磯部正文(HUSKING BEE)インタビュー

1990年代後半から日本のロック史を大きく変革し、今なお、輝き続けるジャパニーズパンクムーヴメント。そのシーンの中心であった”Hi-STANDARD”と共に、独自のスタイルでシーンを牽引し続けてきたバンド”HUSKING BEE”のフロントマン、”いっそん”こと磯部正文の歴史を紐解きながら、日本のジャパニーズパンクムーヴメントの黎明期から辿っていく。【LMusic】がお届けするスペシャルインタビュー第1弾!!

ー磯部さんは、広島から音楽をやる為だけに上京したんですか?

そうですね。何のツテもなく上京したので、後々少し後悔することになりましたけど。

ー(笑)単身で上京されたそうですが、その時から既にバンドをやろうと?

具体的に決めてなくて、とにかく歌を歌いたいなと思っていて。それが1人なのかバンドなのか…いずれにしろ東京に行けば、音楽をやっている人と繋がって何とかなるんじゃないかなと。

ー今はギター・ボーカルを担当していらっしゃいますが、ギターというより歌うことをメインに考えられていたのでしょうか?

そうですね。ただ、自分はピンボーカルじゃないだろうし、ギター弾きながら歌う感じだなと思ってたんですけど、なぜか「バンドだ!」って感じではなかったですね。当時、バンドで言えば、”THE BLUE HEARTS””ユニコーン”とか好きで、それはピンボーカルでしたけど、”ユニコーン”の後期は民生さんがギター弾いてましたし、中学・高校時代に長渕さんが好きで歌いまくってたのもあって、自分はピンじゃないだろうなと。「東京に行けば何とかなるわ」って、そこら辺は曖昧なまま(笑)

ー何のツテもないけれど、東京に行けば磯部さんと同じ境遇の人はいるだろうと?

何か同じように目指した人が集まってるだろうなと思って。そういう人達に会いたいなと思ってたし、最初の動機はそんな感じですね。

ー実際に上京されて、磯部さんの動きは何から始まったんですか?

そもそもさっき話した後悔があって。何もなく1人で来たから、最初はたまたま大学でこっちに来てる広島の友達が神奈川に住んでて、そこに泊めてもらってたんです。で、住むならなぜか「高円寺ではなく吉祥寺だろ」ってイメージがあって。高円寺はバリバリの人達がいっぱいいるのは分かってたんですけど、バリバリ過ぎて毎日飲みとかに誘われそうなので(笑)ちょっと離れたいと思って、色々なタイプの人達がブレンドされた吉祥寺に住もうと思いました。それからその友達の家から通って家を探すんですけど、どこも貸してくれないんですよ。不動産屋が「学校は?」って聞いてきて、僕は「音楽やりにきました」って言うと貸してくれないんです。

ー音楽以前に、磯部さんの活動拠点が決まらないという…

仕事も「住むところ決めてから探します」とかって言うと、「はあ?」って。「東京に親戚とかいないのか?」と言われても、「いません」って。不動産屋は「何だこれ」ってなってたけど、僕も同じように「何だこれ」って参っちゃって。「専門学校とか行っとけば良かったなぁ」って思ったけど、そんなお金は勿体なかったしね。まぁ、そんなこんなでやっと家賃2万円の物件を貸してくれる、お爺さんお婆さんがやってる不動産屋があって。「どこでも良いから、とりあえず住むわ」ってところから始まった家賃2万円の部屋が、変な人ばっかり住んでて、アパート自体もとにかく酷かったですね。

ー例えば共同トイレとかですか?

そうです、絵に書いたような。部屋のドアを開けた瞬間に、”かぐや姫”の「神田川」がレコードの音質で頭に流れてきましたね(笑)

ー長渕やユニコーンは流れない(笑)

「これはキテるな」と。ここから始まったから怖いものなしだなとも思ったけど、結局1年ぐらい何も出来ず…っていう後悔でしたね。

ー音楽活動自体をですか?

そう。それから何故だか覚えてないけど、西荻窪のクリーニング屋でバイトしながら「何やってるんだろう」って感じで過ごしてたんですけど、お金貯めてやっと西荻窪のワンルームで6万円ぐらいのところに引っ越して。

ー1年間を経て、かなりグレードアップですね。

家賃も3倍ですよ(笑)そんな時に、一浪して大学に受かった広島のヤツらが埼玉に出てきて。やっと音楽の話が出来るヤツが周りにいる環境になって、なかなか1人じゃ行けなかったライブハウスに行くようになったり。

ーそれでも、1年間行動出来なかったところから、少しずつですけど音楽の環境に身を置けるようになってますよね。

そうですね。ジャパコアを教えてくれた友達が上京してきてたから、目当ての”Lip Cream”は解散してしまっていましたが、千葉まで”NUKEY PIKES”とか観に行ってましたね。あと、千葉にはスケーターが多いんですけど、僕も少しだけスケボーをやってたのもあって、そいつらとライブハウスで会ったりしてる中で、”何となく良く見る顔”みたいな仲間が増え始めたのが、行き始めて2年ぐらい経ってからですね。

ーライブハウスで音楽の仲間達が出来て、そのシーンの中で磯部さんがステージに立つのはその頃ですか?

そうですね。先に友達がバンドを組んでライブをし始めて、それを観て「バンド楽しそうだな」って思ってたんですけど、まだ自分は1人で歌うかバンドを組むかが分からない感じだったんですよ。その頃は、どういう音楽があるかの情報があんまり無かったし、得るのは「DOLL」とか雑誌ですもんね。

ー情報源は音楽雑誌が多かったですし、もしくはライブハウスで配っているフライヤーだったり。

当時のフライヤーには、普通に自宅の電話番号書いてありましたよね(笑)で、そういう媒体でチラホラ見かける、髪が長くて大学生みたいな”Hi-STANDARD”ってバンドが、シングル出してライブツアーするのを見かけて。”バンド = 怖い”みたいなシーンだったから、”Hi-STANDARD”の3人を見ると”アッケラカン”としてて、「何だこの人達、笑ってるぞ」みたいな。だから最初はチャラいのかなって思ってたんですよ(笑)で、友達が「”Hi-STANDARD”スゲェぞ」って言ってて、新宿LOFTに観に行ったら今まで行って観てたライブハウスの光景と全然違って、とにかくビックリして。まず、女の子で半分ぐらい埋まるって信じられない光景でしたね。当時から、お客さんが円になって踊ったり、クラウドサーフもしてて「何これ??」って。音楽もとにかくポップ、でもハードコアだしカッコイイ。何たるバンドだと思いました。

ー但し、今まで観たり聴いたりした音楽と”Hi-STANDARD”はあからさまに違ったと同時に、磯部さんの音楽の方向が決まったタイミングでも?

それでバンドやろうと思って。この人達を目指して「一緒にやっていけば何かが生まれる、今始めれば楽しいことになる」って思ったんですよ。それで組んだのが”HUSKING BEE”だったんです。

ー衝撃を受けた”Hi-STANDARD”の楽曲やライブで、「バンドを組む」となった時、”Hi-STANDARD”が3ピースに対して、当初の”HUSKING BEE”は4人でしたよね。

バンドを組むのにまずメンバーを集めるんですけど、僕は広島でもバンド活動したことがなかったから、広島から上京してきた友達がバンドやってる人と仲が良くて「音楽をやってる後輩を紹介するわ」って感じになって。その後輩の中に、”Back Drop Bomb”のボーカルのマサ(小島)もいて、ドラムやってるヤツや、ボーカルやりたいってヤツ。あと、よく行くライブハウスで、毎回見かける”ALL”のTシャツ着てるヤツがいて。当時は”ALL”ってバンドを知らなかったので「全部ってなんや、またALLって書いたTシャツ着てるヤツがいる」って言ってたんです。最初はそいつを”ALL”って呼んでたんですけど(笑)、名前聞いたら「TEKKINだ」って言ってて、ベースも弾けるらしいと。じゃ俺がギター弾けるし、ボーカルやりたいヤツ、ドラム出来るヤツ、取り敢えず場慣れするために「この4人でバンド組もうか」って感じになって何となく始まりました。

ーライブハウスや誌面での「メンバー募集」ではなく、繋がりの中で生まれたんでね。

バンドを組めれば良くて、「やってみないと分からない」って。”DOLL”でもメンバー募集ありましたけど、中々集めるのは難しそうだなと思って。直接会って断ったりするのも面倒くさそうだし、だったらライブハウスで会って、同じようなものが好きな人が集まった方が良いと思ったんです。さっき「場慣れ」って言ったのも、本当は歌いたいけど、まず様子を見たかったというか…ステージに上がってみないと分からない分、なんとなく怖かったんでしょうね。

ー本気でやりたかったからこそ、”様子を見る”方が磯部さん的には、逆にスムーズだったんでしょうね。

ろくにライブをやったことがなかったし、4人の時はコピーばっかしでしたね。自分達の曲は2曲ぐらいしかなかった気がします。

ー実際に”HUSKING BEE”としての初ライブは、コピーも含めたステージから始まったんですか?

そうですね。歩きたての子鹿みたいな(笑)

ー(笑)

プルプル震えてましたね(笑)多分、誰か踏んで抜けたんですけど、ギター弾いてて「音小さいなぁ」と思ってたら、小さいどころかシールド抜けてたのに気付かなくて。それでシールドを刺そうとしたんですけど、片手だと震えて刺せないから両手で刺して。とにかく震えてた記憶しかなくて。

ー相当緊張されてたんですね。

メチャクチャ緊張してました。ド素人のド緊張でしたね。それでも「慣れるわ」と思ってたんで、その後何ヶ月か掛けて6本ぐらいライブをやって。

ー”HUSKING BEE”として、ライブの空間には慣れた?

「ド素人が少し慣れたな」っていうぐらいです。ただ、そのくらいのタイミングでバンドの先行きが見えましたね。僕が曲作ってたんで、スタジオにリハで入ってボーカルに「こう歌って欲しい、このメロディーはこうだよ、俺がここでコーラス入るから」って伝えて”せーの”で合わせるんだけど、僕の方がそのボーカルより遥かに声がでかくて。ギターを弾きながらステージに立つ経験値は少しだけ増えていたし、こういう状況は早めに手を打たないと、「ズルズルやってもバンドが良くならない」と思ったんです。それでTEKKINと「どうする?」って話して「お前ずっとやってくんだろ?俺はずっとやってく。俺やっぱ歌いたいし、ボーカルだわ。」って。ドラムの子は、最初から人生賭けてバンドやってるわけじゃなくて、何となく好きでやってるから「俺は別で良いよ」って。彼は、後々”Back Drop Bomb”の初代ドラマーになって、またすぐ辞めましたけど。ボーカリストはエゴが強くて、「なんて話そう?」ってなって、若気の至りで嘘ついて「いっぺん、”HUSKING BEE”閉じます」って話したんです。その後すぐにやったから凄く怒ってましたけど(笑)

ー(笑)”HUSKING BEE”の理想が磯部さんとTEKKINさんの中に共通であって、それを表現できるバンドの体制ではないところに、決断をしたということですよね。

自分でも何となく形が見えていて、”Hi-STANDARD”ほど凄く演奏が上手くて、ギュッと詰まったものは難しいだろうから、僕らは「メロディー重視で、8ビートが基本にあるバンドにしよう」って決めて。だから3ピースで行こうと思いました。

ーそこには不安もなく?

メチャメチャありましたよ、「ドエライこっちゃ」と思ってました(笑)でも中学1年の頃から「やる」って言って、その時点で10年近く経とうとしてるわけで。自分でもどうなるか分かんないし怖いけど、「やり始めた」っていう喜びの方が強くて。ズバ抜けてるバンドがいる中で、自分達がド下手なのは分かりきってたけど、下手くそなバンドもいましたし(笑)喧々諤々してた人もいっぱいいましたし、「バンドっていっぱいいるぜ」みたいな状況でしたから、こっちも「負けねぇぜ!」みたいな。だからこそやり甲斐があるなと思いましたよ。

ー3ピースでの”HUSKING BEE”がリスタートした際、当時は”横浜系”といった括られ方をしていましたよね。

その時2人になって、「ドラムを募集しよう」ってなってたときに、とあるブッキングでライブに出た時に”SHERBET”が出演してて、それを観に来てるレオナがいたんです。「ドラム募集してる」って言ったら、叩きたいということになって3人になったんですけど、レオナが横浜だったから横浜系と。

ーその横浜のシーンにたまたま入っていっただけで、そこを狙っていってたわけじゃないんですよね。

全然たまたまですね。レオナのコミュニティーの中に横浜の人が多くて、横浜でもライブをやるようになっただけなんですよね。多分それが千葉だったら千葉系だったと思いますし、広島だと遠すぎるじゃないですか(笑)

ーそうですね(笑)

当時、新幹線往復で3万7千円ぐらいだったんで、「ちょっと家帰ってくるわ」って3万7千円掛かるよりは、横浜の方が全然良いと思って。往復2千円もあれば、帰って来れましたもん。うちの親を恨みました(笑)

ー都会の人って羨ましいですよね。

せめて、あきる野市って思った(笑)それだったらすぐ夢が叶ったのに。もう大冒険みたいな感じで東京に来るわけじゃないですか。「東京って凄いんだ!」って思ってましたけど、後に「そうでもないかも」って思いましたね。”Hi-STANDARD”や色々なバンドとの出会いは、やっぱ来た甲斐あるなって思いますけど、意外と夢持ってるヤツいなくて拍子抜けしたところはあったんですよね。

ー「もっと熱いヤツらがいる」と考えていたのがそうでもないかなと。

凄く平たく分析してましたけど、だからこそ”いける”って思ってたんですよ。

1990年代後半から日本のロック史を大きく変革し、今なお、輝き続けるジャパニーズパンクムーヴメント。そのシーンの中心であった”Hi-STANDARD”と共に、独自のスタイルでシーンを牽引し続けてきたバンド”HUSKING BEE”のフロントマン、”いっそん”こと磯部正文の歴史を紐解きながら、日本のジャパニーズパンクムーヴメントの黎明期から辿っていく。

ー”HUSKING BEE”結成から約1年でオムニバスへの参加や、7インチシングルのリリース等、好調な滑り出しをされていましたよね。

振り返ってみると、「勢いあったなー」って思います。自分達は他のバンドみたいにデモテープ作って配ったりしたことはないけど、割とコツコツな感じでしたよ。「SNUFFY SMILE」ってレーベルから”Hi-STANDARD”が出してて、”SHERBET”も決まってたし、自分らも出したいって。そういう感じでライブをやってたら、「SNUFFY SMILE」のスタッフの方が観に来てて、声を掛けて頂いたのが始まりでしたね。

ーそこでのレコーディング自体も、初めての経験だったんですか?

そうですね。ただ、そのシングルのときのレコーディングは覚えてない(笑)どんな風にしてたんだろ…?多分、もうなくなったけどGIG-ANTICの地下で録ったりしてるのかな。後々の「GRIP」のときは覚えてますけどね。

ー先程もお話頂いた通り、シーン自体も凄いスピードで成長していったタイミングで、その流れに沿うように、”HUSKING BEE”としても成長していったんですよね。

僕らだけじゃなく、周りも盛り上がってましたね。「あのバンドはあっちから出して、あのバンドはこっちから出して」みたいなことがシーンで始まってましたからね。「自分達が出したいところから出せたら良いね」って思ってましたし、勢い自体は他のバンドとも違いは感じませんでした。だから、始めたタイミングは今でも凄く良かったと思います。うん、俺達だけじゃなかったもんな… 色々なバンドが盛り上がっていたからこそだと思うんですよね。「SNUFFY SMILE」からリリースする最初のシングルは、普通500枚限定しか出さないんです。でも”Hi-STANDARD”は1500枚、”SHERBET”も1500枚で決まってて、僕らも「1500枚出せたら良いな」と思ってたら、その1500枚だったんです。それがメチャメチャ嬉しかったのを覚えてます。今でも変わらずそういう気持ちがあるんですけど、「1500枚売れるってことは、買った人に1人は友達いるから、3000人ぐらい聴くわけじゃんか!凄いよな!」って。

ー当時のライブハウスの動員数とプレス枚数を比べたら、一桁違ってますしね。

それこそレコード出た後、ライブの動員数は全然違いましたから。友達以外の人がライブに来ることを初めて経験するというか。今のように「ファンです!」「いっそんだ!」みたいな感じはないですけど、「レコード聴いて来たんです!」って言われて「凄い!」って思ったし、そういうのが出来たのがまた嬉しいじゃないですか。

ーリリース前に思っていたことが現実になったんですよね。

そうですね。その頃、”Hi-STANDARD”の全国ツアーでの横浜公演に呼んで頂く機会があって、1度対バンすることが出来たんですけど、そのとき”Hi-STANDARD”のお客さんが”HUSKING BEE”のときに誰も盛り上がってなかったんです。実際、今の僕がその頃の自分を見たら「なんじゃこれ?」ってぐらい、ド下手でどうしようもない感じだったんでしょうけど。ただ、「今はこうだけど絶対ひっくり返してみせる」って意気込みだったし、「曲はそんな悪くないはずだし、多分同じ曲でも1年で何かが変わってるはずだ」って言い聞かせてやったんです。そのステージが終わって、(横山)健さんがライブハウスの中で通りかかって…後から考えると、健さんは目が悪くて僕があまり見えてなかったんだけなんですけど、僕は「お疲れ様です」って言おうとしたら、スーッと通り過ぎちゃったんで傷ついたんです。

ーあぁ…無視されたと思ったんですね。

全然、違うんですけど勝手にそういう風に感じてね。その後1年間、「見とけよ横山〜!」って他のメンバーも知ってるくらい、練習中もバイト中もずっと言ってたんです。「絶対、良い曲作って振り向かせる!」って。

ー楽曲は自信あったんですもんね。

その頃の技術で考えると、ムチャクチャだったと思うんですけど(笑)で、1年経って、「俺のプロデュースでアルバム作りたいんだけど」健さんから声を掛けて頂いたときに、頭が真っ白になって言葉が出て来なかったんです。そんな自分を見た健さんは「こいつ俺のこと嫌いなんだ」って思ったみたいで(笑)

ーお互いにすれ違いだったんですね(笑)

その顔を見た健さんは「相当嫌なんだろうな」って思ったらしく(笑)自分は嬉しくて堪らなくて呆然としてただけなのに(笑)後々の笑い話で、決してそんなこと思ってたんじゃなくて、ただガチガチだっただけですし、それぐらい神でしたからね。

ー磯部さんが「見返してやる」と思っていた中で、逆に健さんから声が掛かったということは、”HUSKING BEE”のことをずっと見てらっしゃったってことなんでしょうね。

レオナがアプローチして仲良かったのもあるかもですね。僕は好き過ぎて、声掛けられなかったですからね。

ー会釈程度でガッツリ会話をされることはなかったのですか?

若気の至りじゃないですけど、「人に媚売らない、お願いしますとか言わない」ってカッコつけてたんでしょうね。「何かあったらよろしくお願いします!」って言う人がいっぱいいたので。

「ー見とけよ横山〜!」がプロデュースという形で叶った嬉しさを表に出せないっていう(笑)

心のどこかでは、ここでも媚売らないっていうね(笑)

ー(笑)横山健さんがプロデューサーとして関わった作品が「GRIP」になりますが、制作時に健さんがいたからこそ生まれた楽曲ですとか、得られたアプローチ方法はどういったものがあったんでしょうか?

健さんとやることが決まって「名曲できるぜ!」って思ってましたから、脳内が神憑ってましたね。気が狂れたように「スゲェ曲作るんだ!」「こんなメロディーなんだ」ってその頃の友達に言ってたりしたのが、後々の「WALK」なんです。

ー磯部さん自身が”名曲”と自信を持って言えた「WALK」を健さんに聞かせた時の評価はいかがでしたか?

自分では凄い曲出来てると思ったけど、実際どうか分からなくて。健さんがスタジオに来たときに見てもらおうと思って、心の中では「スゲェ曲なんです」って言いたいのを「新しい曲出来てるんです」ってとぼけたフリして一生懸命やったんです。健さんはその「WALK」が出来てるのを見て、色々と感じてくれたみたいで。今でも健さんがライブのときに歌ってくれたりしてるのは、そういう経緯があるからだと思います。

ー今もずっと2人を繋いでくれた楽曲の1つでもありますよね。

そうなんですよね。「WALK」の場合は、健さんからの一言で頭の中に沸いた曲ではありましたけど、「健さんに全て返すんだ」って思ってただけじゃなかったのが良いのかなと思いますけど。

ー”HUSKING BEE”として初のアルバムとしてリリースされた結果、売上げの枚数もそうですし初の全国ツアーという、リリースしたことによる作用は磯部さんが身をもって感じられたと思いますが、どう評価されていますか?

まずイニシャルが1万枚だって聞いたんですが、心の中で「1万枚なワケない」って思ってたんです。凄く冷静に考えた分析では、「絶対3万枚は行く!」って。その頃、”イニシャル”の意味が分かってなくて、イニシャルと言えば、磯部正文の”M.I”みたいな風にしか思ってなかったんで(笑)「1万枚売れると思ってるみたいだよ」って言ってるように聞こえたから「3万枚は絶対売れる、5万枚はいける!」って言ってました。それぐらいのアルバムなんだし、健さんプロデュースなんだからって。それは間違えじゃなかったでしたし。

ー凄い結果が出ましたよね。

色々なことがシーンで盛り上がってきてる中でのリリースでもありましたから、友達のバンドが頑張ってくれたから、「俺らも行けるっしょ」みたいな、妙な自信があったんですよね。本当にお客さんを呼んでるっていうことが、実際にそれを目の当たりにすると「なんて凄いことなんだ」って。「1500枚売って3000人聴く!」って言ってた時代が1,2年前でしたからね。

ー全国ツアーも行い、ライブをやる場所が関東近辺のライブハウスから、初めて行く場所にも広がったわけで”HUSKING BEE”の曲を知ってる人達が、ライブに来てくれてるという景色は、磯部さんにとってどう映ったのですか?

その景色は当然素晴らしかったんですけど、歌い方もアホみたいに「今日潰しても構わん」みたいな感じで歌ってましたからすぐに潰れちゃって、カスカスの声で歌ってたからライブ自体は申し訳ないライブが多かったと思います。それよりも「世の中って凄いな」って思ったのが、メンバーのアー写を撮るとき座ってる写真かビールのケースに乗っかったりして、メンバーよりちょっと背の高い写真が全国的に有名だったんです。だから初めて僕を見る人が「ちっちゃい」って言ってて、それが集まると大きく聞こえてくるんです。なんか人ってこうなんだなと思いましたね。そんな僕も、ナインティナインの岡村さんを初めて見たとき、「ちっちゃい」って言っちゃいましたから(笑)

ー同じじゃないですか(笑)

あんなにテレビ見てたのに、こんなにちっちゃいって。これと一緒なんだと初めて思ったもんです。歩いてるときの”ちっちゃいオンパレード”が、妙に余計なお世話だなと思いました。

ーそういった、着実なステップアップして行く中で”AIR JAM”への出演や、”Back Drop Bomb”と一緒にマネージメント事務所「INI」を設立されていきます。

最初は出ていくお金の方が多くて、バイトしたりしながら何とかまわしてましたけど、だんだんプロで出来るようになってきて「どうする?」って感じで、最初はママゴトみたいでした。でもこれじゃ埒があかないし、お金の問題も色々ありそうだしここは一つ、最初から良く知ってる友達”Back Drop Bomb”と2バンドで事務所持とうって話になりました。社長もファミレスとかで、「いっそんやる?」「俺、絶対イヤや」とかよく分からない感じで(笑)僕は絶対向いてないと思って。

ー本当ですか?磯部さんは細かく出来そうな印象がありますけど。

アーティストでいたかったんですよね。考えるのはお客さんのこととメンバー・曲・ライブだけでありたい。事務的なこととか、電話とったりとか出来るとは思えない。

ー100%音楽の環境に身を置くという、その為の事務所という位置づけでもあったんですよね。

音楽活動に支障あるって思ったんですよね。自分達ではやるけど、俺は社長じゃないでしょっていう。最初の”AIR JAM”はお祭りだと思ってましたけど、お祭りにしては凄いことになってるなと。”Hi-STANDARD”が友達のバンド集めて…ていうか、「友達の中に俺いる!」その凄さみたいな。あんな2万とか人がいるステージに立てて、その中にいるけど僕はお客さんと同じ目線だったんです。

ー出演者でもありながら観客としても楽しんでいるという?

出演者である自信もありましたけど、「みんな頑張ればなれるよ」って思ってたんですよ。そのときのMCでも言ったと思うんですけど、「好きだと思うことがあって、素晴らしいと思う人がいて、自分もそれを見習ってやってれば俺みたいにみんななれるし、それの証明じゃん」って。まさに「WALK」みたいな感じだったんです。最初は生まれたての子鹿だったのに親鹿になったみたいな(笑)メッチャ緊張するわけでもなく、楽しかったんです。

ープルプル震えた子鹿から親鹿というのは、オーディエンスも磯部さんにとって”仲間”だったんですよね。

「”Hi-STANDARD”と一緒にやるバンドの中でも、友好的に迎えられるべきでしょ」って。だって、こんなに”Hi-STANDARD”がみんなと同じくらい好きだし、みんな一緒だよって。しがらみとかもないし、バンドで集まってお客さん盛り上げようみたいな。自分が26歳とかでしたから、年が近いお客さんもいっぱいいたし、その中に友達もいたし。

ーだからこそ「みんな出来るよ」というメッセージが発せられたんですね。

でもみんなにできたらヤバい(笑)

ー(笑)そのあとSXSWへの出演、「PUT ON FRESH PAINT」では海外レコーディングと、今までやってきたことを仮に”国内”という言い方をするならば、外での動きが出始めたタイミングだったと思うんですね。

うんうん。その辺は、「自分は社長じゃない」っていうのと一緒で、もう良い曲作って前進させることしか考えてなくて、「プロデューサー」とか「海外レコーディング」とかってどんどん決まっていったのは、レオナが決めてたことなんですけど。「こういう風にしたいけど」って言われて「構わぬ」と言いながら「え、でも海外…怖いなぁ」って(笑)

ー(笑)

やってみなきゃわかんない、でも怖ぇ(笑) いっつもヤジロベーなんですけど。まぁ、プロデューサーは”JIMMY EAT WORLD”というバンドを録っている人でとか、それを聴いてみて「おお、凄そうですね」と。こんな人がやってくれるのいいけど「ド下手なのにどうすんの、これ」って(笑)向こう着いて速攻言われたのが、「Pro Toolsで録るか、テープで録るかどっちが良い?」って。「全然テープが良いです」って。知らんもん、Pro Toolsのことなんて。

ーPro Toolsが出だしの頃ですもんね(笑)

「誰ですか?」「それは一体なんですか?」みたいな(笑)その結果、すばらしい作業を観れたし後々良かったなって思うんですけど。その後、バンドが4人になるくらいからPro Toolsでバリバリやってますけどね。

1990年代後半から日本のロック史を大きく変革し、今なお、輝き続けるジャパニーズパンクムーヴメント。そのシーンの中心であった”Hi-STANDARD”と共に、独自のスタイルでシーンを牽引し続けてきたバンド”HUSKING BEE”のフロントマン、”いっそん”こと磯部正文の歴史を紐解きながら、日本のジャパニーズパンクムーヴメントの黎明期から辿っていく。

ー90年代後半の”HUSKING BEE”は怒濤のステップアップし、2000年以降も変わらぬ活動をしていながらも、何故平林さんの加入という選択があったのでしょうか?

やっぱ最初は自分の使命感みたいなのがあって、「自分の歌声で救うんだ」という気持ちを全開で歌ってましたけど、「この歌い方を一生やり続けるか?」っていったら、結構キツイだろうと。あとはこれまでにやった音楽以外もやりたいだとか、色んなことを考えるようになって。例えば、新曲を考えるときにギターのアレンジで、もう1本ギターが聞こえて、それを自分でアレンジしてまた重ねんのか…でも、ライブのときは1本でいくのかとか。コーラスして欲しいけど、2人ともド下手だし…

ー自虐過ぎです(笑)

毒です、毒しか湧かなかった(笑)

ーそのくらい、磯部さんの中でいろんな音が鳴ってたんですね。

そうそうそう、もう色んな毒の様な欲を言ってて。ま、煮詰まってたときにたまたま、平林がやってたバンドが活動停止するって聞いて、”シメシメ”って呼び出して「”HUSKING BEE”に入らない?」って言ったら「やりたいっす」って。
割りと1人で葛藤してた部分が、それで一気に広がって。長いスパンで考えれば、あの歌い方で出来ない3連チャンのライブだったり、より強く歌える部分が出来たりするから、その方が助かるなって。

ーそれは色んな局面で磯部さんが「やってみる」という判断を、想像しながら実現してきた部分と通じますよね。

うん、そうなんですよ。やっぱ、やってみなきゃわかんない感じになったんですよね。平林は歌えるし、コーラスも出来る。ただ、意外と世間の反応は冷ややかなもので「なんで?」とか…やってたらわかるわ!(笑)

ーまず、聴けと(笑)

その人にしかわかんない感じと似てる気がしますね。サッカーファンが「もっと走れ」「モチベーション上げろ」「ザック何やってんだ」みたいなこと言うたってね(笑)みんな色々言うし、その立場じゃないからわからないことだとしても、やるのは自分だし先を見ると、4人であることの良さがあったから。

ーそれは後期の”HUSKING BEE”でさらに磨かれていくメロディーや、日本語の歌詞を増やしたりという、良い変化に繋がっていくんですよね。

実は、平林が入る前から「日本語歌え説」「日本語歌え希望」のアナウンスが各所から入ってて。プロデューサーのMARK TROMBINO、吉野(eastern youth)さん、渋谷(ロッキング・オン)さんからも入っていましたし。まあ、その人たちに言われたら作るしかないかなって(笑)僕がアメリカでレコーディングしてるとき、日本語の曲や奥田民生さんの曲を1人で合間に歌ってたら、MARK TROMBINOがそれを聴いて「日本語の母音で歌っている君の歌の伸びは、英語の曲よりも遥かに良いから母国語で歌った方が良いよ」って言って。

ーそのお話は既に音源として聴いているのもありますけど、納得感がありますね。

「やだなぁ」と思いながら(笑)そう言っても、英語が別にしゃべれるわけじゃないのに、英語で歌っているのは矛盾だらけだなって。日本語はいつかやりたい、チャレンジしたいと。で、最初に日本語で作るんだったら、頭ん中で”ぐるぐるぐるぐる”いつも考えてる変なことを、日本語で遊んで歌にしようと思ったのが「後に跡」。英語で作ってたときは色んなことを考えて、四捨五入・取捨選択の後に選び抜いた言葉たちを訳してもらってたんですけど、結局言いたいことが言えてるかわからなくなることがあったんで、日本語でもそれをしようと。そのあとに作ったのが「欠けボタンの浜」かな。

ー日本語での歌詞は、よりダイレクトに伝わるという点で制作の苦労もあったのではないでしょうか?

難しかったですけど、まあ長渕さん、民生さん、サザンとか大好きでしたからね。それを何年もやり続けている人たちに比べたら、「難しいなぁ」と思いながら作業している反面、「何を迷ってんだ」っていうのもありましたけどね。

ー周りの方からの後押しあって始められた日本語でも、磯部さん自身はそんなに迷いがあってということではなかったんですよね?

うーん、どうだろう…その頃は迷ってましたけどね。今振り返ったら、簡単にそうだったなぁくらいにしか思いませんけど、それなりに迷いもあったんだと思います。

ーそして、これまで対バン形式だったツアーから、初のワンマンツアーを行われていきましたが、4人だからこそやれる選択肢、またワンマンをやるに充分なライブのクオリティや説得力もあったのではないでしょうか?

うーん、ワンマンやれるぐらいの曲数に増えましたしね。あとは自信もついたでしょうし、その頃はそんな勢いありましたもんね。

ーそして良いステップアップしていった中での解散という選択をされますが、これまで”HUSKING BEE”の内容を辿らせて頂いて、まだまだ磯部さんがやりたいこと・表現したいことはあったと思うんですね。

キツかったですよ。

ー表現をする場がなくなることも含めて?

どうだろう、うーん。まあ、人に言えないような話が起こってたときですから…今でも、やっぱ媒体には言えないようなことが起こってたから、ひたすらキツかったんじゃないかなぁ。一言で言うと、止めざるを得なかったんで。やりたいのはやまやまで、やるのが当然だと思ってたことを止める訳ですから。これはもう、人生最大のターニングポイントかな。「なんでですか?」って言われたら、「言えません」しか言えない。

ー解散後、元々始められていたサイドプロジェクト”CORNER”、新たな表現の場所としてバンド形態で”MARS EURYTHMICS”を結成されます。

うん、1人のアーティストが大きなバンドを作ったあとの、次のバンドがうまく行かない説があるのを聞いてましたから、その説が本当かどうかを試したいなと思って。”HUSKING BEE”を止めた後、悶々としてる中で「”HUSKING BEE”とは違うものが作れるのか」「どういう風にやるべきなのか」色んなジレンマ抱えながら、やってたような気がしますね。

ー敢えて違うものにしたかったのか、すべきだったのか?

いずれにせよ、今後の自分の為にやっていないことにチャレンジしたいってのはありましたから、やっぱ違うべきなんだろうなとは思ってました。でも、違いすぎるのもムリがあって、自分が歌うとポップなメロディー、少しニヒルなメロディーの部分が出てしまうから、確認しながらやってましたね。振り返ると「”HUSKING BEE”とどうだ?」という、頭の中で動きが起こってたと思いますね。

ー”HUSKING BEE”と比べる思考に自然となってしまう?

どうしても切り離せないというか…切り離してね、素直にやればいいのにそこに居座っている感じが中々…でも、お客さんの中にもそれはあるんだろうなあって思ってましたから。自分にその思考があんまないときも「”HUSKING BEE”となぁ」みたいな。なんか伝わってくる(笑)比べられちゃうなぁって。

ー実際の楽曲では、”違うもの”という部分でファンク要素の取り入れ等が、磯部さんとして打ち出せるものだったのでしょうか?

そうですね。それもあるし、一緒にやってた河辺君とか、工藤哲也も入ってましたからね。

ーまた”HUSKING BEE”というバンドのメンバー以外でやることも含めて、チャレンジであったと思いますし、先程「試してみたい」というお話がまさにそこに繋がっていくのかなと思ったのですが?

まず、やってたときのメンバーには「申し訳ないなぁ」と今でも思いますけど、自分が”HUSKING BEE”やってるときはメンバー同士が仲が良いというよりは「闘いだ!」とみたいな感じでやってましたから(笑)

ーそれくらいぶつかり合えた?

うん、ぶつかり合えたんですよね。長い時間を掛けて一緒にいたし、僕自身その延長線上にいたので。割とね、ブツカリ稽古じゃないですけど、「仲が良いなんてありえない!」みたいな感じでやってたんですけど、今離れてみるとその「申し訳なかったなぁ」って思う理由は、きっとメンバー同士で闘いたかったんですよね。短い期間で鍛え上げたかったし、けっこう躍起になってたんで。今となっては、もうちょっと現在のようにやんわりしてやっても良かった。

ー磯部さんがバンドに求めるスタンスは、メンバー内で同じ目線でいない状態だったんですね。

それがあって後悔や反省もあったりして、今の自分がいるのかなと思ったりもするので、ひたすらあの頃の現場には「申し訳ありませんでした」って言う気持ちでしかないんですけど(笑)闘いだって思ったんですよね、バンド組むってね。

ーその後のメンバーチェンジの中でTEKKINさんが参加されたのも、今お話されたモヤモヤした部分やぶつかり合いを求めた結果だったのでは?

色んな経緯があって入ってくれたTEKKINは、言わずもがな他のメンバーに「イッソンはこういうときはこうだから」っていう僕のことを説明できる、ちゃんと説明書を持ってるんですよね。全メンバーが理解出来ないところをTEKKINは知ってるから、割と入ってくれてありがたいというか…「こういうメロを思いつくときはこうだから」とか「うわーっとでっかい音量の中でうわーっとやる感情の起伏」って、長年やってるTEKKINしかわかんないと思う。「闘うぞ!」みたいな曲を作ってるときは、「怖いから黙っちゃう」ってなると、余計「なんだそれ!もっと来いよ!」ってなるから、その頃は説明書として間に入ってくれて良い作用がありました。

ーしかし”MARS EURYTHMICS”活動休止という選択をされ、バンドに身を置いたにも関わらず弾き語りを始められたのはそういった反省からなのか、それとも単純にアコースティック一本という世界を磯部さん自身が体現したかったからなのか?

うーん…辞めたら辞めたで普通の人間に戻っちゃって。「わーってやるぞ!」ってやってたのが、何もやらないから反省しか残らないし、「ごめんなさい」って言いたいけど恥ずかしくて言えないしみたいな。その後、何も予定が入んないとそれこそ自分がヘンな感じになりそうだったので、常に歌ってないとなってアコースティックをやりましたね。同時にその頃は、「これで音楽から身を引こう」って思ってました。

ー「音楽活動を辞める」と考えなければならない程の葛藤があったのですか?

そう、それでも辞めさしてくれなかったのが日高(THE STARBEMS)さんの鶴の一声です。けっこう真剣に考えてたんです。その頃、結婚もしてなくて10年くらい彼女すらいなかったですから「どうすんだ、これ」って。バンドも2つ辞めちゃって、ダメ人間だなって思ってたんですよ。しかも年齢的に40歳手前で、次の職業やるにはアウトなところに来てるなと。「考えねば…いち早く考えねば将来はぞっとするなぁ」って。だから真剣に日高さんに相談したんですよ。

ー日高さんは磯部さんにどんな言葉を掛けられたんですか?

「自分が思うには音楽は趣味的な感じで出来るし、職業の立場からは身を引こうと思っています」って話したら「いや、磯部さん続けましょうよ」って。「はぁ」って答えた次の一言が「磯部さんが歌うのを待ってる人がいっぱいいますから、やりましょうよ!なんだったら俺が手伝います」って。

ー磯部さん自身が気づかなかったことを日高さんは言葉にして背中を押してくれたんですね。

「自分のこと知ってる人なんかいない」って感じてたし、そう思い込んでるところもあった。さらに「音楽やって飯食うってもうヤバイな、そんな簡単じゃないし」って。お金も出てく一方で「生活どうするの」っていうところまで来てましたから。そういう時期に日高さんに言われて「マジすか?待ってます?」と。「待ってますよ。まだ気づいてないからやりましょう」って言ってもらったことを信じました。

ーそれで「SIGN IN TO DISOBEY」が日高さんのプロデュースとなったんですね。

そうですね。「ソロって、この僕が!?ソロって、大丈夫ですか?」って聞くと、日高さんは「大丈夫です!」って、何の根拠があって言ってるのかなと。

ー(笑)根拠の無い自信って聞こえますけど、日高さんは見えていたんでしょうね。

まずは「一緒に曲作ってみましょう」ってなって、日高さんの横でやるんですけど「わーっ」って歌って「そんなもんじゃ足りません」って。「うわーっ」って歌って「そんなもんじゃ足りません」って。「わーっどわーっ」って歌って「そんなもんじゃ足りない」って言われて。

ー厳しいですね(笑)

スパルタな感じでしたけど、それで割と戻ってきたというか。

ー磯部さんの中で引き出されたような印象はありますか?

うん、日高さんが言うには「ソロだからお客さんも”HUSKING BEE”の曲をやることはウェルカムだろうし、多分磯部さんがそれでラクになるだろうし、欲してるんでしょ」と。自分もそういう風に思いましたし、「もうできない」っていう飢えみたいなものがあっただろうし。ここはひとつ、ソロでやりながら自分が凄く歌いたい曲やストレートな曲をを作れば良いなってなり、それからはふわふわ出来ていくんです。日高さんはプロデューサー気質の人だなぁと思いましたよね。よく僕のことを理解してて、僕の中の難しさもわかってくれてる。だからわだかまりもないし、変な拘りいらない。あとは歌詞を書く上でも、その頃何でか知らないけど、日本語で書くことが自分の中で100%だったんですよ。

ー日本語に拘っていたわけではなく?

英語の曲のことをすっかり忘れてて。まぁ英語の曲だと、自分でネイティブに考えていくわけじゃないし「日本語でこういうことを歌いたい」ってことをメロディーと共にネイティブに英語を話せる友達と一緒にはめていくという、本当に面倒くさい作業があるんで。それがイヤだったし、日本語を如何に駆使してというモードだったんで、詞についてはだいたいの形が見えたタイミングでと思ってたら、日高さんから「そうだ、英詞でいきましょう」って。「エイシって誰ですか?」

ー(笑)

曲作りと共にメンバーの相談もちらほらしてて、ギターは誰が良いとかキーボードを入れるんだったら◯◯って、色んな人の名前が各パートで出てきた何時間か後にそんなこと言うから「あっそうだそうだ、英詞でいきましょう」「エイシって誰ですか?どこのバンドのパートはなんですか?」「違います、英語の詞です」「えっ!イヤですよ。」とか言って「英詞の方が絶対良いです。まぁ全部とは言わないけど、7,8割は英詞でいきましょう」って。試しにリード曲になるであろうみたいな曲があって、それを英語で久しぶりにやってみたら、なんと楽しかったことか!「日高さん、俺、俺、目からウロコっす」みたいになって。

ー自らの中で、忘れていたものを取り戻した感じですよね。

歌える技術があったってことなんですよね。で、それを待ってくれる人たちがいて、それを日高さんがお見通しだった。うん、自分はもう貪欲に日本語の歌詞をどういう風に書くかみたいなモードでいっぱいでしたから、まぁ楽しい100%だったら良いですけど英語の歌詞が多すぎて大変だなとか思いましたけどね。

ー実際に「お客さんが待っていてくれる」というところは、ライブがダイレクトに伝わって来たと思いますがいかがでしたか?

そうですね、うん…英語の歌詞や”HUSKING BEE”の曲って盛り上がるなぁって思いましたよ。やっぱ”HUSKING BEE”の曲ってすごいなと。

1990年代後半から日本のロック史を大きく変革し、今なお、輝き続けるジャパニーズパンクムーヴメント。そのシーンの中心であった”Hi-STANDARD”と共に、独自のスタイルでシーンを牽引し続けてきたバンド””HUSKING BEE””のフロントマン、”いっそん”こと磯部正文の歴史を紐解きながら、日本のジャパニーズパンクムーヴメントの黎明期から辿っていく。

ー「DEVILOCK NIGHT」にて7年振りの復活をされた”HUSKING BEE”ですが、先程もお伺いした通り、苦渋の決断の中での解散からもう1度動かす決断をしたのは、どういう経緯があって辿り着かれたのでしょうか?

まぁ解散以降も自分が活動していく中で、音楽辞めようかなとか真剣に思いましたし、でもまたレールを引いてもらって「この道(音楽)を走りなさい」って、自分で運転し始めたわけじゃないですか。何処へ着くものやら、また長いトンネルかもしれないとか思いながら走ってたところ、2011年3月11日の震災があって。僕は東京にいましたけど、これまでその中で考えながら生活をしてきたことから、それどころじゃない「生きるって何よ、電気って何だ、娯楽って何だ」って、今まで考えたことがないような数々の疑問が湧いてきたり。これはもう大変なことになってしまったんだなと思いましたし、笑っちゃいけないみたいな感じも存分にあったじゃないですか?その中で「音楽って必要なのかな」って思いましたし、暫く何も出来なかったです。

ー”音楽”ということの前に、”生きる”ということについて考え始めたと?

「どうなっていくんだろう」っていう中で、周りが解散だとか再結成するらしいとか色々耳にも入って来てたけど、自分は自分で被災地を回って、「音楽が力をもたらすとこもあるんだな」「良い影響を与えることもあるんだな」ということを知るきっかけにもなりましたし、今まで感じたことのない気持ちで、音楽やってきて良かったと思いましたね。

ー現地で音楽を届けることで、改めて磯部さん自身の生き方や音楽に対峙する理由が明確になった?

自分はやっぱ、みんなに届けるってことを常に重んじてやってきたから、「またデリバリーしたいな」ってことを思ったんですよね。で、「自分が出張するよ」みたいなことが続いたら最高だなって思ってるときに、”AIRJAM”が開催されると。で、健さんや難波さんから電話を頂いたりとかして、ツネさんはソロで一緒にやらせてもらってたのでツネさんとも話す機会はありましたし。

ー震災がきっかけとなって、”Hi-STANDARD”が動いたように”HUSKING BEE”へのオーダーもあるわけですよね。

健さんや難波さんは「”HUSKING BEE”出来ないかな?」って言葉を掛けて頂いてたけど、「4人で集まるのはけっこう難しいですね」って。「でも、”HUSKING BEE”の曲をやって欲しいんだよね」というのがありましたし、他のイベントのオファーとかでも「”HUSKING BEE”やってくんないかな」っていうことはずっとあったけど、お断りしてて。

ー止めざるを得なかったバンドだったからこそ、簡単には動かせないと。

自分の中では、”磯部バンド”のソロをどうしていくかみたいな中で、メンバーもちゃんとバンドを動かしてる人たちに集まってもらってましたから、割りと”磯部バンド”のスケジュールを組むだけでも大変だと。メンバーが合う日って中々ないから、リハも難しいし年間のスパンで見ても限られた日取りしか出来ない。そうするとライブが出来ないから、僕は他の日って全部ヒマだし、これじゃ生活も出来ない。

ー”届ける”ということをしたいが故のジレンマでもありますよね。

じゃあ他に仕事持ってやるのかっていったら、今から「僕バンドやってるけど、バンドのライブ入ったら休める仕事させて下さい」みたいなところってあんの?そんな融通きく会社に勤められるわけがない。それはジレンマですけど、その中で生きるには音楽で飯食わなきゃいけないし、色んな意味で全部の条件が”HUSKING BEE”にあるってことはわかってたけど、大きなイベントだけに誘ってもらって、そこでピンポイントで”HUSKING BEE”をやるってことには疑問がありましたから。

ー”HUSKING BEE”を動かすならコンスタントに活動をするバンドでいたいと?

ただ動かすだけなら色んな人が喜んでくれるだろうけど、やっぱコンスタントにやっていくようなバンドじゃなきゃ意味ないなと。新しい作品を作ってツアーで色んな所に行けたりっていうのが”HUSKING BEE”ならではなんじゃないかなと。

ー”HUSKING BEE”はそういう活動をしてきたバンドですもんね。

ライブハウスやレコード店も喜んでくれるんじゃないかな。僕がまた別バンド組んで、それがまた何のカテゴリかわかんないですけど「僕のCDどうまとめんだ」みたいな(笑)”HUSKING BEE””MARS EURYTHMICS””磯部バンド”この次どうすんだ、「もう”HUSKING BEE”戻ろう!」みたいな。そうですね、数え上げたらキリがないぐらい理由は揃うかな。

ー実際に久しぶりの”HUSKING BEE”としてステージに立たれて、”届ける”という部分と、磯部さん自身はステージを楽しむことが出来たのですか?

まぁ、その日は”HUSKING BEE”だけを観に来て下さったお客さんだけじゃないのは、はなからわかってたので、自分としてはなんとも言えないです。そのときは「”HUSKING BEE”、今日やらせて頂きます!」みたいな感じだったんです。「遠藤くんがやってくれっていうんで乗っかりました、リクエストに答えます」みたいな。何人かはね…この何万人かの中の2,3人はすごく喜んでくれてるだろうなぐらいの感覚しかなかったですよ。でも久し振りだし、噛み締めながらやろうって。「やんなよ」って思う人もいるだろうし、みんながウェルカムなわけじゃないだろうけど、こっちは楽しかったですよ。

ーだとすると”AIRJAM”の方がより”HUSKING BEE”の意義が鮮明になる様に思いますが、一方であのタイミングでの最後の”HUSKING BEE”であるという、複雑な状況であったと思うのですが。

あの”AIRJAM”は「東日本を元気にするんだ」っていう意義がありましたし、とある部分では”HUSKING BEE”として出させてもらって、”HUSKING BEE”を続けると決めたんですがメンバーが変わるという色んなジレンマあるなと。なので、気持ちは複雑でしたよね。でもライブの一番最後のMCで話すことは決めてました。「”HUSKING BEE”、今日観れて良かったわ」と思ってくれたら最高だなと思いながらやってました。

ーお客さんの歓声が、それを物語っていたと思います。

まぁTEKKINとはね、ホントは一緒に出来たら良かったんでしょうけど、事情はあるわなと。子供3人いたらね…子供3人いて現状、ちゃんと仕事してる人をいきなりまた「”HUSKING BEE”やろうぜ」って呼べないし、現実的に無理かなぁ。誘うにも、誘う方が酷だなぁと思いましたしね。お客さんからしたら、そういう裏事情はわかんないでしょうから「なんでTEKKINじゃないんだ?」ってなるでしょうけど、複雑だったんですよね。

ーそして4人のメンバーで再スタートを切りましたが、先程触れさせて頂いた「動かすからには新曲とツアー」という言葉の裏には、以前葛藤のあった”バンド内でのぶつかり合い”や、若い2人だからこその新しい取り組みはありますか?

僕からしたら12、14歳差のメンバーを迎えてやってますから、一生その年齢差は縮むことはないですし、ジェネレーションギャップも抱えながらずっと付きまとうんだろうなと思いますね。それ以外にも人生観とかも違いますし。まずは自分のモードが昔と違うので、こう…褒めちゃおう!みたいな(笑)自分に子供が出来てから学ぶこともあって、それがバンドの方にもリアルに反映されて。まぁ、駄々こねたりするじゃないですか?メンバーを見てると駄々こねるじゃないけど”大きい子供”に見えてくるんですよ。

ーバンド内で磯部さんが”親”のような存在で?

「よしよし」みたいな。自分の子供のグズり様からしたら、遥かに可愛いもんなんです。「大人なのにグズってる、もういい年なのにグズってるよ~、答えが見つかんないよ~」みたいな。昔だったら年齢が近い同士でぶつかりやすかったし、わだかまりもなく「何だこの野郎!」みたいな感じだったんですけど、今の人はぶつかるとすぐ辞めますからね。同じ年代の友人達から聞いても、まず20代の子は説教したらすぐ「僕、辞めます」って。 それが”ゆとり教育”だとか、そういう整理をしたくないし育て方っていうのがあるんじゃないかと。色んな本を読んで「人を褒めて育てる」とかね。「人のことを褒めたら自分も褒められてると、脳は錯覚するらしいよ」ってFacebookでまわって来たり。とにかくね、ぶつかることよりも楽しく制作しちゃおうってなりました。

ーお子さんの影響が大きいですね。

最近ね、リーダーなのかわからないですけど、リーダーって全体を見渡して指揮を取って、細かいところまで全部世話するわけじゃないですか?今回は「知らん」って思ったんですよ(笑)勝手に自分で考えて下さいと。で、自分自身ももっと成長したいって思ったし、そう考えると子供の影響はデカイかも…子供のグズりが1番デカイ(笑)電車に乗るときに「今、グズりませんように。グズると”うるさい子いるよ”みたいな顔されるから」って。

ー(笑)今、ツアーの真っ最中ですけど、ステージ上でも昔はぶつかり合ってたとするのであれば、今の”HUSKING BEE”はそれとは違う表現がなされていると?

ある意味、ドンドン(平林)は僕の1個下ですから、もうちょっと開花して欲しいんですけど、いつまで経っても馬鹿振る舞う部分が開花しないんで(笑)不思議ちゃんだなと思いながらやってます。基本的には”HUSKING BEE”が楽しくやってるのがね、お客さんにとっても楽しいでしょうから。TEKKINとかいるとね、ツッコミ入れて「お前、何やってんだ」みたいなのが面白いんだけど、今のメンバーにツッコミいれても全然…お客さんから見ても、僕がツッコミ入れてるのは面白くないでしょうし、1人でバカやってる方が面白いみたいで。

ーボケとツッコミみたいな関係がないんですね(笑)

ないんですよ(笑)ちゃんとボケてくれないし、天然ボケみたいな人もいない。かといってね、「君たち前出てやって下さい」って言うのも違いますしねえ。昔はすぐ怒ってましたけど、今は基本的には1人でやってて、すごく良い気分でまわしてます。

ーでは、今回のツアーも”HUSKING BEE”を楽しんでる真っ最中?

今回、対バン形式でツアーさせてもらってますから、すごく良いですよ。対バン相手のライブの後は気合はいるし、「負けてらんねぇ」と。いつまで経っても、そういうのは大事なのかもなぁとも思いますね。

ーそれによる刺激の得られ方はワンマンとは違いますよね。まだまだツアーは続いていきますし、夏にはフェスへの出演も複数決まっていますが、最後にどういったライブをお客さんに届けたいかというところをお聞かせ下さい。

えっと、後半戦も多分そうですけど”HUSKING BEE”らしさを今は育んでいて。それは対バン形式のライブツアーをする過程で、自分達自身が”良い部分”と”悪い部分”を経験することと、対バン相手の”良い部分”を吸収してる段階だと思うんですよ。毎日、曲を変えたりしてるのも、僕ららしさをツアーで進化させたくてなので。そこに、さっき言った様にワンマンでは足し算にしかならないとしたら、対バンすることでの掛け算が生まれるのを今回のツアーで感じてます。まだまだツアーは続きますが、そこで”HUSKING BEE”らしさが磨かれて、フェスはそのバンドらしさが顕在してると思うので、これぞ”HUSKING BEE”という感じが観せられたらと思います。


取材:2014.06.18
インタビュー・テキスト:Atsushi Tsuji(辻 敦志) @classic0330
撮影:Rhiset