佐々木亮介(a flood of circle) インタビューvol.22

—「砂利道を踏んでないバンドだな」って言われて

結成当初から「1st Mini Album “a flood of circle”」に収録される楽曲を既に演奏されていたんですね。

そうですね、メジャーのファーストまでの楽曲は、幾つかありましたね。当時のギターは、YAMAHAのジャズに使うようなセミアコを使ってて。リサイクルショップに置いてあったやつなんです。その日にたまたま入荷したものだったらしくて、まだ値段がついてなかったんですけど、「今買うんだったら8000円にしてやる」って言われて(笑)そのあとのテレキャスはメジャー・デビューに併合わせた気合いの購入ですね(笑)

(笑)ライブ活動がメインの中で、当時の目的や成し得たいことってあったんですか?

いや、メチャクチャ能天気でしたよ(笑)楽しくて仕方なかった。大学2年のときに下北沢シェルターへ毎月出てたのがきっかけで、広がり始めましたと思いますね。ちょうどシェルターの15周年のタイミングだったので、その時あったZEPPのイベントとかも観させてもらってて、54-71や怒髪天っていう先輩を近くで観れるタイミングでもあったから….

バンドとしての環境が変わりましたよね?

それまで学生バンドとかの集まりに行ってたのが、プロの先輩たちとの接点が増えてきて。当時は生意気だったんで、ちゃんと挨拶出来なかったですけどね(笑)

(笑)それによって見える景色も変わるから、バンドモードにはなりやすかったと思いますけど。

そうですね。就職したいヤツは3年のときから、ひたすら頑張ってたけど、俺と岡庭はレコーディングが云々とか、思春期と変わらない会話のままだった。そんなときに、今のマネジメントに会うんです。

ロフトの方との出会いが大きいんですね。

当時は他にも色んなメジャーのレコード会社が来てたんですけど、ロフトの魅力は「来年CD出さないか?」っていう、何も考えてない俺たちに殺し文句を言われて(笑)

(笑)それは飛びつきますよ。

前の年に、FUJI ROCKのROOKIE A GO-GOに応募して落ちたんですけど、その年に出演が出来ることにもなって。大学3年の夏に、CDリリースとFUJI ROCKが決まったから、中長期的な目標よりも目の前の1つ1つに盛り上がってましたね。

そう考えると、メジャー・デビューまでの時間軸を挙げると早いですよね。

そうですね。周りからもそう見られてましたし、シェルターの周りにいた先輩にも「砂利道を踏んでないバンドだな」って言われて。

ただ、「1st Mini Album “a flood of circle”」を今改めて聴いても、違和感がないんですよね。楽曲のバラエティも今に通ずる部分がありますし。

それは良いところに気づいて頂いて(笑)でもホントそうで、当時は色んなレコード会社の新人発掘の人と話をしたんですけど、当時ミッシェルだったチバさんのことをよく引き合いに出されてた。「チバさんになりたいんでしょ?ミッシェル好きでしょ?」って。もちろん好きだけど、勝手に解釈すれば良いし、何言われても引き受けるつもりだった。でも1番ムカついたのは、CD屋のポップに「ミッシェル・ガン・エレファントmeetニルヴァーナ」って書かれてて。

中々の宣伝文句ですね…..

別に良いんですけど(笑)「ミッシェルになりたかったら、もっとミッシェルっぽくやって、バラードとかやらない方が良いよ」って色んな人に言われてたけど、意地でもやったのが”308”ですね。今でも各アルバムにはバラードを収録してますけど、それは俺の好きな音楽のスタイルだし、そこは激しくてノリが良い曲と同等だから、今でもそのバランス感が変わってないんだと思いますね。

当時、ここまでブルースをやるバンドもいなかったですよね?

下北や渋谷のライブハウス周りで、ブルースっぽいことやってるバンドはいなかったですね。「ダセーよ」って言われそうなことをやっていたけど、そこは変な自信があったんですよね。「これを育てて、日本のロック・シーンに勝負を仕掛けて行くんだ!」じゃなくて、「これしかないから、これをやっていく」って気持ちでしたね。

FUJI ROCKのROOKIE A GO-GOでの出演は、その自信のまま演奏が出来た?

酔っ払いの外国人ばっかりいましたね(笑)その時、「スゲェ自由で良いんだな」って思いましたね。

それは演奏自体?それともライブの空気感に?

ライブハウスじゃなくて、野外でやったのが初めてだったのがまずあって。当時の俺らには、純粋なお客さんがいなかったから、ライブハウスにある程度の目的意識を持って来てる人が多かった。例えば「友達で」とか、「友達の知り合い」「後ろの方にいる大人の方々」みたいなね。そうじゃなくて、「ただ単に音楽を楽しみたい」「その場の空気を楽しみたい」「酔っ払いながら踊りたい」っていう人たちが、俺たちのライブを観てくれてたから、すっごい嬉しかったし、生々しい音楽を”生”で届ける喜びを初めて感じましたね。

ROOKIE A GO-GOというステージの性質上、逆に燃えるというか、次のステージを目指したくなりません?

「何処と比べてるんだ」っていう感じですけど、「さっきまで観てた、ケミカル・ブラザーズは人がパンパンだったのに、なんで後ろの方は人がいなんだ」って (笑)ただ、「これは昇っていくものだ」って思いましたね。ROOKIE A GO-GOはゲートの外だったから、良い演奏をしないとゲートの中には入れないんだって。

FUJI ROCKは、レッド・マーキー、ホワイトステージ、グリーンステージっていうステップアップ感もありますしね。

バンドを成長させていくことと、大きいステージを目指したいという意識は、この時にできましたね。

良い意味で、今の自分達を認識出来たことが、その意識に繋がったんですね。

—全員ブッ飛ばせる曲を入れたかった

次の「泥水のメロディー」は、その意識で出来ましたね。

前作と比べてスピード感がある楽曲が増えましたし。

ライブハウスをすごく意識してBPMを上げましたね。当時、やっと俺もナベちゃんの影響で2000年代の音楽を聴けるようになって。

ちょうどアークティック・モンキーズがデビューして、ストロークスが3枚目の頃ですね。

BPM早い音楽って抵抗あったし、ダサいと思ってたんですよ。「歪さだけでカッコイイ」だったけど、それは自己満足なだけであって、ちゃんとライブハウスで曲を伝えたいし聴かせたかったんです。「泥水のメロディー」はそういう意味で外向きに作ったアルバムだと思うし、ライブハウスに来てくれる人を全員ブッ飛ばせる曲を入れたかったんです。

あのビートとスピードは、1つ飛び出した感じが如実に出ていますよね。

そうですね。箱庭感というか、学校の校舎の隅で作っていた妄想を爆発させたのが1stだったとしたら、2ndはライブを始めて感じたことや、周りは社会に出て行こうとしている中で、”俺たちは道を踏み外してここにいる”っていうことが、楽曲になっていったと思いますね。

ライブがメインで言うと、この時期にライヴ音源を立て続けに発表されていましたね。

「泥水のメロディー」のあとに、メジャーの話が来てて2009年4月に設定したんですけど、そこまで駆け抜けようと。それまでに”どういうバンドか”を提示する為に、土臭さや泥臭さが出せるライブ盤を選んだんです。

そのデビューの前に、新宿ロフトで a flood of circle“1st ONEMAN LIVE”を開催されました。

それまでワンマンなんてやったことなかったから。逆にそれまでは、本当に良い対バンをさせてもらってました。さっき「砂利道を踏んでない」って言われたエピソードは、川崎のチッタであったシェルターのイベントで、直接聞いてないですけどTyphoon 24のmiyaさんから、後から聞いた話で言われたんですね。「くっそー、いつか見返したい」って思ってたけど、miyaさんが亡くなったから、叶わないですし今でも残ってるんですけどね。そういう中で成長もしてこれたから、ワンマンって考えてなかったけど、デビュー前に1発やろうということで。

気合いも入ってたでしょうし、ライブ時間全てがAFOCの世界になるのも初めてですよね?

ただ、学んだことが多かったですね。というのは「良かったね」っていう部分が殆どなかったから。その辺りから「悔しい」って想いが、いかに大事かがわかってきた気がします。

—1回空っぽになって、次の挑戦が始まる

「BUFFALO SOUL」のレコーディング自体はそのタイミングでは終えられていたんですか?

そうです。いしわたり淳治さんに3曲プロデュースしてもらったんですけど、その直後でしたね。

スーパーカーは元々好きだったんですか?

もちろん。ナンバーガールとかの世代ですから。AFOCの泥臭さをいかにアップデートするかというポイントで、淳治さんにお願いしましたね。俺、大学の入試の時に音響科だったから、色んなミックスの文章を書いたんですけど、スーパーカーのことを書いたくらいだったんで(笑)

(笑)デビューアルバムにセッションを2曲入れているのもブルースらしいし、「春の嵐」のような、歌モノまで成立させているアルバムで、バンドの打ち出す方向性はある程度、佐々木さんの中であったんですか?

そうですね、セッションを入れたのは正しくです。爽やかなギター・ポップが世の中に多かったし、チョーキングとか重いビートを前面に打ち出してるバンドがいなかった(笑)そういう部分を俺たち的にアップデートした楽曲が、「Buffalo Dance」です。

ダンスのビートながら、超絶に泥臭いですよね(笑)

「それが俺たちでしょ」っていう自信があったんですよね。デビューのファースト・アルバムって、それまでの人生を掛けた、22年分のベスト・アルバムでもあるから。ここまでの全てを見せる、それから1回空っぽになって、次の挑戦が始まるっていう。

その矢先に岡庭さんの失踪、それに伴う奥村さんのサポート、そしてツアー、FUJI ROCKとなりますが、ゼロからまた挑戦する姿勢から、環境的なマイナス面もあったと思うんです。

まず、岡庭に出会ったから、「ミュージシャンになりたい」って人に言えるようになったんですよね。大学4年間、そいつしか友達いなかったくらい一緒にいたし、大好きだったんですよね。俺の人生を1番変えてくれたヤツでもあるから。そんなヤツが失踪したときのショックはすごかったけど…..ツアーの途中だったけど、ファイナルが残ってたのをトばせないって思った。死んでるか生きてるかもわからない状況だったし、もしかしたら帰ってくるかもしれないっていうのもあったけど、即決でしたね。

その状況の中で、なぜ即決出来たんですか?

いや、覚えていないんですけど、バンドが止まっちゃダメだって思ったんでしょうね。1番大事だと思っていた友達が急にいなくなったのに、ライブをやろうと思った俺の気持ちを”強さ”とするか”薄情”とするかはわからないけど。あと、次にミニ・アルバムを出そうとしてて、石井やナベちゃんも曲を作り始めてて、みんなチャレンジングに成長をしようとしてたタイミングでもあるし。

「バンドとしての成長や挑戦を止めることは考えられなかった」とも言い換えられますね。

そこは今も変わってない部分です。岡庭は、ブルースのフレーズもそうだし、楽曲もそうだし、バンドのキャラクターを1番持ってたヤツだったから、「バンドとしての模索」というより、「どうやって生きていくか」という模索に近かったかもしれない。その7月のファイナルは、チケットは売れてたけど、アナウンスはしてたから来なかった人もいました。来た人でも、泣いてる人から「頑張れ」って応援してくれる人、純粋に楽しんでいる人までカオスな感じだったけど。

それでもバンドとして、伝えられたこともあったはずで。

それまでのメンバーを応援してくれてた人が離れていって、俺自身も傷ついていたけど、ライブを辞めなかったから何かが伝わったって、わかったんですよ。”音楽が人の気持ちを動かす”ってことと、自分がそれを決断して、”俺はこうやって生きていく”というのを見せられたから、それを体感することができましたし。

実際に11月にリリースした「PARADOX PARADE」は、ゼロになったバンドに、どうさらなるアップデートをしていくかという部分や、先ほどのツアーファイナルでの光景ではないですけど、良いカオス感があって、複数のギタリストをサポートに迎えられたのがすごくマッチしていますよね。

1stの半年後だったし、自分が想定してた”1回空っぽになって”っていう期間が短かったんで(笑)失踪したショックを振り払うようにダッシュで制作しましたね。ある意味、すごいピュアなアルバムでもあるんです。「このアルバムが好きです」って、今でも言ってくれる人がいるんですけど、バンドとしての意思表示を包み隠さず出せたからなんだと思いますね。

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