沼澤 尚 インタビュー

ー”Chaka Khan”への参加によって、何が得られたと思いますか?

今思うと、”とにかく運が良かった”としか思えないですね。まだ26,7歳で、卒業した学校の新米先生をしながら、ドラムに対して相当やる気満々になっていましたし。色んな意味でかぶれてるというか…自信過剰で何も様子が解ってない頃だったし、大して巧くもないのに「よくあんなんでやれちゃってたなぁ」とつくづく思います。それに日本人というのが大きかったと思いますね。

ーアメリカにおいての”日本人という希少性”が、ある意味武器というか?

80年代のアメリカでは、やっぱり日本人は華奢ですし、さらに自分は髪を長くして派手な眼鏡を掛けて、見た目が面白かったのは間違いないですし、まぁまぁ印象も良かったんだと思います。実際の所、そんなにやる気なんてなかったのに、なんだかやれてる感じだから、勢いだけで何も解ってなかったですね。

ーその後が”Bobby Womack”でしょうか?

27歳の時ですね。日本ツアーもあったので、生まれて初めて自分の国で演奏するチャンスが来た時です。

ー凱旋帰国!

初めて家族が観に来てくれて、両親が自分の息子がドラムをプレイするのを観たのは、その”Bobby Womack”のツアーだったんです。

ーそれまで生のプレイをご覧になられたことはなかったんですね。

ないです。自分がテレビ番組の”Soul Train”に出たりしたら、それを録画して「テレビ出たよ!」って映像を送ってたくらいです。当時は先生をやりながら、とにかく色んなライブをやっていましたし。

ー具体的にはどういったものがありますか?

市内には、大量のジャズクラブやライブハウスがあったので、ローカルのジャズクラブに出演したり、学校の仲間で先生や自分の同級生とかが、色んなことをそれぞれにやってましたから。後に”Chic Corea Elektric Band”に入る、天才ギタリストの”Frank Gambale”は学校の同級生で、彼の”After Burner”っていうバンドを一緒にやってたり、”Mo’ Jazz”からデビューした”Norman Brown”も同級生で、彼のバンドもやってたし。あとはゴスペルの現場も多かったです。

ー教会でですか?

“O.C. Smith”とか”MC Hammer”って牧師になってますけど、アメリカってそこら中に教会がありますよね?あれって自分で自由にやって大丈夫だからなんです。

ーそうなんですか?知らなかったです…

自分でその都度部屋を借りたりとか、教えを説いたりすることはいくらでも出来ますし。 “Martin Luther King”のような、歴史的な人物等もそうですけど、歌手だった”O.C. Smith”は、毎週日曜日に牧師として教会をやっていて、その教会にはロサンジェルス在住の色々なミュージシャン達もたくさん集まって、必ずバックバンドがつくんですけど、そこに参加してました。”Stevie Wonder”のコーラス隊や”Graham Central Station”の”Patryce “Choc’let ” Banks”やストーンズの”Gimme Shelter”で一躍世界的に有名になって、映画 「バックコーラスの歌姫たち」でもフィーチャーされていた”Merry Clayton”も歌いに来ましたし。そのバンドで演奏しながら、彼らのゴスペルのミュージカルのバンドやったり、そういう繋がりから”Smokey Robinson”のツアーバンドに誘われ出したりとか。”Tony Boyd”という、後に”Eric Benet”のバンマスもやってた超絶ベーシスト/ボーカリストが、リーダーでやっていたディスコバンドを黒人しか来ないクラブで毎週末演奏してたり。

沼澤さんの場合、”自分のバンドがあって”というミュージシャンの道ではないですよね。ー自分でその都度部屋を借りたりとか、教えを説いたりすることはいくらでも出来ますし。

全然!自分がそういう…バンドがやりたくてミュージシャンになってないですし、音楽が大好きなだけで、それこそ「ミュージシャンになりたい」と思って、ミュージシャンになったわけではなかったですから。周りの人達を見ていて、周りの人達に誘われるがままに色々やっていただけで。若かったし、相当下手くそだったにも関わらず、なぜか声が掛かってやらせてもらってたから。もちろんその都度、その現場ごとにめっちゃ怒られたり、途中で帰らされたりとか(笑)普通に大変な修行の連続でしたけど、それが当たり前だと思っていたし、それ自体がスリル満点でものすごく楽しかったからやってたし。それで”Chaka Khan”のツアーバンドをやっている時に知り合ったのが、その頃”Sheila E”のバンドメンバーで、今でも一番仲が良い長年の仲間達です。

ーこのタイミングだったんですね!

彼らと仲良くなって、「バンドやろうよ」という中で生まれたのが、自分が始めて組んだバンド”13CATS”です。自分は「バンドかぁ…やってみようかな」くらいでしたけど、みんなすごいミュージシャンだし、「自分とやりたい」って言ってくれている。”Cat Gray”,”Karl Perrazo”,”Eddie M.”,”Raymond McKinley”,”Bobby G.”,”Stef Barns”,”Steve Baxter”,”Wayne Braxton”みんな巧いっていうのは当たり前で、強力な個性を持ってるスペシャルなミュージシャン達です。

ー今、色んなバンドやツアーの参加、”13CATS”のお話を頂いたんですけど、学校の先生との両立は、いつまで出来ていたんですか?

正確には覚えてないけど、「行ける時に行けば良い」という感じになっていたので、2000年に日本に帰国する寸前までですね。学校の中で古株になっていましたから、たまに学校行けば良かったですし、自分の作ったクラスだけやっていたり。

ーそれはびっくりですね。そこまで続けていらしたと思っていなかったです。

今のように、毎日演奏していたわけではないですし、月の半分も演奏してなかったと思います。ライブやレコーディングも確かにやっていましたけど、学校の先生をメインでやってました。それは何より楽しかったし、世界中からやってくる多種多様な生徒にも会えるし、自分の先生達も常にいて、ドラムの色々な情報にいつも触れているっていう。まるで仕事だと思っていなかった感じで(笑)だから、90年代に”チキンシャック”,”Sing Like Talking”、井上陽水さん、高中正義さん、吉田美奈子さん等のツアーで、日本からドラマーとして呼んでもらえた時だけ、学校から休みをもらって年に1〜2度くらいの頻度で日本に行ってました。

ーそうだったんですね。失礼なお話かも知れないですけど、井上陽水さん、高中正義さんは沼澤さんが日本にいらっしゃる時から、アーティストとして活躍されていましたが、”Sing Like Talking”の存在はご存知だったんですか?

知らなかったです。たまたま何かで日本に…おそらく”チキンシャック”の時です。山岸潤史、土岐英史、続木徹、Bobby Watsonがやってた、スムース・フュージョン的なバンドに呼んでもらって日本にいた時です。そもそもは自分が”13CATS”をロスでやってる時に、山岸さんに会ったのが始まりですね。”Mama,I want to sing”というオフ・ブロードウェイで人気があった、ゴスペル・ミュージカルのサントラのレコーディングをLAの”Image”というスタジオでやっていて、”James Gadson””Les McCann””Bobby Watson””David T. Walker”っていうリズムセクションだったんです。

ーすっごい名前が出てきました(笑)知らなかったです。

“James Gadson”は当時の”Bobby Womack”のプロデューサーだったので、自分がスタジオに会いに行った時のことです。日本人がそこに何人かいて、山岸さんもギターで参加してたんですね。「あ、山岸潤史だ」って判ったんですけど、日本のミュージシャンの知り合いはもちろんいないですし、「”James Gadson”の知り合いで遊びに来ました。」という感じで。そこで”James Gadson”と話してたら山岸さんが来て、「君か、ひょっとしてこの前”Bobby Womack”で日本に行ってたのは?」って話しかけてくれて。「そうです」ってなって、山岸さんが「”Bobby Womack”と来日してたドラムを見つけたぞ。」って日本のソウルファンの友人達に即行で連絡したっていう(笑)

ー山岸さん、観に行かれてたんですね。

(山下)達郎さん・(吉田)美奈子さん・永井ホトケ隆さん・近藤房之助さん・上田正樹さん、みんな来てたことを後に本人達に会えた時にそれぞれに言ってもらって。何といっても、ラスト・ソウルマン”Bobby Womack”の25年目にして初の来日でしたからね。山岸さんとの出会いがあったそのスタジオで、メルダックの制作の人と話してて、”13CATS”を聴かせたら「これ、うちのレーベルから出したい」って言ってもらって。それで一気にアルバムをリリースするチャンスが生まれて、通算で3枚発表できたんです。

ー山岸さんとの出会いから、日本との接点が生まれたんですね。

そうですね。山岸さんと会っていなかったら、その後日本に帰ってきてないと思います。山岸さんがソロ・アルバムと”チキンシャック”の制作をしに、またLAに来たんですけど、当時はかなりのバブルですから(笑)やりたいことをやれる時代でしたし、良いスタジオですごいメンバーを集めて、最終的には”Bobby Womack”本人が山岸さんのソロアルバムで2曲、それも”Sam Cook”のカバーをやっちゃう、なんていうことにもなって。そういう日本との交流が軽く始まった流れで「”チキンシャック”のドラマーが抜けて、日本でレコーディングするから来ないか?」という話をもらって、89年に日本に行ったのが最初の日本での仕事です。で、その時に「ADLIB」の編集部の人から「”Sing Like Talking”というバンドが”13CATS”のドラムの人に、自分達のアルバムレコーディングに参加して欲しいとのこと」って連絡が来て、それが彼らの3枚目のアルバムでした。

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