bird インタビュー

ー 幾度の挫折から英語に出会い、大学で入った「軽音楽部」で初めて触れる音楽の世界。PART.1では小学校~大学時代をお送りします。

ー子供の頃の記憶から紐解いていきたいのですが、小学校とか覚えてます?

小学校の時は普通(笑)外で遊んだりとか。どちらかといえば、活発だった方だと思いますね、ドッヂボール、縄跳び、鉄棒して。

ー勉強の方はどうですか?好きな科目とかありました?

勉強はねぇ…キライでしたね(笑)体を動かす方が好きだったので、小学校5年生~6年生とかはずっとバドミントンやってて、バドミントンクラブに入ってましたね。

ー試合にも出られたり?

そう、シングルとダブルスと。

ーじゃあ、勉強よりも断然スポーツですね。

勉強はイヤというか分かんなかったんで…プリントの宿題が出来ないと、補修とかやってた記憶がいっぱいありますね。居残りで算数やったりっていう…

ー勉強嫌いは中学校に入っても変わらず?

中学校は英語に特化した学校だったので、出だしは割と英語は好きだったんですけど、難しくなってきたらまた分かんなくなって(笑)バドミントンはそのまま中学1年生~2年生まで続けてましたね。

ー小学校高学年からその時点までそんなに変わっていないと?

そうですね、勉強は苦手意識の方が強かったですし、義務教育だから受けてるみたいな。

ーバドミントンに打ち込んでいた?

そうなんですけど、中学校3年生の時に躓くんですよね。

ーきっかけがあったんですか?例えば試合に勝てなくなってしまうとか。

精神的に強くないと、どれだけ技術があっても勝てないんですよね。弱ってる時に試合に出て「あーダメかな…」って思うと、どんどんダメになっちゃうし、どうやって精神的に強くなれば良いかわからずに好きでやってたんですけど、勝てなくなってくるとやる気も失って「向いてないかも」ってなって…

ーフェードアウトしていった?

はい。また、ちょうど同じ時期に家へ籠るようになっちゃって。家で本とかは読んでたんですけど、友達が少ない時期だったんです。殆ど孤立してるというか。例えば休み時間の10分をずっと本読んでるっていう…

ー完全に”壁”作ってますね。

学校にあんまり興味がなかったんで、「行きたくないけど行かなきゃいけない場所」って感じでした。休み時間もどうにかやり過ごさなきゃいけないから、本を読んでたんです。何人かそういう孤立した人は、クラスにいましたけどね(笑)

ー友達の輪みたいなのあるじゃないですか?そういうのに入ることなく?

集団に入れなかったんで「みんなで何かをする」っていうのが苦手でしたね。そうなると必然的に孤立しちゃって、お弁当の時間とかはその孤立した人ばっかりで集まって(笑)さすがに1人で食べるのはね…その人達と「どうにか頑張ろうぜ!」みたいな(笑)過ごし方をしてましたね。

ー集団行動が嫌いだったんでしょうね(笑)

やりたいときにやりたいし、人に合わせて「あなたがやってるから私も…」みたいな便乗がイヤで。女子ならではで、集団でトイレに行くとか。そんなに行きたくないし(笑)遠足とかも苦手で休んじゃったり。

ーあぁ、学園祭とかも?

休んじゃう。ギリギリの出席日数で進学するみたいな感じで、先生から「ちゃんと学校来て下さい」って言われてました。

ーバドミントンの挫折もあって、好きなことを失ってしまいましたが、読書の方にというわけでもない?

好きで読んでたわけじゃなかったから。時間をどう過ごすかのものでしかなかったし、休み時間に何かしてれば周りにアピール出来るじゃないですか。ボーッとしてるわけにもいかないし(笑)

ーすごく話しかけにくい人だったと思いますよ(笑)

うん。集団に入れないし、呼ばれたところでそこに飛び込んでいく勇気もなかったですから”ブロック”してたと思うんですよね。そうなると、どんどん友達も少なくなって。バドミントンやってる時は友達もいたんですけど、辞めちゃったから。気づいたら「あれ、やばい!少ないぞ!」って(笑)

ーそれって小さいコミュニティーの方が居心地が良かったとか?

いや、耐えてましたね。その時間が過ぎるのを…そういう生活の仕方だったんですよね。

ー高校生に入ってもそれは続いていくんですか?

ちょっと変わったんです。中学3年生の終わりくらいに、小学校からの友達が英会話を習ってたんですけど、「一緒に1回行ってみない?」って誘われて体験に行ったら、これが面白かったんですよ。あんな状態だったのに、英語って身振り手振りを使って表現するじゃないですか、「なんて開放的なんだ!」と思って。それから英語の世界に入るんです。それまで英語も難しくて苦手だなと思ってたのが、会話で繋がれるっていう面白さで好きになって、勉強も出来るようになるんですね。で、高校で英語研究会っていうクラブに入るんです。そこで、弁論大会ってあるんですけど応募してスピーチしたりとか。

ーちょっとどころか、180度変わりましたよね(笑)

それまではやりたいことがわからないし、バドミントンも辞めちゃって、もんもんとした時期があったんですけど、英語がやりたいっていう漠然としたものからスピーチで賞を頂いたり、上位になって海外に行ったりすることでアクティブになって行きましたね。

ー好きなものが見つかった時の行動ってポジティブですよね。

見つかったっていうのはすごく大きくて。特にそれまでと対極の世界が、私にとっては英語でした。日本語と違って、外に向かって発信する言語の解放感を感じてて。話せるようになるとコミュニケーションが増えるし、学校の勉強も出来るようになるし。

ー根本的な部分っていうのは、そこまで変わっていないと思うのですが”やりたいこと”っていう道標で突き動かされていると思うんですよね。

うん、小学生の時にスポーツが好きでバドミントンをしていたけど、中学生でそれを見失って。何かやりたいけどわからない時に英語に出会って。

ーここまでお伺いする中でまだ”音楽”のキーワードが出てこないですね(笑)結構、中学・高校からバンド始めて…みたいな方が多いと思うんですけど。

音楽は何にも興味がなかったので(笑)そのまま英語が好きだから、外国語の大学に行きたくて受けるんですけど、第1志望は落ちちゃうんですね。で、第2希望で受けた関西大学・社会学部のマスコミュニケーション学科に行くんです。当時、英語も受験勉強もしてっていう時に、関西人なのでお笑いが好きで漫才とか観に行ってたんですけど、「探偵ナイトスクープ」の越前屋俵太さんが大好きで。その方が社会学部のマスコミュニケーション学科の卒業だったので、それだけで受けたんです(笑)

ー出た!関西人の血(笑)

外国語大学か、未知の世界の大学かの軸で受けてたから(笑)

ーそして未知の大学へ入学と(笑)サークルには入りました?

いっぱい入ったんですよ。中学・高校と女子高だったんで、その反動でもっといろんな人達がたくさんいるところっていう軸もあって、関西大学にしたのもあったんです。新入生っていっぱい勧誘されるじゃないですか。で、入ったのが「軽音楽部」と「ジャグリング同好会」と友達に誘われた「ソフトボール部」のマネージャー。「お茶です」って渡したり(笑)玉拾いしたり。

ー多様なのとマネージャーは意外です(笑)やっと音楽が出てきたところで、「軽音楽部」では最初から歌だったんですか?

楽器が出来ないんで歌です。何もいらないし(笑)って軽く考えてたんですけど。

ー先程から話に出て来ませんでしたが、元々歌うのは好きでした?

全然興味が無かったので…入部しようと思ったのも、音楽を知らなくても友達がたくさん出来るからって言われてだったので。すごい大きいサークルで、観光バス3台くらいで合宿に行っちゃうくらい。

ーそもそもの目的が音楽ではなかったんですね。

はい、歌謡曲とかは知ってましたけど。それこそ中学生くらいの時に、他の子と話を合わせる為に「光GENJI」のアルバムを買ったのが始めてでしたし。○○くんと○○くんが…って分からないと話せなかったんで(笑)

ーとなると、実際に入部されて音楽を演奏する側面と、音楽を聴く側面とあったと思いますが、好きになれたんですか?

最初は新入生歓迎会みたいなところでお話をして、新入生同士でバンドを作ることから始めたのと、先輩がやってるバンドのコーラスで入って、勉強したりとかだったのでまだ”歌が好き・嫌い”というよりは、コミュニケーションの1つっていう位置づけですよね。しかも、本命は「ジャグリング同好会」だったし。

ーあれ、「軽音楽部」じゃないんですか?

「ジャグリング同好会」は入った時点で私を入れて3人しかいなくって、上の方が卒業したら終わったんですよね(笑)

ー切ない(笑)

切ないですよね。大きいサークルだったら「ジャグリング同好会」を軸にしていたかもしれないですね。「中国雑技団」の技とか好きで、観たりするのも好きだったんですよ。

ーせっかく好きだったのに、必然的に終わってしまったんですね…

ー 「Aretha Franklin」「Janis Joplin」を歌い、「Carole King」で初めて挫折から救われる。ニューヨークで気付く歌いたいこと。そして、大沢伸一氏との出会い。PART.2では大学時代~デビューまでをお送りします。

ー「軽音楽部」1つになってバンド活動が中心になるんですか?

そうですね、サークル自体がジャズのビッグバンドからロック・フォーク・ポップまで、どんなことやっても良くって。先輩に誘われたバンドは「ブルース・ブラザース」のサントラとかをコピーしてるバンドで、そこで始めて「Aretha Franklin」とかのソウルミュージックを浴びることになるんです。もう1つの1年生同士の方は、ベースの人だけ高校生からやってたので、みんなその人についていって。弾いたことがあるということから「米米CLUB」を初めて歌ったんです。

ージャンルの違いもそうですけど、いきなり掛け持ちだったんですね。

大きいサークルだったんで、4つ・5つとか当たり前にあったんですよ。先輩のバンドの方は、色々教えてもらってたんですけど、緊張してましたね。最初の頃なんて、歌詞を書いたメモを手で持ってたら震えましたもん(笑)上下関係というか、やっぱり上の方はどっしり構えているイメージで。一方で同年代の方はヒドイ有様(笑)ベースの人だけが上手くって。あとは初心者の集まりなのでドラムの人なんか、スティック何回も落として、曲が止まって「シーン」みたいな(笑)バンドスコア通りしか出来ないからキーも変えれないし。「米米CLUB」は男性のキーですから「低いなぁ」と思いながら歌ってました。

ー譜面を読むのとかも初めてですよね?

初めてというか読めないですよ。今もそんなにですし。聴いた音をそのままなので、耳コピですね。

ー先程「ソウルミュージックを浴びた」とありましたけど、先輩のバンドでは音楽的な発展はあったんですよね?

やる曲が増えていったりとかもそうですし、何も知らないから先輩たちにジャンル関係なく、ソウルもジャズもロックもテープを貸してもらって聴いてましたね。

ーお伺いしているとジャンルよりも、歌い手としての軸で影響を受けられていそうですね。

それぞれに好きな歌い手さんがいて、1番衝撃を受けたのは「Aretha Franklin」で「Respect」(オーティス・レディングのカヴァー)が入ってるカセットを聴いた時に”声”の凄さを知りましたね。それまでは歌でショッキングに思えることってなかったんですけど、人ってこんな声が出せるんだっていうショックと、こんな歌が歌えたら良いなっていう純粋な気持ちで。それから「Aretha Franklin」や「Janis Joplin」のコピーバンドをやるんですけど…またそこで挫折するんですよ。

ーバドミントンぶりの…

結局、どれだけ頑張っても「Aretha Franklin」の声になれない、「Janis Joplin」の声になれないって。それからどうしようって思いながらも、色々聴いていく中で「Carole King」に出会うんです。彼女の声は高くも低くもなくて、中音域の声が気持ち良くて。声を張るわけでもなく、囁くわけでもなく、淡々と歌うんだけどカッコ良くて、声のレンジが私と近いかもって思ったんですよね。自分に合う声の曲を歌っていけば良いんだって。

ー「Carole King」の出会いが挫折から救ってくれた?

そうですね、色々やってみてましたけど。大学生だからお酒をいっぱい飲めば良いんじゃないかとか(笑)ハスキーになる為に声が出なくなったりしたこともあったし、潰しちゃったこともあったし。

ーそういうムチャをしながら(笑)”自分らしさ”みたいなものが見つかったタイミングですよね。

そう。歌った時に無理なく、気持ち良く歌えるんだって。すごく歌に対して前向きになりましたね。

ーこれまでのbirdさんだと諦めるか、他のことに行ったと思うんですけど、初めて持ち直しましたよね?

そうですね、昔なら辞めてたと思うんですけど持ち直せましたね。あ、でも1回キーボードに逃げたんですよ(笑)でも弾いたことないから演奏会とかでも他の人に迷惑が掛かるからやめましたけど。

ー(笑)持ち直したので良かったです。話が前後するかもしれないのですが、初ステージはいつになるんですか?

サークルで行った合宿の最終日に全員が演奏するんですけど、それが最初ですね。上手かったら盛り上がるし、最悪だとスリッパとか投げられるしっていう(笑)今はもうないんですけど、学内に中央ステージっていう大きい円形のグランドがあって、そこで特設ステージを組むんですよ。最終日にたくさん人が集まってる時に演奏するのがみんなの目標で。それに出るには先輩たちが聴いて投票する、テープ審査とかあって。時間帯もそれで割り振られて、ヘタだと、犬の散歩してる人しかいないみたいな早朝で(笑)ヘタ過ぎるとそもそも出られないですし。

ー「Aretha Franklin」と「米米CLUB」をやったんですよね?

そうです。当然、初めてなので緊張はしたんですけど、サークルの人達・先輩達はあったかい人ばかりだったので、厳しいことはなかったですね。

ーその後、1番良い時間帯の中央ステージへは出場出来たんですか?

3年生の時ですね。そのステージもコピーバンドで。ちょうどそのタイミングで友達がオリジナルをやるって言って、ツインボーカルでオリジナルを作って外に応募するっていうのをやり始めてました。

ーそういえば、この時点でまだ大学以外でのステージってないですよね?

はい。それから大学3年の後半で、大阪のライブハウスでやり始めるんです。その中でまたいろんな出会いもありました。大阪のレストランや飲み屋さんで週末に音楽を演奏するバイトがあるんだけどって、ギターの人に言われて「好きなことでお金が貰える!」って、嬉しくてやってました。そこではジャズのスタンダードとかボサノヴァを勉強して覚えて、演奏してましたね。

ー一気にフィールドが広がりましたね。全部同時進行ですよね?

そう。そこには楽しいのと辛いのとあって(笑)呼ばれて行っているわけではないですから、「歌いらん・うるさい・止めて」みたなのもありましたよね。ただ、歌を歌ってお金を貰うっていう喜びの方が大きかったし、学校の中では出来ないことだったので単純に嬉しかったですね。まぁ、大体飲んで使っちゃってましたけどね(笑)

ー(笑)でも大学生だからそんなもんだと思いますけどね。あと、確実に強くなってますよね。もう逃げないじゃないですか?

もちろん、何回か落ちそうだったんですけど踏ん張れてるんですよね。その頃にはみんな就職活動とかするタイミングなんですけど、好きなものが1つ見つかったから「行ける所まで行きたい」っていう思いがもうあって。30歳くらいまで好きなことして、ダメだったら潔く諦めようっていう心持ちでしたね。

ーその想いがニューヨークに繋がって行くんですね。

そうですね。当時、ゼミの先生が音楽を研究する人で、ライブも結構観に来てくれてたんです。4年生の時に論文とか書かないといけない中、「将来歌を歌っていきたいから、ニューヨークに3ヶ月間行っていいですか?」って相談したんですね。先生は向こうで音楽のことを調べるんだったら、休んでも良いって言って下さって。手紙とかやりとりしながら行ってました。

ーニューヨークに行ったことで、どういった影響をbirdさんもたらされました?

まずは安易というか…音楽だったらニューヨークだろうっていう漠然とした思いだったんですよね。それまでバイトしてお金を貯めて行くんですけど、宛てもあるわけではなかったし。YMCAの様な寮にいたんですけど、取り敢えず午前は語学学校に行って、午後は何もないから譜面とか持って飛び込みしてました。

ー所謂、ライブハウスですか?

週末にジャズとかを演奏する場所があるので「これ歌いたいんですけど」って歌わせてもらったりしてました。「こんな譜面じゃ読めない」って言われたら、少しずつ知り合いになったピアノの人に、書き直してもらってたりもしたし。あとはミュージカルやライブを観に行ったりと、音楽にまつわるものを浴びることをしていました。

ーすごく充実した環境だったと思うんですけど、3ヵ月で帰国されますよね。単純に”残る”という選択肢はなかったんですか?

そうですね…飛び入りでジャズのスタンダードとか歌ってて、そこにいらしゃるお客さんの反応を見た時に「これではいけないな」って思ったんですよね。誰かが言ったわけではないんですけど、何となく私が感じたのは「アジアから来た女の子が英語でジャズのスタンダード歌ってるんだ…」っていう。

ー歌への歓喜や共感をされる反応もなく…

そう。それ以上も以下もないっていう、何とも言えない感じ。ここからもう1歩出るには「自分の言葉・自分の曲」のオリジナルでないとダメだと思ったんです。母国語が日本語なので、自分の言葉で伝えないとってなり、帰国してから理論とかもわからないけど、闇雲に曲を作るんですよ。

ーニューヨークで得たものは、先程”影響”という問いをしましたけど、歌を伝えるには声と共に紡がれる、”自分自身の言葉とメロディ”というオリジナルであるという気付きだったんですね。また”bird”誕生の瞬間とも言えますね。

作詞とはまだ呼べる代物ではなかったですけど、そういう作業をし始めたタイミングですね。コードもわからないから、作ったメロディを友達に譜面へ起こしてもらったりと少しずつですね。

ー帰国してからも、レストランや飲み屋さんでの演奏は行っていたんですか?

それは続けてました。そんな矢先に、お店で大沢伸一さんに会うんですよね。当時は大沢さんのこともそうだし、その当時の音楽って知らなかったから。バンドだし、70年代遡ってるし(笑)ニューヨークではジャズのインプロ(即興)やってたりなので、DJってどんな仕事?何やる人?って感じ(笑)声を掛けられて「どんな音楽が好き?」って話になって、70年代のソウルミュージックとかの話をしたら、大沢さんも「俺も好きや」って。やってることは違うんだけど音楽の好きなものが近いのがわかって。そこから何回か会うようになって、「何か一緒に作ろうか」ってなったんです。私は日本語でやりたいっていう思いがあって、大沢さんも英語じゃなくて日本語でやりたいっていうのがあったらしく…

ー2人のベクトルが一致していたんですね。

そう、それで作ることになるんですけど、私が70年代の音楽以外に何も知らないから、いろんなジャンルの”今”の音楽をいっぱい教えてもらって。それこそクラブも行ったことがなかったので、何を楽しむ場所なの?そもそも演奏してないやん(笑)って。で、「ここに行って」って言われた大阪のクラブに行ってみたら、みんながDJに向かって踊ってるのがわからなくて(笑)「音おっきいなぁ」って思いながら踊らずにじっと観察してましたね。

ーむっちゃ純粋ですね(笑)それは卒業する時期くらいですか?

はい。当時はお金がなかったので音楽のバイトもウエイトレスのバイトとか同時進行でやりつつ、大沢さんからZEEBRAさんのお話(THE RHYME ANIMAL REMIX E.P.1に参加)もらって呼ばれたら東京に行ってました。

ーじゃあ、レコーディングは東京で大阪と行き来していたんですか?

そうです。1stアルバムが出来るまでずっとそういう生活をしていましたね。良くわかっていない状況でしたけど、デビューが出来ることがすごく嬉しかったですね。

ー デビューからの目まぐるしい活動を経て、大沢伸一からの巣立ち。様々なミュージシャンとの制作・ライブで広がる世界。PART.3では「bird」~「DOUBLE CHANCE」までをお送りします。

ーこれまで聴かれていた音楽や好きな音楽と違い、クラブミュージックのシンガーとしてのデビューって違和感ってなかったんですか?

あぁ。大沢さんに言われたことは「今までの歌ってきた癖を全て捨てなさい」って言われたんです。「え!?」ってなったんですけど、1回フラットにして、色んなものを吸収しなさいってことでそうしたんですよね。東京に行った時は何でもあるから、音楽に限らず映画やアートも、色んな角度から吸収して。そうやって私自身は、前に進んでるつもりだったんです。周りの友達からは「え?随分、歌い方違うね。」ってびっくりされましたね。デビューの曲(SOULS)とかを「これどう思う?」って、聴いてもらいたいからバンドの友達に持っていくんですけど、そう言われるので「そっかぁ…」って。ただ、バンドで日本語を歌ってなかったから、そういう違いもあったと思うんですけど。

ー大沢さんから言われてのフラットな状態だったとしても、ご自身にはそこに違和感はなかったわけですよね?

そうですね、これまでのものを”捨てる”というよりは1度引き出しにしまって、新しいものを増やしていった感覚だったので。デビューした時にクラブミュージック初心者だったんですけど、自分が歌っている音楽がクラブで大音量の中、みんなが踊っているのを見た時にライブと違う在り方を感じることができましたし。

ー結構、冷静に捉えていらっしゃったんですね。

初心者ですから(笑)渦中にはいたんですけど。ただただ、その景色を知るっていう感じでしたね。

ーデビューされた年はリリース数が単純に多かったですけど、忙しかったですか?

1枚目のアルバムを作るにあたって、実はすごい時間が掛かってるんですね。前の年に大沢さんと会ってから、少しずつ東京を行き来して、翌年の夏にアルバムがリリースされるんですけど、後のシングルはアルバムからシングルカットしたものや、大沢さんがリミックスしたものだったりするので、急いで作ったっていう感じでもないんですね。歌詞も、当時はパソコンとかないから近くのコンビニで歌詞をFAXで流して、大沢さんから来る感想を「どう言われるんだろう?」ってドキドキしながら電話が掛かって来るのを待つっていう(笑)

ー歌詞を書かれるのは先程のお話を聞くと、ほぼ初めてに近いと思うんですけど。

そうですね、それまでも書き始めてましたけど、歌詞の書き方をほぼ知らない状態で。初めに「SOULS」の歌詞を書くことになって、書いたものを大沢さんに見せたら「すごい普通」って言われて…。東京に来てた時は、高校の英語研究会で知り合った友達が東京の大学に行ってたので、そこにお邪魔して泊りこみしてたんです。その時に「普通って言われるし、どうしたら良いのかなぁ…」って悩みを相談したりして。そしたら、その人は本をたくさん読む人で「これとか読んでみたら?」って言われて貸してもらったのが、谷川俊太郎さんの詩集だったんですね。それまで1回も読んだことなかったので「全然違う!」って。言葉の持つ強さにショックを受けて。「Aretha Franklin」を始めて聴いた時と同じくらいのショッキングで。「言葉はすごい、これはあかんわ」って思って(笑)

ーあ、「SOULS」は幻の未発表ヴァージョンの歌詞が存在していたんですね。

そう、普通のね(笑)で、歌詞を書く前にもっと吸収しないとダメだと思って、色んな人の詩集を図書館とかで読み漁って。本当に伝えたかったことを言葉にする為に、何度も直して完成したのが今の「SOULS」ですね。

ーそうやって苦心して生み出された音楽が、結果としても好セールスでした。birdさん自身はそれをどう捉えていたのでしょうか?

全部が初めての出来事なので。例えばデビューしたことも、作品を出すことも、ツアーも、撮影も、こうやって取材を受けるってことも。来たボールを取り敢えず返すみたいな感じでしたから、単純にめまぐるしい1年だったというのが感想ですね。

ー髪型もそこで変化させますよね?

髪の毛は大阪にいた時からアフロだったんですけど、色んなものが世に出始めてからはあの髪型でいると、ふとした時に後ろで見てる人がいたりとか(笑)

ーまぁ、目立ちますよね(笑)

スーパーで買い物とかしてて、ネギとか入れてる時にも感じる視線があって(笑)そういう周りの変化もあったのと、そもそもあんまり持たなくて。髪が切れちゃうんですよね。そういうのもあって2枚目出すタイミングで切っちゃいました。

ー今お話に挙がった「MIND TRAVEL」リリースまであっという間ですよね。

2枚目は1枚目と比べると制作時間がすごい短くって。大沢さんとの共同作業なので、楽曲が出来るまで歌詞は書けないですし、出来あがって私が書いてもまた修正してみたいなことを同時進行でやってて、急ピッチで仕上げてましたね。

ーアーティスト活動ペースとしては、かなりのスピードですよね。

自分の中ではどういうペースかがわからない時期ですし、言われたものをやるだけで精一杯だったので。

ーそこから「極上ハイブリッド」の頃に変化がありましたよね?

そうですね、ガラっと環境が変わったのがあって。2枚目を作り終えた辺りに、イベントとかの外に出ることが増えていって、必然的にいろんなミュージシャンとお会いする機会があったんです。そこでやっぱり、音楽を色んな人達とやってみたいっていう気持ちが強くなってきて。大沢さんときちんと話して、3枚目は大沢さんを巣立って制作することになるんです。

ー楽曲自体もそうですけど、歌詞もこれまでと違う印象を受けていたのですが?

歌詞は意図的に変えてたというか…特に2枚目は文字数が多い曲がたくさんあって。その反動なのか、もっと言葉の隙間を作りたくなったんですね。余韻をもっと聴かせたいという想いもあって。

ーなるほど。過去と比べるということではないのですが「極上ハイブリッド」を生み出したのは、もっと自分としての幅を広げたかったのか、それともより自分らしさを出したかったのか?

振り返ると、広げたかったんだと思います。また違う世界に足を踏み込んで行きたかったですし、1枚目のツアーからお世話になっているメンバーの人との制作や、初めての人とセッションしながらの制作も未知だったので。

ータイトル通りというか、打ち込みも生音も混ざっている作品だったのも印象的ですよね。

大沢さんと出会って打ち込み音楽のカッコ良さを知ったのがあるので。全部生音に寄らずにDJ KRUSHさん(DJ KRUSH、DJ HIDE、DJ SAKの “流” 名義で)とやったのも、カッコ良いと思ったものを混ぜたかったんですよね。

ー「DOUBLE CHANCE」ではその先まで行っているというか、birdさん自身でも評価が高い作品なのではと思いますが。

元々好きだったので、田島貴男さんにプロデュースをお願いしたんです。初めてお会いするので「はじめまして」からですね(笑)バンドでやりたくて、シンプルな感じでカッコ良くしていきたいっていうお話はしてて。作曲陣も日本の方だけに留まらず、海外の好きだと思える人にも声を掛けさせて頂いて。

ー「saigenji」、「川口大輔」、「永積タカシ(ハナレグミ)」、「マツキタイジロウ(スクービー・ドゥ)」、「アル・クーパー」、「ジェシー・ハリス」、「イヴァン・リンス」…と何か総ナメって感じですよね(笑)

田島さんにリズムのグルーヴについて教えてもらって、3枚目と比べると渋めの曲とかも入ったりしてます。バンドのメンバーも田島さんのご紹介の方々だったので3枚目までと違って制作陣までも「はじめまして」だったのは初ですね。

ー実際の楽曲たちはもちろん、様々な作曲者でというところはあるものの、歌声も多彩ですし、これまでに見られなかった一面があったと思うんです。

実はアコースティックのライブで4枚目からの楽曲をやることが多いんですね。作った時は20代だったんですけど、歳を重ねるごとに味わいが出てくる楽曲が多いというか。深みが出てきて、多分40代になってもさらに伸びていく曲達なのかなと思いますね。

ーbirdさんと共に成長していっている?

あの時点でのベストではあったんですけど、20代では表現しきれていない部分があったのかなと、今は思いますね。昆布みたいに(笑)まだまだ味が出せるんだと思います。

ー 活動領域が広がり、妊娠・出産を経て、よりオーディエンスへ近づいていくライブ主体の活動へ。PART.4では「vacation」~「9」までをお送りします。

ー「vacation」以降、活動のフィールド自体も多岐に渡っていった印象があるのですがこの辺りはいかがでしょうか?

まず、4枚目を作り終わったあと、もう1枚田島さんと作りたいって思ったんですよね。もう少し、コンセプトがあるものでということで、森さんにも入ってもらって作ったんですけど…私の中で結構やり切ったんですよね。そんな折に谷川俊太郎さんのお話をもらって。何回かやりとりをさせて頂いて、コンサートや「SONG BOOK」にも参加させて頂いたり。これまでと違うんだけど、音楽にかかわるものをやってて。少し後になりますけど、「鳥」名義のものも沖縄限定で出しました。沖縄方面によく行くようになったきっかけは、「ハイビスカス」を出した時に何か面白いことがやりたいって思ってて、沖縄の宮古島にハイビスカス条例(宮古島の傍にある来間島にある、各家庭に1本のハイビスカスを植えようという条例)があるのを知ってライブをやったんですけど、それが大きいですよね。沖縄でライブをやるのが増えて行って、毎年参加させてもらっているMusic Conventionも今年で9回目だったんです。

ーこの頃が始まりだったんですね。「BREATH」については?

5枚目のあと、これまでの流れ…制作してツアーに出て、また休んで制作してっていう大きな流れがあるんですけど。インドにずっと行きたくて、その流れの休みで行ったんです。そこでヨガを道場でやってて、「息を吸って吐くってすごいな」って(笑)歌も同じだなって。旅から帰ってきて、生まれてから死ぬまで呼吸ってするし、そういうイメージをアルバムで作れないかなっていうのがきっかけで。息ってリズムがあるんですけど、いろんな状況でリズムが変わるのを楽しめたら良いなと思って。コンセプトを決めて、冨田さんにお願いをして制作を進めていったんです。その中の「ファーストブレス」は、夏頃に妊娠してることがわかって、元々”生まれる”っていうコンセプトを自分で描いてはいたんですけど、あんまりピンとはきていなくて(笑)だったら生まれてからこの曲は書こうって。他の曲から先に動いて、出産後に作ったんです。

ー出産前と出産後の声と言葉が詰まってるんですね。

時間は掛かったんですけど、せっかくこういう機会があるのに、それを知らないまま書くよりは、体験してから書いた方が良いと思って。最初は穏やかな曲になるのかなって思ってたんですけど、「出産ってこんな大変なんだ!」って(笑)だからああいうアッパーな曲になったんです。

ー出産によって心境の変化はあったと思うんですけど、歌い方については変化はあったのでしょうか?

出産後というよりかは、お腹の中に赤ちゃんがいると重いんですけど、重心がズシっとくるんですよね。私、背が小さいからあんまりそういう体験がなかったんですけど、ごついゴスペルの方ってこういう感じなのかなって。純粋に歌いやすいんですよ。出産した後もその感覚って覚えていて、それは大きいですね。あと、自分ではわからなかったんですけど、周りのミュージシャンの方々から、妊娠している時の方が声は穏やかだって言われたんですよ。それもあって2人目の時も、敢えてちょうどお腹にいる時に、「海を見つめて」(NEW BASIC収録)っていう曲を録ったりして。

ー出産後、レコード会社の移籍もありカバーから始められましたが?

きっかけは「BATUCADA」のお話を頂いたことで。それからアルバムを作ることになるんですけど、これがおもしろくって。大学の時にやってたカバーの在り方と違って、自分の言葉で歌ってきた後のカバーだったので、誰かが書いた曲の言葉の選び方とか、歌い回しとかにどう寄り添うかという意識の差。昔は、ただカッコ良いからやるだけだったけど、ものを作るという視点で名曲たちを吸収できたのは、ものすごく勉強になりましたね。

ー楽曲セレクトもリスナーからの声が反映されていたとか。

そうです。元々聴いていた曲ではないものばかりを集めてだったので、楽しかったですね。あと、楽曲の見方も変わって。学生の時はカバーして歌って「私の歌って?」ってなるじゃないですか(笑)モノマネでもいけないし、私らしいってわからないし。作り手ではなく、歌い手に徹しきれるのってカバーだと思うんですね。それがこのカバーアルバムで出来て、気づけたってことが良かったと思います。

ー2010年から結構忙しくなるんですよね。

忙しかったですか?覚えてない(笑)

ーライブが多くなったタイミングな筈です(笑)

あ、「NEW BASIC」を作るまだ前段階なんですけど、ちょうどGentaさん、田中義人さん、金子雄太さんの3人(The N.B.3.)とやるようになったんですね。カバーだったりとか、過去の楽曲をベースレスでこのトリオでやってみたらすごくおもしろくて。特に過去の楽曲は雄太さんが入ることによって、新鮮に聴こえますし。ライブをその年に結構やって、「やっぱり新しい曲もやりたいね」ってなるんですよね。それで新作をライブで披露をし始めて行くんですけど、「だったらライブで新しい曲どんどんやって録ろうよ!」ってなって、クロコダイル(東京クロコダイル)とかで全部新曲をライブでやって録音するっていうのをやったんですね。

ー今までなかったですよね?先程の大きな流れの話の真逆で、ライブが先でリリースが後というのは。

はい。ライブでいつも新しいことをやっているって良いなって思って。お客さんも初めてだから戸惑うじゃないですか。その都度、アレンジを変えたり歌詞を変えたりしながら、一緒に育てていった感じですね。また、その辺りから同時進行で樋口さんとのライブも。これまでってホールとかライブハウスばかりだったんですけど、普段音楽をやらないような場所でも良い雰囲気の場所があればライブをやっていきたいねって話してて、ライブが増えていったんですよね。

ー「NEW BASIC」についてはライブ録音という初の試みでしたが、先程のお話にもあった通り、お客さんも含めた空気感をパッケージした作品っていうアプローチもすばらしいですし、スタジオ録音での4人のシンプルさの部分が「NEW BASIC」をもたらしてくれているのではと思わせてくれたのですが。

そうですね、ライブだとお客さんと一緒に作っていけるじゃないですか、それは楽しかったですね。来て下さった方のクレジットも入れれましたし。あとは3人とやったことで単純に音を楽しむってことが新しい基礎って思えたのもありましたね。

ー樋口さんとの”そうだ ◯◯、行こう。”シリーズは、お客さんとの距離も近いですよね。どんどん、birdさんがお客さんに近づいて行っているというか。

敢えてそういう場所を選んでいて。普段音楽をやっていない場所でも、出来そうであればやってみる。誰かがやれば、また違うミュージシャンの方が出来るだろうし、常に音楽がある場所が増えたら良いなって。近いことによって、コミュニケーションが取りやすいですし。

ーしかも、歌とギターっていう最小限ですから、必然的に歌の力ってバンドでのライブより必要だと思うんですよね。

ある意味、タフでいなければいけないというか…精神的には強くないと出来ないですよね。どっちかが倒れたら終わりなので(笑)歌い手としてはそういう場所があることが、ものすごく有難いですね。やる曲も決めずに行くので、セットリストも毎回会場で決めるんですよ。会場の雰囲気に合わせて決めて行くので、やる曲も徐々に増やしていってますね。

ーそして2011.3.11に大震災があって。

「NEW BASIC」のスタジオ録音をする何日か前だったんですね。2日後くらいに録音するのが決まってて。でも物理的に出来る・出来ないっていう問題があって。例えばエンジニアの方がいないとかあったし、あと、参加頂くミュージシャンの方にどういう気持ちかの確認をしました。結論から言うと私も含めて出来ることをやろうってなって、押さえていたスタジオは電力が使えない状況だったので、別のエンジニアさんとスタジオを探して制作することにしました。あと歌詞を「flowers」だけ変えたんです。元々は別の歌詞だったんですけど、少しでも前向きになれれば良いなという想いで直しました。音楽をやる人なので、出来ることは私の場合は歌うことだから、止まらずにやる選択をしました。

ーそういう活動をされるアーティストの方々に勇気づけられた人って、絶対たくさんいると思うんですよね。birdさんの行動もそうだと思いますし、先程の”そうだ ◯◯、行こう。”シリーズでも伺いましたが、より近い場所っていう選択も届けるっていうことと同義だなと思いますし。

最初は足を伸ばせるところからだったんですけど、「ここでもやれるんだ」っていうところは、直接コンタクトを取ってやって。そうやってると、人との出会いから他の場所も出てきたりして、少しずつ広がっていきましたね。

ー最近だと、1つの地域を隈なく周られたりもしてますよね。

そうですね。例えば北海道は、札幌はそんなに多くは行ったがなかったんですけど、このシリーズで昨年から細かくグルグル回って。今年は最北端近くの稚内のお寺でもやったりして。そういう場所まで全然行けてなかったし、人が集まってくださって嬉しいですよね。

ー田舎だと、そもそもミュージシャンの方がライブに来てくれませんからね(笑)でも、そういう場所にもちゃんと来て下さるのはファンにとっても嬉しいですし、このシリーズは是非とも続けて頂きたいですね。

個人的に旅がそもそも好きなので、今までは休みの時期に行っていたんですけど、今は音楽と旅が繋がっているのですごく楽しいです。

ー15周年の今年は「Home」・「9」のオリジナルアルバムと、昨年と変わらないライブ数で、すごく充実されていたと思うのですが?

春から秋にかけてイベントもたくさん出させて頂きましたし、ライブもたくさんしましたね。今年何本やってます(笑)?

ーイベント合わせて約60本です(笑)

けっこうやりましたね。前は制作期間とライブってモードが全然違うから、うまく切り替えが出来なかったんですね。今はライブがたくさんある中で、ちょくちょく制作ができるようになったので。多分、新曲をライブで披露するっていうのが大きかったんだと思います。

ー「9」もその延長で制作できたんですか?

「NEW BASIC」の後にまたみんなで作りたいねって話をしてて、闇雲に作るよりはテーマがあった方が良いってなったんです。自分の中で少しずつ育ってきたんですね、いろんな世界・グルーヴ・リズムのうねりの楽しさっていうのを、今までいろんなミュージシャンの方達と音楽をやらせてもらって、そういうのをやりたいってなった時に、ブーカルー(1965年~1970年ごろにかけて主にニューヨークで流行したラテン音楽の一種。リズム・アンド・ブルース、ソウルなどの米国のブラック・ミュージックと、キューバ~カリブ系のラテン音楽が混合されたサウンド)みたいなのが良いんじゃないのってGentaさんに教えてもらって。だったらベースの人いた方が良いって話になり、デビューの時からお世話になってる澤田浩史さんにも参加してもらうことになるんです。

ーそれでThe N.B.3.からThe N.B.4.に。

はい。このメンバーのライブで、少しずつ育てて出来た楽曲が「9」です。澤田さんが入ることで、さらに広がりましたね。

ーこれまでの充実した活動を通して、今後の15周年以降も続けていきたいこと、またやりたいことを教えてください。

歌い手として、どこまで続けられるかわからないですけど、続けられるところまでやっていきたいですし、まだまだ歌うことの発見もあるので新しい扉を開けて行きたいです。音楽は私にとってコミュニケーション方法として”繋げる”という重要な役割を担ってくれるものなので、これからもジャンルにとらわれずに良いなと思えるものをやっていけたらと思います。

取材:2013.12.16
撮影:Makoto Honda
インタビュー・テキスト:Atsushi Tsuji(辻 敦志) @classic0330