bird インタビュー

ー デビューからの目まぐるしい活動を経て、大沢伸一からの巣立ち。様々なミュージシャンとの制作・ライブで広がる世界。PART.3では「bird」~「DOUBLE CHANCE」までをお送りします。

ーこれまで聴かれていた音楽や好きな音楽と違い、クラブミュージックのシンガーとしてのデビューって違和感ってなかったんですか?

あぁ。大沢さんに言われたことは「今までの歌ってきた癖を全て捨てなさい」って言われたんです。「え!?」ってなったんですけど、1回フラットにして、色んなものを吸収しなさいってことでそうしたんですよね。東京に行った時は何でもあるから、音楽に限らず映画やアートも、色んな角度から吸収して。そうやって私自身は、前に進んでるつもりだったんです。周りの友達からは「え?随分、歌い方違うね。」ってびっくりされましたね。デビューの曲(SOULS)とかを「これどう思う?」って、聴いてもらいたいからバンドの友達に持っていくんですけど、そう言われるので「そっかぁ…」って。ただ、バンドで日本語を歌ってなかったから、そういう違いもあったと思うんですけど。

ー大沢さんから言われてのフラットな状態だったとしても、ご自身にはそこに違和感はなかったわけですよね?

そうですね、これまでのものを”捨てる”というよりは1度引き出しにしまって、新しいものを増やしていった感覚だったので。デビューした時にクラブミュージック初心者だったんですけど、自分が歌っている音楽がクラブで大音量の中、みんなが踊っているのを見た時にライブと違う在り方を感じることができましたし。

ー結構、冷静に捉えていらっしゃったんですね。

初心者ですから(笑)渦中にはいたんですけど。ただただ、その景色を知るっていう感じでしたね。

ーデビューされた年はリリース数が単純に多かったですけど、忙しかったですか?

1枚目のアルバムを作るにあたって、実はすごい時間が掛かってるんですね。前の年に大沢さんと会ってから、少しずつ東京を行き来して、翌年の夏にアルバムがリリースされるんですけど、後のシングルはアルバムからシングルカットしたものや、大沢さんがリミックスしたものだったりするので、急いで作ったっていう感じでもないんですね。歌詞も、当時はパソコンとかないから近くのコンビニで歌詞をFAXで流して、大沢さんから来る感想を「どう言われるんだろう?」ってドキドキしながら電話が掛かって来るのを待つっていう(笑)

ー歌詞を書かれるのは先程のお話を聞くと、ほぼ初めてに近いと思うんですけど。

そうですね、それまでも書き始めてましたけど、歌詞の書き方をほぼ知らない状態で。初めに「SOULS」の歌詞を書くことになって、書いたものを大沢さんに見せたら「すごい普通」って言われて…。東京に来てた時は、高校の英語研究会で知り合った友達が東京の大学に行ってたので、そこにお邪魔して泊りこみしてたんです。その時に「普通って言われるし、どうしたら良いのかなぁ…」って悩みを相談したりして。そしたら、その人は本をたくさん読む人で「これとか読んでみたら?」って言われて貸してもらったのが、谷川俊太郎さんの詩集だったんですね。それまで1回も読んだことなかったので「全然違う!」って。言葉の持つ強さにショックを受けて。「Aretha Franklin」を始めて聴いた時と同じくらいのショッキングで。「言葉はすごい、これはあかんわ」って思って(笑)

ーあ、「SOULS」は幻の未発表ヴァージョンの歌詞が存在していたんですね。

そう、普通のね(笑)で、歌詞を書く前にもっと吸収しないとダメだと思って、色んな人の詩集を図書館とかで読み漁って。本当に伝えたかったことを言葉にする為に、何度も直して完成したのが今の「SOULS」ですね。

ーそうやって苦心して生み出された音楽が、結果としても好セールスでした。birdさん自身はそれをどう捉えていたのでしょうか?

全部が初めての出来事なので。例えばデビューしたことも、作品を出すことも、ツアーも、撮影も、こうやって取材を受けるってことも。来たボールを取り敢えず返すみたいな感じでしたから、単純にめまぐるしい1年だったというのが感想ですね。

ー髪型もそこで変化させますよね?

髪の毛は大阪にいた時からアフロだったんですけど、色んなものが世に出始めてからはあの髪型でいると、ふとした時に後ろで見てる人がいたりとか(笑)

ーまぁ、目立ちますよね(笑)

スーパーで買い物とかしてて、ネギとか入れてる時にも感じる視線があって(笑)そういう周りの変化もあったのと、そもそもあんまり持たなくて。髪が切れちゃうんですよね。そういうのもあって2枚目出すタイミングで切っちゃいました。

ー今お話に挙がった「MIND TRAVEL」リリースまであっという間ですよね。

2枚目は1枚目と比べると制作時間がすごい短くって。大沢さんとの共同作業なので、楽曲が出来るまで歌詞は書けないですし、出来あがって私が書いてもまた修正してみたいなことを同時進行でやってて、急ピッチで仕上げてましたね。

ーアーティスト活動ペースとしては、かなりのスピードですよね。

自分の中ではどういうペースかがわからない時期ですし、言われたものをやるだけで精一杯だったので。

ーそこから「極上ハイブリッド」の頃に変化がありましたよね?

そうですね、ガラっと環境が変わったのがあって。2枚目を作り終えた辺りに、イベントとかの外に出ることが増えていって、必然的にいろんなミュージシャンとお会いする機会があったんです。そこでやっぱり、音楽を色んな人達とやってみたいっていう気持ちが強くなってきて。大沢さんときちんと話して、3枚目は大沢さんを巣立って制作することになるんです。

ー楽曲自体もそうですけど、歌詞もこれまでと違う印象を受けていたのですが?

歌詞は意図的に変えてたというか…特に2枚目は文字数が多い曲がたくさんあって。その反動なのか、もっと言葉の隙間を作りたくなったんですね。余韻をもっと聴かせたいという想いもあって。

ーなるほど。過去と比べるということではないのですが「極上ハイブリッド」を生み出したのは、もっと自分としての幅を広げたかったのか、それともより自分らしさを出したかったのか?

振り返ると、広げたかったんだと思います。また違う世界に足を踏み込んで行きたかったですし、1枚目のツアーからお世話になっているメンバーの人との制作や、初めての人とセッションしながらの制作も未知だったので。

ータイトル通りというか、打ち込みも生音も混ざっている作品だったのも印象的ですよね。

大沢さんと出会って打ち込み音楽のカッコ良さを知ったのがあるので。全部生音に寄らずにDJ KRUSHさん(DJ KRUSH、DJ HIDE、DJ SAKの “流” 名義で)とやったのも、カッコ良いと思ったものを混ぜたかったんですよね。

ー「DOUBLE CHANCE」ではその先まで行っているというか、birdさん自身でも評価が高い作品なのではと思いますが。

元々好きだったので、田島貴男さんにプロデュースをお願いしたんです。初めてお会いするので「はじめまして」からですね(笑)バンドでやりたくて、シンプルな感じでカッコ良くしていきたいっていうお話はしてて。作曲陣も日本の方だけに留まらず、海外の好きだと思える人にも声を掛けさせて頂いて。

ー「saigenji」、「川口大輔」、「永積タカシ(ハナレグミ)」、「マツキタイジロウ(スクービー・ドゥ)」、「アル・クーパー」、「ジェシー・ハリス」、「イヴァン・リンス」…と何か総ナメって感じですよね(笑)

田島さんにリズムのグルーヴについて教えてもらって、3枚目と比べると渋めの曲とかも入ったりしてます。バンドのメンバーも田島さんのご紹介の方々だったので3枚目までと違って制作陣までも「はじめまして」だったのは初ですね。

ー実際の楽曲たちはもちろん、様々な作曲者でというところはあるものの、歌声も多彩ですし、これまでに見られなかった一面があったと思うんです。

実はアコースティックのライブで4枚目からの楽曲をやることが多いんですね。作った時は20代だったんですけど、歳を重ねるごとに味わいが出てくる楽曲が多いというか。深みが出てきて、多分40代になってもさらに伸びていく曲達なのかなと思いますね。

ーbirdさんと共に成長していっている?

あの時点でのベストではあったんですけど、20代では表現しきれていない部分があったのかなと、今は思いますね。昆布みたいに(笑)まだまだ味が出せるんだと思います。

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