磯部正文(HUSKING BEE)インタビュー

1990年代後半から日本のロック史を大きく変革し、今なお、輝き続けるジャパニーズパンクムーヴメント。そのシーンの中心であった”Hi-STANDARD”と共に、独自のスタイルでシーンを牽引し続けてきたバンド”HUSKING BEE”のフロントマン、”いっそん”こと磯部正文の歴史を紐解きながら、日本のジャパニーズパンクムーヴメントの黎明期から辿っていく。【LMusic】がお届けするスペシャルインタビュー第1弾!!

ー磯部さんは、広島から音楽をやる為だけに上京したんですか?

そうですね。何のツテもなく上京したので、後々少し後悔することになりましたけど。

ー(笑)単身で上京されたそうですが、その時から既にバンドをやろうと?

具体的に決めてなくて、とにかく歌を歌いたいなと思っていて。それが1人なのかバンドなのか…いずれにしろ東京に行けば、音楽をやっている人と繋がって何とかなるんじゃないかなと。

ー今はギター・ボーカルを担当していらっしゃいますが、ギターというより歌うことをメインに考えられていたのでしょうか?

そうですね。ただ、自分はピンボーカルじゃないだろうし、ギター弾きながら歌う感じだなと思ってたんですけど、なぜか「バンドだ!」って感じではなかったですね。当時、バンドで言えば、”THE BLUE HEARTS””ユニコーン”とか好きで、それはピンボーカルでしたけど、”ユニコーン”の後期は民生さんがギター弾いてましたし、中学・高校時代に長渕さんが好きで歌いまくってたのもあって、自分はピンじゃないだろうなと。「東京に行けば何とかなるわ」って、そこら辺は曖昧なまま(笑)

ー何のツテもないけれど、東京に行けば磯部さんと同じ境遇の人はいるだろうと?

何か同じように目指した人が集まってるだろうなと思って。そういう人達に会いたいなと思ってたし、最初の動機はそんな感じですね。

ー実際に上京されて、磯部さんの動きは何から始まったんですか?

そもそもさっき話した後悔があって。何もなく1人で来たから、最初はたまたま大学でこっちに来てる広島の友達が神奈川に住んでて、そこに泊めてもらってたんです。で、住むならなぜか「高円寺ではなく吉祥寺だろ」ってイメージがあって。高円寺はバリバリの人達がいっぱいいるのは分かってたんですけど、バリバリ過ぎて毎日飲みとかに誘われそうなので(笑)ちょっと離れたいと思って、色々なタイプの人達がブレンドされた吉祥寺に住もうと思いました。それからその友達の家から通って家を探すんですけど、どこも貸してくれないんですよ。不動産屋が「学校は?」って聞いてきて、僕は「音楽やりにきました」って言うと貸してくれないんです。

ー音楽以前に、磯部さんの活動拠点が決まらないという…

仕事も「住むところ決めてから探します」とかって言うと、「はあ?」って。「東京に親戚とかいないのか?」と言われても、「いません」って。不動産屋は「何だこれ」ってなってたけど、僕も同じように「何だこれ」って参っちゃって。「専門学校とか行っとけば良かったなぁ」って思ったけど、そんなお金は勿体なかったしね。まぁ、そんなこんなでやっと家賃2万円の物件を貸してくれる、お爺さんお婆さんがやってる不動産屋があって。「どこでも良いから、とりあえず住むわ」ってところから始まった家賃2万円の部屋が、変な人ばっかり住んでて、アパート自体もとにかく酷かったですね。

ー例えば共同トイレとかですか?

そうです、絵に書いたような。部屋のドアを開けた瞬間に、”かぐや姫”の「神田川」がレコードの音質で頭に流れてきましたね(笑)

ー長渕やユニコーンは流れない(笑)

「これはキテるな」と。ここから始まったから怖いものなしだなとも思ったけど、結局1年ぐらい何も出来ず…っていう後悔でしたね。

ー音楽活動自体をですか?

そう。それから何故だか覚えてないけど、西荻窪のクリーニング屋でバイトしながら「何やってるんだろう」って感じで過ごしてたんですけど、お金貯めてやっと西荻窪のワンルームで6万円ぐらいのところに引っ越して。

ー1年間を経て、かなりグレードアップですね。

家賃も3倍ですよ(笑)そんな時に、一浪して大学に受かった広島のヤツらが埼玉に出てきて。やっと音楽の話が出来るヤツが周りにいる環境になって、なかなか1人じゃ行けなかったライブハウスに行くようになったり。

ーそれでも、1年間行動出来なかったところから、少しずつですけど音楽の環境に身を置けるようになってますよね。

そうですね。ジャパコアを教えてくれた友達が上京してきてたから、目当ての”Lip Cream”は解散してしまっていましたが、千葉まで”NUKEY PIKES”とか観に行ってましたね。あと、千葉にはスケーターが多いんですけど、僕も少しだけスケボーをやってたのもあって、そいつらとライブハウスで会ったりしてる中で、”何となく良く見る顔”みたいな仲間が増え始めたのが、行き始めて2年ぐらい経ってからですね。

ーライブハウスで音楽の仲間達が出来て、そのシーンの中で磯部さんがステージに立つのはその頃ですか?

そうですね。先に友達がバンドを組んでライブをし始めて、それを観て「バンド楽しそうだな」って思ってたんですけど、まだ自分は1人で歌うかバンドを組むかが分からない感じだったんですよ。その頃は、どういう音楽があるかの情報があんまり無かったし、得るのは「DOLL」とか雑誌ですもんね。

ー情報源は音楽雑誌が多かったですし、もしくはライブハウスで配っているフライヤーだったり。

当時のフライヤーには、普通に自宅の電話番号書いてありましたよね(笑)で、そういう媒体でチラホラ見かける、髪が長くて大学生みたいな”Hi-STANDARD”ってバンドが、シングル出してライブツアーするのを見かけて。”バンド = 怖い”みたいなシーンだったから、”Hi-STANDARD”の3人を見ると”アッケラカン”としてて、「何だこの人達、笑ってるぞ」みたいな。だから最初はチャラいのかなって思ってたんですよ(笑)で、友達が「”Hi-STANDARD”スゲェぞ」って言ってて、新宿LOFTに観に行ったら今まで行って観てたライブハウスの光景と全然違って、とにかくビックリして。まず、女の子で半分ぐらい埋まるって信じられない光景でしたね。当時から、お客さんが円になって踊ったり、クラウドサーフもしてて「何これ??」って。音楽もとにかくポップ、でもハードコアだしカッコイイ。何たるバンドだと思いました。

ー但し、今まで観たり聴いたりした音楽と”Hi-STANDARD”はあからさまに違ったと同時に、磯部さんの音楽の方向が決まったタイミングでも?

それでバンドやろうと思って。この人達を目指して「一緒にやっていけば何かが生まれる、今始めれば楽しいことになる」って思ったんですよ。それで組んだのが”HUSKING BEE”だったんです。

ー衝撃を受けた”Hi-STANDARD”の楽曲やライブで、「バンドを組む」となった時、”Hi-STANDARD”が3ピースに対して、当初の”HUSKING BEE”は4人でしたよね。

バンドを組むのにまずメンバーを集めるんですけど、僕は広島でもバンド活動したことがなかったから、広島から上京してきた友達がバンドやってる人と仲が良くて「音楽をやってる後輩を紹介するわ」って感じになって。その後輩の中に、”Back Drop Bomb”のボーカルのマサ(小島)もいて、ドラムやってるヤツや、ボーカルやりたいってヤツ。あと、よく行くライブハウスで、毎回見かける”ALL”のTシャツ着てるヤツがいて。当時は”ALL”ってバンドを知らなかったので「全部ってなんや、またALLって書いたTシャツ着てるヤツがいる」って言ってたんです。最初はそいつを”ALL”って呼んでたんですけど(笑)、名前聞いたら「TEKKINだ」って言ってて、ベースも弾けるらしいと。じゃ俺がギター弾けるし、ボーカルやりたいヤツ、ドラム出来るヤツ、取り敢えず場慣れするために「この4人でバンド組もうか」って感じになって何となく始まりました。

ーライブハウスや誌面での「メンバー募集」ではなく、繋がりの中で生まれたんでね。

バンドを組めれば良くて、「やってみないと分からない」って。”DOLL”でもメンバー募集ありましたけど、中々集めるのは難しそうだなと思って。直接会って断ったりするのも面倒くさそうだし、だったらライブハウスで会って、同じようなものが好きな人が集まった方が良いと思ったんです。さっき「場慣れ」って言ったのも、本当は歌いたいけど、まず様子を見たかったというか…ステージに上がってみないと分からない分、なんとなく怖かったんでしょうね。

ー本気でやりたかったからこそ、”様子を見る”方が磯部さん的には、逆にスムーズだったんでしょうね。

ろくにライブをやったことがなかったし、4人の時はコピーばっかしでしたね。自分達の曲は2曲ぐらいしかなかった気がします。

ー実際に”HUSKING BEE”としての初ライブは、コピーも含めたステージから始まったんですか?

そうですね。歩きたての子鹿みたいな(笑)

ー(笑)

プルプル震えてましたね(笑)多分、誰か踏んで抜けたんですけど、ギター弾いてて「音小さいなぁ」と思ってたら、小さいどころかシールド抜けてたのに気付かなくて。それでシールドを刺そうとしたんですけど、片手だと震えて刺せないから両手で刺して。とにかく震えてた記憶しかなくて。

ー相当緊張されてたんですね。

メチャクチャ緊張してました。ド素人のド緊張でしたね。それでも「慣れるわ」と思ってたんで、その後何ヶ月か掛けて6本ぐらいライブをやって。

ー”HUSKING BEE”として、ライブの空間には慣れた?

「ド素人が少し慣れたな」っていうぐらいです。ただ、そのくらいのタイミングでバンドの先行きが見えましたね。僕が曲作ってたんで、スタジオにリハで入ってボーカルに「こう歌って欲しい、このメロディーはこうだよ、俺がここでコーラス入るから」って伝えて”せーの”で合わせるんだけど、僕の方がそのボーカルより遥かに声がでかくて。ギターを弾きながらステージに立つ経験値は少しだけ増えていたし、こういう状況は早めに手を打たないと、「ズルズルやってもバンドが良くならない」と思ったんです。それでTEKKINと「どうする?」って話して「お前ずっとやってくんだろ?俺はずっとやってく。俺やっぱ歌いたいし、ボーカルだわ。」って。ドラムの子は、最初から人生賭けてバンドやってるわけじゃなくて、何となく好きでやってるから「俺は別で良いよ」って。彼は、後々”Back Drop Bomb”の初代ドラマーになって、またすぐ辞めましたけど。ボーカリストはエゴが強くて、「なんて話そう?」ってなって、若気の至りで嘘ついて「いっぺん、”HUSKING BEE”閉じます」って話したんです。その後すぐにやったから凄く怒ってましたけど(笑)

ー(笑)”HUSKING BEE”の理想が磯部さんとTEKKINさんの中に共通であって、それを表現できるバンドの体制ではないところに、決断をしたということですよね。

自分でも何となく形が見えていて、”Hi-STANDARD”ほど凄く演奏が上手くて、ギュッと詰まったものは難しいだろうから、僕らは「メロディー重視で、8ビートが基本にあるバンドにしよう」って決めて。だから3ピースで行こうと思いました。

ーそこには不安もなく?

メチャメチャありましたよ、「ドエライこっちゃ」と思ってました(笑)でも中学1年の頃から「やる」って言って、その時点で10年近く経とうとしてるわけで。自分でもどうなるか分かんないし怖いけど、「やり始めた」っていう喜びの方が強くて。ズバ抜けてるバンドがいる中で、自分達がド下手なのは分かりきってたけど、下手くそなバンドもいましたし(笑)喧々諤々してた人もいっぱいいましたし、「バンドっていっぱいいるぜ」みたいな状況でしたから、こっちも「負けねぇぜ!」みたいな。だからこそやり甲斐があるなと思いましたよ。

ー3ピースでの”HUSKING BEE”がリスタートした際、当時は”横浜系”といった括られ方をしていましたよね。

その時2人になって、「ドラムを募集しよう」ってなってたときに、とあるブッキングでライブに出た時に”SHERBET”が出演してて、それを観に来てるレオナがいたんです。「ドラム募集してる」って言ったら、叩きたいということになって3人になったんですけど、レオナが横浜だったから横浜系と。

ーその横浜のシーンにたまたま入っていっただけで、そこを狙っていってたわけじゃないんですよね。

全然たまたまですね。レオナのコミュニティーの中に横浜の人が多くて、横浜でもライブをやるようになっただけなんですよね。多分それが千葉だったら千葉系だったと思いますし、広島だと遠すぎるじゃないですか(笑)

ーそうですね(笑)

当時、新幹線往復で3万7千円ぐらいだったんで、「ちょっと家帰ってくるわ」って3万7千円掛かるよりは、横浜の方が全然良いと思って。往復2千円もあれば、帰って来れましたもん。うちの親を恨みました(笑)

ー都会の人って羨ましいですよね。

せめて、あきる野市って思った(笑)それだったらすぐ夢が叶ったのに。もう大冒険みたいな感じで東京に来るわけじゃないですか。「東京って凄いんだ!」って思ってましたけど、後に「そうでもないかも」って思いましたね。”Hi-STANDARD”や色々なバンドとの出会いは、やっぱ来た甲斐あるなって思いますけど、意外と夢持ってるヤツいなくて拍子抜けしたところはあったんですよね。

ー「もっと熱いヤツらがいる」と考えていたのがそうでもないかなと。

凄く平たく分析してましたけど、だからこそ”いける”って思ってたんですよ。

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