佐久間正英 ラストインタビュー

ー80年代半ばから忙しくなるタイミングであったと思いますが?

そうですね。アイドルで言えば筒美京平さん筆頭にプロデュースという仕事が増えたタイミングですね。アイドルに関しては最大のライバルは茂木由多加で、僕がキョンキョン(小泉今日子)の「真っ赤な女の子」をやってすぐ後に早見優の「夏色のナンシー」を茂木くんがやって。それを初めて聴かされたときはショックでしたね。曲は両方とも筒美京平さんなんですけど完成度の高さに圧倒されて。それまでのアイドル全盛時代の萩田光雄さんとか大御所の方のアプローチとまるで違っていましたね。

ーその他にもスタジオを設立されるタイミングですね。

CM曲をいっぱいやっていた頃ですね。小野誠彦と知り合ってv.f.v. studioを作ったり。元々は事務所で小さな作業場があったくらいで。その内に手狭になって引越そうかそれとも事務所なんて辞めようかとしてるときに、たまたま賃貸物件でスタジオを作れそうな物件を見つけて作っちゃえ!って。

ー「LISA」(ファーストソロ・アルバム)も同時期ですか?

「LISA」は引越す前の事務所ですね。小野くんからたまたまそういう話をもらって他の仕事のレコーディングに向かう道中で曲を作ったり(笑)

ーロックバンドのプロデュースも増えていくタイミングですね。

BOΦWYと初めて話したときに「どういうのがやりたいの?」って聞いたら布袋くんが「ロックにしたい!」って。ロックバンドからロックにしたいって言われたのは初めてで「?」と思って(笑)それってどういうことだろうと考えたら当時の日本の環境では無理だなと。で、ベルリンに行こうと東芝に言ったらすぐOKが出て、マイケル・ツィマリングと一緒にやることになったんです。

ー作品としての完成度もそうですし、商業的にも成功を収めるわけですがレコーディング時からその前兆はあったのでしょうか?

レコーディングして3日目くらいだったと思うんですけど、突然バンドとして良くなって。そのときに「これはすごいバンドになる」という確信がありましたね。それは色んな条件の重なりではあるんですけど。

ーそれは「BOΦWY」だからだったのか、それともその他のバンドでも同様のことが起きることがあったのでしょうか?

その後の「The Street Sliders」であったり「UP-BEAT」であったりもそうですけど関わって作っているときに何かの瞬間に変わるときっていうのがあるんですね。もちろん変われないバンドもいますけど(笑)それでその先の道筋が見えるっていうことが多いですね。

ーその変わる瞬間・変われるバンドには佐久間さんから見て条件があるものなのでしょうか?

大きく変われる瞬間・大きい飛躍できるチャンスを持っているバンドっていうのは特殊なパワーを持ち合わせてますよね。それは周りにも波及していって、例えば宣伝担当だったり事務所の人間だったりが「すごい!」って思える。身近な人間から如何に意識の部分で「すごい!」って思えるか。実際にレコーディング現場でみんながそう思った瞬間っていうのがその条件が揃って変わる瞬間ですね。

ー時代背景を含めるとその後の90年代に入るとCDソフトがものすごく売れるタイミングになるのですがそもそものそういった状況を佐久間さん自身、どう感じていらしゃったのでしょうか?

う~ん、痛し痒しですね(笑)勿論、良し悪しはありますが今にして思えば「BOΦWY」が引いてしまった”日本特有のドメスティックなロックな道”からどんどん逃れられなくなっていった時代ですね。

ーそんな時代と定義されながらも先日のLIVE(早川義夫+佐久間正英「The beautiful world」)内のMCでご自身が携わった楽曲の1位が「東京/くるり」、2位が「そばかす/JUDY AND MARY」、3位が「HOWEVER/GLAY」とどれも90年代に発表された楽曲でした。

中でも1位と2,3位は少し意味合いが違うんですけど、「東京/くるり」に関しては奇跡としか言いようがないというか。今聴き返しても完璧なんですね、自分のプロデューサーとしての仕事を客観的に見たときに。「そばかす/JUDY AND MARY」についてはもうちょっと広義な意味でのプロデューサーとしてですね、商業的な事も含めてになります。後はJUDY AND MARYの決定的な良い部分を引き出せたことも大きいです。YUKIちゃんの歌も大きく変わったし、そういう環境を作れたことがありますね。「HOWEVER/GLAY」に関してはあの時代に対して「GLAY」の見せ方がすごく成功したと思いますね。サウンド的にもそうですしね。

ーお話に挙がったYUKIさんと「NINA」も結成されましたが表立ってのプレイヤーとしての佐久間さんは久し振りでしたよね?

元々はケイトといつか一緒にやりたいっていうのはあって。島武実も仲良かったんでまたみんなで出来たら良いねって話してて、やるのを決まったタイミングでたまたまジュディマリが活動休止になって。TAKUYAのソロアルバムをレコーディングしてるときにYUKIちゃんが遊びに来てて暇してるって言うから(笑)こういうのあるけどやる?って聞いたら「やるやる」って(笑)

ーアメリカでの構想もあったんですよね?

はい、大人の事情で無くなっちゃいましたけど(笑)例えばYUKIちゃんはソニーでケイトはワーナーでとか…

ーその後の「The d.e.p」はすごいメンバーでしたよね。

最初はビビアン(ビビアン・スー)のソロアルバムの話が来て、ビビアンと話してせっかくだからバンドでやる?って聞いたら「やるやる!」って(笑)で、急遽メンバーは誰が良いかな~と考えて土屋昌巳、ミック・カーン、屋敷豪太に連絡取ったら全員「やる!」って言ってくれて(笑)人生で1番最高に楽しいバンドでしたね。優れたミュージシャンの集まりなので、ロンドンでレコーディングしたんですけど初めて音合せした瞬間に「バッチリ!」っていう。毎日スタジオで19時までやって後はドンチャンっていう(笑)

ー(笑)ギターに土屋昌巳さん、ベースにミック・カーン、ドラムに屋敷豪太さんと、豪華なメンバーですよね。そんな素敵なバンドだったのに続けようとはならなかったのですか?

「The d.e.p」は続けたかったですね…ただあれはあれで違う意味の大人の事情があって(笑)メンツがすごいんでどうしてもやろうとするとアマチュア・バンドのようにはいかないですし、ビビアンもビックになって女優で忙しいですし。今でも集まるとホント仲良いですね。ミック・カーンは亡くなっちゃったけど、すぐにあの頃に戻っちゃいますね。

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