佐々木亮介(a flood of circle) インタビューvol.22

—「自分が生きていく」っていうことと、歌詞が近くなっていった

翌年、恵比寿LIQUIDROOMにて、2度目となるワンマンライブを行いましたが、AFOCの意思表示がきちんと出来たライブになったと思うのですが?

そうですね、まず前年の10月に「岡庭が脱退します」ということは伝えていて。友達伝てで生きてるってことがわかったからなのと、バンドに戻る気持ちはなさそうなことがわかったから。今でも俺は会いたいんですけど、向こうの気持ちがそうなるまでは会えないとも思ってます。絶対、話が合うから未だにDuranとか曽根さんを紹介したくらいですけど(笑)まぁ1つの区切りとしてそれは伝えたかったし、それがあったからLIQUIDROOMまで集中して駆け抜けられましたね。

奥村さんのサポートも大きかったのでは?

ホント、大さんのお陰ですね。失踪したときもすごい支えてくれてたし、Wash?のときはギター/ボーカルだから、ステージでセンターに立つということを背中で見せてくれましたしね。

LIQUIDROOM後には、奥村さんから曽根さんにサポートギタリストが変更になりましたが、バンドとしても次のアプローチを考えた上での変更だったのでしょうか?

やっぱりWash?にすごい迷惑を掛けてたんですよね。実は失踪直後って、3人で演奏したんですけど、何曲かは大さんに演奏してもらったんですよね。そのとき、Wash?のレコーディングを蹴ってまで来てくれたんですよ。AFOCが大変だからって参加してくれたのをすごい感謝してるし、Wash?のメンバーも「行って来い」って送り出してくれたのも、堪らなく嬉しかったけど、何処かで区切りをつけないといけないと思いましたから。

そういう経緯があったんですね。

実は新しいギタリストを探したんですけど、しっくりこなかったのもあったから、ちゃんと”サポートとして入ってくれる人”ってことで、曽根さんを紹介してもらったんです。Superflyもやってたし、talk to meでAFOCとも対バンやってたから知ってて。次のアルバムのまでの流れは、曽根さんと作ってたのがデカイですね。

「ZOOMANITY」は歌詞の部分で、リアリティが色濃く出たアルバムだと思います。

そうですね。「PARADOX PARADE」のときは、淳治さんとやった感覚が活かされて作ったんですけど、「ZOOMANITY」のときは、割と自分なりに消化出来てる部分があって。昔は感覚だけで書いていて、それが良かった部分もあったけど、「自分が生きていく」っていうことと、歌詞が近くなっていったから。「Human License」は職質されたときに書いた曲なんですけど(笑)

マジですか(笑)

身分証明書がなかったんですよ。金がなさ過ぎて、保険証も何も持ってなくて。「何かを証明することは出来ないな」ということが、自分の生活の中で出てきたタイミングですね。曽根さんが殆どギターを弾いてくれたのが「ZOOMANITY」だったんで、曽根さんと作ったという部分ですね。

この年で、現メンバーであるHISAYOさんになりましたが、改めて決め手は何だったんでしょうか?

石井の辞め方が結構さっぱりしてて。元々体調が悪かったり腱鞘炎とか、色んな理由があったけどね。失踪・脱退を乗り越えて、せっかく乗り越えてきたのに、ここで辞めるんだっていうね。ナベちゃんと「これで2人になったらホワイト・ストライプスになろう」って話してましたね(笑)

そのくらい、腹は決まってたと?

そう。石井の希望もあって、その年のブリッツのライブまでは3人でやろうと。その間にメンバー探しをしましたね。何故サポートじゃないかというと、ギター・ベース・ドラムっていうバンドの骨格は残したかったんですよね。

AFOCの音楽を実現するならば、自ずとそうなりますね。

それで最初、TOKIEさんとウエノさんが思い浮かんでたんですけど(笑)対バンしてたバンドを眺めたときに、GHEEEともやってて、姐さん(HISAYO)が挙がったんですよね。決め手は、セッションしてとか、何でもないんですけど(笑)セッションの前の日に、街中で姐さんとたまたますれ違ったんですよ。姐さんと俺って、その辺がロマンチストなんで、「これは何かある」ってお互いに思ったんです。

実際にセッションしてみても何ら違和感なく?

しっくりきて。俺たち的にもそのセッションでお願いしますって。絵的にもすごい華があるし、何が1番かって、AFOCの中で1番の漢(おとこ)らしいんですよ(笑)tokyo pinsalocksという軸があるから、色んなことが出来るっていう部分も出てるし、(tokyo pinsalocksが)2人になっても「絶対辞めない。私はここがあるから生きていけるんだ」っていう部分が、ステージはもちろん、普段の言動や態度にすっごい出てるから。姐さんがブルースやロックが好きじゃなくても、俺が好きなブルースマンやロックの生き方にすごい似てるんです。tokyo pinsalocks初めて観に行ったときに「ブルースだって思いましたよ」って言ったら「亮介くんが言ってるブルースってこれだったのね」ってわかってくれて。

お互いに精神的な部分で分かり合えたから、AFOCでやっていけるんですね。

音ももちろんだけど、そういう繋がりが大事ですからね。ただ、ファンと姐さんは大変だったと思います。ライブを消化したあとに、石井が辞めることと、姐さんが加入することを発表したから、ファンからしたら次のライブから違うメンバーになるわけだし、姐さんもそのプレッシャーの中でライブだったからね。

—バンドマンとして生きていくのを堂々と見せられた

そして、AFOCとしての新体制が形成された中、震災があって。これまでバンド内で数々の苦難を乗り越えてきましたが、ここまで大きな出来事が自身の周り・世の中で起こることは初めてだったと思います。

これまで「俺はこうやって生きていくんだ」というのを曲に反映してきたけど、それが「誰かにとってどうなのか?」「世の中にとってどうなのか?」という部分を意識せざるを得ない感じだった。「音楽に意味があるのか?」っていうよりも、単純に「どうやって生きていこう?」というか….俺、音楽に意味がなくたって、捨てるつもりはなかったけど、その上で”どういう音楽をやるか”が大事だったんですよね。その日の22:00くらいに歌詞を書いたのが「感光」です。

当時は、いろんなミュージシャンの方が、自身の音楽活動に対して自粛という風潮があったり”そもそも何をすれば良いか?””何が出来るか?”を苦心されていたと思うんですけど、佐々木さんは直ぐにアクションを起こせたんですね。

作ったのが早かったですね。その後のワンマンがデカくて、電気の問題とか色々あったけど、「やると決めたものを惜しまずやるのがAFOCじゃないか?」って姐さんが言ってくれて。

「こう生きていく」という意思表示を出来たライブだったでしょうし。

世の中に「バンドマンとして生きていく」というのを堂々と見せられたからね。

「I LOVE YOU」の歌詞が正しくですよね。

「I LOVE YOU」なんて、昔の俺なら言えなかったし、そんな言葉を聞きたくないって人もいたかもしれないけど、俺はむしろど真ん中で言い切ることが大事だと思ったからね。周りでいう人もいなかったし、ロックンロール・バンドぐらいはシャッフル・ビートに明るいDのキーで歌うのが良いと思ったんです。

“言い切るということの重要さがわかってたから”という部分もありますよね。

ディスられたり、誤解されても全然良かった。言い切ることが、1番強く伝える方法だったと思いますね。

「LOVE IS LIKE A ROCK’N’ROLL」が、今のAFOCの始まりだったとも言い換えられますよね。

原点だと思います。「ZOOMANITY」までの”踠いて自分の中で整理して作ったもの”ではなくて、”みんなに気合が入ったものを伝える”ということが初めて出せたアルバムですね。

それはすごく納得感があります。3コードでシャッフルでという曲が多いのは、「小難しく表現するよりも、如何に伝わりやすい楽曲であるか」が重要になっている分、曲自体の表情は豊かになってますし、「感光」だけは、唯一重いのが逆に伝わるというか。

あのときライブやってて思ったのが、音楽で大事なことを伝えたかったから、世界観がどうとか、どういうプロセスで云々とかよりも、軽快なビートに乗せて削ぎ落とした大事な言葉だけでということが重要でしたね。結局、「感光」でも”生きていて”という言葉を伝えるのが大事なわけだから。

これまでは、ブルースに対してのアップデートをすることで、楽曲のダイナミズムを生み出していたけど、シンプルが故に難しさもありながら、3人のAFOCとしての本能が出てますよね。

そうだと思います。姐さんが入って最初のアルバムだったし、俺自身もGretsch買ったり、新しい革ジャン買ったり(笑)”新しく始めるぞ”っていう気持ちでしたね。そのツアーの最終だった渋谷AXに辿り着くまでって、これまでのツアーの中で、1番成長速度が早かったですね。けっこう、周りからも言われてて「あのツアーでAFOCは変わった」って。

具体的にどこが変わって、成長したんだと思います?

俺が変わったんでしょうね。歪なものが好きだったけど、もっと本能的に”伝えなきゃ”って気持ちでバンドに向いたのがデカかったんだと思う。

自分で体感している以上に、周りでは変化していることに気づいてたんでしょうね。

最初は姐さんも「バンドを引っ張らなきゃ」って言ってたんだけど、それを見て「ついていこうと思った」って言ってくれたんで。

良い意味で、バンド内の関係性において、佐々木さんがイニシアチブを持つタイミングでもあった?

イーブンだった関係性から「亮介、行って来い」っていう感じになりましたね。曲作りでも”いかに俺が言いたいことをズバッと言えるか”が軸になったりしてた。それもあって、この辺から曲作りが詞先に変わって行きましたね。

このワンマンツアーで得たものが「FUCK FOREVER」に繋がっていくし、それがなかったら、生まれていないんじゃないかと思えるくらい、バンドとして重要なツアーでしたね。

メンバーチェンジとかもなしでね(笑)”次に広がるのは間違いないな”という手応えがありました。そこで「LOVE」を言いまくった反動がここに来たという。

確かに(笑)

何処を根っこに、自分の考えを世の中に出していくかを考え始めたときに、やっぱり自分の身近な家族、メンバーやスタッフが軸になって。「Summertime Blues Ⅱ」を書いてるときが、ちょうど反原発が盛り上がったときで、清志郎さんの「サマータイム・ブルース」がいつも掛かってたんですよね。

それに頼ってる感じもありましたよね。

だからこそ、それに頼りたくないって思ったんですよ。「清志郎さんが今生きてたらなんて言うか」なんて、聞きたくもないって思ってて。たくさんのことを残してくれたし、大好きだけど、だったら自分たちで言いたいことを書いた方が良いと思ってたから。

“世の中に自分の考えを示す”ということに通づる部分ですね。

だから、「Summertime Blues Ⅱ」はエディ・コクランの方じゃなくて、清志郎さんの方に対してのⅡなんです。曲ももっとエグくなって。ただ、歌詞を3番まで書いたときに、清志郎さんのことを書くのが悔しくなったんですよ。

清志郎さんが残してくれたものを”なぞる”ことが”言いたいこと”ではないと?

そう。俺がなんで原発のことだったり、エネルギーのことが不満なのかって言うと、「自分の身近な人が苦しいからじゃん」って思って。父親の実家が仙台だったんで、東北のことをすごく敏感に考えてたし、福島のことに一生懸命になってる人が周りにいたからなんですよね。「核などいらねー」って清志郎さんから教わる前に、ばあちゃんから教わってたわって。

本当にそれが歌詞になったんですね。

はい。それさえあれば、この世の中に自分が何を求めてるかが、ハッキリしてくるなと思って。「FUCK FOREVER」って言い切りたいってすごく思ったし、レーベルには迷惑掛けたんですけど(笑)その態度をはっきりさせることが、自分のバンド人生ですごく大事なことだったと気づいたんですよね。

「FUCK FOREVER」の持つアティチュードは強いですよね。

何に1票入れるかとか、何を買うかとかは、自分の政治だったり自分の経済の判断じゃないですか?そういう基準を自分のバンドってものと、自分の生き方を初めてリンクさせられた気がしてて。「FUCK FOREVER」はミニアルバムだけど、めっちゃ強いアルバムだと思ってます。

—”言いたいことを言う”だけじゃなくて”言いたいことをどう伝えるか”

地に足をつけて、言いたいことを言えたアルバムだと思います。

そうですね。ビリー・ジョエルの「Piano Man」を日本語詞つけてカバーして「BLUES MAN」にしたんですけど、好き勝手に書いたからデリヘルとかむちゃくちゃなこと書いてて(笑)

(笑)

「オフィシャルOKが出るはずない」と思って送ったらOKが出たし、言いたいことを言わせてもらう環境がありましたね。ただ、そのあとのツアーが大変で….”言いたいことを言い切る”こと、”AXまでのツアーで成長”が実感できてたが故に、逆に次のツアーでLOFTが最終になる、敢えて小さいハコをまわったんですけど、次の成長ステップをどう踏んだらいいのかにすごく悩んだんです。

この流れだけを伺うと、初期に比べて順風満帆な歩みが出来ていると思いますが?

ダメなライブを見せてたとは思ってないけど、「まだ成長できる余白がある」と思ったまま終わったツアーだったから、いまだに悔しいんですよね。

それは自分自身もそうだしバンドとしても?

そう。多分これまでって、メンバーが毎年変わってきた、不安定なスピード感の中で、「悔しい」とか「今やらなきゃ」みたいな感じでアルバム作成・ツアーの連続だったのが、始めて安定したメンバーで、バンドを進められたんで。それって1番良いことなんですけど(笑)

なるほど。

逆にそこに向き合えたからこそ、もっとバンドを成長させるには、「周りの環境のせいにしないで、自分たちで作り上げなきゃ」っていう気持ちに繋がったと思いますね。メンバーともバチバチやったし、最終日の打ち上げで、曽根さんとバトルして終わりましたね(笑)

(笑)「Dancing Zombiez」はその回答になった?

その悔しい思いをしたから、自分自身の課題も設けてて。素直でシンプルな言葉を伝えることは出来たと思ったと同時に、「今までは、言いっ放しで終わってるんじゃないか」と考えるようになりましたね。それをもっと深く・広く伝える言葉にしようと。

さらに音楽的な進化も遂げたのが「I’M FREE」になって行く。

正しくそうです。「I’M FREE」はインディーロックっぽいものとか、現代音楽を聴かない俺が(笑)めちゃくちゃ意識的にリズムやコードを取り入れていったアルバムなんです。

サウンド面の進化が如実に出ていますよね。

これは3部作だと思っていて、「LOVE IS LIKE A ROCK’N’ROLL」「FUCK FOREVER」で”言いたいことを言える歌詞から書く”っていうスタイルに「I’M FREE」はアレンジ・サウンドの面の進化が出来たと思います。「Dancing Zombiez」はそのきっかけになった曲だし、”言いたいことを言う”だけじゃなくて、”言いたいことをどう伝えるか”までが考えられたアルバムですね。

「3部作」と言った佐々木さんの真意に触れたいんですけど、逆に言うと3人でのAFOCで到達出来る、楽曲がこの時点で作れたとも言えますよね?

俺たちってドカンと売れてないから、動員とか売り上げってちょっとずつ上ってきたんです。その中で、変わらずに3人のメンバーが3枚作れたから、1つの形ができたと思いました。だから「I’M FREE」できた時点で、次どうしようってなってましたね。

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