沼澤 尚 インタビュー

ー学校の先生から、どういった発展をして行くことになるんですか?

自分のクラスメイトで、すごく仲良かった”Sheldon Gomberg”というギタリスト/ベーシストの友達がいて、卒業した後にルームメイトになって、ハリウッドヒルズに二人で住んでたりしていて。その後しばらく彼と会っていなかったんですけど、最近、シンガーソングライターの臼井ミトンさんから彼の話を久々に聞いて。で、実は神経の病気で、車椅子生活になってしまって、演奏も出来なくなっちゃって…なんですけど、そこはさすがポジティブなアメリカ人というか(笑)自分の楽器やコレクションしていたビンテージ・カー等を全部売って、ビンテージ機材にこだわったすごいスタジオをロサンゼルスに作って、オーナー兼エンジニアになって。 “Jim Keltner”がお気に入りだったりして、今そのスタジオがすごく有名になってしまって、今年なんと “Ben Harper”と”Charlie Musselwhite”のアルバム「Get Up!」をプロデュースしてグラミーを受賞してました。

ーすごい!

ミトンさんに聞くまで知らなかったんですけど。で、現在はそんなプロデューサーになったその友達と、自分が渡米した1983年にその音楽学校で知り合ってすぐ仲良くなって、彼らのホームパーティーに誘ってもらったんです。アメリカでは週末にバーベキューやったり、やたら集まることが多かったですから。その彼の家は当時”Pointer Sisters”のドラムだった”Michael White”や”Al Jarreau”のサックスの”Michael Paulo”や若手ミュージシャンがみんなでルームシェアしてる大家族が住むタイプの大きな家で、リビングルームが皆の練習スタジオみたいになってて。で、そのパーティーに行ってみたら、それがとんでもないミュージシャンだらけの集いで。「あの人”ABBA”のパーカッションの人だ」とか、「あ”Teena Marie”も”Pointer Sisters”も皆遊びに来てる」みたいな。ミュージシャン繋がりの誰かがツアーでロスに来たら、皆そこに寄って練習したり遊んだりする家だったんです。今やストーンズですけど、”Marcus Miller”の後釜で”Miles Davis Band”に入ったばかりの”Darryl Jones”もそこで会ったし。そんなすごい人達の集まりで、皆代わる代わるずっと演奏してるような状況で「一緒に学校行ってる日本人なんだよ。お前も演れよ」「あ、どうも…」っていうことにやっぱりなっちゃって、ドラムの席に座ったらもう1台のドラムには、なんと”Earth, Wind & Fire”のFred Whiteが座ったんです。

「わわわ…長年聴きまくって、この人のドラムで六本木で踊りまくってた」なんていう自分の憧れだった人が、隣に座ってる異様なシチュエーションで。もちろん何にも覚えてないですけど、とにかく舞い上がって演奏したことだけは確かでした(笑)それからいろんな人と演奏することにはなっちゃってたんですけど、その中にベースやキーボードを演奏してる白人がいたんですよね。で、後にその人と中古レコード屋で本当に偶然に再会することがあったんです。ものすごく安かったし、レコード屋に通うのが大好きで。その時にメルローズのレコード屋で、何枚も抱えてる内の一番外側に見えていたのが、たまたま”Bobby Caldwell”の「Cat in the Hat」だったらしく、突然「俺の欲しいレコード、何でお前が持ってるんだ」って誰かに脅されて、慌てて振り返って目があったら「あっ、あのパーティーの時の白人の人」って。

それが後にLAで大活躍する”Tony Patler”というパームスプリング出身の優秀なミュージシャン。

ー音楽好きならではの再会(笑)

そのときは「お前”Bobby Caldwell”好きなの?」「大好きです!」という会話ぐらいでもちろん終わって。その後がまた信じられない偶然で、”Cameo”の”She’s Strange Tour”のコンサートをビバリーシアターに1人で観に行ってたら、なんとそこでまた再会して。この時にステージでキーボードを弾いていたのが、後に久保田利伸や荻野目洋子やSing Like Talkingのプロデュースでバカ売れする、ニューオーリンズ出身の”Rod Antoon”。で、客席で「俺の好きなバンドのコンサートに何で来てんだよ」ってまた背後から脅されて、振り返ったらまたその人だったっていう(笑)こんな偶然が続いたんで、それから仲良くなって電話番号を交換して。なぜかその人は、そのパーティーの時の自分のドラムを気に入ってくれてたみたいで、そうこうしている内に、彼が”Chaka Khan”のツアーバンドに入ったんです。

ーここに繋がっていくんですね。

“I Feel for You”がドカーンて売れてる時代で、そのツアーは “Vinnie Colaiuta”がドラムだったんですけど、彼が抜けることになって「お前、オーディションに来ない?」って誘ってくれたんです。オーディション会場がノース・ハリウッドで有名だった”Leeds”っていう老舗のリハーサル・スタジオで、そこに到着したら、なんといきなり廊下で”Jeff Porcaro”に会って、学校でお父さんのJoeに紹介されてから、何度も会ってたので覚えててくれて「おぅ、お前何やってんだ?」みたいな感じで声を掛けてくれて。「これから”Chaka Khan”のオーディションなんです」って言ったら、まだ誰も来てないからって、その時に”TOTO”が”Isolation Tour”のリハーサルをやっていた、隣のスタジオに連れて行かれて、機材とか見せてくれたんです。

ー沼澤さんとジェフだけ?

そうです。YAMAHAの「RX-11」ってドラムマシンが出たばかりで、「これと一緒に演奏しなきゃいけないんだよね」って愚痴りながらドラムセット回りを見せてくれたり。そしたらいきなり”Donald Fagen”の「The Nightfly」をかけて、それに合わせて自分の目の前で1曲目の”James Gadson”の”I.G.Y.”からA面最後の”Rick Marotta”の”Maxine”まで一気に演奏しちゃって。もちろん自分がレコーディングしてる2曲目の”Green Flower Street”と”Ruby Baby”もエンディングまで完璧に。こっちは息もできない感じで、正に”夢見てるみたい”でしたから。で、ドラムセットから離れて、自分のところに来て、ガッと肩をつかまれて、”Don’t be nervous.Don’t be nervous.”って言われて。 それでオーディション受かっちゃったんです(笑)「緊張すんなよ。行ってこい。」っていう感じで言われて。

ー気遣いが出来る人だったんですね。

その後もレコーディングやリハを見せてくれたり、ベイクドポテトに呼んでくれたり、ピザ奢ってもらったり、家に行ったり、奥さまも知り合いだったし、いろんな場面ですごくよくしてくれたんですけど。それで”Chaka Khan”のツアーに参加することになって、その直後に今度は”Bobby Womack”をツアーに繋がるんですけど、そこはもう周りの人々が知り合いでしたから。

ー沼澤さんのドラムが認められている証拠でもありますよね。

周りには自分なんかよりスゴい人達だらけだから、本当に「たまたまラッキーなタイミングで、ラッキーな出会いがあった」っていうだけなんですけど。”Rufus&Chaka Khan”の「Stop on By」は”Bobby Womack”が書いていて、もちろん二人はものすごく知り合いでしたし。”Bobby Womack”のツアーの方は、バンドのドラマーがクビになるって話があって、そのバンドのバンマスからリハーサルに呼びだされて。それが1986、7年ですから、卒業した音楽学校で先生もやっていた頃です。この当時は「生活する為だけの仕事になっちゃう演奏」だけは、絶対にやらないようにしようと思っていて、学校の先生をメインにしながら、「自分のためになると判断した演奏機会が巡ってきただけにしよう」ってこだわってました。

ー例えばパブで演奏するとかは演らない?

やり始めるとドラムで生活っていうより…生活する為のドラムみたいになってしまうし、それではアメリカにいるのに自分のために良くないと思いましたし、そうなって来たら、とっとと日本に帰ろうと思ってました。学校の先生で家賃も払えるし食べられるし、それだけで出来る限り頑張ろうと思って。でもとうとうお金に困って、ずっと同級生から誘われてた「ロシアレストランで演奏するバイト」っていうのがあったんです。 ビバリーセンター内の映画館に隣にあった”St.Petersburg”っていうロシア料理屋さん。

ー箱バンみたいなものですか?

そうです。そういう仕事のことを「カジュアル」って言うんですけど、そのロシアレストランで、同級生が週末演奏していたので前から誘われてて。で、やっぱりお金の為に1度だけ行ったんです。それがロシアマフィアの結婚パーティーで(笑)頑張って、金土だけそれやったんですけど…なんと次の週に”Chaka Khan”のツアーがあって、みたいな。

ー後にも先にもこれっきり?

そうです、あのロシアマフィアのパーティーはかなり怖かったですね(笑)

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