良い?」って言われて。それでラッコちゃんから電話が来たんだよね。あと「ドレッドライダー」のPVを何かの番組で観て「うわっカッコイイ」って思ったしね。そのあとにカヨちゃんからライブを観に来てくれないかって言われて、早稲田の学祭を隠れて観に行ったんですよ。

タイジ:あれ、それ知ってるな。

中條:あとから聞いたんだよ。

沼澤:「メンバーに言ってないから、会わないでくれ」って言われたもん。オレが会ったのは、ラッコちゃんが辞めるってなったあとの赤坂ブリッツだったの。みんなに「初めまして」って言ったのがそこだったね。超満員のワンマンで1曲目の「ドレッドライダー」のイントロが4つ打ちで始まって、ダンサーが花道で踊ってたのをすごい覚えてる。

ーこの一連の流れでお話があって、沼澤さんの気持ちはどうだったんですか?

沼澤:まずタイジくんにどうしても目が行っちゃうじゃないですか?「このギターすごいな」って。アメリカでもこんな人いないですよ。例えばロサンゼルスって仕事をする場所で、そのときに重宝されるプレイや音色で生き延びないといけない。ニューヨークは自分の表現したいことをするために普段はバイトしててみたいな。それらのスタイルとは全く違うシアターブルックを観て「日本はこんなことやれるんだ」って。そう言えば、1曲レコーディングするのに飛行機乗って、1泊2日でロスに帰ったりしてましたね。

タイジ:外タレや(笑)

沼澤:(笑)シアターブルックもPV撮るのにメキシコ行ったりとか、お互いにそういう時代でしたよね。

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