ー”ハーフタイムシャッフル”とか、リスナーとして聴いていたと。
そうそうそう。もうとにかくジェフが大好きだったし”Steve Gadd”,”John Robinson”,”Yogi Horton”,”Steve Ferrone”,”Steve Jordan”,”James Gadson”,”Rick Marotta”,”Harvey Mason”,”Ed Green”,”David Garibaldi”とかが好きで。子供の頃からの趣味はそのまま相当エスカレートしていって、黒人音楽フリークで毎週ディスコで踊り明かしてるのと同時にいろんなレコードのクレジットをめっちゃ見て楽しむタイプの音楽ファンだったんです。
ーバンドではないんですね。
全然全然!”Beatles”,”Rolling Stones”が好きでとか、それで「ミュージシャンになりたい」とか思ったことは1度もないんです。その頃のスタジオミュージシャンやセッションミュージシャン達のクレジットを見ては、レコード買っていたので。 だから裏ジャケのJohn Tropeaのクレジットを見てCurtis Blowを平気で買ってたり。
ーあぁ、ライナーノーツも見まくってるみたいな。では、”TOTO”なんてそれこそ…
“TOTO”、もちろん!”Bob James”,”George Benson”,”Brecker Brothers”,”Lee Ritenour”,”Mike Mainieri”,”Weather Report”,”Crusaders”,”David Sanborn””Richard Tee”とかCTIレーベルってそういう…
ージャズ・フュージョン系の?
そういうのが好きな人が周りに多かったですし。スポーツはやっていたけど、そういう音楽好きな人達と話してるのが好きだったんです。その頃は”Deep Purple””Led Zeppelin”とかジミヘンとかいわゆるロックバンド的なジャンルがそんなに好きじゃなかったみたい。”TOTO”も「”Boz Scaggs”のアルバムに参加してた連中がバンド作ったんだ」程度でしたから。一般的にロックとされているものにドバっと入り込んでいくのは全然リアルタイムではなくて、後にアメリカに行って遡っていくようになってからですね。
ーでは、音楽はもちろん好きですがプレイヤーの方を当時は注視してたし、その目線で聴いていたんですね。
そうそう、内容がどうというよりは、 ジェフのクレジット見たらまずそれだけでレコード買いまくってました。
ー特に日本だと、”ニューミュージック”と呼ばれ始めた頃、向こうのプレイヤーやアレンジャーが結構参加してますよね。
アメリカで「”Jay Graydon”が流行りました」となると、いきなり松田聖子さんの曲が「これ”Airplay”?」っていう時代ですよね。
ー(笑)
「アメリカで流行るものがすぐ日本でこういう風になるんだ」と大学生のときに思っていましたね。そういうものを目の当たりにしていたから、「アメリカに行きたい・住みたい」と思いましたし、英語が喋れるようになってくれば、就職なんていつでも出来るかなと。そして、その言い訳が「音楽学校に行く」だったんです。しかも、学生ビザ申請書のrequirementの項目で「English speaking」に「NO」と記載してあって、その理由が「MUSIC IS UNIVERSAL LANGUAGE」って書いてある(笑)
ー流石、音楽学校ですね。因みに受験や審査はなかったのですか?
カセットテープのオーディションです。審査要項があったんですけど、分からないから紀伊國屋に行って、音楽理論の本を見たりして、で、貸しスタジオに入ってラジカセでチョロっと録音したのを送ったら「合格」って来ちゃったんです。
ーえ?そのときが初めてのドラムですか?
殆どそうですね。ど素人もいいとこ。当時は友達がバンドやってるとドラムセットが置いてあるでしょ?音楽が大好きだしドラマーが好きだから、なんとなく触らせてもらったりしたんですけど。「お前、野球部のくせに結構やるじゃん」みたいな(笑)その程度の感じです。
ーすごい!あれ、でも親御さん、知らないわけですよね?
そう、知らないんです。超内緒(笑)「行くって言ったとき・行きたいって言ったとき」のことを、実は全く覚えていなくて…それがなぜか自分の記憶に全くないんです。「何でそんなに覚えてないんだろう?」と思って、父は25年前に亡くなってしまっているんですけど、母はすごく元気で今もライブをたくさん観に来てくれますから、最近聞いたんです。「そう言えばさ、アメリカに行かせてくれって、何て言ってた?」って。そしたら、母が言ってたのは「あんたもう行くって決めてたわよ」って。だから行かせてくれたのか分からないですけど、もう行くって決めてたんだと。「すいませんでした」って言って(笑) 。
ーご相談された感じではなさそうですね。
行かせてくれたんですね。父も学費と生活費を出してくれてましたし。父は、アメリカの”Miller”ビールのTVコマーシャルに実は数回出演してるんです。”Miller”は必ず元プロスポーツ選手をコマーシャルに起用するんですけど、父はすっごく明るくてキャラクターが面白い人だったから抜擢されてたみたいで。
ー起用もすごいですけど、シリーズ化されてるのもすごい。
それが現地でスポーツ番組を見る人で知らない人はいないくらい異常な人気になってました。あれがお前の父親なのか、って、それで自分が有名だったぐらいだし。うちの父は「日本語しか喋らない」っていう面白いコマーシャルでウケていたので、何回もアメリカに行っていましたね。そのギャラをドルで貰ってたんですけど、アメリカに口座を開いてくれて置いていってくれたんです。
ーお父さん、相当愛されてたんですね。
もう31年前ですね。父の葬式に集まった人の数でも凄く分かりましたけど。
ーいずれにしても、晴れてアメリカの生活を手に入れたというか…
そうなんですけど…今考えるとあり得ないレベルで酷かったですね(笑)よくあんなんで行っちゃってた。
ー実際の生活では、まずコミュニケーションについては英語がメインになりますけど。
英語は初めはもちろん全然です。でも自分しかいないから「話せない」ってことが全然恥ずかしくなくなるんです。例えば、回りにアメリカ人しかいなくて「ヤバイ、こう言ったら笑われるかな…」とか言ってる暇がないんですよ。「えっと…これは英語で何て言うんだろう?」って。「トイレ行きたいんだけど、トイレ行きたいって何て言うの?」って一つ一つなんとか頑張って聞いて。最初住んでたアパートには電話が怖くて入れられなかったですし。
ーあぁ、話せないから?
電話がかかって来てもどうせ喋れない。あと、ガスとか電気ですね。アメリカって、自分で部屋から連絡してインフラを引くんですけど、怖くて出来ないから学校のクラスメイトに頼んだり、そういうコミュニケーションの取り方でしたね。
ー授業はどうされてたんですか?
全部カセットに録音して、家でもう一度全部聴き直して、の連続でした。しかも、初めに上級者と初心者のクラス別けのテストがあるんですけど、まだ大して出来ないのになぜか上のクラスに入っちゃって。
ーすごい!
何故か…で、プロミュージシャン養成学校ですから、みんな「俺はここからプロのミュージシャンになって、有名になるんだ」って思ってる外人しか集まってないわけです。自分は別に「ミュージシャンになりたい」とか思ってるわけではないし(笑)アメリカ来て「わーい!アメリカだー!」って遊んで英語喋れるようになって、ササっと日本に帰ろうって思ってましたから、もうみんなとの温度差がね(笑)
ー(笑)
それが面白くて。そのときは「ドラマーになろう」なんてもちろんまるで思ってないんですよ。でも、下手で上級者クラスに入れられちゃったのに、なんとかやってはいけたんですよね。そこも何故かはよく覚えてないんですけど、順序立てて何かをしていくという理解度は、大学出てから行ったというのはあるかもしれないです。
ー先生のスキルが盗みやすい下地が他の人より出来てるということ?
まぁ、それをやりに全世界から皆が来てはいるんですけど、「”Stewart Copeland”みたいになるんだ」って本気で思ってる連中ばかりですから、「そんなの知ってるよ」みたいな感じなんですよね。でも自分からしたら「すごいなぁ…自分はまるで分かんないから一からお願いします!」っていうね。あとは日本だと宿題忘れると立たされるってありますけど、アメリカはないですからね。「お金払ってるんだから、やる・やらないは自分で決めろ」っていう。先生と生徒の関係って、生徒が作るものですから。
ー日本だと、入学までが大変で卒業は簡単だけど、アメリカは真逆ですよね。
アメリカは入るより出るのが大変ですよね。