磯部正文(HUSKING BEE)インタビュー

1990年代後半から日本のロック史を大きく変革し、今なお、輝き続けるジャパニーズパンクムーヴメント。そのシーンの中心であった”Hi-STANDARD”と共に、独自のスタイルでシーンを牽引し続けてきたバンド”HUSKING BEE”のフロントマン、”いっそん”こと磯部正文の歴史を紐解きながら、日本のジャパニーズパンクムーヴメントの黎明期から辿っていく。

ー90年代後半の”HUSKING BEE”は怒濤のステップアップし、2000年以降も変わらぬ活動をしていながらも、何故平林さんの加入という選択があったのでしょうか?

やっぱ最初は自分の使命感みたいなのがあって、「自分の歌声で救うんだ」という気持ちを全開で歌ってましたけど、「この歌い方を一生やり続けるか?」っていったら、結構キツイだろうと。あとはこれまでにやった音楽以外もやりたいだとか、色んなことを考えるようになって。例えば、新曲を考えるときにギターのアレンジで、もう1本ギターが聞こえて、それを自分でアレンジしてまた重ねんのか…でも、ライブのときは1本でいくのかとか。コーラスして欲しいけど、2人ともド下手だし…

ー自虐過ぎです(笑)

毒です、毒しか湧かなかった(笑)

ーそのくらい、磯部さんの中でいろんな音が鳴ってたんですね。

そうそうそう、もう色んな毒の様な欲を言ってて。ま、煮詰まってたときにたまたま、平林がやってたバンドが活動停止するって聞いて、”シメシメ”って呼び出して「”HUSKING BEE”に入らない?」って言ったら「やりたいっす」って。
割りと1人で葛藤してた部分が、それで一気に広がって。長いスパンで考えれば、あの歌い方で出来ない3連チャンのライブだったり、より強く歌える部分が出来たりするから、その方が助かるなって。

ーそれは色んな局面で磯部さんが「やってみる」という判断を、想像しながら実現してきた部分と通じますよね。

うん、そうなんですよ。やっぱ、やってみなきゃわかんない感じになったんですよね。平林は歌えるし、コーラスも出来る。ただ、意外と世間の反応は冷ややかなもので「なんで?」とか…やってたらわかるわ!(笑)

ーまず、聴けと(笑)

その人にしかわかんない感じと似てる気がしますね。サッカーファンが「もっと走れ」「モチベーション上げろ」「ザック何やってんだ」みたいなこと言うたってね(笑)みんな色々言うし、その立場じゃないからわからないことだとしても、やるのは自分だし先を見ると、4人であることの良さがあったから。

ーそれは後期の”HUSKING BEE”でさらに磨かれていくメロディーや、日本語の歌詞を増やしたりという、良い変化に繋がっていくんですよね。

実は、平林が入る前から「日本語歌え説」「日本語歌え希望」のアナウンスが各所から入ってて。プロデューサーのMARK TROMBINO、吉野(eastern youth)さん、渋谷(ロッキング・オン)さんからも入っていましたし。まあ、その人たちに言われたら作るしかないかなって(笑)僕がアメリカでレコーディングしてるとき、日本語の曲や奥田民生さんの曲を1人で合間に歌ってたら、MARK TROMBINOがそれを聴いて「日本語の母音で歌っている君の歌の伸びは、英語の曲よりも遥かに良いから母国語で歌った方が良いよ」って言って。

ーそのお話は既に音源として聴いているのもありますけど、納得感がありますね。

「やだなぁ」と思いながら(笑)そう言っても、英語が別にしゃべれるわけじゃないのに、英語で歌っているのは矛盾だらけだなって。日本語はいつかやりたい、チャレンジしたいと。で、最初に日本語で作るんだったら、頭ん中で”ぐるぐるぐるぐる”いつも考えてる変なことを、日本語で遊んで歌にしようと思ったのが「後に跡」。英語で作ってたときは色んなことを考えて、四捨五入・取捨選択の後に選び抜いた言葉たちを訳してもらってたんですけど、結局言いたいことが言えてるかわからなくなることがあったんで、日本語でもそれをしようと。そのあとに作ったのが「欠けボタンの浜」かな。

ー日本語での歌詞は、よりダイレクトに伝わるという点で制作の苦労もあったのではないでしょうか?

難しかったですけど、まあ長渕さん、民生さん、サザンとか大好きでしたからね。それを何年もやり続けている人たちに比べたら、「難しいなぁ」と思いながら作業している反面、「何を迷ってんだ」っていうのもありましたけどね。

ー周りの方からの後押しあって始められた日本語でも、磯部さん自身はそんなに迷いがあってということではなかったんですよね?

うーん、どうだろう…その頃は迷ってましたけどね。今振り返ったら、簡単にそうだったなぁくらいにしか思いませんけど、それなりに迷いもあったんだと思います。

ーそして、これまで対バン形式だったツアーから、初のワンマンツアーを行われていきましたが、4人だからこそやれる選択肢、またワンマンをやるに充分なライブのクオリティや説得力もあったのではないでしょうか?

うーん、ワンマンやれるぐらいの曲数に増えましたしね。あとは自信もついたでしょうし、その頃はそんな勢いありましたもんね。

ーそして良いステップアップしていった中での解散という選択をされますが、これまで”HUSKING BEE”の内容を辿らせて頂いて、まだまだ磯部さんがやりたいこと・表現したいことはあったと思うんですね。

キツかったですよ。

ー表現をする場がなくなることも含めて?

どうだろう、うーん。まあ、人に言えないような話が起こってたときですから…今でも、やっぱ媒体には言えないようなことが起こってたから、ひたすらキツかったんじゃないかなぁ。一言で言うと、止めざるを得なかったんで。やりたいのはやまやまで、やるのが当然だと思ってたことを止める訳ですから。これはもう、人生最大のターニングポイントかな。「なんでですか?」って言われたら、「言えません」しか言えない。

ー解散後、元々始められていたサイドプロジェクト”CORNER”、新たな表現の場所としてバンド形態で”MARS EURYTHMICS”を結成されます。

うん、1人のアーティストが大きなバンドを作ったあとの、次のバンドがうまく行かない説があるのを聞いてましたから、その説が本当かどうかを試したいなと思って。”HUSKING BEE”を止めた後、悶々としてる中で「”HUSKING BEE”とは違うものが作れるのか」「どういう風にやるべきなのか」色んなジレンマ抱えながら、やってたような気がしますね。

ー敢えて違うものにしたかったのか、すべきだったのか?

いずれにせよ、今後の自分の為にやっていないことにチャレンジしたいってのはありましたから、やっぱ違うべきなんだろうなとは思ってました。でも、違いすぎるのもムリがあって、自分が歌うとポップなメロディー、少しニヒルなメロディーの部分が出てしまうから、確認しながらやってましたね。振り返ると「”HUSKING BEE”とどうだ?」という、頭の中で動きが起こってたと思いますね。

ー”HUSKING BEE”と比べる思考に自然となってしまう?

どうしても切り離せないというか…切り離してね、素直にやればいいのにそこに居座っている感じが中々…でも、お客さんの中にもそれはあるんだろうなあって思ってましたから。自分にその思考があんまないときも「”HUSKING BEE”となぁ」みたいな。なんか伝わってくる(笑)比べられちゃうなぁって。

ー実際の楽曲では、”違うもの”という部分でファンク要素の取り入れ等が、磯部さんとして打ち出せるものだったのでしょうか?

そうですね。それもあるし、一緒にやってた河辺君とか、工藤哲也も入ってましたからね。

ーまた”HUSKING BEE”というバンドのメンバー以外でやることも含めて、チャレンジであったと思いますし、先程「試してみたい」というお話がまさにそこに繋がっていくのかなと思ったのですが?

まず、やってたときのメンバーには「申し訳ないなぁ」と今でも思いますけど、自分が”HUSKING BEE”やってるときはメンバー同士が仲が良いというよりは「闘いだ!」とみたいな感じでやってましたから(笑)

ーそれくらいぶつかり合えた?

うん、ぶつかり合えたんですよね。長い時間を掛けて一緒にいたし、僕自身その延長線上にいたので。割とね、ブツカリ稽古じゃないですけど、「仲が良いなんてありえない!」みたいな感じでやってたんですけど、今離れてみるとその「申し訳なかったなぁ」って思う理由は、きっとメンバー同士で闘いたかったんですよね。短い期間で鍛え上げたかったし、けっこう躍起になってたんで。今となっては、もうちょっと現在のようにやんわりしてやっても良かった。

ー磯部さんがバンドに求めるスタンスは、メンバー内で同じ目線でいない状態だったんですね。

それがあって後悔や反省もあったりして、今の自分がいるのかなと思ったりもするので、ひたすらあの頃の現場には「申し訳ありませんでした」って言う気持ちでしかないんですけど(笑)闘いだって思ったんですよね、バンド組むってね。

ーその後のメンバーチェンジの中でTEKKINさんが参加されたのも、今お話されたモヤモヤした部分やぶつかり合いを求めた結果だったのでは?

色んな経緯があって入ってくれたTEKKINは、言わずもがな他のメンバーに「イッソンはこういうときはこうだから」っていう僕のことを説明できる、ちゃんと説明書を持ってるんですよね。全メンバーが理解出来ないところをTEKKINは知ってるから、割と入ってくれてありがたいというか…「こういうメロを思いつくときはこうだから」とか「うわーっとでっかい音量の中でうわーっとやる感情の起伏」って、長年やってるTEKKINしかわかんないと思う。「闘うぞ!」みたいな曲を作ってるときは、「怖いから黙っちゃう」ってなると、余計「なんだそれ!もっと来いよ!」ってなるから、その頃は説明書として間に入ってくれて良い作用がありました。

ーしかし”MARS EURYTHMICS”活動休止という選択をされ、バンドに身を置いたにも関わらず弾き語りを始められたのはそういった反省からなのか、それとも単純にアコースティック一本という世界を磯部さん自身が体現したかったからなのか?

うーん…辞めたら辞めたで普通の人間に戻っちゃって。「わーってやるぞ!」ってやってたのが、何もやらないから反省しか残らないし、「ごめんなさい」って言いたいけど恥ずかしくて言えないしみたいな。その後、何も予定が入んないとそれこそ自分がヘンな感じになりそうだったので、常に歌ってないとなってアコースティックをやりましたね。同時にその頃は、「これで音楽から身を引こう」って思ってました。

ー「音楽活動を辞める」と考えなければならない程の葛藤があったのですか?

そう、それでも辞めさしてくれなかったのが日高(THE STARBEMS)さんの鶴の一声です。けっこう真剣に考えてたんです。その頃、結婚もしてなくて10年くらい彼女すらいなかったですから「どうすんだ、これ」って。バンドも2つ辞めちゃって、ダメ人間だなって思ってたんですよ。しかも年齢的に40歳手前で、次の職業やるにはアウトなところに来てるなと。「考えねば…いち早く考えねば将来はぞっとするなぁ」って。だから真剣に日高さんに相談したんですよ。

ー日高さんは磯部さんにどんな言葉を掛けられたんですか?

「自分が思うには音楽は趣味的な感じで出来るし、職業の立場からは身を引こうと思っています」って話したら「いや、磯部さん続けましょうよ」って。「はぁ」って答えた次の一言が「磯部さんが歌うのを待ってる人がいっぱいいますから、やりましょうよ!なんだったら俺が手伝います」って。

ー磯部さん自身が気づかなかったことを日高さんは言葉にして背中を押してくれたんですね。

「自分のこと知ってる人なんかいない」って感じてたし、そう思い込んでるところもあった。さらに「音楽やって飯食うってもうヤバイな、そんな簡単じゃないし」って。お金も出てく一方で「生活どうするの」っていうところまで来てましたから。そういう時期に日高さんに言われて「マジすか?待ってます?」と。「待ってますよ。まだ気づいてないからやりましょう」って言ってもらったことを信じました。

ーそれで「SIGN IN TO DISOBEY」が日高さんのプロデュースとなったんですね。

そうですね。「ソロって、この僕が!?ソロって、大丈夫ですか?」って聞くと、日高さんは「大丈夫です!」って、何の根拠があって言ってるのかなと。

ー(笑)根拠の無い自信って聞こえますけど、日高さんは見えていたんでしょうね。

まずは「一緒に曲作ってみましょう」ってなって、日高さんの横でやるんですけど「わーっ」って歌って「そんなもんじゃ足りません」って。「うわーっ」って歌って「そんなもんじゃ足りません」って。「わーっどわーっ」って歌って「そんなもんじゃ足りない」って言われて。

ー厳しいですね(笑)

スパルタな感じでしたけど、それで割と戻ってきたというか。

ー磯部さんの中で引き出されたような印象はありますか?

うん、日高さんが言うには「ソロだからお客さんも”HUSKING BEE”の曲をやることはウェルカムだろうし、多分磯部さんがそれでラクになるだろうし、欲してるんでしょ」と。自分もそういう風に思いましたし、「もうできない」っていう飢えみたいなものがあっただろうし。ここはひとつ、ソロでやりながら自分が凄く歌いたい曲やストレートな曲をを作れば良いなってなり、それからはふわふわ出来ていくんです。日高さんはプロデューサー気質の人だなぁと思いましたよね。よく僕のことを理解してて、僕の中の難しさもわかってくれてる。だからわだかまりもないし、変な拘りいらない。あとは歌詞を書く上でも、その頃何でか知らないけど、日本語で書くことが自分の中で100%だったんですよ。

ー日本語に拘っていたわけではなく?

英語の曲のことをすっかり忘れてて。まぁ英語の曲だと、自分でネイティブに考えていくわけじゃないし「日本語でこういうことを歌いたい」ってことをメロディーと共にネイティブに英語を話せる友達と一緒にはめていくという、本当に面倒くさい作業があるんで。それがイヤだったし、日本語を如何に駆使してというモードだったんで、詞についてはだいたいの形が見えたタイミングでと思ってたら、日高さんから「そうだ、英詞でいきましょう」って。「エイシって誰ですか?」

ー(笑)

曲作りと共にメンバーの相談もちらほらしてて、ギターは誰が良いとかキーボードを入れるんだったら◯◯って、色んな人の名前が各パートで出てきた何時間か後にそんなこと言うから「あっそうだそうだ、英詞でいきましょう」「エイシって誰ですか?どこのバンドのパートはなんですか?」「違います、英語の詞です」「えっ!イヤですよ。」とか言って「英詞の方が絶対良いです。まぁ全部とは言わないけど、7,8割は英詞でいきましょう」って。試しにリード曲になるであろうみたいな曲があって、それを英語で久しぶりにやってみたら、なんと楽しかったことか!「日高さん、俺、俺、目からウロコっす」みたいになって。

ー自らの中で、忘れていたものを取り戻した感じですよね。

歌える技術があったってことなんですよね。で、それを待ってくれる人たちがいて、それを日高さんがお見通しだった。うん、自分はもう貪欲に日本語の歌詞をどういう風に書くかみたいなモードでいっぱいでしたから、まぁ楽しい100%だったら良いですけど英語の歌詞が多すぎて大変だなとか思いましたけどね。

ー実際に「お客さんが待っていてくれる」というところは、ライブがダイレクトに伝わって来たと思いますがいかがでしたか?

そうですね、うん…英語の歌詞や”HUSKING BEE”の曲って盛り上がるなぁって思いましたよ。やっぱ”HUSKING BEE”の曲ってすごいなと。

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