佐々木亮介(a flood of circle) インタビューvol.22

—”Hey Jude”のエンディングがやたら長いのが嫌で(笑)

今回は佐々木さんの歴史を振り返りながら進めていきたいんですが、出身から伺おうかと。

俺、出身がバラバラというか…出身地を聞かれるのがいつも困るんです(笑)出生は横浜なんですけど、親がいわゆる転勤族だったから、3年毎くらいに変わっていましたね。千葉に行ったり、ベルギー、イギリス、また千葉に戻って所沢、東京みたいな。実家が今は東京だから、「出身は東京」と公言してますね。

それだと、幼少期の記憶というより、場所毎の記憶として残っているんじゃないですか?

“ここが故郷”と呼べる場所がないですからね。1番最初の記憶だと、幼稚園の時に「大太鼓を叩かせてもらえなかった」っていうのを覚えてますね。ただ、どこの場所だったかは憶えてない(笑)

それでも覚えてるのは、余程叩きたかったんでしょうね(笑)

小太鼓にさせられて。人生で1番最初に味わった悔しさですね(笑)

その後に、音楽への興味が出てくるタイミングがあると思いますが、音楽自体は生活の中でどういった位置づけだったんですか?

最初は学校の音楽の授業も苦手だったし、時間割に「音楽」って書いてあるもの以外、音楽が何か判っていなかったですね。エディット・ピアフの「愛の讃歌」を越路吹雪さんがカバーしたやつを、ばあちゃんが歌ってたのは覚えてて、たまたま昨日も会ってたんですけど、2人で合唱してました(笑)

身近な存在である家族・家庭に、普段から音楽があったんですね。

音楽一家ではないですけど、割と音楽が好きな家族だったと思いますね。ベルギーにいた時、父親のカーステでビートルズの青盤(1967-1970)がかかってたんですけど、あれに入ってる”Hey Jude”のエンディングがやたら長いのが嫌で(笑)

(笑)

もう車酔いするぐらい。「止めてくれ」って言ってるのに父親が止めてくれないから、だんだん刷り込まれていって、逆に好きになっていったんですよね。

邦楽・洋楽云々というよりは、日常的に聴いていたのがたまたまビートルズだったと?

そうですね。そういう風に聴けるようになるのは、もうちょっと大人になってからですね。その後はスピッツがデカいです。ベルギーにいた頃は、日本のカルチャーが入って来ないし、現地にいる日本人自体も少なかったんですよね。そのあと行ったイギリスは、日本人がたくさん居るし、日本用のスーパーや本屋があったのにカルチャーショックを受けるんですけど(笑)その中で、日本の民放集めたテレビのチャンネルが1つだけあって、そこで初めて日本のポップスに触れるんですよね。

日本のカルチャーの1つとして、音楽番組が飛び込んできた?

そうです。当時は12歳くらいで、「THE夜もヒッパレ」「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」とかですね。それまでは、じいちゃんが日本から送ってくれるテレビ番組は「笑点」しかなかったし、それしか知らなかった(笑)ただ、そのお陰で今でも落語好きなんですけどね。当時はCDも売れていた時代で、色んなポップ・カルチャーが飛び込んできた。小室哲哉さんモノからバンドモノまで。

90年代は、今でも色褪せない名曲が、数多く生まれていましたしね。

エレカシ(エレファントカシマシ)、ウルフルズとかもそうですけど、断トツでスピッツでしたね。

スピッツが断トツだったのは、どこがポイントだったんですか?

最初はとにかく歌声ですね。イギリスではSpice Girlsが流行ってたんですけど、まだoasisとかThe Smithsも知らないから、イギリスのポップス・シーンが”ギラギラしてる”って見えて。

ブリット・ポップ抜きだと間違ってないと思います(笑)

それと、国語の教科書が好きで、その中でも谷川俊太郎さんの詩とか夏目漱石の文章なんですけど、けっこう過激なことを書いていたし、特に日本語の縦書きにも「めっちゃカッコイイ」って思ってましたね。そういう時にスピッツに出会って、透き通った声・爽やかだけじゃない、歪な楽曲・日本語の歌詞のカッコ良さがドンズバでした。だから、ビートルズとスピッツは俺の中で2大スタンダードです。ジョン・レノンと草野マサムネさん…..ジョン・レノンだけ呼び捨てにしてますけど(笑)

—ブルースは神様が残そうと思った音楽

(笑)その2大スタンダートの出会いがきっかけで、音楽にのめり込むようになっていったんですね。

邦楽だと、チャートにいたバンドが好きになっていって、B’zとかフラカン(フラワーカンパニーズ)とか聴いてたんですけど、洋楽だとビートルズの60年代が起点になっているから、ビートルズを好きなバンドって山程いたけど、全部好きになれましたね。青盤に入ってたライナー・ノーツに、ベルギーだったからフランス語なんですけど(笑)アーティスト名は英語で書いてあって、ボブ・ディランやジミヘン、ジョージの曲で弾いてるからエリック・クラプトンとか聴き始めて。

クレジットやライナー・ノーツから得られる情報は貴重ですよね。

ホントそう思います。その3アーティストのルーツを辿ると、ブルースだというのが判って。ビートルズが好きになると、その後の未来も好きになれるし、その前の50年も好きになれるんですけど、どれだけ掘り下げてもブルースが最後。何でかって、そこがレコードの生まれたタイミングだから。別に神様を信じちゃいないけど、そこだけは”ブルースは神様が残そうと思った音楽”だと信じてますね。

ブルースから始まっているロックの歴史と、スピッツから得た日本語のカッコ良さが、佐々木さんの源泉になっているんですね。

その起点に出会ったのが、10代の半ばですね。イギリスにいたけど、ブリット・ポップは入って来なかったし、当時の日本の音楽オタクで盛り上がってたんじゃないですかね(笑)もちろん好きですけど、むしろ日本に帰ってから気づいてたから。

実際に楽器に触れられるのは、日本に帰国されてからですか?

そうです。イギリスにいた時からどうしてもギター弾きたかったんですよね。親戚のおじさんに1人はビートルズ好きっているじゃないですか(笑)?ウチにもいて、そのおじさんが何故かガットギターを(笑)

随分と古典的ですね(笑)

本当はエレキが欲しかったんですけどね。しかも、ピックじゃ弾けないんですけど、指弾きがまどろっこしくて、スピッツのバンドスコアを買って、ピックで弾いてましたね。

(笑)「バンド組もう」とかではなく、純粋にギターを弾きたいという?

まずギターを弾きたかった。友達同士でバンドを組もうって話から楽器を決めるエピソードって、周りにそういう友達がいなかったから、俺からすれば羨ましいです。

披露をすることもなく、家で延々と?

その通りです。性格的にも、転校が多過ぎたからなのか、”ここで根を張ってやっていく”という感覚がなかったから「こういう夢を持っている」「こうやって生きていく」って、気軽に言えなくて。

今の佐々木さんに通ずる部分かもしれないですけど、「明日がどういう景色かわからない」ということが、実体験としてあったんですね。

そうかもしれないですね。例えば、ベルギーにいた頃はサッカー少年だったんですけど、やっぱり「サッカー選手になりたい」って言えない。ギター始めたときも「ミュージシャンになりたい」って言えなかったから、家で弾いていたんです。高校に入ってから、コピーバンド始めたり、家でうっすら曲を作ったりしてましたけど、「これでデビューしよう」なんて全然言えないし、ぶっちゃけa flood of circle(以下:AFOC)を組むまで言えなかったです。

人生観にもなっていて、中々拭えることでもないですよね。

また何処に行っちゃうかわかんない中で、ずっと生きていくと思ったら、同じ所にいられないんじゃないかって。あとは、自信もなかったんでしょうね。自分が何処に所属しているかを言い切れないという部分がすごくあったし。でも、CDは何処でも持って行けて、いつでも感動が味わえるから、音楽が好きになったんだと思いますね。スピッツの「ハチミツ」「インディゴ地平線」「フェイクファー」の3枚は、今でもコードも歌詞も全部覚えてますね。

それがあったから、今の佐々木さんがあるとも言えますよね。

生きてこられたと思いますね(笑)

本格的に”バンド”として動かれるのは、その高校からのコピーバンドですか?

当時はスピッツの他に、レッチリやインキュバスのミクスチャー系が流行っていたし、幅も広がっていたんですけど、インターネットがそこまで普及していなくて、Youtubeもまだだったから掘り下げたブルースから当時までの曲を全部聴くのはまずムリだなと(笑)

(笑)妥協ない感じが佐々木さんっぽいですね。

そこから、「何が1番カッコイイんだろう?」って色んな情報から探すよりも、コピーバンドで一緒に演奏することで、”生で演奏する楽しさ”を知ったから、1番生々しい音楽=ブルースに繋がっていくんです。

ー日本人の俺でもブルースをやっていい

肌で感じたことで、確信にもなったでしょうし。

大学に入ってからは、まさにそうですね。2000年代の音楽なんか聴けないやって(笑)

(笑)ブルースのカテゴライズで、よく言われるデルタ・ブルース、シカゴ・ブルース、ブルースロック等があり、佐々木さんは何処に惹かれたんでしょうか?

大きくは”歪さ”や”はみ出してる感”です。2000年代の音楽で、当時流行ってバンドの楽曲をシステマチックに感じたんですよ。パワーコードのリフにオクターブのメロディ、ベースとギターはユニゾンで云々というね。もちろん新しかったし、カッコイイんですけど、何せ2000年代の音楽にヒネくれてたから(笑)

それに比べると、ブルースのチューニングやアンサンブル等は適当ですよね(笑)

3コード・シャッフルビート・12小節進行っていうルールがあるのに、その制約があればある程、はみ出そうとしてる人たちの音楽だから。黒人の人々が虐げられた歴史があって、苦しいと思ったことをメジャー・キーで表現してる部分なんかは、まさにそうで。マイルス・デイビス自叙伝の88ページに書いてあったんですけど、彼は黒人なのに当時白人の音楽学校だった、ジュリアード音楽院に通ってて、白人の先生が「黒人の人たちは、綿花を摘んで苦しい歴史があって、その中で苦しみを音楽にしたのがブルースだ。ブルースのブルーは憂鬱のブルーだから」って説明にマイルスはブチ切れて、「オレの親父は金持ちで歯医者で金歯しかない黒人だけど、ブルースやってるぞ」っていう一節を見たときに、逆にすごい自由だと思って。俺の勝手な解釈ですけど「そうか、日本人の俺でもブルースやっていいんだ」って。

音楽やバンドをやるということに、”ブルースの持つ自由さ”が、佐々木さん自身を放ってくれた感じですよね。

しかも、ちょうどその頃に岡庭(匡志:元メンバー)に出逢った頃だったんで。大学の入学式で出席番号順で隣だったんです。お互いに「ギター弾けるんだ」ってなって、曲を作るようになったり、”自分で表現して良いんだ”ってなりましたね。チョーキングとか、楽譜に載らないはみ出してる感じを日本のライブハウスでやる意味があるんじゃないかって。今でもすごくピッチの良いボーカルよりも、ちょっとヘンなボーカルの方が好きなんですよね(笑)ギタリストも自ずとジミヘンが好きになってくるし。

大学に入ってからが、ある意味のスタート地点とも言えそうですね。

そうだと思います。19歳くらいのときにジャズバーでバイトしてたんですけど、ブルース・ジャズで自分の好きな傾向が判ってきて、最初に出来たのが”ブラックバード”ですね。

ブルースで払拭された人生観、さらにそれがAFOCに繋がっていく。

頭でっかちに「音楽ってこうだな」って思ってたのが血肉化されていくというか….形にでき始めましたね。高校の時、家でこっそり作ってた感じを出していいって気付けた。大学が日芸だったんですけど、割と目立ちたがるヤツが多かったんですよね(笑)その時も「ミュージシャンになりたい」と思って入ったんじゃなくて、「裏方の仕事したい」と思って。まあ、実はその気持ちがあるくせに、言えないから段々近づこうと思って入ったんですけど(笑)

(笑)

岡庭と出会ったことによって、「音楽をやろう」と思えたのがすごくデカかったですね。

実際にすぐ行動へ移ったんですか?

そのあと岡庭の幼馴染だった石井(康崇:元メンバー)と、大学の女の子を誘って4人で始めましたね。確か最初のライブは、15バンドくらいでやった渋谷O-nestですね。ヨレヨレの500円チケットをパー券を捌くかのようにみんなに売って(笑)

イベントだとしても、初ライブがnestって結構良い場所ですよね。
初ライブの景色って覚えてますか?

楽しかったのは覚えてますね。今以上に歪な曲しかなかったですし、”ブラックバード”や”プシケ”は既にこの頃から演ってましたね。

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