沼澤 尚 インタビュー

ー日本だからこそ、新しい音楽やバンドに出会うことが出来た?


例えばシアターで日本に行き始めた頃は、アシッド・ジャズやレア・グルーヴ、グランドビート、ダブ、”Chemical Brothers””Skint”とかのビッグビートや、ジャズ・テイストのHip-hopがものすごく流行っていましたけど、なぜかLAでは全然見当たらないんです。”The Brand New Heavies”とかは辛うじてあっても、Talkin’ Loudものやブリストル系なんて、あんなにカッコイイのにLAでは結構必死に探さないと見つからない。やっと”Tricky”を見つけてダウンタウンに観に行っても、全然盛り上がってなかったし。日本でそういう知識を得て「LAに帰って観れないか」って頑張ってやっと探し当てたら、50人くらいしか入れないカフェで”OMAR”が演っていたり、”Jamiroquai”なんて、カフェ飲み屋みたいなところで演ってたけど、誰も観ていないで素通りしちゃってたし。そういった大きな差を知ることになるのが97、8年ですね。あとは、東京にいた方がブラジル音楽に触れるチャンスも全然多くて、”Caetano Veloso”と”Lenine&Suzano”が同時に東京にいて、お互いの公演を観に来てたりとか。「東京ってすごい所だなぁ」みたいな。”FFF(フランスのバンド)”を渋谷クアトロに観に行ったら”VIBRASTONE”がオープニングアクトで、めっちゃカッコイイパフォーマンスをやってたりとか、日本の面白さがどんどん見えて来ましたね。

その時は”13CATS”の活動はまだ続けていたんですか?

さっき話した状況を引きずりながら、毎年ブルーノートでは演奏させてもらってました。2000年に佐藤竹善さんがソロをやるんですけど、そのバックバンドで”13CATS”が雇われて。LAでそのリハーサルをやっている時に「このツアーで日本に行ったら、アメリカにはもう戻らずに、そのまま日本に帰ろう」って決めたんです。日本へ機材を送る時に、自分が所有していた全てのドラム機材もまとめて一気に船で送って。「シアターブルックをメインでやっていこう」と。

それが2000年?

2000年の1月です。アメリカでの色々な繋がりはちゃんと残しつつ、でも”13CATS”が難しくなっていたので、住むところまでアメリカである必要がないと思えてきてましたし、日本にいるシアターブルックに、全面的に惹かれてましたから。

“13CATS”の経験から考えて、普通だったら「バンドはもういいや」ってなってもおかしくないですよね?

シアターでしたね…シアターブルックがなかったら、日本には帰ってこなかったです。佐藤タイジ・中條卓・エマーソン北村と知り合ったおかげで、いきなり世界が広がったというか…知らなかった色んなことを学習させてもらえる状況になって。アメリカに居たら全く知らないまま過ぎてしまってたことだらけで、良くも悪くも極端に視野が狭くなっていることの気がついたので。

アメリカに行った当初とは真逆の状況になってしまった?

もちろんアメリカに来たことで、人生そのものが変革する程の広がりでしたけど、多分アメリカの音楽自体が、住み始めた頃ほど刺激的ではなくなっていて、その頃はそんなに盛り上がっていなかったんだと思います。

言い方悪いですけど、”井の中の蛙”というか?

そうですね。そうじゃなかったら、あんなにシアターブルックに魅力を感じてなかったと思いますし。参加したからには、自分もエマーソンもバンドメンバーの気持ちでやっていましたし、その姿勢にちゃんフォーカスすることを第一にしてましたね。

お話が前後するかもしれないのですが、学校はこのタイミングで辞められたんですか?

「そのまま行ける時だけ行く」という状況を2000年まで続けていました。

では帰国と同時に?そうであれば今でもやれる状況があるのでは?

いや、それはないです。というのは、経営が変わってしまったので。自分はその時に居合わせなかったので知らなかったんですけど、日本の企業に買収されたんです。大変だった話を”Ralph Humphrey”が来日した時に、詳しく聞いてビックリしましたけど。その学校の1番の魅力はオーナーが夫婦だったことで、そのファミリー的な部分が特別素晴らしかったんですよね。ある日、そのオーナー夫婦にミーティングで集められて、「そういうことになったから」って告知をされて終わっちゃったそうで。自分が習っていた先生達は今みんなLAMA(LA ミュージック・アカデミー)に移っています。自分の学校は確かにその名称で間違いはないんですけど、自分がいたその学校はそこにはもうないというか…だから学校には戻れないですね。

なるほど…そしてメインはシアターブルックとして、色んな場所でドラムをすること自体は変えずに活動をされていくと?

もちろん、シアター以外では「もし声を掛けてもらえたなら」ですけどね。メンバーとして活動はしていましたが、ビジネス的な面で言えばシアターブルックの事務所にきっちり入っていたわけではなかったんです。その頃の自分はスガシカオくん・安藤裕子さん・奥田民生くん・井上陽水さん・大貫妙子さん・清春さん・槇原敬之さん・角松敏生さん・後に今や毎年アルバムを出して、年間100本近く全国でライブをやってる”blues.the-butcher-590213″にそのまま繋がることになる、亡くなってしまったギターの浅野祥之さんとの色々なライブを、シアターの活動の狭間で同時にやりつつですね。エマーソンもキセルや”EGO-WRAPPIN'”や自分のソロ活動をやりながらという状況でしたし。その色々をシアターブルックとしてのバンド活動と、バランスを取れずにシアターの皆に迷惑を掛けてしまった時期もあって、「I AM THE SPACE,YOU ARE THE SUN」の時は、先行していた他の仕事が忙しくなっちゃって、出来ない時に椎野(恭一)さんが参加してくれりとか。

では銘打ってバンドメンバーとなってからは解消されていくのでしょうか?

フォーライフに移籍して「Reincarnation」をリリースするタイミングの時ですね。アーティスト写真・インタビュー・アルバム・ジャケット等が4人で揃って出るようになって。でも、最初からメンバーだと思ってやってましたから、ドラマーとしてシアターブルックで演奏する姿勢や気持ちが、そこで何かが切り替わった感じは一切なかったです。ただその直後に諸事情で2007年から2009年までシアターの活動を休止して、それぞれが個々にそれぞれのことをやった後に2009年3月11日…それ以降のシアターブルックはライフワークとして「再生エネルギー=ソーラー」の普及活動という、タイジくんが描くものがはっきり目の前にやって来てから、バンドと側近のスタッフの一体感がガラっと変わりましたね。起こったことは、それはとんでもない悲劇だったし、そこから国が背負っている問題の大きさも計り知れないんですけど、それをタイジくんが使命感を持って悲劇で終わらせない行動や姿勢で示していることが、バンドやスタッフに明確に同じ方向を向きやすくしてくれた。実際に今までとは比べ物にならないくらい仲も良いですし。

沼澤さんも現地に行かれていましたし、その思想は一致しやすいですよね。

実際に現地で、あの大震災で被災して、命からがら生き延びることが出来た本人達の話をそれぞれ聞いただけに過ぎないですけど…彼らが体験したそれぞれの話は、もし自分もその1人で「そこで生き残ってやる」っていう強さが、自分には果たしてあったかっていうとね…決して諦めないで、何とかあの津波から助かった人達の話なんて、本当に信じられない強さで。
「たまたま居た場所に、何も流れてこなかった」
「あの濁流の中を泳ぎ切った」
「流されて溺れそうになりながらも、たまたま車などにぶつからなかった」
「木にしがみついたまま失神してしまって、気がついたらそこで助かっていた」
「遥か沖まで引き潮に引っ張り流されて、そのまま津波に乗って押し流されたのに、岸に辿り着いて助かった」
想像を遥かに超えたことだらけ。2度と起きて欲しくないと願いつつも、明日や次の瞬間に「何が起こるかなんて、誰も解らないんだ」ということを誰もが感じたわけで。かと言って音楽に携わっている自分達が「今、自分達に出来ること」なんて軽々しく発言出来ないですし。”John Lennon”や”Bob Marley”でさえも、音楽で簡単に世の中を変えることは出来なかったのにね。ただ「太陽の力だけで、こんなことが出来るよ」ということをタイジくんが皆に証明してくれて、実際に自分は目の当たりにしていますから。

「THE SOLAR BUDOKAN」はその回答でしたよね。

あれは感動的でした。「太陽光発電だけで、本当に武道館公演をやり遂げた」という事実によって、ミュージシャン・スタッフ・関係者・観に来てくれる音楽ファンが、自分達でも具体的にやれることを考えられるようになったのは事実です。タートルアイランドが毎年豊田でやっている「橋の下世界音楽祭」、静岡の「頂」山梨の「NATURAL HIGH」、山形の「龍岩祭」、「RISING SUN ROCK FESTIVALでのBOHEMIAN GARDEN STAGE」、「FUJI ROCKでのGYPSY AVALON FIELD」等はもちろん、「ARABAKI ROCK FESTIVAL」「ROCK IN JAPAN」などではRA(ラー)チームが、シアターブルックのステージの時にソーラー電源に切り替えたり。

その連続が今であって、続けられていることでもありますよね。

可能なことがあるのであれば、やらない手はないですよね。不可能なのであればやれないわけですけど、太陽光発電システムでのサウンド・クオリティに、命を掛けて大活躍中のRAチーム・中津川の中央物産って、本当に可能性を見出だして本気で頑張っている。そういう人達が集まって、やれていることが今ですよね。

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