沼澤 尚 インタビュー

 

ー日本での活動が少しづつ増えていくタイミングなんですね。

そうですね。”チキンシャック”のライブをキティのスタッフが観に来ていて、すぐ井上陽水さんのライブと高中正義さんのツアーに呼んでもらったり、達郎さんのコーラスをやっていたCINDYのツアーをBobby Watsonがやっていて、そこに呼んでもらったり。そのCINDYのライブを林田健司くんが観に来ていて「ライブ演るときに、あの人にドラムお願いしたい」って言ってくれたそうで、その彼のツアーに何度も呼んでもらったり。

ーその当時、日本での活動は”チキンシャック””Sing Like Talking”、井上陽水さん、高中正義さんがメインですか?

日本に1週間滞在するかしないかくらいですけど、ライブやレコーディングの度に呼んでもらって、日本とLAの行き来を続けてました。それ以外はアメリカに帰って先生をやりながら”13CATS”の制作。父が89年に亡くなって、母が1人になっちゃったって思ったら、不思議と呼ばれるように、少しづつ日本に帰るチャンスが増えてきたんです。

ー「日本に帰国する」とまでは、まだ考えていなかったんでしょうか?

それは絶対に無かったですね。良くない言い方をすると、当時は日本のことを完全に馬鹿にしてたし、「自分が生活しているアメリカが本場だから」なんて思ってたし。若かったとはいえ、ものすごくヤな感じですよね(笑)

ー(笑) 実際、沼澤さんの周りには本場のプレイヤーが多かったのも事実ですしね。

何故か自分は、運良く偶然な出会いが続いたお陰でたまたまやれていましたけど、今でもそうですが、アメリカには本当に本当にすごい人達ばかりがごまんといましたから。自分は知り合う人達との巡り合わせがとにかくラッキーでしたし、”13CATS”も彼らと友達だったったいう理由からですし。巡り合わせで言うと、さっき話した”Norman Brown”はカンザス州出身なんですけど、同郷でパーカッションしながらボーカルやる人がいて、一緒にバンドやったり。その人は三段跳びのオリンピック選手でマジ・アスリートなんですけど、歌が好きでやっていただけだったのが、その後STINGのバンドに参加しちゃうんです。

ー何ていうアーティストですか?

VINXというアーティストです。STINGが気に入ってプロデュースをし、ソロアルバムもリリースしてます。彼はスポーツ選手だったけど、アスリートをやれる期間が短いのをわかっていて、スポーツトレーナーをしながら好きな音楽を始めたのがきっかけなんです。自分は友達の友達だから、彼のデモテープを作るのにドラムで手伝っていて、そのデモテープが”Earth, Wind & Fire”のAl McKAYの事務所に届いていたらしくて。突然家の留守電に「Al McKAYだけど、君がドラムを叩いたデモテープを聴いたよ。このドラムが良くて、やって欲しいことがあるからうちのオフィスに来て欲しい」って。

ー沼澤さんからすれば、神様からの電話ですよね?

正にそうですよね。”13CATS”の連中にその留守電を聴かせて「これ、Al McKAYって言ってるよね?」って確認しちゃって(笑)そのオフィスに電話して「あぁお前か、ドラム良いね。ちょっとやって欲しいプロジェクトがあるからミーティングしたい」とか言われて。でも、もちろんまだ半信半疑なんですよね、「ホントかよ」って(笑)

ー実際行くまでは(笑)

で、オフィス入った瞬間に大量のプラチナレコードが、廊下に「バーン」って(笑)

ー(笑)

映画っぽいでしょ?(笑)それでAl McKAYと知り合いになっちゃって。彼に「僕で良かったら、あなたのプロジェクトはもちろん喜んでやるけど、自分達がやってるバンドでギターを弾いてもらえたりできますか?」って言ったら「OK」って言ってくれて。それで”13CATS”のファーストアルバムに、Al McKAYが参加してるんです。その流れで高中正義さんがツアーのサポートで”13CATS”を雇ってくれた時に、なんと”Al McKAY”も一緒に参加しちゃって、皆でロングツアーをやったりしました。その時のライブがCDとDVDで発売になったのが「ONE NIGHT GIG」ですね。

ー「知り合う人との巡り合わせ」という表現をされましたが、そこには沼澤さんに魅力がないと成立しないと思うんですよね。

本当に運とタイミングだと思います。そういう巡り合わせのタイミングで、”たまたまそこにいた”っていう。あとは、”逆輸入っぽい”というか、今までにない登場の仕方をしたのもあると思います。日本では、一切ミュージシャンとしてのキャリアがなくて、全く知られていないけど、アメリカでやっていて”13CATS”というLAのバンドが、日本のレーベルからデビューしていて。その連中が”Sing Like Talking”や高中正義に呼ばれて、彼らのアルバムが国内で好セールスになって。

ー所謂、”旬なアーティスト”だったと?

その時代・時代に、”皆が話題にする人を起用すればとりあえずは安心出来る”という、一番典型的なパターンがこの日本にはありますし。その頃ラッキーなことに、「そういう流れで、自分も起用してもらえてたんだろうなぁ」って思います。年齢もまだ30歳くらだったし、ポンタさんや立夫さんの一回り下の世代で、LA在住の…みたいな軽くオイシ目なネタにはなってたのかなと。

ー日本ではちょうどイイ感じのネタですよね(笑)

自分でも判ってましたから。ただそのお陰もあって、自分がまだ日本で音楽好きなだけでライブを観に行っていて大ファンだったポンタさん・ノブさん・モツさん・大村憲司さん・鈴木茂さん・岡沢章さんをはじめ、(山下)達郎さんや(吉田)美奈子さんともドラマーとして知り合うことが出来たし。そのすごい連続があの頃・あのタイミングで起こっていたというか…

ーそのお話を聞くと、すごい沼澤さんらしい気がします。音楽に野望を持って臨まれていなかったわけですし。

そういった日本での状況がそのまま続くなんてもちろん思っていなかったし、「もてはやされるのは今だけだろうなぁ」と。日本の方が、あらゆることで流行り廃りって遥かに早いですから。特にその頃は呼んでもらえる仕事よりも、とにかく自分達の”13CATS”を頑張りたかったですし、間違いなく成功すると思っちゃってましたから。96年に日本で初めてライブをやったんですけど、ON AIR EAST(現:O-EAST)で超満員の1,100人も来てくれて。ああいう音楽でモッシュが起こったりした時は「やった!」って思って。もちろん自分達のワンマンで「”PRINCE”のように普通にアリーナをいっぱいにする」って思ってましたし。

ー但し、結果的にそこに辿りつけなかった。

“13CATS”をずっとやりたかったんですけど、”うまくいかなくなった理由”がいくつかありました。リーダーが結婚して、それまで音楽が第一だったのがやはり奥さん優先になったりで。もちろん大切なことだし、間違ってもいないし、バンド活動に支障がなければ良いことなんですけど、やっぱり当時のムードとしては「何やってんだよ」っていう雰囲気になっちゃって。今、再会したら「そんなことあったね」って感じだとは思いますけど、残念ながら2000年には”13CATS”としては事実上終わっちゃいました。どうしてもやりたかったこと・続けたかったことでしたけど…無理でしたね。

ー沼澤さんの音楽人生の中では、初めての挫折に近い?

うーん…挫折って感じではなかったし、それほど落ち込んではいなかったですけど、「やっぱりそんなに甘くなかったなぁ」と。日本からCDをリリースして、逆輸入で世界に出ようとしていたし、Virginとかもすごくやってくれたんですけど、結局はリリース出来なかったし。そういう壁を目の当たりにしているうちに、それぞれに私生活でもなんとなくうまく行かなくなったりとかしました。そんなタイミングで、突然目の前に現れたのがシアターブルックなんです。

ー「TALISMAN」辺りですか?

リリースされた直後ですね。自分はオリジナル作品では「TROPOPAUSE」から参加しているんですけど、まだその頃は”13CATS”を何とか続けようとしていたので、バンドメンバーとしは参加してないんです。

ーあくまでサポートミュージシャンの立ち位置?

まだ全然アメリカに住んでたし、当時はエピックソニーがレコーディングやツアーの度にアメリカから呼んでくれていて、自分とエマーソン(北村)はサポートという形になってました。”13CATS”の他のメンバーは「TALISMAN」を聴いて「日本ってこんなカッコイイ音楽をやって、ちゃんと売れるんだ」って羨ましがってたし、ベースのレイモンドは「俺もベースで入れてくれ」って(笑)

ー(笑)沼澤さん自身、シアターブルックの最初の印象はどうでしたか?

初めて見たのは早稲田大学の学祭だったんです。当時のシアターブルックのマネージャーに「ドラマーを探しているから観に来て欲しい」って連絡が来たので、観に行ったんですけど「日本にこんなカッコいいバンドがあるんだ!」ってビックリしましたね。それから事務所のスタッフに会ったりしてから、赤坂ブリッツでのスタンディングで超満員になっていたライブをまた観に行って、そこでメンバー全員に初めて会って。

ー音出しも直後ですか?

セオリっていう代々木八幡のスタジオですね。(佐藤)タイジくんが「捨てちまえ」という曲を書いて持ってきて。で、参加することになってから、すぐレコーディングが始まって「アートフル・ドジャース」のサントラが一番初めでした。 その後に早稲田のAvacoスタジオで「捨てちまえ」を録って、そこで初めてエンジニアの渡辺省二郎さんに会って。

ーアメリカと日本の行来を続けながら?

まだ全然アメリカでしたね。シアターに参加してからの3年間だから、2000年まではアメリカでの生活がまだメインでした。「TROPOPAUSE」「Typhoon Shelter」「VIRACOCHA」はまだ日本にいない頃です。シアターに参加すると同時に、FUJI ROCKとかありとあらゆるイベントやフェスに出始めるんですけど、そこで面白いミュージシャン達にたくさん出会って。当時だと”SUPERCAR”や”ナンバーガール”とか、日本ならではのカッコイイ音楽をやっていた国産のバンドですよね。どんどんフェスも盛んになってきてましたし、「日本のエネルギーって本当にスゴいなぁ」と。アメリカに戻る度に、よりそれを感じるようになっていて、当時90年代後半の日本のシーンが、遥かに刺激的で面白いと感じてました。東京にいると、LAでは観れない世界中のアーティストがいっぱい観れたし、色々な音楽を知るチャンスが圧倒的に多かったですね。

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