和嶋慎治(人間椅子)インタビュー

デビュー25周年・バンド生活25年を迎え、その記念すべき年にニューアルバム「無頼豊饒」をリリースする「人間椅子」。
そのギター/ボーカルの和嶋慎治より、「過去」「現在」「未来」についてのロングインタビューを全4回に渡ってお届け!!PART.1では”ロックとの出会い”と”鈴木研一との出会い”についてお伺いしていきます。

 

ー今日は記念すべき”ロックの日”なんですよ。

和嶋:あぁそうだ、6月9日だ。(※インタビュー日が6月9日)昔、「SR400」っていうバイク乗ってて、そのときのナンバーが”69″でしたよ。

ーおぉ!

和嶋:「これはカッコイイ」って思って。当時は自分でナンバー選択が出来ない時代だから、その偶然も含めて良かったですね。

ーいきなり素敵なエピソードをありがとうございます!では、和嶋さんとロックとの出会いからお伺いさせて頂きたいです。

和嶋:”洋楽に目覚めた”っていう意味でいうなら…小学生のときですね。当時、テレビとかで流れてくる歌謡曲を聴いて「音楽ってこういうものか」って思っていたんですけど(笑)その頃5歳年上の姉貴が思春期で、俺は小学生なんです。で、”アリス”とか”荒井由実”とかのレコードを友達から借りて来てたんですけど、あるとき”THE BEATLES”の「Abbey Road」を家に持って来たんですよ。「いきなり最後のアルバムかよ」って話ですけどね(笑)それを聴いて「これは良い」って衝撃を受けたんです。

ー小学生って早いタイミングですね。因みにその衝撃は”メロディー”なのか”サウンド”なのかで言うと?

和嶋:それまで聴いたことないサウンドな感じがしたんだよね。あ、その前に親戚がクラシック好きだったりしたので、”チャイコフスキー”が良いと思ってテープに録音して聴いたりもしてたけど「あ、ホントに良いな」と思って聴いたのはやっぱり”THE BEATLES”でしたね。バンドというか、日本の音楽より洋楽が良いと思ったんだね。少し話を遡ると、自分で最初に買ったレコードはディスコだったんだけどね。小学校4年生くらいのときに流行ってた、「ソウルドラキュラ」って曲が最初に買ったレコード。

ーやっぱりいつの時代もそういう流行りがありますよね(笑)さっきお話頂いたと日本の歌謡曲と”THE BEATLES”との圧倒的な差は何だったんでしょうか?

和嶋:曲の斬新さかな。あとになって分析できたことだけど‥‥ざっくりいうなら、日本のポップスっていうのはフォークミュージックから来て、ニューミュージックに繋がってっていう流れじゃないでしょうか。ユーミンはすごく高度でしたけど、循環コードというか割りと決まったコードの中でやっている感じが、歌謡曲にしろ、当時の音楽ではあって。それに比べて”THE BEATLES”の曲はコード進行がすごく斬新で、メロディがすごく良いと思った。もちろん、みんな少なからず影響を受けていたんだろうけど、当時の僕の耳には聴いたことのない音楽に感じましたね。曲が完成されていると思ったし。

ー洋楽の入り口がたまたま”THE BEATLES”だったと。

和嶋:それからお小遣いを貯めて買うようになりました。期待して買った「LET IT BE」は「演奏ガチャガチャしてる」って思ったりね(笑)順番が後期から買っていっちゃったもんで。中期とか聴くと「あ、すごく良いな」と思いましたね。「Rubber Soul」「Revolver」辺り。だから日本の音楽を買わなかったね。そうしてると今度は、姉貴が”Deep Purple”の「Machine Head」を借りてきて。ここで「すごい、また全然違う」と思ってハードロックが良いと思ったね。

ーリフが強調される音楽は”Deep Purple”が最初だったんですね。

和嶋:そう、中学校1年生かな。「BURN」とかも聴いて、バンドがカッコイイと思ったね。

ーギターというよりはバンド?

和嶋:そうなんです。その流れで自分でもハードロックのレコードを買い始めて、中学校入ると多少ロックの話ができる友達ができる中で「Led Zeppelin IV」を買ったんですよね。「Black Dog」を聴いたときの衝撃…”悪魔の音楽”だと思いましたね。また当時、サウンドストリートっていうNHKの番組があって、渋谷陽一さんがとにかく「Zeppelinはすごい」って言うもんだからさ。それに比べて”Deep Purple”はケチョンケチョンに言うわけですよ(笑)「俺はカッコイイと思ってたのに、こんなにダメって言われるんだ」って。確かにZeppelinは、明らかにほかと違うんですけどね。それまでのハードロック形式を壊してる感じがしたんだよね。

ー例えば曲の展開や音色の使い方ですか?

和嶋:そうそう。リズムとかも異常な感じがして。Jimmy Pageのギターを聴いてエレキ・ギター弾こうと思いました。

ーあ、ということは楽器自体に触れられたのは中学校のときになるんですか?

和嶋:その辺がね、前後するんだけど…楽器を弾きたいと思ったのは小学生の頃で、また姉貴なんですけどお下がりのガット・ギターを弾いてたんです。

ーお姉さんもギターを弾かれてたんですね。

和嶋:姉貴はユーミンとかのニューミュージックが好きだからフォーク・ギターが弾きたかったんですよ。でも親に買ってもらったのが何故かガット・ギターで(笑)「私が欲しいのはこんなんじゃない」って弾かなくて。じゃあ弾かないんだったらって僕が弾くようになって。確か、ガットにフォークの弦を張ったりしたのかな。それでなんとなく弾いてたけど、そんなに練習はしてなかったね。「”THE BEATLES”の曲はどうなってるんだろう?」って教本とかもなく、ただなぞってみたりしたんだよ。

ー耳コピに近いこと?

和嶋:そうそう。「なんか違うな」と思いながら「Day Tripper」弾いてみたりして。そのあとにさっき話した通り”Deep Purple”を聴いてバンドに衝撃を受けたものの、申し訳ないことにRitchie Blackmoreのギターに心が震えず、すぐにエレキ・ギターってならなかったんだよね(笑)但し、ベース・ギターなら弾ける感じがして、最初に頑張って買ってみたのは実はベース・ギターだったんですよね。

ーそうだったんですね!

和嶋:ちょっと変わってますけど(笑)それでベースで「Smoke on the Water」とかコピーしてた。コードとか覚えずに、とにかく弾いてみたくて。それから何となく音が拾えるようになってきたときに、”LED ZEPPELIN”に出会ったのが中学1年くらいで順番がヘンテコなんです。

ー(笑)そこでの「Black Dog」やJimmy Pageは和嶋さんにとって余程の衝撃だったんですね。

和嶋:やっぱエレキだなって思いました。それで友達のお兄さんが何本か持っていたので、レスポールのコピーモデルを1本譲ってもらったんですよ。それから”LED ZEPPELIN”のコピーしたね…相当、コピーしたね。

ー当時、特に印象に残っている曲を教えて欲しいです。

和嶋:やっぱ「天国への階段」に感動したんで、まずこれを弾きたいなって。雑誌に載ってる「天国への階段」のコピー譜を見つけて、3ヶ月位掛かってコピーしましたね。それが良かったよ。アルペジオにギターソロも覚えたし、取り敢えずコードも覚えられたからね。

ー今のお話を伺うと和嶋さんにとって”LED ZEPPELIN”はエレキ・ギターの教科書ですよね。

和嶋:そうかもしれないですね、「Led Zeppelin IV」はそうかも。

ーそのコピーをされている中で、音楽的な広がりはあったのでしょうか?

和嶋:それがね、エレキがある程度弾けるようになったんだけど、中学生なのでそんなにレコード買えずに、友達と貸し借りしてたんです。その頃にパンク・ロックとか出てきたんだけど全然良いと思わなかったんだよね。パンク聴いて「ロック終わった」って思ったもん。

ーそれは演奏というより、ファッションや歌詞などのメッセージ性が全面に出ているものに心が動かなかったと?

和嶋:全然コピーしたいと思わなかった。子供のときの印象だから、今正直に言って良いと思うけど、本当に良いと思わなかった。俺はその頃に友達との貸し借りで”King Crimson”とかも聴いて衝撃を受けたしね。そういうの聴いてた中でパンクが出てきたから、ロック終わったと思うよね。そしたら、パンクの音楽は「ロックは死んだ」って(笑)「パンクが言ってることと、俺の感想が同じだった」って思った。当時、”Van Halen”もデビューしてたから、何となくタッピングの練習もしましたし、パンクとは方向が全然違うんですよね。1日8時間とか練習してたしね。夏休みとかも、ずっと練習で晩御飯食べてからギター弾いて気がついたら夜が明けてたっていう(笑)

ー(笑)1番練習されたタイミング?

和嶋:そうだね。で、人と合わせたくなるんだけどクラスメイトに弾けるヤツいなかったんで、よそのクラスで「ベース・ギター持ってるヤツいる」って聞くとなんとか友達になって。全然初対面なのに「ちょっと合わせようよ」って家に押しかけたりして。例えば俺が”Jeff Beck”の曲を弾いて、無理やりベースを合わせさせて録音した音源を校内放送で流してとかやってましたね。僕の情熱が強過ぎたせいか、そのあと一緒に演ってくれないという (笑)次に「合わせよう」って言っても、中々「うん」とは言ってくれなかったですね。それで自分の中学校だと限界を感じまして。やっぱりね、ハードロックを知ってる人がそんないなかったんだよ。当時は長渕剛・松山千春とか、”CHAGE and ASKA”もデビューしてたかな。

ーフォーク以降のニューミュージックですよね。

和嶋:ニューミュージックの、さらにフォーク的なモノが流行ってたときだね。みんなギターを買ったとしても、そっちばっかりコピーするからエレキやる人いなくて。そういう限界を感じてる中、小学校の共通の友人を通じて、隣の中学校で「ロック鑑賞会」をやってるというのを聞いて。それは週末になると、誰かの家に集まってロックを聴くっていう集まりなんですけど「あ、俺行く行く」って言って。で、その中に鈴木くんがいて知り合いになるんです。

ー出会いはここだったんですね。

和嶋:そうそう。そこでエレキも弾いて、そこ行くと楽器弾ける友達もいたので何となく音合わせたりしたときでしたね。

ー”パンクで終わったロック”が隣の中学校に行くことで、やっとロックの世界が広がっていったんですね。

和嶋:そこで”SANTANA”とかも知ったしね。その中では「バンド組もう」とかはならず、聴く仲間って感じでしたね。結局、高校受験とかもあったし、バンドまで行き着かなかったですね。で、高校に入ると鈴木くんが同じ高校の隣のクラスにいたわけ。あ、エピソードを思い出した。鈴木くんの筆箱みたら、血だらけの”Ozzy Osbourne”の写真を貼ってて(笑)相変わらず鈴木くんはロックが好きなんだって思いましたね。

ーそんな人いない(笑)

和嶋:嬉しかったですよ(笑)高校入ったら、いろんな中学から来た人たちがいるからロック好きな人も俄然増えるわけですよ。そこでようやく同じ学年の仲間でバンドを組みましたね。まず最初に入ったのは、同じクラスのヤツを通じて他所の高校の人たちとの合体バンド。まず音を出したかったからなんだけど…何故か”オフコース”のコピーバンドでした。

ーあれ(笑)でも和嶋さんギターですよね?

和嶋:自分の知らないジャンルに興味もあったし、とにかく音が出したかったんです(笑)ただ、ベースがいないって言われて俺はベースだったんです。そのグループの中で、僭越ながらおそらく俺が1番ギターがうまかったんですけど、ベース弾くヤツがいないって言うんで。僕は割りと親切なんですよ(笑)

ー親切というか優しさですよね(笑)とはいえバンドとして続けていくんですか?

和嶋:半年くらいで脱退しました(笑)やっぱ「自分がやりたいのとは違うな」って思って。でも人前で演奏も出来ましたし、楽しかったですよ。

ーもしかして、それって初ステージですよね?

和嶋:あ、そういう意味では初ステージだ。ライブハウスっていうより貸し切れる小さいハコがあって、そこでお客さんにチケット売ってやりましたね。「Yes-No」とか「さよなら」とか演ってた(笑)今にして思えば緊張はしなかったですね。やっぱカバーバンドって緊張しないんだね。

ー知ってる曲だという安心感もあるかもしれないですね。

和嶋:そうだね。そのバンドは半年でしたけど、楽曲の仕組みとか覚えられましたし、勉強になりましたよ。それを辞めてからは掛け持ちで色々組みましたね。”Rolling Stones”のコピーバンドや”RCサクセション”とか。とにかくギターを弾こうと思いましたね。

ーギターは弾くのになぜハードロックは演らなかったんですか?

和嶋:ハードロックが主流じゃなかったからです。ティーンエイジャーですからウケたいわけで、流行ってる曲を演るんですよね(笑)でも良かったですよ。同じ高校の人と組んだバンドで、ライブハウスとか出れましたしね。

ーなるほど。バンド活動はスタートしたものの、コピーが中心ですけど、オリジナルについての欲求は和嶋さんの中になかったのでしょうか?

和嶋:”作る”って意味では、中学3年のときに既に曲は作り出してたんですけどね。最初、ロックがカッコイイと思ったからリフで作ったよ(笑)曲とは言えないけどね。それでコードを知らない限界を感じて。で、コードをボチボチ覚える中で、中学3年の終わり頃に始めて作った曲は「女なんて」って曲なんです(笑)「人間なんて」みたいですけど、僕が振られたんだね(笑)その持って行き場のない気持ちをね、曲にしてみたんですね。

ー男の女々しさ満載ですね(笑)

和嶋:詞もすぐ出来ましたよ(笑)「なんだ、女性なんて…ひどいよ、言ってることと違うじゃない」って素朴な歌詞です(笑)で、高校生になって質屋からフォーク・ギターを買ってきて、バンドとは別にオリジナル曲を作り始めたんです。

ーしかもエレキではなく、フォークなのが意外ですね。

和嶋:曲を量産したのはフォーク・ギターですね。そうだ、曲作ったね…自分の日記を書く感じなんだよね。人前で歌う機会があるわけでもなく、思春期の頃に作る人はみんなそうみたいだけど、ノートに詩と曲を4、50曲くらい。学校から帰ってきたら、その印象のままに作るっていうのを高校1・2年はよくやってましたね。

ー単純に楽しかったんでしょうね。

和嶋:楽しかった。例えば人を好きになると、その人の名前ですぐ曲が作れるし(笑)隣の高校に曲作り仲間がバンドとは別でいて曲の発表会をしたりしたね。割りとテンションの音を使うのは俺で、マイナーコードで5度・6度みたいな進行をすると絶賛されたりね。お互いにコードの使い方を覚えたりしてそれも楽しかったですね。

ーバンドの演奏と曲を作る場所がバラバラという”歪さ”みたいなものは感じなかったんですか?

和嶋:う~ん…何故かコピーバンド演る人は曲を作らないのね。コピーで完結してる感じ。まぁそうやってる内に、段々オリジナルで作る曲がバンドサウンドに近づいて行くわけですよ。当時、多重録音する友達もいたりして、ギターもベースも入れてくとバンドっぽくなっていくしね。その交友関係の流れで掛け持ちして入った、佐野元春のコピーバンドのメンバーに鈴木くんがいたのね。そのバンドで初めて「オリジナル曲を演ろう」ってなったんですよ。その佐野元春バンドはやたらメンバーが多かったんですけど、中には佐野元春で飽きたらない派閥も出てきて(笑)その仲間だけでオリジナル演るようになりましたね。高校3年の頃かな。最終的にはその人達が”人間椅子”の母体になるんです。

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