bird インタビュー

ー 「Aretha Franklin」「Janis Joplin」を歌い、「Carole King」で初めて挫折から救われる。ニューヨークで気付く歌いたいこと。そして、大沢伸一氏との出会い。PART.2では大学時代~デビューまでをお送りします。

ー「軽音楽部」1つになってバンド活動が中心になるんですか?

そうですね、サークル自体がジャズのビッグバンドからロック・フォーク・ポップまで、どんなことやっても良くって。先輩に誘われたバンドは「ブルース・ブラザース」のサントラとかをコピーしてるバンドで、そこで始めて「Aretha Franklin」とかのソウルミュージックを浴びることになるんです。もう1つの1年生同士の方は、ベースの人だけ高校生からやってたので、みんなその人についていって。弾いたことがあるということから「米米CLUB」を初めて歌ったんです。

ージャンルの違いもそうですけど、いきなり掛け持ちだったんですね。

大きいサークルだったんで、4つ・5つとか当たり前にあったんですよ。先輩のバンドの方は、色々教えてもらってたんですけど、緊張してましたね。最初の頃なんて、歌詞を書いたメモを手で持ってたら震えましたもん(笑)上下関係というか、やっぱり上の方はどっしり構えているイメージで。一方で同年代の方はヒドイ有様(笑)ベースの人だけが上手くって。あとは初心者の集まりなのでドラムの人なんか、スティック何回も落として、曲が止まって「シーン」みたいな(笑)バンドスコア通りしか出来ないからキーも変えれないし。「米米CLUB」は男性のキーですから「低いなぁ」と思いながら歌ってました。

ー譜面を読むのとかも初めてですよね?

初めてというか読めないですよ。今もそんなにですし。聴いた音をそのままなので、耳コピですね。

ー先程「ソウルミュージックを浴びた」とありましたけど、先輩のバンドでは音楽的な発展はあったんですよね?

やる曲が増えていったりとかもそうですし、何も知らないから先輩たちにジャンル関係なく、ソウルもジャズもロックもテープを貸してもらって聴いてましたね。

ーお伺いしているとジャンルよりも、歌い手としての軸で影響を受けられていそうですね。

それぞれに好きな歌い手さんがいて、1番衝撃を受けたのは「Aretha Franklin」で「Respect」(オーティス・レディングのカヴァー)が入ってるカセットを聴いた時に”声”の凄さを知りましたね。それまでは歌でショッキングに思えることってなかったんですけど、人ってこんな声が出せるんだっていうショックと、こんな歌が歌えたら良いなっていう純粋な気持ちで。それから「Aretha Franklin」や「Janis Joplin」のコピーバンドをやるんですけど…またそこで挫折するんですよ。

ーバドミントンぶりの…

結局、どれだけ頑張っても「Aretha Franklin」の声になれない、「Janis Joplin」の声になれないって。それからどうしようって思いながらも、色々聴いていく中で「Carole King」に出会うんです。彼女の声は高くも低くもなくて、中音域の声が気持ち良くて。声を張るわけでもなく、囁くわけでもなく、淡々と歌うんだけどカッコ良くて、声のレンジが私と近いかもって思ったんですよね。自分に合う声の曲を歌っていけば良いんだって。

ー「Carole King」の出会いが挫折から救ってくれた?

そうですね、色々やってみてましたけど。大学生だからお酒をいっぱい飲めば良いんじゃないかとか(笑)ハスキーになる為に声が出なくなったりしたこともあったし、潰しちゃったこともあったし。

ーそういうムチャをしながら(笑)”自分らしさ”みたいなものが見つかったタイミングですよね。

そう。歌った時に無理なく、気持ち良く歌えるんだって。すごく歌に対して前向きになりましたね。

ーこれまでのbirdさんだと諦めるか、他のことに行ったと思うんですけど、初めて持ち直しましたよね?

そうですね、昔なら辞めてたと思うんですけど持ち直せましたね。あ、でも1回キーボードに逃げたんですよ(笑)でも弾いたことないから演奏会とかでも他の人に迷惑が掛かるからやめましたけど。

ー(笑)持ち直したので良かったです。話が前後するかもしれないのですが、初ステージはいつになるんですか?

サークルで行った合宿の最終日に全員が演奏するんですけど、それが最初ですね。上手かったら盛り上がるし、最悪だとスリッパとか投げられるしっていう(笑)今はもうないんですけど、学内に中央ステージっていう大きい円形のグランドがあって、そこで特設ステージを組むんですよ。最終日にたくさん人が集まってる時に演奏するのがみんなの目標で。それに出るには先輩たちが聴いて投票する、テープ審査とかあって。時間帯もそれで割り振られて、ヘタだと、犬の散歩してる人しかいないみたいな早朝で(笑)ヘタ過ぎるとそもそも出られないですし。

ー「Aretha Franklin」と「米米CLUB」をやったんですよね?

そうです。当然、初めてなので緊張はしたんですけど、サークルの人達・先輩達はあったかい人ばかりだったので、厳しいことはなかったですね。

ーその後、1番良い時間帯の中央ステージへは出場出来たんですか?

3年生の時ですね。そのステージもコピーバンドで。ちょうどそのタイミングで友達がオリジナルをやるって言って、ツインボーカルでオリジナルを作って外に応募するっていうのをやり始めてました。

ーそういえば、この時点でまだ大学以外でのステージってないですよね?

はい。それから大学3年の後半で、大阪のライブハウスでやり始めるんです。その中でまたいろんな出会いもありました。大阪のレストランや飲み屋さんで週末に音楽を演奏するバイトがあるんだけどって、ギターの人に言われて「好きなことでお金が貰える!」って、嬉しくてやってました。そこではジャズのスタンダードとかボサノヴァを勉強して覚えて、演奏してましたね。

ー一気にフィールドが広がりましたね。全部同時進行ですよね?

そう。そこには楽しいのと辛いのとあって(笑)呼ばれて行っているわけではないですから、「歌いらん・うるさい・止めて」みたなのもありましたよね。ただ、歌を歌ってお金を貰うっていう喜びの方が大きかったし、学校の中では出来ないことだったので単純に嬉しかったですね。まぁ、大体飲んで使っちゃってましたけどね(笑)

ー(笑)でも大学生だからそんなもんだと思いますけどね。あと、確実に強くなってますよね。もう逃げないじゃないですか?

もちろん、何回か落ちそうだったんですけど踏ん張れてるんですよね。その頃にはみんな就職活動とかするタイミングなんですけど、好きなものが1つ見つかったから「行ける所まで行きたい」っていう思いがもうあって。30歳くらいまで好きなことして、ダメだったら潔く諦めようっていう心持ちでしたね。

ーその想いがニューヨークに繋がって行くんですね。

そうですね。当時、ゼミの先生が音楽を研究する人で、ライブも結構観に来てくれてたんです。4年生の時に論文とか書かないといけない中、「将来歌を歌っていきたいから、ニューヨークに3ヶ月間行っていいですか?」って相談したんですね。先生は向こうで音楽のことを調べるんだったら、休んでも良いって言って下さって。手紙とかやりとりしながら行ってました。

ーニューヨークに行ったことで、どういった影響をbirdさんもたらされました?

まずは安易というか…音楽だったらニューヨークだろうっていう漠然とした思いだったんですよね。それまでバイトしてお金を貯めて行くんですけど、宛てもあるわけではなかったし。YMCAの様な寮にいたんですけど、取り敢えず午前は語学学校に行って、午後は何もないから譜面とか持って飛び込みしてました。

ー所謂、ライブハウスですか?

週末にジャズとかを演奏する場所があるので「これ歌いたいんですけど」って歌わせてもらったりしてました。「こんな譜面じゃ読めない」って言われたら、少しずつ知り合いになったピアノの人に、書き直してもらってたりもしたし。あとはミュージカルやライブを観に行ったりと、音楽にまつわるものを浴びることをしていました。

ーすごく充実した環境だったと思うんですけど、3ヵ月で帰国されますよね。単純に”残る”という選択肢はなかったんですか?

そうですね…飛び入りでジャズのスタンダードとか歌ってて、そこにいらしゃるお客さんの反応を見た時に「これではいけないな」って思ったんですよね。誰かが言ったわけではないんですけど、何となく私が感じたのは「アジアから来た女の子が英語でジャズのスタンダード歌ってるんだ…」っていう。

ー歌への歓喜や共感をされる反応もなく…

そう。それ以上も以下もないっていう、何とも言えない感じ。ここからもう1歩出るには「自分の言葉・自分の曲」のオリジナルでないとダメだと思ったんです。母国語が日本語なので、自分の言葉で伝えないとってなり、帰国してから理論とかもわからないけど、闇雲に曲を作るんですよ。

ーニューヨークで得たものは、先程”影響”という問いをしましたけど、歌を伝えるには声と共に紡がれる、”自分自身の言葉とメロディ”というオリジナルであるという気付きだったんですね。また”bird”誕生の瞬間とも言えますね。

作詞とはまだ呼べる代物ではなかったですけど、そういう作業をし始めたタイミングですね。コードもわからないから、作ったメロディを友達に譜面へ起こしてもらったりと少しずつですね。

ー帰国してからも、レストランや飲み屋さんでの演奏は行っていたんですか?

それは続けてました。そんな矢先に、お店で大沢伸一さんに会うんですよね。当時は大沢さんのこともそうだし、その当時の音楽って知らなかったから。バンドだし、70年代遡ってるし(笑)ニューヨークではジャズのインプロ(即興)やってたりなので、DJってどんな仕事?何やる人?って感じ(笑)声を掛けられて「どんな音楽が好き?」って話になって、70年代のソウルミュージックとかの話をしたら、大沢さんも「俺も好きや」って。やってることは違うんだけど音楽の好きなものが近いのがわかって。そこから何回か会うようになって、「何か一緒に作ろうか」ってなったんです。私は日本語でやりたいっていう思いがあって、大沢さんも英語じゃなくて日本語でやりたいっていうのがあったらしく…

ー2人のベクトルが一致していたんですね。

そう、それで作ることになるんですけど、私が70年代の音楽以外に何も知らないから、いろんなジャンルの”今”の音楽をいっぱい教えてもらって。それこそクラブも行ったことがなかったので、何を楽しむ場所なの?そもそも演奏してないやん(笑)って。で、「ここに行って」って言われた大阪のクラブに行ってみたら、みんながDJに向かって踊ってるのがわからなくて(笑)「音おっきいなぁ」って思いながら踊らずにじっと観察してましたね。

ーむっちゃ純粋ですね(笑)それは卒業する時期くらいですか?

はい。当時はお金がなかったので音楽のバイトもウエイトレスのバイトとか同時進行でやりつつ、大沢さんからZEEBRAさんのお話(THE RHYME ANIMAL REMIX E.P.1に参加)もらって呼ばれたら東京に行ってました。

ーじゃあ、レコーディングは東京で大阪と行き来していたんですか?

そうです。1stアルバムが出来るまでずっとそういう生活をしていましたね。良くわかっていない状況でしたけど、デビューが出来ることがすごく嬉しかったですね。

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