佐々木亮介(a flood of circle) インタビューvol.22

—”Hey Jude”のエンディングがやたら長いのが嫌で(笑)

今回は佐々木さんの歴史を振り返りながら進めていきたいんですが、出身から伺おうかと。

俺、出身がバラバラというか…出身地を聞かれるのがいつも困るんです(笑)出生は横浜なんですけど、親がいわゆる転勤族だったから、3年毎くらいに変わっていましたね。千葉に行ったり、ベルギー、イギリス、また千葉に戻って所沢、東京みたいな。実家が今は東京だから、「出身は東京」と公言してますね。

それだと、幼少期の記憶というより、場所毎の記憶として残っているんじゃないですか?

“ここが故郷”と呼べる場所がないですからね。1番最初の記憶だと、幼稚園の時に「大太鼓を叩かせてもらえなかった」っていうのを覚えてますね。ただ、どこの場所だったかは憶えてない(笑)

それでも覚えてるのは、余程叩きたかったんでしょうね(笑)

小太鼓にさせられて。人生で1番最初に味わった悔しさですね(笑)

その後に、音楽への興味が出てくるタイミングがあると思いますが、音楽自体は生活の中でどういった位置づけだったんですか?

最初は学校の音楽の授業も苦手だったし、時間割に「音楽」って書いてあるもの以外、音楽が何か判っていなかったですね。エディット・ピアフの「愛の讃歌」を越路吹雪さんがカバーしたやつを、ばあちゃんが歌ってたのは覚えてて、たまたま昨日も会ってたんですけど、2人で合唱してました(笑)

身近な存在である家族・家庭に、普段から音楽があったんですね。

音楽一家ではないですけど、割と音楽が好きな家族だったと思いますね。ベルギーにいた時、父親のカーステでビートルズの青盤(1967-1970)がかかってたんですけど、あれに入ってる”Hey Jude”のエンディングがやたら長いのが嫌で(笑)

(笑)

もう車酔いするぐらい。「止めてくれ」って言ってるのに父親が止めてくれないから、だんだん刷り込まれていって、逆に好きになっていったんですよね。

邦楽・洋楽云々というよりは、日常的に聴いていたのがたまたまビートルズだったと?

そうですね。そういう風に聴けるようになるのは、もうちょっと大人になってからですね。その後はスピッツがデカいです。ベルギーにいた頃は、日本のカルチャーが入って来ないし、現地にいる日本人自体も少なかったんですよね。そのあと行ったイギリスは、日本人がたくさん居るし、日本用のスーパーや本屋があったのにカルチャーショックを受けるんですけど(笑)その中で、日本の民放集めたテレビのチャンネルが1つだけあって、そこで初めて日本のポップスに触れるんですよね。

日本のカルチャーの1つとして、音楽番組が飛び込んできた?

そうです。当時は12歳くらいで、「THE夜もヒッパレ」「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」とかですね。それまでは、じいちゃんが日本から送ってくれるテレビ番組は「笑点」しかなかったし、それしか知らなかった(笑)ただ、そのお陰で今でも落語好きなんですけどね。当時はCDも売れていた時代で、色んなポップ・カルチャーが飛び込んできた。小室哲哉さんモノからバンドモノまで。

90年代は、今でも色褪せない名曲が、数多く生まれていましたしね。

エレカシ(エレファントカシマシ)、ウルフルズとかもそうですけど、断トツでスピッツでしたね。

スピッツが断トツだったのは、どこがポイントだったんですか?

最初はとにかく歌声ですね。イギリスではSpice Girlsが流行ってたんですけど、まだoasisとかThe Smithsも知らないから、イギリスのポップス・シーンが”ギラギラしてる”って見えて。

ブリット・ポップ抜きだと間違ってないと思います(笑)

それと、国語の教科書が好きで、その中でも谷川俊太郎さんの詩とか夏目漱石の文章なんですけど、けっこう過激なことを書いていたし、特に日本語の縦書きにも「めっちゃカッコイイ」って思ってましたね。そういう時にスピッツに出会って、透き通った声・爽やかだけじゃない、歪な楽曲・日本語の歌詞のカッコ良さがドンズバでした。だから、ビートルズとスピッツは俺の中で2大スタンダードです。ジョン・レノンと草野マサムネさん…..ジョン・レノンだけ呼び捨てにしてますけど(笑)

—ブルースは神様が残そうと思った音楽

(笑)その2大スタンダートの出会いがきっかけで、音楽にのめり込むようになっていったんですね。

邦楽だと、チャートにいたバンドが好きになっていって、B’zとかフラカン(フラワーカンパニーズ)とか聴いてたんですけど、洋楽だとビートルズの60年代が起点になっているから、ビートルズを好きなバンドって山程いたけど、全部好きになれましたね。青盤に入ってたライナー・ノーツに、ベルギーだったからフランス語なんですけど(笑)アーティスト名は英語で書いてあって、ボブ・ディランやジミヘン、ジョージの曲で弾いてるからエリック・クラプトンとか聴き始めて。

クレジットやライナー・ノーツから得られる情報は貴重ですよね。

ホントそう思います。その3アーティストのルーツを辿ると、ブルースだというのが判って。ビートルズが好きになると、その後の未来も好きになれるし、その前の50年も好きになれるんですけど、どれだけ掘り下げてもブルースが最後。何でかって、そこがレコードの生まれたタイミングだから。別に神様を信じちゃいないけど、そこだけは”ブルースは神様が残そうと思った音楽”だと信じてますね。

ブルースから始まっているロックの歴史と、スピッツから得た日本語のカッコ良さが、佐々木さんの源泉になっているんですね。

その起点に出会ったのが、10代の半ばですね。イギリスにいたけど、ブリット・ポップは入って来なかったし、当時の日本の音楽オタクで盛り上がってたんじゃないですかね(笑)もちろん好きですけど、むしろ日本に帰ってから気づいてたから。

実際に楽器に触れられるのは、日本に帰国されてからですか?

そうです。イギリスにいた時からどうしてもギター弾きたかったんですよね。親戚のおじさんに1人はビートルズ好きっているじゃないですか(笑)?ウチにもいて、そのおじさんが何故かガットギターを(笑)

随分と古典的ですね(笑)

本当はエレキが欲しかったんですけどね。しかも、ピックじゃ弾けないんですけど、指弾きがまどろっこしくて、スピッツのバンドスコアを買って、ピックで弾いてましたね。

(笑)「バンド組もう」とかではなく、純粋にギターを弾きたいという?

まずギターを弾きたかった。友達同士でバンドを組もうって話から楽器を決めるエピソードって、周りにそういう友達がいなかったから、俺からすれば羨ましいです。

披露をすることもなく、家で延々と?

その通りです。性格的にも、転校が多過ぎたからなのか、”ここで根を張ってやっていく”という感覚がなかったから「こういう夢を持っている」「こうやって生きていく」って、気軽に言えなくて。

今の佐々木さんに通ずる部分かもしれないですけど、「明日がどういう景色かわからない」ということが、実体験としてあったんですね。

そうかもしれないですね。例えば、ベルギーにいた頃はサッカー少年だったんですけど、やっぱり「サッカー選手になりたい」って言えない。ギター始めたときも「ミュージシャンになりたい」って言えなかったから、家で弾いていたんです。高校に入ってから、コピーバンド始めたり、家でうっすら曲を作ったりしてましたけど、「これでデビューしよう」なんて全然言えないし、ぶっちゃけa flood of circle(以下:AFOC)を組むまで言えなかったです。

人生観にもなっていて、中々拭えることでもないですよね。

また何処に行っちゃうかわかんない中で、ずっと生きていくと思ったら、同じ所にいられないんじゃないかって。あとは、自信もなかったんでしょうね。自分が何処に所属しているかを言い切れないという部分がすごくあったし。でも、CDは何処でも持って行けて、いつでも感動が味わえるから、音楽が好きになったんだと思いますね。スピッツの「ハチミツ」「インディゴ地平線」「フェイクファー」の3枚は、今でもコードも歌詞も全部覚えてますね。

それがあったから、今の佐々木さんがあるとも言えますよね。

生きてこられたと思いますね(笑)

本格的に”バンド”として動かれるのは、その高校からのコピーバンドですか?

当時はスピッツの他に、レッチリやインキュバスのミクスチャー系が流行っていたし、幅も広がっていたんですけど、インターネットがそこまで普及していなくて、Youtubeもまだだったから掘り下げたブルースから当時までの曲を全部聴くのはまずムリだなと(笑)

(笑)妥協ない感じが佐々木さんっぽいですね。

そこから、「何が1番カッコイイんだろう?」って色んな情報から探すよりも、コピーバンドで一緒に演奏することで、”生で演奏する楽しさ”を知ったから、1番生々しい音楽=ブルースに繋がっていくんです。

ー日本人の俺でもブルースをやっていい

肌で感じたことで、確信にもなったでしょうし。

大学に入ってからは、まさにそうですね。2000年代の音楽なんか聴けないやって(笑)

(笑)ブルースのカテゴライズで、よく言われるデルタ・ブルース、シカゴ・ブルース、ブルースロック等があり、佐々木さんは何処に惹かれたんでしょうか?

大きくは”歪さ”や”はみ出してる感”です。2000年代の音楽で、当時流行ってバンドの楽曲をシステマチックに感じたんですよ。パワーコードのリフにオクターブのメロディ、ベースとギターはユニゾンで云々というね。もちろん新しかったし、カッコイイんですけど、何せ2000年代の音楽にヒネくれてたから(笑)

それに比べると、ブルースのチューニングやアンサンブル等は適当ですよね(笑)

3コード・シャッフルビート・12小節進行っていうルールがあるのに、その制約があればある程、はみ出そうとしてる人たちの音楽だから。黒人の人々が虐げられた歴史があって、苦しいと思ったことをメジャー・キーで表現してる部分なんかは、まさにそうで。マイルス・デイビス自叙伝の88ページに書いてあったんですけど、彼は黒人なのに当時白人の音楽学校だった、ジュリアード音楽院に通ってて、白人の先生が「黒人の人たちは、綿花を摘んで苦しい歴史があって、その中で苦しみを音楽にしたのがブルースだ。ブルースのブルーは憂鬱のブルーだから」って説明にマイルスはブチ切れて、「オレの親父は金持ちで歯医者で金歯しかない黒人だけど、ブルースやってるぞ」っていう一節を見たときに、逆にすごい自由だと思って。俺の勝手な解釈ですけど「そうか、日本人の俺でもブルースやっていいんだ」って。

音楽やバンドをやるということに、”ブルースの持つ自由さ”が、佐々木さん自身を放ってくれた感じですよね。

しかも、ちょうどその頃に岡庭(匡志:元メンバー)に出逢った頃だったんで。大学の入学式で出席番号順で隣だったんです。お互いに「ギター弾けるんだ」ってなって、曲を作るようになったり、”自分で表現して良いんだ”ってなりましたね。チョーキングとか、楽譜に載らないはみ出してる感じを日本のライブハウスでやる意味があるんじゃないかって。今でもすごくピッチの良いボーカルよりも、ちょっとヘンなボーカルの方が好きなんですよね(笑)ギタリストも自ずとジミヘンが好きになってくるし。

大学に入ってからが、ある意味のスタート地点とも言えそうですね。

そうだと思います。19歳くらいのときにジャズバーでバイトしてたんですけど、ブルース・ジャズで自分の好きな傾向が判ってきて、最初に出来たのが”ブラックバード”ですね。

ブルースで払拭された人生観、さらにそれがAFOCに繋がっていく。

頭でっかちに「音楽ってこうだな」って思ってたのが血肉化されていくというか….形にでき始めましたね。高校の時、家でこっそり作ってた感じを出していいって気付けた。大学が日芸だったんですけど、割と目立ちたがるヤツが多かったんですよね(笑)その時も「ミュージシャンになりたい」と思って入ったんじゃなくて、「裏方の仕事したい」と思って。まあ、実はその気持ちがあるくせに、言えないから段々近づこうと思って入ったんですけど(笑)

(笑)

岡庭と出会ったことによって、「音楽をやろう」と思えたのがすごくデカかったですね。

実際にすぐ行動へ移ったんですか?

そのあと岡庭の幼馴染だった石井(康崇:元メンバー)と、大学の女の子を誘って4人で始めましたね。確か最初のライブは、15バンドくらいでやった渋谷O-nestですね。ヨレヨレの500円チケットをパー券を捌くかのようにみんなに売って(笑)

イベントだとしても、初ライブがnestって結構良い場所ですよね。
初ライブの景色って覚えてますか?

楽しかったのは覚えてますね。今以上に歪な曲しかなかったですし、”ブラックバード”や”プシケ”は既にこの頃から演ってましたね。

—「砂利道を踏んでないバンドだな」って言われて

結成当初から「1st Mini Album “a flood of circle”」に収録される楽曲を既に演奏されていたんですね。

そうですね、メジャーのファーストまでの楽曲は、幾つかありましたね。当時のギターは、YAMAHAのジャズに使うようなセミアコを使ってて。リサイクルショップに置いてあったやつなんです。その日にたまたま入荷したものだったらしくて、まだ値段がついてなかったんですけど、「今買うんだったら8000円にしてやる」って言われて(笑)そのあとのテレキャスはメジャー・デビューに併合わせた気合いの購入ですね(笑)

(笑)ライブ活動がメインの中で、当時の目的や成し得たいことってあったんですか?

いや、メチャクチャ能天気でしたよ(笑)楽しくて仕方なかった。大学2年のときに下北沢シェルターへ毎月出てたのがきっかけで、広がり始めましたと思いますね。ちょうどシェルターの15周年のタイミングだったので、その時あったZEPPのイベントとかも観させてもらってて、54-71や怒髪天っていう先輩を近くで観れるタイミングでもあったから….

バンドとしての環境が変わりましたよね?

それまで学生バンドとかの集まりに行ってたのが、プロの先輩たちとの接点が増えてきて。当時は生意気だったんで、ちゃんと挨拶出来なかったですけどね(笑)

(笑)それによって見える景色も変わるから、バンドモードにはなりやすかったと思いますけど。

そうですね。就職したいヤツは3年のときから、ひたすら頑張ってたけど、俺と岡庭はレコーディングが云々とか、思春期と変わらない会話のままだった。そんなときに、今のマネジメントに会うんです。

ロフトの方との出会いが大きいんですね。

当時は他にも色んなメジャーのレコード会社が来てたんですけど、ロフトの魅力は「来年CD出さないか?」っていう、何も考えてない俺たちに殺し文句を言われて(笑)

(笑)それは飛びつきますよ。

前の年に、FUJI ROCKのROOKIE A GO-GOに応募して落ちたんですけど、その年に出演が出来ることにもなって。大学3年の夏に、CDリリースとFUJI ROCKが決まったから、中長期的な目標よりも目の前の1つ1つに盛り上がってましたね。

そう考えると、メジャー・デビューまでの時間軸を挙げると早いですよね。

そうですね。周りからもそう見られてましたし、シェルターの周りにいた先輩にも「砂利道を踏んでないバンドだな」って言われて。

ただ、「1st Mini Album “a flood of circle”」を今改めて聴いても、違和感がないんですよね。楽曲のバラエティも今に通ずる部分がありますし。

それは良いところに気づいて頂いて(笑)でもホントそうで、当時は色んなレコード会社の新人発掘の人と話をしたんですけど、当時ミッシェルだったチバさんのことをよく引き合いに出されてた。「チバさんになりたいんでしょ?ミッシェル好きでしょ?」って。もちろん好きだけど、勝手に解釈すれば良いし、何言われても引き受けるつもりだった。でも1番ムカついたのは、CD屋のポップに「ミッシェル・ガン・エレファントmeetニルヴァーナ」って書かれてて。

中々の宣伝文句ですね…..

別に良いんですけど(笑)「ミッシェルになりたかったら、もっとミッシェルっぽくやって、バラードとかやらない方が良いよ」って色んな人に言われてたけど、意地でもやったのが”308”ですね。今でも各アルバムにはバラードを収録してますけど、それは俺の好きな音楽のスタイルだし、そこは激しくてノリが良い曲と同等だから、今でもそのバランス感が変わってないんだと思いますね。

当時、ここまでブルースをやるバンドもいなかったですよね?

下北や渋谷のライブハウス周りで、ブルースっぽいことやってるバンドはいなかったですね。「ダセーよ」って言われそうなことをやっていたけど、そこは変な自信があったんですよね。「これを育てて、日本のロック・シーンに勝負を仕掛けて行くんだ!」じゃなくて、「これしかないから、これをやっていく」って気持ちでしたね。

FUJI ROCKのROOKIE A GO-GOでの出演は、その自信のまま演奏が出来た?

酔っ払いの外国人ばっかりいましたね(笑)その時、「スゲェ自由で良いんだな」って思いましたね。

それは演奏自体?それともライブの空気感に?

ライブハウスじゃなくて、野外でやったのが初めてだったのがまずあって。当時の俺らには、純粋なお客さんがいなかったから、ライブハウスにある程度の目的意識を持って来てる人が多かった。例えば「友達で」とか、「友達の知り合い」「後ろの方にいる大人の方々」みたいなね。そうじゃなくて、「ただ単に音楽を楽しみたい」「その場の空気を楽しみたい」「酔っ払いながら踊りたい」っていう人たちが、俺たちのライブを観てくれてたから、すっごい嬉しかったし、生々しい音楽を”生”で届ける喜びを初めて感じましたね。

ROOKIE A GO-GOというステージの性質上、逆に燃えるというか、次のステージを目指したくなりません?

「何処と比べてるんだ」っていう感じですけど、「さっきまで観てた、ケミカル・ブラザーズは人がパンパンだったのに、なんで後ろの方は人がいなんだ」って (笑)ただ、「これは昇っていくものだ」って思いましたね。ROOKIE A GO-GOはゲートの外だったから、良い演奏をしないとゲートの中には入れないんだって。

FUJI ROCKは、レッド・マーキー、ホワイトステージ、グリーンステージっていうステップアップ感もありますしね。

バンドを成長させていくことと、大きいステージを目指したいという意識は、この時にできましたね。

良い意味で、今の自分達を認識出来たことが、その意識に繋がったんですね。

—全員ブッ飛ばせる曲を入れたかった

次の「泥水のメロディー」は、その意識で出来ましたね。

前作と比べてスピード感がある楽曲が増えましたし。

ライブハウスをすごく意識してBPMを上げましたね。当時、やっと俺もナベちゃんの影響で2000年代の音楽を聴けるようになって。

ちょうどアークティック・モンキーズがデビューして、ストロークスが3枚目の頃ですね。

BPM早い音楽って抵抗あったし、ダサいと思ってたんですよ。「歪さだけでカッコイイ」だったけど、それは自己満足なだけであって、ちゃんとライブハウスで曲を伝えたいし聴かせたかったんです。「泥水のメロディー」はそういう意味で外向きに作ったアルバムだと思うし、ライブハウスに来てくれる人を全員ブッ飛ばせる曲を入れたかったんです。

あのビートとスピードは、1つ飛び出した感じが如実に出ていますよね。

そうですね。箱庭感というか、学校の校舎の隅で作っていた妄想を爆発させたのが1stだったとしたら、2ndはライブを始めて感じたことや、周りは社会に出て行こうとしている中で、”俺たちは道を踏み外してここにいる”っていうことが、楽曲になっていったと思いますね。

ライブがメインで言うと、この時期にライヴ音源を立て続けに発表されていましたね。

「泥水のメロディー」のあとに、メジャーの話が来てて2009年4月に設定したんですけど、そこまで駆け抜けようと。それまでに”どういうバンドか”を提示する為に、土臭さや泥臭さが出せるライブ盤を選んだんです。

そのデビューの前に、新宿ロフトで a flood of circle“1st ONEMAN LIVE”を開催されました。

それまでワンマンなんてやったことなかったから。逆にそれまでは、本当に良い対バンをさせてもらってました。さっき「砂利道を踏んでない」って言われたエピソードは、川崎のチッタであったシェルターのイベントで、直接聞いてないですけどTyphoon 24のmiyaさんから、後から聞いた話で言われたんですね。「くっそー、いつか見返したい」って思ってたけど、miyaさんが亡くなったから、叶わないですし今でも残ってるんですけどね。そういう中で成長もしてこれたから、ワンマンって考えてなかったけど、デビュー前に1発やろうということで。

気合いも入ってたでしょうし、ライブ時間全てがAFOCの世界になるのも初めてですよね?

ただ、学んだことが多かったですね。というのは「良かったね」っていう部分が殆どなかったから。その辺りから「悔しい」って想いが、いかに大事かがわかってきた気がします。

—1回空っぽになって、次の挑戦が始まる

「BUFFALO SOUL」のレコーディング自体はそのタイミングでは終えられていたんですか?

そうです。いしわたり淳治さんに3曲プロデュースしてもらったんですけど、その直後でしたね。

スーパーカーは元々好きだったんですか?

もちろん。ナンバーガールとかの世代ですから。AFOCの泥臭さをいかにアップデートするかというポイントで、淳治さんにお願いしましたね。俺、大学の入試の時に音響科だったから、色んなミックスの文章を書いたんですけど、スーパーカーのことを書いたくらいだったんで(笑)

(笑)デビューアルバムにセッションを2曲入れているのもブルースらしいし、「春の嵐」のような、歌モノまで成立させているアルバムで、バンドの打ち出す方向性はある程度、佐々木さんの中であったんですか?

そうですね、セッションを入れたのは正しくです。爽やかなギター・ポップが世の中に多かったし、チョーキングとか重いビートを前面に打ち出してるバンドがいなかった(笑)そういう部分を俺たち的にアップデートした楽曲が、「Buffalo Dance」です。

ダンスのビートながら、超絶に泥臭いですよね(笑)

「それが俺たちでしょ」っていう自信があったんですよね。デビューのファースト・アルバムって、それまでの人生を掛けた、22年分のベスト・アルバムでもあるから。ここまでの全てを見せる、それから1回空っぽになって、次の挑戦が始まるっていう。

その矢先に岡庭さんの失踪、それに伴う奥村さんのサポート、そしてツアー、FUJI ROCKとなりますが、ゼロからまた挑戦する姿勢から、環境的なマイナス面もあったと思うんです。

まず、岡庭に出会ったから、「ミュージシャンになりたい」って人に言えるようになったんですよね。大学4年間、そいつしか友達いなかったくらい一緒にいたし、大好きだったんですよね。俺の人生を1番変えてくれたヤツでもあるから。そんなヤツが失踪したときのショックはすごかったけど…..ツアーの途中だったけど、ファイナルが残ってたのをトばせないって思った。死んでるか生きてるかもわからない状況だったし、もしかしたら帰ってくるかもしれないっていうのもあったけど、即決でしたね。

その状況の中で、なぜ即決出来たんですか?

いや、覚えていないんですけど、バンドが止まっちゃダメだって思ったんでしょうね。1番大事だと思っていた友達が急にいなくなったのに、ライブをやろうと思った俺の気持ちを”強さ”とするか”薄情”とするかはわからないけど。あと、次にミニ・アルバムを出そうとしてて、石井やナベちゃんも曲を作り始めてて、みんなチャレンジングに成長をしようとしてたタイミングでもあるし。

「バンドとしての成長や挑戦を止めることは考えられなかった」とも言い換えられますね。

そこは今も変わってない部分です。岡庭は、ブルースのフレーズもそうだし、楽曲もそうだし、バンドのキャラクターを1番持ってたヤツだったから、「バンドとしての模索」というより、「どうやって生きていくか」という模索に近かったかもしれない。その7月のファイナルは、チケットは売れてたけど、アナウンスはしてたから来なかった人もいました。来た人でも、泣いてる人から「頑張れ」って応援してくれる人、純粋に楽しんでいる人までカオスな感じだったけど。

それでもバンドとして、伝えられたこともあったはずで。

それまでのメンバーを応援してくれてた人が離れていって、俺自身も傷ついていたけど、ライブを辞めなかったから何かが伝わったって、わかったんですよ。”音楽が人の気持ちを動かす”ってことと、自分がそれを決断して、”俺はこうやって生きていく”というのを見せられたから、それを体感することができましたし。

実際に11月にリリースした「PARADOX PARADE」は、ゼロになったバンドに、どうさらなるアップデートをしていくかという部分や、先ほどのツアーファイナルでの光景ではないですけど、良いカオス感があって、複数のギタリストをサポートに迎えられたのがすごくマッチしていますよね。

1stの半年後だったし、自分が想定してた”1回空っぽになって”っていう期間が短かったんで(笑)失踪したショックを振り払うようにダッシュで制作しましたね。ある意味、すごいピュアなアルバムでもあるんです。「このアルバムが好きです」って、今でも言ってくれる人がいるんですけど、バンドとしての意思表示を包み隠さず出せたからなんだと思いますね。

—「自分が生きていく」っていうことと、歌詞が近くなっていった

翌年、恵比寿LIQUIDROOMにて、2度目となるワンマンライブを行いましたが、AFOCの意思表示がきちんと出来たライブになったと思うのですが?

そうですね、まず前年の10月に「岡庭が脱退します」ということは伝えていて。友達伝てで生きてるってことがわかったからなのと、バンドに戻る気持ちはなさそうなことがわかったから。今でも俺は会いたいんですけど、向こうの気持ちがそうなるまでは会えないとも思ってます。絶対、話が合うから未だにDuranとか曽根さんを紹介したくらいですけど(笑)まぁ1つの区切りとしてそれは伝えたかったし、それがあったからLIQUIDROOMまで集中して駆け抜けられましたね。

奥村さんのサポートも大きかったのでは?

ホント、大さんのお陰ですね。失踪したときもすごい支えてくれてたし、Wash?のときはギター/ボーカルだから、ステージでセンターに立つということを背中で見せてくれましたしね。

LIQUIDROOM後には、奥村さんから曽根さんにサポートギタリストが変更になりましたが、バンドとしても次のアプローチを考えた上での変更だったのでしょうか?

やっぱりWash?にすごい迷惑を掛けてたんですよね。実は失踪直後って、3人で演奏したんですけど、何曲かは大さんに演奏してもらったんですよね。そのとき、Wash?のレコーディングを蹴ってまで来てくれたんですよ。AFOCが大変だからって参加してくれたのをすごい感謝してるし、Wash?のメンバーも「行って来い」って送り出してくれたのも、堪らなく嬉しかったけど、何処かで区切りをつけないといけないと思いましたから。

そういう経緯があったんですね。

実は新しいギタリストを探したんですけど、しっくりこなかったのもあったから、ちゃんと”サポートとして入ってくれる人”ってことで、曽根さんを紹介してもらったんです。Superflyもやってたし、talk to meでAFOCとも対バンやってたから知ってて。次のアルバムのまでの流れは、曽根さんと作ってたのがデカイですね。

「ZOOMANITY」は歌詞の部分で、リアリティが色濃く出たアルバムだと思います。

そうですね。「PARADOX PARADE」のときは、淳治さんとやった感覚が活かされて作ったんですけど、「ZOOMANITY」のときは、割と自分なりに消化出来てる部分があって。昔は感覚だけで書いていて、それが良かった部分もあったけど、「自分が生きていく」っていうことと、歌詞が近くなっていったから。「Human License」は職質されたときに書いた曲なんですけど(笑)

マジですか(笑)

身分証明書がなかったんですよ。金がなさ過ぎて、保険証も何も持ってなくて。「何かを証明することは出来ないな」ということが、自分の生活の中で出てきたタイミングですね。曽根さんが殆どギターを弾いてくれたのが「ZOOMANITY」だったんで、曽根さんと作ったという部分ですね。

この年で、現メンバーであるHISAYOさんになりましたが、改めて決め手は何だったんでしょうか?

石井の辞め方が結構さっぱりしてて。元々体調が悪かったり腱鞘炎とか、色んな理由があったけどね。失踪・脱退を乗り越えて、せっかく乗り越えてきたのに、ここで辞めるんだっていうね。ナベちゃんと「これで2人になったらホワイト・ストライプスになろう」って話してましたね(笑)

そのくらい、腹は決まってたと?

そう。石井の希望もあって、その年のブリッツのライブまでは3人でやろうと。その間にメンバー探しをしましたね。何故サポートじゃないかというと、ギター・ベース・ドラムっていうバンドの骨格は残したかったんですよね。

AFOCの音楽を実現するならば、自ずとそうなりますね。

それで最初、TOKIEさんとウエノさんが思い浮かんでたんですけど(笑)対バンしてたバンドを眺めたときに、GHEEEともやってて、姐さん(HISAYO)が挙がったんですよね。決め手は、セッションしてとか、何でもないんですけど(笑)セッションの前の日に、街中で姐さんとたまたますれ違ったんですよ。姐さんと俺って、その辺がロマンチストなんで、「これは何かある」ってお互いに思ったんです。

実際にセッションしてみても何ら違和感なく?

しっくりきて。俺たち的にもそのセッションでお願いしますって。絵的にもすごい華があるし、何が1番かって、AFOCの中で1番の漢(おとこ)らしいんですよ(笑)tokyo pinsalocksという軸があるから、色んなことが出来るっていう部分も出てるし、(tokyo pinsalocksが)2人になっても「絶対辞めない。私はここがあるから生きていけるんだ」っていう部分が、ステージはもちろん、普段の言動や態度にすっごい出てるから。姐さんがブルースやロックが好きじゃなくても、俺が好きなブルースマンやロックの生き方にすごい似てるんです。tokyo pinsalocks初めて観に行ったときに「ブルースだって思いましたよ」って言ったら「亮介くんが言ってるブルースってこれだったのね」ってわかってくれて。

お互いに精神的な部分で分かり合えたから、AFOCでやっていけるんですね。

音ももちろんだけど、そういう繋がりが大事ですからね。ただ、ファンと姐さんは大変だったと思います。ライブを消化したあとに、石井が辞めることと、姐さんが加入することを発表したから、ファンからしたら次のライブから違うメンバーになるわけだし、姐さんもそのプレッシャーの中でライブだったからね。

—バンドマンとして生きていくのを堂々と見せられた

そして、AFOCとしての新体制が形成された中、震災があって。これまでバンド内で数々の苦難を乗り越えてきましたが、ここまで大きな出来事が自身の周り・世の中で起こることは初めてだったと思います。

これまで「俺はこうやって生きていくんだ」というのを曲に反映してきたけど、それが「誰かにとってどうなのか?」「世の中にとってどうなのか?」という部分を意識せざるを得ない感じだった。「音楽に意味があるのか?」っていうよりも、単純に「どうやって生きていこう?」というか….俺、音楽に意味がなくたって、捨てるつもりはなかったけど、その上で”どういう音楽をやるか”が大事だったんですよね。その日の22:00くらいに歌詞を書いたのが「感光」です。

当時は、いろんなミュージシャンの方が、自身の音楽活動に対して自粛という風潮があったり”そもそも何をすれば良いか?””何が出来るか?”を苦心されていたと思うんですけど、佐々木さんは直ぐにアクションを起こせたんですね。

作ったのが早かったですね。その後のワンマンがデカくて、電気の問題とか色々あったけど、「やると決めたものを惜しまずやるのがAFOCじゃないか?」って姐さんが言ってくれて。

「こう生きていく」という意思表示を出来たライブだったでしょうし。

世の中に「バンドマンとして生きていく」というのを堂々と見せられたからね。

「I LOVE YOU」の歌詞が正しくですよね。

「I LOVE YOU」なんて、昔の俺なら言えなかったし、そんな言葉を聞きたくないって人もいたかもしれないけど、俺はむしろど真ん中で言い切ることが大事だと思ったからね。周りでいう人もいなかったし、ロックンロール・バンドぐらいはシャッフル・ビートに明るいDのキーで歌うのが良いと思ったんです。

“言い切るということの重要さがわかってたから”という部分もありますよね。

ディスられたり、誤解されても全然良かった。言い切ることが、1番強く伝える方法だったと思いますね。

「LOVE IS LIKE A ROCK’N’ROLL」が、今のAFOCの始まりだったとも言い換えられますよね。

原点だと思います。「ZOOMANITY」までの”踠いて自分の中で整理して作ったもの”ではなくて、”みんなに気合が入ったものを伝える”ということが初めて出せたアルバムですね。

それはすごく納得感があります。3コードでシャッフルでという曲が多いのは、「小難しく表現するよりも、如何に伝わりやすい楽曲であるか」が重要になっている分、曲自体の表情は豊かになってますし、「感光」だけは、唯一重いのが逆に伝わるというか。

あのときライブやってて思ったのが、音楽で大事なことを伝えたかったから、世界観がどうとか、どういうプロセスで云々とかよりも、軽快なビートに乗せて削ぎ落とした大事な言葉だけでということが重要でしたね。結局、「感光」でも”生きていて”という言葉を伝えるのが大事なわけだから。

これまでは、ブルースに対してのアップデートをすることで、楽曲のダイナミズムを生み出していたけど、シンプルが故に難しさもありながら、3人のAFOCとしての本能が出てますよね。

そうだと思います。姐さんが入って最初のアルバムだったし、俺自身もGretsch買ったり、新しい革ジャン買ったり(笑)”新しく始めるぞ”っていう気持ちでしたね。そのツアーの最終だった渋谷AXに辿り着くまでって、これまでのツアーの中で、1番成長速度が早かったですね。けっこう、周りからも言われてて「あのツアーでAFOCは変わった」って。

具体的にどこが変わって、成長したんだと思います?

俺が変わったんでしょうね。歪なものが好きだったけど、もっと本能的に”伝えなきゃ”って気持ちでバンドに向いたのがデカかったんだと思う。

自分で体感している以上に、周りでは変化していることに気づいてたんでしょうね。

最初は姐さんも「バンドを引っ張らなきゃ」って言ってたんだけど、それを見て「ついていこうと思った」って言ってくれたんで。

良い意味で、バンド内の関係性において、佐々木さんがイニシアチブを持つタイミングでもあった?

イーブンだった関係性から「亮介、行って来い」っていう感じになりましたね。曲作りでも”いかに俺が言いたいことをズバッと言えるか”が軸になったりしてた。それもあって、この辺から曲作りが詞先に変わって行きましたね。

このワンマンツアーで得たものが「FUCK FOREVER」に繋がっていくし、それがなかったら、生まれていないんじゃないかと思えるくらい、バンドとして重要なツアーでしたね。

メンバーチェンジとかもなしでね(笑)”次に広がるのは間違いないな”という手応えがありました。そこで「LOVE」を言いまくった反動がここに来たという。

確かに(笑)

何処を根っこに、自分の考えを世の中に出していくかを考え始めたときに、やっぱり自分の身近な家族、メンバーやスタッフが軸になって。「Summertime Blues Ⅱ」を書いてるときが、ちょうど反原発が盛り上がったときで、清志郎さんの「サマータイム・ブルース」がいつも掛かってたんですよね。

それに頼ってる感じもありましたよね。

だからこそ、それに頼りたくないって思ったんですよ。「清志郎さんが今生きてたらなんて言うか」なんて、聞きたくもないって思ってて。たくさんのことを残してくれたし、大好きだけど、だったら自分たちで言いたいことを書いた方が良いと思ってたから。

“世の中に自分の考えを示す”ということに通づる部分ですね。

だから、「Summertime Blues Ⅱ」はエディ・コクランの方じゃなくて、清志郎さんの方に対してのⅡなんです。曲ももっとエグくなって。ただ、歌詞を3番まで書いたときに、清志郎さんのことを書くのが悔しくなったんですよ。

清志郎さんが残してくれたものを”なぞる”ことが”言いたいこと”ではないと?

そう。俺がなんで原発のことだったり、エネルギーのことが不満なのかって言うと、「自分の身近な人が苦しいからじゃん」って思って。父親の実家が仙台だったんで、東北のことをすごく敏感に考えてたし、福島のことに一生懸命になってる人が周りにいたからなんですよね。「核などいらねー」って清志郎さんから教わる前に、ばあちゃんから教わってたわって。

本当にそれが歌詞になったんですね。

はい。それさえあれば、この世の中に自分が何を求めてるかが、ハッキリしてくるなと思って。「FUCK FOREVER」って言い切りたいってすごく思ったし、レーベルには迷惑掛けたんですけど(笑)その態度をはっきりさせることが、自分のバンド人生ですごく大事なことだったと気づいたんですよね。

「FUCK FOREVER」の持つアティチュードは強いですよね。

何に1票入れるかとか、何を買うかとかは、自分の政治だったり自分の経済の判断じゃないですか?そういう基準を自分のバンドってものと、自分の生き方を初めてリンクさせられた気がしてて。「FUCK FOREVER」はミニアルバムだけど、めっちゃ強いアルバムだと思ってます。

—”言いたいことを言う”だけじゃなくて”言いたいことをどう伝えるか”

地に足をつけて、言いたいことを言えたアルバムだと思います。

そうですね。ビリー・ジョエルの「Piano Man」を日本語詞つけてカバーして「BLUES MAN」にしたんですけど、好き勝手に書いたからデリヘルとかむちゃくちゃなこと書いてて(笑)

(笑)

「オフィシャルOKが出るはずない」と思って送ったらOKが出たし、言いたいことを言わせてもらう環境がありましたね。ただ、そのあとのツアーが大変で….”言いたいことを言い切る”こと、”AXまでのツアーで成長”が実感できてたが故に、逆に次のツアーでLOFTが最終になる、敢えて小さいハコをまわったんですけど、次の成長ステップをどう踏んだらいいのかにすごく悩んだんです。

この流れだけを伺うと、初期に比べて順風満帆な歩みが出来ていると思いますが?

ダメなライブを見せてたとは思ってないけど、「まだ成長できる余白がある」と思ったまま終わったツアーだったから、いまだに悔しいんですよね。

それは自分自身もそうだしバンドとしても?

そう。多分これまでって、メンバーが毎年変わってきた、不安定なスピード感の中で、「悔しい」とか「今やらなきゃ」みたいな感じでアルバム作成・ツアーの連続だったのが、始めて安定したメンバーで、バンドを進められたんで。それって1番良いことなんですけど(笑)

なるほど。

逆にそこに向き合えたからこそ、もっとバンドを成長させるには、「周りの環境のせいにしないで、自分たちで作り上げなきゃ」っていう気持ちに繋がったと思いますね。メンバーともバチバチやったし、最終日の打ち上げで、曽根さんとバトルして終わりましたね(笑)

(笑)「Dancing Zombiez」はその回答になった?

その悔しい思いをしたから、自分自身の課題も設けてて。素直でシンプルな言葉を伝えることは出来たと思ったと同時に、「今までは、言いっ放しで終わってるんじゃないか」と考えるようになりましたね。それをもっと深く・広く伝える言葉にしようと。

さらに音楽的な進化も遂げたのが「I’M FREE」になって行く。

正しくそうです。「I’M FREE」はインディーロックっぽいものとか、現代音楽を聴かない俺が(笑)めちゃくちゃ意識的にリズムやコードを取り入れていったアルバムなんです。

サウンド面の進化が如実に出ていますよね。

これは3部作だと思っていて、「LOVE IS LIKE A ROCK’N’ROLL」「FUCK FOREVER」で”言いたいことを言える歌詞から書く”っていうスタイルに「I’M FREE」はアレンジ・サウンドの面の進化が出来たと思います。「Dancing Zombiez」はそのきっかけになった曲だし、”言いたいことを言う”だけじゃなくて、”言いたいことをどう伝えるか”までが考えられたアルバムですね。

「3部作」と言った佐々木さんの真意に触れたいんですけど、逆に言うと3人でのAFOCで到達出来る、楽曲がこの時点で作れたとも言えますよね?

俺たちってドカンと売れてないから、動員とか売り上げってちょっとずつ上ってきたんです。その中で、変わらずに3人のメンバーが3枚作れたから、1つの形ができたと思いました。だから「I’M FREE」できた時点で、次どうしようってなってましたね。

—AFOCを好きだって言ってくれる人全員に、少しでも良い景色を見せたい

「AFOCの47都道府県制覇!形ないものを爆破しにいくツアー」ではバンドとしても初のアプローチでしたが、佐々木さんにとってもバンドにとっても、重要な意味を持つツアーだったのでしょうか?

まず、「I’M FREE」を作って、到達したことに対して”自分にどう壁を作っていくか”がありましたね。メンバーは「ええ!?」ってなってましたけど(笑)ここ(日本)で生きていくと言ったことの生々しさや、はみ出す程の情熱を全ての街に見せれるってことは、計り知れない成長があると思えたし、逆に成長出来なかったら、バンドマンとしてクソだと思ってたから。

それは実際に、ツアー中で既に得られていたのでしょうか?

(佐藤)タイジさんや高野(哲)さんと話してて思うのが、「それぞれ街によって、問題は違う」ということで、俺もそれは感じてたんですよね。例えば打ち上げ1つ取っても県民性があって、食べ物だってその土地の特産物があり、街の景色の美しさもそれぞれある。それと同じように、その街でしかない問題や苦しいことはある。それこそエネルギー問題で言えば、原発もあれば、それ以外のエネルギーの問題だってある。

しかもそれらは実際に行って、見て、感じないと正確な情報を得られない部分が多いですしね。

そうです。特定の街に住んだことがない俺からしたら、ずっと同じ街にいるからこその楽しさや苦しみに憧れてる部分もあるけど、こうやって転がり続けて来たから、希望を歌っていくバンドマンとしての姿を見せるツアーが出来たと思ってましたね。

もちろんそこには、その場所ごとで人と触れ合っていたからこその体感ですよね。

そこが大きいです。ちゃんとその場にいる人に聴かせることですね。しかもロックンロールっていう、泥臭くて伝統のある音楽を今こそ伝えていくことの意味を持ちながら全国を周れたし、その後の曲作りにめちゃくちゃ反映されましたね。

「KIDS」や「アカネ」等がそれにあたりますか?

そうですね。あとは単純にそれまで詞先でやって来たのがあって、個人的な課題としては曲先で作ろうというのがありました。その年の5月に「I’M FREE」が完成して、そのあと周った「東北ライブハウス大作戦」の時点ですね。その3つのツアーを周るだけでも色んなことを感じますけど、その気持ちを言葉で表すんじゃなくて、先にリズムとメロディーにしようと思いました。

しかも、その感じたことで作り上げた楽曲は、悲しさや苦しみを表すのではなくて、むしろ逆の感情が剥き出しなっていますよね?

景気の良いビートとドカンと乗れるメロディーですね。しんみりした気持ちを持って帰ってくることはしなかった。それはまた戻って来たときに、景気の良い曲を持って行きたかったからなんです。

「KIDS」の持つ”明るい未来”がそれを表していますし、先程佐々木さんが言った”成長”という部分では「Buffalo Dance」のような踊れる楽曲の進化があります。

実際に形になるまで、翌年の1月まで掛かりましたけどね(笑)

(笑)今年に行った「a flood of circle 8th Anniversary Oneman Live“レトロスペクティヴ”」は、これまでの話の流れで言うと、また”壁”を作ったんですか?

(笑)まず、”全県”のあとに”全曲”って、絶対面白いと思いましたね。その頃にDuranを入れようっていう流れもあったから、今までのバンド・ストーリーに区切りをつけるって意味も大きかったですよね。

“全曲”って言葉にすると簡単ですけど、リハも本番も大変ですよね?

むちゃくちゃ大変でしたよ(笑)でも裏を返すと、ライブで暫く出来ていなかった曲があったからですね。

特にここ何年かは、必然的にHISAYOさんが入ってからの曲がメインになりますよね?

だからこそ、それ以前の曲を姐さんと演ることに、意味があったと思いますね。メンバー・チェンジが多いと、時期によっての好き嫌いが出ちゃうけど、昔のAFOCが好きだった人も観に来てくれてたし、その人たちに今のAFOCを観せられたのが良かったと思いますね。

たとえメンバーが変わったとしても、AFOCには変わりなくて、しかも今のAFOCが受け入れられたという結果は、転がり続けたからこそだと思うんですよね。

ホントそうで。俺は今までメンバーが変わっても止まらなかった分、メンバーやスタッフ、関わってくれた人全員、AFOCを”好きだ”って言ってくれる人に、少しでも良い景色を見せたいんですよ。アルバム毎に人が違うっていう部分で、拒否反応があるのもわかるんだけど、そういう人たちも連れて行きたいから。

過去ともきちんと向き合い、その久しぶりの楽曲たちを演奏する中で、どういった感情があったのでしょうか?

やっぱり色々と思い出しますよね。「こういうクセで作ってたなぁ」とか(笑)曲作りにも通じるんですけど、今までのリズムや構造のクセがわかった分、これまでやってなかったことが見えて来たんですよね。実際、ライブで身体はボロボロだったけど、泣いてるお客さんもいたり、長くからバンドの面倒を見てくれた人からも「すごく良かった」って言ってもらえて。

区切りという意味には、過去への決別ではなく、過去でさえ未来に連れていくんだと思いましたね。

“伝わる”ってそういうことだなと思いましたね。

—ロックンロールっていう音楽をシーンのど真ん中に持っていきたい

ただ、ある意味これだけ強固なバンドに昇華している中で、Duranさん加入がびっくりでしたね。

いや、俺もそう思ってました(笑)

今回のアルバム「GOLDEN TIME」に収められた「GO(Album ver.)」を聴いて、逆に納得というか、やられました(笑)アルバムの制作にあたって、全体像は見えていたんですか?

全然ですよ、「Golden Time」なんて後の方で作って、やっと見えてきたくらいです。しかもDuranが入ってくるのは超想定外だったから(笑)そもそも、ギタリストの枠なんて空けてなかったから。

その中でも、HISAYOさん加入時のように、人として共有出来る部分があったと?

その通りです。上手いギタリストならたくさんいるし。で、やっぱり同じ目線でやれるヤツだったからというのがデカイですね。

先程も触れさせて頂いた「GO(Album ver.)」はシングル・ヴァージョンに比べて、かなり広げた音の世界になってますよね。

元々、CM用に作った曲で「暑苦しいバンドはAFOCしか思いつかなかった」っていうオファーからだったんですけど、それは嬉しかったからミックスをモノっぽくして、突き抜ける音にしたんですよね。ただ、その突き抜け方が「FUCK FOREVER」くらいまで戻ってるような気がしてて。Duranのすごい所は、音を広げてもちゃんと存在感を出せるギターで、バンド人生10年分の苦しさや苦味みたいなものが、太い音で伝わってくるんですよね。

「スカイウォーカー」はまさにそうですね。

今までだったらコンプかけてましたね(笑)もっとオープンに入って来れる隙間を持ったままで、スピード感がある曲が作れましたね。

アルバムのリード曲でもある「Golden Time」は、ものすごい数のリズムパターンがあって、4人という存在感=今のAFOCが如実に出ていますよね。

歌詞にある”君”って、身近な人たちを歌ってるんですけど、”連れてく”って言葉がしっくりきていて。それは”良い景色を見せたい”ってことに繋がるんです。もっと言うとAFOCが好きな人だけじゃなくて、”ロックンロールこそが本当にカッコイイし自由だ”と思ってて、そういう生々しさが今の時代に必要だと確信してるから、ロックンロールっていう音楽をシーンのど真ん中に持っていきたいし、その時には俺が先頭に立っていたいから、それを歌詞に表してますね。

「STARS」の歌詞に注目したいんですけど、”1000の夜”に描写される景色が佐々木さんの実体験が描かれていると思ったのですが?

良い読みだと思います(笑) 「STARS」とか「ホットチョコレート」の様な曲って、毎日1曲は書けるんじゃないかっていうくらい得意な曲調なんですよ。高校生のときに作った「ロシナンテ」、「LOVE IS LIKE A ROCK ‘N’ ROLL」に入ってる「Boy」、「I’M FREE」に入ってる「Diamond Rocks」もそうで、俺の中で連綿としてるソング・ライティングなんです。だから、1番俺の根っこが出てる曲だと思う。「ロシナンテ」だと”何かを失くしながら、それでも生きていく”って書いてるんですけど、今は伝えたいことや目的がはっきりしてるから、今の「STARS」の歌詞になるんです。ライブを演ってても思うし、例えば前に出て行くのも盛り上げたいというよりは、それを体現したくて行ってる気がするんですよね。

“連れていく”という意味では「Golden Time」にも通じますしね。

そう。この連綿とした曲って、今まではリードにしてこなかったんですよ。でも今回は腹括ってリードにしたことも、進化の1つだと思います。

「ホットチョコレート」も”トゲトゲしさ”だけではない、佐々木さんの素が出ていて、バンドとしても次のステージに行った気がしますね。

敢えて言うと、「コイツ、色んな面を見せようと思ってるな」って見られると悔しいから、「ここが俺の天然だから」と言っておきたい(笑)

(笑) 「Golden Time」はバンドの”エクストリーム”が見られていて、ある種目的がはっきりしていましたけど?

「ホットチョコレート」は日常の中で見逃しそうなことを敢えて表現していて、目的だけじゃない部分に人の態度や感覚って表れるから。ちゃんとそういう部分を曲にしておきたかったし、それがないとダメだとも思ってますね。

「Black Eye Blues」は、今回の”壁”としていた曲先だったんですか?

そうです。Duranのスライドやリフ在りきで考えました。この前、リリース前にライブで演ったらむちゃくちゃ盛り上がったんですけど、コーラスの部分がちゃんとハマったと思いましたね。4人のことをどう歌詞にするかと考えたときに、そのままバンドのことになったんですけど(笑)

(笑)全県ツアーや、Duranさんのことも描写されていますね。

お互い二十歳で「これから頑張っていこうぜ」って出会ったんじゃなくて、戦って苦い汁も舐めてからの出会いだから、お互いのストーリーも意識していますね。で、それをバンドで表現したかった部分が書けたと思うから、俺以外の3人に感謝もしています。

「KIDS」や「アカネ」はアルバムに収められるまで、ライブでの成長も見せてきた楽曲ですが、改めて収録してみて、その成長は感じれますか?

アルバムの中で言うと、今までってシングル曲を前半に収めてたんですけど、今回の楽曲はどれも良かったから、「シングルは後ろで待ってて下さい」って感じでしたね(笑)
もちろん、成長は感じれたんですけど、この2曲があったから”リズムとメロディーから作る”っていう感覚を取り戻した楽曲が出来ましたね。

今回は「東北ライブハウス大作戦」に持って帰れますし。

そう、石巻にやっと持って行けるから、どう成長出来たかの答えがまた見れると思いますね。

—こんなギリギリのライブやっても、明日ライブがある

「Party!!!」の!を3つを並べるあたりから、この曲の持つ意味や感覚を物語っていて。

今回のタイトルってアホなのばっかりですよ(笑)

(笑)このフルメンバーでのライブを期待したくなりますね。

これは、全県ツアーの後に達成感があると思ったら、全然なくてむしろ悔しさだけ残ったんです。今まで椅子がない場所で散らかしながらライブをやったあとに、野音っていう椅子があるところでやったら、戦い方がまだまだ出来てなかった。もちろん、良いライブではあったけど、まだまだやれると思いまいしたね。それがあって、また椅子があるところで戦うときのために、ホーン・ピアノ・コーラスっていう豪華メンバーで録りました。

以前だったら、削っていたかもしれない要素ですよね?

ホントそう。でも、デカイとこに行く予定だから入れとこうと(笑)そのつもりで生きてるし、その辺がお笑い芸人っぽいって言われるけど(笑)いつかこのメンバーでライブしたいですね。

“衝動を更新し続けるバンド”であると個人的解釈をしていて、それはこれまでの作品然り、今の体制、そして「GOLDEN TIME」という作品が生まれた意味にも繋がると思うんですね。

“ギリギリを求め続けた”っていうのはあると思います。元々特定の街に住んだことがないから変化に対して恐れはない分、逆に変化を恐れることの方が恐ろしい。特に俺の周りは変わらないでいてくれるから、変化し切れるだけしたいんです。ロックンロールバンドって転がり続けることが大事だけど、転がるために妥協したくないから。

安定では転がれないし、転がるには変化が必然であることを理解しているからですよね?

そうですね。ツアーファイナルじゃなくても、1本1本のライブで「これで死んでもいい」って思って続けてこれた奇跡があって、”こんなギリギリのライブやってるのに、明日もライブがあるの?”って思わせられたら、「明日はない」って未だに歌ってる意味があることだと思うし。

“Golden Time Rock’n’Roll Show”は今回パッケージしたものを解き放つ空間にもなり、またその変化が見られる時間となりそうですね。

今回のアルバムを作るにあたって、「GOLDEN TIME」は”a flood of circleの時間が「GOLDEN TIME」である”というコンセプトがあって。朝イチの「中津川THE SOLAR BUDOKAN」でも、夜中のFUJI ROCK「ROOKIE A GO-GO」でも楽しい時間は自分たちが作れるというね。Duran入って最初のツアーでもあるし、どの場所でもギリギリの先にある変化をしながら、転がり続けたいですね。


取材:2014.11.10
インタビュー・テキスト:Atsushi Tsuji(辻 敦志) @classic0330
photo by Susie