磯部正文(HUSKING BEE)インタビュー

1990年代後半から日本のロック史を大きく変革し、今なお、輝き続けるジャパニーズパンクムーヴメント。そのシーンの中心であった”Hi-STANDARD”と共に、独自のスタイルでシーンを牽引し続けてきたバンド”HUSKING BEE”のフロントマン、”いっそん”こと磯部正文の歴史を紐解きながら、日本のジャパニーズパンクムーヴメントの黎明期から辿っていく。

ー”HUSKING BEE”結成から約1年でオムニバスへの参加や、7インチシングルのリリース等、好調な滑り出しをされていましたよね。

振り返ってみると、「勢いあったなー」って思います。自分達は他のバンドみたいにデモテープ作って配ったりしたことはないけど、割とコツコツな感じでしたよ。「SNUFFY SMILE」ってレーベルから”Hi-STANDARD”が出してて、”SHERBET”も決まってたし、自分らも出したいって。そういう感じでライブをやってたら、「SNUFFY SMILE」のスタッフの方が観に来てて、声を掛けて頂いたのが始まりでしたね。

ーそこでのレコーディング自体も、初めての経験だったんですか?

そうですね。ただ、そのシングルのときのレコーディングは覚えてない(笑)どんな風にしてたんだろ…?多分、もうなくなったけどGIG-ANTICの地下で録ったりしてるのかな。後々の「GRIP」のときは覚えてますけどね。

ー先程もお話頂いた通り、シーン自体も凄いスピードで成長していったタイミングで、その流れに沿うように、”HUSKING BEE”としても成長していったんですよね。

僕らだけじゃなく、周りも盛り上がってましたね。「あのバンドはあっちから出して、あのバンドはこっちから出して」みたいなことがシーンで始まってましたからね。「自分達が出したいところから出せたら良いね」って思ってましたし、勢い自体は他のバンドとも違いは感じませんでした。だから、始めたタイミングは今でも凄く良かったと思います。うん、俺達だけじゃなかったもんな… 色々なバンドが盛り上がっていたからこそだと思うんですよね。「SNUFFY SMILE」からリリースする最初のシングルは、普通500枚限定しか出さないんです。でも”Hi-STANDARD”は1500枚、”SHERBET”も1500枚で決まってて、僕らも「1500枚出せたら良いな」と思ってたら、その1500枚だったんです。それがメチャメチャ嬉しかったのを覚えてます。今でも変わらずそういう気持ちがあるんですけど、「1500枚売れるってことは、買った人に1人は友達いるから、3000人ぐらい聴くわけじゃんか!凄いよな!」って。

ー当時のライブハウスの動員数とプレス枚数を比べたら、一桁違ってますしね。

それこそレコード出た後、ライブの動員数は全然違いましたから。友達以外の人がライブに来ることを初めて経験するというか。今のように「ファンです!」「いっそんだ!」みたいな感じはないですけど、「レコード聴いて来たんです!」って言われて「凄い!」って思ったし、そういうのが出来たのがまた嬉しいじゃないですか。

ーリリース前に思っていたことが現実になったんですよね。

そうですね。その頃、”Hi-STANDARD”の全国ツアーでの横浜公演に呼んで頂く機会があって、1度対バンすることが出来たんですけど、そのとき”Hi-STANDARD”のお客さんが”HUSKING BEE”のときに誰も盛り上がってなかったんです。実際、今の僕がその頃の自分を見たら「なんじゃこれ?」ってぐらい、ド下手でどうしようもない感じだったんでしょうけど。ただ、「今はこうだけど絶対ひっくり返してみせる」って意気込みだったし、「曲はそんな悪くないはずだし、多分同じ曲でも1年で何かが変わってるはずだ」って言い聞かせてやったんです。そのステージが終わって、(横山)健さんがライブハウスの中で通りかかって…後から考えると、健さんは目が悪くて僕があまり見えてなかったんだけなんですけど、僕は「お疲れ様です」って言おうとしたら、スーッと通り過ぎちゃったんで傷ついたんです。

ーあぁ…無視されたと思ったんですね。

全然、違うんですけど勝手にそういう風に感じてね。その後1年間、「見とけよ横山〜!」って他のメンバーも知ってるくらい、練習中もバイト中もずっと言ってたんです。「絶対、良い曲作って振り向かせる!」って。

ー楽曲は自信あったんですもんね。

その頃の技術で考えると、ムチャクチャだったと思うんですけど(笑)で、1年経って、「俺のプロデュースでアルバム作りたいんだけど」健さんから声を掛けて頂いたときに、頭が真っ白になって言葉が出て来なかったんです。そんな自分を見た健さんは「こいつ俺のこと嫌いなんだ」って思ったみたいで(笑)

ーお互いにすれ違いだったんですね(笑)

その顔を見た健さんは「相当嫌なんだろうな」って思ったらしく(笑)自分は嬉しくて堪らなくて呆然としてただけなのに(笑)後々の笑い話で、決してそんなこと思ってたんじゃなくて、ただガチガチだっただけですし、それぐらい神でしたからね。

ー磯部さんが「見返してやる」と思っていた中で、逆に健さんから声が掛かったということは、”HUSKING BEE”のことをずっと見てらっしゃったってことなんでしょうね。

レオナがアプローチして仲良かったのもあるかもですね。僕は好き過ぎて、声掛けられなかったですからね。

ー会釈程度でガッツリ会話をされることはなかったのですか?

若気の至りじゃないですけど、「人に媚売らない、お願いしますとか言わない」ってカッコつけてたんでしょうね。「何かあったらよろしくお願いします!」って言う人がいっぱいいたので。

「ー見とけよ横山〜!」がプロデュースという形で叶った嬉しさを表に出せないっていう(笑)

心のどこかでは、ここでも媚売らないっていうね(笑)

ー(笑)横山健さんがプロデューサーとして関わった作品が「GRIP」になりますが、制作時に健さんがいたからこそ生まれた楽曲ですとか、得られたアプローチ方法はどういったものがあったんでしょうか?

健さんとやることが決まって「名曲できるぜ!」って思ってましたから、脳内が神憑ってましたね。気が狂れたように「スゲェ曲作るんだ!」「こんなメロディーなんだ」ってその頃の友達に言ってたりしたのが、後々の「WALK」なんです。

ー磯部さん自身が”名曲”と自信を持って言えた「WALK」を健さんに聞かせた時の評価はいかがでしたか?

自分では凄い曲出来てると思ったけど、実際どうか分からなくて。健さんがスタジオに来たときに見てもらおうと思って、心の中では「スゲェ曲なんです」って言いたいのを「新しい曲出来てるんです」ってとぼけたフリして一生懸命やったんです。健さんはその「WALK」が出来てるのを見て、色々と感じてくれたみたいで。今でも健さんがライブのときに歌ってくれたりしてるのは、そういう経緯があるからだと思います。

ー今もずっと2人を繋いでくれた楽曲の1つでもありますよね。

そうなんですよね。「WALK」の場合は、健さんからの一言で頭の中に沸いた曲ではありましたけど、「健さんに全て返すんだ」って思ってただけじゃなかったのが良いのかなと思いますけど。

ー”HUSKING BEE”として初のアルバムとしてリリースされた結果、売上げの枚数もそうですし初の全国ツアーという、リリースしたことによる作用は磯部さんが身をもって感じられたと思いますが、どう評価されていますか?

まずイニシャルが1万枚だって聞いたんですが、心の中で「1万枚なワケない」って思ってたんです。凄く冷静に考えた分析では、「絶対3万枚は行く!」って。その頃、”イニシャル”の意味が分かってなくて、イニシャルと言えば、磯部正文の”M.I”みたいな風にしか思ってなかったんで(笑)「1万枚売れると思ってるみたいだよ」って言ってるように聞こえたから「3万枚は絶対売れる、5万枚はいける!」って言ってました。それぐらいのアルバムなんだし、健さんプロデュースなんだからって。それは間違えじゃなかったでしたし。

ー凄い結果が出ましたよね。

色々なことがシーンで盛り上がってきてる中でのリリースでもありましたから、友達のバンドが頑張ってくれたから、「俺らも行けるっしょ」みたいな、妙な自信があったんですよね。本当にお客さんを呼んでるっていうことが、実際にそれを目の当たりにすると「なんて凄いことなんだ」って。「1500枚売って3000人聴く!」って言ってた時代が1,2年前でしたからね。

ー全国ツアーも行い、ライブをやる場所が関東近辺のライブハウスから、初めて行く場所にも広がったわけで”HUSKING BEE”の曲を知ってる人達が、ライブに来てくれてるという景色は、磯部さんにとってどう映ったのですか?

その景色は当然素晴らしかったんですけど、歌い方もアホみたいに「今日潰しても構わん」みたいな感じで歌ってましたからすぐに潰れちゃって、カスカスの声で歌ってたからライブ自体は申し訳ないライブが多かったと思います。それよりも「世の中って凄いな」って思ったのが、メンバーのアー写を撮るとき座ってる写真かビールのケースに乗っかったりして、メンバーよりちょっと背の高い写真が全国的に有名だったんです。だから初めて僕を見る人が「ちっちゃい」って言ってて、それが集まると大きく聞こえてくるんです。なんか人ってこうなんだなと思いましたね。そんな僕も、ナインティナインの岡村さんを初めて見たとき、「ちっちゃい」って言っちゃいましたから(笑)

ー同じじゃないですか(笑)

あんなにテレビ見てたのに、こんなにちっちゃいって。これと一緒なんだと初めて思ったもんです。歩いてるときの”ちっちゃいオンパレード”が、妙に余計なお世話だなと思いました。

ーそういった、着実なステップアップして行く中で”AIR JAM”への出演や、”Back Drop Bomb”と一緒にマネージメント事務所「INI」を設立されていきます。

最初は出ていくお金の方が多くて、バイトしたりしながら何とかまわしてましたけど、だんだんプロで出来るようになってきて「どうする?」って感じで、最初はママゴトみたいでした。でもこれじゃ埒があかないし、お金の問題も色々ありそうだしここは一つ、最初から良く知ってる友達”Back Drop Bomb”と2バンドで事務所持とうって話になりました。社長もファミレスとかで、「いっそんやる?」「俺、絶対イヤや」とかよく分からない感じで(笑)僕は絶対向いてないと思って。

ー本当ですか?磯部さんは細かく出来そうな印象がありますけど。

アーティストでいたかったんですよね。考えるのはお客さんのこととメンバー・曲・ライブだけでありたい。事務的なこととか、電話とったりとか出来るとは思えない。

ー100%音楽の環境に身を置くという、その為の事務所という位置づけでもあったんですよね。

音楽活動に支障あるって思ったんですよね。自分達ではやるけど、俺は社長じゃないでしょっていう。最初の”AIR JAM”はお祭りだと思ってましたけど、お祭りにしては凄いことになってるなと。”Hi-STANDARD”が友達のバンド集めて…ていうか、「友達の中に俺いる!」その凄さみたいな。あんな2万とか人がいるステージに立てて、その中にいるけど僕はお客さんと同じ目線だったんです。

ー出演者でもありながら観客としても楽しんでいるという?

出演者である自信もありましたけど、「みんな頑張ればなれるよ」って思ってたんですよ。そのときのMCでも言ったと思うんですけど、「好きだと思うことがあって、素晴らしいと思う人がいて、自分もそれを見習ってやってれば俺みたいにみんななれるし、それの証明じゃん」って。まさに「WALK」みたいな感じだったんです。最初は生まれたての子鹿だったのに親鹿になったみたいな(笑)メッチャ緊張するわけでもなく、楽しかったんです。

ープルプル震えた子鹿から親鹿というのは、オーディエンスも磯部さんにとって”仲間”だったんですよね。

「”Hi-STANDARD”と一緒にやるバンドの中でも、友好的に迎えられるべきでしょ」って。だって、こんなに”Hi-STANDARD”がみんなと同じくらい好きだし、みんな一緒だよって。しがらみとかもないし、バンドで集まってお客さん盛り上げようみたいな。自分が26歳とかでしたから、年が近いお客さんもいっぱいいたし、その中に友達もいたし。

ーだからこそ「みんな出来るよ」というメッセージが発せられたんですね。

でもみんなにできたらヤバい(笑)

ー(笑)そのあとSXSWへの出演、「PUT ON FRESH PAINT」では海外レコーディングと、今までやってきたことを仮に”国内”という言い方をするならば、外での動きが出始めたタイミングだったと思うんですね。

うんうん。その辺は、「自分は社長じゃない」っていうのと一緒で、もう良い曲作って前進させることしか考えてなくて、「プロデューサー」とか「海外レコーディング」とかってどんどん決まっていったのは、レオナが決めてたことなんですけど。「こういう風にしたいけど」って言われて「構わぬ」と言いながら「え、でも海外…怖いなぁ」って(笑)

ー(笑)

やってみなきゃわかんない、でも怖ぇ(笑) いっつもヤジロベーなんですけど。まぁ、プロデューサーは”JIMMY EAT WORLD”というバンドを録っている人でとか、それを聴いてみて「おお、凄そうですね」と。こんな人がやってくれるのいいけど「ド下手なのにどうすんの、これ」って(笑)向こう着いて速攻言われたのが、「Pro Toolsで録るか、テープで録るかどっちが良い?」って。「全然テープが良いです」って。知らんもん、Pro Toolsのことなんて。

ーPro Toolsが出だしの頃ですもんね(笑)

「誰ですか?」「それは一体なんですか?」みたいな(笑)その結果、すばらしい作業を観れたし後々良かったなって思うんですけど。その後、バンドが4人になるくらいからPro Toolsでバリバリやってますけどね。

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