和嶋慎治(人間椅子)インタビュー

デビュー25周年・バンド生活25年を迎え、その記念すべき年にニューアルバム「無頼豊饒」をリリースする「人間椅子」。
そのギター/ボーカルの和嶋慎治より、「過去」「現在」「未来」についてのロングインタビューを全4回に渡ってお届け!!PART.1では”ロックとの出会い”と”鈴木研一との出会い”についてお伺いしていきます。

 

ー今日は記念すべき”ロックの日”なんですよ。

和嶋:あぁそうだ、6月9日だ。(※インタビュー日が6月9日)昔、「SR400」っていうバイク乗ってて、そのときのナンバーが”69″でしたよ。

ーおぉ!

和嶋:「これはカッコイイ」って思って。当時は自分でナンバー選択が出来ない時代だから、その偶然も含めて良かったですね。

ーいきなり素敵なエピソードをありがとうございます!では、和嶋さんとロックとの出会いからお伺いさせて頂きたいです。

和嶋:”洋楽に目覚めた”っていう意味でいうなら…小学生のときですね。当時、テレビとかで流れてくる歌謡曲を聴いて「音楽ってこういうものか」って思っていたんですけど(笑)その頃5歳年上の姉貴が思春期で、俺は小学生なんです。で、”アリス”とか”荒井由実”とかのレコードを友達から借りて来てたんですけど、あるとき”THE BEATLES”の「Abbey Road」を家に持って来たんですよ。「いきなり最後のアルバムかよ」って話ですけどね(笑)それを聴いて「これは良い」って衝撃を受けたんです。

ー小学生って早いタイミングですね。因みにその衝撃は”メロディー”なのか”サウンド”なのかで言うと?

和嶋:それまで聴いたことないサウンドな感じがしたんだよね。あ、その前に親戚がクラシック好きだったりしたので、”チャイコフスキー”が良いと思ってテープに録音して聴いたりもしてたけど「あ、ホントに良いな」と思って聴いたのはやっぱり”THE BEATLES”でしたね。バンドというか、日本の音楽より洋楽が良いと思ったんだね。少し話を遡ると、自分で最初に買ったレコードはディスコだったんだけどね。小学校4年生くらいのときに流行ってた、「ソウルドラキュラ」って曲が最初に買ったレコード。

ーやっぱりいつの時代もそういう流行りがありますよね(笑)さっきお話頂いたと日本の歌謡曲と”THE BEATLES”との圧倒的な差は何だったんでしょうか?

和嶋:曲の斬新さかな。あとになって分析できたことだけど‥‥ざっくりいうなら、日本のポップスっていうのはフォークミュージックから来て、ニューミュージックに繋がってっていう流れじゃないでしょうか。ユーミンはすごく高度でしたけど、循環コードというか割りと決まったコードの中でやっている感じが、歌謡曲にしろ、当時の音楽ではあって。それに比べて”THE BEATLES”の曲はコード進行がすごく斬新で、メロディがすごく良いと思った。もちろん、みんな少なからず影響を受けていたんだろうけど、当時の僕の耳には聴いたことのない音楽に感じましたね。曲が完成されていると思ったし。

ー洋楽の入り口がたまたま”THE BEATLES”だったと。

和嶋:それからお小遣いを貯めて買うようになりました。期待して買った「LET IT BE」は「演奏ガチャガチャしてる」って思ったりね(笑)順番が後期から買っていっちゃったもんで。中期とか聴くと「あ、すごく良いな」と思いましたね。「Rubber Soul」「Revolver」辺り。だから日本の音楽を買わなかったね。そうしてると今度は、姉貴が”Deep Purple”の「Machine Head」を借りてきて。ここで「すごい、また全然違う」と思ってハードロックが良いと思ったね。

ーリフが強調される音楽は”Deep Purple”が最初だったんですね。

和嶋:そう、中学校1年生かな。「BURN」とかも聴いて、バンドがカッコイイと思ったね。

ーギターというよりはバンド?

和嶋:そうなんです。その流れで自分でもハードロックのレコードを買い始めて、中学校入ると多少ロックの話ができる友達ができる中で「Led Zeppelin IV」を買ったんですよね。「Black Dog」を聴いたときの衝撃…”悪魔の音楽”だと思いましたね。また当時、サウンドストリートっていうNHKの番組があって、渋谷陽一さんがとにかく「Zeppelinはすごい」って言うもんだからさ。それに比べて”Deep Purple”はケチョンケチョンに言うわけですよ(笑)「俺はカッコイイと思ってたのに、こんなにダメって言われるんだ」って。確かにZeppelinは、明らかにほかと違うんですけどね。それまでのハードロック形式を壊してる感じがしたんだよね。

ー例えば曲の展開や音色の使い方ですか?

和嶋:そうそう。リズムとかも異常な感じがして。Jimmy Pageのギターを聴いてエレキ・ギター弾こうと思いました。

ーあ、ということは楽器自体に触れられたのは中学校のときになるんですか?

和嶋:その辺がね、前後するんだけど…楽器を弾きたいと思ったのは小学生の頃で、また姉貴なんですけどお下がりのガット・ギターを弾いてたんです。

ーお姉さんもギターを弾かれてたんですね。

和嶋:姉貴はユーミンとかのニューミュージックが好きだからフォーク・ギターが弾きたかったんですよ。でも親に買ってもらったのが何故かガット・ギターで(笑)「私が欲しいのはこんなんじゃない」って弾かなくて。じゃあ弾かないんだったらって僕が弾くようになって。確か、ガットにフォークの弦を張ったりしたのかな。それでなんとなく弾いてたけど、そんなに練習はしてなかったね。「”THE BEATLES”の曲はどうなってるんだろう?」って教本とかもなく、ただなぞってみたりしたんだよ。

ー耳コピに近いこと?

和嶋:そうそう。「なんか違うな」と思いながら「Day Tripper」弾いてみたりして。そのあとにさっき話した通り”Deep Purple”を聴いてバンドに衝撃を受けたものの、申し訳ないことにRitchie Blackmoreのギターに心が震えず、すぐにエレキ・ギターってならなかったんだよね(笑)但し、ベース・ギターなら弾ける感じがして、最初に頑張って買ってみたのは実はベース・ギターだったんですよね。

ーそうだったんですね!

和嶋:ちょっと変わってますけど(笑)それでベースで「Smoke on the Water」とかコピーしてた。コードとか覚えずに、とにかく弾いてみたくて。それから何となく音が拾えるようになってきたときに、”LED ZEPPELIN”に出会ったのが中学1年くらいで順番がヘンテコなんです。

ー(笑)そこでの「Black Dog」やJimmy Pageは和嶋さんにとって余程の衝撃だったんですね。

和嶋:やっぱエレキだなって思いました。それで友達のお兄さんが何本か持っていたので、レスポールのコピーモデルを1本譲ってもらったんですよ。それから”LED ZEPPELIN”のコピーしたね…相当、コピーしたね。

ー当時、特に印象に残っている曲を教えて欲しいです。

和嶋:やっぱ「天国への階段」に感動したんで、まずこれを弾きたいなって。雑誌に載ってる「天国への階段」のコピー譜を見つけて、3ヶ月位掛かってコピーしましたね。それが良かったよ。アルペジオにギターソロも覚えたし、取り敢えずコードも覚えられたからね。

ー今のお話を伺うと和嶋さんにとって”LED ZEPPELIN”はエレキ・ギターの教科書ですよね。

和嶋:そうかもしれないですね、「Led Zeppelin IV」はそうかも。

ーそのコピーをされている中で、音楽的な広がりはあったのでしょうか?

和嶋:それがね、エレキがある程度弾けるようになったんだけど、中学生なのでそんなにレコード買えずに、友達と貸し借りしてたんです。その頃にパンク・ロックとか出てきたんだけど全然良いと思わなかったんだよね。パンク聴いて「ロック終わった」って思ったもん。

ーそれは演奏というより、ファッションや歌詞などのメッセージ性が全面に出ているものに心が動かなかったと?

和嶋:全然コピーしたいと思わなかった。子供のときの印象だから、今正直に言って良いと思うけど、本当に良いと思わなかった。俺はその頃に友達との貸し借りで”King Crimson”とかも聴いて衝撃を受けたしね。そういうの聴いてた中でパンクが出てきたから、ロック終わったと思うよね。そしたら、パンクの音楽は「ロックは死んだ」って(笑)「パンクが言ってることと、俺の感想が同じだった」って思った。当時、”Van Halen”もデビューしてたから、何となくタッピングの練習もしましたし、パンクとは方向が全然違うんですよね。1日8時間とか練習してたしね。夏休みとかも、ずっと練習で晩御飯食べてからギター弾いて気がついたら夜が明けてたっていう(笑)

ー(笑)1番練習されたタイミング?

和嶋:そうだね。で、人と合わせたくなるんだけどクラスメイトに弾けるヤツいなかったんで、よそのクラスで「ベース・ギター持ってるヤツいる」って聞くとなんとか友達になって。全然初対面なのに「ちょっと合わせようよ」って家に押しかけたりして。例えば俺が”Jeff Beck”の曲を弾いて、無理やりベースを合わせさせて録音した音源を校内放送で流してとかやってましたね。僕の情熱が強過ぎたせいか、そのあと一緒に演ってくれないという (笑)次に「合わせよう」って言っても、中々「うん」とは言ってくれなかったですね。それで自分の中学校だと限界を感じまして。やっぱりね、ハードロックを知ってる人がそんないなかったんだよ。当時は長渕剛・松山千春とか、”CHAGE and ASKA”もデビューしてたかな。

ーフォーク以降のニューミュージックですよね。

和嶋:ニューミュージックの、さらにフォーク的なモノが流行ってたときだね。みんなギターを買ったとしても、そっちばっかりコピーするからエレキやる人いなくて。そういう限界を感じてる中、小学校の共通の友人を通じて、隣の中学校で「ロック鑑賞会」をやってるというのを聞いて。それは週末になると、誰かの家に集まってロックを聴くっていう集まりなんですけど「あ、俺行く行く」って言って。で、その中に鈴木くんがいて知り合いになるんです。

ー出会いはここだったんですね。

和嶋:そうそう。そこでエレキも弾いて、そこ行くと楽器弾ける友達もいたので何となく音合わせたりしたときでしたね。

ー”パンクで終わったロック”が隣の中学校に行くことで、やっとロックの世界が広がっていったんですね。

和嶋:そこで”SANTANA”とかも知ったしね。その中では「バンド組もう」とかはならず、聴く仲間って感じでしたね。結局、高校受験とかもあったし、バンドまで行き着かなかったですね。で、高校に入ると鈴木くんが同じ高校の隣のクラスにいたわけ。あ、エピソードを思い出した。鈴木くんの筆箱みたら、血だらけの”Ozzy Osbourne”の写真を貼ってて(笑)相変わらず鈴木くんはロックが好きなんだって思いましたね。

ーそんな人いない(笑)

和嶋:嬉しかったですよ(笑)高校入ったら、いろんな中学から来た人たちがいるからロック好きな人も俄然増えるわけですよ。そこでようやく同じ学年の仲間でバンドを組みましたね。まず最初に入ったのは、同じクラスのヤツを通じて他所の高校の人たちとの合体バンド。まず音を出したかったからなんだけど…何故か”オフコース”のコピーバンドでした。

ーあれ(笑)でも和嶋さんギターですよね?

和嶋:自分の知らないジャンルに興味もあったし、とにかく音が出したかったんです(笑)ただ、ベースがいないって言われて俺はベースだったんです。そのグループの中で、僭越ながらおそらく俺が1番ギターがうまかったんですけど、ベース弾くヤツがいないって言うんで。僕は割りと親切なんですよ(笑)

ー親切というか優しさですよね(笑)とはいえバンドとして続けていくんですか?

和嶋:半年くらいで脱退しました(笑)やっぱ「自分がやりたいのとは違うな」って思って。でも人前で演奏も出来ましたし、楽しかったですよ。

ーもしかして、それって初ステージですよね?

和嶋:あ、そういう意味では初ステージだ。ライブハウスっていうより貸し切れる小さいハコがあって、そこでお客さんにチケット売ってやりましたね。「Yes-No」とか「さよなら」とか演ってた(笑)今にして思えば緊張はしなかったですね。やっぱカバーバンドって緊張しないんだね。

ー知ってる曲だという安心感もあるかもしれないですね。

和嶋:そうだね。そのバンドは半年でしたけど、楽曲の仕組みとか覚えられましたし、勉強になりましたよ。それを辞めてからは掛け持ちで色々組みましたね。”Rolling Stones”のコピーバンドや”RCサクセション”とか。とにかくギターを弾こうと思いましたね。

ーギターは弾くのになぜハードロックは演らなかったんですか?

和嶋:ハードロックが主流じゃなかったからです。ティーンエイジャーですからウケたいわけで、流行ってる曲を演るんですよね(笑)でも良かったですよ。同じ高校の人と組んだバンドで、ライブハウスとか出れましたしね。

ーなるほど。バンド活動はスタートしたものの、コピーが中心ですけど、オリジナルについての欲求は和嶋さんの中になかったのでしょうか?

和嶋:”作る”って意味では、中学3年のときに既に曲は作り出してたんですけどね。最初、ロックがカッコイイと思ったからリフで作ったよ(笑)曲とは言えないけどね。それでコードを知らない限界を感じて。で、コードをボチボチ覚える中で、中学3年の終わり頃に始めて作った曲は「女なんて」って曲なんです(笑)「人間なんて」みたいですけど、僕が振られたんだね(笑)その持って行き場のない気持ちをね、曲にしてみたんですね。

ー男の女々しさ満載ですね(笑)

和嶋:詞もすぐ出来ましたよ(笑)「なんだ、女性なんて…ひどいよ、言ってることと違うじゃない」って素朴な歌詞です(笑)で、高校生になって質屋からフォーク・ギターを買ってきて、バンドとは別にオリジナル曲を作り始めたんです。

ーしかもエレキではなく、フォークなのが意外ですね。

和嶋:曲を量産したのはフォーク・ギターですね。そうだ、曲作ったね…自分の日記を書く感じなんだよね。人前で歌う機会があるわけでもなく、思春期の頃に作る人はみんなそうみたいだけど、ノートに詩と曲を4、50曲くらい。学校から帰ってきたら、その印象のままに作るっていうのを高校1・2年はよくやってましたね。

ー単純に楽しかったんでしょうね。

和嶋:楽しかった。例えば人を好きになると、その人の名前ですぐ曲が作れるし(笑)隣の高校に曲作り仲間がバンドとは別でいて曲の発表会をしたりしたね。割りとテンションの音を使うのは俺で、マイナーコードで5度・6度みたいな進行をすると絶賛されたりね。お互いにコードの使い方を覚えたりしてそれも楽しかったですね。

ーバンドの演奏と曲を作る場所がバラバラという”歪さ”みたいなものは感じなかったんですか?

和嶋:う~ん…何故かコピーバンド演る人は曲を作らないのね。コピーで完結してる感じ。まぁそうやってる内に、段々オリジナルで作る曲がバンドサウンドに近づいて行くわけですよ。当時、多重録音する友達もいたりして、ギターもベースも入れてくとバンドっぽくなっていくしね。その交友関係の流れで掛け持ちして入った、佐野元春のコピーバンドのメンバーに鈴木くんがいたのね。そのバンドで初めて「オリジナル曲を演ろう」ってなったんですよ。その佐野元春バンドはやたらメンバーが多かったんですけど、中には佐野元春で飽きたらない派閥も出てきて(笑)その仲間だけでオリジナル演るようになりましたね。高校3年の頃かな。最終的にはその人達が”人間椅子”の母体になるんです。

デビュー25周年・バンド生活25年を迎え、その記念すべき年にニューアルバム「無頼豊饒」をリリースする「人間椅子」。
そのギター/ボーカルの和嶋慎治より、「過去」「現在」「未来」についてのロングインタビューを全4回に渡ってお届け!!PART.2では”人間椅子結成”と”メジャーデビュー”についてお伺いしていきます。

ー”人間椅子”の母体となるバンドで、曲は和嶋さんが?

和嶋:それはね…思い出した!高校の文化祭で前回いったバンドの人たちと、”死ね死ね団”というグループ名で「死ね死ね団のテーマ」ってハードロックの曲をやったんですよ。僕が詞を書いて、曲はそのときの友達と共作で。そのときのベースは鈴木くんで。

ー文化祭の反応って覚えてますか?

和嶋:「ポカーン」ですよ(笑)オリジナル曲だから誰も知らないしね。歌詞はそのときから今の人間椅子っぽかったですね。歌詞に関してですが、曲作りの当初は日常的なことを書いてたんだけど、書いてるうちに詞の書き方のコツを覚えてきて、ちょっと抽象的な詞や非日常的な詞を書くおもしろさに気づいて来た頃ですね。

ーただ、高校の終わりでやっとやりたいことが実現し始めるわけですが、進学も差し掛かってきますよね?

和嶋:そう、本格的に出来なかったの。高校を卒業して上京するんですが、”死ね死ね団”はオリジナル曲をちょっと作っただけで自然消滅ですね。

ー上京されたあとはすぐにバンド活動となるのでしょうか?

和嶋:俺は浪人してて、鈴木くんも浪人して下宿先は違ったんだけど、気が合ったのかそのまま文通してましたね。鈴木くんから「”Black Sabbath”ってすげえ良いよ」ってカセットテープ送られて来て。そういうのもあって、どちらとも言わないまでも「いつかこんなバンドがやれたらね」って感じになったんだね。また浪人してるときの鬱屈した気持ちに合ってたんですよ(笑)

ー(笑)因みにテープには何が収録されてたんですか?

和嶋:鈴木くんが自分で選んだベストみたいな曲だったね。今でもそうだけど、鈴木君は本当にハードロックが好きな、熱心なロックファン。僕はどちらかと言えば広く浅くというか、昭和歌謡を聴いたり長唄を聴いたり、節操がない(笑)。高校の頃は、本を読むのに1番時間を使ったかも。まぁ、それは置いといて(笑)鈴木くんが送ってくれたのを聴いて確かに良いと思って、感動を返事にしたためたら、どんどん送ってくれましたね。別々の大学に行くんですけど、最初はお互いにバンド組もうってほどでもなくて、ただの音楽仲間だったんですよ。お互いにそれぞれの学校で、音楽仲間できてたしね。でも鈴木くんとはそういう交流が続いてたから、「バンドで音を出したい」ってなって、2人の共通点は”ハードロック”だったから「カバーからやろう」ってなって。その流れは自然だったと思うし、俺もそうなんだけど、きっと鈴木くんも同じ学校にハードロック仲間がそんなにいなかったんだろうね。

ー文通が続いていたのは、そういう背景があったんでしょうね。では実際に音合せをされたときは、もちろんハードロックが中心に?

和嶋:そう。”Black Sabbath””Led Zeppelin””Deep Purple””Uriah Heep”とにかくスタンダード・ナンバーをコピーしようって感じだったね。これがまた勉強会か何かのようにね、有名な曲をコピーしましたね。自分の学校では出来ない曲だったから、もちろん楽しかったですね。

ー”死ね死ね団”で志半ばで止まった欲求…東京でバンド活動を再開しよう、またオリジナル曲をやろうというのはこのタイミングですか?

和嶋:そうですね。コピーし出したときにだね。さっきも言ったように、高校の頃からバンドでやれるオリジナル曲を作り出してたんで、そのグループでもちょっとずつやりだしたんですよ。まずはお互いの文化祭で”Black Sabbath”を演りましたね。でも、カバー曲をやる楽しさよりもオリジナル曲をやる楽しさの方がまさったといいますか、いつしかオリジナル曲を増やそうってなりました。

ーここで1つ伺っておきたいのですが、前回”死ね死ね団”のときは進学という節目で終わってしまいましたけど、大学でも就職という節目がありますよね?和嶋さんの中で今回は続けようという意志があったのですか?

和嶋:それがね、多分、俺も鈴木くんもそうだったろうけど「何が何でもプロになりたい」って気持ちではやってなかったように思う。純粋に、ロックを演奏するのが楽しかったんですよ。ハードロックのカバー以降、オリジナル曲を作るでしょ。そこで「自分たちがやりたいのはオリジナルのハードロックだ」ってなって、作る曲もハードロックになっていくわけ。で、やっぱりライブハウスでやりたいねって話になった時に、”死ね死ね団”ってバンド名が東京にあることを知って。

ー全く同じバンド名っていうことですか?

和嶋:そうです。「これはダメだ」ってなったから、ここで”人間椅子”ってバンド名を選ぶんです。ちょっとずつライブハウスのブッキングに潜り込んで、演り始めたのが大学3年生くらいなんですけど、友達しか来ないし、あんまりウケなかったです(笑)それでもオリジナル曲をするってことは「表現してる」って思えたし、面白かったわけ。お互いの文化祭で、すでに「陰獣」とかも4年生のときに演奏してましたね。

ー既にこのタイミングで演奏されてたんですね!

和嶋:そうなんです。周りは”THE BLUE HEARTS””BOØWY””RED WARRIORS”とかのコピーの中で俺らが演ってまた「ポカーン」ですよ。あ、ナゴム系の人たちもちょっとポカーンだったけど(笑)、ハードロックはいなかった。「自分たちは違うことやってる」っていう、何かしら若者ならではの気概もあったね。

ーそれでも「オリジナル曲やる」ということが、和嶋さんの中で周りの反応よりも凌駕されていたんですよね。

和嶋:もちろんウケたら良いですけどね(笑)あるとき、何かのイベントで「陰獣」とか「わたしのややこ」って曲を演ったんだけど…この曲、歌詞があまりにもヤバイからCDに入ってないんですけど(笑)対バンの女の子が俺の前で口ずさんでるんだよね。”森の木陰でドンジャラホイ♪”って。「これは女の子にウケてる」って思って、何かいけるなってそのときしましたね。

ーそれ、すっごい嬉しいバロメーターですね(笑)

和嶋:で、「ここで就職活動するのは勿体無いな」って正直思った。とはいえ鈴木くんは就職活動を始めてましたね。彼は真面目だし、一応そういうルート行こうとしてて。俺は自分の入った学部が特殊なもんで、最初っから就職する気はなくて(笑)ライターとか、業界の人になれれば良いなと思ってました。

ー完全にモラトリアムですね。

和嶋:プータローする気持ちで(笑)当時はバブルが残ってたんで、それでもいけるノリでした。で、バンドは「なんとなく良い感じだぞ」って思ってるときに、御茶ノ水の中古レコード屋さんでロックのレコード探してたら、棚を挟んで向かいでリクルートスーツでレコード探してる人がいて。「うん?」って見たら鈴木くんが探してて。なんかね、そこで運命を感じたんだよね。彼は就職活動の帰りか途中で俺はただ遊んでる状態で(笑)こんな広い東京でさ、ロックなレコード探してる鈴木くんと俺が出会って、「やっぱりこれは、何かやるべきじゃないか」って空気が流れたんだよね。それもあって「バンドやろうか」ってなったんだ。

ーそれはただの偶然かもしれないけど、お互いに運命を感じてという。

和嶋:そうそう。シンクロニシティなことってあるわけですよ。要はそこに”運命を見られるか”で、俺らは運命を見た。多分、鈴木くんはね、俺が見るところの第1志望は落ちてた(笑)他の内定は受かってましたけど。そういう流れもあり、内定決まってたけどもう少しバンドやろうって、彼は内定を蹴ってくれたんだよね。

ーここで、本格的に”人間椅子”としての活動となるんですね。詳しく伺いたいのですが、先程「同一バンド名があって”人間椅子”への改名」とお話頂きました。当時、和製英語的なバンド名が多い中で、”横道坊主””筋肉少女帯””突撃ダンボール”などのバンド名もありましたが、改めてバンド名を日本語とした理由を伺いたいです。

和嶋:まずね、自分たちはハードロック好きだけど、当時流行のビートロック系のバンド名は、なんか違うなと思いました。あんまり言うとあれだけど(笑)ロックの王道からちょっと外れてるなって思ったし。

ー(笑)

和嶋:とにかく人と違うことをやりたかったし、人と同じでは残れると思えなかったんだよね。もちろん、ハードロックやヘヴィメタル的なことやりたいんだけど、英語でやってもムリがあると思ったわけですよ。

ーそれは”表現する”という部分ですか?

和嶋:例えば格好をさ、まず革ジャンっていう風に外人の真似をしても、日本人だから似合わないと思ったし、また似合ってる人が多いとも思えず…。実は歌詞も、最初英語でチャレンジしたこともあったんだけど、全然うまく出来なくて(笑)中学生レベルの英語でやってもダメだなと。そこでうまく表現するには日本語だと思ったわけ。

ー当時の日本でハードロックやメタルといえば”LOUDNESS””44MAGNUM””EARTHSHAKER”など挙げられますが、その方向とは別ですよね?

和嶋:”LOUDNESS”はカッコイイですよ!でも、自分たちはそれじゃないなと。俺が文学的なことが好きだったのもあるし、日本語でそういう詞を書いて表現したいっていうのもあったね。

ー今のコンセプトでもある”和”が定義されるタイミングでもありますね。

和嶋:そうだね。で、バンド名決めるときに、キリスト教の悪魔主義的なところからきてる”Black Sabbath”みたいなバンド名がカッコイイと思ったけど、日本はキリスト教の国ではないし、神と悪魔の争いを描いても説得力がないよね(笑)で、江戸川乱歩が良いと思った。小説のタイトルからつけることで、サブカル的にも文学的にも怖くて面白い感じがして、色んな要素を持てると思って。そこでコンセプトが出来上がったね。

ーコンセプトが決まって、活動される中で”イカ天”への出演がありますが単純な理由を伺いたかったです。

和嶋:それは動員を増やしたかったですし、もっと聴いて欲しかったからですね。鈴木くんと中古レコード屋で会って、「あと1年はバンドやろう」ってなったタイミングでちょうど「イカ天」が始まったんだよ。「これなら出れるかな」って感じがしたし、「広まらない動員が少しは増えるかも」と思ったわけ。

ー結果的に「陰獣」でベスト・コンセプト賞でしたが、そのときどう思われましたか?

和嶋:狙った感じが伝わったと思いましたね。伝わりすぎて、後に「イロモノ」って言われるんですけどね(笑)でも良かったですよ、鈴木くんが”Genesis”のPeter Gabrielを意識してねずみ男の格好でやって、うまい具合に受けたし「文芸ロック」と言われて嬉しかったですね。

ー実際に目論見であった、ライブの動員は増えたんですか?

和嶋:いきなり増えて、テレビの力ってすごいなと思いました。「イカ天」出た次の日に、当時のドラムの上館さんと道を歩いてたら、女の子に「あ、昨日イカ天でてた人間椅子」って言われて。「あぁ、一晩でこうなるんか」と思ってびっくりしましたね。

ー全然知らない人から声を掛けられるわけですもんね。

和嶋:嬉しいというよりも怖い・ヤバイと思ったね。だから急に有名になると、みんな勘違いするんだろうな(笑)危険ですよ、若いうちに有名になると(笑)結果的にデビュー出来ましたし良かったんですけど。

ー先程も少し触れられていましたけど、”イカ天の呪縛”的なことについては?

和嶋:当時、「イカ天」からデビューした人って「ぽっと出」みたいに言われたから、何年後かに「イカ天」を批判的にいう人が、出た人も含めて増えたけどね。俺はそうは言えんなって思いますよ。「知らない人が知ってる」って怖さもあったけど、でもとにかく嬉しかったね、自分のやったことが世の中に受け止めてもらえてるっていうね。

ーデビューから「羅生門」まで、アルバムリリースペースが年1で楽曲制作もハイペースな印象を受けますね。

和嶋:みんなそうだったと思うし、新人はこうじゃなきゃいかんでしょ(笑)ドカンと売れれば、それをやんなくても良いかもしれないけど。それで、俺らは「イカ天」ってことで、最初は多くの人に聴いてもらえたけど、リリースしていくうちに売れなくなっていくんですよね。今思い出したんですけど、何となく重荷のように感じたのはセカンド「桜の森の満開の下」の時ですね。

ー重荷とは”制作すること”にでしょうか?

和嶋:あの…それまではただ好きに曲を作ってれば良かったんだけど、「良くない」とか言われるわけですよ。つまり”評価をされる”と思ったわけ。表現をし続けるっていうのはキツイんだなって。頑張ってやっても「良くないですね」って言われたりするんだなって。

ー世の中に出るときに生じる”痛み”のようなものですよね。さらに「羅生門」では元ピーズの後藤さんにドラムがヘルプとなり、初のメンバー脱退となりましたね。

和嶋:それはね、ハードロックの場合は特にですけど、どうしても弦楽器で曲を作るもんで。言ってみれば”ギターミュージック”だったりするんで。となると、どうしても中心になるのが俺と鈴木くんになってしまうんですよ。

ーバンドのイニシアティブを取ることも含めて?

和嶋:その辺で「ドラムの人に悪いな」と思いながらやってたんですけど。他の人から見たらさ、またこれが中学からの仲間なもんで、相当”強烈な繋がり”に見えると思う。それもあって、最初のドラマーとうまく行かなかったのかなと。ヘルプで後藤くんが入ってくれたのは、このときの最善の選択かもしれないね。だから、その後のドラマーは僕と鈴木くんの関係を分かって入ってくれてる人だね。

ーそしてメルダックの契約終了後、再びインディーズでの活動へと。

和嶋:はい、なって行くんです。ここからがまた歴史が長いんですけど(笑)

デビュー25周年・バンド生活25年を迎え、その記念すべき年にニューアルバム「無頼豊饒」をリリースする「人間椅子」。
そのギター/ボーカルの和嶋慎治より、「過去」「現在」「未来」についてのロングインタビューを全4回に渡ってお届け!!PART.3では”苦悩からの脱却”と”バンドを続けること”についてお伺いしていきます。

ーメジャーからインディーズへ活動フィールドが変わるということは、和嶋さん自身の心境に影響はあったのでしょうか?

和嶋:まず、何故インディーズかというと、セールスが落ちたから契約が切れるわけです。「どうしようか?」ってまずなりましたね。それまで4枚のアルバムを出した中で、重圧のようなものもあったし、「どういうことを書いていけば良いんだろう」みたいな悩みもあった。だけど、やっぱりロックが好きだし、辞めようって気にはならなかったのね。とにかく続けて行きたいと。

ー周りの評価云々があれど、まだ自分たちのやりたいことの気持ちが勝っていると?

和嶋:そうそうそう、続けていきたいって。という中で、うまい具合にインディーズのレーベルの方から「出さないか?」と声が掛かって。そのときは出せるだけで良いと思ったし、ありがたいと思って作ったのが「踊る一寸法師」です。このとき、ドラムが土屋くんになるんですが、意思の疎通をはかる上でも、ヘルプじゃなくてちゃんとメンバーでやりたいよねって。

ーヘルプよりもメンバーである方が制作・ライブも含めたバンドとしてのまとまりがあると?

和嶋:そうですね、色んなことを言い合いたいから。サポートとかヘルプじゃなく、バンドの中で対等な付き合いをしたいわけですよ。

ーメンバーでないと”お願いごと”になっちゃうみたいな。

和嶋:それをせずにやってこその”メンバー”であり”バンド”ですからね。バンドの良さはそこだと思うので。それで、勢いある感じで作れまして、自分たちが「バンドやりたい」って気持ちが出せたアルバムだと思います。ありがたいことに、そのあともインディーズでいくかと思いきや、ワンショットでの話が来てですね、ポニーキャニオンさんから出すことになるんです。そういう感じでうまいこと繋がって、そのあともテイチクさんっていう風にね。ただ、セールス的には厳しい状況で、バンドだけじゃ食えなくって、アルバイトをみんなし始めました。

ー生活面でのご苦労をされたと、別の記事で拝見したのですが、例えばメジャーでは音楽に100%向き合える環境があるとしたら、それを削る環境というのは和嶋さん自身、耐えられたのでしょうか?

和嶋:食えなかったから、アルバイトせざるを得ないわけです。あと、音源制作とライブ以外に特に活動ってないから、そんなに忙しくはなかったんですよ。時間もあったし「やっぱ、働かねばいかん」という気持ちになりましたね。周りのバンドマンを見ても働きながらやってるし、「そうか、働かざる者食うべからずなんだ」って気持ちになった。

ー「2足のワラジを履く」ということに抵抗はあったのでしょうか?

和嶋:抵抗というよりも、状況がそうでしたから。やっぱ苦労しないといかんと。あと、言い方があれですけど…「女性に食わせてもらう」っていう方法もあるわけですよ。これ、バンドマンでよくあるパターンなんですけど(笑)俺はね、そうはなりたくなかったですね。正直、ちょっとなり掛かったこともありましたけど(笑)

ー(笑)

和嶋:もう、この歳だから言いますけどね。やっぱ「それやっちゃいかんな」って思いましたね。それやってると、その人自身のうだつが上がらないです。食わせてもらうのが1番良くない。だったらまだ、バイトが忙しくてバンド活動が疎かになる方がまだ人として良いですね。

ーそういった選択をされた中でも、「音楽活動での苦労」と「生活での苦労」は質が違う分、かなり悩まれたのでは?

和嶋:悩んだね…これは10年以上悩みました。現実的に食えなかったからアルバイトを始めたわけだけど、最初の頃は続かなかったなあ…。でも、アルバイトやってるうちに、そこでの人間関係や友達も出来るから、やっぱり面白いわけね。ただ、俺個人としてはさ…あんまり長いこといるとその環境に馴染んじゃうなって思ったの。

ー居心地が良くなるんですよね。

和嶋:そう。だからアルバムを作る度に、職場を変えるようにして。俺、かなり転々としましたよ。あの、よく物書きの人なんかがやったりするパターンですけど、いろんな知見を広めるっていう意味合いもあって、すごい職業転々とするじゃないですか?それもありだなって思いましたし。もちろん、その人それぞれで、同じ仕事を続ける上での良さもきっとあるんですけど、俺はいろんな人を見ようかなって。

ー実際にそれは、作品やライブを通して表現されていたのでしょうか?

和嶋:今は反映されてるなって思いますね。ただ、アルバイトしてる頃は、あんまりそういうの出さないようにしようとしてたかな。「生活キツイ」とか詞に書きたくないじゃないですか(笑)多分、それ誰も聴きたくないと思うんですよ。そういうことはあんまり書かないようにして、出来るだけ非日常的なことを書こうとしてたね。

ーまた、当時の和嶋さんのブログも拝見させて頂いたんですけど、「大変なことがあった」と記されていました。生きていくことの葛藤もあったのかと?

和嶋:それで、「生活のため」ってアルバイトやってるでしょ?1日の大半はそれだけで過ぎ去るわけですね。しかも就職しているわけでもないので、そこにずっといたところでどうにかなるものでもないんですよ。「ただお金もらうためだけに、働いてる状態」とでも言いますか…そこから収入が年とともに増えるわけでもなければ、何か社会的な地位を得られるわけでもないという。

ー安定もないですしね。

和嶋:全然ないです。正直、バンドを続けてて「これで良いのかな」って思ったこともあったよ。何となくそれで苦しくなったときがあって。「バンドを辞める」って気になったのではないけど、生きることに辛くなったのかな。かといって、バンドを辞めてアルバイトだけやるのは、全く意味がないとも思ってたし。そもそも、もう当時で30過ぎてるし、何かしらのキャリアもないから就職もできないと思ったわけ。そういう現実的なこともあって「バンドは続けるべき」ってなったし、心の片隅で才能があると思ってたし。一時、「ちょっとキツイなぁ」って鈴木くんに言ったことはあるけど、「バンド続けた方がいいよ」って彼は言ってくれたね…そういうことを話したりしましたね。

ー10年と続くその苦悩から、何かきっかけがあって抜け出せたのでしょうか?

和嶋:そうですね、悩んでた状態がずっと続いて、本格的に苦悩したのが40前後の厄年の頃ですね。割りとそれまでは、「バンドとアルバイトはずっと続けていくものかな」って思ってたんですけど、何かね…色々と個人的な部分でありまして。ざっくばらんに言うと俺個人の”出会いと別れ”があったのと、親父が亡くなってるもんで、実家の方で調停とかを抱えていて。「生きる」とはなんだろうって、改めて考えるようになったんですよ。自分は家庭を持ってないもんで、「1人で生きることや、家庭を持つことってなんだろう」って思うようにもなって。そういった、自分の中で「苦しい」という時期が続いた中、バンド活動もすごくお客さんが応援してくれてるのは分かるんだけど、何かしらステップアップするでもなく、何となく同じ状態で続いてる感じがして。それを「評価されてない」って感じちゃったりもしました。

ーそれはバンドも和嶋さん自身も含めて?

和嶋:そう。ホントは十分評価をしてもらってるのにね。それに気がつかなくなっちゃったんだよね。生活といえば、朝早くから仕事に行って、夜遅くまで残業をしてお金をもらう毎日。割りと末端の仕事ですから、生産的じゃないことをやるわけね。まぁ、その当時の仲間にこう言うのは大変に申し訳ないけど、すごく奴隷めいた感じがしたよ。そうした中でいろんなことが忙殺されて。「この一生はなんだろう」って考えたよね。で、哲学の本とか読み出したんですよ。

ーニーチェとか?

和嶋:ショーペンハウエル、セネカ、古典とされる本を改めて読んだね。ニーチェの「超人思想」カッコイイとか思ったり。人間は次へのステップだって言う…解釈を間違うと危険ですけどね。でも俺はそれ自体、そうだろうなって思ったし、やっぱ人間は奴隷状態から乗り越えるべきもんだろうとか思って。そういう意識が出てから、自分が徐々に変わり出したね。より、人間の無常さとかに気がつくようになったし、芸術について改めて考えるようになって、作品の上でも変わってきたと思うね。悩んでる人・苦しい人と同じ立場に立ちながら、それを客観的に見て、「光ってるものを表現する」というのが芸術だろうなってこととか。で、その本格的に悩んだ期間は、自分の中で3年くらいだろうと思ってるんだけど、相当自分の中で追い詰められてたのか、酒飲むと荒れる時期が続いたよ。

ー自暴自棄のような?

和嶋:そうそう。気が付くとそのへんで寝てたりとかね(笑)目が覚めるとお花畑の中とかさ。あ、ここはあの世なのか、って(笑)ただ、あるとき気がついたんだよね。相変わらず「苦しい」「惨めだ」「報われない」とか思ってたときに、「仮に報われなくて惨めだとしても、とにかく俺は”美しいもの”を持って生きていたい」という啓示のようなものが、自分の中から湧いてきたんだよ。美しくありたい、美しく生きていきたい。”はっ”として、何か急に変わったと思った。そこで自分に感動したんだよ。そしたら惨めさみたいのが消えていって、またそう感じた自分自身を客観的に見て、自分は持ってるんだと思ったわけ。

ーその”美しいもの”を?

和嶋:人間のハートは美しい。みんなも持ってるんだと思ったし、そこに気がつけば人間は変わるなって思って、俺自身変わったんですよ。自分自身も人の見方も変わったし、人への接し方も変わったし。すべて変わったってことではないけど、そう思うことによってね、1歩ずつ踏み出せるようになった。

ー大きな1歩ですよね。

和嶋:闇夜が明けたみたいだった。それからは、その”美しいもの”を言いたいと思ったんだよ。気づいたことを自分の言葉で、作品の上でね。そしたら、作品作ることが苦痛じゃなくなったの。で、そうなりだした頃に「やっぱり俺はアルバイトやってる場合じゃないな」と思って。自分は別な言葉で言えば”誠実”に生きようと思ったんだ。仮に、現実の世界では収入がなくなるかもしれないけど、やっぱり自分が1番向いてる表現活動に100%注ごうと。それでアルバイトも辞めたんです。

ー長い苦悩を経て、和嶋さん自身でもう1度自分の環境を作ったんですね。

和嶋:そう。自分でそうやって作れば現実は動くんだよね。アルバイトしなくても良くなったもんね(笑)考えられないよ。

ー抜け出せたからこその今があると言っても過言ではないと思いますが、25年間、人間椅子を継続してこれたこと、こういった状況の中でも1度も止めることなく続けられた理由をどうお考えですか?

和嶋:まず、辞めたら終わると思ったね。そのグループなりのやり方なり事情があるけど、自分たちはやっぱり1度休止をしてしまうと終わるような気がしたね。僭越ながら、海外のバンドとかを見て時々思うんだけど、休止したグループってそのあと再結成や再始動しても、違うグループに見えちゃうわけ。作ってるものが違う風に聴こえちゃうし、”同窓会”に見えちゃって。自分たちはそれをやりたくないなって。自分たちはこれからも表現していきたいし、やり続けることに幸せを感じるんで。

ー幸せを感じられる”人間椅子”は、和嶋さんにとってなんでしょう?

和嶋:表現することができる素晴らしい場所だと思ってます。歌詞と曲を作って、それを人に伝えることの出来る場所。そして、幼なじみの鈴木くんと幼なじみでやってる場所だね。彼がいないとこうなってないと思うわけ。鈴木くんはすごいロックが好きだし、本当にロックを続けたいんですよ。それをやるには僕といるのが1番やりやすいと思ってるはずなの。お互いにさ、中学時代の友達だから、2人でいるとあの頃のピュアなハートになるんだよね。そのピュアな気持ちでやれてるってことは、鈴木くんがいるからこそだし、続けていられる理由でもあります。

ー人間椅子には解散はない!と思っていても良い?

和嶋:ないでしょう。ここまで来たらないです。解散っていうことは、今までも考えたことがなかった。もしかしたら休止の危機はあったかもしれないけど(笑)だって、鈴木くんと議論しての言い争いとかはあるけど(笑)長い付き合いの中で、ホントの意味で喧嘩したことないからね。議論はあるけどケンカはない。

ー余計な駆け引きもいらないでしょうし。

和嶋:それをするとね、すぐバレる(笑)小賢しいこととかすぐバレるよ。

ーここでぜひ、ナカジマさんについても伺ってみたいです。

和嶋:彼はね、本当に前向きで明るいし、ポジティブシンキングをバンドに運んでくれた人です。やや引きこもり的な要素がある俺と鈴木くんとは違う側面を持っていて…つまり「自分たちの好きなことがやれれば良い」みたいなのが、2人にはあるんですよね。でもノブくんは「もっとそれを広げようよ」って意識を強く持ってくれている。それから友人がとっても多くって、そのことからも分かるように、面倒見がよくて、うまく人と接することが出来る人。だから俺はこの10年間ずいぶんノブくんを見習ったし、それを学ばさせてもらいました。

ー和嶋さんにないものを持っている人でもあると?

和嶋:そうです。とはいえ、ノブくんも変な駆け引きとかしないし、何よりも純粋に演奏することが大好きで、そこは全員共通してます。そういう関係性で3人がいられるから、こうやって続けてこれたんだろうね。僕らの動員が増えてきたのには、いろんな要素があってさ、ずっとハードロックをやり続けてきたことはもちろんだし、さっき話した俺の意識の変化も1つかもしれない。でも中でも、ノブくんの「もっと広げよう」っていう要素はやっぱり相当に大きいよ。

デビュー25周年・バンド生活25年を迎え、その記念すべき年にニューアルバム「無頼豊饒」をリリースする「人間椅子」。
そのギター/ボーカルの和嶋慎治より、「過去」「現在」「未来」についてのロングインタビューを全4回に渡ってお届け!!PART.4では”最近の人間椅子”と”ニューアルバム「無頼豊饒」”についてお伺いしていきます。

ー25年を経て、和嶋さん自身が変わったこと・変わらないこと、両方あると思うんですけど、教えて下さい。

和嶋:変わったこと…ものすごいざっくりした言い方ですけど、怒らなくなりましたよ(笑)それはさっき話した「美しいこと」に気がついたからなんだけど、「怒れなくなった」とも言えますね。他人が怒ってたとして、自分もそこに怒りを持って接したって、何も生まれないですよね。

ー一時の感情に流されないようになったと?

和嶋:そうですね。自分の感情を”やや”コントロール出来るようになりました(笑)とりあえず怒りについては出来てます。一方で「反骨精神」は変わってないね。現実を肯定するようにしていますが、今ある在り方が完全だとは思ってないからね。その現実への違和感を持ってやっていきたいですし、それは昔から変わっていないところですね。

ーだからこそのロックでの表現でもありますしね。

和嶋:そうですよ!それで言うと、ロックが好きなところも昔から変わってないですよ(笑)それがなくなったら、それこそやってないですね。そして1番大きく変わっていないところで言うと、「表現をする」ということに生きがいを感じているわけですが、制作する上でのゴールに向かうまで、妥協できないというところです。

ー納得出来ないものは作品にしたくないんでしょうね。

和嶋:とにかくその時点でのベストを尽くしたいんです。その為の努力は惜しまないですし、妙な頑固さもあるし(笑)「時間ないんだよ」って言われても、ギリギリまで粘ってしまいますね。自分の描くイメージに対して、曖昧にしたくないんですよ。作品へのこだわりはこれからも変わらずに貫いていくと思います。

ー例えば最近では”ももいろクローバーZ”への楽曲提供もありましたが、”人間椅子”としての作品でなくても、それは変わらないのですか?

和嶋:そうです。拘りは持ちつつも活動は狭めたくないですから。自分達の作風が変わらないのであれば、何をやっても問題はないはずなんです。オファーの内容がハードロック風の曲で「ギター弾いてくれ」って言われたら、喜んでやりますよ。これまでよりも広がると思いましたし、実際にももクロさんと関わって頂点でやってる人達の頑張りを学べて、本当にためになりました。

ー”広がる”繋がりで、昨年のOZZFESTにおいて”人間椅子”は”Black Sabbath”と同じステージに立ちましたが、改めてあのイベントで何が得られたのでしょうか?

和嶋:”イカ天”に出たときに、「あ、”人間椅子”は世の中に出る」って思ったんですよね。で、OZZFESTに出るって決まったときに、同じような広がりを感じましたね。「24年経って、また廻って来た」って思いましたし、本番まですごく幸せを感じていましたね。僕らの曲を例え知らなくても、少なくともバンド名は多くのロックファンに広がると思いました。実際のステージではワクワクしながら演奏して、そのワクワク感は今でも続いていますね。

ーステージ上の景色は和嶋さんにどう映っていました?

和嶋:歓声がすごくてさ、「なんだ、知ってる人がこんなにいたんだ」って思いましたね。感動したし、演奏が終わったあともバンドのコールが止まなくて「良いって思ってくれたんだ」っていう嬉しさもあったし…言葉で表現するのは難しいですね。

ー夢のような?

和嶋:それこそ、僕達が1番影響受けてるのが”ブリティッシュ・ロック”であり、中でも”Black Sabbath”だから、その人達と同じステージに立つっていうのは夢なわけで、その夢をやったんだって思いましたね。かと言って「夢が終わった」とも思わなかったの。今までと違うステージの次の夢が始まるんだと思いましたね。バンドにとって、何かの節目でしたよ。

ーその節目として、デビュー25周年の今年にリリースされるニューアルバムのお話を最後に伺いたいのですが「無頼豊饒」は前作「萬燈籠」の流れを受け継いでいる作品と、個人的に思ったのですが。

和嶋:確かにその通りです。僕は前作の流れをくんだ、続きがやれれば良いと思ったんですよね。

ー続きであると言う「無頼豊饒」の意味を教えて下さい。

和嶋:これまで話したことに繋がるんですけど、アルバム毎に自分の思ってることをいろんな角度から言いたいわけです。それで、今回1番言いたかったのは「人間は自由であるべき存在だ」っていうことを言いたくて。「自由」ってその人なりの捉え方がありますけど、人間は何かに縛られるものではなくて、もっと創造的な生き物であってそれを選べる存在ではないかということです。

ー選択の自由?

和嶋:そうそう。例えば「何も変わらない」って生き方を選べば、何も変わらず死んでいきますし、どう生きるかは100%その人に委ねられているんです。

ー「隷従の叫び」の”僕は奴隷なんかじゃない 僕は自由を叫びたい”という一節に、このアルバムコンセプトが集約されている気がします。

和嶋:「隷従の叫び」では、それを生々しく言いたかったんです。例えば「人間て信じられない」って人がいたとしたら、自然に人間を信じない生き方を選んでるんだよね。おそらく周りには信用出来ない人間ばっかり集まってくるだろうし、増々、世の中を信じられなくなりますよね。そういう風に、人生は選んだ通りに成り立っているから、「豊かな選択をすれば、人生は豊かになる」というシンプルな答えになるんじゃないかな。

ー特に和嶋さんは体験されているから、説得力がありますよね。

和嶋:体験したと思います。自分を限定したりせずに、好きなことをやった結果が今ですから。うまいことバンドも軌道に乗ってますし、徐々にかもしれないけど、やはり選べば現実は変わっていくんですよ。

ーアルバム全体を通して歌詞の部分では自由を選ぶ場所が、「地球」「日の国」「宇宙」「地上」と、キーワードとして多岐に渡っていますし、限定もないですよね。

和嶋:大きく言っちゃえば、人間は宇宙的存在だと思うんだけど、自由ということをいろんな場面で言ってみたかったし、表現してみたかったね。最初の頃に「迷信」を作ったんですけど、これが出来たときにアルバムの全体像が見えましたね。タイトルを「無頼豊饒」にしたのは、「自由であれば豊かさが生まれる」っていうこと。それは自分自身の経験からも分かったし、バンドも25周年というのは「好きなことを続けてきた結果」ですから。

ー合致していますよね。

和嶋:自分たちのコンセプト通りに純粋な気持ちで続けたら、25年経ってより多くの人に聴いてもらえてという豊かな状況が生まれてるんです。何より、これを「無頼豊饒」にシンクロさせたかったですね。そして今回、歌詞はコンセプトが伝わりやすいように、できるだけわかりやすい言葉を選んで説教臭くならないようにしたつもりです。

ー楽曲面では先程、「萬燈籠」を受け継いでとありましたが「リジイア」は唯一アコースティック・ギターで奏でられた、とても美しい楽曲ですよね。

和嶋:エドガー・アラン・ポーの小説の中では、1度死んでまた蘇生してってストーリーですけど、小節の前半の「いろんな美しいものにリジイアの美しさを見る」っていう部分が特に好きなんですよね。星の瞬きや花とかなんですけど、”ニルヴァーナ”的美しさというかね、あらゆる美しいものに共通する永遠性みたいなものを、僕もそう思って。それを女性という側面で表現したくてリジイアをモチーフにしましたね。ラブソングを人間椅子もたまにやりますけど、僕らは「君のことが大好きで~」「僕と付き合って欲しい」って歌詞じゃないなって(笑)そういうのは他の方がいっぱいやってますし、僕らが表現しなくてもね(笑)

ー逆に言うと人間椅子以外はやれないラブソングという面もある気がします。

和嶋:それはあるね。「僕のものになってくれ」っていうのは違うと思ってるしね。人は人のものにならないというか愛は所有されるものではないっていうことですね。本当に相思相愛ならば相手を尊重するわけで、相手が自分のものっていう風に思わないだろうしね。今回自分が書いた歌詞に関して言うならば、結局言いたいことをいろんな側面で表現していて、それは「人間は心の存在であって、それが1番大事で自由であるべき」っていうこと。もっと言うと、心の存在を知った時点で自由ですし、心は誰も所有できないので。そういうアルバムコンセプトになっています。

ーありがとうございます。8月から「二十五周年記念ツアー 〜無頼豊饒〜」を控えています。

和嶋:ライブは演る度に楽しいです。お客さんと一緒に時間を共有して、共に感動を分かち合えるのは本当に素晴らしいことです。25年経って、ステージの見せ方もおそらく成長していますし、人間椅子ならではのパフォーマンスを楽しんでもらえたらと思います。

ーそれこそ、ライブ=自由ですしね。

和嶋:そうなんです。良いライブって流れるように進むんです。調子悪いときって淀みがちになるというか、寸断される感じがするんです。良いライブはそれがなくて、しかもお客さんと一緒に作る表現でもあるのでその快感を一緒に楽しみたいですね。


取材:2014.06.09
インタビュー・テキスト:Atsushi Tsuji(辻 敦志) @classic0330
撮影:KASSAI / 3PO DESIGN WORKSHOP