佐久間正英 ラストインタビュー

ー「四人囃子」への参加については?

ちょうど中村くんが辞めたときに呼ばれてヘルプで入りました。1st「一触即発」の後に作ったシングル「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ / ブエンディア」からですね。その後ソニーに移って「ゴールデン・ピクニックス」を作るんですけど、それまで僕はトラ(代役)のつもりでいたんです(笑)

ー(笑)その間ずっとですか??

うん、メンバーだとは意識していなくて。正式に誰からもそういう話が出なかったから(笑)

ー”正式”加入はいつになるのでしょうか?

「ゴールデン・ピクニックス」のレコーディングが終わった直後に僕がパリにしばらく行ってたんですね。よく覚えてるんですけど帰国して井の頭公園で取材があったんですよ。そのときに初めて「メンバーだよ。」って言われて「何それ?聞いてないよ?」って(笑)

ー取材で知るって(笑)

「何で取材にわざわざ井の頭公園に行かなきゃいけないんだろう…」って思ってて。

ーメンバーだからだと(笑)

そうそう(笑)

ー因みに佐久間さんご自身は「四人囃子」の音楽についてどう思っていらっしゃいましたか?

最初からすごかったですね。演奏力もすごいし。初めて観たのは僕が大学1年のときの学園祭でね、噂は聞いてたんだけど岡井大二が中学の後輩だったし。それから仲良くなりましたね。

ーよく、プログレッシブと定義されることがありますがそのあたりについてはいかがでしょうか?

う~ん、たまたま「面白いことをやろう!」とした結果がああいった音楽を生んだだけです。なので「四人囃子」はプログレッシブというか様式美を追求していた訳ではなかったですね。

ー佐久間さん加入後から活動休止まで何度かメンバーチェンジがありましたが音楽的変化については?

そうですね、森園が辞めて坂下が辞めてまた茂木が入って…実は僕的には1番思い入れがあるのは僕が加入する前の「一触即発」ですけどね。レコーディング技術という面では時代的に追いついていないのでそこだけは残念ですけど、自分達だけであそこまでやったっていうのはすごいと思いますね。加入してからの変化だと「包」とかは機械的要素を入れたタイミングですね。ちょうどその頃には「PLASTICS」のメンバーとは交流がありましたね。

ーではその頃に”パンク”や”ニューウェーブ”の影響があったと?

はい、その頃から色んな仕事をしてましたし。”アレンジャー”と呼ばれる仕事ですね。後に”プロデューサー”として初めて契約したのが「P-MODEL」ですね。

ー当時からレコーディングで気をつけていたことはありましたか?

多分、今とそんなに変わっていないと思うところなんですけど、メンバーが如何に”楽に”やりたいことを音にするかというところとアイディアをただヘンなものじゃなくて受け入れやすいものに具現化するというスタンスですね。

ーでは「四人囃子」在籍中に佐久間さんご自身の音楽的要素・アプローチ方法・交友の幅が広がったんですね。

そうですね。「PLASTICS」が初めて人前で演奏したパーティーがあったんですけど、僕も参加してて。観てて「いいな~」って。「PLASTICS」は3人(中西俊夫・佐藤チカ・立花ハジメ)+ベース・ドラム・キーボードがいたんですけど、それぞれ仕事の都合で辞めて。どうしようってなったときに音楽仲間で「テンプターズ」の大口広司をドラムに入れて、ベースを僕に弾いてって言われて。2回ぐらいセッションしたのかな。でも全然面白くなくて(笑)で、「ドラムなんて要らないんじゃない?」って言ってコンプリズムを使わせたのが僕です。

ーリズムボックスは佐久間さんのアイディアだったんですね!

そうですね。後は僕がベース弾いちゃうと言ってしまえばプロと素人の差になってしまうので、「PLASTICS」ではベースは辞めようと思ってキーボードになるんです。

ーあぁ、それでキーボードになったんですね。「四人囃子」とは音楽的にもそうですがテクニック云々よりもサウンド面でのアプローチが斬新という印象があります。

「PLASTICS」はすごく幸いなことがあって他の3人は楽器は下手だったけどリズム感だけはすごい良かったんですね。コンプリズムで初めてやったときはズレるとかやりにくいとか言うヤツが1人もいなくて(笑)むしろドラムがいたときよりも全然やりやすいという。

ー「PLASTICS」の音楽を表現するには重要な要素ですよね。ラフ・トレードからのデビューはすぐに決まったんですか?

う~ん、経緯はよく知らなくて。何となく当時は物事が動いていたんで誰かの紹介とかだったのか…他にも色んな話があってレコーディングしてたんですよね。1番極端な話だと「ツトム・ヤマシタ」とレコーディングしたりとか。それは結局お蔵入りになったんですけど。で、その内の音源の1つがラフ・トレード盤になったんです。

ーそれは貴重な逸話ですね。

それからビクターでデビューして。ちょうど「B-52’s」が日本に来るタイミングがあって、他のメンバーも最初から興味を持っててアメリカに観に行ったりしてたんですね。で、話をして意気投合したんです。前座も演って向こうのスタッフ含めて気に入られて、それでワールドツアーですね。「B-52’s」「Ramones」「Talking Heads」と同じ事務所だったんで「Ramones」と同じバンに乗ってました。

ー佐久間さんも運転されてたんですか?

「Ramones」のバンがボロくてタイヤがバーストして死にかけたっていうエピソードがあります(笑)確かクリープランドだったかと思うんですけど、何せ1日10時間くらい走るもんで…ホントはマネージャーが運転するんですけどそいつがすぐ怪我しちゃって(笑)

ーエピソードとしては最強ですね(笑)

チーフマネージャーのスティーブを「スケベ」って仇名つけたり(笑)、仲良くやってましたね。
あとは「DEVO」も仲が良かったですね。ゲネプロをロスに観に行ったりとかしてました。そのとき、アメリカのショウビジネスというものの差に唖然としましたね。

ーそれは日本との差でしょうか?

はい。例えばゲネプロだったら超巨大なスペースで本番通りのステージで1ヶ月前から毎日演るんですよ。ちょっとミスがあると最初からやり直しになるし。ショウの作り方・姿勢の差ですね。ホントにびっくりしました。

ーしかし「PLASTICS」は彼らと音楽的差がなかったと思いますが?

後期はそうかもしれないですね。ローランドの「TR-808」っていうリズムマシーンの初号機が出来たのが大きいですけど。「PLASTICS」の最後のアルバム「WELCOMEBACK PLASTICS」のレコーディングをしにナッソーのコンパスポイント・スタジオに持って行ったんですけど、たまたまEric Claptonが隣のスタジオで。僕が毎朝スタジオで音を作ってたら Claptonが「何やってるのかな~」と覗きに来てて。「ヤオヤ(TR-808)」の初号機を初めて見た外人は実はEric Claptonだったという(笑)僕はとても気に入ってました。ただ、アルバムが出来上がって1~2ヶ月後だったと思うんですけどロスで「B-52’s」と「PLASTICS」のライブがあって、そのときに「DEVO」が遊びに来てたんですけど「新しいリズム・ボックス手に入れたから見に来いよ」って言われて行ったらそれが「リンドラム」の最初のやつで。見せられて、音を聴いて「あ~ヤオヤ(TR-808)の時代は1ヶ月で終わった」と思った(笑)

ーテクノロジーが進化するタイミングは時代を問わずスピードが早いという象徴的なお話ですね。

サンプラーの登場は当時、ホントにびっくりしました。

ーその後「PLASTICS」は解散となります。

元々僕は期間限定でと事務所に言ってて、自分が「PLASTICS」としてやるべきことと成功は出来たので。これ以上続けても自分にとっては意味が無いと判断していたので。

ーその後はプロデューサーとしての活動になるわけですがプレイヤーとしての選択肢は無かったのでしょうか?

辞めたときは迷っていて、日本に戻るかそのままニューヨークにいるか、ヨーロッパに行くか。ちょうど時代的に日本が80年代アイドルとCM音楽の始まりだったんですけどそれがすごく面白くて。ニューヨークでは「ニューウェーブ」が一段落してるタイミングでこのまま残ったとして何が出来るか?と考えたときに「B-52’s」や「Talking Heads」に参加、或いはそういったバンドに参加とかあるけれど、向こうのバンド生活パターンというか、アルバムを制作してツアーの繰り返し…。これはニューウェーブの時代とかではなく、昔からのバンドもそうでこれは今も変わっていないと思いますけど。でこれはちょっと辛いぞと(笑)それよりはもっと新しい、わけわかんないことしたいって思ったときに東京の方が熱かった。作曲・アレンジ・演奏どれを取ってもそうでした。アメリカやヨーロッパで演奏家としてやれる自信はあったんですけど、そういう刺激を超えるものがあったので。

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